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雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ単車物語  その4  1965年(昭和40年)からの10年間

2013-04-17 05:18:25 | カワサキ単車の昔話

 

★ カワサキの単車事業がどのような形で進んでいったのか?

非常に粗っぽく言うなら、1960年と言う年が一つの契機になったのだろうと思う。

メイハツとはそれ以前に繋がっていたのだろうが、この年にメグロとの提携も行われている。明石の工場の中に『単車準備室』と言う職制が出来たのが1960年からである。明石での一貫生産を想定して、資材部門など部品調達なども含めた生産準備の検討を主として行う部門であったと思う。

昭和35年のスタートからこの職制もスタートしたが、私なども未だ財産課時代で単車事業に関わった人など未だ少なかったのだが、この年の4月に、なぜか大量に大学卒を採用しているのである。それが単車事業展開のためのものであったのかどうか? 多分そうだと思う。

事実、その後カワサキの単車事業展開の中心的な役割を果たした、所謂 『昭和35年組』 、その人数は例年と比べ突出して多かったのである。

 

 ★ カワサキの単車事業は実質的に事業として動き出したのは、アメリカ市場開発が始まり、国内市場に対しても積極的な出向政策などをスタートさせた1965年、(昭和40年)ごろからなのである。この年に私はカワサキオートバイ販売に川崎航空機から出向になっている。

これからの1975年(昭和50年)までの10年間は、カワサキにとって、アメリカを中心にZの大成功などもあって大きく飛躍した10年間であったと言っていいだろう。非常にハリのあった、新しい事業に参加した人たちがそれぞれに頑張ったそんな10年間だったと思う。

この期間、事業を引っ張ったのはアメリカ市場ではあったが、国内市場もカワサキのモペットなど小型車を捨てて中大型スポーツ車を中心に、それに見合ったカワサキ独特の特約店制度など、各社に先んじた新しい時代の販売網政策などに集中していた時代なのである。

 

●この期間トップで引っ張った人たちは、粗っぽく言って『大正生まれの人たち』である。戦時中に入社して、川崎航空機が中断されている間は、川崎機械などに避難?していた人たちで、技術部門が山田熙明さん、営業が田中誠さんや苧野豊秋さん、生産技術が中村治道さんなどで大体部長クラスであった。

●そして、ホントに中枢で動いた人達が 高橋鉄郎、矢野昭典、浜脇洋二、安藤佶郎、大槻幸雄、高橋宏、桑畑禎文、田村一郎さんたちなのだが、高橋さん矢野さんは海軍兵学校、他の方たちも旧制高校だとかいろいろあって、その年次がもう一つよく解らないのだが、

昭和30年までの入社なのである。

昭和31年入社が柏木茂、川崎さん、

昭和32年入社が私とアメリカの7人の侍の一人久保勝平さんで、ここまでが『昭和1桁組』なのである。

わざわざ『昭和1桁』と言っているのは、どちらかと言うと『戦中派』で 『昭和2桁』とはちょっと違っているのかなと思っている。

何と言ってもこの期間の中心は、市場で言えばアメリカ、そのアメリカ市場を強烈なリーダーシッップでひっぱった浜脇洋二さんだろう。

そしてこの時代1963年には、カワサキの世界の名車と言われているZの販売が世界で始まっている。そのZ1の開発を主導したのもアメリカなのだが、その開発の責任者がミスターホースパワーと言われた大槻幸雄さんなのである。

 

●続いて昭和33年入社が、田崎雅元、那波義治、稲村暁一と実力者揃いで、昭和34年組は、北村敏さんただ一人である。

昭和33年からは『昭和2桁組』なのだが、その筆頭格の田崎さんに言わしたら、『昭和1桁は早飯で、女に弱くて、英語が喋れず、ダンスが出来ん』 などとよく言っていた。 言われてみると当たっていて、昭和2桁の連中は、なかなかスマートなのである。

 ここまでが、昭和34年(1959)までに川崎航空機に入社したメンバーなのだが、先に入社していただけで、別に単車事業に先に関係していた訳ではないのである。

 

●そんな状況の中で、昭和35年(1960)4月には大量に、新しい人たちが入社してきて、後、単車事業の中枢で活躍することになるのである。

順不同に名前を列挙しておくと、(下の名前が解らぬ人もいるが)

武本一郎、武本晃、百合草三佐雄、大前太、種子島経、斎藤定一、上月さん、角野さん未だ他にもいるのだろうが、兎に角個性派揃いで、この年次がいろいろと単車事業に影響を与えたのは間違いない。

武本一郎さんは私とは企画で2度のコンビを組んだ東大出の秀才である。武本晃さんは技術部でも、リンカーン工場でも、レース監督でもユニークだった。百合草三佐雄さん、A1の開発時代からアメリカを駆け巡り、レース監督も、アメリカKMCの社長も、ジェットスキーのエンジン440、550化には色濃く関係された。大前太さんは生産や品証から企画に。斎藤定一さんはKMCのR&Dの創立者だし、リンカーン工場を造ったし、上月さんも技術部でユニークだったがレース監督などもおやりになった。角野さんは本社からKMC その後カワ販にも。種子島経さんは一般には有名なので説明の要はないと思う。

こんな35年組で特に私とも関係の深かった方は武本一郎さん、私の企画時代を支えてくれた恩人である。百合草さんとも非常に深く関係があった。特にアメリカKMC社長時代は、一緒にやったと言う実感がある。大前さんも私が2度目の企画の時に品証から企画に招いた人材である。当時の企画部長武本一郎、生産企画部長大前太、アメリカKMC社長百合草三佐雄、特にこの3人の35年組とは一緒に仕事をさせて頂いた、そんな時代もあったのである。

●解る範囲で、昭和36年は野田浩志、佐伯武彦、 昭和37年が前田祐作、永友節雄、原田紀男、昭和38年が井川清次、鍋島英雄、昭和39年、中島直行、昭和40年、鶴谷将俊さんと続くのである。

 、

(この3社合併を遂行された、砂野仁さん、四本潔さんは、私など川崎航空機に入社したころは川航におられたお二人だったのでスムースだったのかも知れない。)

 

 

★ この期間の間には、川崎重工、川崎車輛、川崎航空機の三社合併が昭和44年に行われて川崎重工業になるのだが、

カワサキのこの期間を支えた人たちは、

●一つには、川崎航空機時代に入社の人たちであったこと、

●もう一つは、上記の大学卒の人たちだけではなくて、当時の高校卒の実力派の人たち などが第1線で活躍したのは特筆すべきことなのである。

●さらに言えば、川崎航空機の人たちだけでなく、旧メイハツ、メグロの人たちや地方代理店出身の人たち、カワサキオートバイ販売の定期採用も昭和41年度からは始まって、そんな新人達もようやく戦力化してきたそんな時代なのである。

海外で言えば、徹底した現地主義から現地アメリカ人たちが100%活躍したそんな時代であったと言えよう。

この時代の初期、レース関係のフレームなどマシンの完成を担当したのは、大学卒のエンジニアではなくて兵庫メグロからやってきた松尾勇さんだったりしたのである

大メーカー川崎重工業だけの体質ではない、そんな雑草的な強さが、その当時のカワサキにはあったと言えるのだろう。

 

こんなムードがなぜ出来たのか?

当時の単車に関係した人たちは、ホントにユニークだった。よくまあ、こんなに変わった人たちばかりが集まったものだとも思うのだが、

別に当時のカワサキが変わりものばかりが集まっていたのではなくて、普通世の中では、ユニークな人もホントは多いのだろうが、みんなその芽を摘み取られてしまっているのではないかと思うのである。大体、大きな企業になればなるほど、何もしない、ミスをしない人がエラクなるようなところがあって、みんな自分の個性を発揮できていないのではないかなと思っている。当時のカワサキにはそんなムードは微塵もなくて、職位などには全く関係なく、それぞれが個性を発揮して頑張れる雰囲気があったと思う。

この時代、単車の世界で経験豊かなのは、地方代理店や、メイハツ、メグロの人たち、アメリカ人たちで、川崎航空機の人たちは入社年次などには全く関係なく みんなヨコ一線の新人達 で、スタートラインは同じだったからかも知れない。

 二輪と言う世界は、商品の開発にしても全く自由だし、世界の市場もその環境は一つではない。未だスタートしたばかりの事業であったし、教えてくれる先輩などいないし、それぞれが自らの仕事を自分で考えてやらねばならない環境にあったのだと思う。

 

★ いろいろ理由はあると思うが、『自由にやらせた』当時のトップが偉かったと思うのである。

岩城良三さんも怖かったが、下がやることに細かく口を挟まなかったし、山田さんも、塚本さんも青野さんも、下がやることにあまり文句など仰らなかったのである。上に立たれた方たちも、ご自身に経験のあることでもないし、現地を担当する人たちを信頼して任さざるを得なかったのかも知れない。

 

この時代の人たちで一般によく知られている人で言えば、

まずは『浜脇洋二』さん、ご自身で本も書かれているし、カワサキのアメリカ市場開拓の旗を振られたことでよく知られている。もし浜脇さんが当時のアメリカ市場での成功がなかったらカワサキの単車事業がここまで大きくはならなかったのは間違いない。『種子島経』さんも本を書かれているし、二輪雑誌にも登場する機会も多いので、カワサキの顔のようによく知られている。

今年はZの販売40周年なのだが、そのZ1の開発責任者が大槻幸雄さんだし、そのエンジン担当したのが稲村暁一さんなのである。

カワサキが一番華やかであったように思われている1975年(昭和50年)ごろまでは、カワサキの中心はアメリカ市場であり、ヒット車種の中心はZで、それらによってカワサキいのイメージも徐々にだが確立されていくのである。

リンカーン工場が日本の自動車工業会のトップを切ってアメリカに進出し、Kawasaki . Let the good times roll !  と言う基本コンセプトが創られたのもこの時期だし、ジェットスキーと言う新商品もアメリカ市場向けに開発されたのである。その1973、74年当時が絶頂期であったと言えよう。

巷でカワサキのことがよく知られているのは、このころまでである

 

★国内市場ではZ2が発売された昭和48年から大阪、京都、愛知などから新しい特約店制度をスタートさせて、日本にもようやく自転車屋中心の販売網から、二輪専門店がスタートし出したそんな時期であった。カワサキはその先頭を走っていたが、1975年には3年目にしてようやく全国展開の販売網として、ほぼ完成を見たのである。ここ国内の販売網政策については項を改めて別途書いてみたい。

その販売網の推進を直接担当していた私はその完成を機に、カワサキオートバイへの出向期間を終わって、10年ぶりに川崎重工業単車事業本部企画室に戻ってきたのである。

1975年(昭和50年)の10月のことである。

 

当時、既にアメリカの絶頂期は峠を越していた

発動機の商品であったスノ―モービルが、雪不足で全然売れなかったこともあって、冬しか売れないシーズン商品の在庫などがリンカーン工場の足を引っ張りかけていたし、雲行きが怪しくなりかけていた時期であった。

当時の企画室は企画室長が本社財務から来られていた堀川運平さん、企画部長が高橋宏さん、その部員課長として田崎、田付、種子島さんと私で年次の関係で私が纏める立場にはあった。田崎雅元さんは、岩崎茂樹さんと主としてアメリカKMMのリンカーン工場などを担当し、スノ―モービルなども彼の担当だったのである。種子島さんは、アメリカから戻ったところで、ドイツへ行くちょっと前の時期だったのである。私のグループは35年組の武本一郎、森田進一さん(年次は多分39年)などもいたし、後単車も川崎重工も背負った人たちがいっぱいだった。

アメリカKMCは未だ浜脇洋二さんが最後のころである。

塚本事業本部長、青野副事業部長、技術本部長は高橋鉄郎さん、営業本部長は矢野昭典さんの時代である。

ようやくカワサキの単車事業も今後どのような展開を図るべきなのか?

本社の吉田専務が単車事業を担当されしょっちゅう明石にも来られていた。アメリカ市場の今後、スノーモービルの扱い方針、ヨーロッパ対策、開発途上国対策方針などなど、発動機を含む発動機事業本部の長期事業戦略の検討が吉田専務を中心に進められていた。

私のグループは、その『発本戦略』を直接担当していたのである。

 

これは当時私が纏めた『発本基本戦略』である。 

昭和50年(1975)自分史

昭和51年(1976)自分史   もあるのだが、

 

1976年からの10年間は、カワサキにとって激動の時代に突入するのである。

これらについてもまたいろいろと書ける範囲で、書いてみたい。

 

 

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カワサキ単車物語50年  その3  地方代理店、アメリカ進出スタートの時代

2013-04-12 05:49:39 | カワサキ単車の昔話

★戦後二輪車産業は、自転車にエンジンを付けたりする形のモノも含め、100社以上のメーカーが乱立する時代があった。カワサキもメイハツ工業にエンジンを提供していた時代もあったのである。

そんな戦後の日本の二輪車産業を個人の方が纏めておられる文献がある。

 

その表題は意味不明のようなところもあるが、内容は極めてきっちりと纏められている。

そんな中から現在は4社になっている二輪企業についてにグラフと記述がある。1950年当時は80を超えているのだが、その後10年で激減したのである。その記述の幾つかをご紹介したい。

 1950年代に入ると、二輪車産業へ参入する企業が急速に増加し、ピーク時の1953年に80数社となっていますが、実際には200社以上のメーカーが存在していたとも言われています

1950年代後半から1960年代前半にかけては、多くの企業が二輪車生産から退出していきました。直接の原因は販売不振ですが、退出にはいくつかのパターンがあるように思えます。

他企業への吸収合併
陸王内燃機、目黒製作所、新明和興業、北川自動車工業、昌和製作所、板垣

本業へ集中
宮田製作所、ブリヂストンタイヤ、新三菱重工業、富士重工業、スミタ発動機、東京発動機。

③その他 廃業 丸正自動車製造ほか多数、

日本の二輪車産業はホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキの四社に寡占化し、世界一になります。それは、前述のように一時期、数百社といわれるメーカーが参入し、競争をした結果、技術力が急速に向上したからです。成功したのはすべて戦後に二輪車を手がけたメーカーです。戦前からの二輪車メーカーは戦後の競争に全く生き残れませんでした。これは、戦前からのメーカーは古い技術にこだわりすぎて技術革新を怠ったからだとする見方もあります

 

★このように分析されているのだが、確かにそんな時代であった。

撤退して行ったメーカーの中に三菱重工業始め大企業も含まれている。本業に集中と言えば恰好いいが、みんな浜松のホンダ、鈴木、ヤマハの3社との競争に敗れ、駆逐されてしまったのである。

そんな中でなぜ、カワサキだけが生き残ったのか?

