梅様のその日暮らし日記

その日その日感じた事や世間で話題の事について自分なりの感想や考えを書いていきます。

MSNニュース「ウナギの人工養殖」を読んで

2017-07-30 09:44:08 | 日記
MSNニュースにこんな記事がありました。

  「ニホンウナギの稚魚であるシラスウナギの不漁が続いている。いまから6年前の2010年4月には、独立行政法人「水産総合研究センター」が、ウナギの完全養殖の実験に成功したと発表。「天然資源に依存しないウナギの生産に道を開く」のだと、この成果を「悲願」とまで表現していたのだが、いまだ完全養殖ウナギは市場に出回っていない。実用化に向けた研究は今、どこまで進んでいるのだろうか。」

  ウナギの養殖に力を入れる気持ちもわからないではありませんが、ウナギがいなくなっていった経過をこの目で身近に見て来た身としては、一言、言って置きたいことがあります。国産ウナギが激減した理由は分かり切っているのです。そこを解決するのが本筋で、私たちが取るべき道です。にも関わらず、「養殖」の道を切り開こうとするのは、大げさに言えば、人類の福祉にとって、至って好ましからざることなのです。学者の中には太平洋の彼方まで出かけて、ウナギの産卵場所を突き止めようという空しい研究をする人がいますが、はるばるマリアナ海溝まで出かけて調べる必要なんか、これっぽっちもありません。理由は簡単。ウナギが取れなくなってしまったのは、ウナギの住み家が無くなってしまったからだからです。

  私が子供の頃、地元では満潮になるとウナギの稚魚が水面すれすれで無数に泳ぎ回っており、あまりにも日常的な光景だったので、それが何なのかを知っている子供たちですら目もくれませんでした。現在四万十川に行けば、河原にテントを張って野宿しながらウナギの幼魚、私たちがメソッコと呼んでいたものを捕獲しようとして一山当てようとしている皆さんの姿があります。国産ウナギと言うのはこのメソッコを養魚池に移して成魚にまで育てたものです。

  では、失われたウナギの住み家とはどこなのでしょうか。それは、満潮になれば海水が入る、汽水地帯にあります。一昔前までは海に注ぎ込む川の河口付近には広い葦原があり、そこがウナギの生息地でした。太平洋の彼方で孵化したウナギははるばる日本までやって来て、昔はその辺に当たり前にあった湿地帯で暮らし、時が来れば再び太平洋を泳ぎ渡って、マリアナ海溝付近まで行って産卵するというサイクルを繰り返して来たのです。つまり、ウナギの成魚が暮らすのは、葦原などの湿地帯で、ウナギにとってこの湿地帯が失われたことが致命的だったのです。もっとも葛飾区などでは、水元公園あたりの湿地帯でもウナギが生息することは可能です。ウナギの適応能力はかなりのものがあります。

  しかし、湿地帯がなければウナギは生息することができません。戦後の日本は工業化に目を奪われる余り、漁業も立派な産業の一つであるということを忘れてしまい、河口の泥土地帯や葦原を大部分埋め立ててしまいました。ウナギがいなくなったことは、それに対する自然のしっぺ返しなのだと言えます。

  ちなみに私が今あげた葦原や泥土地帯は、江戸川区から千葉県にかけての、荒川放水路と江戸川に挟まれた地域を指しています。ディズニーランドがある場所も、実は「沖の百万坪」と呼ばれる、広大な葦原でした。絶滅寸前のウナギを思い描きながら、現代人は、自分達が何か大きなものを失ってはいないか、よく考えてみた方がいいと思います。難に一回か二回、人工的な作り物でしかないディズニーランドで遊ぶのと、葦原や泥土地帯でカニと戯れたりハゼ釣りをしたり、自宅から歩いて潮干狩りに出掛けられるのと、本当はどちらが幸せなのでしょうか。

  ウナギではありませんが、浦安にはかつて、実にのどかな漁法があったそうです。葦原の周囲はとても遠浅の海岸となっていました。満月の夜、その遠浅の海につま先立ちして立っていると、月光を避けて物陰に隠れようとする魚が、かかとの下に入って来るので、気配を察知したら素早くかかとを下して押さえつけ、これを捕まえるのだそうです。至ってのんびりとした、しかし心豊かな話ではないでしょうか。
   
