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雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

もっと楽しく夢を語ろう

2010-08-22 06:49:14 | カワサキ単車の昔話

★ツイッターで小林ゆきさんが日経の記事のことつぶやかれたら、13人もの人がリツイートした。


小林ゆき

yukky_rt 原付はピークの1割、大きいバイクは30年間で半減だけどここ10年は横ばい、がもっとよくわかる日経bpの記事 http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20090515/1026204/
kawasaki, let the gootimes roll !のコンセプトはそのころ1975年に生まれたのである。
今私たちは、小さなNPOだが夢は大きく、そのコンセプトを二輪だけではなく、もっと大きく引き継いで、楽しい社会の実現を夢見ている。

★幾らかでも、バイクの世界を明るくしようと努力している人たちは、今でも間違いなくいるのである。
冒頭に紹介した小林ゆきさんのつぶやきを最初に『リツイートした人』は、大阪生駒の『happyend』さんである

ペイント屋さんだが、タダのペイント屋さんではない。バイク業界を明るく活性化しようと頑張っている。
残念ながら、今のメーカーの完成車販売一辺倒の政策では、happyendさんとの接点は、見つからないのである。
なぜ私と繋がっているのか? それこそずっと昔々のことだが『遊び心満点』であった枚方の故野崎輪業さんのこと書いた私のブログで繋がったのである。

ごく最近、NPO The Good Times にも参加されたし、ッツイッターも始められたばかりである。

★昨日は、我が家に珍客が訪れた。
大阪、貝塚の月木レーシングの月木さんである

残念ながら、カワサキの新車を売らないので、今は正規販売店にはなっていないが、『カワサキ親派』であること間違いない。
最近は三木のカバン屋さん(NPO事務局長)宅にしょっちゅう二輪談義に現れる。
勿論、NPOの当初からの会員だが今までは眠っていた。

月木レーシングは、今もアメリカに事務所を持ち、タイのバイクを輸入し単にマフラーを製造販売しているだけではない。
かっては、岩城滉一らと一緒にカワサキのレースやジェットスキーで、楽しい遊びの世界を演出したキーマンである。
もう一度、機会があれば何か大きな夢をみたいなとは思っていた。
今はネットの世界だから、アメリカでもタイでも、横に繋ぐのは簡単なのである。

特にタイのバイクメーカーの社長ピテイさんは、私の旧い仲間である。
何事にも積極的で、ノヴァエネルギーの潮流発電に今関心を持っている。
タイカワサキの社長もしていた小川君は、今NPOの監事で手伝ってくれている。
もっと大きく、楽しく繋がらないかなと昨日はネットに詳しい月木の息子さんも入れて、半日夢を語ったのである。

今日はその小川君とNPOの副理事長のタッチャんと、ノヴァエネルギーの鈴木社長と潮流、海流発電の経営談義をすることになっている。
『夢が動かないかな』、じっとしていては動かない。独りでも動かない。
みんな繋げば、意外に動くものだと信じて動いている。

日航ジャンボ機御巣鷹事故から25年と私との関係

2010-08-13 06:10:17 | カワサキ単車の昔話
この記事を書くのはどうしようかと思ったが、御巣鷹の事故25年と言うので書くことにした。


★日航機の御巣鷹の事故は1985年8月12日、25年前のことである。

当時の伊丹―羽田便は、JALもANAもほとんどが、ジャンボだった。
ジャンボと言っても細かく言えば、幾つかの機種があったのだろうが、
『私の思っているジャンボ機』も間違いなくJALは伊丹―羽田で運航していたのである。
ひょっとしたら御巣鷹に墜落したジャンボ機は、その機種のその飛行機でなかったのか?
と私は、秘かに思っているのである。

★日航ジャンボの事故があった翌日、
私は当時の事業本部長の高橋鉄郎さんのお伴をして、それこそ日航ジャンボ機で、アメリカに出張しているのである。
お盆の夏休みがあるのは日本だけで、海外販社はお盆休みなど関係ないものだから、世界的な事業展開の単車事業部の幹部たちは、特に高橋さんはお盆休みは海外販社出張が定番だったのである。
アメリカ現地では、レンタカーを借りて自分で運転して行動する、そんなスタイルであった。

その時のJALは流石に大事故の翌日で、キャンセル続出でガラガラだった。
機内サービスは非常によかったが、正直あまり気持ちのよいものでもなかった。
ただ、乗って直ぐ後部トイレの仕様を確かめて、このジャンボは大丈夫と勝手に決めていた。

これは私の勝手な仮説なので、書くことをためらったのだが、非常に高い確率でそうだと信じている。
出張先のアメリカのKMCの社長をしていたのが田崎さんである。
私の今から書く話を一番よく知っているし、理解をしてくれる人と言えば、高橋さんと田崎さんなのである。


★話はさらにさかのぼって、1976年の話からスタートするのである。

そのころ、私は川重の単車企画にいて、東南アジアへのCKD事業の起案者であった。
当時はまだ技術本部長であった高橋鉄郎さんを団長に担ぎ出して、東南アジアの市場調査団を構成して、台湾、タイ、イラン、マレーシア、インドネシアなど各国の市場調査を行ったのだが、

イランのテヘランからタイのバンコックへの飛行機がパンナムのジャンボ機、その機内のトイレからこの話は始まる。
1976年6月10日のことである。

この飛行機の最後部のトイレの中で事故は起こったのである。読者諸氏は想像力をたくましくして、私の説明を理解してほしい。
この説明は帰国後いろんな人にしてもなかなか理解して貰えなかったのである。

●飛行機の最後部のトイレである。
●飛行機の最後部はだんだん後部になるほど細くなる。
●トイレは幾つかあるが一番機体の外側に近いトイレである。
●トイレには紙を捨てたりする、なんというのかゴミ捨ての場所がある。
●普通はその蓋は上を起点に奥に開くものである。
●ところが最後部でだんだん狭くなるので、この蓋は右を軸に壁に沿って開くように造られていた。
●紙を捨てようとして、私の指がそれこそ一瞬のうちに吸い込まれ壁と蓋の間に挟まって抜けなくなってしまったのである。
●空気圧などの問題がなければ、構造としても何の問題もない。
●一瞬のうちに指が吸い込まれるような気圧の変化など想像できないのである。

それは一瞬の出来事であった。何が起こったのか解らなかった。
機体の壁とアルミの蓋の間に挟まれた指は独りではどうすることもできず。
乗務員たちが来てくれたが、それでも駄目で最後に何人かで蓋を引っ張ったら何とか抜けたが、挟まれた中指は1cmほど深く切れたのである。

これはどう考えても空気圧の仕業だと思った。
パンナムだったので、事故報告書は『Door bite his finger』と書かれた。
事故後は、ただ一人乗っていた日本人のスチュアーデスが直ぐファーストクラスに席を移してくれて、最上級の対応だったし、
バンコックの空港でも空軍病院では、患者があふれているなかで、掛りの人に目の前で現金を渡してVIPなみの待遇と素早い処置がなされた。
すべてフリーパスの最高の処置、待遇だったのである。
ずっと昔のことだが、アメリカの航空会社だったし訴訟などにされたら大変と思ったのだろう。
手術も3人の医者で大層におこなわれた。
帰国後糸を抜いたのだが、医者に『何処でしました?』と聞かれた。ダメなのかと思ったら、こんなに丁寧な縫い方見たことがないと言われた。

そんなことで、指には今も傷跡がある。
もし、日本人のスチュアーデスがいなかったら、ひょっとしたら訴訟を起こしたかも知れない。
それくらい、一部の隙もない素晴らしい対応であった。
このあたりの話をよくご存じなのは、団長であった高橋さんである。