その理由は単純ではないと思うが、私なりに次の二つだと思っている。

● 一つは、モペットなどの国内での小型車種での競争を避けて、市場をアメリカを中心とする海外に求め、中大型スポーツ車に集中するなど、事業形態の差別化を徹底したこと

● もう一つは、国内の営業の実戦部隊がメイハツ、メグロなど、川崎航空機のメーカー出身者でなかったこと、これは海外でも全く同じで、実際の販売を担当したのは、現地の人で日本人ではなかったこと

二輪事業の販売第1線で、ホンダ、スズキ、ヤマハの人たちに対応するには、とてもメーカー育ちの体質では無理だと、ホントにそう実感したのである。これは、3年間ファクトリーのレースの世界を経験し、そのあと東北で4年間代理店営業を経験した私の感覚からの感想である。川重の課長任用論文に、カワサキが生き残れたのは、メーカーの人間が第1線の営業をやらなかったからだ と書いて渋い顔をされたのを覚えている。

二輪業界をリードしたのは間違いなくホンダであり、本田宗一郎さんだったのである。そんな二輪業界の雰囲気は独特であった。そこには大企業の体質など微塵もなかったように思う。三菱などの大企業はそんな体質になりきれなかったのはよく解る。川崎航空機は確かに大きな企業であったが、戦後の長い中断があったりして、会社全体が若かったし、特に新しい事業を担当したメンバーたちが実質的に若かったので、何でも躊躇なく取り入れることが出来たのかも知れない。

 

★兎に角、上のグラフにある様に数年の間に、メーカーの数は激減してしまって、最後にはブリジストンも撤退してホンダ、スズキ、ヤマハの浜松勢とカワサキの4社だけになってしまいのである。

昭和30年代のカワサキは、二輪車の市場も日本国内一国だけみたいなものであった。

その当時の国内の販売方式は、現在とは全く異なる『代理店方式』で、問屋さんが地方にあってその下に販売店が付いているそんなスタイルだったのである。

カワサキの場合は、川崎航空機が直接その代理店とつながったのではなくて、もう一段階『カワサキ自動車販売』という販社が存在し、そこには旧メイハツ、旧メグロの営業の人がいて、地方の代理店を管轄しているというスタイルであった。そのカワサキ自販が東京の神田岩本町にあったのだが、多分そこを知っている人は川崎航空機籍では東京の加茂さんと私の二人だけになってしまったのではないかと思っている。その後川崎航空機の東京支社の中に移ったのである。

当時のことで特筆すべきことは、それら地方の代理店の扱いはなかなか大変だったのである。所謂バイクを売って頂いているお客様で、今のようにメーカーの下に販社があるのではなかったのである。代理店の工場見学などで、代理店の社長さんからの技術屋さんへのクレームや問題提起なども非常に厳しくて、当時の山田技術部長など、技術屋さんの対応は大変だったのである。中でも鹿児島の金谷さんだとか、新潟の鍋谷さんなどは有名で、めちゃくちゃ厳しかったことをよく覚えている。

これがいわゆる『自前(自己資本)の代理店時代』のことで、その後各メーカーが台数競争に入り、販売台数が増加して行くとともに、多くの台数の販売を目論んだ代理店は、その回転資金の負担に耐え切れず、メーカーの資金援助から、だんだんと資金参加そして直営化への道筋を歩むことになるのである。

カワサキ陣営の中で言うと、、内容のいい確りとした代理店は、そんな台数を求めるメーカーの姿勢には追随せず、二輪業界から撤退して行った代理店も多かったのである。どちらかと言うとメグロ系の総じて内容の良かった店は撤退していく方向であったのかも知れない。

 

台数を売るとどうして資金負担が生じるのか?

これはその時代の販売形態に原因があって、当時国内で売れている単車は圧倒的にモペットであり、その販売形態も何万店もあった自転車屋さんに委託車を預けそれを売って貰うと手数料を支払う委託販売方式だったのである。従って委託車は第1線の自転車屋さんの店頭にはあるのだが、実質的にその在庫負担は代理店が背負っていたのである。数を売るために委託店を増やしそれに比例して委託車輛もどんどん増えて行くのである。

さらに、末端のお客さんからの支払いが、田舎などでは盆払いや年末払いなど私制手形などまであって、商品が売れてもなかなかお金にはならないそんな資金がべらぼうに要るシステムだったのである。

そんなこともあって資金に詰まった代理店はメーカーからの融資を受けたりしている内に自然に資本参加の方向になっていったのである。

 

★そんな時代、昭和41年(1966)までは、私自身は広告宣伝とファクトリーレースの担当で、一番代理店が厳しかった時代は、ヨコから眺めているだけで、殆ど代理店には関係なくレースに没頭していたのである。ようやく国内だけではなくて海外、特にアメリカでの市場開拓が始まった時期で、車で言えばA1が世に出て、1966年のFisco での日本GPには、カワサキはGP初出場を果たしたし、ジュニアロードレースに金谷秀夫がA1のロードマシンで出場した時期である。モトクロスではF21Mが松尾勇さんの手によって世に出た時期でもあった。

 

左から杉沼浩、アランマセック、浜脇洋二、岩城良三さん、右二人は解らない。

 

昭和41年には、カワサキ自販の名称は『カワサキオートバイ販売』に改称されたりしたし、アメリカ市場は浜脇洋二さん以下の新市場の開拓時期で田崎雅元さんも7人の侍の一人として海を渡っていて、シカゴにAmerican Kawasaki が設立されたりした。内容は部品販売会社であったはずである。そしてその部品担当で黒田君、会社設立や財務担当で本社から久保君などがアメリカチームに加わったりしたのだろう。アランマセックが加わったのもこの年だし、トーハツから杉沼浩さん(後川重ーMFJ常務理事)が7人の侍に加わったのもこの時期なのだと思う。

ただカワサキのマシンは2サイクル社が主力で、W1も持っていったが、アメリカの高速道路には耐えきれなかったそうである。このW1をアメリカのハイウエイで始めて乗った日本人は私だ』が、後川崎重工の社長も務めた田崎雅元さんの自慢なのである。確かに彼はアメリカに渡る前から、レースチームの一員だったし、日本でもバイクに乗っていて、ちゃんとバイクには乗れたのである。『7人の侍でバイクに乗れたのも私だけだ』などとも言っていたが、ホントかも知れない。

 

そんな若いころの田崎雅元さん(左) と浜脇洋二さん  珍しい2ショットである。

 

昭和41年までは、アメリカ市場もスタートしたばかりなのである。日本は地方代理店の時代であった。

昭和39年カワサキの単車事業の再建が川崎航空機として決定されてから、のこの3年間でカワサキの単車事業の再建の基盤が出来た時期と言えるのだろう。

二輪事業について殆ど何も知らなかった人たちが、この3年間でいろんな経験を積んでいろんな知識も吸収していき何となく二輪事業が解りかけてきたそんな時期だったのかもしれない。

開発部門は、B8やモペットなどの実用車から、初めてA1と言う中型スポーツ車を開発できるまでになったし、いち早く手を付けたレースの世界、特にモトクロスの分野ではF21Mを擁して赤タンクのカワサキの名を確固なものにしたし、ロードレースのGPの分野にも進出したのである。

国内市場はシェア的にはまだまだではあったが、多くの人たちが販売第1線を経験したし、カワサキオートバイ販売は自らの定期採用者第1期生を取ったのがこの年からなのである。生産サイドも、品質保証も、形が整って単車事業展開の形が出来た3年間ではなかったかと思うのである。

 

そして、なぜか不思議なほど、これらを担当した人たちが『よく言えばユニーク』はっきり言うと『ちょっと変わっていた人たち』ばかりが多かったのではなかろうか?

これが、現在のカワサキブランドのユニークさの根源であるのではと思ったりする。

総大将の岩城良三自体がユニークだったし私たちのすぐ上の先輩たちも、それに続いた後輩たちも『ちょっと変わった人たちの集団』であったような気がするのである。

 

 

 

そして、昭和42年(1967)頃から、カワサキの単車再建の第2期に入っていくことになるのである。

単車再建のスタートとして川航本社が開発費として予算化してくれていた120百万の膨大な広告宣伝費も昭和41年度で終わり、私自身は当時の国内最大市場であった東北地方の管轄拠点としての仙台事務所新設の命を受けて仙台に異動になったのである。

当時は地方代理店に一部メーカーが資本参加をしだした微妙な時期だったのである。東北6県にも各県に自前もしくは一部資本参加した代理店があって、その代理店の経営を支援する拠点としての機能を持つ仙台事務所を創ることが任務だったのだが、『仙台に事務所を創れ』だけが会社の命令で、それ以外の指示は一切なく、『お前が考えてやれ』と言うこと以外、会社の上司も具体的な知恵はなかったのだと思う。

大体、仙台事務所が出来た経緯は、当時の岩城常務が東北に行かれた時の代理店会議で『仙台に出先を創ってくれ』と言う代理店側の要望に『直ぐ創る』と即答されたらしいのである。その話は直ぐ伝わってきて、その時岩城さんのお供をしていた販売促進課の八木さんが行くものだとみんな思っていたのに、突然の指示だったのである。岩城常務がわざわざ私の席まで来られて、『ご苦労だが頼む』と一言仰っただけなのである。

この時のことは私の自分史、昭和42年度-1にも詳しく書いているが、特に昭和42年度ー2に具体的に詳しく書いてあるので読んでみて欲しい。

 

★私にとっては初めての場所の変わる異動だったのだが、経験がないので異動とはこんなものかとも思ったが、全てのことを一から全て自分の想うように、自分で決めてやったのである。

日本であったから、言葉も通じるし未だマシだったのかも知れない。

当時も、それ以降も海外市場に進出するときなどは、全て同じような状況だったに違いない。会社も上の人たちもコンセプトは言えても、具体的な指示などは、前例がないのだから何にも指示出来ないのは当然なのである。

当時はカワサキに限らず、二輪メーカーはみんなこんな状況だったのだと思う。海外などでも特に二輪メーカーのリーダーホンダは、商社を使ってやる『輸出』ではなくて、自らが現地に新しく事業を立ち上げてやる『事業展開方式』であったし、当時の通産省などの国の支援など一切受けない形での『海外進出』だったのである。このあたりが、国の手厚い保護で海外に出た四輪とは全く異なっていると思う。

国内市場においても、メーカーの籍の人がこのような地方拠点の責任者で出たのは川崎航空機としては九州事務所と仙台事務所の2か所だけで、九州は当時の課長職の矢野さんがおやりになったのだが、仙台事務所は未だ係長の分才でそれこそ百戦錬磨の地方代理店の社長さんがたを相手の営業初経験だったのである。

 

私自身にとっては、広告代理店の本社の企画の人たちと付き合った広告宣伝とファクトリーレースを担当した4年間と、東北の4年間代理店の社長さんたちから教えて頂いて身についたノウハウ、ソフトや体質が、今もなお生きているのだと思える貴重は8年間だったのである。

 

 

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カワサキ単車物語50年 その2  50年前の時代は

2013-04-09 07:03:06 | カワサキ単車の昔話

★ やはり50年前のことを書かねばならないだろう。

カワサキの単車の歴史を造られた数々の先輩たちも、50年経つと残っておられる方も僅かになってしまった。当時入社数年目の若手であった私でも、今年80才になってしまっているのである。

ただ、カワサキの単車事業は、川崎航空機にとって初めてスタートした全く新しい事業であったために、上司でも、先輩たちも単車事業の経験など全く持っておられなかったのである。

そういう意味では、私のように一足早くこの事業に足を突っ込んだものにとっては、如何に先輩といえども単車事業の経験と言う意味においては、後からこの事業に参加された先輩たちよりも豊富であったと言う不思議な事業環境だったのである。

私が単車の部門に配属になった時は小野次長、北澤課長、壱岐係長、そして私、足立、木村君、それにサービスの3人だけで、カワサキ関係の単車担当は壱岐さんと私と木村君の3人だけだったのである。

