梅様のその日暮らし日記

その日その日感じた事や世間で話題の事について自分なりの感想や考えを書いていきます。

ビリギャル

2016-12-31 07:42:13 | 日記
   26日(月)にTBSで放映された映画、「ビリギャル」。私がこの映画を見たのは、中国から帰る飛行機の中でした。有村架純演じる金髪ミニスカのギャルが、慶応大学に合格するまでの物語。この映画を見ると、偏差値が低い子でも頑張れば一流大学に入れるという錯覚に陥る、罪作りな映画です。私は教師だったからわかるのですが、この映画は美談であると同時に、普遍性を持たないお話だと言い切ることが出来る映画です。

   なぜなら、ビリギャルを慶応に合格させた学習塾の講師は、他の子も一流大学に合格させることができたでしょうか?否。恐らく彼にとっても、これは一生に一度の偶然なのです。本当に大切なのは、そんなことではなく、生徒達が、この高校に入って良かったと思いながら卒業して行ってくれること。それが全てです。「ビリギャル」はとある学習塾における、一回限りのおとぎ話であり、学習塾の話。この塾に入れば他の子でもで慶応大学に合格できるというお話ではないことは、言うまでもありません。

   教師をしていると、正に一期一会という言葉がぴったり来る生徒と出会うことがあります。前にも書いた話ではありますが、女子100mハードルで関東大会の予選通過まで達成させた子の例を引くなら、彼女はハードル間を3歩で走ることが出来ませんでした。これを4歩で行くことにしたために、ハードル10台を飛ぶ間に、9歩も余計に走らなければなりませんでした。なおかつ4歩ですと、今度はかなり前に進んでしまって、ハードルのすぐ手前まで走ってしまうため、遠くからハードルを飛ぶことが出来ないので、滑らかに進むことが出来ず、ハードルの近くからピョンと高く飛び上がるしかありません。

   そもそも誰にでもこんな芸当ができる訳ではないので、彼女にそれが出来るということを見出した私の眼力?と、私に素直について来た彼女のやる気が相まって出来た、奇跡の走法でした。翌年の大会では4歩走法をまねた選手が続出しましたが、誰も好成績を上げることはできませんでした。私自身も、二度とこの走法を誰かに教える気はありませんでした。

   ビリギャルを教えた塾講師についても、同じことが言えるのではないでしょうか。もしかしたらこのやり方で他の子の偏差値も上げられるのではないかと思っても、少しも不思議な事ではありません。しかしあれはこの講師とビリギャルの相性が良かったこと、彼女には元々慶応大学に合格できるだけの資質があったのにそれを引っ張り出してやる人間がいなかったという事につきるでしょう。

   ああいう映画が出来ると、軽率な人間が必ずこんなことを言い出します。「日本の学校教師たちは、生徒の個性や学力を伸ばしてやろうという熱意が足りない。日教組を潰さなければならない。」

   実に馬鹿げた話です。

(再び)駅伝なんかいらない

2016-12-30 05:51:56 | 日記
   今朝の読売新聞を見たら、何と箱根駅伝関係の記事だけで5ページの紙面が割かれていました。本番を前に以前から関係する記事が掲載されていたので、相当なページ数が箱根駅伝だけで消費されていることになります。駅伝当日、往路で1日、復路で1日を費やすので、2日間にわたってまた紙面が使われ、終了後も総括としてまだ記事が続くと思われます。

   読売新聞は、公器としても使命を忘れている感があります。世の中に箱根駅伝のファンが一体どれだけいるというのか、それを考えれば、これほどまでに紙面を割くのは、横暴だとさえ言えるでしょう。購読者の多くは自分が関心を持たない内容を、購読料を払って連日突きつけられていることになります。

   私はアンチ陸上ファンではありませんし、何よりも自分でも陸上競技に手を染め、高等学校の陸上部の指導もして来た人間ですので、長距離走そのものにケチをつけるつもりはないのです。しかし、あまりにも商業化された箱根駅伝には大きな疑問を抱かざるを得ません。かつ、箱根駅伝を広告媒体として利用できる読売新聞にとっては大きなメリットがあるかもしれませんが、選手たちが最終的には読売新聞の間接的な宣伝媒体として利用されているという側面は否定できません。

