梅様のその日暮らし日記

その日その日感じた事や世間で話題の事について自分なりの感想や考えを書いていきます。

ネットの記事には要注意

2016-07-30 11:31:39 | 日記
  最近つくづく思うのは、世の中、余りにも無知な人が多すぎるということです。無知な人が一定の割合で存在することは避けられず、昔からいましたし、これからもいなくなることはあり得ない訳ですが、問題は、インターネットの発達の結果、こうした無知な人たちにも平等に発言の機会が与えられるようになったために、自分の知らなさ加減に気が付かず、ネット上に記事をアップする人が増えて来たことです。

   無知なら無知で、自分の勘違いを指摘されたところで素直に引き下がってくれれば誰も傷つかずに済むのですが、あいにくこうした人たちにはそういう謙虚さが欠けていることを痛感します。私は元の職業柄、ついつい間違いを教えてあげてしまったりするのですが、返って来るのは概ね逆切れでしかありません。人はどうしても自分が知っている知識の範囲だけで白黒つけてしまいます。それまで知らなかった側面から指摘を受けても、簡単に軌道修正はできないようです。

   こうした人たちは、最初は自分が持っている知識で戦おうとし、やる気満々で相手を論破しようとするのですが、いくらなんでもやり取りをしている内に、どうも負けているらしいと感じ始めます。そういう時は、こちらが上から目線で物を言っているとか、偉ぶっているとか、本質的な問題とは別の次元での攻撃をして来るので、すぐにわかってしまいます。本人は得意満面で投稿しているのに、いとも簡単に論破されてしまうのですから、その気持ちもわからないではないのですが、何しろその人の勝手な思い込みによって大勢の人が傷ついたり、不快な思いをしてしまうわけですから、とりあえずは説得を試みるしかありません。

   この数日の間に見つけた無知の例を挙げてみます。これは特に誰が傷つくといくことも無い事例ですが、少々無知の度が過ぎるのです。内容から言って、かなり若い人の投稿だという気がします。 Uチューブ上に画像を上げ、大変熱心に記事を書いています。同じテーマの物がいくつもアップされているので、おそらく同一人物の手によるものと思われます。いずれも、知られざる世にも恐ろしい事実…的な取り上げ方をしています。

   その一つ、「いとこ同士の結婚」というものがありました。どうやら知り合いがいとこ同士で結婚したらしいのですが、投稿者はこれを世にもおどろおどろしい、人間としてあってはならない出来事だとして取り上げているのです。確かに近親結婚は劣性遺伝が表に出て来ることがあるので好ましい事ではないのですが、いとこ同士の結婚は、法的にも認められており、世間にはいくらでもあることです。私の教え子でも、巡り巡って、結局いとこと結婚した子もいます。昔高麗では王室の血統を守るために腹違いの王子と王女が結婚するのが当たり前に行われていました。同様の理由で古代エジプトでは同腹の王子と王女が結婚したりしていましたが、そうしたイメージでいとこ間の結婚を捉えているようでした。
まあ、世間知らずの可愛い投稿の内だと言えるかもしれません。

   もう一つ、こちらもおどろおどろしい歴史上の事実として書かれているのですが、その内容と言うのが、

「なんと江戸時代の長屋は、便所がそれぞれの家についておらず、離れたところに立っていた。」

「農家がその便所へくみ取りに来て、畑にまいて肥料としていた。」

   というもの。正直、小学生か?とあきれてしまうのですが、江戸時代の日本における後進性・野蛮な生活ぶりを突き止めたつもりか、実に得意げにあおりながら記事を書いています。万一ご存知ない方がいらっしゃるといけないので念のため書いておきますが、江戸の長屋の便所が別棟で立っていた時代、ヨーロッパはどうだったか。トイレ自体無かったのです。ベルサイユ宮殿の庭には植え込みがいくつもありますが、華麗なドレスを身にまとったレディーたちが、便意を催すとその植え込みの陰にしゃがんで用を足すためのものなのです。あの釣鐘状態の広がったドレスの裾は、そのまましゃがめば用を足していても外からは見ることができないという優れものだったのです。