  人口養殖ができれば、かば焼きとしてのウナギはふんだんに適正な価格で消費者の口に入るようになることでしょう。しかしそれだけで本当に問題を解決したことになるのでしょうか、と私は思うのです。

「定年後やってはいけない十戒」について

2017-07-28 10:31:49 | 日記
80歳を過ぎてもまだ現役で頑張っている、元ソニーの役員が出した本のサブタイトルが、「終わった人」になるな! です。その中で、定年後やってはいけない10戒というのが挙げられています。
私はその10戒の内、3つを破っています。

1. 学校に行くな
2. 語学の勉強をするな。
3. ジムに行くな。

まあ、厳密に言えばジムには行っていませんが、ジムに匹敵する設備を自宅に造ってしまったのだから、同じと考えていいでしょう。

冷静に考えて、これは本当にやってはいけないことなのでしょうか。私の目には、たまたま長寿と健康に恵まれた80歳の男が、自分の勝手な価値観を押し付けているだけに見えます。そもそも80歳まで生きられない人だってざらにいるというのに。

ちなみに残りの7つの戒めは、

1.資格を取るな
2.葬式に行くな
3.本を書くな
4.勲章をもらうな
5.NPOに参加するな
6.会社を創るな
7.勝負事をするな

となっています。

6.会社を創るな とありますが、著者はシーフォームという株会社の社長をしています。
7.勝負事をするな とありますが、企業とは広い意味で勝負事だと思いますが、違いますか?
1.資格を取るな 6.会社を創るな とありますが、私の知り合いは定年退職してからも中国語の学校に通い続け、中国語の勉強をしています。北京へ3か月の語学留学もはたしました。最近は宅建の資格を取り、自分で不動産屋を開業しました。毎日がとても充実して、見た目も私と違ってとても若々しい人です。恐らく老けた40代に見えます。
2.葬式に行くな とありますが、そんな訳にはいかないでしょう。できるとしたら、年賀状を出すことを止める程度です。
5.NPOに参加するな とありますが、普通の人はそんなものに参加しません。
4.勲章をもらうな に至っては、そもそも普通は貰える理由すらないのですから、何ゆえにわざわざ項目として挙げるのかさえ意図不明です。

   誰しもが、自分が生きて来た世界、自分が現在生きている世界の中でしかものを考えることはできません。ソニーの社長の座をかけて争ったこともあるような人間が、世間一般の定年退職者に訓示を垂れるような本を出しても、汎用性はないように思います。そもそも3.本を書くな、と自分で主張していますが、たとえ80歳を過ぎていても、まだ現役の社長で退職した訳ではないから、書いても構わない、ということなのでしょうか。

   恐らくこの本は、そこそこのベストセラーになるのだろうと思います。しかし、老後に関して大事なのは、自分の頭で考え、自分がやりたいことを見つけて、それに打ち込めるということです。老人にとって最も必要なのは、生きて行くための目標そのものだからです。そのために、体力づくりの一環としてジムを選ぶならそれも良し、外国語の学校へ行くのもまた良し、なのではないでしょうか。

部活中の水分補給について

2017-07-20 14:37:57 | 日記
SNS上でこんな投稿を見つけました。


部活中に水分補給や避暑させず!
根性論でテニスをやらせまくった結果。
美少女が脳障害をおこして訴訟!
胸糞悪いな!
リンク先にムービーあるよ。
もうたまらないね。
根性論一番嫌い。根性論で体育大にいった人たちが教師になったからなるべくしてなったか!
しかし教師はすいませんでした!でおわりだもんな、、、胸糞!
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
http://fesoku.net/archives/8886512.html
泣いてそら訴訟するよな。たまらん。
脳はデカイタンパク質だからね、、、
固まったらもとにはもどらんのだよ、、、

どことは申しませんが、日本で一番体育教師を供給している〇体大は、非科学的で根性論の塊なんです。首にはなりたくないからほどほどにしておく、という自己保身的な考えで結構ですから、程度というものを考えましょう。


ちなみに私は陸上部の顧問をしていましたが、季節を問わずグランドには大きなポットを常備し、水分は取り放題にしていました。飲み過ぎれば動きにくくなりますから、選手たちもやたらに飲んだりはしないものです。水を飲み過ぎて動きにくくなったところで、後に障がいが残る訳ではありませんし。

