代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

糾弾的知性から止揚的知性へ

2015年08月20日 | 運動論
 薩長公英陰謀論者さんが、ガメ・オベール氏のツイッターとブログの記事を紹介しながら以下のようなコメントを寄せられました。「左」と「右」とを問わず「天然全体主義」の文化を持つ日本(長州政権以来の伝統?)において、「止揚的知性」は何よりも必要とされているのだ、と。以下の投稿内容に心より共感いたします。

 実際、ネット空間を見ても、右と左を問わず、新古典派とケインズ派とマルクス派を問わず、糾弾的知性だらけです。人を罵倒して悦に入るような人々だらけ。あまりの不毛さに辟易し、これが日本なのかと思うと、嘆息して絶望的な気分になります。しかし悲しい現実です。止揚的知性が育たない限り、日本は全体主義に呑み込まれて滅びるしかないでしょう。


********************
以下、引用
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/85648594583258ee074af61abff0a208


8月15日、長州史観。時代の脈動の兆しを感じます。週末にあたふたとして、いま大急ぎで。 (薩長公英陰謀論者)2015-08-16 23:36:32

ガメ・オベール氏の智識と饒舌には往々にして気が遠くなります。じつは氏のツィッターにきわめて興味深いやりとりがありました。ガメ・オベール氏の「止揚的な知性」が期せずして関さんの「代替案@弁証法」コンセプトとまさに対応していると驚きました。

 十全外人大庭亀夫@gamayauber01 2015年08月08日&09日

@midoriSW19 科学者の告発や行動だけで変わるとは思わないけれど
@gamayauber01 いま考えていたのだけど、やはり「糾弾的な知性」は世界をよくすることは出来ないのだとおもいます

@midoriSW19 「糾弾的な知性」の対極にあるものは何?
@gamayauber01「止揚的な知性」に決まっているでないの。わしらは、その愚かさによってのみ危機を乗り切ってきたのではないの。そんなことも判らないのか

@gamayauber01 渋谷や国会前に集まった若いひとびとを見ていると日本は20年の苦しみと停滞をくぐって文明を発見しつつあるのではないかという気がする。おっちゃんやおばちゃんたちの「糾弾的な知性」とは別のものがそこに生まれている。言葉さえ新しくて透明である。素晴らしい、というほか言いようがない


ガメ・オベールさんは、SEALDsに集う若者たちと言葉について、このように ↓ 言っています

 https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/07/15/letter5/

 ・・・たとえば自分たちの写真を無遠慮に撮りまくるマスメディアを怒って、荒い言葉をつかう女のひとのメンバーでも、言葉の荒さとはまったく別個の、魂の純粋さが感じられて、日本全体は、案外、この若い人々が救ってしまうのではないかと思うことがある。

 ・・・皮肉屋ばかりがうけるのは未開社会の特徴だが、日本の場合「先進社会」でありながら、罵倒好きな国民性がたたって、言語そのものが失われた結果、支配層の側にやすやすと支配されて、囲い込まれて、まるで場でお互いに皮肉を述べて傷つけ合う羊たちとでも言うような滑稽な姿になってしまったのは・・・自分が全体主義的観点に立ってしかものを考えられずに、目立った個人に対して、ありとあらゆる手をつくして集団的なサディズムを行使してきた結果であるとおもう。天然に全体主義者である点で、日本では「左」も「右」も寸分変わらない。

 ・・・汚い言葉で話す人間は真実を語っていても嘘つきなのだとおもう。その「真実」は、薄汚い魂の人間が、どこかの店先からかすめとってきた、誰か他人のものであるにしかすぎないからです。若い日本人たちは、ほっておいても、ちゃんと自分たちの二本の足であるいていきそうだけど。

 <引用以上>

 と、このように。

 日本の企業のさまざまな激しい劣化は、皆がおなじ言葉で語る、かっては強さだと勘違いされていた「全体主義」が、1980年代以降に猛威をふるった東西冷戦構造の終焉と交差した「世界の新自由主義化」との歪んだ化学反応によって烈しい毒となり、企業の変化する力と動きを麻痺させているからだと思えます。
 日本の企業に必要なのは、自分の言葉を持ち自分の言葉で語ることによって動き人々と世界に働きかけ、それによってほんとうの自分へと変化してゆくことができる、意図せずしておのおのの弁証法を生きている若者たちだと思います。

