代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

なぜ西郷隆盛は国民議会論を捨て王政復古クーデターを断行したのか?

2014年11月19日 | 歴史
 赤松小三郎の建白書を下敷きにしたと思われる「薩土盟約」の段階では、西郷隆盛は議会政治の導入を受け入れていたようにも思える。その後、西郷は、国民議会論を捨て、武力討幕路線へ転換し、赤松小三郎を暗殺し、王政復古クーデターを断行した。この背景に何があったのか? 
 薩長公英陰謀論者さんより、これらの問題についての興味深い仮説が投稿されてい参りました。全文を再掲させていただきます。
 
***以下引用*****
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/b3fbe4ed052b21e04407666401431e87

「西郷隆盛の変心」について考えますことを。<#02>    (薩長公英陰謀論者)    2014-11-15 23:29:13

 私にとってはその一切を忌避したい人物である西郷隆盛の、「薩土盟約」から「薩長同盟」への移行、それに含まれる「国民議会に関する心変わり」について考えました仮説を述べてみます。

仮説01 西郷隆盛は「薩摩藩のために徳川家の全国支配を打倒する」ことを目的としていた、私心のない卓抜した謀略家であり軍事指導者であった。
 しかし西郷は一貫した政治的理念理想、政治構想は持ち合わせていなかった。西郷にとって「国民議会」論は、徳川家の支配体制を打倒するための「取替え可能な大義名分」つまりたんなる道具にすぎなかった。

仮説02 しかし重要なことは、西郷が道具として熱弁を振るうほどに「国民議会論」は当時広く人心を得ていたということである。
 西郷は英国外交官であり英国の対日謀略の担当者であったサトウと、江戸公儀がすすめており当時の大勢となっていた「公武合体論」と「国民議会論」を切り離すという問題について議論をしようとしたのではないか。

仮説03 当時薩摩は土佐と「薩土盟約」を結んでいたが、ジョン万次郎のいた土佐はアメリカとの結びつきが強かった。サトウは「薩土盟約」による「国民議会論」の背後にアメリカを見て、西郷に対して「国民議会論を論じるのはクレージーだ」と言ったのではないか。

仮説04 名誉革命という名の反革命によって王政復古をしたイギリスは、アジアにおいて主要な競争相手となりつつあった独立戦争後のアメリカ、さらに同じくフランス革命後のフランスの共和制議会政体を警戒敵視しており、日本において共和政体が将来生まれることになるのを阻止する方途を「反徳川=尊王」に見たのではないか。

仮説05 政治思想理念主導の「薩土盟約」に対して「薩長同盟」は実質的には、下関戦争による制裁下の長州に英国との貿易を可能とする「経済提携条約」であり、その経済的受益者は英国(グラバー&ジャーディン・マセソン商会)であった。
 薩摩の軸足を「薩長同盟」に移させれば「尊王=王政復古」による「倒幕=共和制阻止」の可能性を切り開くことができることを見抜いたのは、当時の本国の対外方針によって直接の介入は避けたい英国であったのではないか。

仮説06 西郷隆盛は、仮説01および05から考えて、機会主義的判断によってすんなりと「国民議会論」を切り捨てて英国の路線に乗ることにしたのではないか。
 その西郷の足もとを見透かすであろう坂本龍馬を「薩長同盟」成立の立役者に仕立て上げ、そののちに暗殺したのではないか。

仮説07 坂本龍馬の「海援隊」商権を引き継いで土佐商会を設立し、維新後に代表的な政商となる土佐の岩崎弥太郎が薩摩または長州と通じ、「薩土盟約」から「薩長同盟」へと歴史の展開軸を移すのに大きな役割を果たしたのではないか。じつは10年前に「岩崎弥太郎長州スパイ説」という論議がネットでなされていたことを覚えています。

 関さん、以上は仮説というより結果から逆読みしたものにすぎません。いずれにせよ、かような問題に関連する史料は長薩明治政府の手によってすべて消滅しているのではないかと推察します。幸運にのこされているとすれば、ひょっとして上田かもしれません(まさか)。


***引用終わり******

 西郷が薩土盟約の路線を破棄し、長州との軍事同盟による武力討幕路線に切り替えた背後にイギリスの思惑が作用していた・・・・・。可能性としてはあると思いますが、目下の私の知識では論評不可能な領域です。コメントできず申し訳ありません。

