梅様のその日暮らし日記

その日その日感じた事や世間で話題の事について自分なりの感想や考えを書いていきます。

再会

2016-10-30 14:28:35 | 日記
   先週の火曜日のことです。やる気スイッチが切れてしまい、二週続けて東亜学院を休んでしまった私も、いよいよ重い腰を上げて、早朝講座に出席するために家を出ました。9月初めから前期と後期の間の休みが一か月ほどあったので、かれこれ40日ほどいつもの電車に乗っていませんでした。

   これをお読みになっていらっしゃる方は、随分前に書いた、いやがらせお爺さんのことを覚えていらっしゃるでしょうか。二年越しに駅のホームで絡み続けるお爺さん(気持ち的には「くそじじい」)に、いい加減堪忍袋の緒が切れて、大声で怒鳴りつけ、すごすごと尻尾を任せたあのお爺さんです。

   彼は概ね5時15分発に乗ることが分かっているので、私も好き好んで顔を合わせる必要もないだろうと、今は5時37分発に乗っています。この日もその電車に乗り、発車して間もなくのことでした。私の右側に二人分以上の空席ができており、そこに遠くの方から誰かがやって来ました。

   私はいつものように中国語のテキストをコピーしたものを暗記している最中でしたので、気配だけ感じていたのですが、なぜかその人が、座りかけてまたくるりと後ろを向くと、だいぶ離れた空席目指して去って行きました。両ひざが開きかつ脚が伸び切らず、背中が丸まった、ニホンザルのような歩き方で、よたよたと歩いて行く後姿は、明らかに肉体に衰えが来た老人のものでした。

   「?」と思った私は、その老人の服装の特徴から、ある人物をすぐに思い浮かべました。それは、さんざん私に絡み続けた、あの老人その人だったのです。しかし、老衰したその後ろ姿には、かつて私を威圧しようとしていた(本人はしているつもりだった)当時の力強さがまるで欠けていました。

   元はと言えば、私の隣に初めて座ったときに、無理やり大股を広げて座ろうとし、私に圧力をかけてきたことに私が応じなかったことから始まったトラブルでした。その後も彼は大股開きを続け、隣に座っていたた女子高生が迷惑そうに斜めになっていたことを思い出します。

   この日彼が座っている姿を見てみると、あれほどまでに強力に左右の人間を押しのけて股を開いていた脚には少しの力も感じられず、前方にだらしなく伸びていました。意地でも蟹股に座ろうにも、脚には既にそれだけの力が残されていないことを自覚しているようでした。

   自分の衰えを自覚しているからか、あるいは私にまた怒鳴りつけられるかもしれないと危惧したからなのでしょうか、彼は私の存在に気付いたために、自分が最も座りたかった席を放棄して、遠くの席を選び直したのでした。私の方は、過去はどうあれ、無害であれば頓着しないのですが、身にやましいところのあるお爺さんは、離れた席まで避難するしかなかったようでした。

正義のあるべき姿とは

2016-10-28 14:57:59 | 日記
   先日、ネット上にこんな書き込みがありました。

   動画はまず、男性が女性に声をかけるところから始まります。やり取りは全て英語で行われています。

   「22℃もあるのに何兎の毛皮のコートなんか着てるんだよ。」

   男性が女性に声かけます。振り向いた人はまだうら若い、ちょっと美人で、至ってまともそうな、眼鏡をかけた女性です。男性は声を掛けるのと同時に、ビデオカメラを回しています。女性はこう答えます。

   「あなたと関係ないでしょ。」

   男性はそれからもあれこれ言葉をかけ、カメラを回し続けますが、かけ続ける言葉は、全てその女性が兎の毛皮で作ったショート・コートを着ていることに難癖をつけるものばかりです。

   「兎は殺される時、悲鳴を上げるんだよ。」 etc.etc.

