梅様のその日暮らし日記

その日その日感じた事や世間で話題の事について自分なりの感想や考えを書いていきます。

お久しぶり

2016-02-29 15:43:02 | 日記


   高画質画像だとこのブログでは読み込めないので、画質をわざと落としてあります。都市の風景は、ホテルの窓から撮影したものですが、夜間につき絞り開放で撮影したので、ピントが甘くなっています。ご了承ください。また、画像の右側の三分の一は隠れてしまいました。次回からは小さい画像を添えておきます。

  一週間のご無沙汰でした。久しぶりに阪急交通社を利用し、中国南部、ミャンマーと国境を接する雲南省へ行って来ました。韓国と違って中国は面積が広いので、まだまだ回り切れないところが残っています。今回は初日と最終日は異動のみ、羽田⇔上海⇔昆明という乗り継ぎで、飛行時間は片道7時間20分ほどかかりました。

   今回の総括から始めると、まずは最近の私の最大の課題である、トイレが近いという、大人になった印の症状が問題でした。しかしいざ行動開始してみると、私よりトイレが近い人が結構おり、大変心強い思いをしました。私は決して独りぼっちじゃない・・・・?

   問題は中国のトイレ事情ですが、今回は少数民族が多く居住する、一昔前であれば僻地と呼ばれた地域へ行きましたので、昔ながらの純中国風トイレを久しぶりに味わうことが出来ました。トイレに駆け込んだ私たちに挟まれた形で、中国人男性がお尻をむき出しにして大きい用を足している姿があるという、微笑ましい?日中友好風景もありました。

   ただ、韓国も同じですが、トイレット・ペーパーが水に溶けないタイプで、横に置いた容器に用済みの紙を入れなければならないのが、7日間では慣れませんでした。容器には蓋も無いので、先に用を足した人がいる時には、当然・・・・ということになります。加えて紙があまり丈夫ではないので、日本にいる時のつもりで力を加えてしまうと、使用中に破れてしまいます。その結果は、ご想像の通りです。

   とにかく、トイレがあればとりあえず入っておく、これが大人のたしなみというもの。今回の参加者は、私以外は南米からヨーロッパまで広く周遊したことがあるという皆さんばかりでしたので、中国のいわゆるニーハオ・トイレなど、話題にすらなりませんでした。

   次に、33人中13人が一人参加という組み合わせでしたので、いつもよりリラックスして、全く気まずいシーンも無く一週間を過ごすことができました。時には一人参加が私だけという時もあり、そんな時は食事時など居場所に困ることがあるのです。加えて皆さん旅の達人なので、ツアー時の行動について熟知しており、団体行動を乱したり、遅刻したりする人など皆無。すべてがスムーズに運び、今までで一番混乱のないツアーでした。

   今回のツアーで特に感じたのは、中国にまだまだ残る、地域差と貧富の差でした。私たちは昆明をベースに一帯を回ったのですが、昆明は立派な大都会で、自動車やオートバイが所狭しと走り回り、高層ビルにネオンが瞬いていますが、少し離れたところでは、まだ牛が荷車を引いて、立派に実用とされています。牛でなければ、せいぜい、オート三輪です。

   少数民族は、その昔中央の政権から逃げ、遠く山間里を作って、ひっそりと暮らしていたものです。中国では歴史上数え切れないといって良いほどの少数民族が、絶滅させられてきました。難を逃れて隠れ住んできた少数民族が、時代の流れのために隔絶した生活を放棄しなければならなかったことが果たして彼らのために良いことであったのかどうかは、微妙な問題です。

   外の世界を知らず自給自足で暮らしている分には、貧富の差は問題になりません。しかし、愕然とするような貧富の差があることを知れば、少数民族の若者たちはいやおうなしに村を出ていく道を選択します。少数民族が部族の誇りと特性を捨てなければやっていけなくなっているとしたら、自給自足の貧しい生活をしていた時代より真の意味で豊かになったと言えるのかどうか、はなはだ疑問が湧いて来るのです。