★その後何年も経って、東京ー伊丹便で、私が事故にあったトイレと同じジャンボの機体に出会ったのである。
その後ジャンボに乗るたびに、あんな仕様の最後尾トイレはないかとチェックしていたのだが、出会うことはなかったのである。
同じ仕様のトイレのあった飛行機はJALのジャンボだったのである。
確か84年か85年だと思うが、たまたま一緒に乗っていた田崎さんをトイレまで引っ張って行って、こんな仕様だと確認したのである。

御巣鷹の事故の原因は、いろいろ言われているが、
『最後尾の』とか『後部圧力隔壁下部』などの記述がある。

私の事故も『一瞬に吸い込まれた』という表現があたっている。
こんな危ない仕様のジャンボがJALにあったのは間違いない。
あの御巣鷹での事故機の最後尾のトイレは、どんな仕様のジャンボだったのだろうか?
私は、田崎さんと一緒に乗った 『あのジャンボ』ではないかなと思っている。






本田宗一郎さんとの旧い写真

2010-08-10 05:22:13 | カワサキ単車の昔話
★カメラを自分で持って写真を撮り始めたのはごく最近、
ブログに写真を貼り付けられるようになってからのことである。

それまではどうも写真は面倒で苦手であった。
フィルムを買う。写真を撮る。現像をする。人に配る。写真帳に貼りつける。
こんな一連の作業が大変でいやだった。

海外もあちこち行くことは行ったのだが、海外出張でカメラを持っていったことはない。
家内と旅行するときだけはいつも使い捨てのカメラのお世話になっていた。


★そんなことで、写真は家にもいっぱいあるのだが、それを取り出して、昨日眺めてみたのである。

最近、自分史を書きだして、小学校の頃を過ごしたソウルのことなど、書いたりしているのだが、
ソウルオリンピックの時に、ハンガンでジェットスキーの欧米豪日のトップライダーを集めてのデモンストレーションをやったことがある。
その時もカメラなど持参していなかった。
その中の1日、子供のころ住んでいた家が見たくて、故苧野豊明さんと一緒にタクシーで、家を探して走り回ったことがある。
そして家は見つかったのである。
その写真を苧野さんに撮って頂いたのがあるはずだと、探しまわったのである。
その家の写真は見つかったので、近いうちにご紹介しようと思っている。


★沢山の現役時代の写真を眺めてみたが、人の記憶力は頼りないものである。
写真に一緒に写っている方の名前も半分以上解らない。
ひどいのになると、それはいつ、何の写真だったのかも解らないのである。

逆に、鮮明におぼえているのもある。


こんな写真が出てきた。
これはアルバムにして贈られてきたのである。                               
                                                                                   

これは貴重な写真である。

左から本田宗一郎さん、高松宮さま、桜井さんである。
ヤマハの菅生であった全日本モトクロスの昼食会である。
カワサキからは、青野さんと若輩ながら私が出席させて頂いたのである。

★写真と言えば、このごろはパソコンで、写真を見やすく修正なども出来るのである。
先日、大阪の船場の岡田さんが、わざわざ逆光で写した写真を綺麗に修正して送っていただいたりした。
この写真の現物はヨコ 17cm, タテ 12cm で非常に鮮明である。
ぼんやりしているのは私の技術がダメなだけである。


上の昼食会の時は、確か席次もお品書きも一緒に送って頂いたのだが、それもどこにあるのかよくわからない。
この全日本MXのカワサキの成績が全然で、そんなことばかりが当時は気になっていたのである。

尊敬する本田宗一郎さんとは、直接お話ししたことは一度もないが、同じ会議やパ―テイでは何度かご一緒させていただいた。
非常に気さくな、常に場を明るくされるように、あちこちに気を使っておられたのが印象的だった。
一言でもいい。話をさせて頂いておればよかったなと思っている。




永田町の論理とは?国民目線とは?

2010-07-16 06:47:29 | カワサキ単車の昔話
★先日、二輪車業界の『ベタータイムス』が送られてきた。
森田伊活さんおひとりで発刊し続けられている業界誌だが、もう30年にもなるかなと思っている。

毎月1回の発刊だが362号になるので、ちょうど30年になる。
発刊当時、故小野寺さんのご紹介で、森田さんに初めてお会いした。それ以来のお付き合いである。

二輪車新聞の衛藤さんとはそれよりまだ旧く50年のお付き合いだが、
ベタータイムスも、二輪車新聞も、現役引退して15年以上も経っているのだが、いまだに我が家の送って頂いていて、
これで現在の二輪業界の動きが何となく解るのである。


★つい2、3日前、大阪の忍者の伊藤さんから、夜電話を頂いた。
例によって、飲み屋からである。
今回はカワサキの連中ではなくて、カワサキのお客さんと一緒で、
その方が私のブログの話をなさって、急に思いたっての電話だったようである。
そんな話から、『先日、ウナギを送ったけど、今度は水ナスの季節になったから、それを送る』などと言う話のあと、

『最近、二輪業界全然ダメですわ』という話になった。
でも、幾ら苦しくなっても、伊藤さんは生き抜いていくと思う。
そんな彼独特の柔軟性をもっている。どんな時代になっても大丈夫である。
気に入った個別の人たちとはお付き合いもするが、決して同業で群れたりはしないし、簡単にメーカーの言うことも聞かない。
決して、メーカにとってやり易い店ではないが、『いい店』であることに間違いない。


★業界が『厳しい』というのは、常に言われてこの50年続いてきた。
ベタータイムスの焦点の書き出しも、『厳しい市況が続くーー』から始まっている。

確かに、特定のメーカーの特定の機種が、右から左に売れて、業界、特に販売店が急成長した時代もあった。
それに比べたら、厳しいのかも知れぬが、
世の中は、どんどん変化をするのだから、時代にあった構造に改革もせずに、ただ『厳しい』と言っているのは、不思議である。
基本的に、メーカーも業界、流通機構も昔のままの構造で、『昔の夢』を追い続けているのが問題で、時代錯誤なのである。

★昭和45年(1970年)にカワサキが従来のモペットを売る自転車屋主体の『委託制度』から、
スポーツ車を売る『二輪専門店制度』に切り替えrて、現在の二輪販売網の基礎が造られた。
先頭を走ったのは身軽なカワサキだったが、それはもう40年も前の話なのである。

他の業界もどうなったのか?
米屋も、酒屋も、電機屋さんも、今はその面影も残していない。全く別の形態になっている。

特に、メーカーの関係する『新車販売』の形態が変わっていないのは、メーカーの時代を読む目に、『狂いがあった』のではなかろうか?
ひとり二輪業界だけが、何十年も同じ形態を引きずっていることが、むしろ滑稽なのである。

中古車の販売形態は、昔とは様変わりなのである。


★私が現役最後の20年前、
カワサキとしては、『末端ユーザーが求める二輪に関連する機能』に合った高度な専門機能を持った『ネットワーク構築』を目指した時期がある。

その時点ですでに、従来の販売網では、ユーザーが真に求めている多様かつ高度な機能に対応出来ていないと思っていた。
あの時点で、企図した『機能別ARK』が、そのコンセプト通りに推進されていたら今頃はまた変わった二輪業界になっていたかも知れない。

あの頃から、インターネットの世界が日本の流通業界を変えたのである。
その仕組みを、あえて使わぬ商品は骨董品の類かと思ったら、二輪の世界では、『中古車は使って、新車は使わぬ』というのだから、
これは不思議な流通形態と言わざるを得ない。
それを消費者が望んでいるのなら解るのだが、上からの押しつけなら、『永田町の論理』とよく似ている。