   加えて、以前にも書いた通り、駅伝は日本の長距離界にとって、有害でありこそすれ、メリットはほとんどありません。早稲田大学競走部の監督である渡辺氏は、アメリカまで視察に渡り、低酸素室のような人工的な設備を見て感激して帰って来たようですが、アメリカにも、世界中どこの国にも、駅伝など存在しないという事実には気が付いていないようです。

   陸上競技のシーズンは、概ね4月から9月です。アメリカでは、高校生などは冬の間陸上競技を離れ、球技などのスポーツを楽しむことが許されていますが、日本にはそうした土壌が全くありません。陸上競技でも他の種目では、試合が無くなる半年間は、休養も含めてじっくりとトレーニングを重ねることが出来るのですが、駅伝に手を染めてしまうと、そうは行きません。

   9月にトラック・シーズンが終われば、息つく暇も無く、駅伝シーズンに入ります。陸上の名門大学であれが、全日本学生駅伝、出雲駅伝、箱根駅伝等、冬の駅伝は目白押しです。男子のみならず、女子も箱根が無いだけで、状況は変わるところがありません。さらに大学を卒業しても実業団に入れば、今度は社名を染め抜いたユニフォームで駅伝を走らされることになります。

   駅伝は中学生からあるので、長距離を志した陸上選手は、引退までの期間、一貫して駅伝にエネルギーを注ぐことになります。そこには一貫してチームのために身を犠牲にするという日本的美学が貫かれているので、手を抜くことなどできません。先日読んだ記事によると、大学に入ってから10回も疲労骨折を繰り返したという選手がいます。選手を疲労骨折させてしまうこと自体、監督やコーチの責任問題になるはずなのですが、記事はあくまで、何度も骨折するほど頑張ったのだという、美談に仕立て上げてしまっています。

   また、駅伝シーズンはまた、マラソンシーズンとも重なります。フルマラソン出場は、シーズン中に2回程度に抑えるのがベストだと考えますが、休養を含めながら走らなければならないフルマラソンの前にも後にも、駅伝が控えているのですから、選手の精神的肉体的負担は過剰にならざるを得ません。人間の体も機械と同じで、走れば走るほど経年劣化、金属疲労が生じると考えるべきです。

   余談になりますが、陸上競技を経験した日本のトップ・アスリート達の中で、最も長命なのは、跳躍選手、最も短命なのは長距離選手だそうです。命を削って取り組んでいるようにすら見える長距離選手たちと比べて、跳躍選手はお気楽そうにさえ見えます。過激なトレーニングをすれば全身のバネが失われてしまうので、跳躍選手は連日くたくたになるまで練習するようなことはありません。なにしろびょんびょんと身軽でなければ成立しないのが跳躍競技なのですから、当然のことだと言えるでしょう。

   私は駅伝は日本の長距離界においては、百害あって一利なしとさえ考えています。私自身も、自分が指導している間、選手たちを一貫して駅伝には参加させませんでした。それで不都合は何もありません。もっとも私が転勤した途端、後任の顧問がすぐに駅伝を取り入れてしまったので、私の指導は一時的なものに終わってしまいましたが。

  ところで駅伝にも、微笑ましい駅伝がないわけではありません。トヨタ自動車では、全社駅伝という制度があって、世界中の支社や工場から職場チームを組んで、日本に集結するそうです。応援を含めると、3万人もの従業員がその日のために来日するとか。こんなのは楽しくていいですね。

年賀状

2016-12-27 15:15:36 | 日記
   今年も年賀状を出す季節になりました。昔は年賀状のやり取りも楽しかったのですが、パソコンの普及に伴い、返って紋切り型の義理年賀状と、心のこもった年賀状との区別がはっきりとつくようになってしまいました。私も教え子たちからの年賀状にはたとえプリンターを通してでも、コメントは個別にきちんと書き分けているのですが、仕事仲間に対しては、概ね職場別に3通りくらい用意した近況報告で済ますようになってしまいました。型通りの年賀状をくれた相手に心のこもった年賀状を出すのは、まるで片思いのようで、バランスが悪いと思ってしまうからです。
 
   最近、と言っても、もう3年も前になりますが、驚き、少しだけ腹を立てたのは、最後の勤め先の同僚女性3人からの年賀状が、ぴたりと足並み揃えたかのように、私の退職後3年で止まったことです。一人は初めて学年担任をした女性で、私の隣に籍を置き、学年主任としてわがままを聞きながら、さりげなく面倒を見て来ました。もう一人は同じ教科の新人で、私が指導教諭となり、新人として負担を感じないように心を砕きながら接して来たのですが、きれいに3年で年賀状が切れました。もう一人は私に対しては陰で私を敵視していた人なので、最初から年賀状をくれる必要もなかったのですが・・・。

