梅様のその日暮らし日記

その日その日感じた事や世間で話題の事について自分なりの感想や考えを書いていきます。

鶴田浩二と私

2014-09-29 17:05:32 | 日記
   Kさん、コメントありがとうございます。Kさんが小林幸子にまで詳しいとは思いませんでした。さて、今日は芸能人の話題が続きます。

   昔、鶴田浩二という映画俳優がいました。相方の年齢だと聞いたこともないかもしれませんが、一度は彼の声を聞いたことがあるはずです。最近は影を潜めていますが、右翼の黒塗り宣伝カーからは必ずといっていいほど、鶴田浩二が歌う軍歌が大音響で流されていたからです。決して声高に歌い上げる唱法ではないのに、彼の軍歌は心に訴えるものがあります。

   彼はいわゆる「特攻隊」の生き残りです。戦友たちが次々と特攻の飛び立ち、若い命を散らしていく中、自分の順番が来る前についに終戦を迎えてしまったことを、彼は生涯の重荷として生きていました。お国のために散っていった仲間たちに申し訳ないというのが彼の口癖でした。彼はレコードも出し、ヒット曲もありますが、果たして歌手と言って良いのかどうかは微妙なところです。しかし、彼自身が生涯自分に課した重荷のために、彼の軍歌は他のどんなプロ歌手にも出せない哀調を帯びています。

   軽薄な左翼や進歩的知識人達は、彼のような人間を軽蔑していたと思います。しかし、彼の心情を理解できないような連中が、平和や政治や歴史を語る時、それは正に空理空論でしかないような気がします。

   彼は俳優としても超一流でした。彼の全盛期はまた同時にやくざ映画の全盛期でもありました。映画の中での彼の役回りは、清濁併せ飲む、大物でした。あの高倉健さえも、彼の前では脇役に過ぎませんでした。対立する組織同士の争いをおさめ、共倒れを防ぐために、鶴田浩二が高倉健を双方の組員たちが見守る中で射殺する、そんなシーンを見たことがあります。万一やくざ映画でない、正統派の映画に彼が活躍する場が与えられていたなら、鶴田浩二という役者は間違いなく戦後を代表する俳優となっていたに違いありません。

   私は鶴田浩二の歌をとても愛しています。幼い頃にラジオから流れてきたサンドイッチマンの歌などは耳について離れません。できれば自宅に彼の全集でも置いておきたいところです。

   しかし、私はどうしても彼のレコードやCDを身の回りに置く気にはなれないのです。なぜなら、彼の歌う歌は、あまりにも悲しすぎるからです。かつて私も彼のレコードを購入し、耳を傾けていた時期がありました。しかしある時一大決心をして、それを全部捨ててしまいました。

   鶴田浩二の歌は、大音響で流すか、夜更けに密かに一人で聞くか、そのいずれかになります。私は当然夜更けに一人で聞き惚れていたわけですが、実は彼の歌声を聴いているとあまりにもしんみりとした気持ちになり過ぎて、死んでしまいたくなるのです。彼が抱え続けて生きてきた悲しみがダイレクトに伝わってきて、とても耐えきれなくなってしまいます。

   現在私の手元には彼のレコードもCDもありません。そして、生涯再び手にすることもないと思います。私は彼のファンです。彼の歌声を心から愛しています。それだけに尚更、彼の歌を聴けないのです。

小林幸子

2014-09-28 16:46:14 | 日記
   演歌歌手について書くのは初めてではないでしょうか。

   小林幸子のファンなのかというと特にそういうことでもありません。CDも所有していませんし、公演にも行ったことがありません。それなのになんとなく心に引っかかるものがあるのは、デビュー前から彼女のことを知っていたからかも知れません。

