代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

吉田松陰と佐久間象山と松平忠固

2013年01月14日 | 松平忠固
 大河ドラマ「八重の桜」第二回「やむにやまれぬ心」を視聴した。吉田松陰と佐久間象山が国元蟄居となり、象山塾は閉塾になる。
 このあまりにも有名な史実の影で、全く語られないエピソードを一つ紹介したい。吉田松陰と老中・松平忠固(信州上田藩主)の数奇な物語である。
 これまで山のように吉田松陰論が書かれ、松陰はあらゆる角度から論じられてきた感がある。しかし、この論点は書かれたことがないと思う。日米条約の調印後、松陰が突然に過激になって老中・間部詮勝の暗殺を企て、討幕を叫ぶまでに至る、その要因は彼が敬慕していた老中・松平忠固と堀田正睦の失脚にあったと思うのだ。忠固と正睦の失脚はすなわち、松陰が懇願していた佐久間象山赦免の可能性が消えたということを意味したからだ。

 私はこれまで上田藩士・赤松小三郎の復権を願ってブログで論陣を張ってきた。じつは上田藩には、小三郎以上に全くといってよいほど評価されていないかわいそうな人物がいる。他ならぬ上田藩主の松平忠固である。彼ほど日本史的に重要な業績を残しながら、彼ほど全くといってよいほど評価されていない人物も珍しいと思うのだ。

 吉田松陰の下田密航事件の後、幕閣内では、国禁を犯した松陰を死罪にという意見も多かった。国元蟄居という比較的に寛大な処置ですまそうと動いたのは、松陰と象山に深い同情を寄せていた老中の松平忠固(上田藩主)であった。開国論者にして積極的交易論者であった忠固は、日本人が自由に海外に渡航できる世を望んでいた(ちなみに、忠固の息子の松平忠厚は後にアメリカに渡り、測量技師として米国初の日本人公職者として活躍、米国人女性と結婚した初の日本人ともなった)。
 当然、忠固は、やむにやまれぬ心で国禁を犯した松陰と象山に深い同情を寄せ、老中首座の阿部正弘(福山藩主)と共に、二人をなるべく軽い罪ですまそうとしたのだ。

 その後、忠固は水戸斉昭と対立して老中を罷免させられてしまう。

 安政四年、日米修好通商条約の調印に迫られた幕府は、開国論の巨頭であった松平忠固を次席格の老中として再任した。老中首座の堀田正睦(佐倉藩主)と共に、忠固は日米条約の調印に向けて奔走することになる。
 老中に再任された忠固には一つの懸案事項があった。それは佐久間象山を赦免し、その能力を国政に活用したいという希望である。定かではないものの、おそらく象山と共に松陰も許そうとしていたと思われる。
 
 実際、松陰が国元で蟄居生活をしながら松下村塾を営んでいた安政四年(1857年)7月、櫻井純蔵と恒川才八郎という二人の上田藩士が松下村塾を訪ねてきた。櫻井と恒川は、象山を赦免したいという藩主・忠固の意向を受けて、松代で蟄居中の象山にも会い、さらに象山から松陰の消息を聞いて、わざわざ萩までやってきたのだ。これは、忠固本人が二人に萩の松陰の様子を見てくるように命じたのではなかろうか。
 櫻井と恒川は老中・忠固の真意を松陰に伝えていた。つまり忠固が、象山と松陰の行動に共感を寄せ、少なくとも象山を何とか赦免したいと考えているという事実である。

 松陰は、象山を赦免しその知恵を用いることが如何に国のためになるかを櫻井と恒川に切に訴え、その想いを忠固に伝えて欲しいと託したのである。
 
 松陰といえば、周知のように、激烈な尊王攘夷論者として、朝廷の勅許を得ずに日米条約を調印しようとしている幕府を激しく糾弾していた。そして、勅許を得ずに条約を調印しようとしていた頭目は他ならぬ松平忠固であったのだ。

