代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

明治維新とは何か ―赤松小三郎と松平伊賀守忠固の早世を惜しんで(コメントの再掲)

2014年11月03日 | 歴史
 薩長公英陰謀論者さんから「明治維新とは何だったのか」という問題意識の長大な論文が投稿されてまいりました。記事は、たんさいぼう影の会長さんへの私信の形式をとっていますが、多くの方々に読んでいただきたい内容ですので、新しい記事として再掲させていただきます。以下、水色字が薩長公英さんの文章で、白字は私のコメントです。

当ブログのコメント欄投稿より引用
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/dc79258fffc940d937834114e0c550a2

***********以下引用開始******************

「同時代的問題意識 ー絶望?あるいは戦争ではない希望ー による明治維新論のための仮説。赤松小三郎と松平伊賀守忠固の早世を心から惜しむ」(その1) (薩長公英陰謀論者)2014-10-26 00:05:18

たんさいぼう影の会長様:

 たんさいぼう影の会長様、この6月の赤松小三郎記事への御コメントにおいてまことに温かいご示唆をいただきましてありがとうございました。あわてふためきまして勝手なことをひとり合点で約しまして既に5ヶ月、拙速と言いわけができる時期ではなくなりました。いまだ煮詰めるに至っていないこと、関良基先生の本ウェブログとご著書からさまざまに学び考えるべきことがあまりに大きく、小さな容量のアタマでは収拾がつかなくなったためとご寛恕ください。

 目の前の事態を見ますと気ばかり急きまして、いささか長文になりますが「明治維新はいま振り返ると何か」という小作業仮説を報告します。これに先だって幾度かお邪魔したコメント欄にて既にこころみました骨子のままで同工異曲にすらなっていないことをお詫びします。
 
 いざ書いてみますといささか拍子抜けしましたこの作業仮説の一部に、ご関心をいささかなりと喚起するようなものがありましたらまことにうれしく思います。

 たんさいぼう影の会長様の温かいご示唆に心から感謝しつつ、もし何かヒントになるようなことが含まれておりましたら呵責なく換骨奪胎いただいて、ご知見に何らかのかたちで生かしていただくことがもしできれば望外の幸いでございます。

    ☆☆☆

 この作業仮説を以下につぎの構成にて報告します。

 ・ 歴史家、三谷博氏による<明治維新の謎解き>について考える。
 ・ 想定した作業仮説による三谷氏とは異なる謎解き。
 ・ 作業仮説想定のもとになった資料のポイント。
 ・ 維新後150年に近づく現在への暗澹たる絶望感と、松平伊賀守忠固と赤松小三郎が年月を越えてあたえる未来への希望について。

    ☆☆☆

 近世・近代史を専門とされる三谷博氏は著書『明治維新を考える』(有志舎、2006年)の序章「明治維新の謎 ー 社会的激変の普遍的理解を求めて」において三つの謎かけと謎解きを提示されています。本書は2012年に岩波現代文庫(G274)となりましたが、その「あとがき」で氏は「改訂版を作るため読み返してみると、維新に関しては、その後、大して考えが変わっていないことが分かった」と顧みておられます。

 この間に三谷氏の関心は「日本史」の枠組みから脱して東アジア史と比較史、政治モデル構成に移っていたとのことで、そのような視野・観点から振り返って見てなお、氏の「明治維新 三つの謎」を核とする維新観は威力のあるものと再認識されたということであろうと思います。

 三谷氏の謎かけには「明治維新は大きな変革となったにかかわらず犠牲者が非常に少数であった」という「平和革命の謎」というべき提起が基底にあります。明治維新はきわめて小さな犠牲によって、五箇条のご誓文の第一『 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ』という文言が象徴するように、明治維新は幕末の最重要の政治課題であった「公議政体」を実現し身分制社会を「天皇以外万人平等な」社会に変革した世界史で稀な革命であるという認識が三谷氏の明治維新観の核であるわけです。

 氏は、「明治維新が生み出した大日本帝国が近隣諸国を侵略し米英と戦って敗北した」という結果をもって明治維新の進歩性・革命性を否定することを排し、現在の「資本増殖の自己運動を止められない、保守化し進歩観を見失った世界」を平和裏に変革するために、明治維新の経験を生かすべきである、というお考えでおられます。

 同時代的問題意識にしっかりとサオをさして歴史を考えるという氏の姿勢に心から共感し、専門的歴史家としてのそのような氏のあり方に敬意を表します。その上で、不遜な蟷螂の斧に終わることを承知で、あえて三谷氏の「維新の謎と謎解き」のトリックをほどき、三谷氏の維新観に「代替案」を提出することをこころみます。
 
 <第一の謎>は「なぜ武士が武士を廃したのかという謎」、支配階級が自己の支配的地位・社会的特権をみずから解消するというありえない事態が生じたという謎です。

 三谷氏の謎解きは、武士たちが「外様大大名の国政関与の要求 → 王政復古の着想 → 中央集権化のための藩権力削減構想 → 王政復古の実現のための倒幕(本書で幕府を徳川公儀と呼ばれる三谷氏は倒幕ではなく内戦の勝利と言っておられます)」と、目の前の課題を次々に追いかけてきて最後に王の親政による中央集権支配を確立した途端、地方分権体制と一体の封建武士階級の解体を一瞬にして導いた、ということです。
 長薩(長州・薩摩)藩士を中心に武士の多くが廃藩・家禄廃止を想像さえしないまま改革のために夢中で走りに走り、維新による近代的中央集権国家を実現し、その結果として武士自体の廃止に追い込まれたというわけです。

 じつはしかし、三谷氏が言われているように「維新の改革者たち」が武士を廃したのであり、それを「武士が武士を廃した」という司馬遼太郎と軌を一にした言い方にすることによって、第一の「謎かけ」になっていると思います。

 三谷氏の謎かけの出発点である明治維新の性格づけ、すなわち「被支配階級が支配階級を打倒するという『階級革命モデル』が当てはまらない」という事実が示すものは何なのか、「維新の改革者たち」がいったい何ものであったのか、それが重要な問題ではないかと考えて、作業仮説の想定をしました。

 <第二の謎>は「原因のない結果の謎」というべきもので「当初は内外にだれも体制の根本的変革の必要に迫られた者はいなかったのに、なぜ巨大な変革が起きたのか」という謎です。

