中国語の授業を受けながら、よく感じることがあります。それは、「国語」というものに対する捉え方の違いです。
私たちの担任とも言うべき中国人講師のS先生は、日本に来てから20年近くになり、相当に日本語が堪能ですが、それでも現在私たちが教わっているレベルの高い中国語に対応する日本語が見つからず、窮することが時々あります。そんな時、S先生は必ず私を指名して問いかけて来るので、私も油断ができません。
幸い私は読書家タイプであると同時に、教育学部の英語教育学科卒ではありますが、勤めの傍ら東洋大学の国文科の通信教育を受け、国語科教育という4単位を残してすべての単位は取得しており、一般の方よりは国語の知識も豊富ですので、大抵の質問は無事切り抜けて来ました。
ただ、私が答えた時の皆さんの反応に、少々気になるところがあるのです。最も歴然としているのは50歳間近な男性なのですが、私が答えるとすかさず、「知らない!」と言って笑い出すのです。これが「知らなかった!」であれば、笑おうが何をしようが気に障ったりはしないのですが、「知らない!」という発言を何度も聞くうちに、少々気分を害するようになってしまいました。
私の耳には、「そんなこと知ってたって意味ないじゃないか!そんな言葉は時代遅れだよ!」という声に聞こえるのです。私が同様の体験をしたなら、素直に相手の知識の豊富さに感銘を受けると思うのですが、彼からはそんな気持ちは微塵も伝わって来ません。そもそも、いちいち「知らない!」と言って笑い出す必要性が少しも無いシチュエーションではないでしょうか。
その度に私は足立高校でのある日の授業を思い出しました。私が何気なく「ギャル」という言葉を使った途端、私から見ればギャルそのものでしかない女子が、「それ、もう死語の世界!」と馬鹿にして嘲笑ってくれたのです。決して頭の悪い子ではなかったのですが、彼女にとっては、自分が知り、自分が使っている言葉が世界の全てだったのです。自分が使わないとしても、一般社会においては定着してしまった言葉だということが理解できていなかった訳です。
彼もまた、この女子と同じ過ちに陥っているような気がします。言葉の世界の広さや深さとは縁の無い世界で暮らしている人に、その奥深さや無限の広さを理解しろという方が無理なのかも知れませんが、言葉は思考を支配します。人は自分の持つ語彙の範囲でしかものを考えることはできません。もちろん、無学な老人が人生の達人めいた名言を吐いたりすることはありますが、それは実生活から生まれたもので、思考の世界から生まれたものとは少し違うような気がします。
もちろん言葉というものは時代と共に変化していきます。単なる発音だけでも、こんなに変化しています。
「パルパ アケボニョ イヤウイヤウ ツイロク ニャリイウク イヤマギバ」
枕草紙を当時の発音通りに読むと、こうなるのだそうです。原文を知らない人には全く意味が分かりません。
次々と新しい語彙が生まれては消えて行く現代においては、「ら抜き言葉」を使う人がついに過半数を超えたというニュースがありましたが、言葉というものは単なる道具ではなくて、その民族の歴史と英知の賜物です。その知識が豊富な者が不足している者に笑われる・・・・。理解不能な現象です。
実は、SNSで若者と議論をしていると、全く同じ行き詰まりが生じて来ます。彼らの多くは、私たちの年代と比べれば、遥かに語彙も知識も不足しています。しかし、彼らは自分の知識の範囲内でしかものを考えようとはしません。新しく提示された知識を受け入れる気持ちがないので、最初に自分が達した結論を修正することができないのです。概ね、何バカなことを言ってんだ!という口調で、(彼らにしてみれば)私たちの意見を一蹴してしまいます。
実は私たちが提示しているのは、彼らにとっては未知の領域、つまり新しい知識なのですが、彼らの受け止め方は、年寄りが訳の分からないことを言っている・・に留まります。実際には若者たちの意見こそ、何十年も変わらない化石のような考え方なのですが、今までのところ、それをわからせることが出来た人はいないようです。
こうした傾向が続けば、日本人の思考能力は確実に衰退していくことでしょう。特に古典の教育が軽んじられることによる文化的衰退は目を覆うべきものがあります。何しろ国語教師自体が古典の知識が素人並なのですから、今後の成り行きはもはや目に見えていますね。
