梅様のその日暮らし日記

その日その日感じた事や世間で話題の事について自分なりの感想や考えを書いていきます。

高畑母子に関してKさんへのお答え

2016-08-30 12:59:54 | 日記
   Kさん、コメントありがとうございます。くだんの事件にからみ、様々な情報が飛び交っていますが、たとえばこんなものがありました。

裕太容疑者の小学生時代の同級生はこんな事件を覚えている。
「あるとき、裕太君が校則では持参してはいけない携帯電話を学校に持ってきて、没収されました。そしたら、淳子さんが学校に乗り込んできて『没収期間中の携帯料金を払ってください』と迫り、担任の先生がうつになって代理の先生に代わったことがありました」

   なんとなくこのエピソードがすべてを物語っているような気がしますが、被告と接したことのあるタレントや女優たちが口を揃えて被告の異常性を訴えています。すべてが事実ではないかもしれませんが、あらかたは本当の事だろうと思います。いやしくも大先輩の、誰も頭が上がらない大女優の息子に関して、若手の女優たちが、大嫌いだとか、異常な人だとか、きっぱり言って捨てるのですから、尋常ではないと感じます。

   息子への溺愛ぶりは、いくらでもエピソードが掘り出せるようですが、持って生まれた性格上の問題に母親からの溺愛が重なって、救いようの無い破たんした人間を作り出してしまったのではないかと思います。高畑さんが、事件というより、息子の事しか頭に無いことは、記者たちの前に立っても、被害者についての謝罪はそっちのけで、息子について語り続けていた(たとえ記者の質問がそうであっても)ことからもわかります。息子のことなど語る必要は無かったのです。ひたすら被害者に対する謝罪の言葉を重ねて、逃げるようにその場を立ち去るべきだったのです。ましてはホテルでの記者会見など必要無いではありませんか。

   あの「夜回り先生」が、成人の犯した犯罪に母親の責任はない、ときっぱり切り捨てていましたが、これは教育者だった人間にはありえない発想だと思っています。この場合、息子の仕事についても母親が動き回って獲得したり、芸能活動についてまで口出しして関わっていたのですから、実年齢には関わりなく、息子は精神的に成人してはいません。また、自分よりはるかに年上の女性を好む傾向があるという話ですが、これもまた息子に乳離れをさせなかった母親の責任でしょう。22歳の若者が49歳のおばさんに欲情して、衝動を抑えきれなかったなどと言うのは、息子を一人前の健全な男として仕上げるという作業を怠った母親の責任です。

    息子が犯した犯罪については、母親に責任はありません。法的にも、道徳的にも。しかし、そういう息子を育ててしまったことについては、逃れられない責任があります。「夜回り先生」の発言は、この肝心な部分を完全に見逃しています。

   やはり、子供というものは、甘えさせても良いが甘やかしてはいけないというのが正解なのではないでしょうか。愛情に裏打ちされた厳しさ、これがすべてに優先するのだと思います。いかがでしょう、答になっているでしょうか。

    でも、高畑容疑者、性格的に、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけですが、あのK君に通じるところがあるのです。今回の事件の報道を読んで、ちょっぴり胸が痛くなったことを付け加えておきます。

赤ペン先生

2016-08-30 09:14:30 | 日記
   このところ書くことにことかいて筆先が鈍っております。そんな中、奇特な方が登場されたので、そのことについて書いておくことにしました。相当前になる記事からずっと読み流して前回分までチェックされたようですが、その間に3か所の誤変換を見つけだし、全て「。。。。×、・・・・○」というように添削してくださいました。その名も「赤ペン先生」。

   教え子の誰か暇な子が校正してくれているのか?とも思いましたが、そんなに一気読みするような子は一人しか思い当たらず、これまで10年以上にわたりそんなことはなかったので、私の存じ上げないどこかのどなたかであろうと推察します。

   で、お願いなのですが、せっかく全てお読み下さったのであれば、誤変換の指摘に終わらず、中身についてのご意見もお寄せ下さると有り難いと思います。今のままでは、私の受け止め方が、ただの「ストーカー」で終わってしまいますので。

パラリンピックを前に考えたこと

2016-08-27 09:47:16 | 日記
   オリンピックを見ているだけなら、あまりこうんな風には思わなかったと思います。しかし、パラリンピックを迎えて、通説に感じたことがあります。果たして一般に受け入れられる考え方なのかどうかは分かりませんが、やはり、究極のところ、人間も運動神経の良い者がどこまでも有利になるのだな・・・という諦観にも似た気持ちが湧いてきます。

   私は本来、とても運動神経が鈍い人間です。保育園にすら行っていなかったので、自分の運動能力が極めて劣っていることに気づいたのは、小学校に入学してからのことでした。同時に、運動能力が劣るということは、男子の世界においては致命的な事なのだということも、悟らざるを得ませんでした。