   私の家は貧しかったので、近所の家がみなテレビを購入した後でも、なかなか我が家の番にはなりませんでした。何しろ住んでいた借家の電気が5Aの容量しかなかったのです。これでは電気ストーブ一つすらつけることができません。我が家に冷蔵庫や洗濯機が入るのは、後に建売を買って所沢の畑のど真ん中に引っ越してからの事でした。高校時代交差点で飛び出してきた子供を自転車で引っかけて交番に連れていかれても、我が家には電話がなく、近所の電話番号も知らないので、連絡することもできす、長時間拘束された、そんな「遅れた」人生でした。

   しかし親類は結構金持ちばかりなのです。やがて我が家にもテレビが入る日が来ました。栃木県で病院を経営していた親類(母の妹がそこに後妻に入っていました。)がテレビを買い替えた時、古い方のテレビを我が家に譲ってくれたのです。昔のテレビですから、白黒14インチのブラウン管の両側には立派なスピーカーが付き、画面の前には扉がついていて、さらにその上には豪華なカーテンが掛けられているという代物でした。

   そんなテレビで見たのが、当時まだ小学生だった小林幸子の姿でした。年齢は私と同じくらいではないかと思います。素人の勝ち抜き戦の番組だったと思いますが、その番組で優勝したのが小林幸子だったのです。彼女はあまりの歌の上手を買われて、ほどなく天才演歌歌手として華々しくデビューしました。しかし全く売れることなく、いつの間にか私たちの脳裏からその存在が消え去って行きました。

   彼女が再びブラウン管に姿を見せたのは、すでに「嫁に行き遅れた」というべき年齢に達してからでした。その後数曲ヒットを飛ばした彼女は、確か紅白歌合戦に30回以上連続して出場し続けていたのではないかと思います。それが数年前に事務所とのトラブルがあって紅白の連続出場が途絶え、歌手生命が怪しくなっていた今日この頃・・・・。

   数日前に久々彼女の姿をテレビで見る機会がありました。野外の舞台で歌う彼女の前には沢山の若者たちが立並び、激しくペンライト(最近は違う言い方をするようですが)を振って乗りまくっているではありませんか。
どうも、第二次小林幸子ブーム?が訪れたようなのです。なぜ?彼女が着て報道された衣装が、ゲームの最後の方に登場するボスキャラの衣装とよく似ていたので、ゲーム好きの若者たちに大受けしてしまったのだそうです。なんでも、これを称してラス・ボスというのだとか。彼女のコンサートでも客の層がかなり若返り、「ラス・ボス」という掛け声がかかるようになったという話です。

   小林幸子という歌手は、あまり幸運には恵まれて来なかった人のように思われます。紅白出場が途絶えた時には、年齢も年齢だけに、これで歌手生命が断たれた、と誰もが思ったに違いありません。それが、ほんのささやかな偶然で一気に盛り返してしまったようです。本当に人生というのはわからないものです。

   ま、人生何があるかわからないので、この私も、腐り過ぎないように自戒しながら、自分なりに頑張って見ようと思います、はい。

小学校の英語教育

2014-09-27 17:21:28 | 日記
  この話題については腐るほど書いたのですが、文科省のお役人は相も変わらず頓珍漢な発想で英語教育を進めようとしているので、ついつい一声噛みつきたくなりました。

   まず、私の基本姿勢は、日本人全員に英語教育をする必要などないということですが、それではひねくれた少数派として排斥されるに留まってしまうので、英語教育が行われるとすれば、という観点から述べてみます。

   最近、小学校教諭に研修の機会を与えて、全員が英語教師の免許を取得できるようにするというアイデアが出されています。私はこの考えには声を大にして言いたいと思います。ナンセンスです。幼いうちに外国語教育を受けるメリットは何か?弊害として、中学校へ行くずっと以前から英語が嫌いになってしまう子供たちが大勢でることは間違いないのですが、それ以上に問題なのは、最低でも22歳を過ぎた大人が英語を研修して免許を取得したところで、望ましいレベルの発音を身に着けることは不可能だという、大脳生理学に基づいた事実があります。