何分間に一度休憩時に強制的に水分補給をさせるというのも、良心的なようでいて、実は危険な行為です。汗っかきとそうでない人間がいます。水分の必要性は、個人差が激しいのです。全国の運動部顧問の皆さん、「水は自分が必要だと思った時にすかさず飲め!」という指導がベストなのです。団体競技ではそうはいかないことはわかっていますが、それでも、ベストなのがこの方式であることには間違いありません。何しろ若い命とこの先一生付き合っていかなければいけない体がかかっているのですから。

五寸釘穂波と負のループ

2017-07-18 16:18:32 | 日記
   「ほっかい新聞」に五寸釘ほなみこと西穂波(20)の特集記事が掲載されてから数日が経ちました。掲載されたのは16日のことですが、その直後、私のブログにもアクセスする方が多数。以前彼女について書いた内容をネットで検索してたどりついたようです。そこで、せっかくですので、彼女について改めて書いてみることにします。

   「ほっかい新聞」に掲載されたインタビュー内容を見ると、彼女の知識と認識が相変わらず自分勝手でお粗末なものであることは否定できません。まず、「自身も経済的理由でやりたいと思った習い事ができなかったり、高校も公立しか選択肢にないなど経済的な困難さを体験してきました。」とありますが、これなど彼女の認識の甘さを露呈する考え方でしかないことは明らかです。

   本当の貧しさというものは、修学旅行に行く費用が積み立てられないとか、給食費が払えないとか、最低でもそうしたレベルのことを指します。習い事が出来ないくらいで貧乏面されたのでは本当の貧乏人が怒り出します。まして、公立高校しか選択肢がないなど、お笑い草と言っても差し支えないでしょう。通常、皆さんは自動的に公立高校への進学を選びます。私立高校を選択するのは、学力が公立に合格する水準に達していないか、あるいは抜群の偏差値の持ち主で、特別ハイレベルの私立進学校へ進みたいかの、いずれかです。

   しかも彼女は高校卒業が近づき周りが次々と進路を決めて行く中で、ろくに勉強もせず、当然入試には失敗しています。彼女はこれを「何のためにお金をかけてまで進学するのか、何のために頑張るのかわからずに受験勉強へのモチベーションが続かず」と言い逃れていますが、どう考えてもこれは後付けの理屈でしょう。公立高校しか進学の選択肢がなかったとぼやくほど意識が高かった人間が言うべき言い訳ではありません。彼女は高校の三年間をかけて真剣に先々のことを考える努力を、自ら怠ったに過ぎません。要はその日その日をいい加減に過ごしていたという事の証なのです。この点は、元高校教師としての経験から、断言できます。

   「そうした過去を振り返って、「ループだな」とつぶやきました。」穂波ちゃん、いい言葉を覚えましたね、と誉めてやりたいところですが・・・「これが貧困のループなんだって今わかった。」という一言で、何だやっぱり何もわかっちゃいないではないか、と思いました。

     貧困のループとは、経済的に恵まれない家庭の子供たちが進学その他の面で豊かな家庭の子供たちとの競争に敗れ、親と同じ経済的レベルかそれ以下のの人生を送る羽目になることを指します。このループを断ち切るには、本人の自覚と多大な努力が必要となります。分かりやすい例が、秋田県の片田舎から上京して新聞奨学生として大学を卒業し、公立高校の教師となった同僚の話でしょうか。

    私の教え子は私の勧めに従い、卒業後は午前中受験勉強をし、午後からはコンビニでレジのバイトをするという生活を一年間続け、無事大学に進学しました。予備校に行かなければ合格しないという教師もいましたが、母子家庭で木造アパートに一間に住んでいる身としては、そんな余裕は到底ありません。進学後も連日バイトに明け暮れる生活は続きました。

    私の兄も、高校卒業後とりあえずいったん就職し、傍ら大学の通信課程で学びつつ資金を貯め、編入試験を受けて昼間部に転部し、昼間部の卒業生として就職を果たしました。兄は工場の現場で三交代勤務をしていました。寮は勉強する環境では無かったので、表に出て街灯の明かりで勉強したそうです。

    そして、兄の姿を目の当たりにしていた私は、電車で6駅という、交通費が最小限で済む国立大学一本に絞って猛勉強し、無事合格しました。授業料が年間6万円という、当時の物価を考えても破格の待遇でした。貧乏な家でしたので、夜は零下7,8度に下がる暖房のない部屋でじっと耐えながら勉強しましたが、眠ろうと布団に入ると、布団のあまりの冷たさに全身ががくがくと震え、布団に温めてもらうどころか、まずは自分の体温で布団を温め、30分ほどかけてようやく温まってから眠りについたものです。