 左右をとわず支配している全体主義サディズムへの(長州史観のことかも?)若者たちの挑戦を称揚するガメ・オベール氏に心から共感します。はい!SEALDsのデモにやって来る若者たちは、真剣に未来に取り組む企業に求められ、熱烈歓迎されるにちがいないことを確信します。

 そういえば、下手すれば株主利益と説明責任に追いまくられて魔が差すと結局自分に跳ね返る粉飾にまで手を染めかねない企業とは異なって、あくまで責任を追及されることなく眼の先のエゴ利益を追いかけまくることができる官僚が、世のあらゆる悪だくみの背後には必ずいるという感じが強烈にするようになりました。
 彼らが「民間より低い待遇を天下国家を背負う矜持で補っている」と国民に思わせることができた時代はすでに半世紀近くむかしになったのですね。


********************


 ありがとうございました。糾弾的知性は、糾弾的文化を再生産するのにも熱心です。
 例えば、かつて自由主義史観(=実質的には長州史観)なるものを名乗っていた人々は、公教育の場でディベートを取り入れるのに熱心でした。

 ディベートというのは、相手の発言の揚げ足を取ったり、些細な論理的矛盾を指摘して、攻撃すれば勝ってしまうというゲームです。その論争の中に弁証法は存在しません。双方の認識を通わせる中で、新しい概念を形成していくアウフヘーベンのプロセスが皆無なのです。ディベートとは、公教育を利用して糾弾的知性を再生産するのに恰好の取り組みだといえるでしょう。日本の大学や大学院で行われている対話・議論なるもの、多くの場合において、「お説教型対話」「揚げ足取り型対話」「重箱の隅をつつく型対話」・・・・と、およそ弁証法的な対話ではないのが実情です。
 
 止揚的知性を増やすにはどうすればよいでしょうか。弁証法的対話を促せばよいのです。どうやって? ・・・・・いろいろと考えるところはありますが、書きだすと長くなりそうなので、また別途書かせていただきます。



 

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5 コメント

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世界の合言葉は… (りくにす)
2015-08-21 17:48:03
またまたガメ・オベールさんのブログのご紹介から始めます。
「カレーライスと軍隊語」https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/08/10/katsukarae/
「四民平等」によって階級がなくなった代わりに「軍隊語」がこの国を席巻した、そして軍隊に居場所がない女の人には「言葉」がなくなった、と書き、
>日本のいまの社会に射している最大の大日本帝国陸軍の暗い影は、「言葉」なのかもしれません。
と締めくくっています。
軍隊語が日本人にフラットな思考をさせない、というのです。
そういえば関さまご紹介の『維新の肖像』には、日本のことなのに父親の体験を日本語でまとめられない日本人学者が描かれています。仕方なく英語で書く。戦後生まれには信じられないのですが、戦前は「ヒエラルキーなしに語れる日本語」が育っていなかったのでしょう。

「右でも左でもない」言葉はたとえば1980年代後半の反原発運動でも発せられたという記憶があります。
「○○(原発)いらない いのちがだいじ」
たとえば1988年には伊方原発で出力調整試験のときに四国電力前に抗議の人々が押しかけましたが、右翼の宣伝カーも抗議に駆け付けたそうです。
この右翼の人はアベ政権を応援しているのでしょうか。
こうした出来事は報道されないか、報道されても忘れさせられてしまうので脈々と存在しているのに「新規に出現した」ように見えているのかもしれません。
それから、伝統的儒教精神は「志士仁人は身を殺して仁を為す」ことを求めます。こういう考えの人には「自分も死にたくないし、人を傷つけたり人の取り分を奪いたくない」という意見は「なまぬるい」のかもしれません。しかし「身を殺す」を実践しようとするあまり他人にも厳しくなったり、本当の望みが分からなくなったり、あらたな危機を感じ取ることができなくなったら、その人は「志士仁人」といえるのでしょうか。
ややこしいことに、何かを断罪しようとすると突然「和の精神」「多神教」を持ち出して、断罪すべきものを許したり「共存」を求めたりする奴も現れます。「生命至上主義ファシズムだ」という言い方もされました。「軍隊語」は軍にそぐわない価値やエネルギーを見出せなかったり、逆に脅威と考えたりするのでしょう。