仕事の範囲は結構大きくて、管理も、広報も、営業も、サービスなどなど広範囲であったことは確かなのである。昭和37年初めの話なのだが、車で言えばカワサキ関係は125ccのB7,50ccのモペットや井関の空水冷のモペットタフ50などもあった懐かしい実用車のカワサキの時代なのである。

この昭和37年は、私個人にとっても記念すべき年で、自分史にはこのように綴っている

この年の12月小野さんに仲人をお願いして結婚している。

私の単車の歴史も結婚生活、も昨年は記念すべき50周年だったのである

 

★川崎航空機という会社は、戦前はその名の通り飛行機を造っていて、明石はエンジン工場、岐阜が機体工場であったらしい。

戦後軍事産業だと言うことで長い中断の期間があって、昭和27年ころにようやく再開されたそんな会社なのである。会社自体も若かったし、一種独特の雰囲気があったように思う。

明石は元々エンジン工場だったので、そこに当時は東洋でたった一つのアメリカ空軍のジェットエンジンオーバーホール工場が明石にできて、常時米軍が駐在していたし、IBMの器械などもあったのである。日本には未だIBMと言う会社もなく世の中にIBMなどは無縁であった時代なのである。そんなことで、新しいアメリカの管理システムなどが入っていて、結構進んだ管理がなされていた。

私はそんな川崎航空機に昭和32年に入社し、財産課に配属されて償却計算に明けくれていたのだが、ジェットのIBMでやれば機械化出来ると聞いて入社2年目からそれに取り組んで完成したら、財産課は償却計算する人手が不要になってしまって失業した結果、新しく始めようとする単車に異動されたのである。

当時の明石工場は、なぜか『神戸製作所』という呼び名で、発動機とジェットの2部門で構成されていて、それを統括されていたのが、神戸製作所長の神武さんだったのである。私の上司の小野助治さんは、単車に異動される前は神戸製作所の庶務課長だったので、単車など何の経験もお持ちではなかったのである。

そんな小野さんが私よりは1週間だけ早い単車への赴任だったのだが、赴任早々言われた指示は『物品税をやってくれ』だったのである。当時は125cc以上のバイクには、物品税が掛けられていた。

なぜ、改めて『物品税なのか?』 

当時のカワサキ125ccB7は今で言うクレームで、車体がダメで毎日、毎日返品が続いていたのである。

物品税は工場を出荷されるときに支払うのだが、支払いは至極簡単なのだが、戻し入れ『戻入』は、なかなか難しいのである。工場を出た時のままでないと戻入の条件を満たさない。メーターが回っているとダメだし、税務署員の立ち合いが必要なのである。

毎日、毎日返品車があるので、毎日毎日物品税の戻入手続きばかりをやっていた。少しでも走った車は、メーターの巻き戻しをやらぬとダメなので、工場サイドの人が来てメーターの巻き戻しなどを川崎航空機がやっていた時代なのである。12月に営業に配属されて、翌月の1月は出荷車より返却車の方が多くて生産台数がマイナスになったりしたのである。

そんな状況だから、新しい単車事業の船出は大変だったのである。昭和37年だけでも、春には単車は独立して単車部が出来たのだが、ほんの2ヶ月余りでまた発動機に連れ戻されたのである。その時ジェットから営業企画部に移って来られたのが苧野豊明さんで、私はそこの管理係に異動になったのである。 苧野豊明さんとの関係は、その後何十年も苧野さんがお辞めになるまで続いたのである。

いつ事業を止めるのか解らなかったようなカワサキの二輪事業だが、この年の秋ごろから発売されたB8がなぜか期待以上に売れだして、そして翌年5月の青野ケ原のモトクロスでの1位から6位までを独占する快挙で一気に『単車再建』と言うムードになっていくのである。

100数十社もあったメーカーがどんどん止めて、メグロも止めて川崎が吸収したそんな時代だったから、この新事業をこのまま進めるべきか、止めるのかその決断は大変だったに違いない。この時代、二輪事業から撤退したのは、ト―ハツも富士重も、そうだったし、ヤマハですら止めるのではないかと言われていたそんな時代であった。

 

 

★そんな初期の時代、カワサキはレースに対しては、結構本気で取り組んでいたのである。

カワサキのレースを引っ張った人たち、兵庫メグロの西海義治さん、この方が若しいなかったらカワサキもちょっと違った方向に行ったかもしれない。上記の写真の青野ケ原の快挙があって、カワサキの二輪事業の再建が決まったとするならば、それを陰で支えた人は間違いなく西海義治さんだと思う。

当時の兵庫メグロの社長だが、それ以前はプロのオ―トレーサーなのである。豪快な性格のようで戦略は綿密であったように思う。

川崎航空機は飛行機メ―カ―で明石工場はエンジンの専門工場、従ってエンジンの専門家はいっぱいいたのだが、オートバイはフレームがあって初めてマシンとなる。

レースをやるには、エンジンも要るがフレームが解る人、マシンが解る人が要るが、『そんな人材はカワサキにはいない』 と言う仮説を西海さんは立てたに違いないのである。

そして兵庫メグロの子飼いの松尾勇さんを川崎航空機の生産工場に送り込んだのである。誰がそれを受けたのか定かではないが、多分それは技術部長の山田熈明さんだと私は思っている。少なくとも、入社を決定できるのは、部長などと言う格の要る話なのである。

鈴鹿サーキットがオープンして、日本で初めてのレースが開催されたのが昭和37年の秋である。昨年はその50周年記念であった。そのレース観戦に製造部はバスを仕立てて大勢の人が観戦したのである。そのレースを見て、その勢いで翌年の5月の青野ケ原のモトクロスへと繋がっていくのだが、このレースそのものを企画したのも西海さんだったし、このマシンを創り上げたのは、西海さんが送り込んだ松尾勇さんだったのである。

さらにこのレース参加は会社の意思で行われたものではなくて、製造部の中村治道さんや高橋鉄郎さんが勝手に企画し動いたのである。マシンを造ったのは松尾勇さんたちだが、会社が終わってからボランテイァでの活動だったし、むしろ企画や勤労など会社の中枢は、しかめつらでヨコから見ていたのを思い出す。営業関係は小野助治さんだけが応援スタンスで、野球部のマネージャーの経験ある川合寿一さんに面倒を見るように、私には『忍術を使って、残業時間のパンでも買ってやれ』と指示されて、営業の金から幾らか拠出したりした。青野ケ原モトクロスで私が果たした役割は、ただそれだけだったのである。

 

 

★その青野ケ原のモトクロスレース当日は雨で、防水対策を完璧に行ったカワサキ以外のマシンはみんな止まってしまって、カワサキはモトクロス初出場で1位から6位独占の快挙を果たすのである。

青野ケ原のレースで勝って事業部の意気も大いに上がり、日本能率協会の事業診断もGOと決まって、昭和39年1月、正式に単車事業本部の再建が決まり、岩城良三常務が総責任者で神武事業部長が担当されることになったのである。

この時点で、川崎航空機の総力を挙げての体制となったのである

JETエンジン部門から神武さんを筆頭に、田村一郎、田崎雅元さんらが、本社からは矢野昭典さんを筆頭に、上路、前田、岩崎など、神戸製作所からも八木、北村、藤田、発動機からは苧野豊明、野田、企画からは山下、黒河内、藤田、鍋島、井川さんなど後単車を支えた事務系の人たちが集められた。

私は日本能率協会が条件に挙げた広告宣伝部門の担当となったし、広告宣伝費は本社開発費で3年間、毎年1億2000万円の予算が計上されたりしたのである。

この時はまだ国内市場だけの時期で、その翌年ぐらいから、本社企画の浜脇洋二さんがアメリカ市場開発をめざし、一般には有名な種子島経さんなども単車のメンバーに参画してくることになるのである。

 

この時期の動きは、カワサキ単車50年の歴史の中でも、最も迫力のあった時期だったかも知れない。

隣国の兵は大なり、その武器は豊なり、その武勇は優れたり、然れども指揮の一点譲るべからず

総大将、岩城良三常務が毎回訓示の前に言われるこの言葉通りの陣頭指揮だったのである。

その岩城さんには直接呼ばれて幾度となく薫陶を受けた。広告宣伝とレースを当時の1億2千万円と言うべラボ―な額を任されてある意味大変だったのである。4年目に新たに仙台事務所を新設するための異動の時もわざわざ私の席にまで来て頂いて声を掛けて頂いたりした。

 

★この岩城良三さんが、単車事業部を総責任者として引っ張られたのは、年次で言うと、昭和40年(1965)ごろの話である。

私自身の立場で言えば、広告宣伝課が川崎航空機に初めて出来て、その部門を担当することになった。昭和41年にはカワサキオートバイ販売に社名変更がなされ、川航の企画、販売促進部門のメンバーは全て出向になって、広告宣伝課が創られ、私は川航では未だ係長でもない時期なのにカワ販では課長任用されたりしたのである。

本社の浜脇洋二さんがアメリカ市場の開拓を始めたのもこのころだし、開発部門がA1を開発して世に送り出したのもこのころのことである。それまでは国内市場の実用車メーカーから、中型スポーツ車の分野への転向を果たし始めたそんな時期であった。本に書かれている『アメリカの7人の侍』と言われた時期なのである。

7人の侍とは、アメリカに渡った順番から言えば浜脇(リーダー)、杉沼(ト―ハツから)、渡辺(本社企画)、久保(本社、財務)田崎(単車、技術)、黒田(単車、部品)種子島(単車、営業)のことを言うのだろう。

当時の明石事業部サイドは、神武さんが事業部長だったが、

技術部は山田煕明部長でその下に安藤佶郎係長、大槻幸雄係長、生産技術、生産関連は中村治道課長、高橋鉄郎課長営業はカワ販の苧野専務などが実質事業を動かしていたそんな時代であったと言っていい。このメンバーがそっくり当時の『レース運営委員会』のメンバーで、その事務局を担当していたのが私なのである。

何一つ、ホンダ、スズキ、ヤマハに勝てることはないので、せめてレースだけでも1番になろうと頑張っていたのである。

レース体制もエンジン開発は技術部マシンとして創り上げるのは生産部門のレース職場ライダー契約などは金をもっている広告宣伝課と言う体制だったので、『レース運営委員会』と言う組織でそれを動かしていたのである。その生産関連のレース職場を担当していたのが田崎雅元さんで、彼はその後アメリカにも渡って、7人の侍にもその名を連ねているのである。

そして、このカワサキのレースを裏で支えてくれたのは兵庫メグロの西海義治社長であり、山本隆、歳森康師、金谷秀夫と言うファクトリーライダーをカワサキに出してくれていた神戸木の実クラブの御大片山義美さんなのである。

このレース運営委員会のメンバーは、カワサキの単車事業部も間違いなく支えたし、後川崎重工業の社長を田崎さんが、副社長を山田さんと高橋さんが、大槻さんは常務を務めたし何よりもZ1の開発、安藤さんはF21Mの開発など、大きな貢献をされているメンバーなのである。

 

 

これはずっと後、私がカワ販専務をお引き受けした時に開催した『ファクトリーチーム結成25周年』のOB会の写真である。

前列中央に川重の副社長経験者お二人のまん中におられるのが兵庫メグロの西海社長で、右から大槻、、中村、苧野、高橋、西海、山田、松尾、糠谷さんである。2列目には私、田崎、平井、大西と会社側のメンバーもいるが、清原、山本、和田、安良岡、金谷、岡部たち当時のライダーたちもいる。歳森は3列目、星野一義は最後尾の右端である。このOB会で、OBの末席を務めたのが星野一義と清原明彦なのである。もう二人ともパリパリの有名人ではあったのだが・・・・

この会には現役ライダーたちも参加している。今まであまりレース活動にも力を入れてこなかったが、私が国内を担当する限りは、レースは頑張ってやりたいという意思表明でもあったし、当時のカワ販社長高橋鉄郎さんには、販売台数7万台を目標にすると約束しての専務就任だったのである。10月1日付けで新任務につき、10月15日にこのOB会を開催している。

初仕事であったことは間違いない。私のある意味所信表明みたいなところがあったのだが・・・・

 

 

こちらは3年前、清原明彦くんが、幹事で開催されたOB会、さらに20年の歳月が流れて、メンバーの顔ぶれも変わった。

ここにはカワサキのOB会なのに片山義美さんが顔を出してくれたのである。片山義美さんは、一度もカワサキとは契約関係はなかったのだが、神戸木の実クラブと言うチームではメンバー達がカワサキとは密接に繋がっている。そんなことから片山義美さんの引退パーティ―の主賓のご挨拶は私が引き受けたり、神戸木の実クラブの解散パーティ―の司会は平井稔男さんが引き受けたりしているのである。

 

 

そして、この写真は、昨日私のブログでアップし、Facebookにも載せたのだが、

ここに登場する中村治道さんが、上記のレース運営委員会の中村治道さんなのである。

岩城良三さん体制の頃、事業部で一番元気が良かったのが、『中村治道』さんなのである。

カワサキの単車事業再建の一つのきっかけにもなった昭和38年5月の青野ケ原のモトクロス、この総指揮を執られたのが中村治道さんなのである。レース当日は風邪か何かで現場監督は高橋鉄郎さんがおやりになったのだが、このレースを引っ張ったのは中村さんである。

生産現場ではなくて、生産技術部門の長をされていた。年次で言えば高橋さんよりちょっと上の方で、私は明石高校の先輩にも当たるのである。甲子園の中京―明石の25回戦を現場で観たと仰るのである。私は明石の野球部なのだが後明石南校がが甲子園に出場した時に、『女学校が甲子園に行くと言うのに、明石はどうなってるんや』と私は責められて困ったことがある。明石南を今どき『女学校』と言う人も少ないが、中村治道さんは、そんな方だった。

昭和41年、FISICOでのカワサキのGP初レースの総監督が中村さん、GP監督が大槻さん、ジュニア監督が安藤さん、そのマネージメントが私、総責任者が山田煕明さんだったのである。

そのレース、あのデグナ―がカワサキのライダ―として走るはずだったのである

その契約書を創ったのは私、英訳をされたのが山田煕明さんなのである。練習中に転倒入院してしまって、カワサキのデグナ―は実現しなかったのである。

 

書きだすと切りがないので、このあたりで止めておく。


カワサキ単車物語50年  その1  はじめに

2013-04-05 07:19:52 | カワサキ単車の昔話

 

★1962年は世界の名車Zの販売40周年に当たる記念すべき年であった。それを記念してアメリカで」Reunionが行われたりした。

今年はZ2国内販売の40周年記念に当たる。

 

 

それを記念して、グリーンピア三木でイベント開催も企画されている。

カワサキの単車の歴史はいつからなのか?