   ついでながら、中国滞在中はいつものように一日中机に向かっている過ごし方とは違い、風景ばかりを眺めていた関係上、視力が回復し、眼鏡が合わなくなってしまいました。9月に10日間アイスランドに行った時より更に目が良くなっています。目を眼鏡の度数に合わせるために、帰国後は勉学に励まなければなりません。

   次回からは具体的な旅の報告を書いていきます。 

   

一言言いたくなる書き込み

2016-02-21 15:43:58 | 日記
   本日は珍しく二回目の書き込み。引用部分は北海道の、とある中学校教師がFacebookに書き込んだものです。この人は半ば定期的にこうした書き込みをし、本も出版しているのですが、私はどうしてもこの人を好きになれません。

   「教師はいまだに、学級経営において、子供たちを自分の〈人間性〉で動かそうとします。もちろん、〈人間性〉で動かせるのならばそれに越したことはないのかもしれません。しかし、〈人間性〉というものは、日々の具体的な事象事象によって、刻一刻と評価が変わっていくものです。ちょっとしたミスが命取りとなって人間性に対する評価はドン底まで落ちることがあります。
   生徒とのちょっとした約束を忘れていた、判断に迷っているうちに保護者に連絡するのが1時間だけ遅れた、生徒が嘘をついているように思えてつい怒鳴ってしまった、こうしたことで簡単に変わってしまうものです。
   こういうミスを一切おかすことなく仕事を遂行できる、そういう能力のある人だけが〈人間性〉で学級を運営していけるのではないか、私はそう感じています。つまり、私たち凡人には不可能なのです。こうしたことに畏れを抱かない、お気楽な教師だけが実は自らの〈人間性〉を絶対視しているのです。」


   私は、生徒たちを動かすのは、教師の人間性だと思っています。こう書くと嘘をつけ!と言われてしまいそうですが、私はそう信じて38年間仕事をして来ました。そもそも、筆者が書いているような、ささいなミスで生徒からの信頼が失われることなどありえません。この程度のことで生徒にそっぽを向かれるとしたら、それはその教師の日頃の態度によほど大きな問題があるのです。それに、自らの人間性を絶対視している教師など、長い教師生活の中で一人もお目にかかったことなどありません。

   そもそも、筆者はこの短い文の中で、大きな自己矛盾を犯しています。最後の一文にある、「こうしたことに畏れを抱かない、お気楽な教師」がいるとしたら、常識で考えて、それは自己の人間性を向上させることを怠っている教師なのであって、筆者は実は人間性を軽視している教師を批判していることになるのです。。なおかつ、人間性で学級運営をできないとする筆者自身は、何をもって学級運営をしているのかを、全国の教師たちに示すべきです。

   筆者は、人間性というものを極めて狭く、限定的に捉えていると感じます。生徒たちを深い愛情で包み込むような人間性なくして教師としての完成は有り得ません。教師からそれを除いたら、単なるテクニック論しか残らないのです。

   面白いことに、この人がFacebookに書き込みをすると、全国の教師達から、「いいね」が集まり、「シェアさせてください。」が集まり、賛同する書き込みが集まります。一つとしてこの教師の意見に疑義を呈する書き込みは出たことがありません。それを見ていると、全国の小学校教師は自分の頭で物を考えることが出来ないのだろうかと不安にすらなってしまいます。

   この人の書き込みは常に上から目線で、すべてを知り尽くしたかのような語り口です。できることなら彼が勤務している中学校へ行って、生徒たちからの評判を聞いてみたいという気がします。

まずは自分の頭で考えよう

2016-02-21 09:14:16 | 日記
   しょっちゅう書いているテーマではありますが、専門家の言うことをう鵜呑みにしてはいけないという事例をまた見つけてしまいましたので、一応ここで書いておきます。その前に、はるか昔に書いた情けない事例を復習しときます。

