代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

立場ごとにそれぞれの歴史がある

2006年08月24日 | 歴史
 あまりこのブログの本来の趣旨とは関係ないのですが、私の趣味に関連した話題を一つ提供します。私の趣味の一つに「山城めぐり」があります。城郭ファンの方は全国に多いと思いますが、私の場合近世城郭にはあまり興味がなく、山の中に埋もれた中世の山岳城郭に非常に興味があります。ちょくちょく一人で山城に出かけては歴史の感傷に浸ってくるというのが、ささやかな趣味となっています。本日は、昨日訪れた小山田氏の居城である岩殿城(山梨県大月市)についての話題を提供します。
 昨日、溜まっていた仕事に一区切りついたので、リフレッシュがてら、以前から行きたかった史跡を二つ回ってきました。まず甲斐の武田家滅亡の地である天目山の景徳院(山梨県大和村)に参拝し、ついで岩殿城に登ってきました。両方ともJR中央線の最寄り駅から徒歩で行ってきました。

 景徳院は、1582年に武田勝頼とその夫人、息子の信勝、そして家臣たちが集団自決して武田家が滅亡した地にあります。武田と織田が相次いで滅亡する中で、新しく甲斐の領主となった徳川家康が、かってのライバルであった勝頼を弔うために建立した寺院です。境内に勝頼と夫人、息子の信勝そして最後まで従った家臣らのお墓があります。徳川家康は、戦国最強と言われた武田家の遺臣たちを大量に召抱え、甲州流軍法も採用したので、旧武田家臣たちの機嫌を損ねまいと、勝頼に最大限の敬意を払ったのです。
 
 景徳院に参拝した後、難攻不落の「武田領三名城の一つ」と評される岩殿城を見てきました(ちなみに武田三名城のあとの二つは駿河の久能山城と、真田昌幸の居城・岩櫃城です)。
 じつはこの岩殿城こそ、自決した武田勝頼が向かっていた目的地でした。勝頼は、家臣の小山田信茂の居城である岩殿城に篭城して、織田・徳川連合軍と最後の一戦をしようとしていたのでした。ところが小山田信茂は主君を裏切って勝頼の入城を拒んだので、勝頼一行はやむなく彷徨してついに天目山で自決に至ったのでした。信茂自身は勝頼の死の2週間後に織田軍に捕らえられて処刑され、小山田家も武田家を追って滅亡するのです。

 というわけで小山田信茂というと「主君を裏切った謀反人」という「悪い」イメージで語られることが多いです。
 地元の人々は小山田信茂をどう評価しているだろうかと気になるところです。やはり「主君を裏切った人物」という評価なのでしょうか? これが気になるところでした。

 岩殿城の山腹に資料館があり、そこの展示に興味深いことが書かれていました。小山田信茂に関して、一般的な評価とはまったく異なる説明がされていたのです。「信茂は、自分の命と引き換えに、小山田領を戦火から救った名君」という評価でした。

 それは概略以下のような理由でした。
 もし武田勝頼を岩殿城に迎えていたら、10万を超える織田・徳川の大軍に城下は囲まれ、領民は住む家を追われ、戦火に巻き込まれて多くの命が失われただろう。しかし、小山田信茂は、勝頼の入城を拒み、篭城戦を回避して、自分が処刑されるのと引き換えに、領民を戦火から救った。事実、織田軍は武田領内で快川和尚の恵林寺をはじめ、多くの寺社仏閣を焼き討ちするなど残虐行為を行ったが、小山田領内は、信茂が投降して処刑されたことにより、戦火には巻き込まれず、領内の寺社が破壊されることもなかった。

 その説明文を読んで、「なるほど。こういう見方もできるのか。地元には地元の歴史観があるんだなあ」と感心してしまいました。

 確かに岩殿城は天然の要害であり、力攻めでは簡単には落ちそうにはありません。勝頼の都合から見れば、岩殿城を頼ったのも分かります。しかし織田・徳川連合軍に包囲されて兵糧攻めにでもあえば、さしもの岩殿城も凄惨な落城を迎えるのは明らかなことだったでしょう。一般の領民から見れば迷惑千万な話しです。領主としての信茂が戦火が及ぶのを回避することを最優先に考えていたのだとすれば、それは立派な決断だったと思います。