この記事のコメント欄に「女性は『女言葉』で思考しない」という投稿がありましたが、「生命至上主義ファンタジー」というべき『風の谷のナウシカ』のナウシカは独り言でも「女言葉」ですが、「自然なヒエラルキーのない言葉」「中性語」を採用するには時代が早すぎたのか?ずっと前から思ってきたのですが、ナウシカが世界の成り立ちについて考えたりひらめいたりするのに「女言葉」はいかにも邪魔です。「姫さま」だから「お上品」でないといけないのでしょうか。

鶴見俊輔さんのことはほとんどEテレの「日本人は何を考えてきたのか」でしか知らないのですが、雑誌「思想の科学」に新しい人をどんどん取り込んでいくところがすごいなと思いました。たとえば右翼が聞いたら怒りそうな花岡鉱山の中国人労働者の実態なども必要だと思ったら取り入れる。なんでも「それ、面白いね」という。糾弾的とは正反対ですね。日本という国がこういう青年活動家を自前で生み出せなかったと知ると悲しいです。

さて、ニュースで韓国軍が国境地帯に北朝鮮の政治体制を誹謗するスピーカーの映像を見せていますが、今いちばん日本人を怒らせたり無力化できる「言葉」って何だろう、と物騒なことを考えてしまいました。
また、右寄りの人は北条時宗が好きですが、日本人にとって「外交」とは「相手を怒らせて思う通りの行動をとらせる」ことなのか、と思うこともあります。

タイトルはA..C.ル=グウィンの作品からの拝借です。
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糾弾的知性に関する心理学的考察と対症療法のささやかな提案。そして日本語の輝ける女手。 (薩長公英陰謀論者)
2015-08-23 22:57:03

 関良基さま:

 関さん、糾弾的知性の心理学的考察と、それにもとづく対症療法の思いつきを報告します。糾弾的知性の政治経済学的考察については、マルキシスト(マルクスではなく・・)、ファシスト、フリードマンからアゴリストまで、にわかには、いえ到底手に負えませんのでどうかご容赦ください。

 ただふと目を開けて見ますと、考えていたことがあまりに簡単なことだったのですっかり意気阻喪しています。しかし前座をつとめますと大口を叩いた手前引くに引けず、自爆を覚悟で、はるかむかし高校時代の文章を思い出すものを年甲斐皆無で書きなぐることをご容赦ください。むろん精一杯簡潔に?いたします。

糾弾的知性の心理学的腑分けによる症状診断:

01 ありふれて、また利いた風に申しますと「存在論上のニヒリズム」というべき症状:

 糾弾的知性症候群の背後にあるものは、安冨歩氏の言う「立場主義」、勝手に言い換えますと「与えられた、または仮想された、社会的利害への自己の丸ごと売り渡し」であると思います。その確信犯の逆ギレが糾弾になるのではないかと。
 ここもと人気のガメ・オベール氏が、嫌韓嫌中席巻中の日本の社会について言う「見栄と嫉妬という悪鬼に乗っ取られた心の地獄」、勝手に言い換えますと「白雪姫(母王妃)心的複合(コンプレックス)=『鏡よ鏡よ鏡さん』症候群。これがそこに強力にはたらいて、なけなしの知性があっという間に悪性腫瘍化・糾弾化するのであろうと推察します。

 無意識的にではあれ結果として、自己の定型的・権威的形象化による<自己喪失>の状態に、執拗に言いますと卑怯きわまりない自己の放棄または売却という状態、にあるために鏡の中の自己(虚像)しか見ることができないのでしょう。
 そのため、世界認識のなかで自己自身を対象化して、自己を含めた弁証法的展開をおこなう、という、単細胞生物すらやっていることができない羽目になるのかと思います。