   昔、「披露した筋肉は柔らかくなる」という研究発表をした学者がいて、定説になりかけたことがありました。大阪大学で、油圧式の「筋硬度計」なる役に立つのか立たないのかよくわからない代物を開発して、ピッチャーがウオーミング・アップした後で腕の筋肉の硬さを計測しました。その結果、ウオーミング・アップ前よりも筋肉が固くなっていることがわかったので、疲労すると筋肉は柔らかくなるという結論を出したわけです。

   しかし紺野義雄という元十種競技の選手が、運動すると筋肉は固くなるという発表をしていたので、阪大の側から論争を吹っ掛けて来たのだそうです。大阪大学の研究発表を掲載したのは科学朝日という雑誌なのですが、これには頭を抱えて、もうそっちでどうにかしてくれと、匙を投げてしまいました。
 
   私に言わせえば、わざわざこのために「筋硬度計」などという代物を開発すること自体、学問というものめんどくささを告白しているようなものです。筋肉が固くなったかどうかなどは、手で触ってみればわかることです。しかし、研究発表で学説を打ち立てるとなれば、金をかけてでもそんなくだらない代物を作らなければならないのですね。

   皆さんはとっくにご存知のことですね。ウオーミング・アップをなぜするのか。日本語で準備運動と呼ぶことからも分かる通り、激しい運動をする前に、筋肉を「柔らかく」して、可動域を広げ、体が良く動くようにするためです。しかし、学者というものはある一点に思考が集中すると、当たり前のことが見えなくなってしまうことがあります。

   学者がある事について本当に知識があるのかどうかは、私たちが自分の責任できっちりと見極めなければなりません。世間では、特に、教授という称号を持った人物が発する言葉は当然正しいはずだという誤解をしがちです。

   今日の新聞で読んだ、「元気なう」といコラムの内容です。「コーヒーと健康②」というタイトルなのですが、まずはカフェインを含む清涼飲料水を飲み過ぎて死亡した若者の例に触れてから、「でも、カフェインは肝臓病に効果があるし、片頭痛対策にコーヒーを勧める病院もある。」と、コーヒーの利点について話を進めていきます。

   問題は、東京薬科大学名誉教授で、「コーヒー博士」と呼ばれる人物の発言です。妊娠中と授乳中の女性はコーヒーを避けるべしとした後で、もう一つ注意を呼び掛けています。「カフェインは細胞の中のカルシウムを排出してしまうので、骨粗しょう症の人も避けた方が良い。不安なら、カルシウムたっぷりの牛乳を入れて飲みましょう。」

   実は既に、牛乳を飲むと中に含まれているリン成分のために体内のカルシウムが排泄され、骨粗しょう症になる可能性があるということが、アメリカで統計的に立証され、発表されているのです。ただの民間人である私が知っている知識を、どうして薬科大の名誉教授が知らないのか、不思議でなりません。

   私たち素人は、健康に関する知識に振り回されがちです。良く観察すると実はインチキだと思われるもににぶち当たることは珍しくありません。ダイエットに成功して本まで出版した芸能人はモデルから芸人に至るまで多様でしたが、全員例外なく出版後はリバウンドして見事な体形に戻ってしまっています。おそらくは自主的に行ったダイエットではなく、出版社からの本の出版を前提としたギャラが提示されていたはずです。

   最近ライザップはAKB48の峰岸みなみをCMに起用し、「肉だって食べていいんです。」式のうたい文句を掲げていますが、実際には毎食を写メしてライザップに送り、指示を受けなければなりません。「これから握りずしを食べます。」と写メを送ると、すかさず「ネタだけ食べて、シャリは食べないように。」という返信が来ます。つまりCMのうたい文句は、「脂身のない赤身の肉だけ食べてよろしい。付け合わせのジャガイモは食べてはいけません。ライスも口をつけないでください。」という意味なのです。「・・・しか食べてはいけません。」を、「・・・だって食べていいんです。」と言い換えてしまっている、恐ろしいCMという訳です。