   しつこく罵倒し続ける男性に嫌気が差した女性は、一目散に走って逃げだします。かなりの身軽さです。しかし、男性はその女性をどこまでも追跡し続けます。女性は自分が宿泊しているらしいホテルのフロントに逃げ込んで、ほっと一息・・・と思ったら、男性は無遠慮にホテルの中まで、カメラ片手に入り込んで来ます。

   ホテルに入った男性は、“Mother fucker!” と、実に汚い言葉でののしり続けます。この部分を投稿者は「このブス野郎!」と訳していますが、ニュアンスはかなり違いますね。


   この投稿と動画を見た私は、投稿者がどこからかこの動画を手に入れ、こんなひどい事をする変態男がいると告発しているのだと思いました。しかし、投稿者の名前を見た途端、そうではないことに気が付いたのです。名前は常にローマ字で Suzuki と書かれます。ネット上ではちょっと名の知れた動物愛護運動の信奉者なのです。

   彼女の真意を知った私は、質問を投げかけてみました。まずは、自分はこの動画を完璧に聞き取れるだけの英語力があると断った上で、

   「この男のしていることは、ストーカー行為であり、名誉棄損であり、脅迫ではありませんか?」と問いかけました。これに対する彼女の回答は、

   「私はこの男性が、母親が我が子を守るような、いつくしむ心でこの行動を取っていると思います。」というものでした。

   この男性の行動は、兎の命を守るための、慈愛に満ちた、正義の行為だというのです。私は、男が若い女性をどこまでも追い掛け回して罵倒し続ける行為のどこが慈愛に満ちていて正当性があるのかという質問を投げかけてみたのですが、彼女にはそんな質問があり得りうることさえ、理解できなかったようでした。

   しまいには、「人間の皮が高い値段で売れるとして、あなたの愛する人が殺されて皮をはがれたとしたらどうしますか?」と聞いて来るので、執念深い私もさすがにあきらめて、この時点でやり取りを放棄してしまいました。とりあえず、そんなたとえ話は5歳児には有効かもしれないが、大人に対しては意味が無いとだけ伝えましたが・・・。

   私の印象では、こうした行為をする人間は、何度も同じような行為を繰り返すうちに、本来の動物愛護の精神とは関係なく、自分が罵倒したり威嚇した時にひるむ相手の姿を見ることに喜びを見出すようになってしまったのだと思います。投稿者であるSuzuki さんという女性も、良識と言うタガが外れてしまったことに気づいていないのではないでしょうか。

   以前、日本における著名なイルカ漁の街にやって来た外国人の集団が行う行為を、テレビで見たことがあります。通りかかった軽トラックの前に寝ころんで道を塞ぎ、警官がやって来て移動するように警告しても梃でも動かなかったり、漁師たちに嫌味な質問攻めを繰り返したりしています。そして、最後の方で、日本人のレポーターの質問に対して答えた言葉がひどく印象に残っています。

   「あなたがたはどうしてこんなことをするのですか?」

   「だって面白いじゃん。」

「細川たかし・長山洋子・二人のビッグ・ショー」を見る

2016-10-25 15:10:37 | 日記
   Kさん、コメントありがとうございます。昔の自分の写真は、実は数があまりありません。写真はめったに撮影しない時代で、向かいに下宿していた従弟の大学生が写真を撮ってくれると言うので、わざわざよそ行きに着替えた位、貴重なものでした。と言っても、小学校の運動会を見に行くのにわざわざに晴れ着を着て出かけていた時代の話ですが。

   昨日は、「細川たかし・長山洋子・二人のビッグショー・感動で涙が止まらない」を見に行って来ました。K-POP以外はほぼサンシティ越谷市民ホールで行われる場合しか見に行かないので、今回も行き先は越谷です。駅から徒歩5分に位置しており、老人にはとても優しい会場なのです。

