梅様のその日暮らし日記

その日その日感じた事や世間で話題の事について自分なりの感想や考えを書いていきます。

「小学校の英語教育の問題点」本論④

2018-08-28 07:05:24 | 日記
  日常的に愛読され、昨日も360名を超える方が読んでくださった記事は、「定年後にやってはいけないこと」でした。この傾向から察するに、私のブログを読んでくださる方は、かなりの年齢の方ばかり?なのでしょうか。


  ここまでかなり遠回りして来ましたが、今日は、より具体的な問題点に入りかけます。


  以前勤めていた高校で一人の若手教員が実に愚かな提案をして来ました。いきなり英語科の先生方を呼び集めて、途方もない提案をしたのです。そもそもろくな経験も無い若造が大先輩を招集して分かったような口をきくこと自体許せなかったのですが、そこはぐっとこらえて聞くだけは聞いてやりました。

  曰く、本校の進学率を上げるためにはもっと英語の授業時間を増やす必要があるので、それを提案する、というものでした。なぜかあまりに善良で、あまり深く物を考えようとしない皆さんだったので、彼の提案を生かす方向で会議が進みそうになったのですが、私は一刀両断、切り捨てました。

  「それでは私たちの受け持ち時間数が増えてしまう。忙し過ぎて授業の中身が薄くなってしまうだけだから、駄目だ。」

  中学校の英語の教科書は内容が厳選されており、どの教科書を選択しても、ほとんど変わりません。また、英語そのものが簡易なもので書かれているので、何年か教えれば後はいかにして授業中生徒の緊張感を維持し、集中力を絶やさせないかにエネルギーが注がれます。教材研究そのものにかける時間数は高校と比べて圧倒的に少なくて済むのです。

  高校では先生もたまに意味が取れずに行き詰ってしまう事さえあります。私が高2の時の英語の先生は外語大出身の方でしたが、授業中突如思考停止状態に陥り、説明不能となってしまいました。ある部分の意味が理解できなくなってしまったのです。おそらく予習の段階では何気なく通り過ぎた部分なのに、いざ授業で教えようという段になって、うまく説明ができず、パニック状態に陥ってしまったものと思われます。(その時は生意気にも不肖私が教壇に駆け寄り、自分が考えた意味を提示したところ、先生も納得して下さり、難を逃れることが出来たというオチがついています・・・。)私も授業中それに近い状態になった経験があります。

彼が一番理解していなかったこと、英語の授業を増やせばその分だけ他の教科の授業時間数を削減しなければならないということでした。そんな足し算引き算もできないような人間の提案にのる訳にはいきません。更には生徒の負担が重すぎて、授業について来られなくなる生徒が続出するという問題も、彼の頭では思いが至らないようでした。やらせればやらせるだけ成果が挙がるというものではなく、やらせた分だけ英語嫌いになり、負担に耐えかねて落第する者さえ出るのです。当時落第は中退と直結していました。

  当時私は担任をしていた学年の生徒の中から希望者だけを集め、進学向けの補習をしていました。自らやりたいという気持ちがあること、それが語学の上達には必須の条件です。私の中には全生徒に対して強制的にやらせるという選択肢はありませんでした。なおかつたったこれだけの努力で、私が受け持った学年は毎回前年の進学実績に対して倍以上の結果を残していたのです。私は独力でこうした実績を挙げていたので、いまだ自分では何の成果も挙げていない若者が全員に呼びかけるという傲慢さに許しがたい怒りを覚えました。

  英語に限らず外国語の学習に当たっては、何よりもまず当人がそれを学習する側の動機づけが最重要です。自分自身の中に英語を学習する動機というものが元々存在しない段階で強制的に英語を教え込もうとしても無駄です。子供たちは右から左へと忘れていきます。そして、これまでは中二位で英語嫌いになっていった生徒たちは、小二位から英語嫌いになり始めることでしょう。