   それから・・・何という名前の俳優でしたでしょうか、「ロング・ブレス・ダイエット」というダイエットを考案して、スタジオまで開き、そっちがすっかり本業になってしまった感がある俳優がいましたね。彼の提唱するロング・ブレス・ダイエットとは、「息を吸ってはそれを力を入れながら長く吐く」といった程度のものに見えますが、実際は違います。息を吸ったり吐いたりするのと同時に、様々なポーズを取り続けるのです。このポーズが結構体力を必要とするのです。かつ、ポーズそのものは彼が考案したものとは言えず、どこのジムでも行われていそうなものばかりです。

   何につけても、実行してみるのは良いことですが、話の口当たりの良さに飛びつくと、当てがはずれることもあるということですね。

中国語の限界

2016-02-19 09:01:27 | 日記
   中国語を学校に通って学ぶこと早5年近くになります。いきなり中級クラスに入るだけの実力は事前に備えていたので、少なくとも中・高で英語を6年間勉強したくらいの手間はかかっています。そしてつくづく思うことは、中国語はやはり駄目な言語だといいうことです。駄目だといっても、それによって私のやる気がそがれる訳でもなく、もうやめようという気になる訳でもありません。中国語が駄目だという理由は、簡体字化することによって漢字が簡略化されたかれと言って、漢字が持つ限界が解消された訳ではないからです。

   中国語はご承知のように象形文字です。初期の漢字は、亀なら亀、馬なら馬をなんとなく想像させる絵のような形をとどめています、そのために一目で理解しやすいという利点があるものの、亀という文字が亀を表し、馬という文字が馬を表しているために、外来語を表記するのには恐ろしく向いていません。たとえば「克隆」=クローン、「程序」=プログラミング、文字を見ただけでは何のことか分かりません。漢字が出来た頃には存在しなかった物や概念を表すのには無理があるのです。

   漢字を使用しない言語の固有名詞に対してはもっと悲惨です。「克魯尼」=クルーニー、「杜魯門」=トルーマン、「端納」=ドナルド・・・。近そうな発音をする漢字を当てはめているだけなので、ここでは完全に表意文字としての漢字ではなくなって、音だけを借用しています。しかし漢字が一つひとつ意味を持つ文字であることに変わりはないので、どうしても訳がわからなくなってしまいます。これらは、クルーニーとかトルーマン、ドナルドという人物についての知識が無ければ、文字を見ても何の事かわからないという一大欠陥が生じてしまうのです。

   そして中国語の最大の欠点は、漢字では数学が成立しないことです。一億三千八百万二千五十語割る三万二千二百五十などと書いていたのでは、割り算になりません。複雑で高度な数学になれば尚更のことです。科学技術に関しては、中国語ではもはやどうにもならないのです。結果として、より高度な水準を求める人たちは、中国語を捨てて全てを英語で賄わなければやっていけないという悲劇に陥ってしまいます。これが中国で英語が盛んに学ばれる最大の理由の一つです。

   日本人は漢字を上手に崩して、表音文字であるひらがなとカタカナを作り、更に外来語にはカタカナを当てるという離れ業をやってのけたので、日本語の文字だけで全ての分野の表記・理解が可能となっており、その意味で融通無碍なご先祖様の知恵には感動すら覚えます。

   しかし時代の流れにより、中国が力を付けるにつれ、この非合理的な言語をあらためて日本人が学ばなければならなくなりつつあるのは、ある意味悲劇だと言えないこともありません。これなら双方が英語を身に着けて意思疎通をはかる方が合理的だと思うのですが、いかがなものでしょうか。日本人も学校を出ていれば英語の下地は出来ているので、英語を使わなければならない環境に置かれれば自ずと上達するはずです。中国語を学ぶことは、とにかくロスが多いというのが私の実感です。しかも中国人相手にしか使えないとなれば、少々もったいないという気もします。