今、日本には、過去最高の350万台という登録車両がある。
バイクのユーザーはの年齢は上がって、いまさら暴走族などには決してならない、優良ユーザーである。
バイクは省資源、省エネの時代にあった商品である。
4輪でも大衆車がタイから輸入される時代である。

考えようだが、
今は二輪車業界にとって最高の追い風が吹いているとは、考えられないか?
単なるメーカーという機能から脱皮した『二輪の総合事業の展開』という総合戦略からの発想があれば、面白い事業展開が描けると思うのだが。

販売という最も今の時代に単純な機能を、わざわざ販売店という店を作って、それを通してしか売れないということ自体に、世の中の消費者とのずれがある。
それを望む消費者もいるが、そんな面倒なことは嫌いなユーザーもまたいるのである。
その対応は、メーカーの想いから決めるのではなくて、消費者の想いに如何に対応するのかという発想でなくてはならない。


★最初に、触れた業界誌紙も、ある意味護送船団方式が生み出したものである。

日本の国挙げて、真の意味での『消費者志向』『国民目線』になることが、求められている。
政治家やメーカーといった従来の構造の一番上にいた人たちの『発想の転換』が求められているのである。

政治の世界に、『永田町の論理からの脱皮』とか 『国民目線』とか言われているが、
政治の世界も、ほんとの構造改革 が求められているのである

上海万博が開幕、『大阪万博の思い出』

2010-05-03 04:58:58 | カワサキ単車の昔話
上海万博が開幕した。
今から、6ヶ月いろんな関連ニュースが飛び込んでくることだろう。
何はともあれ『その活気』と『中国の元気さ』が感じられる。


★昭和45年、1970年、今からちょうど40年も前のことだが、
大阪万博があった年である。

私もまだ30代後半で、元気だった。
日本自体が今の中国のように元気だったのだと思う。

中国もオリンピックがあって、その次が万博だが、
日本も東京オリンピックで盛り上がって、新幹線も走りようになったし、東京には高速道路も出来た。

一般家庭にもカラーテレビが普及しだし、いわゆる自家用車、車を持つ家庭も増えてきた、そんな時代であった。
個人的なことを言えば、やっと給料が10万円の大台に乗ったのをよく覚えている。


★国も元気であったが、私たちも無鉄砲で元気だったのである。
万博のときはまだ東北、北海道の担当で仙台に居た。

若かったけど、一応は責任者であった。
どうしても万博が見たいと、所員と3人で明石出張を口実に行くことにしたのである。
流石に新幹線を使うのは気が引けて、3人で車を運転して仙台を出発した。
東京までは高速道路もない時代の片道1000kmを3人で大阪までやってきた。

やっとたどり着いた万博会場だが、
渋滞にびっくりし、
車を止める駐車場もない。
この人では、果たして入場券が買えるかどうかも解らない。
入場しても見るのは大変だ。

静かな東北に慣れた田舎者は、直ぐ入場するのを諦めてしまったのである。
とても予想することの出来なかった状態だったのである。

★上海万博の賑わいを見て、40年前を思い出した。
国も、人もそんな若く元気なときがあるのだ。

二輪業界もカブ代表されるモペット全盛の時代から、カワサキもA1からマッハⅢ、さらにはW1画でてようやく実用車のカワサキからスポーツ、中、大型車のカワサキに脱皮しようとする時期であった。

万博が始まる頃は、実用車の中心市場仙台にいたのだが、
万博も終わったその秋には、カワサキにとって今からの市場大阪を担当することになったのである。

大阪に着任したら、船場モータースの岡田社長に、
『東北ではどうか知らぬが、大阪では、
ホンダは別格、世界のヤマハ、日本のスズキ、明石のカワサキ、ですよ』とおちょくられた。そんな時代であった。

その3年後、昭和48年、『カワサキ特約店制度』が大阪、京都、名古屋でスタート。
その中心的な役割を果たしてくれたのは、船場の岡田さんだった。
今の忍者の伊藤さんも若くてやんちゃな時期であった。

大阪万博の頃、そんな40年前が懐かしい。

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赤タンクのカワサキの時代ー3 1965,1966

2010-04-27 05:06:53 | カワサキ単車の昔話
★1965 昭和40年

カワサキのレース活動の実質2年目、ようやく組織らしい活動の状態になった年だとも言えるだろう。
2月に山本、歳森のBSとの仮契約騒ぎがあって、神戸木の実の主宰者、片山義美さんにその調整を依頼しその会談に出席して、今までヨコから見ていたレース活動に初めて正式に手を染めることになったのである。

そのときの話し合いの中で、片山義美さんに指摘されたことが、カワサキのレース活動の質を一変させたと言ってもいい。

山本隆君のBSへの移籍の動機にもなっていたロードレースへの参加も、
5月に会社には黙って非公式に出場を果たした。
これを手伝ってくれたのも田崎さんである
その結果が思わぬ3位入賞となって、6月の鈴鹿6時間耐久レースにカワサキとしては正式にロードレースへの参加を決定したのである。

社内にも技術、営業、生産の各部門のメンバーを集めた『レース運営委員会』なる組織が正式にスタートして、その事務局を担当した。
同時に、MFJの運営委員会にも各社の錚々たるメンバーに若輩ながら末席に参加させていただいたりした。

6時間耐久レースには、大槻レース監督という初めての形で望んだし、このレースにカワサキのライダーとして、初めて金谷秀夫が歳森康師と組んで出場したのである。
金谷もこの年、新人としてのデビューであったが、
モトクロスの世界でも、星野一義もアマチュアの資格ながらモトクロスに参戦し、全日本をはじめあらゆるレースで抜群の成績を残したのである。
その星野の好敵手だったのが、同じクラスのスズキの吉村太一ちゃんであった。

鈴鹿の24時間耐久レースが開催されたのもこの年である。
カワサキは勿論まだ不参加だったが、MFJの役員と言う形で参加した。
夕方の5時のスタートであった。

秋のGPにはカワサキも安良岡健の個人参加と言う形での参加があって、ようやくロードレースにも本格的な活動を開始した記念すべき年であった。


★1966年 昭和41年

この年までの3年間、カワサキのレースを担当した。
この3年目は、いいこともあったが大変な年でもあった。
初出の日、1月5日に藤井敏雄君と契約の件で話をした。こんなことでこの年がスタートしているのである。

カワサキもGP125を本格的にやるべくライダーも安良岡の一人から金谷、藤井の3人体制でスタートさせたのである。
藤井敏雄君とは本人のたっての希望で秋の日本GPまではライダー契約ではなく、『マシンの貸与契約の形』で欧州のGPを転戦し、その結果を見て個人契約を結びたいと言うことだったのである。

日本GPと言えば、この年鈴鹿からFISCOにその舞台が変わることになっていて、MFJの運営委員会ではホンダさんがあの『須走り落とし』と言われた第一コーナーが危険と主張し、日本GPへの参加を見送った年でもあった。

レースには関係ないのだが、7月6日には、『ビートルズが東京にやってきた』
その翌日の、7月7日から、
カワサキのF21Mのファクトリーマシンの製作が、故松尾勇さんの手でスタートされたのである。モトクロス職場で、ヘリコプターのクロモリのパイプに砂をつめて1台ずつつくりあげる文字通りの手作りであった。
7月11日に1号機が完成している。
ダブルクレードルの松尾さんが設計図もないままにつくりあげたフレームに238cc単気筒エンジンを積んだ独特の排気音は技術オンチの私でもよく覚えている。

その後一世風靡した名車としてレース界に君臨したのである。
『カワサキの赤タンク』の名声を作り上げたのはこのマシンと
当時の山本隆、歳森康師、梅津次郎、岡部能夫、星野一義のライダーたちだろう。