   運動神経が優れた男子を、女子がちやほやするのは仕方ないのですが(野獣から自分を守ってくれて、獲物をしっかり獲って来てくれる雄を好むのは、生き物としての本能です。)、同時に、男子同士でも、群れのボスを決めるという戦いが行われます。(人間は猿の発展形ですから、猿の群れと同じことが行われるのです。)実際に戦って勝敗を決めることは稀ですが、日頃の行動から、何となく序列が決まっていくものです。

   そんな私ですが、中一にして一人でトレーニングを開始し、教員になってからは陸上部の顧問として実技を指導するところまで自分を高めることに成功したことは、どこかで書いたと思います。しかし、小学校のクラス会にいやいや出席した際、誰かが私が中学で急に足が速くなったことを称えてくれた際、他の男子に、「あんなのは劣等感の裏返しだよ!」と切り捨てられてしまいました。

   こんな風に、何でもない世界でも、運動能力のあるなしは、一生その人について回るレッテルとなります。私はそのことについて、一生ついて回る前科のようなものだと考えています。私が改心して?トレーニングに励み、彼らを上回る能力を身に着けたところで、元を正せば、という蔑視は消えることがないのです。

   障碍者についても、状況は似たようなものです。不幸にして障害者となってしまっても、本来運動能力に恵まれた人達は、障害者同士のスポーツという形で、スポットライトを浴びることが出来ます。もう少し時代が進めば、身障者のプロスポーツ選手が多額の収入を得ることが出来るようになるはずです。

   一方で、もともと運動能力に恵まれなかった人間は、身障者になることによって更に運動能力を大幅に奪われてしまいます。よほどチャンスに恵まれなければ、健常者並の収入を得ることはできません。それどころか、生きていること自体が迷惑視される場合もあり得るのではないでしょうか。

   オリンピックだけでなくパラリンピックにも注目しようというキャンペーンがあり、パラリンピックで活躍する選手がスポットライトを浴びるようになればなるほど、私の中にはこんな天邪鬼な感情が芽生えて来るのです。そんな目で斜めに世の中を見ていてはいけないと思いつつ、しかしその気持ちを拭い去ることが出来ないでいます。

ある貼り紙

2016-08-24 13:54:02 | 日記
まずは次の文章をお読みください。

   人は努力したからと言って必ずしも幸せになれるとは限らない。努力すれば必ず幸せになれるなどと言うのは嘘である。努力した結果、幸せになれることもあれば、幸せになれない場合もある。努力しても、その努力が導き出す結果というものは、自分の力だけではどうにもならない場合がある。
   結果というものは、自分の意思ではどうにもならないものである。大切なのは、努力するという行動それ自体である。更に言うなら、そうした何らかの努力をする機会を持てること自体が幸せなのだということが出来るのである。

   前半は大人なら誰もが経験則として知っている、努力と結果の関係ですね。後半は、どこか気休め的な教訓の言葉というところでしょう。後半部にはやや異論が残るものの、概ね納得できる言葉なのではないかと思います。しかし、同じ内容でも、次のように書かれていたらどういう印象を受けるでしょうか。

「努力したから幸(しあわ)せになるとは限らない。

努力(どりょく)すれば必(かなら)ず幸(しあわ)せになるというのはウソ。努力(どりょく)して幸(しあわ)せになることもあれば、幸(しあわ)せにならないこともある。

結果(けっか)はコントロールできない。コントロールできるのは、努力(どりょく)する行動(こうどう)です。そして、もっと大切(たいせつ)なことは、努力(どりょく)できることが幸(しあわ)せであることに気づくこと。」

   Facebookでどなたかがシェアした、とある小学校の壁に貼られていた、校長先生からのお言葉なのだそうです。そして、私が気づいた時点で、私の教え子を含めて121人からの「いいね!」と得ていました。

   この張り紙を読んで私が真っ先に感じたのは、この校長先生の言語能力のあきれるほどの低さでした。特に最後の段落は、稚拙としか言いようのない、まともな大人の書く文章ではありません。次に感じたのは、こんなものに「いいね!」をつけてしまう、読者たちの凡庸さと思考力の乏しさでした。

   そもそもこの校長先生は、どういう理由でこんな文章を書いて張り出すことにしたのでしょう。恐らくは、これが朝礼などで言い放てる言葉ではないということに薄々気が付いているからだと思われます。
「みなさん、よく、努力すれば必ず幸せになれるということを言っている人がいますが、そんなのは嘘ですからね。努力したって幸せになれるとは限らないんですよ!」

   などという話を朝礼でできるはずがありません。なぜなら、朝礼での言葉は、スピーカーを通じて、塀を通り越して近隣の皆さんの耳にもそのまま届くのですから。彼はそのことを知っているから、また、この内容が不穏当なものであることを知っているからこそ、掲示物と言う形で提示したのだと思います。

   もしかしたら、この校長先生はそれまでの人生で、いくら努力しても報われなかったという経験をお持ちなのかもしれません。しかし、それは幼い、12歳以下の子供たちにとっては無関係なことのはずです。自分たちには限りない可能性と未来が待っていると信じたい子供たちの頭の上から冷水を浴びせかけるようなこの言葉、最後の段落でうまく取り繕おうとしていますが、そんなことでは間に合わない愚かな内容です。

