代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

社会的共通資本とは何か

2014年11月28日 | 新古典派経済学批判
 薩長公英陰謀論者さんから「社会的共通資本」の概念に関して、詳細なコメントをいただきました。主要部分を再掲させていただきます。水色の字が薩長公英さんの文章で白字が私のコメントです。


***以下引用****

http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/09c65c929f6afdd22b4d2941e50c45ff

☆ 「社会的共通資本」論を引き続いて寄せることをご容赦ください。(その1/2) (薩長公英陰謀論者)2014-11-22 23:38:50

関良基さま:


 関さんが記事中に引用しておられる岩井克人氏の日本経済新聞2014年09月29日掲載寄稿のなかに、宇沢先生に関して「社会主義に陥らずにいかに社会的共通資本を維持し発展させていくかに関して、先生自身、理論的な解答を見いだせていなかったのです」とあり、それに続けて「ただ、私はすぐに、先生自身も社会的共通資本という概念自体には新しさがないことを百も承知であることを知ります。先生は学界の中での認知ではなく、市民をいかに動かすかという社会的な実践を選び取っていたのです。『冷徹な頭脳』を『暖かい心』に仕えさせることにしたのです。晩年の先生が経済学の中に『人間の心』を持ち込むことを提唱し始めたのは、その自然な帰結であったのです」と、宇沢先生に対する岩井氏の思いが述べられていることに、ずっと腕組みをしていました。

 岩井氏はこれに先立って「宇沢先生は新古典派経済学からの脱却を試みていたのです。しかし、先生の分析手法は基本的に新古典派の枠組みを出ることはありません。先生は自らの分析手法と、正義感に基づく自由放任主義批判ー冷徹な頭脳と暖かい心ーの間のギャップに長らく葛藤していたのだと思います。その葛藤の切れ切れを、私は酒場でのお話の中から漏れ聞いたのです」と述べています。

 関さんが引用しておられる「社会的共通資本とは、自然環境やインフラや社会制度の総称でしかない。ストックとしての公共財と言い換えてもよい」という理解が岩井氏の躓きの石になって、自由放任思想にもとづく新古典派経済学の数理的理論、つまり<冷たい理論>である市場原理主義から、正義感による<暖かい心>への脱却しようとした宇沢先生のこころみの「理論的失敗の遺産」として社会的共有資本を葬ってしまう、ということになったのであろうと思います。

 まさか岩井氏が社会的共通資本という宇沢先生の考えを否定するために日経に追悼文を寄せたとは思えませんが、意図せず、結果としてそうなっているのは、岩井氏自身の問題が背景にあるからであろうと思います。

 岩井氏は「貨幣は皆がそれを貨幣と思うから貨幣なのだ」という、<盲目的循環論による存在である貨幣>によって資本主義が成立していることが、その<絶対的な不安定性>を宿命づけ、資本主義がもたらす社会の激しい歪みの本質的な原因であると考えているのだと思います。そして、この歪みから社会を救うために「市民主義」という倫理的な契機をもったものが必要であると主張しています(参照;『資本主義から市民主義へ』新書館、2006年)。

 しかし岩井氏の「市民主義」はそれ自体理論的な構造・内容を持ったものではなく、結局「市民主義」とは実質的に資本主義を補完し、その破綻を取り繕うものとなっており、著書名『資本主義から市民主義へ』とは羊頭狗肉と言わざるを得ないように思います。

 岩井氏のこの自己矛盾の自覚と、追い討ちをかけるようですが、宇沢先生のような「熱い心と正義感」で実際に動くことができないことへの焦慮から「社会的共通資本」をアプリシエートすることができないままに宇沢先生を追悼することになり、関さんが真っ向から批判せざるを得ないような社会的共通資本認識と論の運びになったのではないかと推察します。

 さらにその底には、岩井氏の有名な貨幣と資本主義の定義が、雑駁なブランディングとなることを承知で率直に言って、氏の思想上のニヒリズムから生まれた抽象論・観念論であり、これは宇沢先生の次のような言葉に現れた前向きで明るい精神性と対照的であるように見えます。その意味で、岩井克人氏の思想上の悲劇に対して瞑目せざるを得ません。

 宇沢先生は日本医師会での講演で、きわめて率直に次のように話されています。「・・その過程で、経済学は社会の病を癒す学問ではなくて、逆に社会に病を作っている学問になってしまったということをつくづく感じました。そこで、経済学を何とかして社会の病を癒す学問に変えたいと思っていろいろなことを考え始め、だいぶあとになって『社会的共通資本』という形でまとめたわけです。しかし、まだ社会的共通資本の中身ははっきりしていません。ただ、人間が人間として生きていくために大切なものとか制度、それを社会共通の財産として大事に守り、そして次の世代に伝えていく。一人ひとりにとって大切なものと同時に、社会にとっても大切なものを、皆で支えていく。・・」と( URL が入力を拒否されましたので、宇沢弘文/社会的共通資本で検索して、PDF ファイルをご覧ください )。