 その松陰が、櫻井と恒川から忠固の真意を聞き、忠固の賢明さを知り、敬慕するようになるのである。口で違勅条約と糾弾しながら、その政策を推し進めた頭目をじつは陰で尊敬し期待を寄せているという、この松陰のアンビバレントな感情は、言語では表現し難いものがある。
 実際、松陰は、彼の弟子たちや桂小五郎が激しく正睦や忠固を攻撃する中で、二人をかばっている様子が書簡からうかがえる。松陰は、口では違勅条約を結ぼうとする幕府を批判しながら、その実、忠固の英明さに期待し、象山さえ赦免されれば展望は開けていくという希望を持っていた。

 安政四(1857)年10月29日に、松陰が桂小五郎に宛てて書いた「桂小五郎に與ふる書」の一節を紹介したい。引用元は、山口県教育委員会編『吉田松陰全集 第四巻』138~140頁である。松陰は、この中で桂小五郎に対して、上田藩士を通して忠固に象山の赦免を働きかける運動をするように依頼している。以下、その一節を紹介する。
 
****吉田松陰「桂小五郎に與ふる書」(安政四年十月)*******
 
(前略)
 獨り吾が師平象山(佐久間象山)先生を顧念する毎に、心すなわち悶々として措く能はざること之を久しうす。
(中略)

 頃(このごろ)聞く、上田侯(松平忠固のこと)再び入って政を執り、佐倉侯(老中首座・堀田正睦のこと)と心を協(あわ)せて事を謀る、二侯閔然(びんぜん)として吾が師を憐れむの色ありと。当今疆�軒(国境の争いのこと)故多く幕政更張す。其の吾が師を憐れむは、徒に其の窮を憐れむのみに非ず、将た以(はたゆえ)あるならん(象山の才を幕政で重んじようとしたことを指す)。僕の如きは、草茅窮居、幽囚多年、いずくんぞ仰いで幕中の大議を測るを得んや。然れども憂国の心は貴賤に分かたることなければ、則ち二侯の之を憐れむと、僕をの之を惜しむと、初めより二致あることなし。ここを以て僕密かに軒然として、二侯の為に告訴せんと欲するものあり。
 (中略)
 上田藩臣に櫻井純蔵・恒川才八郎なる者あり、皆吾が師を知り、因って遂に僕を知れる者なり。二氏會て其の君賢明の状を以て、告げ語ること甚だ悉せり。其れ或いは僕の言を以て通ずべし。
 (中略)
 彼の(象山の)其の言行はれば、則ち利益天下に施き、巧名後世に流さんとは、是れ君子の設心なり。
 (中略)
 僕秘かに当世を歴観するに、此の説や(象山の説)、二侯に非ずんば其れ孰(た)れか聴きて之を納容せん。而して僕獨り上田侯に眷々たる(思い慕うさま)ものは、櫻井・恒川二子の言猶耳に在るを以てなり。
 足下(桂小五郎)固より報国の志を抱く者にして、又吾が師の平生を知る。
 (中略)
 足下(桂小五郎)何ぞ天下国家の為めに一たび此の意を上田侯の下執事に呈鳴せざるや。
 (後略)

****引用終わり*******

 この時点で、吉田松陰がいかに松平忠固と堀田正睦に期待を寄せているか明らかであろう。日本中を俯瞰しても、象山を国政に参与させてその能力を活用することができる英明な諸侯は忠固と正睦だけであると言い、松陰の告訴を櫻井らの上田藩士を通して忠固に伝えて欲しいと桂小五郎に依頼している。おそらく桂小五郎は、忠固など奸物であると松陰に訴えたのだろう。松陰は「僕獨り上田侯に眷々たる(思い慕う)」と述べ、桂の誤解を解こうとしている。
 