当時はジュニア、アマチュアなどにも、大型専用トラックに満載するほどの貸与マシンを積んでのレース活動で、50台ぐらいのマシンを積んでの出場だったのである。
カワサキのMX黄金時代であった。

★この年の後半は、ロードレースで大変な年であった。

8月27日、マン島のプラクテイスで藤井敏雄君が転倒、帰らぬ人となったのである。

そのあと、日本GPのライダーとして契約したデイグナーもFISCOの練習中に転倒、一時はその生死もわからぬような事態になったのである。

外人契約をするのも初めてで、社内には経験者は一人もいないので、ホンダの前川さんに、鈴鹿まで教えを乞いに伺ったりしたのである。
その契約金を円で結んだために当時、円は海外の持ち出せないために、日銀に顛末書を書いて、何とかしてもらったなどのおまけまでついた。

この10月のレースと、そのあとのモーターショーで、約3年間の有り余る予算のあたt広告宣伝活動とレース活動も担当の期間を終えるのだが、この数年間の経験がその後の人生を左右したとも言える。

ほとんどすべてが『未知の分野への挑戦』であった。
社内には教えてくれる人はいなかった。
当時、カワサキのレースを支えた人たちは、みんな、
技術屋さんもメカニックもライダーたちも、みんな自分で道を拓いた人たちなのである。

知らず知らずの内に『厚かましく、無鉄砲で、未知の世界を恐れない』そんな体質になってしまったのだろう。
そのとき一緒に同じ夢を追っかけた人たちは、みんな職位などを超えた『仲間』なのである。

『カワサキ赤タンクの時代』 そんな時代に生きられて幸せであった。

赤タンクのカワサキの時代ー2 1964年

2010-04-26 04:21:05 | カワサキ単車の昔話
★1964年 昭和39年

この年に『日本能率協会の調査報告』を受けて、
単車事業は本格的に事業として推進することが正式に決まった。

本社からの広告宣伝予算も3年間開発費として1億2000万円が支給されることになり、それを担当することになった。
2月1日に広告宣伝課がスタートはしたが、課長も係長も不在で苧野部長の直接担当でその次に平の私という不思議な構成であった。

広告宣伝課だから勿論広告関係の仕事もやるのだが、予算金額が大きすぎて、誰も経験がないし大変であった。
広告代理店だけはこの予算を目当てに、電通も博報堂も大広も出先ではなく本社からのアプローチで、当時の広告の最先端の企画担当者と付き合えたのは至極勉強になった。

金はふんだんにあるのでレースもここからと言うことになったし、あちこちの部門からこの予算目当てにアプローチがあった。
各部の部長さんたちから直接平の私に交渉ごとなどがあって、とにかく普通ではなかったのである。
結構、贅沢な使い方をしたのだが、この年は7000万円ちょっとしか使えず、本社の専務さんに『お前らは金をやってもよう使わん』と不思議な怒られ方をした。


★レース関係では、ライダー契約もほとんど実績のなかった若手に100万円近くの契約をしたり、
三橋実君が主宰していたカワサキコンバットに毎月20万円の運営費を渡したりしたのだがそれでも使いきれなかったのである。
ちなみに当時の私の年俸は40万円にも達していなかった時代の1億2000万円なのである。

広告宣伝費で下取りしてきた中古のヘリも持っていたし、ヘリコプターをあちこちに飛ばして代理店のお客を乗せたりもした。
4月からはこんなヘリの運営とレース担当に大西健ちゃんが来てくれて、レース場などにもヘリコプターを持って行ったりした

当時カワサキはレース界では新入りではあったのだが、
スズキやヤマハの有名ライダーたちにヘリに乗せろと頼まれて、こんなことで仲良くなった。
6月にはヤマハの荒井市次くんが、
7月は城北ライダースの久保克夫くんや
当時のレース界での顔だった新明和の河村さんなどとも直接会って、話が出来るような関係にはなっていた。


★レースは4月25,26日MCFAJの朝霧高原での全日本モトクロスなどあったが、とても全日本レベルでは勝てたりはしないので、地方レースばかりを毎週広告宣伝という名目で出場し、そこでは当然優勝できるので、その結果だけは『優勝、優勝』と広告代理店の本部がパブリシテイで各地方紙に記事を流してくれたりして、『本当にカワサキは強いのか?』と業界の人たちまでが錯覚したのである。

当時のライダーは、
神戸木の実から山本隆、歳森康師
カワサキコンバットは三橋実、安良岡健、梅津次郎、岡部能夫、加藤清丸その他で
特にカワサキコンバットには、ライダー養成なども目標に20万円の運営費を渡していたので、全国から才能のある無名の若手がいっぱいいたのである。
星野一義や金子豊君も当時はそのone of themであった。

こんなライダーたちが毎週全国各地の『勝てそうなレース』を狙って何班かに分けて出場していたから、毎週のように『赤タンクのカワサキ』は優勝していたのである。

★こんな『どさ廻り』をやりながら、新人カワサキも徐々に実力を上げて、
秋ごろには、当時の御三家と言われた久保、荒井、三吉の『三吉一行』君もクラス契約などしてそこそこの実力になったのである。

私はレースは管轄していたが、直接は担当していなかったのだが、
9月10日に、当時の全国カワサキ会の会長をされていた荻原さんの地元で
『山梨モトクロス』が開催され、来年新発売の85J1 のモトクロスマシンの初登場と言うこともあって、直接レースチームの責任者として現地に行くことになった。

当時はまだ正式にレースチームの監督などはいなくて、カワサキコンバットの三橋がチームを統括していたのではと思う。
このレースもメカニックの統括として一緒に行ってくれたのが、田崎雅元さん(元川重社長、会長、現相談役)である。
彼はそのころは、製造部門にいてレースも色濃く手伝ってくれていた仲間なのである。

★この年の10月10日、東京オリンピック開会式の当日、
伊豆丸の山のMCFAJ全日本モトクロスでカワサキは4種目中3種目を制覇した。

さらに11月8日には、和歌山紀ノ川で
スポニチ主催の西日本モトクロスの開催にこぎつけた。
これはカワサキが熱心に仕掛けて実現したのである。
スポーツ紙がモトクロスを主催したのは、初めてであったし主催であったから当然記事は大きく報道された、
このスポニチのモトクロスはその後何回かシリーズで行われ、確か何回目かの加古川の大会には、全日本クラスのメンバーが出場する大会にまでなったと記憶する。

この和歌山のレースが星野一義が初めてレース場を走った実質デビュー戦なのである。


★1964年、昭和39年がカワサキが実質レース活動を開始した年である。
モトクロスだけで、年初はヨチヨチ歩きではあったが、1年でモトクロスでは確固たる地位を築く基礎だけは出来た。

当時のレースにいろいろ関係の会った人
山田てる明、苧野豊秋、中村治道、高橋鉄郎、大槻幸雄、田崎雅元、その後みんな偉くなられたが、
そのころはトップも成り立て部長、高橋鉄郎さんもまだ係長だった。

カワサキはレース以外、競合3社に勝てるものは何一つなかった時代である。
モトクロスと『元気、無鉄砲』さだけは、際立っていた。

『隣国の兵は大なり、その武器は豊かなり、その武勇は優れたり,然れども指揮の一点譲るべからず』
会合でのスピーチの度に、必ずそう言われた岩城良三さんが事業の指揮官であった懐かしい時代である。
(続く)


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赤タンクのカワサキの時代

2010-04-25 05:09:29 | カワサキ単車の昔話
★カワサキがレース界に参入した黎明期、カワサキのモトクロスマシンのタンクは赤く塗られその上に『カワサキ』の文字のある独特のものであった。
誰言うとなく『赤タンクのカワサキ』と呼ばれるようになったのである。

