代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

新古典派経済学とピグマリオン症

2006年12月03日 | 新古典派経済学批判
 前回の記事で、理論と現実を混同する人を「ピグマリオン症」と呼ぶと書きましたが、それについて補足説明します。前の記事でも紹介したIMFの職員たちが典型的な事例なのですが、新古典派経済学を「学んだ人(=洗脳された人)」に、この症状にかかった人が多いのです。

 「ピグマリオン症」とは私が大学の教養課程のときに読んだ物理学者のJ・L・シンジの『相対性理論の考え方』(講談社ブルーバックス)という本に書いてあった概念です。ギリシア神話には、ピグマリオンが造った象の彫刻があまりにも精巧に出来ていたために、本当に生命を持つようになったというエピソードがあります。シンジは、この話しにちなんで、「現実を説明するモデルでしかないものを、現実に存在する実態であるかのように錯覚してしまう人」をピグマリオン症と呼んでいました。
 ニュートン力学にしても相対性理論にしても物理学にはいろいろなモデルがありますが、全て現実に接近するために考案されたモデル世界です。それらのモデルは現実を近似します。しかし、現実そのものではありません。ある前提条件の下で、きわめて適合性の高いモデルと判断されますが、その適合範囲には限界があります。実験結果とズレてきたら、「ここから先はこのモデルでは説明できない」と判断されるわけです。
 しかしモデル世界を信仰してしまうと、しばし「そのモデルは現実そのものであると」勘違いしてしまう研究者も出てきます。新古典派経済学を勉強した人々に、この症状に感染した人が多いのです。IMFの職員が典型的なそれなのです。

 ニュートンの力学は非常に美しい数学的体系を築きました。それはある範囲で非常に現実をよく近似的に説明します。しかし、所詮はモデルであって現実ではない。物質の質量がプランク定数に近づいていけばニュートン力学は成立しません。物体の速度が光速に近づいてもニュートン力学は成立しません。前者は量子力学の扱う領域ですし、後者は相対性理論の説明領域になります。
 他にもニュートン力学は非可逆性を伴う熱力学的現象を説明できませんし、電磁気的現象を説明できません。あらゆる物理モデルは、さまざまな前提条件の制約の中で、近似的に正しいと言えるに過ぎないのです。

 例えば、ニュートンの扱った力学現象と電気や磁気に関する現象は、統一的な理論で説明することは不可能でした。しかしニュートン流の方法論が全てにおいて適用可能だと考えるニュートン主義者たち(たとえばアンペールとかガウスとかキルヒホフとか)は、「電荷を粒子として、力は遠隔に作用する」というニュートン流の仮定を全面に出して、電磁気現象を説明しようとしました。しかし結局は破綻したのです。アンペールらは、世界の全ての現象はニュートン力学で解釈可能だとする「ピグマリオン症」に陥っていたといえるでしょう。理論の適用限界を知ることなく、ニュートンの理論を信仰しすぎたのです。

 結局、ニュートン流の「力の遠隔作用理論」を破棄し、「場の変化が近接的に作用する」という新しい理論で電磁気現象を説明したのが、学校教育をろくに受けていない独学の大実験物理学者であるマイケル・ファラデーでした。ファラデーは、数学教育も十分に受けていないことが幸いしたのか、ニュートン力学のような既存学のドグマに縛られていませんでした。あくまで実験結果に基づいて、自由な想像の翼も広げながら、電磁気現象を説明する新しい「場の理論」を構築できたのです。

 ファラデーの理論を数学化するためには、「ベクトル解析」という新しい数学を作る必要がありました。ニュートンが、力学を構築するために、微積分学という新しい数学を作る必要があったのと同様です。

 ファラデーの「場」の理論を数学化したのが、ジェームス・クラーク・マクスウェルです。マクスウェルの4方程式と言われる4つの公理によって、電磁気現象は説明されます。4つの方程式は以下のようになります。

 ∇・E=4πσ
 ∇・B=0
 ∂E/∂t=c∇×B-4πJ
 ∂B/∂t=-c∇×E
 (BとEはそれぞれ磁場と電場のベクトル)
 
 そして何故この公理が成り立つのかは証明することはできません。これらの式はあくまで証明することはできないが、「実験的にそうだからそうとしか言えない」というものです。
 たとえば二番目の式(∇・B=0、磁場のダイバージェンスはゼロ)は何やら難しそうに見えるかも知れませんが、何のことはない、磁場は磁石のN極から出てS極に戻るという、小学生でも知っている事実を数学的に表記しただけのものです。
 
 ここで、例えばもしモノポール(磁極単極子)が存在すれば、この式は書き換わります。モノポールがあれば、二番目の式は、∇・B=constant と書き換わり、マクスウェルの4公理系とは違った電磁気現象が観察されるはずなのです。