 三谷氏の謎解きは;戦国大名間の相互作用が生んだ上位権力のもとで形成された秩序が200年以上の平和を経るなかで、様々な方向へのズレを内包するようになった。そこに世界レヴェルでの環境変化に直面して生まれた水戸の尊攘論に典型的な秩序破壊的な思考とともに、ペリー来航までの鎖国政策の強化という徳川公儀の硬直化した外交政策が体制破壊的な影響をもたらした。そこで人びとの秩序観が一気に流動化し思考と行動の自由が解放されたことが、偶然を含む複雑系的発展として明治維新を導いた、ということです。

 三谷氏がいまだ発展途上と言われる複雑系の革命現象への適用とにはとうてい視力が及びませんが、三谷氏を含む現在の日本史専門家の明治維新観が既に「自覚的勢力による反動的封建権力の打倒による近代的独立国家の樹立」という、政治的プロパガンダとしての明治官製「長州史観」からすでに遠くはなれていることが示されていると思います。

 「原因と結果というフォーマットで要素と関係を単純化して特定しようとする」非・複雑系思考から自由になることができないまま、明治維新の「隠された原因と目的」、「それらがなぜ隠されたのか」が鍵になるであろうと想定して作業仮説を考えました。 

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たんさいぼう影の会長様への報告。「同時代的問題意識 ー絶望?あるいは戦争ではない希望ー による明治維新論のための仮説。赤松小三郎と松平伊賀守忠固の早世を心から惜しむ」(その2) (薩長公英陰謀論者)2014-10-26 00:10:10

<第三の謎>は、神武創業の始めに還って大改革をおこなうと宣言した王政「復古」によって西洋モデルの「開化」が強行されたこと。「復古」を文字どおりに受け取った人びとが無視され弾圧された、という謎です。

 三谷氏は根本的な改革を復古の名で呼ぶことが江戸時代に複数例あったこと、フランス革命において人びとが古代ローマ人にみずからを擬したことを挙げて復古が改革の意でありうることを示し;さらに神武創業という中味は空っぽのモデルを掲げることによって、手を縛られない改革の自由度を確保したとされます。

 三谷氏の謎解きは、井上勲氏による明治維新論『王政復古』(中公新書、1991年)の結語にある指摘と軌を一にしています。
 井上氏曰く「神武創業にもとづいて天皇統治をのぞく他の一切を否定すれば、その後に来るものは、規範の喪失に所由する無秩序である。武力倒幕派は、そうした無秩序を望んでいた。神武創業より以降、それこそ二千五、六百年の歴史が生みつづけた制度・組織・慣行の集積を否定し去って、新たな創業をはかることができるからである」と。

 歴史を越えて神話時代に復古するということは、明治維新が内在的・内発的な発展によるものではない外的な力によるものであることを示唆していると思います。

 社会総体のリストラ(「構造改革」)というのはこの20年余り身の回りで眼前にしてきたことですが、明治維新と共通するように思われるのは、「否応なく外からやって来るものに対応・適応・追従するために根本を改革しなければならない」という論法で、改革の必要性・必然性が「言説化」されることです。

 司馬遼太郎が『この国のかたち 一 1986~1987』(文春文庫、1993年)の「2 朱子学の作用」の冒頭(同書;p31~p32)で「・・・明治維新なのだが、革命思想としては貧弱というほかない。スローガンは、尊皇攘夷でしかないのである。・・・人類のすべてに通ずる理想のようなものはない。また人間の課題もほとんど含まれていないのである。・・・『異民族をうちはらえ。王を重んじよ』などとは、まことに若衆組が棒を握って勇んでいるようで、威勢はいいが、近代という豊穣なものを興すテーゼにはならない。このことについては、大正末年から敗戦までの間に ” 近代 ” そのものが痩せおとろえてしまったことと思いあわせればいい」と言い切っていることに、この「王政復古」の含意の空疎さは期せずして符合しています。

 「改革の当事者」たちの自己合理化と納得のための符牒であったことはともかく、また人類普遍の理想、ヒューマンな意識ということはさておき、なぜ明治維新には民衆の心に訴える民への思いがなかったのか、それが必要ではなかったのか、ということは謎かけにすらならないのでしょうか。
 
 以上の「三つの謎」に前述の「犠牲者はなぜ少なかったのか?」と、容易に思いつく「攘夷はどこへいった?」という問いを加えて、維新五つの「謎」自体が、三谷氏の謎解きとは異なる作業仮説を導くように思います。以下のように:

   ☆☆☆

作業仮説01 「幕末」までに国内で進行していた市場経済の拡大進化が、全面「開国」による東アジア・米欧の各国とのさまざまな分野でのへだてない交流によって「政治経済の内発的な改革」を生み出すことを防ぐための「予防的反革命」が明治維新であった。

 自由の平等な享受をめざす民主主義革命を胚胎しかねない、政治経済の全国的な内発的変化に相反する利害を持っていたのは:

(1)殖産興業の成功によって大企業化し、英国勢力と緊密に結びつくことによって軍事をはじめとしてぬきんでた技術革新・経営革新を果たし、これを背景に日本列島全体を制覇しようとしていた反徳川の外様大々藩、長州藩と薩摩藩。

(2)反徳川で尊皇攘夷に一体感を持つ革新派公家。

(3)王政復古であった名誉革命を政治思想の源泉とし、日本列島の市場開放とそこでの独占的地位の確保をねらう英国勢力。

(4)政商として「幕末」までに特権的地位を形成していた大商人・大地主。それに連なる中小富裕層。

(5)王政主義・大国思想・少数エリート主義・優越主義に凝り固まった水戸系の精神主義者たち。

 これらの勢力が「倒幕維新」という反革命、今どきで言う<カラー革命>を遂行したのではないか、ということが明治維新第一の作業仮説です。明治維新を現代の「カラー革命」に擬するのはつい最近見た以下のような叙述によるものです:

http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-1a8f.html

<マスコミに載らない海外記事> 2014年10月22日から一部以下に引用します:

 ・・・尊皇攘夷を主張する若い下っぱがいきなり海外留学し、方向転換し、国家首脳になるというのは都合が良すぎる。薩摩・長州のテロリスト・ファシスト連中による権力簒奪クーデター。背後には、ウクライナ・クーデター同様、宗主国が控えていた。宗主国に都合の良い国に日本を作り替え、侵略戦争をさせられ、その結末が今の日本だと思うと、カラー革命で始まった結果が完全属国化を招いて終わり、話がうまくつながるように思えてくる。