   他のもう少し薄い関係だった人たちが、年賀状をくれ続けていることを思い合わせると、この意識の違いは何なのだろうと、ふと考えてしまいます。未だに年賀状をくれる人たちの中には、分掌も学年も教科も、全く接点のなかった人たちが少なからず混ざっています。人間関係とは一筋縄ではいかない不思議なものです。
   
   ところで、親が亡くなった後の3年間の喪の期間というのは、中国古代、夏・殷・周と続いた王朝の内、孔子が礼の根本と定めた周王朝の時代に定まった礼法だと言われています。親の手元から少しだけ離れて遊べるようになる3歳、それに至るまでの親の恩に報いるために、喪の期間は3年と定められているのだそうです。

3年ぴったりで年賀状をやめた人達は、もしかしたら喪が明けた、に近い意識を持ったのでしょうか。退職後3年間を喪に服す期間と考え、もうこれで義理は果たしたという考え方であれば、少なくとも相手方の中では合理性があると考えられるからです。

ダークサイドに落ちた日本人たち

2016-12-25 08:44:50 | 日記
  タイトルからは私が何を言いたいのか、お分かりにならないと思います。以前にも触れたことがありますが、私は韓国語・中国を熱心に学ぶ傍ら、中国や韓国の日本に対するやり口に許せないところがあり、中国や韓国の非道な反日活動に反発するサイトの会員にもなって、意見交換をしています。

   ただし、継続してこのブログをご覧いただいている方はお分かりの通り、私は反面親韓でもあり、中国愛も半端ではありません。本来ならこの両国とも、日本と親交を深めることにより、計り知れない精神的・経済的利益を得ることが出来るにもかかわらず、中国・韓国は、それを片っ端から破壊するという、情けない姿をさらしていることが実に残念でたまりません。

   そこで、上記のようなサイトが賑わっている訳ですが、投稿やそれに対するコメントをしばらく読み続けて来た結果、私の中で、分かりやすく言えば、「ダメだ。こりゃ。」という気持ちが支配的になって来ました。書き込んでいる人たちの多くが、韓国や中国に行ったことすらないのだという確信が湧いて来たのです。簡単に言えば、反韓・反中のムードに流され、妄想にふけり、この二か国の国民をののしることに快感を覚えているだけに見えるのです。

   中には、自分と見解を異にする人間を罵倒することに生きがいを感じているのではないかと思われる、変態的な人間もいて、その数も少なくありません。私が明らかに反韓的な内容を書き込んでいるにも拘らず、自分との相違点を見出すと、それまでの「です・ます」調から一転して、「お前」とか「在日だろ」とか「早く質問に答えろよ」、「俺の方がお前なんかよりずっとわかってんだよ。」等々の、ののしりに転じるのです。

   疑問に思うのは、こうした人たちが、韓国人に対する理屈にもならない人種差別を開始していることです。私はそこにははまらないように、ぎりぎりのところで押さえているのですが、「韓国人はエペンギ族の末裔だ。」とか、「日本人とはDNAが違う。」といった攻撃が始まりました。エペンギ族というのは中国北方に住んでいた、とある民族なのですが、誰の末裔であろうと、それが差別的で侮辱的な攻撃をして良い、いや、すべきだという根拠には成り得ないという事が既に理解できなくなっています。DNAが違うことも、相手を侮辱して良い理由にはならないことはもちろんです。

   昨日は、「韓国には月収10万円以下の貧困層が沢山いる。」という得意げな書き込みがあり、貧困層に対する極端な侮辱的発言がありました。この人物が、日本では貧困層が増えており、生活保護が受けられずに自殺する人すらもいるという事実を知っての発言なのかどうかわかりませんが、貧困であることが理由で相手を侮辱するという事は、日本の貧困層に対しても同じ論理で侮辱を加えることが可能なわけで、他にも多くの人が反発したので、幸いこの書き込みは削除されました。

   しかし、残念と言うべきか困ったことだと言うべきか、既に日本には、人種としての韓国人そのものを差別し、侮辱することを当然視し、これに対して疑問を呈することを許さないという人たちが沢山生まれ、こうしたサイトの大勢を占めています。しかしそれでは、日本人というものは生まれつき韓国人より劣等な人種であり、日本は永遠に韓国に仕えるべき国だと主張している韓国人たちと、一つ穴のムジナなのではないでしょうか。