   幼い子供が大人より、はるかに優る点は何か?それは、外国語の発音をありのままに再現することができるということです。以前にも書いた通り、一定の年齢を過ぎてしまえば、外国語の発音は身につきません。あくまでそれっぽいことができるだけだということです。私の同僚でも、英語の発音に絶対必要な、「子音止め」が出来ず、book が「ぶっくぅ」になってしまう人がいました。高校で受験英語を教える分にはあまり問題にはなりませんが、全くの初心者に教える適正はゼロです。

   教師として就職してから改めて英語教師の資格を取得するような場合、99,999999パーセント、その発音は日本語の発音で英語の発音の代用をする、日本式英語になってしまいます。せっかく真っ白な状態の子供たちにひどい発音を教え込んでしまうくらいなら、最初から何も教えないほうがましです。

   文科省もその点を考えてはいるようで、外国人を2万人ほど雇用し、小学校に配属することを考えているとか。しかし実はこれもなかなか問題が多いのです。ただでじっとしていられない児童たちを、果たして1時間もの間、学習に集中させることができるのでしょうか。

   私はこれまで何人もの外国人と授業をすることがありましたが、誰一人として合格点を出せる人物はいませんでした。そのほとんどが教師としての適性もタレント性もなく、中には私の方が発音が良いのではないかと思われる外人までいて、はやく一年間が過ぎることをひたすら祈っていたものです。唯一の例外は身長が1メートル96センチもある黒人の元バスケットボール選手でしたが、彼は彼で自分で英語会話スクールを開く前に経験を積むために応募してきただけで、動機が不純でした。目的が目的だけに一年だけ経験して、さっさと辞めてしまいました。後の人たちは要するにただ英語が話せるというだけの理由で採用されたとしか思えませんでした。

   嫌な言い方になりますが、外国人といえどもまともな人は定職を持っており、たいした稼ぎにもならず時間ばかり拘束される仕事には振り向いてくれません。そんな中で2万人もの外国人を雇ったら、玉石混淆までもいかず、石ばかりが集まってしまうことでしょう。なおかつ彼らは、ただ英語が話せるというだけの理由で私たちより上であるかのような意識を強く持っているので、本当にやりにくいことこの上ないのです。

   それでも小学校の英語教育を充実させたいというのであれば、止むを得ません。最良の方法は、適性があると思われる現職教員を2年間(1年間では不足です。)公費で海外留学させて、許容範囲の発音と英語能力を身に着けさせることです。その程度の投資ができないなら、最初から余計なことは考えないことです。
 
  

「ベスト・キッド」を見る

2014-09-26 16:04:18 | 日記
  今晩民放で、「ベスト・キッド4」が放映されるようです。今回はジャッキー・チェンと黒人の子供という組み合わせです。前作までは沖縄出身の老人という設定で師匠になる人物が登場していたのですが、4に至ってついにジャッキー・チェンこと成龍が出演することになりました。その分なんとなく信憑性が増し、その代わりに神秘性が失われた感がありますが、ここで私が述べたい内容とは関わりがないので、そこには突っ込みを入れません。

   実は「ベスト・キッド3」もしばらく前に放映されていたのですが、見始めたものの、主人公の女の子の動きに無理が感じられ、開始早々視聴を放棄してしまいました。目先を変えたかったのでしょうが、少々やり方が姑息であったような気がします。ちなみに、この映画とは関係ありませんが、最近CMに登場する「瓦割り」の子、私は結構好きです。彼女がまだ女子高生でデビューした頃から私は知っています。

   本題に戻ります。「ベスト・キッド」シリーズは水戸黄門も真っ青というほど見事にマンネリ化したシリーズですが、その分ストーリー展開は最初から読めてしまう分だけ、安心してみていられます。途中トイレに行こうが風呂に入ろうが、全く問題ありません。結末は主人公が勝つに決まっているからです。

   私はこの「ベスト・キッド4」は旅行先で中国版のDVDを購入し、中国語版で鑑賞したのですが、(何語で見ようと関係ありませんが。)シリーズの4まで見終わったところでの感想は、恐らくほかの皆さんとは少し違ったものになるのではないかと思います。