作業仮説02 「幕末」に集中発生した百姓一揆は、全国的市場経済の確立、政治経済の民主主義的自由化を求める、農工商民の政治的デモンストレーションであり、下からの自生的ナショナリズム運動・平等要求運動として上掲の特権層の心底をおびやかした。

 頻発する百姓一揆が江戸公儀の寛容な対一揆政策と相俟って民衆を広く巻き込む高度に自覚的な全国的政治的運動に進化発展することを防ぐために、特権的勢力の一環をなす各地の富裕層は、大政奉還と王政復古クーデターの間のクリティカルな時期に「ええじゃないか」という大衆的熱狂を発生させ、お札とともに餅や銭をまき酒食を盛大に振る舞って民衆のエネルギーを無目的なお祭り騒ぎに転化して空費させた。

 王政復古後には、下からの政治経済要求運動は「新政反対一揆」となって燃え上がったが「幕末」の一揆と打って変わって完膚なきまで徹底的に武力弾圧され、歴史認識から抹消された。


**********引用終************************


 三谷博氏の著作、私は『大人のための近現代史 19世紀編』(東京大学出版会、2009年)しか読んだことがなかったのですが、非常にスケールの大きい東アジア史に感銘を受けた覚えがあります。

 作業仮説01について。江戸末期から内発的に自生しつつあった、日本型の民主主義への発展径路が、明治維新によって強引に捻じ曲げられてしまったと私も思います。
 日本は古来から象徴天皇制であり、それが正しい姿でした。実際、天皇を主権者にしようとした天智天皇も後醍醐天皇も国を危うくしています。
 天皇を主権者とする、水戸国学の誤った歴史認識を敷衍させることによって、天皇の名の下の官僚独裁権力が生み出されてしまいました。「彼ら」は、「主権者」であるはずの孝明天皇が、「彼ら」の意図に反して王政復古に反対すれば、暗殺して取り除くことも辞さなかった。結局のところ彼らは、天皇など自らの独裁を正当化するための道具としか考えていなかった。安倍政権もそうでしょう。

 今上天皇は、日本は古来より象徴天皇制だとおっしゃり、天皇を「元首」と規定する自民党改憲案に反対しておられます。「彼ら」の思想が、いかに危険か、そして天皇制そのものも危うくするものであるということを、よく認識しておられるからだと拝察します。

 作業仮説02に関しては、いちど幕末から明治初期の百姓一揆のスローガンや政治的主張を系統的に調べなければと思っております。ちなみに、赤松小三郎のお膝元の上田藩で明治2年に発生した全藩一揆は、経済的要求のみならず、体制変革の政治的スローガンを含むものでした。


**********引用開始**************************

たんさいぼう影の会長様への報告。「同時代的問題意識 ー絶望?あるいは戦争ではない希望ー による明治維新論のための仮説。赤松小三郎と松平伊賀守忠固の早世を心から惜しむ」(その3) (薩長公英陰謀論者)2014-10-26 00:16:34

作業仮説03 「幕末」の公議政体思想は、当時に誰も反対することができない普遍的な進歩性を示した共和政体思想であり、必然的な時代の流れであると認識されていた。この思潮は赤松小三郎によって普通選挙代議制による民主的議会政治構想に進化し、彼が軍事学を講じた薩摩藩に伝えられた。その影響力の大きさは、薩土盟約成立の時点で西郷隆盛が英国外交官のアーネスト・サトウに対して国民議会の設立について熱弁を振るいサトウを困惑させたほどであった。藩家老、小松帯刀までが、反徳川「倒幕」派から公議政体派に転じた。

 上記の「ええじゃないか」謀略は、公議政体思想=民主議会政治思想が市場の自由と平等な参加を求めて百姓一揆に立ち上った民衆に浸透する前に全国的に徹底しておこなわれ、民衆運動のエネルギーを分散消滅させた。並行して、公議政体構想の流れは「諸侯会議」政体の形成に吸収され、そこにおける徳川慶喜の地位問題に矮小化された。

 長薩「倒幕派」によって慶喜の排除が行われると同時に諸侯会議が消滅して公議政体自体が雲散霧消した。しかし公議政体思想の権威は依然としてきわめて大きく、「倒幕派」はこれを五箇条のご誓文第一のスローガンとして掲げざるを得なかった。が、五箇条のご誓文に吸収されることによって天皇発(長薩発)のものに仮装されて「幕末」までの思想的系譜は抹殺された。もっとも進んだ民主政体構想と大きな影響力を持っていた赤松小三郎は王政復古の半年足らず前に薩摩「倒幕派」=専制政治派によって暗殺され、その存在自体がぬぐい去られた。

 作業仮説04 「長薩」は、西南諸藩に共通する東アジア・東南アジアとの地理的・経済的一体感にもとづいた覇権衝動を持っており、国民国家から独立した経済単位である現代の「グローバル企業」に比すべき存在として企業体的発展を追求した。

 英国勢力が株主であった長州株式会社と薩摩株式会社が、「株式未上場」の地方企業である諸藩をM&Aし、その親会社であった徳川公儀の権威を江戸城とともに乗っ取ったということになると思われます。

 対中国戦争によってアジアにおける覇権を確立した英国勢力との密接な関係=被指導従属関係を背景にして日本における覇権の確立をはかった長薩は、明治維新の軍事的政治的主役となります。長薩による「日本征服」に、謀略に長けた反徳川公家層と政商であった特権商人が合流して、維新という名の<反共和主義の反革命>と、西欧文明の外からの持ち込みによって文化的伝統を全面的に断ち切る社会的リストラを遂行したわけです。

 維新後その覇権衝動はアジアに向けられることとなり、英国の代理戦争であった日露戦争を経て、やがて大陸において英国の利権と、その後継国である米国と軍事的に衝突することになります。

 作業仮説05 江戸公儀は、老中譜代大名、松平伊賀守忠固の主導による外交戦略のもとに、アジアにおける英国の覇権と英国勢力に対する長薩の呼応を敏感に察知意識して、まず、英国と戦って独立した新興国である米国と経済政治同盟を結ぶことによって、また名誉革命を政治思想の源泉とする英国とは異質のフランスとの提携によって、英国勢力を牽制する外交戦略を取った。