   そういった趣旨の事を書き込めば書き込んだで、即座に反撃を食らいます。もはや馬鹿にならない数の日本人が、過激な韓国人と同じダーク・サイドに陥ってしまい、しかも自分がダーク・サイドに陥っていることには気が付いていません。以前にも書いたかどうか記憶がありませんが、日本人と韓国人が互いに「お前のかーちゃんで・べ・そ!」と罵り合っている、あるいは「バカ!」「バカと言った方がバカ!」「バカと言った方がバカと言った方がバカ!」と怒鳴り合っている、そんな低レベルの戦いになりつつあります。

   一方、K-POP愛や韓国ドラマ愛が高じて、韓国と韓国人に対して無防備になっている娘たち(おばさんはもう好きにして下さい)の存在があり、韓国と韓国人に対して全く無関心な人たちもいて、日本人の対韓国意識は、四分五裂の感があります。

   もう一つだけ付け加えると、反韓の書き込みは微に入り細を穿ち、感心させられるような素晴らしい分析もたまには見られるのですが、反中の書き込みは反韓の書き込みの1割もありません。現在最も脅威なのは中国の動向なのですが、これに対しては皆さん引いてしまっているようです。韓国は徹底的に叩く。中国は叩かない。韓国も、日本は叩きますが、中国は叩きません。日本も韓国も、少し引いた場所から俯瞰すると、やっていることは五十歩百歩なのではないかとも思えてしまいます。

マレーシアの人とやりとりをする

2016-12-22 07:52:16 | 日記
  またまた体調を崩して寝転がって生活しております。こうしたことが年間何回かほとんど定期的に起きるので、もう慣れっこになってしまいましたが、どうやら季節の変わり目が危ないようです。韓国語仲間のHさんによれば、季節の変わり目に亡くなる人が多いのですが、実は初夏が最も危険なのだそうです。私の場合は中学生時代から冬に入ると学習能力もがくんと落ち、試験の点数も大幅に下がりましたので、死ぬとしたら今頃かと思いつつ、テレビ用枕に頭をゆだね、韓国ドラマを鑑賞しています。2日間で20話完結のドラマを見終わってしまいますので、寝込む度に聞き取り能力が上がっているのがわかります。

   中国語の方はそろそろ少しは違った展開をしなければいけない時期に差し掛かっている気がします。現在東亜学院の最上級生になっているわけですが、ここに来て中国語に関する重大な問題を発見しました。中国語は文語体と口語体に分かれているため、現在学習しているような文語体の教材は、会話には使えないということ、同時に中国ドラマを見ても、口語の勉強をほとんどしていないために、聞き取りが難しいということです。

   韓国ドラマの場合は、日本語字幕を見ていれば、セリフの韓国語が理解できます。しかし、中国ドラマの場合は、日本語字幕にされてしまうと、ほとんど聞き取ることができません。中国語字幕がついていれば、目と耳をフルに動員して一目で理解できるのに、これは少々困ったことです。そのため、日本で放送されている中国ドラマは、ほとんど聞き取ることができないでいます。

   最近、東南アジアの方と思われる男性からFacebookの友達申請を受けました。Facebookでは露骨な反韓・反中の方々から多くの申請を受けているのですが、それらは全員却下。この人の申請だけを受けました。私の立場は反韓・反中ですが、多くの人のように人種差別的に嫌いなわけではないからです。そして、その東南アジア系と思われる方の申請を受けた結果、ぼちぼちとその方の友達の書き込みも読めるようになってきました。今日になって気づいたのは、繁体字でされる書き込みは、実はマレーシアの人たちの手によってなされていたということでした。

   考えてみれば東南アジアに中華系の人々は無数に居住しているわけで、繁体字=台湾と決めつけていた私が愚かだったということです。この人たちは大型バイクで日本国内をツーリングしたりして楽しんでいる最中のようでした。せっかく入ってくる書き込みなので、私もぽつぽつと中国語で書き込みをして、趣味と実益の二兎を追っています。やはり、授業や宿題といった受け身のやり方ではなく、能動的に実際に使うことが大切だと思います。その機会を見つけられたので、彼の友達申請を受けたのは大正解だったと思いました。