>幸運にのこされているとすれば、ひょっとして上田かもしれません(まさか)。

 松平忠固の死後の上田藩には、イギリスの動向を探った政治資料などはないでしょう。忠固存命の頃は藩としてそのような探索もしていたと思いますが、それも詳細は不明です。

 忠固が老中時代の上田藩の日記等の資料は、上田博物館に眠っています。活字にすらなっておらず、史料として全く活用されていません。何か貴重な情報があるかも知れませんが、不明です。上田市が出資して解読・活字にすべきと思うのですが、市の行政は目下「真田丸」一色で、幕末には全く目が向いていないですから(苦笑)。

 赤松小三郎の英語と英国兵学の師は横浜に駐在していたイギリス騎兵大尉のアプリンです。赤松個人としてはアプリンを通してイギリスの内情も探索し、情報も得ていたと思います。小三郎の資料は、暗殺後にすべて中村半次郎らが焼いてしまったようです。
 ちなみに、アプリン大尉は徳川慶喜とも接触していました。イギリスも一枚岩ではなく、アプリン大尉のように江戸公儀側に肩入れしていたと思われる人物もそれなりに多かったと思います。

 ちなみに上田には、横浜開港時の生糸貿易に関する資料はかなりありますので、日本貿易事始めの史料として注目されつつあるようです。例えば以下の横浜開港資料館の館報をご参照ください。

「生糸貿易が始まった日」
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/113/04.html

「中居重兵衛とその資料」
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/101/04.html
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/101/04-2.html
  
 

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10 コメント

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すみません。番組名を失念しました (りくにす)
2014-11-27 21:04:58
面白い考察ありがとうございます。
そこで思い出したのが、「篤姫は二人いた」とかの珍説を扱う歴史番組で「龍馬を暗殺したのは勝海舟」という話でした。確かに幕府側にも龍馬を暗殺する理由があるのですが、捕縛でなかったのはなぜでしょう。
この番組ではあくまで幕府側の事情で暗殺が行われるのですが、勝ならば薩摩とも関係があるので、もしやと思いますね。
慶応3年あたりは記憶から抜けてしまってるので、松浦玲の本を再読する必要があるかもしれません。
返信する
☆ 関さん、西郷国民議会論仮説を取り上げていただき、丁寧なフォローをありがとうございました。 (薩長公営陰謀論者)
2014-11-29 18:02:58
関良基さま:

 関さん、西郷隆盛の国民議会論からの変心に関する仮説を取りあげていただきありがとうございます。丁寧な興味深いコメントと参照資料に感謝を申し上げます。たんさいぼう影の会長さまの示唆が身にしみます。案の定で息切れが激しく、そろそろ限界になりました。

 少し気を取り直して、あらためて見ますと:

 1867年06月22日「薩土盟約」成立。
 1867年09月09日「薩土盟約」解消。
 1867年09月30日 赤松小三郎暗殺。
 1867年11月09日 大政奉還。
 1867年11月   「薩長同盟(出兵協定)」成立。
 1867年12月10日 坂本龍馬暗殺。
 1868年01月03日 王政復古クーデター。

 国民議会論のイニシアティブから専制王政へという、このわずか半年間に凝縮された展開の転換点を象徴するのが1867年8月にはなされていたかと思われる西郷隆盛の国民議会からの心変わりであると思います。
 極端に言いますと「革命から反革命への転換」と言える、この展開の中で、赤松小三郎と坂本龍馬に対するテロリズムが無惨なほど「絶妙」のタイミングで行われていることに息をのみます。

 なるほど、りくにすさまお疑いの勝海舟ですが; 公儀側が個人を目標にしたテロリズムをおこなうということはおっしゃるようにまことに釈然とせず(歴史にその例がありますでしょうか?)、されば勝個人が薩摩と通じて坂本龍馬に手を出したということは・・・例の江戸攻撃中止の勝・西郷会談が英国のお膳立てによるパフォーマンスであったであろうということを勘案しますと、ありうるのかもしれませんが・・・。