   まずは草加まで行き、10:30で予約しているカイロ・プラクティクスを済ませます。家には帰らず吉野家で昼食を済ませ、その足で越谷に向かいます。昼の部は13:00開場なのですが、12:00に着いてしまい、時間がたっぷりあります。しかし、周辺には既に到着している皆さんが相当数おり、談笑しながら会場を待っていました。

   歌手が違えば観客の雰囲気も違ってきます。細川たかし、長山洋子の二人とも民謡をベースにしている歌手であるせいか、お客さんたちも至って素朴な人たちが多いようです。広場のベンチで私の隣に座ったおばさんたちは、昔はさぞかし美人だったろうなあと思わせるような人も混じっているのですが、今時、見事になまっています。近隣の人たちしか集まっていないはずなので、生粋の埼玉県人、恐らくは普段は農業にいそしんでおられる皆さんなのだと思います。

   最も顕著な特徴は、要介護とまではいかないものの、要介助の人たちの割合が非常に多かったことでした。腕を支えられて歩いていたり、杖を頼りに自力で歩いてはいるものの、ちょっとした段差が油断大敵な人が目立ちます。終演後も、早く歩ける人が少ないので、なかなか表に出ることが出来ませんでした。

   座席は、4列目の28番。舞台の真正面です。近いです。細川たかしも長山洋子も声を張り上げた時には当然マイクを口元から大きく放します。すると、マイクを通さない彼らの素の声が私のいる席まではっきりと届いて来るのです。ああ、本当に歌っているんだ、と実感しました。近過ぎて、細川たかしの老化もはっきりと見えたりして、そこは舞台に近い席の欠点だなと感じました。

   こうした舞台にしては珍しく、定刻ぴったりに開始となりました。この舞台には演歌には付き物のバンドというものがいません。バンド的な演奏の部分は、カラオケです。その代わり、いきなり登場したのが、尺八1、津軽三味線8、和太鼓1という組み合わせ。まずはこの構成で思い切りの良い迫力たっぷりの演奏を聞かせてくれます。

   この日の舞台の売り物は、何と言ってもど迫力です。長山洋子という歌手は、アイドルデビューした当時から知っていますが、10年後に念願の演歌に転向し、どちらかというと細々と続けているという印象が強かったのですが、実物は圧倒的な声量に恵まれ、良い意味で期待を裏切る迫力のある舞台を見せてくれました。かつての演歌の大大御所、三橋美智也の歌も、歌に負けることなく歌い切りました。口先だけで歌うポップス系の歌手には絶対に出来ない芸当です。

   細川たかしは「、矢切の渡し」とか、「心残り」といった、テンポの良いヒット曲の印象が強いのですが、この日は難しい民謡をきっちりと歌い上げ、実力のほどを見せつけました。あまりにも力のこもった歌いぶりで、この人はこのまま舞台で倒れて帰らぬ人となってしまうのではないかと思ったほどでした。

   途中、細川たかしの弟子という、24歳の女の子が登場、持ち歌も歌ったのですが、元は民謡をやっていたというこの子の実力も大したもので、民謡を歌った際には、どこまでもどこまでも声が伸び続け、客席から、まだ行くのか!という歓声が上がったほどでした。やはり、AKB48所属だけど演歌も歌います、などという歌手とは物が違います。

   というわけで、この日の印象は、実力派歌手たちの、生で聞かなければわからない底力をまざまざと見せつけれらた、というものでした。惜しむらくは、ど迫力ばかりが前面に押し出されてしまっているので、演歌の持つ抒情性といった側面が欠けているという点でしょうか。小林幸子が見せる「情念・抒情・軽妙さ」や、八代亜紀が見せる「おしゃれ・粋」といった要素は全く見ることが出来ません。しかし、このど迫力は他では見ることの出来ない貴重な物なので、そこまで要求するのは虫が良すぎるというものでしょう。

   終演と共に外に出ると、ロビーでは定番、出演歌手のCD販売が行われておりました。反対側のテーブルでは、細川たかし饅頭、定価1,000円也も。それを横目で見ながら馬鹿な私は、少女時代饅頭とかKARA饅頭なんて物を作って販売していたら、はたして売れたのだろうか、などと考えておりました。