  私は中学校を卒業後、高校の入学式までの間のある日、中学校の英語教科書の復習をしてみたことがあります。一年生の教科書の第1ページ目から声を出して順に読んでいきます。結果、テキストの本文を全て音読し終わるのに1時間半しかかかりませんでした。中学校の3年間で学ぶ英語の量など、たかが知れているのです。しかしそれでも沢山の落ちこぼれが出ます。商業高校を受験する生徒たちなど、入試で50点も取れないのが当たり前、60点台なら学年一位になっている可能性があります。

  中学校のテキストでこの程度の量なら、小学校6年間での量はどれくらいになるのでしょうか。学習指導要領というものがありますから、小学校の英語の授業では中学校の英語の授業を超えるレベルの内容は教えることが出来ないことになります。それを6年かけて教えた質と量はいかほどのものになるのか。

  これには実証データがあり、小学校で英語を学んだ経験を持つ子供たちと、中学校で初めて英語に触れた子供たちとの間の実力差は、あっという間に埋まってしまい、早期に英語の学習を開始した子供たちの優位性は特にないということがわかっています。日本語能力も未発達な小学生が学べる英語の水準は、実はたいしたことがないのです。日本語もおぼつかない子供たちが身に着けられる英語の質と量は、実にたかが知れているからです。

  本日の結論は、「小学生から英語の学習を初めても、実はほとんど意味が無い」ということです。

「小学校の英語教育の問題点」本論③

2018-08-27 13:11:08 | 日記
   小学校の英語教育について語るつもりが、結果的に大分大回りをしてしまっています。 まあ、最近の英語教育の流れをお知りいただく一助とはなると思いますので、お読みいただければ幸いです。  最近は日本の英語教育熱が板について来たと申しますか、英語を学ぶのが当然であるかのような風潮が目立ちますが、(実際にはそんな気にはなれない人が9割以上を占めていますが。)、これには1987年、時の中曽根首相の下企画された、JETプログラムの影響なしとは言えないでしょう。

   JETプログラムとは、「語学指導等を行う外国青年招致事業」を指しますが、この事業が発足した契機というのが実に姑息なものであったのです。この時中曽根首相が英語教育に格別の知識や動機付けがあった訳ではなく、時はまだバブル、日本の対米黒字が大問題となっていた時期で、日本としてはアメリカの本気の怒りをかわないように、何らかの方策を考える必要がありました。

  そこで考え出されたのが、「主として」アメリカ人を大量に英語教師として雇用することによって、対米黒字を減らす努力をしていることをアピールしようとする狙いがあったのです。早い話が日本の高校生は、体の良い赤字減らしの道具にされてしまいました。この時の外国人教師の時給は50分で10,000円であったと言われています。一校につき年間300時間が割り当てられていましたので、複数校で仕事を引き受けるか、別のバイトと掛け持つかすれば、そこそこの暮らしは出来たはずです。

  ただし、本当に有能な人材であれば本国にもっと良い定職が見つけられるはずですので、こうした教師、厳密には補助教員は、その質において問題がある場合が少なくありませんでした。私も10人ほどの外国人補助教員を見て来ましたが、専門知識を持っていたのは一人だけで、他はただの家庭の主婦とか、当時世界第二の経済大国であった日本に来てみたとか、その程度のものでした。

  一人だけ「外国人に英語を教える資格」なるものを所有しているという男性教師がいましたので、彼の場合には私がリードするのではなく彼に終始任せていたのですが、これがまた実に面白くなかったのです。授業の進め方は物の本に書かれているパターンの域を出ず、生徒たちはその退屈さにやむなく付き合ってやっているという雰囲気でした。

  真逆の例としては、オーストラリアの南にあるタスマニア島出身の男性がいましたが、ボディビルが趣味で隆々たる筋肉を誇示しているのは良しとして、冬でも下は短パン、上半身はワイシャツの裾を外に出したままの洋風着流し?というファッションで、お前昨晩このまま寝てただろう!と言ってやりたくなるようないでたちでした。

  他にもパリ・ソルボンヌ大学出身のブラジル人のお爺さんとか、スエーデン出身の女性とか、インド洋に浮かぶ諸島の出身者とか、多士済々でしたが、なかなか私たち英語教師を納得させてくれる人材には出会うことができませんでした。