 勝海舟は、やがて「時流」を安全なところから傍観蔑視するダンディズムに堕すとは言え、彼なりのプライドはあったように思えます。そういう人物にテロリズムは似合わないような・・・いかがでしょうか? まして江戸っ子だったようですし。
 そういえば、と思い出し取り出した文庫本『氷川清話』(講談社学術文庫)に付箋がたくさん貼ってあって驚きました(江戸期と比較して近代化以降の工事をこきおろした「治水と堤防」p172をはじめとして)。

 この劇的な歴史のダイナミズムの舞台裏に在アジア英国勢力のしたたかな思惑と動きとがあっただろうというのは、この百戦錬磨の英国と比べるとまるで「頭隠して尻隠さず」の米国勢力の動きを同時代に反吐が出るほど見ていることからの類推的推測です。上手下手はありましょうが「劇的なドラマ」には、そのとおりに進まないにせよ、複雑系を言うより、やはりシナリオがあると。

 本ウェブログのひとつ次の記事「社会的共通資本とは何か」への12434さまのコメントの一部を索かせていただきますと:

 「・・・その当時の覇権国家だったイギリスが掲げたのが自由貿易です。このイデオロギーをインドをはじめとするアジア諸国等に押し付けて、産業の構造を自国に都合良く改変させていいように収奪していったのです」と。
 強者・世界覇者の動きに「乗る」機会主義者というものは、現在目の前でまざまざと見るように、当時において存在しなかったはずがないと思えます。

 それにしても、イギリス騎兵大尉アプリン氏や英国派遣の軍当事者たちが当時の日本の国内外の一連の展開をどのように見ていたのかということを知ることができればと思います。赤松小三郎が長崎時代に仕えた勝海舟とは異なって、犀利で明敏な赤松小三郎は、アプリン大尉から戦闘の戦法や戦術を吸収するのみならず、戦略と兵制・軍制の背景にある政治経済について、当時の上田の状況をアタマに置きながら、考え学んだのではないかと思うからです。

 アプリン大尉は、政治経済謀略機関としての外交部(在中&在日英国領事)と在アジア現地経済利権を代表するジャーディン・マセソン商会とその出先グラバーとは一定の距離を置いた、むしろ知的な存在であったのではないかと勝手に想像します。
 米海兵隊在役33年のほとんどは金儲け連中の為の「ゆすり屋」だったと退役後になって書いた、現在においても米軍基地施設にその名がのこされている英雄的な米国海兵隊指揮官スメドリー・バトラー准将とはその意味で異なっていたのではないかと。

     ☆☆☆

 関さんが牽かれた横浜開港資料館の資料の筆者である西川武臣氏が同館副館長であることを、以前に買ってそのままおいてあった『講座 明治維新 第8巻 明治維新の経済過程』(明治維新史学会、有志舎、2013年)で知りました。

 関さんご紹介の資料と同書所収の西川氏論文「横浜開港と国際市場ー生糸貿易と売込商の軌跡ー」を見て強い印象を受けました。とくに、開港後の横浜からの生糸の輸出が一瞬をおいたあとただちに急伸し、その後浮沈を繰り返しながらも明治維新後の日本の「近代化」をささえる中心的な源泉でありつづけたのは、すでに開港当時において十分に成熟した生糸の生産・物流・金融・それに関連する事務管理と経営管理の広範なネットワークが存在したことを示している、ということに。

 無知で封建的なままガラパゴス化した未開の国に「倒幕維新」と「文明開化」によって近代文明がもたらされたというプロパガンダとしての「黒船神話」、そのほかに神話がもうひとつあったことを中居屋のたった二つ残された帳簿記録の話から思い出しました。「大福帳神話」です。

 例によって福沢諭吉が紹介した西欧式「複式簿記」によって原始的な「単式簿記大福帳」からの近代化がおこなわれたというのが「黒船神話」同様の<明治維新プロパガンダ>であるということを本格的に知ったのは、田中孝治先生という篤学の方のお仕事に偶然に触れる機会があったことによります。

 主として企業実務家向けの専門誌『産業経理』に発表されてきた田中孝治氏の論攷は、最近『江戸時代帳合法成立史の研究 ー和式会計のルーツを探求するー 』(森山書店、2014年)にまとめらました。
 江戸期に発達した会計が、財産報告と収支報告をリンクさせた完璧な複式簿記であり、江戸の店と松坂の本店を結ぶ「本支店会計」、さらに「監査制度」を持った、高度な会計システムであったことが、旧家の襖の内張をはがして解読するような努力を含めて、残された帳簿の地道な検討によって明らかにされています。