   トイレがないということは、部屋の中に壺があって、その中に用をたすということです。朝になると、外に向かって気を付けるように一声かけ、窓から外の通りに向かって壺の中身をぶちまけます。ヨーロッパの都会の道路は、かくも不衛生なものだったのです。そのせいでヨーロッパはペストなどの伝染病がおおやはり。実に不衛生な場所だったのです。同時代の日本は、江戸の長屋のように、トイレは別棟。ヨーロッパと比較して、何と優れた衛生観念だったのでしょう。長屋だけでなく、農家もトイレと風呂は別棟でした。

   ついでに付け加えますと、多くの方がご存知の通り、便所からくみ取ったものを畑に撒くということは、江戸時代限定の風習ではありませんね。私は生まれも育ちも東京ですが、東京でも昭和の半ばくらいまでは、農家の人が下肥をくみ取りに来て、それを畑にいていました。それぞれの農家は「こえため」という大きな木製の桶を畑の片隅に埋め込んでおき、くみ取って来た下肥をその中にためて、しばらく発酵させてから使用していたものです。バキュームカーがやって来てくみ取って行くようになっても、今度はバキュームカーが蓮田に直接乗り入れて、蓮の成長に欠かせない濃厚な窒素肥料として、タンクの中身をぶちまけていました。風の強い日、うっかり風下を歩いたために、かわいそうな私は頭からその飛沫を浴びてしまったこともありました・・・・。汚いなど言うなかれ。江戸時代にはまだ化学肥料などなかったのですから。
  
  最近つくづく思うのは、世の中、余りにも無知な人が多すぎるということです。無知な人が一定の割合で存在することは避けられず、昔からいましたし、これからもいなくなることはあり得ない訳ですが、問題は、インターネットの発達の結果、こうした無知な人たちにも平等に発言の機会が与えられるようになったために、自分の知らなさ加減に気が付かず、ネット上に記事をアップする人が増えて来たことです。

   無知なら無知で、自分の勘違いを指摘されたところで素直に引き下がってくれれば誰も傷つかずに済むのですが、あいにくこうした人たちにはそういう謙虚さが欠けていることを痛感します。私は元の職業柄、ついつい間違いを教えてあげてしまったりするのですが、返って来るのは概ね逆切れでしかありません。人はどうしても自分が知っている知識の範囲だけで白黒つけてしまいます。それまで知らなかった側面から指摘を受けても、簡単に軌道修正はできないようです。

   こうした人たちは、最初は自分が持っている知識で戦おうとし、やる気満々で相手を論破しようとするのですが、いくらなんでもやり取りをしている内に、どうも負けているらしいと感じ始めます。そういう時は、こちらが上から目線で物を言っているとか、偉ぶっているとか、本質的な問題とは別の次元での攻撃をして来るので、すぐにわかってしまいます。本人は得意満面で投稿しているのに、いとも簡単に論破されてしまうのですから、その気持ちもわからないではないのですが、何しろその人の勝手な思い込みによって大勢の人が傷ついたり、不快な思いをしてしまうわけですから、とりあえずは説得を試みるしかありません。

   この数日の間に見つけた無知の例を挙げてみます。これは特に誰が傷つくといくことも無い事例ですが、少々無知の度が過ぎるのです。内容から言って、かなり若い人の投稿だという気がします。 Uチューブ上に画像を上げ、大変熱心に記事を書いています。同じテーマの物がいくつもアップされているので、おそらく同一人物の手によるものと思われます。いずれも、知られざる世にも恐ろしい事実…的な取り上げ方をしています。

   その一つ、「いとこ同士の結婚」というものがありました。どうやら知り合いがいとこ同士で結婚したらしいのですが、投稿者はこれを世にもおどろおどろしい、人間としてあってはならない出来事だとして取り上げているのです。確かに近親結婚は劣性遺伝が表に出て来ることがあるので好ましい事ではないのですが、いとこ同士の結婚は、法的にも認められており、世間にはいくらでもあることです。私の教え子でも、巡り巡って、結局いとこと結婚した子もいます。昔高麗では王室の血統を守るために腹違いの王子と王女が結婚するのが当たり前に行われていました。同様の理由で古代エジプトでは同腹の王子と王女が結婚したりしていましたが、そうしたイメージでいとこ間の結婚を捉えているようでした。
まあ、世間知らずの可愛い投稿の内だと言えるかもしれません。