そのスタートはいろいろあるのだろうが、単車事業としてちゃんとスタートしたのは、125ccB8が発売された昭和37年(1962年)と言うのが一番適当ではないかと思っている。

 

メグロとの提携があったり、単車準備室が造られたのはその2年前昭和35年のことなのだが、それはまだそんな形があったと言うだけのことであった。

私自身は昭和32年川崎航空機入社で、そのころは未だ単車は殆ど意識されていなかったと思う。

昭和36年にもなると、明石の川崎航空機の発動機営業部から明発工業にエンジンが出荷されたり、そのあとニューエ―スや、B7という完成車がカワサキ自販と言うメイハツ、メグロの人たちがいた販売会社に販売されたりはしていた。

 

昭和36年(1961)の12月、私は突如発動機の営業部門に新設された単車部門に異動になった。

私の移動先は企画だとばかり思っていたら、突如単車営業となったのである。私が動く1週間前に小野助治次長がその部門を担当されることになり、突如私を指名されたのだと思う。

それ以来、私の人生は単車と繫がった。そして今でも密接に繋がっている。

粗っぽく言うと50年とちょっと、カワサキの二輪事業の歴史も私と同じ時期に始まったと言ってほぼ間違いない。

川崎航空機の特に営業や管理系の人で私より旧い人は今はもういないと言ってもよくて、強いて言うなら、平井稔男さんが旧メイハツ時代から約60年、最古の人だと言ってもいい。

 

★カワサキの単車事業の歴史は、その製品年次とともに語られることが多く、技術屋さんの分野、製品の分野は非常に細かく正確に記録としても残っているのだが、単車事業全体としてどんな動きであったのかは、アメリカ創成期を除いて殆ど語られていないのである。

幸いにして、私自身は企画、管理にいた時期も長く、それぞれの時期の事業のトップ責任者と現実に密接に繋がっていたので、二輪事業を客観的に眺められる位置にいたとも言えるのである。

そんなことから、私がこの目で見てきたカワサキ単車事業を私なりに纏めて見ようと思い立ったのである。

60年間書き続けている日記も手元にあるし、1976年KHI企画以降は、会社での基本方針的な書類も全て手元に残っている。

どんなものになるかはよく解らぬが、雑談的に、気ままに書いてみたい。

 

★まず最初に、カワサキの単車事業を引っ張ってきた人たちはこんな方たちなのである。

 

下の名前が定かでない方もいるのだが、

神武事業部長岩城良三事業本部長山田熙明事業部長塚本頌春事業本部長青野格事業本部長大庭浩事業本部長高橋鉄郎事業本部長

この7代の事業部長に全て直接繋がって関係があったし、直接呼ばれて直接の指示を受けることも多かった。

塚本さん以降は企画などや、出向当時は社長―常務、専務の関係で繋がっていたし、単車事業が危機的な状況の時代は川重本社の大西副社長山田熙明副社長松本新副社長などからの直接の指示で動いていたのである。

その後、田崎雅元、大前太、百合草三佐雄、佐伯武彦さんなどに引き継がれていくのだが、これらの方は私より年次は若かったし、一緒に仕事をした仲間でもあったので、いろんなことがよく解ったし、田崎さんはその後川重の社長にもなられて、今もなおお付き合いがあったりするのである。

カワサキの二輪事業は、カワサキに取って全く未経験の新しい事業であったこともあり、こんなトップの方のほかに事業の方向を左右するような大きな仕事をされた方も何人もおられるのである。私より先輩の方で何人かを挙げるなら、国内の販社を統括された田中誠社長、苧野豊秋専務、アメリカ市場の開拓者浜脇洋二KMC社長Z1開発責任者の大槻幸雄さん、カワサキ生産方式を造られた安藤佶朗さんなどがカワサキの歴史を創り上げられた方々だと言っていいのだろうと思う。

勿論、そのほかにもいっぱいおられるが、事業全体から見て言うならこんな人たちがカワサキ単車の歴史を創り上げたと言っていい。

 

★ カワサキ単車のイメージは一種独特のものがある。

ホンダさんを始めユニークな企業の多い二輪業界でも一種独特の『カワサキイメージ』が、一般のユーザーも惹きつけているのだと思っている。

そんなカワサキも、もう50年の歴史を迎える。

私自身が単車に関係してもう50年である。

ご縁があって、今でもカワサキに幾らかでも関係して生きている。

 

そしてこの7月には、KAWASAKI Z1 FAN CLUB が、国内Z2販売40周年を記念してのイベント開催である。

こんな機会に、カワサキ単車の50年間をいろいろと書き残しておこうと思い立ったのである。

今までにもいろいろ書いている。そこに未だ書かなかったことばかりに絞ってみたいと思うのである。

時系列には特に拘らないが、旧いところから始めるのが順序かも知れない。

 

 

 昨年10月に纏めている創成期のレースの話、なかなか確り書けている。

 

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カワサキ悲願の8耐優勝の想い出

2012-07-26 06:18:16 | カワサキ単車の昔話

 

★こんな写真がFacebookのウオールに流れた。

カワサキモータースジャパン が7月からFacebookに参加した。

直ぐ、ツイッターでもリツイートしたし、

 

カワサキモータースジャパン@Kawasaki_JPN

カワサキモータースジャパンの公式フェイスブックページをオープンしました!内容はまだまだですが、これから充実させていきますのでぜひご覧ください!

 

Facebook でも紹介した。

220ほどだった『いいね』は、今270を超えた。

 

そんなKMJの FBの中にあった写真を取り上げて頂いた、中村貴志さんの写真をシェアさせて頂いたら、

それに山本靖さん がIMSの展示を見ました、などと懐かしいことを仰るものだから、もう一度思い出して書いてみようと思ったのである。

ホントに繋がるものである。

 

★伊藤ハムレーシングのこのマシン。

カワサキが8耐で唯一優勝を飾った93年の8耐のマシンなのである。

1993年7月25日、 ちょうど19年前の今日のことである。

 

私は3度目の国内市場担当の5年目、その前年には国内7万台の目標を達成して絶頂期であったが、かってのバブル時代のようなスポンサーの過熱ぶりも落ち着いた、そんな時期でもあった。

レースには、再び色濃く関係していた時期である。毎年7月末の8耐ウイークは鈴鹿で過ごすそんな時期だったのである。

世界の耐久レースを席巻していたチームフランスのKawasaki チームをしても、鈴鹿独特の高速8耐には優勝することが出来ずにいた。

この年初めて事業部にモータースポーツ推進部が出来て、故岩崎茂樹が初代の部長に就任した年なのである。

その時のレースチーム監督が大津信さんであったこと、覚えていなかったが、先日のFacebook の彼の記述で初めて確認した。

 

当時の日記を読み返してみると、今に繋がっていることが幾つかある。

Kawasaki、Good Times Concept が再度見直され採用された年でもある。

東京で今でもお世話になっている村島さんと本社総務の紹介で繫がったのはこの6月である。

技術部の藤井、大津くんなど当時の技術部トップと菊水で寿司を食ったりしている。250の2サイクルのレースを止めるという話が出たりしていた時期で、レースに関する話しであったことは間違いない。

 

 

★バブルがはじけて、スポンサーもちょっといっ時の派手さが失せた時代であった。

なかなかスポンサードが取れなくて、伊藤ハムとは本社のある方の紹介で成立したのである。そんなに大きな額ではなかったので、伊藤ハムにとっては宝くじに当たったようなものだったと思う。

カワサキの8耐については、『優勝を確実に狙える』ほどの実績がなかったのである。

よく勝てたとは思うが、まさに悲願の優勝であったと思う。

 

優勝当日は、現地ズズかで高橋鉄郎本部長らとともに、伊藤ハムの方たちと祝杯をあげたのである。

翌日朝早く鈴鹿を立ち明石に戻った。

午後の本部会議は冒頭、シャンパンの乾盃から始まったのである。会社の会議で酒を飲んだのはこの時だけである。

 

★当時は博多のイムズに常設の展示場を持っていた。

そこに8月1日から、伊藤ハムと『8耐優勝フェア』を開催したのである。

イムズでそれをご覧になったという、山本靖さんは、こんなコメントを寄せていただいた。

 

博多IMSで拝見しました。 
レース結果はこれですよね
 
このように記載されている
 
16度目を迎えた8耐だが、国内4大メーカーでは、唯一優勝がなく、1983年(昭58)の2位(ラフォン・イゴア組)が最高だった。ルマン24時間レースは2連覇中、米国で最も伝統のあるデイトナ200マイルも昨年制していた。だが、どうしても8耐だけは勝てなかった。84~86年までは、リストラのためワークス活動さえできない苦悩の時代もあったが、8耐優勝の希望は捨てなかった。
 
 ・・・・・・・このような記事も拝見しました。 当時は2輪に直接のご縁が無かったのですが、SPA直入の事は気に成っていました。 大分の中にサーキットが2つも出来るなんて!と嬉しいながらも少し驚きでした。 

 

 

それ以来カワサキの優勝はない。

今思えばよくぞ勝てたものである。実力だけでは勝てない8時間耐久レースである。

一度しか勝てなかった、そんな年に現場にいて優勝の美酒に酔えたことに感謝したい。

 

 

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カワサキ単車の昔話

2012-01-28 05:19:46 | カワサキ単車の昔話

★このブログに『カワサキ単車の昔話』というカテゴリーがある。

このブログを始めたころ、このカテゴリーを中心に発信していた。久しぶりの発信だが99話目になる。

 

『単車』という言葉自体が懐かしい響きがあるし、かっては『単車事業部』という時代が長かった。

そして、カワサキの創成期の想い出の中に、モトクロスレース、それも『赤タンク時代』のカワサキのモトクロスチームの想い出が懐かしい。

 

 

★そんな昔の想い出の中でも、この写真はいちばん欲しかった写真なのだが、なぜか私の手元には残っていないのである。

昭和40年ごろ、単車事業がスタートしたばかりだったのだが、川崎航空機の本社開発費で1億2000万円の広告宣伝費を3年間予算計上してくれた時期があった。

その広告宣伝課を担当していて、私の年収が40万円の時代だから大変な額だったのである。

なかなか使いきれなくて、レースも含めて、何事にも豪勢に使っていたウソのような時代であった。

その当時の総合カタログのまさに立派なものを造ったのだが、そのトップページを飾っていた写真なのである。

富士の裾野の朝霧高原であったMCFAJの全日本大会の時の写真である。

 

左から

安良岡健、三橋実、歳森康師、山本隆、岡部能夫、梅津次郎 カワサキのファクトリーの契約選手たちである。

三橋実が率いる関東のカワサキコンバットから安良岡、岡部、梅津、 Ⅰの字のコンバットのマークが当時はカッコよかったのである。

関西の名門神戸木の実クラブから、山本と歳森はまだヘルメットに神戸木の実のマークも入っていない新人時代である。

 

未だコンバットの星野一義も、木の実の金谷秀夫も契約はしていない、創成期のカワサキのライダーたちなのである。

この年の朝霧高原での全日本MXが私が初めてみたモトクロスでもあったが、当時はまだ広宣課の管轄ではあったが川合寿一さんが直接の担当だった。

 

★この写真がひょんなことで見つかった。

ずっとあとの時代、

カワサキのレースに深く関わった大津信君が、昨年から『野々池周辺散策』という綺麗なブログを発信している。

そのブログの中に見つけたのだが、

更にその先は、アメリカのこんなKawasakiのモトクロスの歴史を編集したサイトの中に記載されていたのである。

 

Kawasaki's original factory motocross team lined up for a race in Japan, sometime in the 1960s.

This is a 1966 Kawasaki B8M that must sound amazing when it's fired up. Known as the “red-tank Kawasaki,” this bike was first put into development in 1962. It was based on a 125cc street bike.