   私は自分自身が「いじめられっ子」でした。したがってこうした映画も、純粋にいじめられる側に立って見ることができます。その意味では、いじめられっ子がユニークな修業の果てにいじめっ子と空手の試合で対決し、これを倒すという筋書きは、小気味の良いものです。つい拍手喝采したくなります。

   しかしその一方で、いじめられっ子代表として言わせていただくなら、この映画は4作まで制作しながら、いじめ問題については何の解決策も示してはいません。いじめに対する真の解決策など実はあり得ないのですから仕方ないのですが、であればこそ、こんなものを4部作も作るなと言いたくなります。 

   この映画が示していることは真実です。いじめられっ子は、いじめっ子よりも喧嘩が弱い間は永遠にいじめられ続けます。大人になったところで、いざとなれば喧嘩が強い男の方が立場が強くなります。したがって、いじめらるのがどうしても嫌だというのであれば、自分が一番強いということをはっきりと実力で示さなければなりません。そしてこの映画は、そうすれば問題はすべて解決するのだということを示しているのです。

   ところで、その結論は、果たして現実問題として何らかの価値があるものなのでしょうか。いや、極一部の身体能力に恵まれた人間なら、主人公の後を追って修業に励むことにより、いじめの世界から抜け出すことができるでしょう。しかし99.9パーセントの人間にはそんな未来は待ってはいないのです。

   この映画は、ほとんどすべてのいじめられっ子にとって、フィクションであり、おとぎ話の域を出ません。そして何より重大な欠陥は、この映画は結局、暴力に打ち勝つにはその暴力を上回る暴力をもって立ち向かうことだけが有効な解決策であることを、余すところなく示しているということです。その意味におい、この4部作が放つメッセージは、極めて暴力的で、原始的で、悲観的なものとなるのです。

   私は暴力を伴ういじめは、未来永劫無くなることはないと思っています。それは動物としての本能に根差すものであり、そう簡単に理性をもって抑え切れるのものではないからです。であればこそ、せめて映画の中では暴力を伴わない美しい筋書きでいじめを解決してもらえないものでしょうか。いじめに対する解決策として、いつまでもこんな形しか提示できないということ自体、問題の本質を如実に表しているのではありますが。

「イ・サン」を見る

2014-09-24 15:01:07 | 日記
   「イ・サン」というのは「チャングムの誓い」などを作ったテレビドラマの監督が、「トンイ」に続いて制作した時代劇ドラマです。これを見ていて私は、この監督は自分の成功に酔って、大いなる勘違いをしていると感じました。韓国ドラマについて批評するのはもうやめようと思っていたのですが、あまりのひどさに我慢ができなくなってしまいました。なにしろ、韓国ドラマを扱っている年代別に整理して、あのドラマの前にこのドラマを見るべきだとか、このドラマはあのドラマに続けてみると韓国の歴史がよくわかるなどと熱心に説いている信者のおばさまたちがいる以上、ダメな部分はダメと確認しておきたくなったのです。

   私の手元に、「チャングム、イ・サンの監督が語る韓流時代劇の魅力」という本があります。彼は一体どんな意識で一連の歴史ドラマを制作したのかが知りたくて購入した本なのですが、この本の終わり近くにこういう文章があります。

   「私の決めた第一の原則は、暴力を美化するドラマは絶対に作らないということ、第二は時代劇演出家として歴史を歪曲しないということである。」

   「最低限、青少年の歴史の勉強の一助になるよう心がけ、間違った歴史を描いて混乱させることがあってはならないと思っている。」

   言葉は立派なのですが、実際に彼が制作したドラマを見ると、本当の歴史とはあまりにもかけ離れているのです。何しろこれをネタに「韓流時代劇と朝鮮の真実」という本が日本で書かれ、1,400円也で販売されているくらいです。この本は300ページ近くもあるのですから、韓国時代劇がいかに荒唐無稽であるかは明らかです。ただ、私はこの本とは関係なく、「イ・サン」というドラマを見て感じた事だけを独自に書きます。

