代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

大久保利通とのその時代展で赤松小三郎が紹介されていた

2016年01月14日 | 赤松小三郎
 
 大河ドラマ「真田丸」で盛り上がっている信州上田。昨年は真田幸村の戦死から400周年であった。真田丸が終了した翌年(2017年)は、もう一人の上田の英雄(ほとんど誰も知らないが・・・・)赤松小三郎の没後150年周年になる。今年は赤松小三郎の150回忌となる。真田丸が終わって、上田は灯が消えたようになってしまうかも知れない。赤松小三郎暗殺150周年に向けて小三郎再評価の取り組みをしなければならないと思う。

 昨年11月に佐倉市の国立歴史民俗博物館で開かれていた『大久保利通とその時代』展に行ってきた(展覧会は先月の12月6日で終了している)。その中で赤松小三郎に関する史料が一点、展示されていたので紹介したい。以下の写真は、展覧会のパンフレットの史料写真の一部をさらに複写したものである。
 以前なら、赤松小三郎に言及されている史料などスルーされていたと思うのだが、国立歴史民俗資料館が、「大久保利通展」において、あえて赤松小三郎に関する史料を出してきているところに、主流の歴史研究者も赤松小三郎に注目するようになっているという変化が生じていることが伺われる。
 
  




 この史料は、以前に歴史作家の桐野作人氏も発掘し、紹介しておられたこともあるもの。「新納嘉藤二(薩摩藩江戸留守居役)が吉井幸輔(京都留守居役)にあてた書簡(慶応2(1866)年10月19日)」である。
 赤線の部分に「赤松小三郎」と書かれている。
 この書簡の解説には、「薩摩藩が陸軍をオランダ式からイギリス式に改めたのは慶応2年5月のことであり、京都では本書簡に登場する上田藩士の洋学者赤松小三郎に藩士たちを入門させ、英式陸軍を学ばせた」と書かれている。

 この書簡では、江戸留守居役の新納嘉藤二が、薩摩藩の要請により江戸で英国式の軍学者を探している様子が書かれている。新納は英国陸軍の兵制に詳しい軍学者を江戸で探し、スカウトし京都に送るというミッションを託されていたと思われる。
 この前の、慶応2(1866)年10月17日の書簡から、薩摩・江戸藩邸が英国兵学者をスカウトし、京都に送ろうとしていたことが分かる。白羽の矢が立ったのは下曽根信敦の門人で当時下曽根と不和になっていた平元良蔵であった。平元の師匠の下曽根は幕府講武所にいたので、薩摩が手は出せない。そこで新納は、平元の招請計画を大久保(一蔵)と伊地知(正治)に話したところ「至極同意」ということであった。

 しかし、この写真の10月19日の書簡では、平元は下曽根と「中直り」し、平元は門人の野津七次(後の元帥・野津道貫)を通して「下曽根先生の恩義を忘れがたい(師家之恩義難黙止候)」として、薩摩の招請を断らざるを得ない事情を説明している。
 そこで赤松小三郎が候補に挙がった。しかし、この時点のこの書簡では、「赤松小三郎も平元に従うようである」という観測が述べられている。新納は、平元も赤松もダメなようなので、このうえは「英国人に直接依頼するしかない(此上は英人を御頼入被成候他有之間敷)」と吉井に報告している。
 
 この書簡から分かることは、慶応2年10月の段階で赤松小三郎は薩摩の招請に応じる意思はない様子である。つまり赤松が薩摩の招請に応じたのは、少なくとも10月以降ということが分かる。
 
 ちょうどこの時、幕府講武所が赤松小三郎を教授に招請していたが、上田藩が幕府の依頼を断ったため、小三郎は行き場を失ってしまった。
 そこで小三郎は、薩摩藩からの誘いに応じる気になったのではないかと推測される。薩摩の誘いを受諾した背景は、小三郎の教え子である野津七次とのあいだの信頼関係ゆえと思われる。

 大久保利通は、赤松小三郎を薩摩に招請しておきながら、その存在を強く警戒し、村田新八に命じて小三郎の身辺を探索させていた様子がうかがわれる史料がある。私も以前このブログで紹介したことがある。以下の記事。

http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/d8b3e91c87bfe1efb9fafbc246d99081



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