そんな時代のカワサキライダーの山本隆君、60おじさんと当時のカワサキのレースの取材を28日にしたいとの雑誌社からの申し入れがあって、出席することになっている。
そんなことで当時の日記から、自分のために纏めようと思っている。

当時、ホントにカワサキの単車の初期のことだが。


★1962年、昭和37年

私が発動機営業の単車係に配属されたのは、前年の12月15日もことである。
まだ、125ccB-7の時代であった。まだ私も30才、独身であった。
その頃は、単車を事業として本格的にやるのかやらないのか定まっていなくて、職制変更が繰り返されていた。

3月1日に単車部業務課として発動機と分かれたと思ったら
4月1日には、発動機部が事業部制を敷いて
4月15日には、発動機事業部第二営業部単車業務課になったりした。

8月にはB-8の発売準備など進められた。

10月には、まだ建設中であった鈴鹿サーキットの看板広告の見学会などもあって、まだコースだけしか出来上がっていない鈴鹿を見たりした。
初めて聞くレーサーの爆音に驚いたりした。
勿論まだ、レースなどカワサキには関係はなかった時代なのである。

その時代にもすでに東京モーターショーはあって、カワサキも参加していた。
技術部や生産関係は人数もいたが、営業や管理は私を含めて3人ほどしかいなかった。

神田岩本町に『カワサキ自販』があって営業はここが担当、勿論海外や輸出などは始まっていなかった。
平井稔男さんなどは多分まだ近畿メイハツの所属だったのではと思う。


★1963年、昭和38年

この年の1月に発動機の管理課になっている。
名前は何度も変わっているが、やっていることは同じである。
ただ、非常に広範囲で、大げさに言えば企画、管理、広告宣伝、営業、物品税
などの事務関係の機能の単車に関すること一切をやっていた。

評判の悪かったB-7に代わって、この年からB-8が発売され、何もしないのに結構評判はよかった。

『5月19日、兵庫県青野ヶ原のモトクロス』

B-8のモトクロッサーを生産サイドの中村治道、高橋鉄郎さんたちがボランテイアで作り出場したのである。
予算もなかったのを当時の営業の上司の小野助治さんが『交際費から幾らか出してやれ』との指示で少しだけ都合したことを覚えている。私はそんな管理をしていただけで、レースには同じ係りの故河合寿一さんがマネージャー役をやっていた。

このレースはスズキ、ヤマハの強豪たちも参加していたのだが、当日は雨の水たまりの中を走るレースでみんな水をかぶって止まってしまった中をカワサキだけが防水対策もばっちりで、1位から6位まで独占すると言う信じられない結果になったのである。

このレースに出場したライダーたちは全員社内のテストライダー、加藤、飯原など清原明彦君の先輩たちで契約ライダーなどは一人もいなかったのである。
今回のカワサキ赤タンクの取材の主役、山本隆君は当日ヤマハでこのレースに出場したとか。

当時、勤労や企画のエライサンたちは、勝手にレースなどに出てと、あからさまに批判的だったのだが、1位から6位までの圧勝に急にご機嫌が直って、真ん中に収まっての記念写真なども撮られたのである。
まさに神の恵みの雨だった。

そんなこともあって、生産工場を中心に職場のムードは昂まり、当時この事業を存続すべきかどうかを調査していた『日本能率協会の調査報告』にも、『職場の意気高し』と存続再建を本格的にやる方向に決まったのである。

その年の11月にほぼ単車存続が決まり、発動機と単車は分離して単車再建の方向となった。



★『日本能率協会の調査報告』のなかに

『広告宣伝の独立実施』という事業再建の条件があって、
当時の川崎航空機の本社が本社開発費として当時の総売上高10億円の事業に年間1億2000万円の広告宣伝費を3年間出してくれることになったのである。

広告宣伝など誰も本格的にやった経験などなく、物怖じせずあつかましいのを見込まれて、『お前がやれ』とその担当を任されることになったのである。

当時私などの年俸が40万円にもならぬ時代であったから1億2000万円はべらぼうな金額なのである。
そんなことで、モトクロスレースも広告宣伝の一環と言う理屈をつけて、レース活動をこの広告宣伝費でまかなうことになったのである。

当時のモトクロスはスズキ、ヤマハ、BSだけであったが、運営費だけは新参のカワサキが圧倒的に有利で、私がレースを担当した3年間は幾ら使っても大丈夫なほど豊かだったのである。

そんな環境の中で、1964年からの『本格的赤タンク時代』が幕を開けるのである。
(続く)


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二輪車の駐車禁止の緩和

2010-04-15 04:48:20 | カワサキ単車の昔話
駐車場のスペース確保がなされないままに、二輪車の駐車禁止問題が突如として浮上し、東京などを中心に『二輪離れ』の現象が起こって、二輪の需要に大きな影響を与えてきた。

省資源、省エネ、など世の中の流れには、二輪車はぴったりの商品である。
そんな時期に、なぜ流れに逆行するような政策が採られるのか、とずっと思っていた。

送られてきた『ベタータイムス5月号』
今月号は、この二輪駐禁問題、満載である。


★『嬉しいニュース。3年以上、やがて4年を迎える二輪駐禁キップの嵐がやみそうだからだ。---』
と言う書き出しで始まっている。

二輪車駐車場拡充の法整備は出来たが、その数も収容能力も十分でない現状を無視しての取り締まりだけの強化がなされてきたが、
それを必要に応じて二輪車駐車規制を解除し、より合理的な駐車規制の推進、取り締まりのガイドラインの見直しなどをを適切に行うと言うものである。

この3年間で152万件の駐禁キップが切られ、ユーザーの二輪離れ、経済不況もあって国内の二輪車市場は最盛期の8分の1にまで縮小した。

★ベタータイムの記事によると

全国オートバイ協同組合連合会、吉田純一会長から、
2月23日に、二輪車駐車場問題』について民主党幹事長室に対し正式な要請が出され、
これを受け中井国家公安委員長の英断で二輪車の駐車場の確保が進展した。

と言うのである。



★この問題は、一般的にはよく知られてはいないが、現状を無視した『法律先行』『悪政の象徴』みたいなものだった。

この問題に対して、各メーカーもいろんな対策や陳情をしたのだろうが、
この4年間一貫して努力してきたのは、全国オートバイ協同組合連合会である。
自民党にもオートバイ議連もあって、小池百合子さんなど大物議員も沢山いて、実情はよく承知されていたはずなのに、一向に進展しなかった。


今回の前進が、
オートバイ協同組合が民主党幹事長室に要望し、
中井さんの英断で物事が進んだのは、官僚でなく政治家の政治判断で決まる新しい政治のあり方で歓迎である。

★一方の全国オートバイ協同組合連合会会長の吉田純一さん。
彼はカワサキ出身である。
吉田は他にもいっぱいいるので『純ちゃん』で通っている。
thiraiさんや私とは、若い頃からのお付き合いで、つい先日も、ちょっとだけだが電話で話をした。

小池百合子さんと対談したり、国会議員の先生方とこんなに頻繁に対等の立場で会って話が出来るのは、業界でも『純ちゃん』が一番である。

時代も変わって、純ちゃんと親しくモノが言えるカワサキの現役の人も少ないのだろうが、
こういう二輪問題は、より密接に連携していい方向に持っていって欲しいと思っている。


★二輪車は、本当に省資源、省エネ、省スペースなのである。
もっと胸を張って、堂々と主張すればいいと思う。

これもベタータイムスの記事からだが

『ジャーナリストの松下佳成氏は、ヨーロッパの先進国では、王族や首相が二輪車のレースを観戦、それほどまでのオートバイ文化になっている。オートバイに対する見方が我が国と雲泥の差がある。』