 「主君に最後まで忠誠を尽くすのが良い家臣だ」という「イエ」中心的な道徳律(あるいは朱子学的価値観?)から見れば小山田信茂の行動は批判されなければならないでしょう。しかし、「領内の平和と繁栄のために勤めるのが良い領主だ」という「領民」中心的な道徳律(=「民>君」と考える孟子的な価値観)に立てば、信茂の行動は賞賛されるべきものでしょう。孟子的価値観に立てば、仁政を行わなかった武田勝頼は「君主失格」ということになるでしょうから。
 
 私は武田勝頼の墓参りの帰途に、「武田正統史観」とは別の見方を岩殿城跡で学習し、何事も一つの歴史観に依存して一面的もモノゴトを見てはダメなのだなあ、とあらためて感慨にふけったのでした。
 
 「新しい歴史教科書を作る会」的な歴史観を持つ人々に必要なのは、「別の視点」も尊重して歴史を多面的に見ようとすることでしょう。もちろんそれはマルクス的唯物史観に毒された人々にも言えることです……。


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8 コメント

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この十万の・・ (じゅん)
2006-08-25 20:52:04
信長公紀からなのでしょうか?どうでも良いことなのですが、こうした歴史上の動員数にはかなりの誇張があるように思うのです。千早城攻めの百万余とか。

 これを、地形、人の移動速度、当時の生産力、そうしたものから、推計して記述との比例関係を導き、その時代的変化を導く、そこから歴史叙述が、どのような観念で時代ごとに変化したのか、そうしたことが考えられはしないだろうか?数理歴史学とする概念があって、土地生産力から人工を推計する、そうした試みがあるようですが、あらゆる文字記録をDatabase化してゆくと、その解析から従前とは違う歴史が描けは・・

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じゅん様 ()
2006-08-26 10:14:50
 「10万」という数字のそもそもの出所は分かりません。確かに、あまりにも膨大な数なので兵糧は足りたのだろうか?とか気になりますね。

 でも秀吉は小田原攻めで20万を実際に動員していますから、織田の財力でも10万は可能だったのかも知れませんね。それに、10万の中には、武田を早くから裏切っていた木曽とか穴山の兵も含まれていますので・・・・。



 ネットで調べると、wikipediaの織田信長の項目は「10万余」とする説を採用しています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
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教育現場で (cru)
2006-08-26 18:57:32
「立場ごとにそれぞれの歴史がある」ことを歴史の授業を通して教えられれば最高なんですけどね。



「作る会」とか韓国の国定教科書が意図してるのはまさしく一つの歴史観ないしイデオロギーから作られた「歴史物語」を子供達に吹き込むことに思えます。



他の日本の教科書も大同小異ですけどね。李舜臣を「英雄」と書いちゃう時点で東郷平八郎に言及しないことの意味を無効にしてしまう。



それで、東郷提督を知らずに育った子供がネットで日露戦争を称揚してるサイトに出会えば「日本にも偉大な英雄がいたじゃないか」となってネット右翼が増殖する…。左翼史観がネット右翼を育ててたんじゃないか――などと思うこともあります。



私が高校のとき習った世界史の先生の授業は面白かったな。

さまざまな歴史的事象の相互関係を解きほぐしていく語りはエキサイティングでした。

といっても、私のクラスは「理数科」だったので、受験に関係ない連中は皆「内職」してましたが^^;

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cru様 ()
2006-08-27 01:13:46
 マルクスの唯物史観は「個人(英雄を含めた)」の役割を否定した歴史法則主義になって、歴史の勉強をつまらなくしてしまいました。その反動が「作る会史観」を生み出したという側面は濃厚にあると思います。



 私が大学に入りたての頃、周囲にはマルクス主義者がたくさんいましたが、「社会主義になるのは歴史の必然だ」と言われ、「なら運動なんかやらずとも寝てりゃあいいじゃん」と不満に思ったものです。

 私の場合、大学一年の頃に物理学者のイリヤ・プリゴジンの『混沌からの秩序』を読んで目からウロコが落ち、歴史法則主義を否定するようになりました。

 

 一方の「作る会」的な史観ですが、歴史は科学ではなく、物語りだ、国家の都合の良いように解釈して、国民に誇りを持たせるために、面白いストーリーを組み立てればよいのだ、みたいなことをいっちゃうのが大問題だと思います。



 私は、歴史は多分に偶然性に左右されるので法則なんかないと思っています。その点、歴史は科学ではない(少なくとも法則的ではないし、あるディシプリンで解釈可能なほど単純ではない)という点には同意しますが、だからといって「国家」の側の視点からのみで都合よく歴史を解釈するなんて言語道断な話しです。