 おそらく忠固は、条約が調印された暁には、晴れて佐久間象山も吉田松陰も赦免するつもりであったのだろう。しかし、その間もなく、条約調印のわずか四日後に、忠固と正睦は井伊直弼の計略によって失脚させられてしまう。これは即ち、象山赦免の可能性が消えたことを意味した。松陰は激昂し、井伊と幕府を糾弾し、ついには忠固の後任の老中・間部詮勝の暗殺を企てる。それが原因で、安政の大獄で処刑されるに至り、その死が長州藩の討幕運動へとつながっていく。

 ちなみに吉田松陰研究者の間で松平忠固がいかに軽視されているかは、『吉田松陰全集』が「上田侯」を松代藩主の「真田幸教」と間違えて注釈しているのを見ても分かる。象山の主君の真田幸教のことであれば、松陰は「松代侯」と書くはずで、「上田侯」が真田幸教のわけがあるまい。山口県教育委員会にして、これなのである。

 遺憾ながら松陰は、朝廷の勅許なしでも急いで条約を結ばねばならぬと考えた忠固の、その意図を全く理解していなかった。忠固が条約の締結を急いだ意図はただ一つである。忠固は、イギリス艦隊が日本に襲来する前に、それに比べて与しやすい交渉相手である米国との間で、少しでも日本に有利な内容の最恵国条約を結んでしまい、ハリスを盾に英国との交渉も有利に進めようとしたのだ。

 当時、大英帝国は、破竹の勢いでアジア諸国を植民地化しつつあった。それに比べ、米国のハリスには植民地化の意図はなかったし、日本にとってははるかに穏当な交渉相手であった。実際、ハリスと結んだ条約は、関税率が20%と日本に有利に定められ、阿片を貿易の禁制品目に指定するなど、寛大な内容であった。交渉相手がイギリスであったら、こうはいかなかっただろう。忠固の下した結論は日本にとって最善のものであった。
 
 もし忠固と正睦の失脚がなかったら、安政の大獄もなかったし、松陰の処刑はおろか、赦免されていたであろう。その後の日本史の多くの流血の悲劇は避けられていたであろうし、全く違った展開になっていただろう。




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2 コメント

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典拠を下さい。 (みぃにゃん)
2013-05-25 02:43:18
よく研究しておられるのは、転載したい位です。
出来れば、典拠・注釈を要れて下されば…もっと良くなると思います。
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参考文献など ()
2013-05-25 10:59:11
 はじめまして。忠固の事績は、多くの日本人に(それから米国人にも)知って欲しいので、紹介などしてくださると大変にうれしく存じます。
 この記事はもっぱら『松陰全集』のみに依拠して書きました。忠固が象山を赦免しようと考えていたという事実も、松陰が上田藩士からその話しを直接に聞いて、桂小五郎に宛ててそう書いていることが根拠です。
 松陰の書簡を読めば、松陰の心の中に占める松平忠固の存在はすごく大きなものであったことは明らかなのですが、なぜか無視されています。
 
 もっとも、松陰の密航事件のあと忠固が松陰と象山を救済しようと努力したことや、それを知った松陰が忠固を慕っていた事実などを、私が最初に知ったのは、下記の文献からです。これも本文中に紹介した方がよかったですね。下記文献です。上田私立博物館に行かないと手に入らないという希少本です・・・・。(国会図書館などにはあると思いますが)

上田市立博物館『松平忠固・赤松小三郎-上田にみる近代の夜明け』1994年。

 また絶版の本ですが、松平忠固の伝記小説として下記の文献があります。この本にも、以上のような事実関係は書かれていたと記憶しています。参考までに紹介いたします。

猪坂直一『あらしの江戸城 ―幕末の英傑・松平伊賀守』中沢書房、1958年。

PS 少しみぃにゃん様のブログ覗かせていただきました。すごく幅の広いご関心をお持ちなのですね。アンモニャイトの動画は笑えました。
 今後ともよろしくお願いいたします。
 
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