 そこで、糾弾的知性症候群対症療法のその一は有り体に言って「ほんとうの自分を取り戻すこと」になろうかと思います。
 ほんものの自分として存在することへの不安、むしろおそらく恐怖感、これを取り除く必要があると思います。「見栄と嫉妬(@ガメ・オベール氏)」で生きることをやめる(やめてもらう)にはどうすればよいのでしょう。

 糾弾し否定する相手が存在しなくとも自分は大丈夫、しっかり存在するという安心感があれば・・・。紅茶に濡れた角砂糖のような言い方をお許しいただくと、ありのままの自分が一切の毀誉褒貶なく認められる(=愛される?)という経験と確信を得ることかと思います。今どきの世の中で、これは木に縁って魚を求めるのたぐいでしょうか。まさか・・。

02 おなじく、認識論上のニヒリズムというべき症状:

 関さんが、ディベートという糾弾的文化の拡大再生産について言及しておられるとおり、知性というものが「より大きな、より高い真理をつかみ、生かす」ということからすっかり引きはがされてしまっている、という問題があるのだと思います。

 対抗者との相互破壊的論争に勝利するという「立場主義(@安冨歩氏)」によるがらんどうのような自己主張と「見栄と嫉妬(@ガメ・オベール氏)」に丸ごと振り回されて「アヘンとしての糾弾的知的活動」に夢中になるわけです。

 はっきり言って・・・「真理などはない。あたえられた、あるいは選択した立場(という盾に隠れた見栄と嫉妬)がすべてだ」と。

 この糾弾的知性症候群の対症療法その二として、はてさてどのような対症療法があるのか。この症状は知的なものというよりは政治経済学的なものかもしれないと逃げ出しかかったり、「正直言って、キ・・イ(放送禁止用語)につけるクスリはないのではないか」と嘆息したり(ははは、ひとごとではないのかも、と)ひと晩思いあぐねましたけれど、寝ぼけが醒めてなお、埒があきません。

 時代のたそがれという歴史的な問題なのかとあきらめ、さすればミネルヴァのフクロウが目覚めるのを祈るしか・・・。つとに大風呂敷をひろげましたことをお詫びします。

03 さらにおなじく、価値論(規範論)上のニヒリズムというべき症状:

 冗語をこれ以上かさねずに短兵急に申しますと、糾弾的知性の「死に至る病@キルケゴール(当方はいずれの神も持ちませんので神を真理に置き換えてキルケゴールを十代の終わりころ勉強をさぼって耽読しました)」とおぼしき価値ニヒリズム症候群。これは、価値・規範・正義が、貨幣量という経済学、貨幣であらわされる総生産、収益とコスト、そして株価、に乗っ取られていることによるのだろうと思います。

 なるほど、貨幣的価値が(なにゆえこんなものがと不思議でたまらないのにかかわらず、その現実的物理的威力はすさまじいことには本当に困惑します)存在しうる価値すべてを吹き飛ばすがゆえに真理など追う必要がなくなるのでしょう。価値ニヒリズム(貨幣信仰)が認識ニヒリズムをもたらすわけだと今さら気がつきました。

 思考トラックを横っ飛びしますと、核(原子力発電)と、そしてこの貨幣に対する執心と盲信が人類を滅亡させるであろうと予感します。滅びた方が?まさか。

 そこで、糾弾的知性症候群対症療法その三とその二をまとめて面倒見ようと見得を切りますと、ラテンから発してゲルマン・アングロサクソンを巻き込んだ<ルネサンス=人間性の復興、人文的革命>に、いま対応するものをつくりだすこと以外に選択はないやに思えます。それが、愚昧さとニヒリズムによって死に至る病に追い込まれた、この日本という空間における弁証法的代替案ではないかと。

 勢い込んだ我田引水をお詫びしつつ・・・。

      ☆☆☆

りくにすさま:

 りくにすさま、存在そのものを成立させすらする言葉の大切さを、アベ語の空疎さから逆引きで痛感いたしております。その上で帝国陸軍の暗い影は陸軍文法として、その真の影は長州史観であることがいよいよ露骨になったような感があります。