懐かしい写真・二枚目

2016-10-24 18:05:13 | 日記


   この際、勢いでおまけをつけてしまいましょう。

   前回のお婆さんのパートナーです。体格は対照的ですね。お爺さんも字が読めず、背中いっぱいに観音様の彫り物がしてありました。私をとてもかわいがってくれて、釣りや映画に連れて行ってくれました。釣りに行った時、荒川を蛇が鎌首をもたげて泳いで渡っているのを見たことがあります。東京23区内ですが、ハゼがいくらでも連れた時代です。

   右側の棚に乗っているのは、「薪」です。台所にはかまどがあって、薪でご飯を炊いていました。我が家も17歳の時に引っ越すまでは薪でご飯を炊き、電話はもちろん、冷蔵庫も洗濯機もありませんでした。親戚には緊急連絡先として、大家さんの番号を知らせてありました。

   陰に隠れて見えませんが、建物の横には鶏小屋がありました。裏庭ではお婆さんが「さやいんげん」を栽培していました。ミョウガもほとんど自生しているかのように生えていました。たまに垣根の外から手を伸ばして盗んでいる人がいました。我が家で干してあった大根も、下半分だけ刃物ですっぱりと切り取られていました。犯人は誰なのか、近所の人たちは全員見当をつけていましたが、たぶん間違っていなかったと思います。ただし前回書いたジローちゃんではありません。我が家の目の前の、水道もない借家に住んでいたおばさんです。

懐かしい写真

2016-10-23 14:51:34 | 日記


本文の下にあるバーを動かすと、写真の、隠れている右側の部分を見ることが出来ます。)

   懐かしい写真が出てきました。とても時代を感じさせる写真です。昭和32年くらいでしょうか。後ろに見えるのは、戦災で焼け出された人たちのために建てられた都営住宅です。二間しか無く、もちろん風呂などありませんが、それでも今の建売住宅より広い庭がついていました。

   後ろに狭いドブがありますが、このドブを挟んで町名が変わります。向こう側は南船堀、こちら側は宇喜田町になります。画面には写っていませんが更に後ろには現在の第一三共製薬、当時の第一製薬の工場があり、多くの人がこの工場で働く、企業城下町という側面もありました。

   すぐ後ろに見える家のおじさんは大酒飲みで、私と同じくらいの息子からいつも、「父ちゃんおめーは本当にどうしょうーもねーにんげんだなー。」と面と向かって言われていました。

   お婆さんの後ろには丸太が組んでありますが、これは写真に入っていない右側の方に海苔を養殖していた漁師宅があり、その海苔を干すための台です。ろくな食べ物もない時代でしたが、干してある海苔を盗んだのは、近所のジローちゃんだけでした。一応モラルというものはあったのです。

   写っている男の子はもちろん私、私がひっついているお婆さんは、隣の家に住んでいました。この老夫婦は子供がいなかった上、私はこの上なく人懐こい子供だったので、とてもかわいがってくれていました。おじいさんは私を釣りや映画に連れて行ってくれました。一緒に風呂に入ったら、背中いっぱいに観音様が彫ってあったことを覚えています。夫婦は二人とも字が読めませんでした。

   老夫婦はやがて、先々の始末を考えて、16歳の娘を養女に貰いました。この頃は、養子のやり取りが当たり前のように行われていました。仲良しだったチャコちゃんは、貧しさゆえに人の家に貰われて行きました。別の隣家には、独身のおばさんの家に、小三の女の子が養女に貰われて来ました。この子は小学校から帰宅すると、絶対に外に出て他の子と遊ぼうとはしませんでした。家に閉じこもり、悶々と自分の運命を呪っていたような気がします。

   私は老夫婦の家に養女が来た日から、ばったり隣家に足を踏み入れなくなりました。