 このように江戸期の経済社会とともに高度に発達した会計の伝統は、中世における荘園会計をはるかにこえて、天平時代の公会計にさかのぼることができ、さらにその源流は海と砂漠をこえて敦煌、トルファンに至ることが持ち帰られていたわずかな出土文書の検討によって示されています。

 関さん、この田中孝治先生は、大学には該当の講座がないために地元の高校の教職に就き、研究活動が教育には無関係と白眼視される逆境のもとで頑張ってこられたようです(商業高校・普通高校から、今は特別な条件を持つ子供達の教育に従事させられておられるようです)。もし大学の図書館に前著がありましたら是非一度手に取ってご覧ください。専門的な研究は私には手に負えず、内容を理解して紹介することができませんので。
返信する
(つづき)関さん、西郷国民議会論仮説を取り上げていただき、丁寧なフォローをありがとうございました。 (薩長公営陰謀論者)
2014-11-29 18:08:47

 じつはたった今、この大福帳神話劇が再演されつつあります。一般の注目を得てはおりませんが「地方公会計改革」というもので、従来の公会計を時代遅れの大福帳的単式簿記として蔑視攻撃して、そこに「複式簿記」を導入しようという、総務省と会計検査院を中心とした全国的な動きです。
 基本的な眼目としては「複式簿記による企業会計を地方自治体に導入することによって、自治体に「説明責任」を含めた企業経営的な運営管理を取り入れる」ということかと思います。

 当面の焦点は、これまでの自治体会計では固定資産の減価償却をおこなわないことを単式大福帳簿記によるおくれた非常識であると非難して、固定資産の管理の為の「固定資産台帳」を整備させるという動きになっています。

 これは、現在その全容がわからない各自治体の資産を全国的に一括管理できるようにして、資産の効率化と整理をすすめる、つまり、自治体資産の民間資本(外資を含む)への売却を促進しようという上からの動きであると睨みます。これが例のTPPに対応するものであろうと見るのは飛躍ではないように思います。いかがでしょうか。

 さて、西郷国民議会論と横浜開港/生糸輸出からは離れてしまいましたことをお詫びします。
 非常に恣意的なピックアップですが、最初に掲げました「幕末」年表に先立つ時期は:

 安政4年(1857年)09月13日 松平忠固老中再任。
 安政5年(1858年)06月19日 日米修好通商条約締結。 
 安政5年(1858年)06月23日 松平忠固老中更迭、隠居、蟄居。
 安政6年(1859年)07月01日 横浜開港。
 安政6年(1859年)09月14日 松平忠固死去。
 安政6年(1859年)12月上旬迄 中居屋に営業停止命令。
 万延元年(1860年)03月    桜田門外の変、安藤信正公武合体を追求。
 万延元年(1860年)夏      中居屋上田藩の生糸取扱権喪失。
 文久2年(1862年)06月    長州が長井雅楽罷免、攘夷派公家三条実美と結ぶ。
 文久3年(1863年)10月13日 朝廷が公儀に横浜鎖港を命じる。
 文久3年(1863年)11月08日 公儀による生糸輸出制限の触書。
                   攘夷派の浪士による問屋商人脅迫。
 文久3年(1863年)12月19日 老中板倉勝静が貿易制限を神奈川奉行に具体的に指示。
 元治元年(1864年)10月05日 諸外国の強い要求により公儀が貿易制限中止を公布。
 慶応2年(1866年)07月    徳川家茂死去。

 となります。本ウェブログ記事 http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/f292bb0b43b1af4c453a1b83805d557a 「横浜開港と中居屋重兵衛と東宮遺跡と八ッ場ダム」2013年03月29日で関さんは次のように示唆されておられます:

 「中居屋は、安政6(1859)年11月に、幕府から営業停止命令を受け弾圧された。その前の同年9月に、日米修好通商条約締結にリーダーシップを発揮した老中かつ上田藩主の松平忠固が急死している。忠固の死には暗殺説もある。幕閣の有力者だった忠固の死と、その直後の中居屋弾圧は関係があるのかも知れない。日本の『国際貿易の父』といっても過言でない松平忠固と中居屋重兵衛であるが、二人とも相次いで失脚、そして不審死を迎えている。これらの真相は明らかにされねばならないと思う」

 ・・・と。

 ご教示いただいた西川武臣氏による資料と前掲論文を参照しながら思いますに:

仮説01 松平忠固は、国内で発達し成熟していた「市場経済」のダイナミズムを、開港貿易による国際的交流によってさらに発展させて、日本全体としての政治経済的な進化発展を促進するという考えを持った人々のなかでの公儀側の中核的指導者であった。それゆえに、ピグマリオン症候群に陥って自己の四囲を鏡でかこった「尊王攘夷」の親藩水戸派ならびに京都朝廷との根底的な対立を余儀なくされた。

仮説02 中居屋重兵衛は、ペリー来航直後から火薬の研究をしており、火薬製法の本を二冊刊行している。そのうちの一冊には、彼の出身地の領主であった旗本、榊原采女と西洋砲術の権威であった高島秋帆とが序文を寄せている。また中居屋重兵衛はオランダ語の教本の出版に対して、当時海防掛大目付、外国貿易取調掛大目付という公儀要職にあった旗本跡部甲斐守とともに援助をおこなっている。
 すなわち中居屋は当時の公儀中の開明層とのネットワークの中で、横浜開港直後に店を開いて国内の生糸産業の国際的展開をおこなっており、松平忠固の政策推進の中心的実行者であったと考えられる。

仮説03 中居屋は開港後の横浜で豪商三井と並ぶ存在であった。中居屋が1959年に営業停止を受ける1ヶ月前に三井横浜店の手代が手紙で中居屋に対する処分があろうことを述べている。松平忠固ー横浜中居屋という開明派ラインに対抗する線に、大名貸しを行っていた政商三井がいたと推定される。

仮説04 松平忠固の失脚と「死去」後、攘夷派の水戸と反徳川の薩摩(の浪士)による公儀大老襲撃殺害を曲がり角にして、公儀は主体的な軸を失い、何らの政策思想も政治理念も持たない朝廷の古代的権威に妥協して公武合体に向かう。それとともに、ピグマリオン朝廷に従って国内経済の国際的発展の抑圧に転じる。これは公儀内で発生した政治経済的反革命であると言える。

仮説05 長州において松平忠固と呼応する経済外交政策を提案していた長井雅楽が京都公家の謀略によって失脚し長州がその反徳川攘夷派の公家と結んだときに、政治的には「専制官僚制王政」、経済社会的には「西欧追従、国内破壊」という、上からの社会反革命の路線が露出した。
 これに対して、政治思想としての「国民議会論、公議政体論」と、下からの経済開放民主化運動すなわち一揆が対抗してゆくことになる。この文字どおり天命を革める革命的対抗路線を統一して指導する存在を欠くままに、徳川慶喜と長薩土佐を含めて、民衆を置き去りにしたところでの政治謀略とテロリズムと戦争という反革命的暴力に日本をゆだねてしまったことが歴史の不幸であり、それがそのまま現在に至っている。

 というところで息があがりました。これからの日本のために、松平忠固に関する上田資料がいつか(早く)めざめることを。
返信する
カンムリウミスズメ、神社、奇兵隊… (りくにす)
2014-12-02 08:17:24
薩長公英陰謀論者さま、レスありがとうございます。
勝海舟による龍馬暗殺説は、「謎じゃない」派みたいに「親しいのだから龍馬を人気のないところに呼び出すこともできるだろう。どうして逗留先に押しかけてあわただしく殺害しなくてはならないのだ」と突っ込む余地があります。国家による個人の暗殺があったか、という問いですが、確かに国家なら堂々と「御用だ」と
やれますものね。当時の京都でテロが頻発していたことも考慮しなくてはならないでしょうか。

さて、現在進行中と思われる「シナリオ」ですが、「リテラ」に由緒ある神社の土地に原発を建てる計画を進め、反対する宮司を無理やりやめさせたという記事が掲載されました。上関原発です。