   そんな自分の体験からしても、この子は何と自分に甘い性格なのだろうと感じます。何の努力もせずに、政治が悪いとデモをかけ、叫ぶことにこの数年を費やして来ました。若くてそこそこ可愛い女の子でもあるためか、マスコミの取り上げるところとなり、ジャンヌ・ダルクめいた扱いを受けるようになってしまいましたが、それもまた彼女の考え方をゆがめる一因となったことは想像に難くありません。

    「これが貧困のループなんだって今わかった。」という言葉は、更に「だからこそ安倍政権を変えなければいけない。」という言葉につながって行きます。私の知る範囲の、貧困のループから脱出し、ささやかながらも親の代よりは恵まれた暮らしを送っている人たちは、皆自己責任で努力を重ねました。誰一人、自分が貧しいのは首相や政府の責任だなどと考えた人はいません。人のせいにしていては、何も解決しないから、自分自身が人並み以上に苦労し、努力しなければならなかった、しかしだからこそ今日の自分があるというのが、彼らの共通認識なのです。

    既に知られている彼女の青春を振り返ると、こうなります。高校時代、自らの将来について、何も考えずに漠然と過ごした。卒業後は進学のために浪人しているはずが、デモや集会に明け暮れて、勉強などしてこなかった。ついには妊娠し、シングルマザーへの道を選択した。

   これは高校教師として私が知る、負の連鎖の典型的な例の一つです。満足な収入源を持たないまま生活している間に無計画に妊娠し、母親となってしまい、生きて行くのがやっとの生活を送り始める・・・。彼女はある程度知名度があるので、ネット上では彼女に対する厳しい言葉が寄せられています。

 こいつ絶対「保育園落ちたの私だ、日本死ね!」って言うぞ。とか、

 こんな奴が生活保護を受けるのかよ。ふざけんなよ!とか・・・。

   私も、彼女はこういわれても仕方がないと思います。彼女は結局何も考えず、ちょっとカッコよさそうな政治運動に加わることによって更に流されてしまい、自分にとって何が大切なのかを一層分からなくさせてしまったのだとおもいます。

   思えば彼女はツイッターでつぶやいたあのたった一言のために時の人となり、全国にその名を轟かせ、テレビにまでも登場するに至りました。そして今もなお、地方の左翼系新聞では英雄的に、好意的に大きく取り上げられています。


  「安倍、お前の体中の穴という穴に五寸釘ぶち込んでやるぞ!」

   多少記憶違いがあるかもしれませんが、ほぼこんな言葉であったと思います。言葉というものは発せられた途端に独り歩きを始めます。この言葉がきっかけとなり、彼女に対するイメージは全国的にゆるぎないものとなりました。

   ああ、彼女のこの言葉さえなかったら・・・。もしかしたら彼女も当たり前の20歳として、少しはましな、堅実な青春を歩んでいたのかもしれないと思うと、私はとても残念でなりません。彼女もまたマスコミが作り上げた虚像に自分を重ね合わせて生きて行かねばならなくなってしまったのですから。

   せめてまともに赤ちゃんを育てていく、平凡なシングルマザーになって欲しいと願って止みません。間違っても父親でない男と同棲を初めて実の子を虐待したり、乳飲み子の胸を踏んづけて心臓破裂で死に至らしめたりするような破局を迎えないことを祈ります。




リカちゃん人形

2017-07-17 17:35:53 | 日記
   私は男の4人兄弟ですし、これが出来た時にはもういい大人でしたから、こんなものとは無縁の世界で生きて来たのですが・・。

   今日、リカちゃん人形の記念パーティが開催されたという話ですね。25年前に製造された限定版に、25年後に記念パーティを開催するので、希望者は申し込んでおいてくださいという申込書が入っていたらしいです。

   既に亡くなったお父さんが内緒で申し込んでいたので、招待状が届いてびっくりとか、それぞれに物語があるというお話でした。

   ちなみにリカちゃん人形の靴は脱がせることが出来ますが、なめると恐ろしく苦いのだそうです。赤ちゃんが間違って飲み込まないようにというきめ細かい配慮。やはりリカちゃん人形には、日本人の心が吹き込まれているのかもしれません。

まるでイメージに合わない話を書いてしまいました。