   もう一つ、こちらもおどろおどろしい歴史上の事実として書かれているのですが、その内容と言うのが、

「なんと江戸時代の長屋は、便所がそれぞれの家についておらず、離れたところに立っていた。」

「農家がその便所へくみ取りに来て、畑にまいて肥料としていた。」

   というもの。正直、小学生か?とあきれてしまうのですが、江戸時代の日本における後進性・野蛮な生活ぶりを突き止めたつもりか、実に得意げにあおりながら記事を書いています。万一ご存知ない方がいらっしゃるといけないので念のため書いておきますが、江戸の長屋の便所が別棟で立っていた時代、ヨーロッパはどうだったか。トイレ自体無かったのです。ベルサイユ宮殿の庭には植え込みがいくつもありますが、華麗なドレスを身にまとったレディーたちが、便意を催すとその植え込みの陰にしゃがんで用を足すためのものなのです。あの釣鐘状態の広がったドレスの裾は、そのまましゃがめば用を足していても外からは見ることができないという優れものだったのです。

   トイレがないということは、部屋の中に壺があって、その中に用をたすということです。朝になると、外に向かって気を付けるように一声かけ、窓から外の通りに向かって壺の中身をぶちまけます。ヨーロッパの都会の道路は、かくも不衛生なものだったのです。そのせいでヨーロッパはペストなどの伝染病がおおやはり。実に不衛生な場所だったのです。同時代の日本は、江戸の長屋のように、トイレは別棟。ヨーロッパと比較して、何と優れた衛生観念だったのでしょう。長屋だけでなく、農家もトイレと風呂は別棟でした。

   ついでに付け加えますと、多くの方がご存知の通り、便所からくみ取ったものを畑に撒くということは、江戸時代限定の風習ではありませんね。私は生まれも育ちも東京ですが、東京でも昭和の半ばくらいまでは、農家の人が下肥をくみ取りに来て、それを畑にいていました。それぞれの農家は「こえため」という大きな木製の桶を畑の片隅に埋め込んでおき、くみ取って来た下肥をその中にためて、しばらく発酵させてから使用していたものです。バキュームカーがやって来てくみ取って行くようになっても、今度はバキュームカーが蓮田に直接乗り入れて、蓮の成長に欠かせない濃厚な窒素肥料として、タンクの中身をぶちまけていました。風の強い日、うっかり風下を歩いたために、かわいそうな私は頭からその飛沫を浴びてしまったこともありました・・・・。汚いなど言うなかれ。江戸時代にはまだ化学肥料などなかったのですから。
   ネットに投稿される記事は、案外大したことはありません。新発見とばかり投稿される記事の内容が、私などが何年も前から知っている古臭い話であることが多いのです。それでもその話を初めて知った人たちが、実は自分だけが知らなかったかも知れない話を新発見だと思って投稿してしまうのですね。まあ、それはそれで実害はないので、私もそんな記事にまでどうこうコメントを寄せたりはしません。問題は一部の人たちが大いに傷つく投稿を問題提起のつもりでやらかし、実はその内容が正確とは言えない人たちがかなり多いということ、間違いを指摘しても絶対に認めようとしないこと、その点にあります。
  最近つくづく思うのは、世の中、余りにも無知な人が多すぎるということです。無知な人が一定の割合で存在することは避けられず、昔からいましたし、これからもいなくなることはあり得ない訳ですが、問題は、インターネットの発達の結果、こうした無知な人たちにも平等に発言の機会が与えられるようになったために、自分の知らなさ加減に気が付かず、ネット上に記事をアップする人が増えて来たことです。

   無知なら無知で、自分の勘違いを指摘されたところで素直に引き下がってくれれば誰も傷つかずに済むのですが、あいにくこうした人たちにはそういう謙虚さが欠けていることを痛感します。私は元の職業柄、ついつい間違いを教えてあげてしまったりするのですが、返って来るのは概ね逆切れでしかありません。人はどうしても自分が知っている知識の範囲だけで白黒つけてしまいます。それまで知らなかった側面から指摘を受けても、簡単に軌道修正はできないようです。

