代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

続・山本覚馬と赤松小三郎

2013年01月06日 | 赤松小三郎
 新年あけましておめでとうございます。本年初投稿では政治の話はやめます。暗くなるので。

 大河ドラマ「八重の桜」が始まった。冒頭に南北戦争やリンカーンのゲティスバーグ演説がくるとは思わず、いきなり度胆を抜かれた。スタッフの方々の意気込みに敬意を表したい。
 アメリカは内戦の悲劇を超えて国家統合を果たしたというメッセージであったが、今のアメリカを見ると、南北戦争以来の分断の溝はますます深いようにも思える。
 日本でも、「維新」だの「八策」だの、明治維新を賛美する空気が政界で強いが、このドラマが「明治維新は本当に正しかったのか?」と問い直す契機になれば・・・と個人的には願う。やはり内戦なんてやるもんじゃない。末代まで禍根を残すのだ。

 個人的にうれしかったのは、これまでのドラマではあまり描かれていない佐久間象山の塾の様子が丁寧に描かれていたこと。象山塾は、後に戊辰戦争で敵味方に分かれる諸藩の人々が学んでいたわけで、本来、幕末維新を語る上で抜かせない。ここを丁寧に描いていることは好感が持てる。坂本龍馬も象山塾に入塾していたが「龍馬伝」では完全にスルーされていた。松陰の密航事件に象山も連座して閉塾となり、龍馬の象山塾での勉強はわずか三か月で終わってしまう。「龍馬伝」での松陰の登場のさせ方はかなり無理があったが、象山塾を描いていれば龍馬と松陰を無理なく会わせる設定も可能であったのだ。海舟と龍馬も、象山塾ですでに顔を合わせていたとしてもおかしくない。
 勝海舟と吉田松陰も象山塾つながりで少し交流があったはずだが、既存の幕末ドラマの中で二人の交流が描かれたことは見たことがなかった。象山塾を描くことで、通常はあまり意識されていない人間関係を描くことが可能になる。
 小栗旬は、お固い松陰の実像とはちょっと違う気もするが、まああれはあれで味があってよいのではなかろか。ちなみに、ドラマの中の山本覚馬は蘭学の素養が足りないと象山塾への入門を断られかけていたが、それなら吉田松陰などまっ先に入門できてないはず。松陰は、オランダ語と数学が全くできなかったので・・・・。
 
             ****

 話は変わる。以前、主人公・八重の兄である山本覚馬と赤松小三郎の交友関係を紹介したことがあった。その続きを書きたい。
 大河ドラマでも追って紹介されるであろう、山本覚馬が薩摩藩に提出した「管見」という意見書は、赤松小三郎の「御改正之一二端奉申上候口上書(御改正口上書)」と内容的に酷似している。それもそのはず。京都において、覚馬と小三郎の二人は民主的な議会政治を礎とする国家構想を共に語り合って、練り上げていたからだ。
 「八重の桜」ブームで山本覚馬にも注目が集まっているが、その関連書籍の中に、赤松小三郎の名は全く出てこないので、少し紹介させていただきたい。

 以下のサイトに幕末の会津藩士の列伝として評価の高い資料である会津藩士・広沢安宅の著した『幕末會津志士傳一名孤忠録』が紹介されている。
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/framepage2.htm

 この書の山本覚馬の項目の一節を紹介したい。山本覚馬は、慶応二年から、恩師・佐久間象山の志を継いで、京都に会津藩洋学校を設立した。この洋学校の記述の中で、赤松小三郎と覚馬の交流について、かなり詳細に述べられている。

*****下記サイトより引用******
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/sisiden-yamamoto.htm

 覚馬は在京有司に謀り、慶應二年、藩洋学校を京都西洞院の寺院に設く。
                (中略) 
 覚馬の京都に在るや、西周助、廣瀬元恭、栗原唯一、赤松小三郎等に交り、専ら西洋文明の事を研究す。
               (中略)
 又幕府の洋学侍講西周助及び上田藩赤松小三郎を請ふて顧問に充つ。
(小三郎は時勢に先ち洋書を繙き已れの志を行はんとするも、藩地に於て容れられざるを以て意を決して藩地を去り、京都に出てゝ私塾を開き、来り学ぶものには何藩人を問はず教授したり。

 然るに未だ幾許ならず薩藩人は赤松の有為人物なるを知り、国に聘せんと欲す。
 然れども赤松は予て薩藩の慕府に対し反心あるを看破し居るにより快諾せず。上田藩も亦之を聞き、赤松が若し薩州の聘に應じ行くが如きことあらば幕府に対し申訳けなしとて使を遺し、帰国を促すこと急なり。

 是を以て赤松は、常に親しき所の西周助、粟原唯一等に謀り、帰国するに決す。
 時に薩藩の生徒等之を聞き、大に不平を抱て曰く、先生にして国に退かるゝならば再曾は期し難し、殊に武夫は国に許すに身を以てするものなれば、他日敵味方と別れ、互に太刀執り合はんも測られず。斯る場合師弟の縁あれば心苦しくして十分の働き致し難し。願くば今日限り絶縁されたしと。

 赤松は然りとしてその望に任す。

 而して告別の為め知友を歴問し、帰路佛光寺街に於て何ものかに暗殺せられて死す)

****引用終わり******

 赤松小三郎は、山本覚馬に請われて、西周と共に会津藩洋学校の顧問を務めていた。折しも小三郎が、薩摩藩邸で東郷平八郎や野津道貫らの俊才を育成していたのと同じ時期である。
 おそらく薩摩藩邸での講義が多忙であったため、小三郎は会津藩洋学校では講義までする時間的余裕がなかったのだろう。しかし、覚馬に請われて、西周と共に顧問として授業内容のアドバイスなどはしていたのだ。新政権の国家構想についても、覚馬と小三郎は意気投合して語りあった。それゆえ、小三郎の「御改正口上書」と覚馬の「管見」の内容は酷似しているのであろう。

 会津洋学校は、いまのKBS京都の裏手あたりに位置し、ちょうど小三郎が私塾から薩摩藩邸(現同志社)に講義に通う、その中間地点にあった。つまり薩摩での講義の帰路などに、会津藩洋学校で顧問も果たすことは十分に可能であった。

 『幕末會津志士傳一名孤忠録』の著者の広沢安宅は、会津洋学校で学んでいた。つまり著者は、直接に赤松小三郎を知っていたはずの人物である。よって、この記述は信頼のおける一次資料であると考えてよい。

 小三郎は薩摩の国元に招請されたこと、薩摩の武力討幕計画を知ったために招請を拒否したこと、そして帰国を強く勧めたのが幕臣の西周であったことなど、非常に興味深い事実である。
 
 明治の時点で赤松小三郎暗殺犯は不明であったが、著者の広沢は、薩摩の犯行を匂わせた書き方をしている。この点も興味深い。暗殺の動機を一番強く持っていたのは誰かという、殺人事件の王道的な推理をすれば、会津藩士から見て犯人は自ずと明らかであったということなのだろう。
 

 


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