梅様のその日暮らし日記

その日その日感じた事や世間で話題の事について自分なりの感想や考えを書いていきます。

教育って③

2017-09-30 14:14:01 | 日記
  学校は特に全ての児童・生徒を公平に扱わなければならないという「鉄則」があります。それはそれで原則的に建て前としては正しいのですが、では本当にそれが可能なのかというと、これがまた一筋縄ではいかない問題があります。

  まず何より、担任が男性か女性かによって、既に違いが生じてしまいます。かつて高校3年次に初めて私が担任することになった男子生徒がいましたが、何と彼は保育園(はまあ当たり前として)小学校・中学校・高校一年・二年と、11年間にわたって、一貫して担任が女性のクラスに当たっていたそうです。滅多にない大当たりです。私のクラスになって数日後、彼が感慨深げに語った言葉があります。

  「男の担任だとこういう感じになるんですねえ。初めて知りました。」

  彼は、担任が男であるのは、この上無く心地良いものだと感じていたようです。いいとか悪いとかいう問題ではないのです。担任の性別は問題ではないと言えば問題ではないのかもしれませんが、時として男の担任であれば笑って見逃してくれるようなことが問題視されてしまうことがありがちだからです。

  この生徒が、以前書いた、文化祭の準備のために自宅のマイカーで荷物を運んできても良いかと私に許可を求めてきた生徒です。これも前述のように、

  「許可は出来ない。」「許可はできない。」と、「は」の部分を強調して繰り返すと、彼はすぐにその意図を読み取って、学校からは死角になるところで車を止め、そこから荷物を校内まで手で搬入したのでした。これが女性の担任であれば恐らく、

  「何言ってんのよ!許可できるはずないでしょ!絶対、絶対ダメ!」

と怒り出してしまったことでしょう。心の片隅には、生徒がどうこうというのとは別に、あたしのクラスで面倒起こさないでよ!迷惑するのはあたしなんだから!という意識があることも確かなのです。

  また、これは自由をもってなる足立高校での同じ学年の出来事ですが、一人感性が突き抜けている女生徒がいました。文化祭の数日前、彼女が私の近くでこんな話をクラスメートと交わしていたのです。

  「文化祭の模擬店で、あたし呼び込みをやるのにバニーガールの仮装をしようと思うんだけどさあ、スクール水着で。」

  聞き捨てならぬこのアイデアに対して、通りすがりの私がしたアドバイスは、

  「バニー・ガールの衣装には肩ひもがないから、スクール水着ではダメ!」

  というものでした。彼女の感性・性格は良く知られていたので、当日彼女がドン・キホーテで仕入れたバニーガールの衣装に身を固めて模擬店入り口で呼び込みを開始しても、これをとがめだてする男の先生は一人もいませんでした。まああの子ならこれくらいやるわな、と、クスリと笑って通り過ぎる、いう程度の受け止め方でした。

  女性の先生の対応は全く違いました。烈火の如く髪の毛を逆立てて、彼女にその衣装を脱ぐように迫ったのです。しかし彼女は他の女子たちよりずっと精神年齢が上でしたので、全くひるむことがありませんでした。何より男の先生方は皆これを黙認しているという事実が彼女に対しては密かな追い風となっていたのです。押し問答の末、女性の先生が出した妥協案は、バニー・ガールの衣装までは妥協して認めるから、上半身に一枚何かはおるようにというものでした。

   これにて一件落着・しかし女性の先生方より彼女の方が一枚も二枚も上手だったのです。彼女が家から取り寄せてはおった物は、真っ白い毛皮の、丈の短いハーフ・コートでした。私たち男性教師はその姿を見て、健康的なスタイルだったのに、余計な物を身につけたために卑猥な感じになってしまったと嘆いたのでした。

   恐らく女性の先生方は、この子の母親は一体何を考えているんだ、とまで思ったに違いありません。しかし、実はこの子の感性は母親と生き写しで、母親の激励まで受けて登校していたのでした。

教育って②

2017-09-28 18:27:49 | 日記
恐らく今でも存在すると思うのですが、「小○教育技術」などという月刊誌がありました。小学校の先生向けに、学年別にどのような心構えとテクニックを持って指導に当たるべきかという、いわば先生向け指導法虎の巻のようなものです。

小中学校と高校の決定的な違いは、高校では否が応でも個性を尊重し生徒対応ができなければやっていけないのに対して、小中学校では、生徒は全て平等という姿勢を貫かなければならないとされていることです。

高校と小学校の比較対象としていつも思い出す話があります。私が就職したての時、ある体育教師から聞かされた話なのですが、彼はかつて問題行動の多い男子を自宅に引き取って生活を共にし、更生させたことがあったそうです。