 ペリー提督の米国議会報告を見ると、江戸公儀は準備をしてペリーを待ちかまえていたことがあきらかであり、来航後の公儀側、日本側の対応からして「はじめてみる黒船蒸気艦におどかされ腰を抜かして不平等条約を結ばされた」というのは明治期にねつ造された虚偽によるプロパガンダである。

 なお、江戸公儀はペリーの艦隊主力大型艦が、露出した大きな外輪をねらわれると致命的であるという交戦上の弱点を持ち、左右の外輪の波浪による空転と燃料効率の極度の悪さから外洋では帆走に頼らざるを得ない、対メキシコ戦争使い回しで船体が大きいだけの、時代おくれの外輪船であること、また米国海軍はアジアに補給拠点を持たず継戦能力がないことを見抜いていたと思われる。

 しかし、その後に起こった米国の内戦(南北戦争)とフランスのプロシアとの対立を利して、英国は長薩を指嗾して日本列島を英国に従属する統一市場とすることに成功し、アジアでの地位を確立した。江戸公儀を大きく弱体化し諸藩と民衆を厭戦に追い込んだ「幕長戦争」は英国の武器による長州の代理戦争であると考えることができる。
 なお、米国の内戦と普仏の対立・戦争に英国のグローバル戦略が働いていたと推定するのは、当時の覇権国英国を現在の米国に比定することによって可能である。

 作業仮説06 徳川慶喜は、尊皇攘夷の本家、親藩水戸がはじめて出した、名に「家」のつかない将軍で、従来の中小譜代大名の合議制による「幕閣」政治を後景に退け、将軍個人が前面に出た決断と政治行動を行った点で異彩を放っている。
 慶喜をめぐる将軍後継問題が江戸公儀内部を相次ぐ分裂抗争に導き、そのあおりで前述の松平伊賀守忠固を含む有為な指導者が中央を追われている。また、慶喜の思考と行動には納得がゆかない点が多く、水戸藩士が「幕末」に演じた役割をあわせ考えると、慶喜がトロイの木馬であったと考えることができる。

作業仮説07 明治維新は、政治的に「反革命」であったと同時に、思想・文化・技術・風俗において、歴史的な蓄積と伝統を否定破壊し、強引に西欧のものに置き換える「文化反革命」であった。これによって、世界における日本の文化的先進性が一気に失われ、西欧模倣追従の「後進国」に転落した。

 この間に伊万里焼の包装紙となって欧州に流出した江戸期の浮世絵がその独自の美的原理によって、ヨーロッパの古典派美術を打破して大きな潮流となった印象派絵画をはじめとする現代美術の先駆けの誕生に大きな役割を果たしたことは深刻な皮肉である。

 しかし、文化的伝統は民間に脈々と流れ続け、文学と美術・工芸における生きた源泉となった。戦後において、乏しい知的資源にかかわらず世界的な創意開発能力が発揮されたことは、民間に受け継がれていた文化的・美的・工芸的伝統によるものであると思われる。

 現代の中国と韓国が、外資と外国技術の導入席捲によって(本来伝統的な文化に棹さすものであると思われる)独創的な開発が生まれてこないという深刻な問題に直面して悩んでいることと対照的である。とは言え、グローバル化に席巻された現在の日本はむしろこの点で言わば「中国化している」という懸念があるように思われる。
  


************引用終****************

 作業仮説03は、今後、歴史学的な検討が求められる課題だと思います。小松帯刀が公議政体論に変わったのは、はたして赤松小三郎の思想的影響によるものであったのか否か・・・・・・。たしかなことは分かりませんが、興味深い仮説と思います。


 作業仮説04および05

 松平忠固は、英国こそ日本にとって最大の脅威と考えており、それゆえ相対的に害悪の少ない米国と緊密な関係を結ぼうとしていました。忠固の老中時代の日記や上田藩の日記を歴史学者が史料として活用しようとしておらず、埋もれてしまっているので、この辺の事実が検証されていません。忠固はフランスと接近しようと考えていたという事実はないと思いますが、検証しないとにわかには分かりません。
 イギリスが日本を従属させるために長薩を利用しようとしていたという事実・・・・。歴史学者でない私にはコメントは難しいです。パークスは下関戦争の段階では本気で長州を潰そうと考えていただろうと思います。しかし、江戸公儀よりも長薩の方が知識・見識・行政能力が低いため、相対的に英国を利する政権になるだろうと考え、途中から長薩支援に方針を変えたのかも知れませんね。
 

 作業仮説06 これも私などではにわかにコメントできない深淵な仮説です。

 作業仮説07 明治維新は、文化反革命。全く同意です。廃仏毀釈でどれだけ多くの国宝が失われたか。神社合祀の名の下に、国家神道を強制し、日本の神道を多神教から一神教的に不寛容なものへと強引に捻じ曲げ、日本各地の神社と、それに付属する鎮守の森を消滅させました。その悪行の数々は、許すことはできない犯罪だと思います。 


*********引用開始**************

たんさいぼう影の会長様への報告。「同時代的問題意識 ー絶望?あるいは戦争ではない希望ー による明治維新論のための仮説。赤松小三郎と松平伊賀守忠固の早世を心から惜しむ」(その4) (薩長公英陰謀論者)2014-10-26 00:22:43

    ☆☆☆

三谷博氏の第一の謎「武士の自己解体」について:
 武士(大名と家臣)による「領域支配」(国土分割支配)を終わらせたのは、日本を統一的な市場に変革しようとする側、英国と英国勢力に結集した長薩「倒幕派・反公儀政体派」及び公家ならびに特権商人・地主富裕層であって、武士一般ではありませんでした。また武士の解体にかかわらず、特権的武士層(大名)は華族富裕層に横滑りしました。したがって「武士が武士を廃した」という「謎」自体が錯覚であり、司馬遼太郎によるデマゴーグであると思いますし、王政復古維新によって「身分制を廃した平等な社会」がもたらされたというのは、いささか強引に「戯画化」しすぎではないかと思えます。