 つい先日、ターミナル地下街の本屋さんの店先で平積みされていた「薩長史観に隠された歴史の真実!『官軍』が始めた昭和の戦争を『賊軍』が終わらせた、と帯にある『賊軍の昭和史』(半藤一利、保阪正康、東洋経済新報社、2015年)が机上にあります。お気が向かれましたら斜め読みでご覧ください。
 85歳と76歳(たぶん)の矍鑠たる対談、あの「バーデン・バーデンの密約」の話が出てきて興味津々です。

 この本と身の回りだけを見てのことで恐縮しながら申しますと、戦略と言うより戦術戦法一本槍だった帝国陸海軍の語彙と文法は、戦後の企業言語に隆々として生きのこり(そういえば企業記事は戦争用語だらけでは)、それが株屋の情報誌がいつのまにかクォリティ・ペーパーとなってファイナンシャル・タイムズまでくわえ込まされた日経の新古典派ネオリベ語彙文法と結合して、水俣病ばりのアマルガム(水銀化合物)症候群となっています。
 そして、あろうことか国全体がこの株価で価値が測られる企業に丸ごと化けたアベ・ジャパンは、この水銀化合物言語によって支配されています。

 考えてみますと関さんはこの「弁証法・代替案」によって、長州史観的帝国軍隊言語と、ネオリベ・ネオコン新古典派言語とに対して、二正面作戦で立ち向かっておられるわけです。

 なお「女性言語」についてはガメ・オベール氏にささやかながら異論があります。
 長薩仕込みの帝国軍隊同様に女性を不当に排したものの代表は江戸期の朱子学であろうと推察しつつ、しかして今に生きる言葉の歴史をさかのぼりますと、・・・女手と呼ばれた「ひらかな」が、今日では西欧外来語の表記役に落ちぶれたカタカナに対して燦然たる地位を築いていること、その「女性的」表現力たるや、平安期・鎌倉期において、すさまじいものがあることに気がつきます。
 これがたとえば芥川賞・直木賞の受賞作家・候補作家における女性のしめる地位の高さに引き継がれているやに思えます。

 それに、かの万葉集の:

君が行く道の長手を繰りたたね 焼き滅ぼさむ天の火もがも

帰りける 人来きたれりと 言ひしかば ほとほと死にき 君かと思ひて 

 という狭野茅上娘子の日本人ばなれした絶唱のダイナミズムはとうてい男ことばが指を触れることすらできないものであると思います。
 それをいま、SEALDSの女性たちの思いあふれる言葉、そしてママさんたちの「だれの子供も殺させない」という決意にかさねてしまうのですけれど。
返信する
追伸:女手(ひらかな)と女言葉と、狭野茅上娘子の万葉仮名。 (薩長公英陰謀論者)
2015-08-24 02:07:10

 りくにすさま:

 先の投稿にて、エリック・ドルフィーの吹くエピストロフィーと同様に長く耳にこびりついている狭野茅上娘子の歌を持ってきて、しばらくして、この歌は、男手と女手の区別のない万葉仮名だったのだと気がつきました。まことにあいすみません。

 君我由久 道乃奈我弖乎 久里多々祢 也伎保呂煩散牟 安米能火毛我母

 可敞里家流 比等伎多礼里等 伊比之可婆 保等保等之尓吉 君香登於毛比弖

 これらの歌が、りくにすさまがお気にかけておられる「女言葉」なのかどうかわかりませんけれど、あてずっぽうで、万葉の時代にそのような区別はなかったのではないかという気がいたします。

 飛躍を承知で申しますと、ちあきなおみが最初に歌ったという『矢切りの渡し』が冒頭に「つれて逃げてよ」という女性からの呼びかけで始まるという点で出色であるのと同様に、この狭野茅上娘子の歌は、女性の「従位性」の枠組みを持つ世界とは隔絶した「主人公としての存在」である女性の人間表現であることによって心を打つのではないかと思います。
 つまり、表現するものが「女性」性であるからではないと。