一方、小学校を退職したある女性教師は、自分のクラスの生徒の中に家庭環境があまりにも劣悪で、このままでは人としてスポイルされかねないと案じた挙句、独身の身ながらその子を自宅に引き取る決意をしたそうです。しかし、先輩教師から、それではその子だけを特別扱いすることになり、望ましくないとしてストップをかけられ、結局引き取ることをあきらめざるをいなかったと聞かされました。私より少し年上のその方は、中国ツアーでたまたま一緒になっただけの方なのですが、問わず語りに語ってくれたところを見ると、教師人生の中で、個人的には忘れがたい痛恨の思い出なのではないかと思います。

平等主義は、教育の進歩に対しては、ひどいブレーキとなることがあります。たとえばある生徒がどうしようもないワルで、もはや退学させなければ他の生徒たちに害が及ぶとして強制的に退学させたとします。するとそれ以降、同じことをしでかした生徒は、たとえどんな事情があっても、他の生徒たちに危害を加える恐れなど皆無でも、前例に倣って退学させることになります。

そんな風ですから、何か事件が起こって判断に迷うと、まるで裁判官のように、過去の事例を調べてそれに揃える作業がまず優先され、それに沿って職員会議で決議がなされ、保護者及び生徒本人に決定事項が伝達されるという、誠に機械的な仕組みが出来上がっていくのです。

以下、筆が滑ってK君の事例を書いてしまったのですが、今更と思い、改めて削除いたしました。要は学校というところは、誰でも出来る範囲を指導の大枠とするということです。従って、私のような者が汗と涙でこなして来たことでも、他の先生方にその覚悟がなければ、全体としてはそちらに合わせてレベルを下げる羽目になります。K君の退学は、正にその好例でした。

教育って

2017-09-27 19:16:44 | 日記
  時々現役の先生が教育法について投稿して、教えを垂れていることがあります。正直、凄いなあ、と思います。
私は、そこまで自分に自信を持てる人がうらやましい思いです。

  実際、人に教えられるほどの物を自分が持っていたとは到底思えないからです。一般にこうした投稿をするのは小学校か中学校の先生です。高校の先生は大人になりかけた生徒たちを扱う難しさを知っており、これだという方法など無いことを知っているからです。

  時々、昔の教え子の事を思い出します。

  堤校舎での出来事。ある日、よそのクラスのある女の子が、不登校になりました。理由は知りません。穏やかで微笑みを絶やさない感じの良い子だったのに。

  ある日私は友達にアドレスを教えてもらって、彼女にメールを送ってみました。

  「最近学校へ来ないけど、何か考えてるのかなあ。もちろん何か考えているから来ないんだよね。」

  という、短いメール。不登校の理由を問い正すでもなく、登校をうながすでもありませんでした。

メールの後、彼女はすぐに登校するようになりました。

  卒業後まもなく、彼女のご両親から高額な商品券が送られて来ました。どうも私のメールを読んで、彼女は不登校から一発で立ち直ったらしいのです。

  私は彼女の授業は受け持ったことはありますが、口をきいたことはありません。メールの前も、メールの後も、卒業してからも。

  生徒達を育てるのに、決まった方法なんてないのです。担任が家庭訪問したり説得したり正攻法でなんとか解決しようと汗をかいてもどうにもならなかったものが、口をきいたこともない、担任でもない一教師のメール一つで解決してしまう・・・。教育とはこんな風に摩訶不思議なものなのです。

「努力はきっと報われる」

2017-09-20 07:44:38 | 日記
  世界には自分と同じ人間が4人いると、どこかで読んだことがあります。DNAの数には限りがあるので、人間の数を考え合わせると、そうなってしまうとのことです。

  昨日の中国語個人レッスンの先生は、城東で私が転勤したその年に受け持ち副担をしたクラスの女子、部活は女バレで現在は小学校教諭の子と瓜二つでした。先生は中国ハルピンの出身という若い女の子でしたが、顔が似ていれば話し方もそっくり、性格もそっくりという印象を受けました。年齢も恐らくほぼ同じなのではないかと見受けました。

  この間このブログでも、「波長が合う」ということについて書きましたが、この日のレッスンは正にその状態に入り、まずは30分ほどの自由会話練習、早い話が雑談なのですが、から入り、テキストを少しずつ進みました。ただし途中できっかけを見つけては「雑談」に転じ、講師の方もおしゃべりを苦にしない性格なので、テキストはあまり進みません。どうやら私に対する指導方針として、かなり基本は出来ているので、できるだけ話を引き出して運用能力を高めるようにという指示が、講師たちの間に伝えられているようです。

  そのおかげで昨日は恐ろしくリラックスムードでレッスンが進み、テキストを先に進めるどころか、ほとんどが雑談に終始してしまったような気がします。緊張感がないと、当然気楽に話ができることは、当然の成り行きです。気がついて見れば、普通に中国語で雑談している自分がそこにいて、思わず「たかみな」こと高橋みなみの格言を思い出してしまいました。
...