 第二の謎「決定的な原因のない大きな変革」について:
 作業仮説01から、反革命には反対する以外に掲げるべき大義がないということで、これは謎ではなくなります。作業仮説04と05にあるように、明治維新はアジアと世界における覇権国英国のグローバル戦略としての「市場化」の一環であったということで、原因が明らかになります。

 第三の謎「復古なのに開化」について:
 復古によって公議政体(共和政体)による社会発展という道を断ち切り、開化によってこれを専制王政による上からの強引な社会丸ごと欧米化(英国化=英国市場化)に置き換えたわけです。これによる世相風俗の極端な変貌は日本の社会的風格、日本人の精神性の劣化に決定的な作用を及ぼしました。敗戦後の世の中の激変、また1990年代以降現在まで継続する米国による日本のリストラ(「構造改革」)のありようから推定することができます。

 第四の謎「犠牲者の少なさ」について:
 これは、明治維新は支配層内のクーデターであったことによるものですし、王政復古維新後の新政反対一揆や西南戦争に至る一連の武士反乱で大量の犠牲者が出たことを視野からはずすわけにはいかないと思います。ひょっとして、戦死者230万人のうち何と病死者(餓死者)が6割近かったといわれる先の戦争の犠牲者に無差別爆撃や原爆投下でなくなった国民を含めて、明治維新の犠牲者とすることは無体なことではないように思えます。

 第五の謎「攘夷はどこへ」について:
 ショック療法としての水戸の攘夷対外戦争の主張は別として、攘夷はアジアに対する当然のような侵略とアジアにおける英国利権との衝突そして「鬼畜米英」となったというべきではないでしょうか。


********引用終************** 

 この部分、すばらしいです。たしかに昭和の15年戦争は明治維新の必然として発生したもので、先の戦争の230万人犠牲者も長薩体制の犠牲者とカウントできるように思えます。


*******引用開始**********

  (中略)


 最後に:

 「歴史的」いわば「年代的」に見ると、1868年の明治維新で生まれた大日本帝国が(「大日本」というのは水戸的語彙ではあれ、「グレート・ブリテン」を地理的表現ではなく、偉大さの表現と思い込んだことからの模倣的命名であるとか)77年後の1945年に米軍の日本列島占領とともに破綻消滅してさらに68年経過した現在、奇妙な「歴史の逆転」が表面化し暴走しつつあります。

 「明治維新から150年目」になる2017年前後には、日本があらたな破綻に襲われるであろうと予測します。TPPによる国内一次二次産業経済の破壊と深刻な社会不安、首都圏を含む放射能汚染と被爆の深刻さの露呈・・・それに呼応する海外戦争への直接参加をささえる軍事ファシズム体制への移行の兆候を現在眼前にしていると思います。

 他方で、金融・情報・バイオ支配に集中した米国勢力の一極支配は米国の軍事支配力の劣化と米国国民の窮乏化と厭戦志向によって危機を孕みつつあり、1980年代のレーガン大統領時代に世界の中心に躍り出た金融経済(新自由主義)が10年ごとに繰り返しているショックとバブルのサイクルが、奇しくも維新150年の2017年以降どのようなものとしてあらわれるかが日本にとってきわめて重大な問題となると思います。

 「1987年<ブラック・マンデー> → バブル化とバブル崩壊による日本経済の墜落」「1997年<アジア通貨危機> → 新興アジア諸国( NIEs )の墜落」「2007年<パリバ・サブプライム・ショック> → ECユーロの墜落」のあと、2017年にねらわれるのは人民元か(ルーブル?)・・・「中国経済のバブル崩壊」が世界と、とりわけ日本にあたえる衝撃はきわめて深刻なものとなるでしょう。

 神武創業以来はじめての<敗戦による国家主権の喪失>をはさんで明治維新から150年になる、2017年以降の激動に立ち向かうには、松平伊賀守忠固の聡明さと勇気、赤松小三郎の明晰さ・行動力と人びとへの深い愛情が必要であり、そのような人たちがかならずあらわれるであろうと確信します。
 問題は、彼らが偽の改革勢力によって歴史の舞台から引きずりおろされないようにすることです。


*******引用終************

 明治維新から150年目の2017年日本破綻説ですか。たしかに、あと2年くらいで現在のグローバル資本主義体制は崩壊しそうにも思えます。
 この崩壊のあとの日本の選択に関する先行事例として参考にすべきは、大坂の陣と島原の乱の戦乱を経て、ゆるやかに内需主導の分権的自給体制に移行した江戸公儀体制の先例だと思います。2017年は明治維新から150年、そして2015年は元和偃武から400年。いろいろな意味で時代に節目を迎えていますね。
 崩壊は避けられませんが、その後に希望は芽吹くと思います。がんばりましょう。

 

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明治維新150年元和偃武400年 (renqing)
2014-11-03 17:40:58
ご無沙汰です。
私事で弊ブログの更新もままならぬ昨今です。

2017年が「ご一新」150年とは、迂闊にも気付かないままでした。安倍首相は明治エスタブリッシュメントの眷属ですから、大きなモニュメントを残すことで己の名を歴史に刻みたいと秘かに渇望していることでしょう。彼の、今の一連の動きが3年後にどういう事柄に収束させるためのものなのか、今から想像力と洞察力を動員して凝視する必要性を感じます。

薩長公英陰謀論者さんのご論考に、多少なりご参考になればと思い、弊ブログ記事をTBしました。

「明治維新」評価の価値的アンバランスの修正、冷静でより客観的な評価付けには、長期でマクロな視点が必要です。
薩長公英陰謀論者さんの、19世紀世界におけるパックス・ブリタニカの一環としての「明治維新」論はマクロ的視点の大切な一つです。
徳川18世紀末から19世紀初には胎動していた日本列島の《もう一つの「近代化」》は長期の視点からのものの一つです。人口を初めとするいろいろなマクロ推計データの指し示す特徴の多くは、「明治維新」を挟む19世紀列島史の連続性です。歴史学界の常識は徐々に確実に「断絶」観から「連続」観に変化しつつあると思われます。

中高の歴史教科書の記述(つまり大人たちの常識)と、現状の歴史学界での「明治維新」観の間でさえも、深刻なギャップがあります。教科書の記述内容の刷新は、学術問題ではなく、政治力学の問題であるため、現政権とその取り巻きにとり、ここらへんは不可侵の領域であろうと推測されます。
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はるかな先達のご高見とご厚意に感じ入っております。 (薩長公英陰謀論者)
2014-11-04 01:12:36

renqing さま:

 射程の深いコメントと明解で印象的なトラック・バックを早速にいただき光栄に思います。ありがとうございました。
 長期のマクロ的な冷静な視点で見ること肝に銘じます。ともかく「分ける」ことに、いろいろなかたちで区分する点と線を見つけようとすることに、夢中になってしまわないようにこれから注意します。
 王政復古を区切りとすること、また「ペリー来航」を区切りとすること、そのようなトピック(断絶点)による時代区分に注意して、塊としての(?)連続的変化をつかみ描くことが真の課題であると。そのように受けとめました・・・

 また、renqing さまの凝縮された叙述によって「教科書問題」というものが何なのか,ようやく理解することができました。関さん流に言いますと「言説」といいますか、国民の目に対する支配の問題であると。
 トラック・バック御記事で論じられている民の「学び」と「公論・世論」の形成と意義とが、この問題にねじれながら連続してつながっているように思えます。
 どう見ても現在は「学び」が行われて真の意味での公論と世論が形成されているようには思えません。そのままで重大な激動の時代の渦に向かうこと、いささか戦慄してしまいます。

 ミクロ的なことばかりに気を取られるのでは流されてしまうことおっしゃるとおりです。ついそうなりますが。
 おそらくマクロ的といいますか、国際的な視点で大きな塊の動きを見るところから、その「学び」と「公論・世論」が生きて動き始めるような気がいたします。

 どうか今後とも御嚮導よろしくお願いいたします。
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関さま(さん)取り急ぎお礼を申し上げます。記事に取りあげていただいた上に示唆に富むあたたかいコメントをいただき心から感謝しています。 (薩長公英陰謀論者)
2014-11-04 01:19:12

関良基さま:

 京言葉で「さん」が多用されるのは(お豆さん、おくどさん、のように)御所言葉の流れとか、「さま」は武家言葉(奥方様=奥様、のように)とのことで迷いますが、文中では「関さん」とお呼びするようにいたします。どうかあしからず。

 10年前にペリー来航「黒船神話」が維新後につくられた虚構であったことを知ってショックを受けて以来、江戸っ子の薩長芋侍嫌いで、ほとんど無視していた明治維新を横目ながら見るようになりました。
 複雑系経済学と新古典派経済学批判の論考に惹かれて敬意を払いつつ憧憬を持って見ておりました本ウェブログの中の記事によって松平忠固と赤松小三郎とを知ったことに不思議な感じを抱きます。
 そして思いがけず、維新観作業仮説の想定のこころみに導かれたこと、たんさいぼう影の会長様に大変感謝しております。

 その作業仮説に対して明晰でかつ奥の深いコメントをいただいた上にウェブログ記事に取り上げていただき、大変光栄に、誠にありがたいことに思います。
 いただいたコメントで指摘いただいたこと私には手におえないことばかりですが、そこに含まれている重要な示唆を私なりに咀嚼して以降に生かすことをこころみるつもりです。

 私はどちらかと言えば共和主義者なのですが、明仁天皇と美智子皇后の人がらと言動を無条件に敬愛しています。
 とくに最近の「皇后傘寿所感(全文)」の美しい言葉と思い、そこにあらわれた知的品性には感動と涙を禁じえませんでした。
 長薩的専制と新自由主義的格差社会に対する鋭い怒りがあまりにも上品な表現で込められていると思いました。http://www.asahi.com/articles/ASGBL66W6GBLUTIL01Q.html

 話が飛びますが、「体制変革」のスローガンが掲げられたという、維新後明治2年の上田藩全藩一揆に強い興味が湧きます。そして、その上田では、大政奉還後突如発生し王政復古でかき消えたという「ええじゃないか」がどのようなものであったのかということに。

 石井孝『明治維新の舞台裏』(岩波新書、1975年;p164~165)によれば、英外交官サトウは「薩土盟約」後に西郷隆盛が彼に向かって「大いに語った」全国民の議会について「気違いじみた考え」と評したとのこと。
 赤松小三郎はじつは清教徒革命による共和制をくつがえした王政復古下の英国勢力によってほうむられたということになるのかもしれません。

 さらに話が飛びますが、2010年代終盤前後に日本と世界が陥る可能性があるパニックに向けて、現在の信じられないほど劣化退嬰した社会支配に対峙するには国際的連帯(グローバルな草莽&草の根同盟)が必要であるような気がします。して、どのように・・・

 ハロウィンの日、米国に「呼応した」日銀の絶望的な金融緩和は、あのバブルを引き起こしていった80年代終盤の事態を思い起こさせます。
 今度は実体経済からまったく遊離したかたちのバブルと、その崩壊が現下のさまざまな事態と相まって日本を「焼け野原」にする可能性があります。

 元和偃武から400年の維新後150年、その元和偃武は応仁の乱以降150年続いた戦乱の時代を終わらせたものだとか、不思議な気がいたします。

 国富(国民の富)がすべて失われた「焼け野原」からの再スタートになるのかもしれませんが、えぇ、希望が芽吹くことを確信して、けっしてあきらめず、めげることなくがんばりましょう!
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返信おくれてすいません ()
2014-11-11 23:01:51
薩長公英陰謀論者さま

 返信すっかり遅れてしましまして申し訳ございませんでした。
 ご存知かと思いますが、天皇陛下のご結婚50周年の際の次のお言葉を宮内庁のあHPから引用させていただきます。

http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h21-gokekkon50.html
<以下天皇陛下のお言葉を引用>

私は即位以来,昭和天皇を始め,過去の天皇の歩んできた道に度々に思いを致し,また,日本国憲法にある「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるという規定に心を致しつつ,国民の期待にこたえられるよう願ってきました。象徴とはどうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず,その望ましい在り方を求めて今日に至っています。なお大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば,日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合,伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います。

***引用終わり*****

 このお言葉からは、長州がつくった「天皇を主権者(実際には藩閥官僚が主権者)」とする「大日本帝国憲法」なるものが、いかに日本の長い歴史と伝統の中で異質なものであったか、その異常さ故に日本も皇室も滅ぼしかけたことに対し、強いお怒りが感じられます。

 安倍首相が「GHQの押し付け憲法」というところの現在の日本国憲法の象徴天皇制こそが、実際には日本の歴史的伝統に合致しておられるのだと天皇陛下は認識しておられます。

>維新後明治2年の上田藩全藩一揆に強い興味が湧きます。

 これに関する資料類が実家にあるため、にわかに記事にできませんが、上田藩の明治2年一揆の性格については、いつか記事にしみたいと存じます。 

>英外交官サトウは「薩土盟約」後に西郷隆盛が彼に向かって「大いに語った」全国民の議会について「気違いじみた考え」と評したとのこと。

 西郷も薩土盟約の直後には、赤松小三郎の説を支持していたということですか。では西郷がいつ心変わりしたのかということが気になります。英国に脅されて(?)、懐柔されて(?) 心変わりするでしょうか? 