 さらに飛躍しますと、渡辺京二『逝きし世の面影』のなかで活写されている江戸末期の女性がまことにのびのびとして自信に充ち闊達であることからして、女言葉の表現の世界がごく狭く限られてしまったのは、明治期以降の薩長勢力による社会生活に対する包括的な中央集権的支配ゆえではないかと推測します。
 
 お気づきと思いますけれど、極端な「戦士」社会であるがゆえに男女の役割区分が異常に厳格であった薩摩をここでは先に持ってきて「薩長」としております。
 「薩長」による明治国家建設、すなわち富国強兵によって、列島を軍産ともに「戦士社会」としたことが、女性の世界をさまざまな意味で限定したであろうことは容易に想像がつきます。

 戦前と変わることなく軍隊好きのおじさんたちは戦後には「企業戦士」中心の社会をつくったわけだ、と膝を打ちます。
 いま、それが、女性がコールを主導することを含む「戦争反対」によって根元から揺すられつつあると感じますのは楽観的すぎますでしょうか。
返信する
それは難しい (三郎)
2015-08-24 04:30:57
初めまして。

糾弾的知性から止揚的知性へ。このタイトルが興味深かっ
たので、コメントします。

私自身、ほぼ同じようなことを考えたことがありますが、
結論は、「こりゃ、無理だ。」でした。

大学のような討論のために保護された環境でも、実際に行われているのは、
ご存じのような代物ですし、友人間で、議論のルールを決め、議論を実践し
てみても、アウフヘーベンなど不可能で、物別れに終わるか、議論能力に優
れたものが、結論を支配し、そうでないものは、不満を内に秘め、しぶしぶ
賛成する、という結果になるのが関の山です。

そもそも、複数の人間の間で行う「議論」において、止揚的知性の実現は、
可能なのでしょうか?

本家のヘーゲルの弁証法も、彼ひとりの脳内でなされたからこそ、可能だった
のであり、生身の人間を相手とする議論によっては、不可能だったのではな
いでしょうか。

議論の本家であるといわれる欧米の知識人同士の議論を見ていても、止揚的
議論などみられません。お互いを糾弾し、最悪の場合、人間関係も壊してし
まいます。

討議的民主主義なるものも、理想とは程遠いのが実態です。

ただ、非常に興味深いと思った試みと過去の事例があります。
それは、ユング派心理学者アーノルドミンデルの「ディープデモクラシー」
と民俗学者宮本常一の本に出てくるある村の寄り合いでのものごとの決め方
です。どの本だったかわすれました。「忘れられた日本人」だったかもしれ
ません。

どちらも、知的な議論ではなく、その底にだれしもがもつ感情のしこりの解放を問
題にしています。
これが溶けた時、「にせの問題、みせかけの議論」は、自動的に消滅していき、
「ほんとうのポイント」が姿を現してきます。そして、解決は、速やかに訪れます。

議論というものを考える際、私たちは、知的言語的側面のみを考えがちですが、そ
の基底にある非言語的なもの(身体、感情など)を注視することが、可能性を開く
キーになるのだろう、と私は考えているところです。


返信する
糾弾的言語を止揚するものは。 (薩長公英陰謀論者)
2015-08-29 23:24:50

 三郎さま:

 三郎さまのご投稿に「なるほど・・」と頷きました。ご覧になってきたことについての率直なお話と「知的言語的側面の基底にある非言語的なもの」のご示唆をいただきありがとうございます。

 三郎さまがお考えでいらっしゃることことからずれるかと思いつつ、それは「共感力」や「想像力」と言えるものかもしれないとぼんやり考えました。

01 上野千鶴子氏のSEALDsメンバーのスピーチに対する「糾弾事件」に見るケースについて。
http://www.targma.jp/vivanonlife/2015/08/post7505/

 「・・・性別役割分業を肯定しないよう慎重に言葉を選んでいました。それでも性別役割分業を想像させるスピーチはいけないと批判があるなら、女性個人の幸せに寄り添えないようなものがフェミニズムであるはずがないと反論いたします」