続・「23区格差」を読む・・・足立区について

2016-02-17 14:54:59 | 日記
   本日は短めに簡潔に書きたいと思います。昨日書いた足立区のワースト記録を採録いたしますと、

①管理職についている人の割合(港区の4分の1) 
②研究者や技術者の割合(大田区の半分弱)
③大卒者の割合(千代田区の3分の1) 
④所得水準(港区の3分の1)
⑤犯罪の数(ただし自転車も無断借用と言った軽微なものも多い)
⑥若年結婚とその離婚率・離婚後の単親家庭の数

   といったことになります。強いて言えば、足立区の地価は千代田区の7分の1というのがあり、これは一見優れたところにも見えますが、地価が安いということはそれだけ魅力が無いと見なされているとも言える訳で、何ともコメントし難いところがあります。ちなみに私が通っている赤坂の日中学院の隣には立派な高層マンションがありますが、中古で一戸(2LDK)3億円以上します。このマンションの駐車場は月に4万円です。私が住んでいるマンションの10倍どころではありません。(私のマンションの方が広いのですが。)

   ちなみに東亜学院の日本語科に通学する中国人の若者たちは、家賃の安い足立区内のアパートを共同で借り、千代田線で通学したりしています。また、飲食店でアルバイトをするには、北千住などの盛り場を擁する足立区は、なかなか適しているとも言えます。やや低賃金ながら留学生たちのバイト先も確保できる、一石二鳥の土地でもあるわけです。その意味では活力のある区だと言えないこともありません。しかし高級感が全く漂わないと言われれば否定できません。

   地価が安いということは、アパートの家賃が安いということでもあり、必然的に低収入層が集まることになります。ここからは堂々巡りになるのですが、低収入層が更に増えることによって、大学進学者の数は一層抑えられることになります。こうした層の家庭には子供に高等教育を受けさせるだけの経済力が無いからです。こうした気風はかなりの影響力があるので、経済力がある程度ある家庭でも、高校まで出れば生きていくのには足りるという雰囲気も色濃く残っています。私が足立高校で真っ先に生徒たちに語りかけたのは、足立区の子供たちだって大学に行って構わないんだという、当たり前の話でした。

   高収入=高学歴 という方程式はほぼ間違いがないのですが、少数の例外を考慮に入れれば、高収入≒高学歴というべきでしょうか。上記①~⑥について、これを前提にして考えてみれば、誰にでも一目瞭然です。③が原因で①と④という結果が生じ、②にも通じる結果を生みます。②については、下町ロケット的な町工場は足立区にはありませんから、高度な技術者も生まれる下地がありません。こうした閉塞状況が、荒れた子供たちを生み、⑤につながっていると考えられます。また、早めに学校を離れてしまうことが早婚に通じ、⑥の早まった結婚から離婚・単親家庭が生じることにもなります。

   足立区を変えていくには、何よりも進学率を上げることが必要です。それには全体的な経済力の向上を目指さなければならないのですが、まずは経済力はあるのに進学が視野にない子供たちの意識を変えていくことが急務だと言えます。まずはできるところから始める、そこに私は意識を持って行くべきだと考えています。実際、私の体験上、一人の教師が少し働きかけるだけで、子供たちの意識をかなり動かすことが出来ます。ただ、学校が組織としてその方向に動き出すとまた面倒な事態に至ってしまうので、その点注意が必要です。

   組織として生徒を進学の方向に縛り上げ、追い立てて行くのではなく、あくまで教師が雑談的に語り掛ける、その意識が大事なのだと思います。悲しいのは、そうした語り掛けによって生徒たちの闘志を掻きたてられるタイプの教師は案外少ないということです。どうしても学校を組織として動かす、つまり個人的には自分が責任を負わないで済むようなやり方に逃げてしまう、そういう教師特有の悪しき気風、その点は自分たちで認識し、自戒してもらわねばなりません。