確かに、その通りなのだが。


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月木さんと10年ぶりに、不思議な縁

2010-02-19 05:36:38 | カワサキ単車の昔話
★一昨日は月木レーシングの月木博康さんと、ホントに10年ぶりにお会いした。
久しぶりに、『カワサキ単車の昔話』をしてみたい。
そんな話の材料をいっぱい身につけているのが月木博康さんなのである。


★月木と言えば、バリバリのカワサキだが、今は全然取引はないようである。

私が月木さんと初めて会ったのは、もう30年以上も前である。
貝塚から奈良へ繋がっている山道?の左手に大きな店があったのを覚えている。
お店に行ったのはこの1回限りで、一緒に案内してくれたのは、藤田孝明くんだった。
(まだブログで触れたことはないのだが一番一緒に仕事をしたのは藤田君かもしれない。販売店にはバイクでもジェットスキーでもめちゃ人気があった。川崎航空機同年入社で野球部では三遊間、1,2番コンビを組んでいた。月木をカワサキ陣営に誘い込んだのが藤田君というのも彼らしいと思っている。)
月木さんは無茶苦茶気はよくて面白いのだが、結構いろんなことに積極的でちょっと目を離すとどこへ行くのか解らぬ様なところが若い頃からあった。

★その後何年も経って、バイクの新車よりはマフラーに力を入れて有名になった頃、レースでずっとお付き合いをした。
岩城滉一 がカワサキに出入りしていた頃で、彼のレース関係の面倒を一手に引き受けてくれたのである。
そんな関係で、岩城滉一 は月木のレースチームの鈴鹿8耐の総監督をしたり、ZEPHREのワンメークレースに出たりしていたのである。

カワサキにソフト会社 ケイスポーツシステムがあった時代で、昨日一緒に会ってくれたタッチャンは当時のメンバーで、月木さんとは特別の関係なのである。
月木といえば=レースだが、バイクだけでななくて、
ジェットスキーも世界チャンピオンになった金森君(彼は今アメリカのKMCとの契約のようだが)の出身は月木チームで、彼をテストライダーとしてカワサキにつれてきたのは、thiraiさんである。



★そんな月木さんがなぜ三木のカバン屋さんをわざわざ貝塚から訪れたのか?
カバン屋さんの持っているバイクを観に来たのである。

カバン屋さんをなぜ月木さんが知っているのか?
今、月木さんが関係しているタイのバイクの関係で、バンコックに行っていたときタイに遊びに行っていたカバン屋さんが一度だけ会っているのである。(ただそのときもひょこむはトモダチでネット上では繋がっていたのである。)だから今回は2度目なのだが、月木さんは一昨日は私やタッチャンを訪ねてきたのではなくて、カバン屋さんのバイクに会いに来たのである。

カバン屋さんがなぜバイクを?
彼はカバンよりバイクのほうが間違いなく詳しいZオタクで、

こんなバイクをここだけでなく別に倉庫を持って持っているのである。

★でも、なぜ4人が一緒に?
みんなNPO The Good Times でつながっているのである。
月木さんとカバン屋さんはスタートからの団体会員さんだし、
カバン屋さんは事務局長、タッチャンは副理事長さんをしてくれている。

★さらに不思議なご縁といえば、今月木さんがタイの関係で輸入している125ccのバイクのメーカーのオーナーのピテイさんは、彼が大学卒業直後からのお付き合いで、私にとっても懐かしいタイの人の一人である。


みんな、今はカワサキではないのだが、
カワサキでみんな繋がっているのある。


カバン屋さんのバイク、もっと見たい方は、こちらの倉庫の写真をどうぞ。


★追伸)当日ツイッターに誘った。その場で参加して、もう幾つも『つぶやいているが、
その中の一つ

『rfuruyaさん、tmmrwataさん(タッチャン)、rimowayaさん(カバン屋)、一度ゆっくり此方に来ませんか?温泉に入りながら、ゆっくり食事でもどうですか?其の時は、事前に連絡を。
約12時間前 webで

若し行くときは、ネットはからっきしダメだが、藤田孝明君は是非誘ってみたい。
タッチャンともめちゃいいコンビだったのである。

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二輪事業について

2010-01-30 05:57:38 | カワサキ単車の昔話
昨日、二輪事業についての想いを書きました。
これは書き出すときりがないのですが、想いはいっぱいありますので、

昨日、1月29日のツイッターではいろいろつぶやきました。

結構ホンネでつぶやいていますので、是非ご一読下さい。



要は二輪事業は戦後100社を超えるメーカーが乱立した中で淘汰され
三菱、富士重、トーハツ、BS などと現在の4社を含む数社になったのですが、
これら大企業も本田宗一郎など浜松の企業との熾烈な競争の結果業界から撤退し、
現在のH,Y,S,Kの4社に絞られたものです。

大企業の体質では競争にならなかったと言えるでしょう。
当時の川崎航空機は戦後の中断があって、大企業の系列ではあったものの一種独特の気風があったこと、中大型スポーツの分野に差別化したこと、販売分野を国内はメイハツ、メグロ、海外は現地の人たちが直接担当し、所謂メーカの人達がやらなかったことが独り生き残ることが出来た理由だと私自身は思っています。

その頃から50年も経って、各社が大企業の体質になりつつあること、『自由奔放さの欠如』が今の問題だと思います。
現状を根本的に特にマーケットの分野から見直し、構造的な対応をやらない限り単なるコストや経費の削減ではなかなか難しいのではと思ったりします。

新しい発想こそが今求められていると思います。
政治の世界も、地方行政もみんな同じです。

大阪の橋下さん的な発想が要るのだと思います。


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カワサキの単車事業を考える

2009-11-11 04:56:40 | カワサキ単車の昔話
この数日、長年携わったバイクの世界をもう一度思い出させてくれた、
そんな環境の中にいた。
少なくとも、ここで出会ったバイクのプロたちの意見は、非常に前向きで明るいものであった。
そんな雰囲気の中にいるだけでも、楽しいものである。

バイクは楽しい遊びの乗り物である。
生活必需品などではないのである。
ベースに絶対に失ってはいけないのは『遊び心』なのである。
どうもその辺りが、昔に比べて希薄になったのではなかろうか?


土曜日に、出会った平井さんが、そのブログでこんな風に書いている。

そのブログのコメントに、今年は『チームハラダ』を鈴鹿で手伝った春さんが、

『そのとおりですね。今年は、「ひょこむ」の縁がありまして、カワサキプライベーターのレースのお手伝いをさせていただきました。
が.....タイヤサポートも、メインスポンサーも無くプライベーターにとっては、なかなか情熱だけではやっていけない時代のようです。
そんな中でも、お手伝いができ、また、私も素人ながら一緒に参加でき、楽しめる「レース」に興味が持てたので、これから、この下火になっている、レース界を再び盛り上げることのできる何かを見つけることができればと、考えています。』

とこんな、コメントである。
メーカーはともかく、末端のバイクファンは、至って健全な意見を持ち、元気なのである。
『日本のバイク保有台数は、350万台と過去最高のレベルにある。』
『新車が少し売れないだけで、二輪業界は結構面白い。エネルギー問題なども追い風である。』


昨日、今日と2日間、
雷神マッハさんともうお一人の関東のマッハマニアを明石工場にお迎えして、
夜はこんなバイク関係のメンバーでのオフ会、
翌日は、カワサキワールドを訪ねて、ぼけちんさんも加え、昼食をとりながらのバイク談義など、ずっと二輪の世界の中にいた。



明石工場で完成車の生産をすることだけが、二輪事業ではない時代に既になっている。
二輪事業とはどんな事業なのか? 今こそ新しい発想で二輪事業を捉えるべきだと思う。
新車は事業の中心ではあるが、特に事業損益のレベルでは、二輪事業のほんの一部なのである。
『ソレが全て』だと錯覚していないか?


