代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

靖国神社は長州神社 

2013年12月28日 | 長州史観から日本を取り戻す
 アメリカを敵にしてまで靖国参拝を強行するとは見上げた度胸ではないか ―素直にそう思った。従米ポチ政権だからアメリカの意に反することはしないのだろうと思っていたが、宗主国を怒らせてでも、自らの政治信念を貫くとはなかなかできないことだと思う。感心した。今回の参拝強行でアメリカが「安倍降ろし」に動いた場合、私は「安倍首相を守れ」と叫ぶかも知れない。米国の胸先三寸で日本の首相のクビをコロコロすげ替えられるのは、心底嫌悪感を抱くからである。

 その上で、安倍内閣は、アメリカに倒閣されるのではなく、国民の力で倒そう。

 首相の靖国参拝は、アメリカや中国や韓国に言われるから止めるのではなく、国民の力で止めさせよう。

 靖国問題に関しては、8年前にこのブログに以下のような記事を書いた。それ以来、私の考えは全く変わっていない。

http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/c605fac2fa7fe44d46968c9fcb007de5

 最近、『月刊日本』(2013年9月号)誌上で、亀井静香さんが似たような考えをもって下さっているのを知って大変にうれしく思った。『月刊日本』は、子宮頸がんワクチンの接種中止のためにも先頭に立って取り組んでいて本当にすばらしい。日本の保守雑誌など大抵その実態は売国雑誌だが、『月刊日本』は真の保守雑誌だと思う。応援したい。
 以下、亀井さんの発言を引用する。

***『月刊日本』のサイトより引用開始****

http://gekkan-nippon.com/?p=5482

靖国神社は長州神社 by 亀井静香

 明治維新以来の日本政治の問題点が、靖国神社の歴史に凝縮されている。(中略)
 靖国神社には戊辰戦争で賊軍とされた会津藩はじめ奥羽列藩同盟の人々や彰義隊、西南の役を戦った西郷隆盛などは祀られていない。勝てば官軍、負ければ賊軍だが、結果はどうであれ、どちらも国を想う尊皇の心ゆえに戦ったことに変わりはない。大御心に照らせば、敵味方に関係なく、国を想う、尊皇の心を持ち、命を落としていった人々はすべてお祀りするべきだ。結局、靖国神社は明治新政府内の権力闘争をそのまま反映した施設になっている。つまり、官軍である長州藩中心の慰霊施設、いわば長州神社というべきものだ。

***引用終わり***

 私の考えを再度、箇条書きにしておく。

*日本人の伝統的宗教観では敵味方の区別なく亡くなれば等しく仏として祀る。

*北条時宗が創建した鎌倉の円覚寺は元寇の戦死者の慰霊施設であるが、日本軍とモンゴル軍の戦没者の双方を祀っている。これが本来の日本人の宗教観である。

*靖国神社には戊辰戦争時の奥羽越列藩同盟や彰義隊や新選組や、西南戦争時の薩摩軍の戦死者は祀られていない。

*クーデターで政権を奪取した長薩軍が、自分たちに逆らうものは「賊」なのだという強迫観念を日本人にあまねく植えつけるために創建した、日本人の伝統的宗教観に反する施設が靖国神社である。

*日本人の伝統的宗教観にのっとるのであれば、敵と味方の区別なく、軍人と民間人との区別なく、太平洋戦争の全ての戦没者を慰霊し追悼する無宗教の施設を千鳥ヶ淵にでも創るべきである。首相はそこで戦没者の慰霊をすべきである。

 私はこれまでもたびたび薩長中心主義史観を問題にし、薩長藩閥政権が詐欺的手法でつくり上げた日本の官僚独裁政治システムこそが問題の根源なのであると訴えてきた。この病理を改革する唯一の方法は明治維新の逆、つまり廃県置藩を断行することである。

 

最新の画像もっと見る

8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
(ちょっと変化球)会津人、田中清玄が喝破した靖国神社の正体 (薩長公英陰謀論者)
2014-03-11 00:39:57
 
 関さん、思い出して、これは御記事のサポート資料に。愛読した『田中清玄自伝』(インタビュー=大須賀瑞夫、ちくま文庫、2008年;P320-321。原本は文藝春秋社、1993年)から:

 ー 田中(清玄)さんは靖国神社へお参りしたことはないのですか。

 ありましたよ。1946年か、敗戦直後のことだった。・・・若い神官が出てきて「ここは靖国神社である。数珠を持ってお参りするのはけしからん。神道の形式をもって礼拝せよ」なんと言いやがった。・・・こんな程度だ。・・・神道はほんらいそんな狭隘なものでは、まったくありません。

 ・・・靖国神社というのは、・・・いうなれば「官軍」の護国神社のような存在ですよ。それを大村益次郎が東京・九段に勧請し、一般の神社が内務省管理下にあったのとは違い、陸軍省や海軍省が管理していた。したがって「官軍」の守り神にすぎないものを、全国民に拝ませているようなものなんだ。

 ・・・

 すみません。「本物の右翼」を自認する田中清玄の語った言葉なので。
返信する
ワタンさま ()
2014-02-23 21:23:17
>島津義弘が高野山に建立した「日本高麗戦没者慰霊碑」も日朝の戦士者を祭つたものでしたね。

 この事実存じませんでした。ご教示くださいまして感謝申し上げます。
 いまいちど日本の伝統的宗教観に立ち返り、戦死者をまつる方法をあらためていかねばならないと思います。
 
返信する
死者をまつる (ワタン)
2014-02-23 15:31:27
>*日本人の伝統的宗教観では敵味方の区別なく亡くなれば等しく仏として祀る。
>*北条時宗が創建した鎌倉の円覚寺は元寇の戦死者の慰霊施設であるが、日本軍とモンゴル軍の戦没者の双方を祀っている。これが本来の日本人の宗教観である。

島津義弘が高野山に建立した「日本高麗戦没者慰霊碑」も日朝の戦士者を祭つたものでしたね。

>*靖国神社には戊辰戦争時の奥羽越列藩同盟や彰義隊や新選組や、西南戦争時の薩摩軍の戦死者は祀られていない。

横田めぐみさん拉致現場にちかい新潟の護国神社、その境内に、敵「官軍」の死者の墓もあります。なかに十六歳の薩摩人の墓がありました。わが祖父は十六歳で西郷にしたがひ、我家は「賊軍」ですから、東北の人のこころやさしさを思はずにはゐられません。

「薩長」ではなく「長薩」といふ表記、すべからくかうあるべきと好感をもちます。
返信する
長州史観の無思想性について (薩長公英陰謀論)
2014-02-16 01:53:20

 薩長明治維新政権がその無思想性を埋めるために、富国強兵という外在的なものとあわせて、国民に内在させ内面を形成するものとして、最高額の日本銀行券の肖像となった福沢諭吉がそれを体現しているのでしょうが、「出世主義」を国民的思想としたことが在野の思想家である関曠野の指摘にあります。

 坂の上の雲を目指しつづける「個人の出世」と「国家の出世」という出世主義イデオロギーによって庶民を洗脳し、一揆になってあらわれる民衆の自治の伝統を破壊したと(「百姓一揆と出世主義革命」(2003年、http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4041/seki/0307.html )。

 して、目の前の現政権に極端に体現されている支配の無思想性を埋めているものは何なのでしょうか。「民族間近親憎悪」=お得意お家芸の「攘夷」はともかく、おそらく「成長」?!・・・えぇ、理想を失って腐朽した支配に常套のこととして「パンとサーカス」かと思いましたら、「パン」=成長は庶民には縁遠い「1%の繁栄」となって(1%どころではなく、小数点以下はるかに・・・だと思いますが)、なんとサーカス(ソチ、そしてトーキョー)だけになってしまいましたね。

 「列強による植民地化の危機」から列島を守ったと主張する薩長維新政府こそが、じつは自国民を植民地現住民として扱ったというのは、関曠野氏の鋭い知見による指摘だったと思います。が、それはなお連綿としてつづき、2011年3月11日大震災&フクシマ以降、「私らは侮辱のなかに生きている」という状況にあるのは、若き白井聡さんがこの言葉を引いて、この国の権力構造は「国民の生命と安全を守る」ということに基本的に関心がない「侮辱の体制」であると指弾されているとおりだと思います( http://www.alter-magazine.jp/index.php?永続敗戦論からの展望%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80白井%E3%80%80聡 )。