   こうした人たちは、最初は自分が持っている知識で戦おうとし、やる気満々で相手を論破しようとするのですが、いくらなんでもやり取りをしている内に、どうも負けているらしいと感じ始めます。そういう時は、こちらが上から目線で物を言っているとか、偉ぶっているとか、本質的な問題とは別の次元での攻撃をして来るので、すぐにわかってしまいます。本人は得意満面で投稿しているのに、いとも簡単に論破されてしまうのですから、その気持ちもわからないではないのですが、何しろその人の勝手な思い込みによって大勢の人が傷ついたり、不快な思いをしてしまうわけですから、とりあえずは説得を試みるしかありません。

   この数日の間に見つけた無知の例を挙げてみます。これは特に誰が傷つくといくことも無い事例ですが、少々無知の度が過ぎるのです。内容から言って、かなり若い人の投稿だという気がします。 Uチューブ上に画像を上げ、大変熱心に記事を書いています。同じテーマの物がいくつもアップされているので、おそらく同一人物の手によるものと思われます。いずれも、知られざる世にも恐ろしい事実…的な取り上げ方をしています。

   その一つ、「いとこ同士の結婚」というものがありました。どうやら知り合いがいとこ同士で結婚したらしいのですが、投稿者はこれを世にもおどろおどろしい、人間としてあってはならない出来事だとして取り上げているのです。確かに近親結婚は劣性遺伝が表に出て来ることがあるので好ましい事ではないのですが、いとこ同士の結婚は、法的にも認められており、世間にはいくらでもあることです。私の教え子でも、巡り巡って、結局いとこと結婚した子もいます。昔高麗では王室の血統を守るために腹違いの王子と王女が結婚するのが当たり前に行われていました。同様の理由で古代エジプトでは同腹の王子と王女が結婚したりしていましたが、そうしたイメージでいとこ間の結婚を捉えているようでした。
まあ、世間知らずの可愛い投稿の内だと言えるかもしれません。

   もう一つ、こちらもおどろおどろしい歴史上の事実として書かれているのですが、その内容と言うのが、

「なんと江戸時代の長屋は、便所がそれぞれの家についておらず、離れたところに立っていた。」

「農家がその便所へくみ取りに来て、畑にまいて肥料としていた。」

   というもの。正直、小学生か?とあきれてしまうのですが、江戸時代の日本における後進性・野蛮な生活ぶりを突き止めたつもりか、実に得意げにあおりながら記事を書いています。万一ご存知ない方がいらっしゃるといけないので念のため書いておきますが、江戸の長屋の便所が別棟で立っていた時代、ヨーロッパはどうだったか。トイレ自体無かったのです。ベルサイユ宮殿の庭には植え込みがいくつもありますが、華麗なドレスを身にまとったレディーたちが、便意を催すとその植え込みの陰にしゃがんで用を足すためのものなのです。あの釣鐘状態の広がったドレスの裾は、そのまましゃがめば用を足していても外からは見ることができないという優れものだったのです。

   トイレがないということは、部屋の中に壺があって、その中に用をたすということです。朝になると、外に向かって気を付けるように一声かけ、窓から外の通りに向かって壺の中身をぶちまけます。ヨーロッパの都会の道路は、かくも不衛生なものだったのです。そのせいでヨーロッパはペストなどの伝染病がおおやはり。実に不衛生な場所だったのです。同時代の日本は、江戸の長屋のように、トイレは別棟。ヨーロッパと比較して、何と優れた衛生観念だったのでしょう。長屋だけでなく、農家もトイレと風呂は別棟でした。

   ついでに付け加えますと、多くの方がご存知の通り、便所からくみ取ったものを畑に撒くということは、江戸時代限定の風習ではありませんね。私は生まれも育ちも東京ですが、東京でも昭和の半ばくらいまでは、農家の人が下肥をくみ取りに来て、それを畑にいていました。それぞれの農家は「こえため」という大きな木製の桶を畑の片隅に埋め込んでおき、くみ取って来た下肥をその中にためて、しばらく発酵させてから使用していたものです。バキュームカーがやって来てくみ取って行くようになっても、今度はバキュームカーが蓮田に直接乗り入れて、蓮の成長に欠かせない濃厚な窒素肥料として、タンクの中身をぶちまけていました。風の強い日、うっかり風下を歩いたために、かわいそうな私は頭からその飛沫を浴びてしまったこともありました・・・・。汚いなど言うなかれ。江戸時代にはまだ化学肥料などなかったのですから。