 

★ 英文でこんな説明文が付されている。

some time inthe 1960s  と書かれているが、MCFAJの朝霧高原での全日本、昭和39年春(1964)のはずである。

125ccB8は、昭和37年(1962)からの発売で、私はその前のB7時代から単車営業にいたので、このあたりの経緯はよく承知している。

 

★もう少し、当時のレースの昔話をすると、

当時はMFJよりはMCFAJの方が主流で、全国に幾つものクラブがあった。

その頂点を極めていたのが、

久保和夫などのいた東京の城北ライダース(スズキ)、

神奈川の野口種晴さん率いるスポーツライダース(ヤマハ)

京都の小島松久のマウンテインライダース(スズキ)

片山義美の神戸木の実クラブなどであった。  片山義美はスズキとマツダの契約で所属選手は、カワサキとの契約選手が多かったクラブだった。

 

★当時のカワサキでレースに熱心だったのが、技術部長の山田さん(のち川重副社長)で、もっと熱心だったのは兵庫メグロの西海社長だった。プロのオートレ―スの選手だった西海さんはカワサキがレースを出来るように、兵庫メグロにいた松尾勇さんを川崎に送り込み、事実カワサキの初期のレースマシンは、殆ど全て松尾さんの手で造り上げられたのである。

社内にレース経験者など皆無だったし、レース運営に関しても西海さんの意見や、片山義美さんの意見は参考になった。現場監督は初めはカワサキコンバットの三橋実が指揮を取っていたのである。

そして、1億2000万円もある広告宣伝費があったので、そこからレース費用は賄っていて、ライダー契約金も派手に出していたし、やりたいことは殆ど何でも出来たのである。

レース運営委員会の長を山田さんがやられていて、中学の先輩でもあったので、非常に面倒を見て頂いたのである。

 

レースも後発メーカーだったが、選手の養成には非常に力を入れていた。

新人選手の養成は、カワサキコンバットの三橋実に一任して、カワサキコンバットの運営費に月20万円を渡していたのである。これは当時では結構多い金額だったはずである。

厚木の三橋の元には全国の若い有望ライダーが多数集まったのである。どんな運営になっていたかはすべて三橋に任していた。厚木の借上げアパートには沢山の若手ライダーがいた。その中の一人が星野一義であり、いま星野インパルの経営をやっている金子豊なども秋田からやって来ていたのである。

各地に造った赤タンク会からも大阪の木村夏也などが現れたりした。

カワサキコンバット中心に動いていた時代で、神戸木の実からは山本、歳森の2名だけだったのである。

 

★当時のカワサキのファクトリーチームは、技術、生産、営業の混成チームで、エンジン開発は技術部、車体は松尾勇さんがチーフのモトクロス職場でマシンに造り上げ、その管轄は製造部、ライダー契約レース運営は私、広告宣伝費でラ―ダ―たちは全員広告宣伝課所属だったのである。

契約金は結構派手に弾んだので、シルビヤ(三橋)、スカイラインGTB(安良岡、岡部)、ホンダS500(山本、歳森)など当時の最先端のスポーツ車を買ったりしていた。

レーシングチームというか広告宣伝課は中古のヘリも持っていて、ヘリ帯同でレース場に行ったりしていたのである。他メーカーのライダーたちからもヘリに乗せろとせがまれたりして、いろんな人と仲良くなったし、いろんなライダーたちとの接触も事実多かったのである。

どう考えてもいい時代で、私自身も30歳前後だったのだが、一番自由に金を使えた時代だったのである。

 

★そんな時代のマシンがB8からスタートしているのだが、その後B1125ccになり更に150ccから、更に大きく238ccのF21Mまで、その時代のマシン開発は技術部ではなくて、松尾勇さんだったような気がする。

最初に山本隆が鈴鹿を走ったロードマシンも松尾さんの作である。

レース運営委員会なる、技術、生産、営業の委員会がレース方針を定めてはいたのだが、その事務局は私だったし、モトクロス職場は当時製造部にいた田崎雅元さんの管轄だったから、その辺の若手で大体仕切れた、これもまたいい時代だったのである。

カワサキのレースは、青野ケ原のモトクロスも、

鈴鹿のジュニアローレースも、

会社の正式な指示で出場などしたのではなくて、いずれも現場の想いで、勝手に出場したのだが、

どちらも雨が幸いして、青野が原は1位から6位独占、

鈴鹿は、ホンダ神谷忠、ホンダ、3位にカワサキ山本隆が入賞して、ロードの世界に入っていくのである。

 金谷秀夫がカワサキに初めて乗ったのは、山本が鈴鹿を走ったちょうど1ヶ月後、そんなことで山本は『ロードの先駆者』と今でも威張っているのである。

 

上の写真は、未だロードなど考えられないカワサキがレ―ス参入2年目の写真なのである。

私が直接レースを担当することになったのは、山本、歳森がBSと仮契約をしたという事件が起きた、ちょうど1年後からのことである。

 

 

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二輪車事業雑感

2011-11-14 06:56:46 | カワサキ単車の昔話

★いまでも自宅に二輪車新聞が送られてくる。そんな新聞情報だが、何となく日本の二輪市場の状況が解るのはこのお陰である。

その二輪車新聞の最新号には、Kawasaki 2012 全米ディ―ラ―ティングの様子が一面に大きく報道されている。

『厳しい中で日系トップシェア堅持』フロリダに2800人集う と見出しが躍っている。

 

米国内のカワサキファミリーが一堂に会して今回は4日間の日程で行われたようである。

日本からも事業本部長以下が出席して、ニューモデルの発表会など、ちょっと日本では考えられないような規模で、アメリカ的に行われる。招待される販売店もアメリカだから当然夫婦同伴なのである。

もう何十年も前から、こんなスタイルで続けられているものである。

 何回か出席したこともあるが、当時はアメリカが二輪事業を支える中枢であった時代である。

この記事を見て、『今でも昔と同じように、やっているんだな?』と、この記事を眺めていた。

 

★つい最近、こんなブログで、こんな数字を見たばかりだったから、余計にそう思ったのかも知れない。

「ハーレーダビットソン」
 ■1-9月累計
  ・売上高  37.1億ドル
  ・営業利益  4.918億ドル
  ・営業利益率 13.2%
   ・全世界の販売台数は、各四半期毎に49595台→83396台→61838台と安定した台数を確保

「ホンダ」
 ■上半期
  ・売上高  6,876 億円(前年度比+8.6%)
  ・営業利益   838 億円(前年度比+36.8%)
  ・営業利益率  12.2% 

「ヤマハ」
 ■1-9月累計
  ・売上高  6,915 億円(前年度比△0.4%)
  ・営業利益  329 億円(前年度比△22.9%)
  ・営業利益率  4.8%
  ・アジア及び中南米は伸長したが、欧州販売減と為替差損
 
「スズキ」
 ■上半期
  ・売上高  1,377 億円(前年度比+4.9%)
  ・営業利益   7 億円(前年度比+48億)
  ・営業利益率  0.5% 

「カワサキ」 
 ■上半期
  ・売上高  1,062 億円(前年度比△6.2%)
  ・営業利益  △23億円(前年度比△12億)
  ・先進国の販売不振と為替差損
  ・新興国への事業展開を促進する→インドネシア/タイ/ブラジル市場の拡大強化及びインド市場の開拓に着手
 

残念ながらカワサキだけが営業利益が赤字だが、その額は大した額ではないのだが、ホンダは増収増益、ヤマハは前年度よりは悪化しているが、5%近い営業利益はスゴイなと思った。

どちらも、経営の主体を開発途上国に移していることは間違いない。

私たちが知っている当時の二輪市場とは全く様変わりの環境下での二輪事業展開であることは容易に想像できるのである。

 

★数値を見せて頂いたブログには、いろいろと記述されているが、このように纏めておられる。

ハーレーやホンダ/ヤマハの二輪事業展開を観察すれば、世界的不況と言われる中でも二輪事業は極めて高い収益性を確保できる事業体と言える。
それは、市場動向を見た的確な戦略と素早い決断/実行力が高い収益性を確保できる事業体であることを、ハーレー、ホンダ/ヤマハの決算から読みとれる。
つまり、二輪事業は経営手腕によって、どうにでもなる事業体と言えるのではないだろうか


そして、今期二輪企業の収益性のSHOOTOUT WINNER は「ハーレーダビッドソン」だろう。
ハーレーダビッドソンの主軸はハーレーが持つ独特の背景、つまりハーレーのバックグランドの明確さにある。
これが、先進国のみならず新興国の二輪ユーザに支持されている理由でもあると思う。

特に、『二輪事業は経営手腕によって、どうにでもなる事業体と言えるのではないだろうか』というところは全く共感するところである。

確かに、カワサキはホンダ、ヤマハのようなスクーターを持っていないし、新興国での市場での台数的な不利なところはその通りなのだが。

一般に言われている為替問題などは、もう何十年前から何度も経験していたことだし、そのシステム的な対策が為されていて当然なのである。

時代も、環境も、市場も完全に変わってしまって、一時は潰れかかったハーレーが今やトップメーカーなのである。

経営的にいろんな難しい問題はあるのがろうが2000億円もの売り上げがあり、モノを開発し、生産し、販売する、その販売分野の殆どを100%出資の自らの会社が担当しているのである。販売と言う分野は、どんな規模でも成り立って当然なのである。その販売会社を『子会社』と認識しているところに錯覚があるような気がしてならない。

そこが事業の中心で、開発や生産機能はそれを補佐する機能だと考えるべきだと思ったりする。

 

★経営の中枢の事務屋がもう少し機能して、時代にあった総合システムを再構築しないと、経営環境は全く変わってしまっているのではなかろうか?

アメリカでトップシェアならともかく、日系企業でトップなどと言っていること自体が、確かにその通りなのだろうが、小学生の徒競争的認識なのかも知れない。

日本のプロ野球にDeNAが参入する時代なのである。日本市場でいま時『対面販売がMUST』と言う発想は、???である。消費者が『対面販売』を100%望むのなら別だが、そんなことはあり得ない。店など無くても、セールスなど居なくても、ネットだけで累計1000台以上の『大型二輪車』が販売できる時代なのである。

 

日本が生産の中心であった時代は過ぎ去った。

日本が二輪事業の若し中枢であるならば、最も求められるのは『本社中枢機能』なのだろう。

売上高が2000億円もある規模の事業体なのである。 幾らでも健全経営できる仕組みの構築が出来るはずである。

開発にアタマを使うように、経営システムの構築にぜひアタマを使って欲しいものである。

 

こんなブログを見ても、時代は変わったな、としみじみ感じてしまうのである。 

 

古谷錬太郎
 
『仕組みを造るのは非常に高度な仕事である。それを創らずに創意工夫してやれというのは酷である。損なやり方』と服部吉伸さんは言っておられるが、確かに仕組みは難しい。然し……カワサキ頑張って欲しい。
今朝のツイート である。

 

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野崎輪業さんのこと

2011-08-15 05:24:16 | カワサキ単車の昔話

★久しぶりで『カワサキ単車の昔話』のカテゴリーでブログをアップしています。

  はっぴいえんどプロジェクト
 rfuruya1がリツイート
 
 

 

昨日の午後、ツイッターに、happyendさんがこんなつぶやきを見つけたからです。

野崎輪業の野崎さん、私の大阪時代の想い出の中で、いろんなことが思い出されます。

happyend さんともこんなに近くお付き合い出来ているのも、野崎さんのことを書いたブログにコメントを頂いたのがきっかけです。

 ラリホ-日記の中にも、いろんな記述がありますが、

 

★野崎さんは、お店としてはちょっと変わったお店であったかも知れません。

なにが印象に残っているかというと 『そのお人柄です』。

多分、野崎さんのことを悪くいう人などはいないと思います。

 

当時のカワサキは、特約店制のスタートの時期で、数少ないお店とみんな仲間のようなお付き合いだったのですが、

何となく一匹狼のような堺の忍者の伊藤さんが、好んで付き合ったのが、野崎さんと吉永さんで、三羽ガラスのような存在でした。

無茶苦茶仲がよかったのに、野崎さんが新しいお店を出された時は、

伊藤さんは、どんなお店か気になって、仲がいいんだから昼間に見に行けばいいものを、夜暗くなってからそろっと見に行った。などと言っていました。

お店同士仲よくしていても、『そのあたりは何となく微妙で』と、伊藤さんが私に話してくれたのが印象に残っています。

 

近畿明発にいて、平井さんとも同僚で、カワサキののれん分けのひょっとしたら1号店かもしれぬ吉永さんも、野崎さんとはとても気があっていたようです。

野崎さん、吉永さん、伊藤さん、みんなそれなりに独特の個性があって想い出多いのですが、吉永さんも、野崎さんも早くこの世を去ってしまわれました。

 

★野崎さんや吉永さんを長く担当していたのが、古石、渋谷のコンビで、

野崎さんは直ぐ店を散らかしてしまうので、古石君に言われて渋谷くんが、バイクを売るよりはしょっちゅう店の掃除に行っていました。

何故か、レースも好きで淀川で草レースを野崎輪業が主催して、この時も古石君が面倒を見ていました。

私もまだファクトリーに顔が効いた時代で、当時の全日本チャンピオンの山本隆君を呼んできたりしたものです。一緒に付いてきたのが、後トライアルで名を成した加藤文博君で、山本君は今でも親しく付き合っているようです。

今月も加藤文博君とペアで空を飛んだりしていました

 

当時大阪営業所には、和田将宏君もしょっちゅう出入りしていて、野崎さんもそんな関係で和田君とも繋がっていたのかも知れません。

当時サービスに『篠ちゃんという』レース好きのオモシロイのが居て、彼がが居たので、レース仲間が集まってきたのかも知れません。

チームグリーンの監督を長く勤めて今でも何らかの形でカワサキのレースにいる野村君も当時はまだ学生だったのですが、大阪営業所に出入りいていたようです。

 何となく仲間が集まる営業所、そんな雰囲気がありました。

当時の共栄会の販売店のメンバーと夜中の12時ごろまで会議をしたりしていました。営業所のセールの内容を販売店が検討して作ってくれてた時代です。

25店ほどだった共栄会の人たちで大阪営業所の60%を売ってくれたら、500店以上もあったお店を全て取引中止して、『特約店制を実施する』と約束して、頑張っていた時代です。

 

 

★もう40年も前の話ですが、

若し、野崎さんも、吉永さんも生きていたら、今もずっと付き合っているのだと思います。

happyend さんのブログには、野崎さんの奥さんが、覚えていて下さったようで、私はすっかり忘れてしまっているのですが、

このブログでまた、お目に掛れたらいいなと思っています。

 

吉永興世さん、鹿児島出身で、『鹿児島生まれのカワサキ育ち』などと広告に載せたりしていました。近畿明発の営業をしていた頃からのお付き合いです。

この方の頂いた東南アジアのお土産など家に幾つかあります。

韓国や東南アジアが大好きで、すぐ遊びに行って使ってしまうので、大阪営業所時代古石君に言って、マージンを渡さずに営業所で貯金をしていたこともあります。

そういう意味では、当時のお店はユニークでした。 懐かしい時代です。

 

★ツイッターに

『久しぶりに『カワサキ単車の昔話』
『単車』二輪車なのになぜ単車か、知ってますか?