 さて、つい最近「今だけ、カネだけ、自分だけ、3だけ主義の克服と新しい日本」(URL が入力を拒否されましたので、3だけ主義で検索してご覧ください)という記事で「3だけ主義」という言葉を知りました。最近は政治と経済の偉いさんに3だけ主義者が目立って多くなり、そのもとの根は経済学にいう「合理的な経済人」にあるということが述べられています。

 思いますに社会的共通資本とは「今だけ、カネだけ、自分だけ」という<3だけ主義>にゆだねることができないもの、であると考えればよいのではないでしょうか。

 そう考えると、何が社会的共通資本に該当するのか、それをどう運用し構築するか、ということは、まさに関さんがおっしゃるように、その社会の発展段階や特性特質によるものであり、それを理論的に一義的に規定したり、官僚的に集権的一律的に管理したり、ましてやそこに「グローバル・スタンダード」や自由貿易TPPなどを持ち出すべきものではないだろうと、素直に腑に落ちる気がします。


***引用終わり*******

★社会的共通資本は人間の社会的な働きかけによって不断に進化する

>思いますに社会的共通資本とは「今だけ、カネだけ、自分だけ」という<3だけ主義>にゆだねることができないもの、であると考えればよいのではないでしょうか。

 そう考えてもよいかも知れません。
 宇沢先生は「社会的共通資本とは何か、定義したくない」と繰り返し述べておられました。何が社会的共通資本として管理されるのかは、特定の地域、特定の自然条件、特定の歴史段階の中でそれぞれ異なるもので、文化の違いによっても、何が社会的共通資本になるか、ならないのかは変わってくるからです。「これが社会的共通資本である」と定義をした時点で、その後の社会的共通資本の概念的な発展の可能性を閉ざしてしまうことになります。社会の発展段階とその時々の経済状態によっても、何が社会的共通資本かは変化するものだと思います。

 たとえば、サッチャーはイギリス人にとっての社会的共通資本であった国鉄や水道などを片端から民営化しました。しかし、イングランドでは水道は民営化されても、人々の抵抗が強かったスコットランドでは民営化されませんでした。民営化されてしまったイングランドでも、いまや水道を再び公営化してほしいという声が高まっているようです。つまり、その時々の社会状況と人々の働きかけによって、社会的共通資本にならなかったり、またなったり、変化します。

 ボリビアでも、90年代末にIMFと世銀の内政干渉によって水道はアメリカ資本に売却され、民営化されました。しかし人々の闘いによって、再び公営化され、そしてついに前に紹介した2009年のボリビア新憲法において、憲法の目的を「人々が安らかに生きることを追及すること」と規定し、そのために「すべての人びとが水、労働、教育、医療、住宅の取得を共有すること」と規定しました。これはまさに闘いの中で、水や教育、医療、住宅を「社会的共通資本」として、人々がアクセスできる権利が保障されることが憲法に明記された例です。

 
 現在ある社会的共通資本のネットワークは、過去における人々の活動の累積的な作用として形成されてきたのであり、明日の社会的共通資本のあり方は、今日の人々の活動によって決められていくものです。今度、宇沢先生と私の編著で出す予定の『社会的共通資本としての森』(東京大学出版会)に、その辺も詳しく書かれていますので、よろしければご参照ください。

 
★TPPのラチェット条項は社会的共通資本を解体する

>それを理論的に一義的に規定したり、官僚的に集権的一律的に管理したり、ましてやそこに「グローバル・スタンダード」や自由貿易TPPなどを持ち出すべきものではないだろう

 TPPで何よりも許せないのは、「民営化や自由化など」いちど決めた取り決めに関して、再公営化など逆方向への変化をさせることはできないというラチェット条項が含まれていることです。これは水道を再公営化したボリビアなどラテンアメリカ諸国の経験から、アメリカのロビイストたちが未然に防ごうとした露骨な内容です。

 人間活動による制度の進化の可能性を閉ざすものであり、民主主義も社会発展もすべてを否定するものです。将来世代が、その条項を拒否したときに、それを覆す権利が認められないというのですから!! 
 