 いわゆる「幕末」における政体構想、あのOHP的な「船中八策」や公儀目付、西周の「議題草案」の別紙を横目で見ますと、功利主義的な(よい意味で)制度論の提案で、その基礎にある思想が浮き彫りにされているわけではないように思います。

 ただし、松平伊賀守忠固家臣、赤松小三郎の提案には「人才御教育の儀、御国是の基本かと存じ奉り候」「国中の人民、平等に御撫育相成り、人々その性に準じて、充分を尽くさせ候事」という、政治思想と一体化した人間に対するあたたかい気持ちがおのずからあふれ出した部分があって思わず感動してしまいます。

 精神の躍動を感じさせる赤松小三郎の政体構想から生きた思想を脱いて、メカニカルなノウハウ・アイディアにしたのが「船中八策」ではないのかと思えます。

 もしも赤松小三郎に充分な時間と、そのようなモチベーションがあれば、ヘーゲルのそれを質においてしのぐようなオリジナルな国家論(哲学)をつくりあげたのではないかと想像します。

 薩長がオリジナルな政治理念にもとづく政権構想を持って権力を奪取したわけではないことを司馬遼太郎は「明治維新の無思想性」と言ったのだろうと思いますが、政治とは権力の確保のための権謀術数という政局主義、経済とは利権利益の確保というコーポラティズムが、明治維新以来目の前の現在にいたるまで一貫して続いているのではないでしょうか。

 関さん、長州史観はおそらく無思想であるがゆえに撃っても撃ってもへこたれないかもしれません。「日本を取り戻す」ためには、うまく言えませんが、思想をよみがえらせ、つくりだし、若い人々の心に火をつける必要があるのではないかと思います。関さんに心からそれを期待しています。
返信する
つらい施設ですね ()
2014-01-07 23:29:57
 あけましておめでとうございます。
 長らくブログを放置して、すっかりご無沙汰してしまい、すいませんでした。

 なるほど。「招魂」という言葉にはそういう意味があったのですか。しかし死んでからも魂をずーっと縛りつけて自分たちのために働け、というのは何とも戦死者に対してもつらい仕打ちですね。

 死んでもまた生まれ変わりたいと考える仏教徒や、天国に召されたいと考えるキリスト教徒にとってもつらい施設です。

 私の祖父もあの神社の名簿に名前はのっていますが、祖父の魂は当然そこにはないと考えてますので、私は参拝しません。魂は自由にしてあげたいものです。

 とくに、名簿に載っている人々の大多数は戦死でもなく、国が兵站補給を怠ったために餓死した人々ですから・・・・。
返信する
「招魂社」 (りくにす)
2014-01-07 06:26:15
靖国神社がもともと招魂社と呼ばれていたことは存じていたのですが、このエントリを見るまでその意味がわかりませんでした。普通の「慰霊」施設だと解釈していたのです。
間違っているかもしれませんが、「招魂」という言葉からは、口寄せとか、恐山とか、落語の『反魂香』とかを連想します。もっと言えば、死者の霊に自分たちのために働けといっているようなもので、だから敵を加えるわけにはいかなかったのでしょう。(「鎮魂」と「招魂」は違う、という発想はあるブログで知ったもので、オリジナルではありません)
招魂社の建設者は亡き同志の魂には接していたいと願いながら、祟られるという発想はなかったといえるのかもしれません。
そういう施設があってもいいかもしれませんが、国家の物にすべきではない。私的施設が妥当だと思います。
返信する
祟られて今日の日本に至った ()
2013-12-28 14:17:10
 「祟りを畏れる」というのも重要な宗教観念ですね。長州藩が死者への畏怖心を軽視した新興宗教の神社を創ってしまったことによって、その後の日本は祟られ続けているのではないでしょうか。太平洋戦争の敗戦しかり、それから今日の惨状しかり・・・・。
 明治維新の誤りをただし、靖国問題をどうにかしないことには、日本は祟りから解放されないように思えます。 
返信する
祟られないために (たんさいぼう影の会長)
2013-12-28 08:39:18
せっかくの良い記事に下らないコメントをつけますが、日本人が死者を神社に祀るもう1つの理由に「祟られないため」というのがあったのではないでしょうか。
賊軍や敵軍の側の戦没者も丁重に祀らないと、祟られちゃうぞ。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。