  正木氏がかようなかたち ↑ で上野氏の「糾弾」に対する反論をなさったことに心を動かされました(「寄り添う」という言葉が、著名な某氏の「70年談話」にあったことの気持ちわるさはさておき)。

 表層における主張の一貫性に一方的にドライブされるがゆえの上野氏の共感力と想像力の枯渇(?)を正木さんはさりげなく指摘しているのではないかと思えます。

02 そのSEALDsつながりで。お行儀よさを求めるオトナの欺瞞的非難を受けるSEALDsの言葉が排除的な糾弾とならない理由について、内田樹氏が以下のような示唆をしています。

http://blogos.com/article/129745/

8月23日(日)京都円山公園で開催されたSEALDs KANSAIの集会での連帯の挨拶。

「・・・みなさんが語る言葉は政治の言葉ではなく、日常のことば、ふつうの生活実感に裏づけられた、リアルな言葉です。
 ・・・これまで、ひとまえで『政治的に正しい言葉』を語る人たちにはつねに、ある種の堅苦しさがありました。なにか、外来の、あるいは上位の『正しい理論』や『正しい政治的立場』を呼び出してきて、それを後ろ盾にして語るということがありました。

でも、SEALDsのみなさんの語る言葉には、そういうところがない。自分たちとは違う、もっと『偉い人の言葉』や『もっと権威のある立場』に頼るところがない。
 ・・・自分たちがふだん・・・ふつうに口にしている言葉、ふつうに使っているロジック、・・・を使って、自分たちの政治的意見を述べている。こういう言葉づかいで政治について語る若者が出現したのは、戦後日本においてははじめてのことだと思います」

・・・と。ここで内田氏は意図せずして、三郎さまが着眼をしておられる「知的言語の基底にある非言語的なもの」により近い言葉があることを示唆しているように思えます。
 そのような言葉は、一見糾弾的でありながら、あたえられた弾を出来合いのものめがけて撃つ射的とはまったく異なるものであり、他者を自分の軌道から排除するのではなく、一緒に星雲の渦をつくりだすものであるような気がいたします。

かのガメ・オベール氏は、「糾弾的知性」について、というウェブログ記事で、かような言い方をしています:

https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/08/28/challenging-intelligence/

「・・・人間は『他人の話を聴く』状態で、ものを見なければならないので、『他人に対して自分の考えを主張する』ように、ものを見てはならないのだとおもう。
 ・・・怒りを表明したり、自分の観察を述べることはできても、人間の言葉には現実は、『主張をこめる』というようなことは出来ないのだと思います」

・・・ガメ・オベール氏によれは、主張を薬莢とし、主張の生業的必然性を引き金にした糾弾的主張は、じつは人間の言葉ではないのだと。

03 最後の一つ前に、ホリエモンのケースを。

http://news.livedoor.com/article/detail/10515891/

以下は、りくにすさまにおしえていただいて愛読している「リテラ」の宮島みつやという方による、敬意を払うべき「糾弾」です:

「・・・ 実は、この他者への想像力の欠如という問題はホリエモンのこれまでの言動にもしばしば見られてきた。
 ・・・ 今回も同じだ。いかに効率の悪い働き方しかできなくても、機械で代行できる単純労働であっても、自分の出来る範囲で仕事をし続けることで、社会や他者とつながり、小さな自信と生き甲斐を得ている人がいることを、ホリエモンはまったくわかっていない。
 そして、そういう人が “クズ" の烙印を押されて働く機会を奪われたら、いったいどんな絶望に陥るかも、一切考慮していない。

・・・世界とは、ホリエモンが考えているよりもはるかに複雑で不確実で、多様な可能性をはらんでいるものなのだ。個人の実存や感情も想像以上に大きな作用を社会にもたらす。・・・ ホリエモンが言うような単純な図式に無理矢理であてはめても、なんの問題解決につながらないことは、ちょっと考えればわかることだろう。
 ・・・世界の複雑さを受け入れられずに、ものごとを単純化しないと説明できない。そして、教養のなさをカバーするために、やたら『経済効率』だのなんだのというリバタリアン経営者的言葉をふりまく」