   ネットに投稿される記事は、案外大したことはありません。新発見とばかり投稿される記事の内容が、私などが何年も前から知っている古臭い話であることが多いのです。それでもその話を初めて知った人たちが、実は自分だけが知らなかったかも知れない話を新発見だと思って投稿してしまうのですね。まあ、それはそれで実害はないので、私もそんな記事にまでどうこうコメントを寄せたりはしません。問題は一部の人たちが大いに傷つく投稿を問題提起のつもりでやらかし、実はその内容が正確とは言えない人たちがかなり多いということ、間違いを指摘しても絶対に認めようとしないこと、その点にあります。

身障者施設の大量殺人事件について

2016-07-29 14:22:37 | 日記
   障害者施設での大量殺人に関して、施設側の警備体制や事前指導が足りなかったのではないかという、至極まっとうな疑問を投稿した人がいました。何しろ犯人は義理堅くも事前予告通りのやり方で犯行に及んだのにも関わらず、施設職人は事前通告通りに縛られ、自薦予告通りに殺戮が進んで行ったのですから、施設側の手抜かりは指摘されてしかるべきです。もしや、職員に対しては危害を加えないという通告があったので、何ら抵抗をしなかったのかもしれません。

   この投稿に対して、「上から目線でけしからん。」「急な出来事で対処しようが無かった。」その他、投稿者をこっぴどく非難するコメントが沢山寄せられていました。これを読んで私は、日本はもはや総無責任体制になったのだと感じました。投稿者に対して手ひどいコメントを寄せた皆さんは、これが身障者の施設ではなく、乳幼児を預かる施設であったとしても、同じことを言って投稿者に対して逆切れしたのだろうかと、問いかけてみたくなります。
   
   乳幼児でも障害者であっても、自力で逃げ出したり脱出したりできないという条件は同じです。しかし、投稿者をいたぶった人たちは、乳幼児を収容した施設であったなら、全く別の事を言ったに違いありません。なぜ施設の職員は子供たちを助けようとせず、見殺しにしたのかと。

   あの施設で異常な言動を重ねていた旧職員が、解雇された後、入居者を全て殺害に行くと予告していたにもかかわらず、対応策が全く出来ていなかったというのは、自分ではまともに動けない障害者の命を預かる身としては、あまりにも無責任過ぎるでしょう。しかも外部に連絡したのは男性職員で、恐ろしさのあまり、身を隠して、外部の人間にLINEしたのだというではありませんか。目の前で次々と人命が奪われている時に、わが身の安全を優先して、無音のLINEを利用し、LINEの相手先の人物に言われるまで、110番に通報はしなかったのです。ではないのです。しかも当直は全部で8人も!いたのに、みんな素直に縛られていたというのは一体どういうことなのでしょう。

   更に言うなら、アメリカのコンビニで、一人で店番していた女店員が、ピストルや刃物を突き付けた強盗を追い払ったという画像がよく紹介されるではありませんか。相手が刃物を持っていたら、椅子で制圧してやろうというくらいの根性を見せる男がなぜいなかったのか、疑問です。あるいは窓ガラスをたたき割って屋外に逃れ、近所に助けを求めようという発想がなぜ湧かないのか、結局わが身大事に終始したということではありませんか。それをみんなでかばい、不手際を指摘した人を言論で袋叩きにするとは、世も末だというしかありません。

   繰り返しになりますが、この論法が通るなら、小学校に凶器を持った通り魔がやって来て、児童たちを次々とめった刺しにしている時に、頼るべき先生たちが子供たちの命を救うことなく安全な場所に身を隠していても構わないということになります。本当に情けなく思います。

人肉食と原発

2016-07-28 11:47:59 | 日記
人肉食シリーズがなぜ原発と結びつくのか・・・まあ、お読みください。

都知事戦に立候補している鳥越俊太郎氏は、都政というよりは国のレベルでないと取り組めない問題ばかりを提起しています。世間で言われているように本当にぼけてしまったのか、あるいは今の立場を利用して発言しておこうということなのか、そのあたりは見当もつきませんが、従来からの私の主張を繰り返すなら、原発は廃止どころか、大幅な増設が必要なのです。