【安倍内閣を牛耳る神社本庁の正体 第2弾】神社本庁が安倍の地元で鎮守の森を原発に売り飛ばし!反対する宮司を追放
http://lite-ra.com/2014/10/post-561.html

記事によると上関原発の用地の2割がその神社で、89年から炉心とタービン建屋を建てるために神社に土地の売却を求めて当時の宮司が拒否したそうです。ところが伝統を重んじるはずの山口県神社庁や神社本庁が売却を迫り秋祭りの妨害などをしたとか。反対運動は30年に及び、反対派の皆さんはカブトガニやカンムリウミスズメなど野生動物の保護を訴えています。「リテラ」には書かれていませんが、上関は周防大島とか田布施などと近く、多分奇兵隊と縁が深いと思われます。東京に出て行ってしまう人と地元に残る人では質が違うんでしょうか。やや脱線ですがお知らせしたかったのでお許しください。

上関原発は「シナリオ」のほんの一部であり、あちらさんは東ドイツとか北朝鮮のような軍事警察国家を作りたいらしい。「危険ドラッグ」の原料を郵便で送られると取り締まることができない、とニュースでしゃべっていましたが、それは海外から来るあらゆる封書を開封する、という意味でしょうか。
返信する
☆ りくにすさま、ありがとうございます。高名な田布施が瀬戸内側なのをはじめて知って驚きました。してそのあたりに原発を・・・こういうことを歯車にして総ロボット化へのシナリオがあると。 (薩長公営陰謀論者)
2014-12-03 15:33:42

りくにすさま:

 りくにすさま、そういえば「権力によるテロリズム」とは痴漢冤罪で逮捕して社会的に抹殺することでした。まだ電車がなかった頃ですから坂本龍馬は無惨に斬殺されたのでしょう。気の毒に。

 いずれにしてもそのくらいのことしかアタマにない人たちがこの美しい風光のくにを長く支配していることが、現実であること、信じられません。

 関西汽船の別府航路が夜行のフェリーになったのは、海岸線のあざやかな緑が高度成長以降すっかり失われて、瀬戸内海の風景が灰色になったためだと思っておりましたら、上関原発建設地の写真を見て、このような場所がのこっていたのだとほんとうに驚きました。

 田布施の奇妙に屈曲した因縁のありようとともに、林宮司さんのこのような最後の生き方があったことをおしえていただいたことに、取り急ぎお礼を申し上げようと思いまして m(_ _)m ・・・。

 しかし、瀬戸内のそのような場所にある「神域の森」に原子炉の炉心を置こうとは(≧∇≦)アタマがくらくらします。

 見ますと神社本庁とは、何と日本のシュタージを動かしていた旧内務省の一外局機関の生き残りなのだとか、さもありなんと思いますと同時に、神社本庁に連なる驚くべき人脈の人々を含めて、なぜ人間はそのように鬼夜叉になることができるのか。たかが?今のために、たかが?オカネのために、たかが?自分のために。かの高名なロスチャイルドしかりなのかと、このすべてに縁の薄い身には不思議な気がいたします。

 12434さまの「それが人間の本性」という卓見についてずっと、考えあぐねておりますが、ひょっとして「それを本性とさせる」ものがあるような・・・と、ありふれた解のまわりをぐるぐる回っています。
 社会的共通資本についての卑見を取り上げていただいて、いつもながら胸を突かれるコメントをいただいた関さんへのお礼とともに、この週末にはなんとか考えをまとめて書いてみようと思います。

 同時代に走るシナリオ・・・これについては、仮説を考えることとは非常に異なったことでしょうから(-_-;) まことに手と身にあまりますが、そのうちになんとか・・・りくにすさまと関さんからの弁証法的フォローをあてにしつつ、と思います 。どうかよろしくお願いいたします。
返信する
申しわけありません。上記⬆️投稿冒頭の論旨が混乱いたしております。お詫びします。 (薩長公英陰謀論者)
2014-12-03 20:12:46

 りくにすさま、すみません。坂本龍馬は、公儀としての勝海舟の手によるものではないのでは、と言いながら・・・能天気なことを。

 一度だけですが会食歓談をしたことがある方がそのような目に遭われて動揺狼狽したことを思い出して混乱いたしました。どうかあしからずご寛恕くださいますよう。
返信する
返信遅れてすいません ()
2014-12-06 17:31:17
薩長公英陰謀論者さま