 広い宇宙にはモノポールがある可能性はあるのですが、しかしモノポールは現在に至るまで発見されておらず、従ってマクスウェルの4方程式を書き換える必要性は発生していません。もし将来においてモノポールが発見されれば、∇・B=0 は崩れ、4方程式は書き換わります。「マクスウェルの4方程式は、人類の今までの知識の範囲で成立していた暫定的な真理にすぎなかった」ということになるのです。

 しかし、物理学の場合、必ず実験結果に基づいて公理が設定されますから、実験に反する事実を公理系に導入して、そこから定理を導き出してそれを「真理だ」と主張するような暴挙は許されておりません。あくまでも実験が全てで、実験的事実に基づかない公理に基づいて理論体系を組み立てるといった数学的なお遊びは許されていないのです。

 この暴挙を平気で行っている学問分野が新古典派経済学です。ですから、自然科学を学んだ人間は、科学を冒涜しているとしか言いようがない新古典派経済学という学問分野を決して許してはならない、彼らと対決せねばならないと私は思うのです。

 新古典派経済学は、「消費者は限界代替率と価格の比が等しくなるように商品を需要し、生産者は限界収入と限界費用が等しくなるように商品を供給する」とします。私は誓って言いますが、この地球上に、そのような事を行っている消費者も企業も存在しません。実験的事実に基づかない公理系を捏造して、理論体系を構築するの新古典派経済学者は、科学を根本的に冒涜しているのです。

 新古典派は限界費用は逓増すると主張しますが、ほとんど全ての近代産業において、限界費用は逓増せず、逓減します。空想上の費用曲線の仮定の下に「証明」された諸命題など、地球上には存在しないのですから、科学的な意味はないのです。
  
 実験結果に基づかない意味のない理論(=妄想)を真理だと誤解し、その理論に基づいて世界を変えようとしたのがIMFでありWTOなのです。その帰結は、世界を均衡からは遠く離れた地獄へと突き落とすだけなのです。私が、彼らを「典型的なピグマリオン症」と考える所以です。

 NGOなどのあいだでは、IMFはロシアであのような恐ろしいことが起こるのを承知の上でロシア人をだました、つまり陰謀を働いたのではないかと考える人が多いようです。それに対し、スーザン・ジョージは「いや違う。彼らは本気でそれを信じているのだ」と主張していました。私も、スーザン・ジョージの言うとおりだと思います。彼らは、本気でそれを信じて、それで良くなると考えて、あのような愚行を行ったのです。理論を現実と混同した狂信的なピグマリオン症患者が如何に社会的に有害かを物語っているといえるでしょう。
 

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ルーカス批判について。 (Kay)
2006-12-06 04:23:07
関さま、私が日ごろ漠然と思っていたことを文章にしていただいて、ありがとうございます。私は、新古典派の依りどころである「ルーカス批判」が、どうしてこれほど影響力を持ったのか不思議に思っております。

「ある政策を進めた結果を予想する際に、過去のaggregatedな(マクロな)データから得られた経験式を用いるのはナイーヴである。我々は、ミクロ的な裏づけを持ったモデルを使わなければならない」という彼の考えを読んで思い出すのは、大学で教わった建築の教授の言葉でした。先生はコンクリート構造物がご専門で、若いころ有限要素法を使った構造解析を試したものの、結局諦められたそうです。「あるビルが地震で倒壊するかどうか、有限要素法で予測すると絶対にはずすよ」と先生は断言されました。

有限要素法は構造物に応力を与えた場合どのような挙動をするか、計算機でシミュレーションする方法で、物体を沢山の要素に分解してモデルを構築します。やりようによっては、「ミクロ的な裏づけを持ったモデル」も作れるでしょうが、それが実験で得られたミクロ的な裏づけのない経験式に比べて、良い結果を出すかどうかは大変疑わしいものです。鉄だけでできた構造物(自動車や鉄道車両など)でしたら、いい線行くかもしれませんが、鉄筋コンクリートは複雑過ぎるのです。増して、人間の経済活動は更に複雑ではないかと私は考えます。

ラフな経験式に依らない構造解析法を研究するのは学問的に意義があろうとは思いますが、実際にビルを設計する場合には経験式が優先されるべきであります。という訳で、「ルーカス批判」については、現場から乖離した危うい考えだなあという感想を持ちました。
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Kayさま ()
2006-12-06 10:59:30
 コメントありがとうございました。全く同感です。経済学者は得てして、実験・実証を軽くみてしまいます。
 これが科学的態度からは最もかけ離れている態度なのだと、理科系の人間が彼らに分からせねばならない、でなければ彼らの暴走を止めることはできないと思います。
 
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