もちろん安全性を確保することが大前提になるので、その点は厳しいところですが、現時点ではこれに代わる大規模な発電方法は有り得ません。ただ、福島原発も震災によって事故が発生したわけではなく、津波に対する備えが甘かったことが原因ですので、安全性を確保する方法はあるはずです。また、将来に渡って、より安全な原発を開発していく必要もありますが、とにかく原発は必要不可欠なのです。

まず、従来からのお話を復習しておくと、もうしばらくすると、地球規模で小氷期がやって来ることがわかっています。屋外での農業が難しくなり、屋内で照明による工業生産的な農業を行う準備が必要です。日本の場合、小氷期には隅田川や淀川が凍り付き、川面を歩いて渡れるほどの寒さになるので、家庭やオフィス、学校等での電力需要が跳ね上がることに加えて、農業生産においても莫大な電力を必要とされる事態になり、電力は無限と言っていいほど作らなければならないのです。

実は、アイスランドの農業がこの問題を象徴的に物語っています。アイスランドは気温が低いために、国民の食卓に上る野菜類は、全て地熱を利用した温室栽培でまかなっています。何しろ人口が30万人台なので、火山の地熱でこれを賄うことができるのです。これは、気温が下がれば温室や屋内での人工的な管理がないと農業ができないという証拠になるのです。

では、過去の記録から予測可能な将来の小氷期にじわじわと備えていれば十分なのかと言うと、それがそうではないから困るのです。そこが、原発の増設が必要な、切実な理由です。4万7千年ほど昔、インドネシアで火山の大噴火があった際は、地球の平均気温が10数度下がったそうです。もしこれと同じことが起これば、東京の8月の気温が15度ということになります。これでは稲作も一般的な農業も不可能です。

大変困ったことに、これは、明日予告なしにいきなり起こるかもしれない自然現象なのです。小氷期を待たずとも、どこかで突発的に大規模な噴火があれば、農業は壊滅的な打撃を受けます。近い所では、江戸時代に浅間山が噴火した時には、気温の大幅な低下により、大飢饉が発生し、東北地方などでは、飢えた人々が生き延びるために人間の肉を口にしました。極限の飢餓状態に追い込まれれば、人間はほぼ自動的に互いに共食いを始めることは、過去の歴史が証明しています。必ずやって来る小氷期、あるいは明日起こるかもしれない火山の大噴火による急激な気温の低下、これらは万が一予測できたとしても防ぐことは出来ない現象です。人間に出来ることは、備えを固めておくことだけなのです。

太陽光発電に浮かれている人たちは、火山が大噴火したら火山灰が空を覆い、曇天が続くために、太陽光発電は用をなさなくなることも忘れてはなりません。小氷期もまた雪の日が増えるために、同様な現象が起きます。原発廃止を唱ええる人たちの気持ちは、心情的には理解できるのですが、しかしあまりにも理性を欠いた無責任な主張だと言わざるを得ないのです。

私の主張は、安全性を高める研究を重ねつつ原発を着実に増設し、余剰電力を確保しておくということに尽きます。世界規模で気温が低下すれば、化石燃料の需要が急増し、必要量を確保できなくなる恐れがあります。また、いずれは使い尽くしてしまうことがわかっている化石燃料は、地球規模の寒冷化に対しては無力だと言えるでしょう。

将来人間同士共食いをしたくなかったら、原発は維持、増設しなければなりません。

在日韓国人の顔

2016-07-27 18:15:09 | 日記
   傲慢と無知②で、概ね書き尽くしたのですが、その後もかの投稿者のかたくなさは変わることなく続いているようです。投稿者が在日韓国人の特徴であるとした顔をお持ちの日本人の方から、まだ苦情のコメントが寄せられていましたが、投稿者は頑として姿勢を変えようとしません。そもそも30数回渡韓した経験から、そんな顔をした韓国人の方が少数派だと指摘しても、相変わらず意地をはり続ける人なのですから、もはや何とかに付ける薬は無いという言葉が残るのみです。