   イ・サンという人物は、国王の後継者であった父親が米櫃に閉じ込められて餓死させられるという悲惨な境遇から、幾度もの暗殺の危機を乗り越えて国王になり、多くの改革を進めた開明的な国王でした。こういう国王は韓国においては極めて貴重な少数派なのです。しかしこのドラマでは、いや、このドラマでも、やはりメイン・テーマは国王を含む三角関係になってしまっています。この三角関係の部分は、現実の歴史上の出来事ではありません。従って物語の設定から既に歴史を「創作」してしまっています。

   また、イ・サンの祖父に当たる先代の国王が66歳の時に娶った後添えの皇后(結婚当時16歳)が、幾度となくイ・サンの命を付け狙い、軍隊を動かしてクーデターを起こすのですが、これも歴史上の出来事ではありません。

   しまいには、大金で雇われた無敵の殺し屋がイ・サンの命を狙って宮殿内の寝室にまで侵入して来ますが、腕に覚えのある護衛の兵士たちをすべて一刀の元に切り捨てるほどの腕前の殺し屋が、イ・サンとの直接対決に敗れ、死んでしまいます。国王は武芸の達人などには絶対になりません。ご都合主義にもほどがあります。

   これほどまでに歴史をゆがめて描いているドラマであるにも拘らず、この筋書きを本当の出来事と信じている人たちは、日本にも韓国にも沢山いるようです。ほんの少し考えてみればわかることなのに、どうしてこんな荒唐無稽を信じることができるのか、逆に不思議に思います。「トンイ」の続きだから、と言って、素朴に信じ込んでいるのかもしれません。(イ・サンの祖母がトンイにあたります。)

   最後に細かいあらさがしをしておきます。登場する人物は庶民も含めてカラフルな服装をしていますが、基本は生地の色の白一色です。この監督は専門家に確認したが李朝時代の庶民は割と色彩豊かな服を着ていたと主張しています。しかし、現在残されている昔の写真を見ると、一面真っ白な人々ばかりです。(ただし薄汚れてきれいな服とは言えませんが。)朝鮮に進駐してきたロシア兵たちは朝鮮人を称して「白鳥」と言っていたのですから、染められた生地で縫われた服装をしていたはずがありません。

   街中に商店街があり、品物が満ち溢れていますが、当時は背中に背負って行商する程度の商業しか発達していません。したがって商店街などあり得ません。まして、「書店」や「文房具店」があるように描かれているのは笑止千万です。文字を読めない人ばかりなのに、「書店」や「文房具店」」を開く意味がありません。

   途中何度か医者が登場しますが、官僚である両班に当たる人物が、医者に対して敬語を使っています。医者は民間では階級に所属します。宮廷内でも「中人」の身分で、両班とは比較にならない、身分的にはっきりと下になります。敬語など使うはずがありません。

   戦闘シーンも笑わせます。韓国の史劇の戦闘シーンは、現実離れしていることは前にも書きましたが、「イ・サン」では正に韓国史劇の面目躍如といったところです。刀や槍や弓矢を使った戦闘であるにも拘らず、蹴りが入ることはいつも通りなのですが、定番である前蹴りやプロレス流のジャンプしてのドロップ・キックの他、テコンドーの踵落とし、挙句の果てにはプロレス技のフランケン・シュタイナーという大技まで飛び出しています。何事にも限度というものがあると思うのですが、もしかして本当に受けを狙っているのではないかと疑ってしまいます。この分ならウエスタン・ラリアートが登場する日も近いでしょう。いや、私の知らないところですでに登場しているのかもしれません。

   これほどまでに「大盛り」な時代劇。これを称して歴史を歪曲していないという監督。韓国の史劇を見るときには、「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」を見るときと同じ気持ちで見る必要があります。日本の大河ドラマを見るときと同じ気持ちで見たりしては絶対にいけません。ましてや韓国の時代劇から何かを学ぼうなどとは決して思わないほうが良いでしょう。