  唯一生徒たちから圧倒的な支持を集めていたのは、身長196㎝という巨漢の黒人でした。生徒たちは相手が白人の時よりも明らかにリラックスして授業を受けていることが、明白に感じられました。これは差別意識というようなものではなく、白人は自分達とは別世界の人間だと感じているのに対して、黒人に対しては親近感を抱いているのでした。彼はナイジェリア出身、ハワイ大学卒業、日本の実業団でバスケットのセミプロ選手だったという経歴の持ち主でしたので、昼休みともなれば、彼に挑戦を試みるバスケット部の男子たちが群がっていました。

  ともあれJETプログラムにより日本の学校に外国人補助教員が導入されてから、既に30年という月日が流れました。高校では受験から最も遠い1年生の時期に外国人補助教員つきの授業を組み入れているところが多かったので、初めてこれを経験した生徒が既に45才、その子供たちが大体高校生という年代になります。

  ではこの30年間で日本人の英語力が向上したのかと言えば、そんなことはありませんでした。所詮は中曽根首相の「せこい」発想から出発していますし、日本での英語教育に命を賭けるという人材が集められたわけではなく、各都道府県の担当部署に登録して来た外国人の中から、勤務校に近い人間を割り振るという機械的な方法がとられているだけの話しで、なおかつバブルがとっくの昔にはじけてしまった今、必要な外国人を集めるだけでも至難の業となっています。かつ、何か特別な専門的な事前講習を課する訳ではないので、結局はただの歩くCDプレーヤーとしてしか機能していないのだと言えるでしょう。
   

「小学校の英語教育の問題点」本論②

2018-08-26 12:59:13 | 日記
  今日は、「何もみんながみんな英語の勉強をする必要はない。」がテーマです。

  そもそも日本人に英語は必要なのか、という本質的な問題があります。もちろん、仕事上英語を必要とする人達も相当数います。しかし、どう考えても本当に仕事上、または生活していく上で英語が無くてはならない人は、ほとんどいません。勝手な推測を交えて言うなら、せいぜい5パーセントくらいではないでしょうか。ただしこの5パーセントの人たちは、英語を会社の利益に直結した業務に使っているのであって、その辺の英語学校でおしゃべり英語をたしなんでいるレベルとは全く違います。

  日本人一般がいかに英語を必要としていないかは、通勤電車で車内を見回せば一目で分かります。8割位の人がスマホでメールをチェックしているか、LINEに書き込んでいるか、Googleで不要不急のニュースを見ているか、あるいはスマホかゲーム機で真剣な表情で実用性の無いゲームに熱中しているかのいずれかです。実はスマホで学習できる英語のソフトも発売されてはいるのですが、誰もそんなものをやっちゃあいません。「聞き流すだけ」というソフトもありますが、スマホやゲーム機で遊びながらそれをやっている人もいないでしょう。

  日本人が本当に英語を必要としているなら、サラリーマンたちは朝夕の通勤電車の中で、寸暇を惜しんで英語の勉強に励んでいるはずです。これは中国語の先生からうかがった話ですが、会社から派遣されて個人レッスンを受けに来る人たちの学習意欲は恐ろしく低く、予習も復習もせず、何か話させようとしても嫌がるのだといって嘆いていました。恐らく英語の場合も大して変わらないなのではないかと思います。

  極端な話、日本人は英語を知らなくても何ら問題ないような社会を作り上げているのです。それは恐らく日本人だけに与えられた特権です。ショッピング・センターに隣接した大型の映画館に行けば、トム・クルーズ主演「ミッション・インポッシブル」の字幕版と日本語吹き替え版の二種類が同時に放映されていたりします。韓国では、日本の映画館で日本語吹き替え版が放映されているのは日本人が英語もできず字幕の漢字も読めないからだと報道されています。まあ、漢字が読めないのは実は韓国人であって日本人ではないのですが。