ちょっと、従来の発想に捉われて、発想が固すぎるのではなかろうか?
Zでも、マッハでも、40年前の新車の頃よりも高い値段で、モノさえあればその頃以上に、売れる環境にある。
それをミスミス見逃しているという意見が、末端の市場をよく知っているプロたちの主流の意見である。

『メーカーでこんな旧いバイクの部品をもう一度、作りませんか?』
ユーザーたちの単純な願いなのである。

『型がない、アレがない』『難しい』 いろいろ断る理由を見つけるのは上手なのだが、コレは間違いなく『新しいビジネス』になるはずである。
新車を作るなと言っているのではなくて、ユーザーがホントに欲しているものに対応するのが新しい時代のメーカーの生き方なのだろう。

先日、ko-zaruなる30ccのバイクを作っている、ホンダOBのメーカーさんの佐々木さんに
『Kawasakiの1000ccか600ccのエンジン100台ほど、分けて貰えませんかね』と尋ねられた。 エンジン単体では売らない。
コレはよく解っている。
カワサキフランスが世界耐久でトップを走った頃の『マシンのイメージのクルマ』を再現』したいようである。

末端の価値観は、間違いなく成熟して、多様化しているのである。
今、供給側に求められているのは、単細胞な発想ではなく、末端の希望に柔軟に対応する姿勢と仕組みの創造である。


このマシン『EGLI』のエンジンは、ご存知の通りカワサキである。
エンジン単体でなく完成車を買って、エンジンだけを使うので、マシンとしては高価になるのだと思う。

ただ、そんなに高い車でも、大の男が3人熱心に車から離れないほどの魅力があるようである。
マシンとか、技術オンチの私には、なかなか理解できないが現実は、こんな様子なのである。

ただただ、完成車を作ってそれで経営しようという『メーカー』としての事業には、既に限界が来ているように思う。
本音で言えば、20年前の現役の頃から、そう思っていた。

明石の工場が、事業の主力なのか?
国内外の販社が、事業の主力なのか?
二輪事業とは、その両輪で成り立っているのである。
そして、その収益性は、その自由度と巾の広さから、間違いなく販社の収益性のほうが、圧倒的に高いはずである。

カワサキの単車事業には残念ながら、本社がないので、そんな経営次元の判断が検討されないまま、事業が展開されているのが、一番の問題点であると私はずっと思っている。
他社にある『本社機能』を持たぬまま戦えると思っているのだろうか?
工場がタイなど海外が主力になりつつある現状をよく見て、同じ機能の明石工場が本社であるような事業形態から、
リンカーンやタイのように、『工場は子会社である』という位置づけを、早く徹底すべきだと思っている。

『旧い部品を作ってください』というお願いの善悪はともかく、それを工場にお願いする形態が『おかしいのである』
『それが是か非か』をマーケッテングを通じて、主体的に判断する純粋な本社機能を造らない限り、『今後の二輪事業の発展はない』と信じて疑わないのである。

末端の二輪をよく解っている人たちの意見を聞いていると、そして末端の状況の実態を見ると、
1日も早く、二輪事業の中枢(本社機能)が、直接それらを感じ取る触覚を持った、経営次元のマーケッテング機能と、それに基づく経営次元の判断が成されるべきであろう。

20数年前の事業本部の企画機能も、販社の方向もそんな方向を目指していたはずなのだがーーー。

時代と経営環境の読みこそが、経営判断の鍵だろう。
経費節減などの改善などの数字的な対策では、幾らやってもダメだろう。
求められているのは『構造改革』で、『意識改革』こそが必要である。

末端のホントに解っている人たちの声に、耳を傾けて、『常識でモノを考えたら』正しい結論は直ぐ出るのに、と思っている。
そんなに、難しいことではない。

『新しい仕組みを構築すれば、直ぐ解決する』はずである。
『今時、努力で解決しようと試みる』ことは,ナンセンスである。
『生産』はともかく、『販売はどんな規模でも成り立つ』のが常識なのである。



昨日のブログには
今、台北に行っている、佐賀県武雄市の樋渡市長から『コメント』が
九州の小さな市の武雄でも、『行政の常識』を超えて、
台北にタイ原産のレモングラスを売る時代なのである。

時代は、動いている。発想の転換こそMUST。要は、『考える』ことである。
それが出来ない企業は衰退しかないのでは、と思っている。
この、2,3日改めて、こんなことを思った。

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単車の私も知らない昔話

2009-11-05 05:23:07 | カワサキ単車の昔話
thiraiさんこと平井稔男さんは私と同い年です。

ずっとカワサキ単車のスタート頃からのメンバーで、平井さんより旧い人はもう少なくなりました。
彼が『カワサキの真打ち』と言って憚らないのもよく分かります。
もう、50年近いお付き合いですが、
今も、NPO The Good Times の理事さんで手伝って貰っています。
この週末も、一緒に運営委員会でお会いします。


そんな平井さんが旧い単車話を
『カワサキに想う』その1

『カワサキに想う』その2  

と連載しています。
私も知らないような話が出ているので、かいつまんでご紹介し、
知っていることは補足してみたいと思います。



まず『カワサキに想う その1』では


私は満州で生まれたせいか?(それは知りませんでした。私は朝鮮育ちです。)

私は、昭和28年に高校卒業して直ぐ、当時スターリン景気?に沸く証券界の日興証券に初任給12800円で就職したことに始まる。
(コレも初耳です。初任給12800円はビックリです。川崎航空機の初任給は、昭和32年で、12000円でした。)

野球部の親友が「親父がオートバイの問屋をするので手伝ってくれないか」の誘いで、
直ぐに辞めて月給8,000円の近畿メイハツ販売㈱(設立当初は㈱近畿モータース)役員5人の社員一人の会社に飛び込んだのである。昭和28年のことである。
 
丁度、川崎航空機工業㈱がホンダに対抗して製作した自転車につける小さな小さなエンジン(KB-1型60cc)を開発。
(当時の川崎航空機は戦前航空機のエンジン工場であったことから、いろんなエンジンやミッションなどを造ってはいた、エンジンメーカだったのです。)

オートバイの完成車の分野に参入すべく、昭和28年明発工業㈱を設立(今のKMJの前身である)した頃と同時である。
(メイハツ工業は川航からエンジンを買って完成車を作っていました。今のKMJは販社ですが、前身のメイハツはメーカーです。)
 
世界一のオートバイ発展の夜明けだったのである。



『カワサキに想う』 その2では


’60年から社長が高野行彦翌年から社名をカワサキ自動車販売㈱と改名、
(川崎航空機も当時4輪車の開発をやっていましたから、将来に備えて自動車と言う名にしたのかも知れません。ちなみにその4輪車のエンジン開発担当した一人はZのエンジン開発者のあの稲村さんです。) 

’61年に(代表取締役土崎英利に交代)
  ㈱目黒製作所との業務提携により「カワサキ号&メグロ号」の販売を初める。
(私は61年末から、単車営業に異動しました。ほとんど誰も単車の営業専門家は、川航にはいなくて、メイハツやメグロの人に頼っていた時代です。)

’62年にはメイハツメグロを吸収合併私も被害者の一人として明石工場4研に連れて行かれたのであります。
(その頃4研(第4研究所と言う戦前の川航の建物の呼び名です)にいた平井さんと初めて出会いました。兵庫メイハツの拠点でした。)

’63年に会社の販売体制の整備・お客様との緊密化を図る為、全国に120店あった「全国カワサキメグロ会」を「全国カワサキ会に改称」一層販売の強化を図ったのであります。
 