・・・と。

 すみません、ホリエモンと一緒に並んで立たされて、宮島氏に叱られているような気がいたします。

04 引用の最後に、内田樹氏に睨まれるのを覚悟で、アダム・スミスの言葉を呼び出してきます。

 アダム・スミスが終生の主著と考え、1759年36歳での初版後、1790年(寛政2年)に67歳で亡くなるまで、40年にわたり増補改訂を続けた『道徳感情論』( The Theory of Moral Sentiments )において、彼はきわめて美しい感動的な文章で、相互的同感( mutual Sympathy )のあり方、方法について語っています。

Every faculty in one man is the measure by which he judges of the like faculty in another. I judge of your sight by my sight, of your ear by my ear, of your reason by my reason, of your resentment by my resentment, of your love by my love. I neither have, nor can have, any other way of judging about them.

「ある人のすべて能力は、それぞれ他人における類似の能力について、かれが判断するさいの尺度である。
 私はあなたの視覚を、私の視覚によって、あなたの聴覚を私の聴覚によって、あなたの理性を私の理性によって、あなたの憤慨を私の憤慨によって、あなたの愛情を私の愛情によって、判断する。
 私は、それらについて判断するのに、なにもほかの方法はもたないし、またもちえないのである」(水田洋 訳、 アダム・スミス『道徳感情論』岩波文庫、2003年;上巻p50)

 ちなみに、水田洋氏によればかの『国富論』(「 An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations 」勝手な和訳をしますと『国民の豊かさについての考察』)は『道徳感情論』としてのこるアダム・スミスの哲学講義の副産物であったとのことです。

 産業革命前夜に書かれた、『国富論』は、働く人々、とりわけ同書のなかで繰り返し出てくる「 下層賃金労働者(@水田洋氏)、 labouring poor 」に対する共感と同情で充ちています。
 なお、labouring poor という言葉はアダム・スミス以降の古典派経済学では消失したとのことです。20世紀の初頭の米国において、社会学者、社会運動家によって working poverty, working poor として復活するまでは。

アダム・スミスの働く人々への共感はたとえば:

「さまざまな種類の使用人、労働者、職人は、すべての巨大な政治社会の圧倒的大部分を構成している。
 ・・・どんな社会も、その成員の圧倒的大部分が貧しくみじめであるとき、その社会が隆盛で幸福であろうはずはけっしてない」(大河内一男 監訳、アダム・スミス『国富論』岩波文庫、1978年;第1巻p133 )

Servants, labourers and workmen of different kinds, make up the far greater part of every great political society. ・・・ No society can surely be flourishing and happy, of which the far greater part of the members are poor and miserable.

・・・と、いう言葉にあらわれています。

 これに対して、アダム・スミスの「資本家」たちに対する冷ややかで突き放した、じつに皮肉に充ちた視線を、かの「見えざる手」に言及した有名な部分においてすら感じます。
 この有名な「見えざる手」論において、アダム・スミスにとって重要なのはあくまで社会の利益であり資本家の利益追求の自由ではなかったことが示されていると思います。
 彼は労働者を低賃金で酷使する資本家の利己心・利益追求に対して共感のひとかけらすら持っておらず、むしろそれを軽蔑していたことをうかがい知ることができます。

 すみません以上の、もったいぶった「糾弾敵視vs.止揚同感」論の最後に、きのう8月28日、金曜日のSEALDs国会前抗議に福岡からやって来た西南学院大学3年の後藤宏基さんのスピーチから引用することをお許しください。「絆」= 共感、rapport 論であると。

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/260302

「・・・戦争を起こして何になりますか。誰が得をしますか。僕ら国民には犠牲しかもたらしません!
 そんなに中国が戦争を仕掛けてくるというのであれば、そんなに韓国と外交がうまくいかないのであれば、アジアの玄関口に住む僕が、韓国人や中国人と話して、遊んで、酒を飲み交わし、もっともっと仲良くなってやります。
 僕自身が抑止力になってやります。抑止力に武力なんて必要ない。絆が抑止力なんだって証明してやります・・・」

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