 この点ではマルクスの方が、国家を構成する複数のアクターの相互作用性を総体的に把握しようとしているのではるかにまともな歴史の見方をしていると思います。(ただ「階級」を集団的な連続体として捉えすぎたのは問題だったと思います。そこから「逸脱」した個人の存在を軽視しました)。



 さて、韓国の国定教科書も「作る会史観」と似た側面はあると思います。

 でもまあ、植民地支配を経験した新興国というのは得てしてそうなりやすいものです(アジアの他の新興独立国も似たりよったりです)。日本だってホヤホヤの新興の統一国であった明治時代はそうでしたから・・・・。

 ですので、「若い国はあんなもんだ」と、こちらが寛容な態度で、長期的な視点で接していかねばならないのだと思います。私たちが「悪いお手本」を真似るというのは全くナンセンスな話しだと思います。

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Unknown (cru)
2006-08-27 01:38:09
ああ、左翼史観には「英雄」は不要でしたね。「労働英雄」はいるけど(冗談です)。



では、李舜臣を「英雄」と書いてしまう教科書執筆者が持っているのは判官びいきの「正義感」となりますか。



新興国のエスノセントリズムは結局はその国を害しているような気がします。かつての日本を連想するからかもしれませんが。

少なくとも「大日本帝国」のそれを模したような韓国の場合はそういう感じを強く受けます。

(アメリカのそれも未だに相当酷いもんだと思いますが)



そこに必要以上の寛容さを示すのは、お互いの利益にならないのではないかと。

特に併合時代を知らない人々が主役となっている今の時代にはかつてのルールは無効になっていると考えます。

暗黙のうちにお互い相手を理解していた時代はもう終わってますから。



唯物史観とかいうものは目的論的なナンセンスな代物だと思いますが、あるレンジを区切れば歴史に必然的な要素はあると思います。



例えば、中国の人口=経済規模を考えれば、人民元が東アジア~東南アジアにおいて、将来、明・清代以来のハードカレンシーの地位を「回復する」のは必然に思えます。

もちろん、偶発的な「事件」とか「失政」によって「必然」ではなくなる可能性があるわけですが。



人類社会はカオス的に振舞う予測不可能な現象でしょうし、アイザック・アシモフが「銀河帝国の興亡」というSF小説で描いた「心理歴史学」のような将来を予測する「科学」が成立するとは私も思いません^^



いずれ、"私たちが「悪いお手本」を真似るというのはナンセンスな話"ですね。

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cruさま ()
2006-08-27 23:58:55
>あるレンジを区切れば歴史に必然的な要素はあると

>思います。



 同意します。決定論的局面→ 不安定化 → 臨界状態 (この局面ではカオス、偶然性が支配)→ 新しい決定論的局面 の繰り返しだと思います。レンジを区切って、短いタイム・スパンに限ればかなり決定論的な予測も可能だと思います。



 その上で、現在の歴史段階は多分に偶然性に左右された臨界状態だと思います。



 この点、次のエントリーに加筆しましたので、ご笑覧ください。 
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面白い! (守田敏也)
2006-08-30 02:30:49
いやいや面白い!

似た話はたくさんありますね。

例えば琵琶湖のほとりの近江八幡市。豊臣秀次が町割りをして、後の近江商人の活躍の地となりました。戦闘のためではなく、商業活動を重視した城下の建設が行われたのです。

その秀次は、一時期、秀吉の後継者だったものの、淀君が秀頼を生んでから、自暴自棄になって乱心し、やがて秀吉の怒りを買って切腹させられたたとされています。ところが地元、近江八幡にいくと、いまだに名君との名が高い。町づくりへの感謝が絶えません。



ちなみにその秀次が参考にしたのが、信長の建てた安土城でした。今その城址に行くと、大変立派な石垣が、安土山頂上、天守閣跡地まで続いていて荘厳です。石垣だけ残っていることが帰って往時を忍ばせます。機会があればぜひ一度ご覧下さい・・・。
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守田様 ()
2006-08-31 00:30:39
 さっそくの書き込みありがとうございました。

 秀次の実像に関しては、相当に後世に誤解されていそうですね。

 

 安土城は城郭ファンにとっては垂涎ものなので、私ももちろん訪れております。

 滋賀県だと、やはり悲劇的な落城を遂げた浅井長政の小谷城は感じるところが大きいです。私は学生時代、襟を正して、鎮魂の思いを込めて登山したものでした。

 滋賀県だと、行きたくてまだ行けていないのが六角氏の観音寺城です。

 
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