  日本人が英語を必要としない理由の一つに、カタカナの発明が挙げられます。英語だろうがドイツ語だろうが、外国関係の言葉は全てカタカナ表記することにより、それが外来語であることが銘記されます。韓国語や中国語ではこうはいきません。韓国語はハングルという一種類の仮名文字でしか表記されないので、未知の単語に出会ったら、それが自分の知らない韓国語であるのか、外国語であるのか、区別がつきません。中国語に至っては、漢字が元来表音文字ではなく表意文字、元をただせば漢字の一つ一つが「絵」ですので、英単語を漢字を用いて表すと、それが一体何なのかは、全く分からなくなってしまいます。

  かくして多彩な表現力を持つ日本語は、あらゆる外国語の文章を翻訳して日本語化し、誰もが読める文章に変えてしまうという超能力?を持っているのです。従って、先述の5パーセントの皆さんの中で誰かが英語の文献を日本語訳してくれれば、私たちは英語を知らなくとも何ら困ることは無い訳です。私たちは英語習得にかける無限とも言える時間を、もっと本質的な学習に向けることが可能になっているのです。つまり、英語学習自体がある意味無駄とも言える側面を持っており、特にある程度以下の学力しかない子供たちにとっては、人並みの大人に育成するための教育の方が大切です。

  とある商業高校の試験で、とんでもない事実が露呈し、愕然としたことがあります。念を押しておきますが、「商業高校」です。簿記や事務を教える高校です。それが、ある時の試験に、「1,000円の品物をバーゲンで2割引きで販売していた。この時客が支払うべき対価はいくらか。」という問題が出題されました。その際、生徒の6割が、1,200円と回答したのです。生徒の脳裏を過ったのは「2」という数字だけで、これを単純に1,000円の2割とだけ考え、その2割を足し算してしまったのです。まるで作り話めいていますが、実話です。

  生徒たちも実際に自分たちがお金を払わなければならないバーゲンセールの場でこんな間違いは犯さないと思いますが、少なくとも2割引きという概念が頭の中で揺らいでいたことは確かです。こういう生徒達に必要なのは英語などではなく、もっと実学的な知識、実生活を送って行く上で支障のないようにする知識です。

  中には自動車の運転免許がどうしても取れない大人もいます。知恵遅れとも思えませんが。バラエティーの常連であるとある女性は、何度挑戦してもペーパーテストに合格できないままだそうです。恐らくもっと違う場面でも何らかの支障をきたしていることでしょう。

  本日の結論は、英語の学習は一部の人たちに任せて、私たちはもっと自分に適した、自分に必要とされる知識と技能の習得に時間を費やすべきだ、ということです。まして将来生きていく上で最低限の基礎となる学力を身に着けさせるべき小学校において、貴重な時間を費やして英語を教え込もうとするのは愚の骨頂だと考えます。

「小学校の英語教育の問題点」本論①

2018-08-25 18:11:17 | 日記
  かつて勤務していた高校に、一人帰国子女の女生徒がいました。彼女が言うには、ある先生の発音が英語になっていない・・・とのことでした。その先生、男性の教師でしたが、本来の専攻はインドネシア語でした。もう一人フランス語専攻だった女性教師がいましたが、こちらの方の方が少し発音はましだったのではないかと思います。

  更に、工学部に進学を希望していたものが高三になって急に進路変更し、英語学科に進んで英語教師となった男性教師もいました。こちらは工学部志望だっただけあって、理論、つまり文法はピカ一だったのですが、高二まで真剣に英語に取り組んでいなかったせいか、発音が散々で、イットイズに近いお粗末なものでした。

  私はオーストラリア人教師に発音をほめられたことがあるので、まあまあなのではないでしょうか。あるアメリカ人教師からは、あなたはキングズ・イングリッシュなんですね、と言われたことがあります。英語教師の専攻は実にさまざまで、他にはヒンズー語専攻だったという例も知っています。

  さて、小学校では全ての学年において英語を教えることが義務付けられた関係上、本来英語とはゆかりのない先生方が素人ながらに英語を教えることになります。児童に教える教科書ですから中身は至って簡単なはずなので、教えることは多分可能なのでしょう。ちょっとした講習会に出席してノウハウを学び、すぐに教室でそれを応用するということになります。