兵庫県はメーカーの地元であり、我々「兵庫販売課(課長松田与一)」が直接販売店に訪問する直需体制、私は主任としてテリトリーを但馬&淡路に担当相当頑張ったのであります。
成果あって’65年には豊岡営業所初代営業所長を務め、Mちゃん・ごっちゃん・クッしゃん・きょうちゃん・綿ちゃん(今はごっちゃンの愛妻)一人で回っていた但馬が5人体制の営業所にまで成長したのであります。
(この時期はカワサキの黎明期であったと思います。平井さん、こんな時期にもう所長さんだったのだ。 所員の一人ごっちゃんは今の東京のファイブテン、今はその息子さんの時代です。ごっちゃんはよく知っていますが、奥さんもそこに居られたとは知りませんでした。)

その間、’65年をピークにマシンも充実、社長も(神武・岩城、)
’66年ここでカワサキオートバイが生まれたのでした。


昔話は、年寄りにとって楽しい思い出話です。
でも、まだ平井さん、兵庫メグロの現役役員さんで頑張っています。

間違いなくカワサキの歴史を造った一人です。

詳しくは、是非ブログをどうぞ。

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今年のモータショーから

2009-10-24 05:05:06 | カワサキ単車の昔話
今年のモータショー、残念ながらカワサキは出展していない。
出展してもしなくても、直接売り上げなどには関係はしないだろうが、
レースは中断したことはあったが、モーターショーには、毎年当然のこととして出展していた。
出展しないという判断は、それなりの理由があるのだろう。
いい悪いは別として、『止める』という判断は何でも難しいものである。

結構金が掛るのは、直接担当していたのでよく解っている。
ハンパな額ではない。コマ1坪の装飾代だけでも、カワサキのレベルで、家1坪の建築費よりは『ちょっと高い』レベルであった。
ちょっとした回転台など何千万円、クルマなどは億に近い単価だったと思う。
各社とも無茶苦茶金をかけた時期があるが、いつの頃からか2年に一度となったり
している。
毎年でなくても大丈夫という判断なのだろうか。
毎年の出費がバブルが弾けて持たないのか。

どこかの評に、ベンツもBMWも海外企業が軒並み出展中止で出展企業は半減した。
国内企業でもカワサキが出展を取りやめて残念と書いてあった。
まあ、確かに残念ではある。




それはともかく、

ランボルギーニとも張り合える、地をはうトカゲのようなローフォルムの3輪自動車「T-Rex」』

GIGAZINEにこんな記事が載っていた。


『自動車は百台あれば百通りの使い方がありますが、その中でも東京モーターショー2009で展示されていた「T-Rex」は運転する楽しみを極限まで追求した三輪自動車。カワサキのモンスターバイク・ZZR1400のハイパワーなエンジンを搭載しており、まさに地面スレスレを飛ぶ感覚を味わえます。』

この記事にあるように、この三輪自動車に使用されているエンジンは、
カワサキのZZR1400』 でこんなリンクまで貼ってある

技術的なことに興味のある方は、GIGAZINE独特の詳しい記事をどうぞ。


もう一つ、モーターショーと言えば、コンパニオンである。
カワサキは、マシンも人気はあったのだが、
マシンに劣らず、『カワサキのコンパニオン』は毎年大人気だったのである。
KAZEやレースで、『遊びの専門会社』が選んでいたこともあるのだが、
カワサキ自体、コンパニオンに人気があったのか、
その選考はなかなか厳しかった。
手を上げれば、間違いなく選考委員になれる立場にいたのだが、一度もなったことはない。
女の子を評価して選ぶということは、誰かを落とすことである。どうも性に合わないのである。

そんな、各社のコンパニオンの特集が、第6弾まで載っている。
カワサキが登場しないのは、まことに残念である。
第6弾だけリンクしますので、もっと見たい人は、GIGAZINE本体の第1弾からどうぞ。


これは、ホントに残念です。
もしカワサキが出ていたらーーーと思うのですが、
出ていませんので、つい先日送られてきたジェットスキーのKAZE広報誌の表紙に載っていた、
KAZEギャルの写真をどうぞ、ご覧下さい。

(T-Rex、今朝の朝日にも、載ってしまいましたがーーー)


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『カワサキプラザ明石終焉』に思う

2009-09-29 05:12:03 | カワサキ単車の昔話
カワサキの真打を自認する、仲間のthiraiさんが、
そのブログで、『カワサキプラザ明石の終焉に思う』 と題して連載している。

これが作られた時代の回想』も含め、
『イヤー寂しさと・悲しみが何故お客様に愛されたプラザが閉鎖なのか?、
色々問題はあるのでしょうが、天下のカワサキが頑張って継続出来ないとは・・・、初代コース管理者?としては残念です。』

と言うのは偽らざる実感だろうと思う。
私自身もこの問題に関連した、昔話を思い出しながら過去を振り返って、想いの一端を述べてみたい。


カワサキの単車の歴史は、決して平坦なものではなかった。
赤字の連続で、川重のお荷物であった時代も長く続いた。
そんな苦しい時代の中で、中大型車を中心に扱っているカワサキには、
二輪車の安全運転に対する期待も非常に厳しい時代でもあったのである。

その時代をご存知でない方も居られるかと思うが、
今の二輪教習場のある場所は、従業員の通勤車輌の駐車場だったのである。
80年代前半、当時の故前田安全運転本部長の強引とも思える英断で、駐車場を移転し安全運転コースを作ったのである。

それが、その時代企業の社会的責任の一つとして、カワサキが唯一業界に言えた安全運転の施策だったのである。

その直後、カワサキの単車はその存亡の危機とも言われて、
本社から故大庭さんが再建屋として、1983年7月に本社から来られることになったのである。
その番頭役の企画を私は命じられた、そんなもっとも厳しい時期であった。

当時のカワ販の本社も工場内にあったのだが、
販売会社が工場内にあるのでは、マーケッテングマインドも育たない。
少なくとも当時の正門前の外に出るべきだと当時の社長の大庭さんは決断されたのである。
そしてその本社の1階はショールームにしてユーザーに開放するということでスターとしたのである。

決して、楽な時代ではなくて、
ひょっとしたら、今よりは数段苦しい時代ではなかったかと思う。
そんな時期に、一つの理念を持って大庭さんは、判断されたし当時の私の直接の上司高橋さんも、勿論私もそれを支えたのである。



事業にとって損益は非常に大きい要素であることはよく解る。
その事業は、いかなる理念で展開されているのか?

苦しい時代にも、貫き通した企業理念や
今、世に発表している『ミッションステートメント』は、もっとも根幹的なこととして大事にして欲しいと思っている。

その中で謳われている『カワサキバリュー』は次の通りである。
<価値創造>
グローバル規模での社会・顧客の価値創造をカワサキバリューとする
<独自性>
独自性・革新性・先進性をカワサキバリューとする

単なる、赤字、黒字の数字計算ではない、
企業のミッションを忘れないで欲しいと、OBの一人として切に、願うものである。

この『ミッションステートメント』どれくらい社内に浸透しているのだろうか?



社会顧客の価値創造に貢献する。 
こんなカワサキが目指すカワサキバリュー創造のミッションステートメントは素晴らしいと思っている。

この7月にスタートしたNPO Good Times にも、ぴったり当てはまるものである。

平井さんも、
今回、プラザ明石の閉鎖で退職するタッチャンも、
このNPOの仲間である。
タッチャン、渡部達也君は副理事長を引き受けてくれている。

三木以外に、東京のほうも、『潮流発電』も忙しくなりそうなので、
みんなと協力して、
独自性、先進性、革新性を発揮して、『社会の価値創造』に貢献したいと思っている。

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