と書いたのでその答えを

サイドカー『側車免許』などがあったので、『単車』だそうです。

 

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カワサキレース初代マネージャー、故川合寿一さんのこと

2011-04-18 05:47:35 | カワサキ単車の昔話

 

★ 先日、山本隆と、歳森康師というブログをアップしたら、

当ののご本人の60じさん、山本隆君からこんなコメントが届いたのである。

『カワサキMXライダー契約第1号の歳森から、広島テックでB-8MXが1台余ってるから乗って見ないかと言われて乗ったのが、最初でした。
私は、トーハツランペット50とヤマハ125で個人エントリーで行ってました。
神戸木の実には既にメンバーになっていた時でした。』

私も知らぬ話である。そんな昔のことが懐かしくて、久しぶりに、『カワサキ単車の昔話』と言うカテゴリーで、初代のレースマネージャー故川合寿一さんのことを書いてみたい。

 

★ 私が川崎航空機に入社したのは、昭和32年のことである。

学生時代、野球部にいた。

当時の川崎航空機には野球部はあったが硬式のチームではなかったのだが、軟式の野球チームがあって、そこで何年間か野球を楽しんだのだが、

そのマネージャーをしていたのが故川合寿一さんなのである。

そんなことで川合さんとは入社早々からのお付き合いなのである。

国内のバイクや、ジェットスキーの関係された方は、ご存じの方も多いと思うが、藤田孝明君も同じ年の入社で野球部だった。私と三遊間や1,2番コンビを組んでいたりしたのである。

川合寿一さんについては、旧いライダーの人たちはよくご存じだが、京都の方で当時も確か『京都あたりから明石に通っておられた。

喜怒哀楽のうちの『喜』と『哀』が特に激しくて、『勝てば喜び、負けたら哀しむ』のが川合さんの専売特許だったのである。

こんな性格は、レースのマネージャになってからも変わらなかったのである。

 

★当時は書類はみんな手書きで、大事な書類だけが、タイプライターで打たれて、謄写版という器械で1枚1枚刷り上げていたのだが、川合さんはそのタイプ室にいたのである。

昭和36年ごろになって、個別のタイプライターなどがだんだん社内でも一般的になって、タイプ室がなくなって、当時スタートしたばかりの単車営業に異動になり、同じグループになったのである。

川合寿一さんが、レースに関与することになったのは、

カワサキ初のモトクロスと言われている『青野ケ原のモトクロス』に出場することになって、川合寿一さんがそのマネージャー役を引き受けたのである。

青野ケ原のレースは、雨で防水対策の完璧であったカワサキだけが完走して、他車はみんな水で止まってしまったようである。その結果1位から6位までを独占すると言うカワサキ圧勝となったのである。

その時走ったライダーは、社内ライダーばかりで、契約ライダーなどいなかったのだが、大勝利でレース熱が一挙に盛り上がり、

関東では三橋実率いるカワサキコンバットと関西では神戸木ノ実の歳森康師と最初に契約したのだと思う。

川合寿一さんは営業の同じグループではあったが、レースでどんな契約をしていたのか、詳しいことは知らない。 そんなころ山本隆君も歳森に次いでカワサキに乗るようになったのだと思う。 どれくらいの契約内容だったのか? 全然知らない。

 

★ 当時の川合寿一さんは、チームを引き連れて、地方レースの勝てそうなところばかりを選んで出場していたようで、どこに行っても優勝カップを持ち帰ったので、みんなホントにカワサキは強いのだと信じて疑わなかったのである。

これも川合さんの勝てば喜び、負けたら哀しむ性のなせる技だったのかも知れない。

翌年春の全国の強豪が集まった相馬が原で行われた、MFJの第1回日本グランプリでは、6位までにも入れなかった、その程度の実力だったのだが、

 

航空機の技術者のエンジン技術が高かったのか、

車体を担当した名物メカニック故松尾勇さんのノウハウが生きたのか、

契約ライダーたちのライデング技術が進歩したのか、

その年の秋ごろには、ライバルメーカーに互角に戦えるようになったのである。

 

★そして、その翌年事件が起きた。

契約ライダーの、山本隆、歳森康師の二人が、起こしたBSとの仮契約問題である。

契約担当は川合寿一さんであった。『大変なことと』大騒ぎになって、ライダー契約の場に私も引っ張り出されることになったのである。

この事件は、片山義美さんが纏めてくれて、無事収まったのだが、

 

多分、BSの契約条件の中にあったのだろう。山本隆君が鈴鹿のジュニアロードレースに出ると言い出して、

当時会社では認められていなかったロードレースの世界に、会社には黙ってマシンを2台造って、こっそり出場したのである。

5月3日、鈴鹿の現場に行ったのは川合寿一さんである。

山本君が3位に入賞して、

私の自宅に5月の連休中に電報が届いた。

『ヤマ3、シオ8、セイコウ カワ』

川合寿一さんが打った電報である。

このとき、8位に入った北陸の塩本君もその後白衣シーサイドレースの練習中に事故で帰らぬ人となった。

 

★川合寿一さんは、モトクロスも、ロードレースも、

カワサキの初めてのレースに現場にいた、レースマネージャーである。

間違いなく、カワサキ初代のレースマネージャーなのだが、

この鈴鹿のジュニアロードレースが、川合さんの最後のレース現場かもしれない。

 

1ヶ月後にあった鈴鹿のアマチュア6時間耐久レースには、大西健治君と私で望んでいる。

多分、6月にオープンした明石営業所の初代所長として、異動されたのだと思う。

 

川合寿一さんも、次に現場マネージャーをしてくれた大西健治君も、さらにその次の岩崎茂樹君もみんな故人となってしまわれた。

当時のライダーでは豪快に走った梅津次郎もなくなってしまった。

ご冥福を祈るばかりである。

 

そんな、昔の話なのである。

もう50年近くも前のことだから、間違いなく昔話なのである。

 

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昔の仲間たち と 昔話

2011-03-07 16:01:30 | カワサキ単車の昔話

★ 『カワサキの想い出、そして未来』 この催しの興奮が、まだ冷めずにいるような、昨日でした。

最近は、自分で写真を撮りまくるものですから、自分が写っている写真はあまりありません。

これらは、あちこちのブログから頂いてきた写真です。どなたが撮って頂いたのかも解っているようではっきりとは解りません。無断借用のような形ですが、お許しください。

いつ撮られたのかも解っていません。これはまたオモシロイメンバーです。

一番左は、二輪車新聞の衛藤さん、私は50年来のお付き合いです。今一番カワサキの歴史に詳しいのは、衛藤さんかもしれません。モーターマガジン社の大阪支社長だそうですが、私には二輪車新聞の衛藤さんのイメージしか湧きません。関西の二輪メーカーはカワサキ1社ですから、ずっとカワサキ専門なのです。

杉本良文さんのカワサキ時代は私は名前だけしか知りませんでした。昨年、有馬のファクトリーOB会以来、Z1会などで何回かお会いしました。カワサキーヤマハーホンダ―と歩かれて、何度もチャンピオンに輝いていますが、カワサキを卒業して有名になる選手も多いのですが、カワサキを故郷として大事にしてくれる人も多いのがいいですね。

吉村太一さん、田中隆造さんは関西MFJの現役で、MFJのふれあいミーテングなどでもお会いするのですが、もう40年以上も前の現役のころが懐かしいですね。特に太一ちゃんは、星野と同期で、20才前の若いころからよく知っていますので、今回お二人が参加してくれたことに感謝です。

これは翌日のカワサキワールドでどなたかが写して頂いたのですが、ケン、鈴木さんとです。 

お名前は当然ながらよく知っていましたが、お会いしたのは初めてです。ケン鈴木さんが来られるということで、参加メンバーが増えたりしました。 田中隆造さんなど、BS時代のお付き合いだそうです。あの頃のBS特にロードは速かったのを覚えています。ケン、鈴木さんがヨーロッパでGPにご活躍のころのUKの社長が故内田博さんです。内田さんはカワ販当時からレースが好きで、カワサキが初めて鈴鹿を走った時のライダーはモトクロスの山本隆君ですが、実はもう一人ロード専門のライダーが北陸の塩本君だったのですが、それを送ってくれたのが内田さんです、塩本君もその後白衣シーサイドレースの練習中に事故で亡くなって帰らぬ人になりました。

昼の研修センターに、田村君が訪ねてくれました。今は偉くなって営業部長さんのようですが、私などどうしても田村一郎さんの息子さんで単車事業部に移ってきたころの印象が強いものですから――。たまたまおられたのが、ホンダのファクトリー吉村太一、杉尾良文さんなどがモトクロスでお世話になったり、カワサキのKR250に刺激されて、NS500のマシンを開発されたというホンダの開発者渡辺さんです。ご紹介したところです。

たまたま後ろに顔が映っているのは、NPO The Good Times のホームページを作ってくれている松島裕さんです。と言っても8耐を何度も走り今でも欠かさず鈴鹿に顔を出すレースマニアです。ずっと向こうにいる女性、小林ゆきさんと思います。

 

久々に弟分、星野一義と並んでご機嫌の山本隆君、60おじさんです。

星野は久々に明石に里帰りして、終始ご機嫌でした。超有名人が一堂に会した、今回の会合でしたが、私が一番気安く『呼び捨て』に出来たのは、星野です。18歳のころまだ未契約で、カワサキコンバットのトラックを運転して明石にやってきたころ、初めて月給23000円で契約をしたころ、そのままの関係で今でも話が出来ます。

翌日は予定があって、初めは欠席だったのに、東京に日帰りで来てくれた星野に感謝です。

 

その星野が、歴史車を見て一番残念がっていたのは、『赤タンクのF21M』がないということでした。

カワサキのレースの創成期は『赤タンクのカワサキ』でした。グリーンになったのは、KMCがレースをやりだした70年代になってからだと思います。

80年代からのTeam Green を支えた平井さんは、切ったらグリーンの血が流れると、威張っていますが、

60年代のライダーたちやその時代のレースの世界を生きた私などは、『赤い血』が出るのだと思っています。GP125 ですらアカでした。 F21Mがグリーンなのは、市販マシンで、山本や星野が乗ったファクトリーマシンは、赤いタンクです。

 

 

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カワサキと、岩城滉一と、首藤文彦さん、「カワサキの想い出、そして未来」

2011-02-21 06:26:30 | カワサキ単車の昔話

★昨日このブログのアクセスは1010と1000をオーバーした。

その理由は、何故か『岩城滉一』 『岩城滉一―韓国』などの検索ワードから、『雑感日記、岩城滉一とのお付き合い』にアクセスが集中したのである。

岩城滉一 とカワサキが、どんなお付き合いをしたのかは、そのブログに詳しく書いているのだが、結構長く1991年から96年ごろまで、6年間も親密な関係にあったのである。

 

昨日はexciteのブログに『岩城滉一とのお付き合い』のことに触れているのだが、その中で翡翠之庄の新しいリンクを貼り直していて、

首藤文彦さんのこんなプロフィールサイトに出会ったのである

首藤文彦さん、立派にご成長である。 今は素晴らしい宿坊になっているのだが、私が首藤文彦さんに初めて出会ったのは、まだ今の宿坊の土地を買う前の老舗旅館『大丸旅館』の前で御食事処「川瀬美」を経営していたころ、まだ30歳のころの首藤さんであった。

カワサキと岩城滉一とのお付き合いは、ブログに書いている通りなのだが、なぜそれが首藤文彦さんに結び付くのか?