   皆さんがそうした人種差別的な決めつけを受け入れないことを祈るのみですが、あと二つだけ、私が投稿者の投稿内容を受け入れない理由を述べさせていただきます。

   まず、継続してお読みくださっていらっしゃる方ならご存知の通り、私は38年間都立高校で英語の教師をして来ました。当然、数多くの在日韓国人の子弟が入学し、卒業していきましたが、その中で、一目見て韓国人だと区別がつくような生徒は一人もいなかったのです。家庭環境調査票で確認しない限り、日本人と在日韓国人の区別などつかないのです。

   また、在日韓国人の中には、共産党狩りで大虐殺が行われた済州島から難を逃れて日本に非難してきた「難民」が大変多く含まれています。済州島は私も行きましたが、韓国本土とは気風がかなり違っています。昔は言語自体別々だったそうですが、島民の性格には半島の韓国人に見られるような荒々しさは無く、そのおっとりとした性格を見ていると、半島が北方系の人間から構成されているのに対して、済州島は南方系の人間で構成されているのではないかという思いが頭をもたげて来ます。

   当然のように、済州島の住民の顔には、吊り上がった細い目、飛び出した頬骨、エラの張った顎という特徴は見られません。従って、済州島出身者の割合が高い日本国内では、韓国本土よりも更にこの手の顔つきを持った人の割合は低いということになります。

   皆さんが、興味本位で書き込まれる事実とは異なる情報に汚染されないことを祈るものです。

   

   
 

小笠原における食人事件

2016-07-26 07:14:46 | 日記
  先日触れた、日本人兵士の餓死について、舞台を限って、もう一度触れたいと思います。ただし、戦争をすればこういう悲劇が起こるから憲法9条を守れ、という方向性ではありませんので、念のため。

   この問題については、奇しくも「餓島」という略称を与えられたガダルカナルが有名ですが、何となくのどかであったのではないか、と、つい思いがちな、小笠原限定で書きます。

   昭和20年、終戦の年に入るころには、既に制海権を完全に米軍によって握られていた小笠原は、全く補給を受けることが出来なくなっていました。当然、ひどい食糧不足が生じます。島にはアフリカマイマイという巨大なカタツムリが恐ろしいほど繁殖していたはずですが、味が悪くて食用にならなかったといいます。

   そして昭和20年2月、司令部の会議において、立花という将軍が、食料弾薬は欠乏し、ついには餓死した戦友まで食べねばならなくなるだろう。敵兵の肉は食わねばならぬと発言したとあります。捕虜にした米兵は全て死刑とし、これを食うことを方針にしたのです。

   奇妙なことに、現地では食料不足の中、サトウキビを原料とした焼酎はあり、米軍の捕虜を処刑してその肉を試食した際には、その焼酎一斗が消費されたとあります。サトウキビそのものは茎を噛めば甘いので、食用になったのではないかと思いますが、そんな中でも焼酎を作っていたというのは、人間の悲しい性というべきでしょうか。

   同年2月23日、日本軍は米軍機の撃墜に成功、落下傘で脱出した米兵10人をとらえ、捕虜としました。内2人は本土に送り、残りの8人を処刑してその肉を試食したというのです。この時の経緯については、的場少佐という人の尋問調書が残っています。

   実は私の義父が小笠原で一兵卒として終戦を迎え、この時期を経験しています。義父のたっての望みをかなえるために、私たち夫婦は義父義母を連れて、船で小笠原に渡りました。昭和52年のことになります。小笠原に到着後は、義父義母と私たちは別行動を取っていましたが、義父は父島のジャングルの中、道なき道をかつての記憶を頼りに、すいすいと歩き回ったそうです。

   そして聞かされた言葉。

   「米兵が落下傘で降りて来たのを捕まえたのに、将校だけで食ってしまった。」

   「将校だけで食ってしまった。」という一言に、この時の状況がありありと浮んで来るではありませんか。義父の言葉からは、同じ人間を食べてしまったといううしろめたさではなく、自分たちのような一兵卒にまでは肉を回してもらえなかったことにたいする恨みの方をより強く感じました。

   本日は、あえて論評を避けます。読まれた方はそれぞれに感想を持たれればそれで結構かと思います。