  
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☆ 関さん、ありがとうございます。「明治2年上田藩全藩一揆」と、もし該当あれば、上田における「ええじゃないか」についてよろしくお願いいたします。天皇と「西郷隆盛の変心」について考えますことを。<#01> (薩長公英陰謀論者)
2014-11-15 23:23:16

関良基さま:

 関さん、明仁天皇の結婚50周年の「お言葉」をご紹介いただきありがとうございました。全文を拝見しまして、関さんが引用されたあとにつづく言葉を飛び飛びにですが拾ってゆきますと、つぎのようになります。

 「・・・その後の日本は、更なる産業の発展に伴って豊かになりましたが、一方、公害が深刻化し,人々の健康に重大な影響を与えるようになりました。また都市化や海、川の汚染により、古くから人々に親しまれてきた自然は、人々の生活から離れた存在となりました。・・・・ソビエト連邦が崩壊し、より透明な平和な世界ができるとの期待が持たれましたが、その後、紛争が世界の各地に起こり、現在もなお多くの犠牲者が生じています。・・・ますます人々が協力し合って社会を支えていくことが重要になってきています」

 これを繰り返し読んで思いますに、明仁天皇と美智子皇后は、現在の日本において特別な地位を持つ人々のなかで唯一、人と自然を思う美しい心と言葉を持っている存在であると、現在見聞きするかぎりの政官財学メディアの主要な人々を見渡しながら、そう痛感します。

 かようなことからさらに思いますに、関さんのご趣意とは離れてしまいますが、美智子皇后にささえられた明仁天皇は憲法にいう「日本国と日本国民統合の象徴」すなわち「国家の象徴、民の(国家への)統合の象徴」であるよりむしろ「日本の民の象徴」であると思えます。言わば「最善の日本人」なのだと。

 明治天皇から戦前期の昭和天皇まで、天皇は軍服を着た「陸海空三軍の最高司令官」でした。あの天武天皇が軍人であったのは壬申の乱の大海人皇子時代であったわけですから、後醍醐天皇を含めて軍装をして軍を率いた天皇というのは、倭王「武」に代表される統一国家形成以前の大和朝廷神話伝承の時代のみであったのではないかと思います。

 歴史時代に一貫して「祭祀をおこなう純粋文化人」であった天皇は「神武創業の神話時代に戻った」明治維新によって、軍刀を提げて馬にまたがり兵士に戦闘命令を下し国民皆兵のもと全国民を従える武人に仕立てられたわけです。

 長州藩において民衆から動員した兵士を鼓舞するために各隊ごとに設けられた「招魂社」を戊辰戦争後に皇居防衛の軍事施設を兼ねて九段坂に設営した「東京招魂社」(改名後「靖国神社」)は、生きた神である天皇が参拝することによって戦死戦病死した兵士を神とするという「戦争装置」となりました。これは神話伝承時代を含めた日本の歴史の中でかってなかった新発明であり、民に対して無慈悲無惨であった長州的知恵のもたらしたものであると思います。

 明治憲法第1条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあります。関さんご指摘のように天皇が唯一の主権者であり、三権ならびに軍事を最終的に統括する文字通り「独裁者」として公選によらない天皇の官僚による専制体制を敷いていたわけです。

「伝統的な天皇のあり方」にもとづく大日本帝国憲法下の天皇のあり方に対する明仁天皇の批判には、軍人天皇の否定、東京招魂社(靖国神社)を含めた専制的な戦争体制の否定という含意があると思えます。戦前とは異なった形であれ、そのようなところに戻る現実的な危機懸念が一貫してあることをおそらく感じておられるのではないでしょうか。

 明治憲法はさらに、第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とつづきます。現在ではなかなか意識しがたいことですが、明治維新以降「大日本帝国憲法」の時代には天皇は「現人神」として神でした。天皇が在世の時期に神とされたのは、「神武創業」以来、明治維新以降敗戦までの近代三天皇がはじめてではないでしょうか。

 皇祖神「天照大神」の子孫がはじめて人間となったのが「神武天皇」であるという皇孫神話をつくったといわれるカリスマ独裁者である天武天皇ですら自身を神とすることはなかったと思いますから。

 かように、まさに関さんがおっしゃるように明治維新から敗戦までのいわゆる「天皇制」が如何に「日本の長い歴史と伝統の中で異質なものであったか」あまりにあきらかです。下町江戸っ子の末裔から見て、かような長薩の思考と行動には、その現在の姿を含めて、正直言って些か日本人ばなれした「異常性」を感じるというのが正直なところです。

 それは措き、学生時代に「世襲の職業とはイヤなものだね」と友人に対して言った明仁天皇は人間的精神にあふれており、人間的誠意と良心に満ちた存在として、日本にとってきわめて不幸なことではありますが現在の日本の「著名人」のなかで異彩を放っています。

 真言の学僧であった祖父の無言の影響からか反近代の伝統主義者として文字どおり「右翼」に位置しながら、大学時代まで近代法の理念である平等な人権という立場から考える訓練を受けて、いかなる形であれ君主制に賛意を持たない私ですが、明仁天皇と美智子皇后には心からの敬愛を抱きます。

 自己流「私擬憲法案」を考える際に「天皇皇族に基本的人権を保障するべきである」ということをアタマの隅に置きながら、基本的人権を持たない明仁天皇夫妻が、国民の基本的人権と平和主義を核とする日本国憲法をおそらく現在もっとも「戦闘的に」擁護していることに強い感動を禁じ得ません。
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☆ 関さん、ありがとうございます。「明治2年上田藩全藩一揆」と、もし該当あれば、上田における「ええじゃないか」についてよろしくお願いいたします。天皇と「西郷隆盛の変心」について考えますことを。<#02> (薩長公英陰謀論者)
2014-11-15 23:29:13