 ちょっと長くなるかもしれぬが、興味のある方はお付き合い願いたい。

3月4日の、「カワサキの想い出、そして未来」にも繋がっている、カワサキ単車の昔話なのである。

 

★1988年ごろからの10年間は、私にとって現役時代の最後で、結構波乱に飛んだ楽しくオモシロイ時代だったのである。ごく最近の4,5年はその時代をまた思い出して、その頃一緒に頑張った仲間たちとまた出会って、同じようなことをやっているのである。

直入町にサーキットを作るべく、故岩崎茂樹君と二人で、素人が川崎重工としては初めてのサーキットの絵を描いて、今のSPA直入を建設し、

その運営を遊び半分ではいい遊びは出来ないと、「ケイ、スポーツシステム」と言うソフト会社を立ち上げて、ユーザークラブKAZEなどを組織し、カワサキが国内で最高に楽しくオモシロくやっていた時代を演出したのである。

SPA直入の建設案を出したのが、88年3月、着工が89年3月、そして完成したのがが翌年で、金谷秀夫、清原明彦のベテランや宗和、塚本、多田などの現役ライダーたちの先導で、一般ライダーたち4000人が、日本で初めて自分たちのバイクでのサーキット走行を経験したのが1990年の4月15日なのである。

 

★当時、各メーカーは競ってレーサーレプリカ仕様のバイクを販売していたが、サーキットは、どこも一般ユーザーには開放していなかったのである。走る場所を求めて、峠のカーブを走る『峠族』が世の非難の的になっていたころである。

小さくてもいい、一般のライダーたちが自分の車で走れるサーキットを作ろうと、安全性を重視して造られたサーキットは、今までに幸いにして一人の死者も出していない数少ないサーキットなのである。 

コース設計をしたのも、「SPA直入」とベルギーの名門サーキット、スパ·フランコルシャンからのスパと温泉のスパをかけて、名付けたのも博学多才な故岩崎茂樹君なのである。

この建設と、オープン後の運営などのために、頻繁に直入町を訪れていて、その常宿が大丸旅館だったのである。首藤文彦さんのお母さんの大女将には本当にお世話になった。直入町の町長さんにも町のいろんな方にもホントにお世話になったのである。

SPA直入のオープンの当日、『有史以来初めて直入町に4000人の人が集まった』と町長さんは挨拶されたのである。長湯温泉は名湯ではあったが、直入町に観光客などあまり当時は来なかったのである。

 

★首藤文彦さんが、今の翡翠之庄の土地を買ったのが記録によると、SPA直入のオープンの翌年である。そして荒れ地を自分で重機を運転して広大な土地を均していた頃、現場にもよく行ったものである。首藤文彦さんまだ30歳ちょっとのころだった。

立地は大丸旅館とSPA直入との途中の細い坂道を登ったところだったのだが、いま道はそのままなのだろうか? そんな奥まったところだったのだが、宿坊は最初から大きく壮大に造られた。18000坪の敷地に十分見合うものだった。完成して開業したのが92年とある。

初めから立派な旅館だったのだが、翡翠之庄がオープンしてからは、私は大丸旅館の大女将に頼まれてずっと翡翠之庄に出張時は泊っていたのである。大女将にとっては末っ子が可愛くて、また心配だったのだと思う。

岩城滉一がカワサキに出入りして、バイクのレースやジェットスキーに熱中していたのは、ちょうどこの時期なのである。

首藤文彦さんのプロフィールの中にはこんな記述もある。『JJSBA公認ジェットスキープロチーム「チームカワセミ」結成、監督となる。』
直入町には、芹川ダムもあって、ここはジェットスキーのゲレンデとしても、使用していて、岩城滉一や清水宏次郎にとって直入町は絶好の遊び場所でもあり、そこを訪れるたびに泊っていたのが翡翠之庄なのである。首藤さんとも仲良くなって、確か首藤さんは芹川ダムの方の土地を幾らか岩城滉一にあげたとかいう話も聞いた。『土地を?』と言ったら『この辺の土地など、都会とは違いますからね』と笑っていた。

確かに、翡翠之庄は買い足して今は3万坪と書いてあるが、土地など幾らでもあるのである。

SPA直入を造った土地も元々、川重がZ1を開発するためのテストコースとして、本格的な大きなものを作るために土地だけは購入していたものである。そんな目的で買った土地だが建設する前にZ1は完成してしまって、そのまま放置されていたのである。土地を買う時の条件に約束していた地元の人たちの雇用問題などもあって直入町ともぎくしゃくしていたのである。

今のSPA直入はその10分の1ぐらいの場所を使って造っているもので、直入町との関係も完成後はいい関係に転じたのである。

 

★長くカワサキの二輪事業を担当したのだが、岩城滉一とお付き合いをしたこの6年間がカワサキの国内販売にとっても、私にとっても一番輝かしい時代であった。

二輪もジェットスキーも、商品に恵まれて7万台の大目標を達成している。

93年夏の鈴鹿では岩城率いる月木レーシングが4耐優勝、伝統の鈴鹿8時間耐久ではカワサキが初めて優勝を成し遂げているのである。当時のモータースポーツ部長が故岩崎茂樹君である。

 

ずっと昔の1975年当時、絶好調のアメリカ市場で、掲げられた

Kawasaki. Let the good times roll ! という基本コンセプトは、その後消えていたのだが、

この時期の絶好調の国内市場で、復活したのである。そして当時の事業本部長の高橋鉄郎さんがカワサキの事業展開の理念として全世界展開を図られたのである。

 

『カワサキに出会う人たちがハッピーになるようなそんな活動をずっと続けて行こう』という精神を受け継いで、

『異種、異質、異地域をみんな繋いで楽しい時を過ごそう』と

いま、私たちNPO 法人The Good Times はもっと広い範囲での活動展開を企図しているのである。

 その中心になっているメンバーは当時のKAZEやSPA直入や、岩城滉一とのお付き合いを担当してくれたタッチャんなどのメンバーなのである。

さらに言えば、NPOの事務局長をしてくれているカバン屋さんは、故岩崎茂樹君のご縁でブログのコメントで繋がったのである。

今日カバン屋さんに貼ってあるリンクは、いつものカバン屋さんではなくて、『あるZ1の物語』、今度の3月4日の工場見学の際、歴史車館で観るこの出来るZ1の物語なのである。

 

★今回、平井稔男さんが、主催する『カワサキの想い出、そして未来』も参加者全員がNPOのメンバーだし、後援はこのNPOなのである。

平井さんは、ご自身のブログ、Team Green の中で連載で綴っている。是非ご一読を。

集うメンバーたちも、高橋鉄郎さんをはじめ、みんないろんなところで繋がっているメンバーなのである。

若し、岩城滉一や首藤文彦さんが出席されても、顔見知りがいっぱいなのである。

そのイベントも、もうすぐそこに近づいた、そんな時期に『岩城滉一』の検索で、沢山のアクセスがあったのも何かのご縁なのである。

 SPA直入、 それは私にとって特別の想いのある場所なのである。

 

★これは全然違う話だが、SPA直入の運営を地元で長く担当してくれたのは、樋渡くんである。 彼は佐賀県の出身である。『樋渡』は佐賀に多い苗字なのだろうか?

もう何年か前に、武雄の樋渡さんが武雄と九州の温泉を結ぼうとされたことがある。その時長湯温泉を推薦したことがあるのだが、

今回首藤文彦さんのその後の活躍ぶりを見て、ブルを自分で運転して 山を切り開いていた頃の、エネルギーはそのままに、一直線に成長なさっている。

樋渡さんと繋がれば、面白いなと思っている。

 

『「はじめに母ありき」「自伝・くたみ伝説」執筆中』 ともあった。 

ずっとシイタケなども送って頂いていた大丸旅館の大女将、首藤文彦さんのお母さん、お世話になった。あれからもう20年にもなった。どうしておられるのか?町長さんも。

いつか機会があれば、訪ねてみたい直入の町である。

 

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青野ケ原のモトクロス

2011-01-30 07:51:34 | カワサキ単車の昔話

★『モトクロス黄金時代』という雑誌が八重洲出版から発行されている。

つい先日の、NPO The Good Times の新年会に、山本隆君が『自分の記事も載っている』と持参したものを見せてもらっている。

 

日本のレース時代の幕開けの記事のいろいろと一緒に、『カワサキのレースのスタート』ともなった、伝説の『青野ケ原モトクロス』の記事が4ページにわたって記載されている。

私自身も当時既に二輪営業の担当をしていて、直接ではなかったがこのレースに関していろんな思い出もある。

それこそ『カワサキ単車の昔話』の頂点に立つ話なので、知っている範囲で纏めてみたい。

 

 

 

★記事は、この4枚で構成されている。勿論ちゃんと取材をされた上の記事だから、その通りなのだと思う。

私は当時営業部にいて同僚の故川合寿一さんがマネージャー役をしていた。

記事の中にもあるようにこのレースが社命で行われたものではなくて、一部の人たち、それも中村治道さんや高橋鉄郎さんなど技術部というよりは、生産工場サイドで計画されたものであったことから、社内の状況はむしろ批判的な目で見る人の方が多かったのは、職制上から言えば当然かも知れない。確かにマシンなど開発する部門ではない生産部門が定時後とは言え、マシン開発などすることは、勤労部門などから見たらケシカラヌ行為に見えたのであろう。

そんな中で数少ない支援者のトップは、営業の故小野助治次長であったことは間違いない。

中村さんや高橋さんがまだ掛長の時代で、当時の部課長でそんなに積極的に応援した人はいなかった。

当然のことながら予算などなかった。私は営業部の管理掛にいて金の管理などは担当だったのである。

川合寿一さんがマネージャーような役割を担ったのも小野さんの指示であったし、

『金を都合してやれ』と私に指示を出されたのも小野さんなのである。何となくそんないい雰囲気を持った『おのすけ』さんであった。

 そんなに大金ではなかったが、営業部が都合できるぐらいの金を『ある意味ゴマカシテして捻出した』というのが、私の青野ケ原のレースに果たした役割であった。

この記事の最後にある当時のトップの人たちも含めての記念写真には、文句を言ってた部課長さんも並んでいるのを当時は、『結果が良ければ変わるものだな』と思って見ていたものである。写真の後列真ん中、背広姿、眼鏡をかけている方が『おのすけ』さんである。

 

★このレースのきっかけとなった鈴鹿のレースの強烈な印象は高橋鉄郎さんから何度もお聞きしている。

このチームのリーダーの役割を果たしたのは中村治道だった。強烈な個性でこのイベント?を引っ張っておられた。最初のページの一番左の方である。

レース当日風邪か何かでダメだったので、高橋さんが指揮を取られたと高橋さんご自身からお聞きしている。

マシンを作ったのは、故松尾勇さんとあるが、それは間違いない。

松尾さんは兵庫メグロの故西海さんが、カワサキでレースをさせるために兵庫メグロから送り込んだ人材なのである。後のF21Mもエンジンは故安藤さんだが、フレームを設計図もなしに仕上げたのは松尾勇さんであった。

初出場のカワサキが、なぜ1位から6位まで独占できたのか?

現場を見たわけではないが、当日は雨で水たまりがいっぱいできて、スズキやヤマハに乗ったライダーたちのマシンはみんな水をかぶって止まってしまったようである。カワサキの防水対策は完ぺきで、カワサキのマシンだけが完走したようなレースだったようである。山本隆君などもヤマハで出場していたのだが、止まってしまったのだという。

レースなどどんなものかも解らなかった私などは、水しぶきをあげて走っているレースの写真を見て、モトクロスレースとは水たまりなどの障害物の中を走るレースなのだと、正直そう思ったものある。

 

★このレースは単に、カワサキに優勝カップをもたらしただけではない。大げさに言えばカワサキの二輪事業の命運を分けたとも言えるであろう。

当時はまだ事業が軌道に乗っていたわけではなくて、B8の前のB7は、フレームの欠陥で大返品であった。

このまま事業を続けるべきか否か?