  ここでなぜ私が冒頭、昔の同僚の話を持ち出したか、その意味がお分かりになったと思います。外国語の発音は、生理学的に八才までに習得しないと、本国人並みの発音は身に着かないと言われています。私の発音がいいと言っても、アメリカ人やイギリス人とは、発声法そのものが違いますので、聞けば日本人の英語であるという事は、はっきりわかってしまいます。それでも中学入学と同時に英語学習に熱中したので、他の人達よりは優位に立っていた、というに過ぎません。

  つまり小学校で教わる英語と言うのは、教師になってから業務上の必要に駆られて覚えた先生から教わるものですから、その発音たるや、散々なものであるに違いないのです。通じればいいじゃないか、という考え方もありますが、それでは口と喉が柔軟な小学生に英語を教えるメリットがありません。小学校における英語教育の問題点、まずは発音という入り口のところからして、既に付け焼刃でしかないのです。

「小学校の英語教育の問題点」前置き②

2018-08-25 05:01:35 | 日記
  埼玉県草加市の我が家から獨協大学前駅にほど近いメガ・ドンキ・ホーテに行く途中、昔は農業用水が流れていたと思われる暗渠の横に、二つの保育所があります。どちらも本当にささやかなものなので、保育園ではなく、それぞれ一間(ひとま)しかない無い、保育所です。

  大通りに面した保育所は、以前は小料理屋だったところの奥座敷を利用したものです。入り口は暖簾が下がっていないだけで、小料理屋時代そのままです。庭も無く、奥座敷だけの小規模なものです。先日横を通ったら、幅2メートルもなさそうな暗渠の上にこれまた小さなビニールプールを置いて、子供たちを遊ばせていました。

  暗渠の蓋の下は水が流れているはずなので、プールを使った後の水の始末は楽ちんなずです。道幅の半分以上をプールが占拠してしまうので、買い物に向かう人が通る度に、保育士さんが「済みません!」と謝っています。しかし、いかにも専門学校を出て間もないという感じの、初々しくもかわいらしい保育士さんに、私も知らず知れず笑顔を返してしまいます。

  メガ・ドンキ・ホーテに向かって更に20メートルほど進むと、もう一つの保育所があります。こちらは昔ながらの和風の民家そのままで、縁側まで付いた広い部屋が保育スペースとなっています。一応ささやかな和風庭園がついており、ビニール・プールも大きめのものが庭に常駐しています。もちろん通行人に一々謝る必要などありません。

  さて、後者の保育所の最大の売りは、アメリカ人の「お兄ちゃん」がいることです。アメリカ人の「お姉ちゃん」の方が何かと都合が良さそうな気がしますが、お兄ちゃんしか捕まらなかったのではないかと思います。草加市には68か国からの外国人が居住しているので、ここにはハーフの子も相当数います。

この保育所には、英語で保育という看板にひかれて、ハーフの子供を通わせる親が数名いますが、大方は幼い内から英語に触れさせておくと将来ペラペラになるかもしれない、と期待して子供を通わせている親たちです。では、この保育所に子供を通わせたとして、果たして子供たちは英語がペラペラになるでしょうか。

答えは、無理!です。そもそも就学年齢に満たない子供たちの語彙そのものがたかが知れていますし、小学校に入学後、必修化された英語の授業を受ければ、英語未経験の子供たちにあっというまに追いつかれてしまいます。子供というものは、覚えるのも早い代わりにマッハの速さで忘れます。

私の教え子に5歳の時に来日して、以後ずっと日本で暮らしている中国人がいますが、彼女は中国語が全くわかりません。一時は私に中国語を教えて欲しいと頼んできたくらいです。来日当初はちんぷんかんぷんの日本語が飛び交う保育園で、「妈妈!マーマー!」と泣いていたそうですが、両親と兄が中国人であるにも関わらず、日本の公立学校に通っている内に、中国語は完全に忘れてしまったそうです。親が相当意識して中国語を教え込まないと、一日のほとんどを暮らしている学校で使っている日本語が完全に勝って、中国語はどこかへ行ってしまうのです。

この話が小学校における英語教育の問題点とどうつながるのか、勘の良い方はなんとなく見当がついたことと思います。