 これほど人間の尊厳を冒涜した話しがあるでしょうか。変化を拒絶し、大資本による人間の隷属を永続化させようとする原理主義の極限的な姿であるといえるでしょう。ラチェット条項は明確に違憲です。
 



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2 コメント

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とどのつまりは、「歴史からの教訓が活かされていない」ということでしょう。 (12434)
2014-11-28 22:31:39
グローバリゼーションはけっきょくグローバリズム(世界覇権主義)から進んでいくものです。19世紀から20世紀初頭は、イギリスをはじめとする西欧列強がアジアやアフリカ諸国は植民地化されました。
その当時の覇権国家だったイギリスが掲げたのが自由貿易です。このイデオロギーをインドをはじめとするアジア諸国等に押し付けて、産業の構造を自国に都合良く改変させていいように収奪していったのです。
未だに発展途上国には日常食不足の問題がありますが、まちがいなくこれも原因です。

TPPなどの最近の貿易協定もアメリカがそうした覇権主義によって、日本をはじめとする他国を食い物にする結果になってもおかしくないです。こういうと、「今は21世紀なんだからそんなことはないだろう」と思う人もいるでしょうけど、人間の本質的な部分はそう簡単には変わりません。これを理解しなければ、悲劇は何度でも繰り返されるでしょう。

「今だけ、カネだけ、自分だけ」というのはある意味人間の本性です。人間の多くはおいしい話には弱いもので、他人が不幸になっても甘い汁を吸いたいと思う部分が少なからずあります。お釈迦様のように生きられる人は極わずかなんです。だから現在でも貿易協定が悪用されて、世界中で不幸を産み出すのは非現実ではないでしょう。

そう考えると、営利主義を外した社会的共通資本は、そういう人間の弱さに着目して、資本主義の暴走を抑制するための装置の一つともいえるかもしれません。
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<練ることができないままの独白的投稿で失礼をいたします> 関さん、本記事とコメント、ありがとうございます。宇沢先生との共著『社会的共通資本としての森』を心待ちにしております。12434さま、重たいインパクトとなったご指摘をいただき、感謝しております。 (薩長公英陰謀論者)
2014-12-07 02:53:18

関良基さま:

 関さん、かの高名な岩井克人氏の日経「経済教室」寄稿における、敢えて言えば言葉のトーンを含めて、おざなりどころか露悪的にすら思える「社会的共通資本」観と、宇沢先生についての他の容喙を許さない個人的体験の「告白」を引き金にした、なにゆえか突き放したような感さえある叙述に目を瞠り心中動転して思わず書いてしまったものを本ウェブログ記事に取り上げていただき、さらに懇切なコメントによる論点の展開深化をおこなっていただいたことに心からお礼を申し上げます。 いただいたコメントを襟を正して読みました。

 その上でなお懲りずに言いつのるようですが、社会的共通資本のあり方、その「社会資本との重なり方」が、その社会の特性特質を如実にあらわすように思えます。ここで社会的共通資本とは「それが人々の利便に直接的にかつ隔てなく供されるがゆえに、その運営が特定の者の利益のためではなく人々全体の利益のためになされるべきもの」であり、社会資本とは「公金公債による投資によってできたもの。直接的には特定の受益者の便益のために供されるものをその一部に含む」と言うことで、必ずしもお互いに排他的に定義されるものではないと考えています。申しわけありません、宇沢先生の言葉に反して「社会的共通資本を定義」してしまっています <(_ _)>。

 これは例によって明治維新以来現在まで「水運→鉄道→道路、またダム→原発、といった社会資本投資によって私的資本セクターの発展が図られてきた」という日本の産業経済史を振り返ってのことで、また同時に、国鉄、電電公社、郵政の民営化に代表される、公共セクターを私的セクターに転換する「改革」を見聞体験して常々考えてきたことです。

 岩井氏に戻りますと、氏は「社会主義に陥らずにいかに社会的共通資本を維持し発展させていくかに関して、先生自身、理論的な解答を見いだせていなかったのです」という微妙な言い方で世の中の(すなわち日経の)お約束に言わば媚びて、宇沢先生への「批判」を自己のための免罪符にすり替えるようなことになっています(申しわけありません、失礼を承知で言いますと)。

 執拗に食い下がりますと、岩井氏は「社会的共通資本を維持し発展させようとすれば、得てして社会主義に陥る。そうならないための理論的解答はいまはないのだ」と考えているということになるわけです。その反面岩井氏が「社会的共通資本が私的資本セクターに移行されてゆくことは人々の平等な便益の享受の維持促進に逆行することになるのではないか、なぜそうならないと言えるのか」という問題を立てているのかどうかは明らかにされません・・・すみません、論議はここで止めて 『社会的共通資本としての森』(東京大学出版会)の上梓を待つことにいたします。

 なお、ご指摘のラチェット条項については、素直な法的感覚からして、合意にもとづいて成立するものである契約の変更が絶対的に禁じられるというのは異常な気がします。なぜ法学者はこのような強引で一方的な条項が、例えば民法において明示される「公序良俗」に反するもの、基本的な法理に反するものである(文字どおりトンデモである)という立論をしないのか気味の悪い思いがいたします。まさか、投資家(=米系多国籍企業)が弱い立場!にあるので、その既得権は保護するのが相当であると?