日本能率協会の大々的な調査の最中の出来事だったのである。このレースの優勝で現場の意気は上がっていたのを見て、その調査報告には、『末端の現場の意気高し』と記載されていたのである。事業存続の一つの判断材料になったのは、日能の報告書の中の記述を見ても明らかであった。

神様の天の恵みの雨であった。

 

このレースがカワサキの最初のレースのように言われているが、これ以前にも『カワサキ自販』などのレベルで、レース参加はなされていたのだと思う。

雁の巣や厚木や八戸などアメリカの基地周辺では、アメリカ人たちがレースをやるのに影響されて、盛んになっていったのではないだろうか。当時のカワサキ自販の小野田滋郎さんなどは、厚木にいたヤマハの三橋実を引きぬいたり、三吉一行くんにカワサキに乗せたりしていたようである。

その辺のところははっきりしていないが、メーカーサイドで非公式とはいえ大がかりでモトクロスレースに出たのは、『青野ケ原モトクロス』であったことは間違いない。

 

★こののち、営業の川合寿一さんがレース担当となって、

『神戸木の実』の歳森康師、山本隆、『カワサキコンバット』の三橋実などと契約を結び、翌年の第1回相馬が原の日本グランプリに臨むのである。

それまでも、地方の草レースにばかり出て連戦連勝だったから、当時レースの実情など知らなかった私などはモトクロスはカワサキが一番と信じていたのである。

各社の強豪が集まった相馬が原の日本グランプリでは、5位にも入れないのを見て『ビックリした』のを覚えている。

 

さらにその後は、私自身の担当分野となって、川合さんとともにレースを担当することとなったのである。

レースマシンに関しては、技術部よりも、松尾勇さんがダントツで詳しくて、『モトクロス職場』として、生産部門の担当となるのである。

その運営資金は広告宣伝費で負担し、モトクロス職場は生産部門管轄だったので、広告宣伝を担当した私や当時製造部にいた田崎さん(元川重社長)が創成期のレースに直接関係したのである。

エンジンは技術部、車体は製造部、ライダー契約やレース運営は広告宣伝課という3者協力体制で運営されていた。

 

★そんな50年前の時代であった。

 今日5時から、グリーンピア三木で、『神戸木の実クラブ創立50周年を祝う会』が行われて、出席する。

カワサキのレースの始まりは、世界の片山義美さんが主宰した『神戸木の実クラブ』とともに歩んできた。

『歳森康師、山本隆、金谷秀夫、星野一義、清原明彦、杉尾良文、など』のカワサキと関係のあったライダーたちが所属したクラブである。

 

そんな日に、『青野ケ原モトクロス』のことを書いている。

そんな時期に、『モトクロス黄金時代』という雑誌が八重洲出版から発行された。

何かのご縁のような気がする。

 

●改めて明日でもアップするが、その速報を、どうぞ。

昨日の司会をした、thirai さんも既にブログにアップしている

 

今は沢山あるバイク雑誌だが当時は、オートバイ誌とモーターサイクリストの2誌だけだった。

モーターサイクリストの酒井文人さんと確か関係の深かったMCFAJの方がレースの中心であった。

サイクリストは確か大橋さん、オートバイ誌は衛藤さん、衛藤さんは今でもお付き合いがあるのだがーー。

昔々のカワサキの昔話である。


考えてみれば一番長く付き合っている人、thiraiさん

2010-11-30 05:29:07 | カワサキ単車の昔話

★先週の日曜日、淡路で西日本Z1ミーテイングがあって、Zが1000台以上も集まったらしい。

Z1の開発者の稲村さんや種さんやキヨさん、メ―ちゃんなどの有名人たちのトークショ―もあって賑やかだったようである。

その様子をthiraiさんがブログにアップされたので、それをexciteのブログで紹介したら当のthiraiさんから、コメントまで頂いた。

★平井稔男さん、最近はネットの世界で 『thirai』 こんなハンドルネームで通っているが、私と同じ77歳、自ら 『カワサキの真打ち』 と称しておられるが、そう言われても仕方がない実績なのかも知れない。

延々とカワサキに関するブログを毎日発信しているが、

『Team Greenを愛するばかな男の夢』という題でこスタートしたのは、2009-8-9のことである

ひょこむに誘ったのも、ブログを勧めてスタートのお手伝いをしたのも確かに私なのだが、平井稔男さんに初めてお会いしたのは昭和36年か37年(1962)なのでもう50年近くも前のことである。

その時平井さんは既にカワサキ明発の営業で、もう何年もの経験を積んでいたのである。

カワサキのファクトリーライダーの第1号などと言われては、速かったかはどうかは別にして、こんな写真つきでブログまで書かれると脱帽せざるを得ないのである。

このブログに、あの山本隆君が『へ―こんなレースがあったのですね。知りませんでした。』とコメントを寄せているのだが、ブログを始めたばかりの平井さんは、返事をする術が解らなかったのだろう、そのままで放置されている。

でもこれは、私も最初に武雄の樋渡さんからコメントを頂いた時には、どうしていいのか解らずに、そのままに放置して失礼してしまっているのである。

 

★そんなころの平井さんもよく知ってはいるのだが、仕事の上で直接関係が出来たのは、10年ほど後の私が大阪営業所長、平井さんが兵庫営業所長のころであった。

カワサキにもWやZの大型スポーツ車が出来て、実用車のカワサキからの脱皮を図っていた時代である。

平井さん率いる兵庫県は、それまでの50ccや125ccの実用車を売るために自転車屋さんを中心に作り上げた平井さん独特の販売網は強力で、事実販売台数も大きかったのだが、

大型スポーツ車を売るための二輪専門店の候補店は、逆に皆目なくて自転車屋さん一色だったのである。

新しい特約店の販売網を創り上げるためには、既存の店を殆ど捨ててしまわねばならぬのだが、それを平井さんにやって貰うわけにもいかなくて、平井さんは大阪営業所長に移って貰って、藤田孝昭くんが代わって担当したのだが、候補店がないので仕方なく、従業員からの『のれん分け制度』で対応することになったのである。

その1号店になったのが財満君の灘カワサキで、その後、明石カワサキ、西宮カワサキ、加古川カワサキ、姫路カワサキ、さらにはキヨさんやメ―ちゃんの店など、兵庫県はカワサキのOBたちで販売網を構成ていったのである。兵庫県の中心販売店が殆どカワサキOBという販売網は独特の雰囲気をもったもので、その核となったのは平井さん門下生のセールスや営業所出身者たちだったのである。

現在、全国オートバイ協同組合連合会会長として、国会の大物議員先生と一緒に活動されたり、小池百合子さんとも対談したリする吉田純一さんは、間違いなく平井さんの神戸営業所長時代の門下生なのである。

仲間の間では今でも『純ちゃん』で通っているが、そんな純ちゃんの育ての親なのに、そんな事を言ったりしないのもまた平井さんらしいのである。

 

★その後平井さんには、いろいろ手伝って貰ったのだが、職名としてはそんなに格好のいいものではないのだが、他の人ではやれないようなことばかりを頼んでいる。

カワサキが表向きレースが出来ない苦しい時代を『Team Green』を創って、裏でカワサキのレースを支えてくれた。

このチームグリーンがなかったらその後のカワサキのレース活動も難しかったかもしれない。  平井さんが一番思い出のある職名は『Team Green 監督』だろうと思っている。

カワサキが本格的に安全運転に力を注いだ時は、安全運転を担当してくれた。『その時4輪を持っていたら、違反などするかも知れない。』と自分の4輪を手放してしまった平井さんにはビックリした。

お客様相談室を開設した時は、どこの社も女子が対応し、難しい問題は専任者に繋ぐような方式が多かったのだが、カワサキは技術でも、営業でも、レースでも、安全運転でも、カワサキのすべてに独りで対応できる平井さんに担当して貰ったのである。 当時のカワサキのお客様相談室は、その対応はダントツに評判が良くて、文句を言ってきたお客さんから贈り物が届いたりしたのである。

基本的に明るくて、いつも前向きで、何よりも言葉に明るさと覇気すら感じられる平井さん独特の話術は、ちょっと真似のできないものである。

最後は、サーキットの建設でも独りで頑張ってくれて、難しく新しい仕事ばかりを担当されたのに、いつも期待以上の成果を発揮できる貴重な存在であった。

 

★そんな平井さんと、今ではNPO 法人The Good Times の理事さんで援けて貰っている。

その平井さん、今は創業者の西海さんが亡くなったあとの名門兵庫メグロの社長さんを引き受けられている、現役なのである。

私はどなたとも、お付き合いは結構長いほうなのだが、考えてみるとthiraiさんが、ダントツで一番長いのかも知れない。もうすぐ50年にもなる。

その次ぎが60おじさん山本隆君かも知れない。お二人ともNPOの理事さんなので、今後もずっと続くのだろう。

旧い仲間は、本当にいいものである。

 

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カワサキ単車の昔話

2010-11-15 06:15:52 | カワサキ単車の昔話

★このブログのカテゴリーの一つに、『カワサキ単車の昔話』というのがある。

私が経験した昔話の数々を綴っているのだが、最近はこのカテゴリーをアップしていない。久々の登場なのである。

『昔話』はなかなか楽しいものなのだが、だんだんとその話が通じる人も少なくなって、話だけが独り歩きするような虚しさみたいなものを感じたりもするのである。

そんな環境の中で、昨日はバイク界ではその名も通っている小関和夫さんの取材で、大ぴらに昔話を楽しんだのである。

 

午後1時半、わざわざ三木の神鉄緑が丘駅まで足を運んでいただいた。

車なら非常にいい立地の三木も電車などの公共機関では大変なのである。  写真の後ろに見える林は、名門廣野ゴルフ倶楽部で、そんな直ぐヨコに結構大きな住宅地が広がっている。

駅の南の神戸から三木に来る道の左に位置している林が廣野ゴルフ倶楽部で、この道を逆に100mが神戸市との境界線なのである。

せっかく三木あたりまで足を延ばして頂いたので、取材を受ける場所は世界一の屋内テニスコートブルボンビーンズドームの中の喫茶店にした。

 

★時間はたっぷりあった。

『何年の入社ですか』 『昭和32年です。』で始まって取材のテーマは、マッハⅢではなくて、W1に関するもので、その前身のK2やメグロに関することであった。

カワサキがメグロを吸収した時代から以降のことである。

カワサキ自動車販売という社名の会社が神田岩本町にあったころの話で、今では、『神田岩本町の事務所』を知っている人が殆どいないのだが、それをご存じなのである。

そんなころの懐かしい雑談からのスタートで、当時のMFJの戸川さんの話など出て、楽しい昔話の世界に突入していったのである。

小関さんとは幾らか面識があるくらいで、初対面みたいなものである。

カワサキとの関係を聞いたら、小林茂君や故岩崎茂樹君などはよく知っていて、私とはひと世代違う63歳なのである。

それでも当時の懐かしいライダーたち、久保和夫や野口種晴、三橋実、三吉一行などのことなどすらすらお解りで、昔話をするには格好の相手であった。

 

★今回は、Wの本を出される取材で、先方からの質問は、

『FISCOで、W!のレーサーに、金谷秀夫が乗って走ったレース』があるのだがご存じありませんか? というのである。

このレースは、私はFISCOの現場にいて、金谷が走ったレースの内容も、このレースを走った金谷の感想も聞いていて、非常に印象に残ったレースなのである。

まだ、中村治道さんが、お元気なころで現場におられた。 

W1のロードレース出場はこの1回だけで、当時は500ccを超えるロードレーサーなどはどこにもなくて、このレースも相手は350ccのマシンを相手に出場したのである。

まだFISCOに伝説となってしまった 『須走り落とし』と言われた第一カーブがあったころで、直線コースは長かった。 レースはその直線部分では、大排気量のWが圧倒的なスピードで他を抜き去ってしまうのだが、逆にカーブでは車体が触れて、チェンジは右、ブレーキは左のマシンには、流石の金谷も手こずって抜かれてくるのだが、直線の最後までにはまたトップを奪い返すと言うオモシロイ展開だったのである。

結局最後のゴール地点では、抜き返すには距離が短くて確か、2位か3位でのゴールインであったのだが、小関さんに聞くとクラスが違うので『クラス優勝』扱いになっているのだとか。

 

★記者さんの取材というのは、新聞でも雑誌でも、取材する前に殆どご自身のイメージする記事は出来上がっていて、取材というのは『そのチェック』みたいなものなのである。

今回の取材は、レースには無縁であった、W1の数少ないレース話をロードとモトクロスで一つづつ揃えたいのだなというのは、私の後の取材が明石のエントリーのメ―ちゃんであることからも解った。

多分、このW1のロードレース話は、そんなに大きなレースでもなかったので知っている人も殆どいないのではと思う。幾らかでもお役に立てて良かったと思っている。

メ―ちゃんは、清原明彦の1年下の豪快なテストライダーで知られていて、神鍋での全日本モトクロスにW1 のモトクロスレーサーで出場した話は有名なのである。今は『entry』というバイク販売店を何店も経営する社長さんである。

5時の約束だと言うので、三木から電車では大変なので、車で明石までお送りして、メ―ちゃんにも会って戻ってきた。

昨日訪ねたのは、カワサキの店ではなくて、ホンダのウイング店の方だった。

 

★小関さんは、仙台の服部謙治君(服部カワサキ)も良くご存知のようなので、彼がまだ宮城カワサキの工場長だった時代、白バイのサービスを一手に引き受けていたこと、当時の白バイはほとんどがメグロであったこと、

そんなこともあって、当時のモトクロストップライダーであった山本隆君が、東北6県の白バイ隊員への教室での講義講習と実技講習を行って大好評で会った昔話などをお話しした。

 

さらに、『Kawasaki, Let the good times roll ! 』 というのはアメリカで生まれたこと。 これを造られたのは浜脇洋二さんであること、これはご存じなかった。

当時1975年時代、 『ナイセスト ピープル ホンダに乗る』 という意味のホンダの英語のスローガンは覚えておられた。

それから長い間の空白期間があって、ぜファーの時代に国内で復活させたこと、さらにそれを高橋鉄郎さんが世界へのカワサキのコンセプトとして決定されたこと、当時の広報担当が故岩崎茂樹君だったこと、なども興味を持たれたようである。

私のこのブログや、NPO 法人 The Good TIMes のこともご存じで、先方からのお申し出で、NPOの個人会員に参加されたのである。また一人オモシロイ仲間が加わった。

小関さん、NPOの仲間でもあり、国内の5つ目のメーカーである『こざる』のことも、ご存じだったのは、さすがである。

 

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