私たちの担任とも言うべき中国人講師のS先生は、日本に来てから20年近くになり、相当に日本語が堪能ですが、それでも現在私たちが教わっているレベルの高い中国語に対応する日本語が見つからず、窮することが時々あります。そんな時、S先生は必ず私を指名して問いかけて来るので、私も油断ができません。
幸い私は読書家タイプであると同時に、教育学部の英語教育学科卒ではありますが、勤めの傍ら東洋大学の国文科の通信教育を受け、国語科教育という4単位を残してすべての単位は取得しており、一般の方よりは国語の知識も豊富ですので、大抵の質問は無事切り抜けて来ました。
ただ、私が答えた時の皆さんの反応に、少々気になるところがあるのです。最も歴然としているのは50歳間近な男性なのですが、私が答えるとすかさず、「知らない!」と言って笑い出すのです。これが「知らなかった!」であれば、笑おうが何をしようが気に障ったりはしないのですが、「知らない!」という発言を何度も聞くうちに、少々気分を害するようになってしまいました。
私の耳には、「そんなこと知ってたって意味ないじゃないか!そんな言葉は時代遅れだよ!」という声に聞こえるのです。私が同様の体験をしたなら、素直に相手の知識の豊富さに感銘を受けると思うのですが、彼からはそんな気持ちは微塵も伝わって来ません。そもそも、いちいち「知らない!」と言って笑い出す必要性が少しも無いシチュエーションではないでしょうか。
その度に私は足立高校でのある日の授業を思い出しました。私が何気なく「ギャル」という言葉を使った途端、私から見ればギャルそのものでしかない女子が、「それ、もう死語の世界!」と馬鹿にして嘲笑ってくれたのです。決して頭の悪い子ではなかったのですが、彼女にとっては、自分が知り、自分が使っている言葉が世界の全てだったのです。自分が使わないとしても、一般社会においては定着してしまった言葉だということが理解できていなかった訳です。
彼もまた、この女子と同じ過ちに陥っているような気がします。言葉の世界の広さや深さとは縁の無い世界で暮らしている人に、その奥深さや無限の広さを理解しろという方が無理なのかも知れませんが、言葉は思考を支配します。人は自分の持つ語彙の範囲でしかものを考えることはできません。もちろん、無学な老人が人生の達人めいた名言を吐いたりすることはありますが、それは実生活から生まれたもので、思考の世界から生まれたものとは少し違うような気がします。
もちろん言葉というものは時代と共に変化していきます。単なる発音だけでも、こんなに変化しています。
「パルパ アケボニョ イヤウイヤウ ツイロク ニャリイウク イヤマギバ」
枕草紙を当時の発音通りに読むと、こうなるのだそうです。原文を知らない人には全く意味が分かりません。
次々と新しい語彙が生まれては消えて行く現代においては、「ら抜き言葉」を使う人がついに過半数を超えたというニュースがありましたが、言葉というものは単なる道具ではなくて、その民族の歴史と英知の賜物です。その知識が豊富な者が不足している者に笑われる・・・・。理解不能な現象です。
実は、SNSで若者と議論をしていると、全く同じ行き詰まりが生じて来ます。彼らの多くは、私たちの年代と比べれば、遥かに語彙も知識も不足しています。しかし、彼らは自分の知識の範囲内でしかものを考えようとはしません。新しく提示された知識を受け入れる気持ちがないので、最初に自分が達した結論を修正することができないのです。概ね、何バカなことを言ってんだ!という口調で、(彼らにしてみれば)私たちの意見を一蹴してしまいます。
実は私たちが提示しているのは、彼らにとっては未知の領域、つまり新しい知識なのですが、彼らの受け止め方は、年寄りが訳の分からないことを言っている・・に留まります。実際には若者たちの意見こそ、何十年も変わらない化石のような考え方なのですが、今までのところ、それをわからせることが出来た人はいないようです。
こうした傾向が続けば、日本人の思考能力は確実に衰退していくことでしょう。特に古典の教育が軽んじられることによる文化的衰退は目を覆うべきものがあります。何しろ国語教師自体が古典の知識が素人並なのですから、今後の成り行きはもはや目に見えていますね。