 さらにISD条項と組み合わされると、投資家という名の外国(米系)私企業が独立した国民国家(政府)を、世界銀行という米国主導の「国際調停機関」での審理に一方的に引っ張り出して賠償金を取ることができるというわけで、一外国(米系)私企業がその国民の国家に対する権利を蹂躙する(その国民が自分の国家に払った税金を収奪する)ものであるばかりか、実質的にその国の司法を超越して、立法・行政に直接に干渉することになります。

 このような「条約」は「不平等条約」どころか、日本全体を米系多国籍企業のための「経済特区」、早い話が「租界」にするものであると言えるのではないでしょうか。そこでは、その国民のための社会的共通資本は存在し得ないでしょうし、租界ゆえに日本国の憲法は存在しえません。

 おそらく、日本の社会をこのような方向に動かしてゆくために少数の特定の人たちが支配することを否応なく可能とする体制、すなわち「ファシズム」が成立しつつあるのかと思います。それをさらにハードなものにしようとして・・・りくにすさまが直前の記事へのコメントの終わりに言われているようなことになっているのではないでしょうか。

 ただし、それは少数の特定の人たちの力ずく(わる知恵ずく)によるものですから、多数者がまとまりさえすれば脆いと思います。が、むろん、そうはならないようにされているわけで・・・しかし、噴火ではなくとも蟻の穴から山は崩れます。蟻さんたちで頑張って小さな穴を無数に開けて、雨を待つ、ということになりますように。

12343さま:

 「今だけ、カネだけ、自分だけ」というのが「ある意味人間の本性」である、ということへの反論をと、ケインズは文字通り「敬遠」してヴェブレンをかじってみることを思い出し、繰り返し考えこころみましたが意気地なくイソップの狐を気取ることにします。「へたに反論するのはむしろ問題を本質からそらすことになる(たぶん)」(-_-) と。

 するととりあえずは・・・「今だけ、カネだけ、自分だけ」の典型的代表である原発再稼働論が「ある意味人間の本性」にもとづくものになって非常につらいことになるのですが。しかも、原発再稼働論はあろうことか「営利主義を外した(つまり実質的に採算度外視の)社会的共通資本としての原発」を主張しますから(「原発を稼働しなければ赤字になる」とだけしか言わない当事者の電力会社は除いて)。

 そこで少し論点をはずして、むかし繰り返して読んだ痕跡のある、キルケゴールの『死に至る病』のなかの、カネと自分とをあしらって語られた「絶望の形態論」というべき箇所の一部を援用させてください。

 ・・・こういうふうに自己自身を放棄する人は、まさにそのことによってかえって世間の取引をうまくやってのけるコツ、いな、世間で成功をかち取るコツを体得するにいたるからである。・・・彼は小石のようになめらかに擦り減らされており、現在流通する貨幣のように通りがいい。世間は彼を絶望していると見なすどころか人間はすべてかくあるべきものと考えるのである。『死に至る病』(斎藤信治訳、岩波クラシックス29,1983年;p54にもとづく)

 ・・・こういうふうに絶望している人間は、そのためにかえって具合よく(本来、絶望しておればおる程いよいよ具合がよいのである)世間の中で日を送り、人々から賞賛され、彼らの間に重きをなし、名誉ある位置につき、そしてこの世のあらゆる仕事にたずさわることができるのである。世間と呼ばれているものは、もしこういってよければ、いわば世間に身売りしているような人々からだけでできあがっているのである。『死に至る病』(斎藤信治訳、岩波クラシックス29,1983年;p55~56にもとづく)

 むろん、キルケゴールの言う絶望は「神の前に向かうことの断念」を意味しているのであろうと推察しますがそれは措いて、「今だけ、カネだけ、自分だけ」というのは、自己に対する絶望の一形態だと思えてなりません。

 くに全体をひとつの(経済的成長がすべてであり、そのために平等な個人の尊厳・基本的人権などは当然のように無視される)私企業として考えるという、究極の文字通り「コーポラティズム」がいま席巻するなかで、「成長(=成功)の哲学」の仮面の裏面は「絶望の哲学」であることを、繰り返して明らかにすることが重要ではないかと思います。代替案ならぬ観念論的逃避になりましたことをご容赦ください。
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