 関さん、「維新後明治2年の上田藩全藩一揆」の記事どうかよろしくお願いいたします。この一揆に先立って上田では「ええじゃないか」がどのようであったのか強い関心を持ちますのは、高校生用の受験参考書「学研 日本史」で見た記述が長い間アタマを離れることがないからです。次のように書かれていました:

 「・・・この大政奉還の決定的時期に、前年まで驚くべき規模でひろがっていた百姓一揆と打ちこわしは、急速に停滞し、それにかわって世直しや神代復古の願いをこめた『ええじゃないか』と称する民衆の動きがまき起こった。これは、伊勢神宮のお札が降ったといううわさをきっかけに、多数の民衆が狂気のように踊りまわるもので、名古屋からはじまり、江戸・東海道・近畿にひろがった。この契機については明らかではないが、倒幕直前の政情と世相の不安に乗じて、民衆の宗教的興奮が爆発したものと思われる」

 日本全国の民衆を無目的な熱狂とエネルギーの消費に巻き込んだ「ええじゃないか」は王政復古とともに突如として跡形なく消えました。以前にさまざまな文献にあたりましたが、「政治的謀略」の匂いが強烈にするこの異様な出来事の背後に踏み込んだものはありませんでした。伊勢神宮のお札や銭や餅を撒いたのは土地土地の富裕層であるということは記録があるようですが、その背後を示す証拠はきれいに消されているということだと思います。維新後に「体制変革」を掲げた全藩一揆が起きた上田にひょっとして何か手がかりがないかと・・・

 最後に、はっきり言って私にとってはその一切を忌避したい人物である西郷隆盛の、「薩土盟約」から「薩長同盟」への移行、それに含まれる「国民議会に関する心変わり」について考えました仮説を述べてみます。

仮説01 西郷隆盛は「薩摩藩のために徳川家の全国支配を打倒する」ことを目的としていた、私心のない卓抜した謀略家であり軍事指導者であった。
しかし西郷は一貫した政治的理念理想、政治構想は持ち合わせていなかった。西郷にとって「国民議会」論は、徳川家の支配体制を打倒するための「取替え可能な大義名分」つまりたんなる道具にすぎなかった。

仮説02 しかし重要なことは、西郷が道具として熱弁を振るうほどに「国民議会論」は当時広く人心を得ていたということである。
 西郷は英国外交官であり英国の対日謀略の担当者であったサトウと、江戸公儀がすすめており当時の大勢となっていた「公武合体論」と「国民議会論」を切り離すという問題について議論をしようとしたのではないか。

仮説03 当時薩摩は土佐と「薩土盟約」を結んでいたが、ジョン万次郎のいた土佐はアメリカとの結びつきが強かった。サトウは「薩土盟約」による「国民議会論」の背後にアメリカを見て、西郷に対して「国民議会論を論じるのはクレージーだ」と言ったのではないか。

仮説04 名誉革命という名の反革命によって王政復古をしたイギリスは、アジアにおいて主要な競争相手となりつつあった独立戦争後のアメリカ、さらに同じくフランス革命後のフランスの共和制議会政体を警戒敵視しており、日本において共和政体が将来生まれることになるのを阻止する方途を「反徳川=尊王」に見たのではないか。

仮説05 政治思想理念主導の「薩土盟約」に対して「薩長同盟」は実質的には、下関戦争による制裁下の長州に英国との貿易を可能とする「経済提携条約」であり、その経済的受益者は英国(グラバー&ジャーディン・マセソン商会)であった。
 薩摩の軸足を「薩長同盟」に移させれば「尊王=王政復古」による「倒幕=共和制阻止」の可能性を切り開くことができることを見抜いたのは、当時の本国の対外方針によって直接の介入は避けたい英国であったのではないか。

仮説06 西郷隆盛は、仮説01および05から考えて、機会主義的判断によってすんなりと「国民議会論」を切り捨てて英国の路線に乗ることにしたのではないか。
 その西郷の足もとを見透かすであろう坂本龍馬を「薩長同盟」成立の立役者に仕立て上げ、そののちに暗殺したのではないか。

仮説07 坂本龍馬の「海援隊」商権を引き継いで土佐商会を設立し、維新後に代表的な政商となる土佐の岩崎弥太郎が薩摩または長州と通じ、「薩土盟約」から「薩長同盟」へと歴史の展開軸を移すのに大きな役割を果たしたのではないか。じつは10年前に「岩崎弥太郎長州スパイ説」という論議がネットでなされていたことを覚えています。

 関さん、以上は仮説というより結果から逆読みしたものにすぎません。いずれにせよ、かような問題に関連する史料は長薩明治政府の手によってすべて消滅しているのではないかと推察します。幸運にのこされているとすれば、ひょっとして上田かもしれません(まさか)。
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「薩長公英」の背後にかくれた江戸末期の特権商人と大地主。大地主を忘れていました。そのうち是非織り込みたいと思っています。 (薩長公英陰謀論者)
2015-04-23 19:09:32

たんさいぼう影の会長どの:

 占領軍による改革によって唯一完全に消えた支配層である「寄生地主」が、明治維新以降、戦後の「農地解放」まで、きわめて重要な存在であったことは中学の歴史で習っていたわけですが、
 この寄生大地主が上級武士の横滑りによるものではなく、すでに江戸末期までに経済社会的支配層として形成されていたことをまったく知らずに「明治維新作業仮説」を考えていました。

 「ええじゃないか」謀略の主体であったと目星をつけた大地主をいつか維新仮説に織り込まねばなりません。片手落ちがずっと気になっておりまして、その旨のみ報告いたします。

 じつはこのことを、不勉強でまったく知らなかった大石慎三郎氏(1923ー2004)の、2011年までに34版を重ねている同氏の意欲的な著書『江戸時代』(中公新書、1977年)を手にしてはじめて気がつきました。
 同書p218「明治維新の利得者をさぐる」以下の叙述を手がかりにして、氏による一連の編著書を勉強しなければと思いつつ、なかなか果たせずにおります <(_ _)>。
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