   私にとって決定的に悲しかったのは、多くの人からの「いいね!」が伴っていたことです。こんな言葉は、挫折して落ち込んでいる高校生にかけてやるのにちょうど良い、青臭い慰めの言葉です。しかし、こんなくだらない言葉をかけるくらいなら、高橋みなみ(AKB48元総監督)の決まり文句である、「努力はか・な・ら・ず・報われる!」の方がよほど気が利いていると思うのですが、いかがでしょう。

果てしなき戦い

2016-08-23 15:53:50 | 日記


   今朝5時過ぎに、東亜学院に向かう途中、近所の建売住宅地の前の路上に張られていたがガムテープです。「ねこのえさおくな」と書いてあります。「置かないでください。」ではないところに、書いた人の怒りのほどが想像がつきます。

   この路上にキャット・フードが置かれていることは、だいぶ前から知られている事実です。野良猫と思しきな猫たちが、置かれたキャットフードにありついているところを目撃したこともあります。この付近はアメリカ原産のハクビシンも密かに生息しているので、もしかしたら雑食性のハクビシンも、この餌に重宝しているかもしれません。

   猫は餌と水があれば、いくらでも増殖していきます。一度のお産で生まれる子猫は二匹や三匹ではないので、数が猫ならぬネズミ算式に増えていくことも容易なはずです。まさか餌を与えている人が野良猫を捕まえて自費で去勢手術をしているとも思えません。盛りがついた時期、屋根の上で雄猫が発する不気味な声も、猫好きでない人にとっては耐え難いものがあります。

   ところで不肖私が、野良猫に餌を与えている人物のプロファイリングをしてみましょう。年齢は40歳から50歳代、性別は女性、かつ子宝に恵まれなかった人物で、ペット飼育禁止のアパートで独り暮らしをしている人、これで概ね正解ではないかと思います。

   結婚はできたものの、子宝に恵まれない女性の中には、「おい、しっかりしろ!」と声を掛けたくなるほど、悲しい人がいます。某高校に勤務していた際、同僚だった女性教師はこうした女性の代表でした。この高校は生物科でニワトリと兎を飼育しており、ニワトリはヒヨコが孵化し、兎は脱走して勝手に花壇に巣穴を掘り、そのなかで出産します。ヒヨコも子ウサギもとてつもなく可愛いものです。

   この女性は、その中でも兎がお気に入りでした。しかし動物の生態に詳しくないもので、せっかく生まれた子兎を掌に載せて運ぼうとしたために、おびえた子兎が手のひらから床に飛び降り、即死したこともありました。しかし彼女の兎愛はこれで収まることは無く、全教員が集まる職員会議中でも、膝の上に兎を載せたままだったこともありました。時には庭から鶏を捕まえて来て、職員室で膝び上に載せていたこともありました。
 
   実はこの鶏、子宝に恵まれなかった某男声教師が、ヒヨコの時に自宅に連れて帰り、一緒の布団で眠り、一緒に風呂に入れ、我が子同然に可愛がっていたものです。その後子供が大嫌いという変わり者の奥さんを拝み倒して、一人だけ可愛いい女の子を産んでもらい、父親ながら彼が育児をしていました。その結果、先輩だった鶏は一転冷遇される身の上となり、同じ鶏の群れの中に返されてしまったのです。

   しかし自分は人間であると信じてやまないこの鶏、仲間たちの群れには溶け込むことが出来ず、いつも教師達の足元にじゃれついてきていたのですが、教師たちがこの鶏を人間として扱ってくれるはずも無く、しまいには鶏の身でありながら、完全にぐれてしまい、人と見れば攻撃を加えるようになってしまいました。

   そんな時に、需要と供給ではありませんが、子供が欲しくてしかたがない女性教師と、人間に構って欲しくて仕方がない鶏との間に、奇妙な疑似親子関係が生まれたのでした。 皆さん、この女性教師の心と、傷ついた鶏の心に気づいてはいたので、こうした奇怪な関係には目をつぶっていたか目を反らしており、あえて言及する人はいませんでした。

   こうしたことを考え合わせると、野良猫に餌を与えている女性は、そうすることによって心の平衡を保っている、気の毒な人物だということができます。誰がそうした心を断罪できるでしょうか。しかししその一方では、彼女は地区住民に対しては多大な迷惑を掛けている、加害者でもあります。

   彼女と住民が和解に至るのは恐らくありえないほど至難の業であると思います。他人に迷惑がかかることが理性的に判断できる人なら、こんな愚かな真似はしません。住民は当然の権利として、地区の平穏を乱す行為に対して断固抗議する権利があります。

   恐らく、このいざこざは永遠に解決することはないでしょう。彼女が病気や怪我で入院したり、老衰して外出不能になるまでは。