      「努力はきっと報われる。」

  その裏には私自身の血のにじむような努力が隠されている(笑)訳ではありますが、年齢を言い訳にしたりせずに努力を重ねれば、それなりの成果と進歩があるということですね。

  毎朝通勤電車の中でスマホ・ゲームで遊んでいる皆さんも、その時間を英語の習得のためにでも割けば、それなりの成果が上がるのにな、と、いつも思っています。一英語教師として言わせてもらうなら、日本人が英語が話せないのは、学校の教育のせいなどではなく、本人に努力をする気が無いからなのではないでしょうか。

  昔アメリカ軍が日本語ができる語学将校を要請するために設けた学校は、徹底していました。軍隊ですから完全に統率された空間で日本語を教わることになります。全寮制で、授業時間は1年間で3,000時間。これが米軍が考えた必要授業時間でした。

  これに対し、現在日本の公教育の場で設定されている英語の授業時間は、中・高を合算しても1,000時間程度、しかも期間は6年間です。1年間で3,000時間と6年間で1,000時間。学校で消化できる英語の時間などたかが知れています。一学期にならった英語など、夏休み期間に全部忘れることが可能でしょう。

  外国語をマスターしたければ、自分で自分を拘束して膨大な努力を積み重ねなければなりません。それが出来る人だけが、外国語をマスターできるのだと思います。私は目下今更ながらにそのことを我が身で人体実験しているところです。

      「努力はきっと報われる。」

と信じながら。

「気が合う」ということ

2017-09-17 09:36:45 | 日記
 韓流ネタ・韓国の奇習ネタを書くとアクセス数が一気にアップするのですが、そればかり書いてもいられませんので、引き続き桐生選手の話から、広げてみたいと思います。

   東洋大のコーチをまるで信用していなかった桐生選手、おかげで9秒台もタイミングが一年遅れてしまいましたが、そんな調子でどうやって競技に対するモチベーションを維持していたのか、少々不思議でした。その答えは、更に翌日の新聞にありました。桐生選手が一番信頼していたのは、高校生の時からついていたトレーナーだったのですね。この人が一貫して彼の体を見てくれていたので、競技を続けて来られたのではないかという気がします。

   9秒98を出した当日、桐生選手は疲労困憊していて筋肉の状態が悪く、自分では今日はもう無理だから100m決勝は棄権して、負傷を回避しようと考えていたのだそうです。しかし、トレーナーに見せたところ、問題なくまだまだいけるという診断を受け、急遽100mも出場することにしたのだそうです。おそらくコーチが同じことを言ったら、自分を潰すつもりかと大反発して、この日の100mは棄権し、9秒98の大記録も生まれなかったのではないでしょうか。
 
   話は少し飛躍しますが、私は指導者と選手の関係は、行きつくところ双方の相性が合うか合わないかによるのではないかと思っています。実績も大事ですが、選手は指導者の経歴によって従うのではなく、自分と気が合うかどうか、指導者の話が心地よく心に響くのかどうかにかかっているのではないでしょうか。

   今私の手元に一冊の本があります。タイトルは、「パパは脳科学者」。著者は東大薬学部の教授ですが、子供がまだ4歳、写真を見てもかなり若そうな人です。この人が脳科学者の立場で自分の育児から得た知識を書いているのですが、その中に興味深いページがありました。

   脳研究の一つに、会話をしている二人の人間の脳の反応を同時に調べたものがあるそうです。テーマは「気が合う」とか「話が弾む」とはどういう現象なのか、ということだったのですが、気が合っている状態では、二人の脳活動の波長がぴったりと一致するという結果が出たのだそうです。なおかつ、話を聞く側に回った人の脳は、相手の話を先取りするかのように、わずかに前に活動を開始するという話です。つまり、聞く側の人間は、話し手の話の内容を予想して、それを先取りして反応していくのです。

  気が合うという状態は、こうした予想がどんどん当たって話が展開するという状態を指します。結果的に自分の考えたことと相手が話してくれたことが一致していくわけですから、話はポンポン展開していくことになります。
ここには気が合わなかった場合については特に書かれていないのですが、この逆のケースになる訳ですから、脳は予想しても的中しないので、活動を一部停止し、相手が何か言ってからそれを受けて改めて自分の話をするという手続きを経ることになり、余分な疲労感を伴う結果になるのではないでしょうか。

  桐生選手もトレーナーとの会話では、脳がこうした快感を伴う反応を示し、(おそらく)コーチとの間では、気に入らない話しか出て来ないという予想が当たるだけなので、コーチと脳波の波長が一致するという事がなかったのではないでしょうか。

  「あの人とは波長が合う。」とは、良く使われる言葉ですが、脳科学的にもその通りだったわけですね。