 仕事で多忙だったためにブログを放置しておりました。返信がおくれてすいませんでした。
 年表の整理ありがとうございました。追って、新しい記事としてアップさせていただきます。
 赤松小三郎の暗殺の日付、慶応3年9月30日となっていますが、9月3日の誤りです。その部分を修正した上でアップしてよろしいでしょうか。
 つまり、薩土盟約解消後に小三郎を暗殺したのではなく、小三郎を暗殺した上で薩土盟約を解消したのです。この点は重要だと思います。

 西郷にとって、赤松小三郎の暗殺は、藩内の小三郎支持派(=薩土盟約推進派)を黙らせ、薩土盟約を解消するための準備だったのだと思います。「お前たちも逆らうとこうなるぞ!」と小三郎を支持する藩士たちを恫喝した上で、武力討幕路線で藩論を統一させたのではないかと考えています。
 
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関さん、ありがとうございます!間違えておいて言うのは気が引けますが「なるほど!」胸に落ち、胸を突かれました。薩摩藩内の上から下までを「倒幕」論で強引に、赤松小三郎を犠牲にして。 (薩長公英陰謀論者)
2014-12-06 18:20:35
関良基さま:

 関さん、毎日ほんとうにご苦労さまでございます。お忙しい中をまことにありがとうございます。

 旧暦による月日と西洋暦によるものを混同していたことを恥じてお詫びするとともに、ご注意をいただいたことに感謝を申し上げます。
 ご指摘いただいた正しい日付で見ますとじつにショッキングで、ドラマそのものですね(なんという!やはり・・・と)。

 関さんのおっしゃる通りだと思います。存在感がきわめて大きく、しかも同藩の者ではない赤松小三郎、まさに格好の標的であり、西郷を嫌っていたという藩主島津久光、それに小松帯刀という「赤松小三郎」ファンをトップに、藩内の赤松小三郎シンパ=国民議会派=平和的改革派に対する決定的な恫喝効果を赤松小三郎本人に対するテロリズムによってねらったというわけですね。小御所会議における王政復古クーデターの際の西郷の言葉にそのまま繋がるような・・・

 どうかよろしくお願いいたします。明治維新が血にまみれた反動的クーデターであったことが浮かび上がるように思えますと同時に、現在まさに目の前に見ているものが、やがて血まみれの死につながるような気がして、震えます。
返信する
とりあえず中居屋と忠固についての仮説を ()
2014-12-07 10:03:58
薩長公英陰謀論者さま

 薩土盟約については後回しにして、とりあえず中居屋と松平忠固に関する年表と仮説を先に記事としてアップさせていただきました。
返信する
12434さま、お名前をつい・・・失礼をいたしました。関さん、素晴らしい、とても楽しい記事をありがとうございます! (薩長公英陰謀論者)
2014-12-07 11:26:25

 12434さま、アタマがアナログで数字(それに計算に)強くはないことが露呈してしまいまして、申しわけありません。寝ぼけて書いたのか!とお怒りのことと察し恐懼いたしております。以降厳に気をつけます。

 関さん、最新のとてもたのしい記事をありがとうございました。NHKの番組にまっとうな影響をあたえることができるとは、それはすごいことです。関さんならではと驚いています。緻密な注意力とともに。

 金銭出納簿から、それが複式簿記であるかどうかを含めて、帳簿システム・会計、経営システムを見抜くことができるかもしれません。
 おそらく中居屋の帳簿システムをつくったであろう共同設立者の重右衛門さん(松田玄仲)という方が医者であったということから、数字と計算体系に強い人物であったのではないかと、そこからいろいろと想像が湧きます。

 ここから横浜や上田のみならず当時の全般的な経営と会計の姿、つまり経済社会の実相があらわれてゆく可能性が、と期待してしまいますが、たんさいぼう影の会長さまがおっしゃっていたように、専門研究者の手がどうしても必要ですね。田中孝治先生を含めて何とか・・・

 大急ぎでお詫びとお礼を申し上げようと思いましてあわてまして取り急ぎ。関さま、ご多用とお疲れのところ、どうかご無理なさいませんように。
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