またもや精神的・時間的余裕の欠如から長い間ブログを放置してしまっておりました。この間、ブログにコメントをして下さっていた皆様、返信できずに放置してしまいまことに申し訳ございませんでした。
ブログを留守にしている間に発生したミャンマーのサイクロンと四川大地震の犠牲者の皆様には心からお悔やみを申し上げます。私にできることは募金しかありませんでしたが、一刻も早い復興を祈念いたします。
そして中国政府の皆様には、手抜き工事が二度と起こらないよう、公共工事のあり方を抜本的にも見直して下さるよう、強く要望いたします。学校・病院などは最高度の耐震基準を確保せねばならないのは当然のことでしょう。それができないのなら、もう「社会主義」などと名乗らない方がよいでしょう。
関東に居住の皆様、そろそろ周期的に考えて関東大震災がいつ発生してもおかしくないと思います。日頃から十分に気をつけましょう。
温暖化すれば凍死者が減ってよいのではないか、などとノーテンキなことを言っている皆様、どうか、この間の熱帯低気圧の凶暴化や旱魃の増加による飢餓の不安などの現実を直視していただきたいと思います。
そして、秋葉原通り魔事件の犠牲者の皆様に心からお悔やみ申し上げます。こんな悲惨な無差別殺人事件が起こらないようにするにはどうすればよいのか、議論が活発化することを願ってやみません。
同時に、今回の事件の背景を知るにつけ、派遣労働者・非正規労働者に対する「人間使い捨て」の慣行を一刻も早く止めさせなければならない、という思いも強く持たざるを得ませんでした。
加藤容疑者の犯行も言語同断ですが、加藤容疑者の派遣先の自動車工場における派遣労働者200人中150人を一斉にリストラするという行為も言語同断です。「これは資本主義だから止むを得ない」というのであれば、そのような資本主義はトットと廃絶せねばなりません。少なくとも、かつての日本の資本主義はもっと人間にやさしかったはずです。
ここまでメチャクチャな人間の使い捨てがまかり通るような世の中であっては、人間の生命を尊重する心も廃れていくのも必然的だと思えるのです。
秋葉原事件はあまりにも痛ましかったので、私が教える大学の昨日の授業の予定を変更してこの問題を取り上げてみました。大学一年生向けに「アカデミック・スキル」という入門ゼミのような授業があります。その場でどうしてこんな問題が発生したのか、そしてどうすれば防げるのかを話し合ってみました。
といっても議論の取っ掛かりがないといけません。私は6月10日の新聞各紙の秋葉原事件に関する社説の中から、対照的な見方をしていた読売新聞と東京新聞の社説を取り上げ、学生たちにどちらの社説により共感するかを聞いてみました。
読売新聞の社説は、「他人を巻き込んで、自らの破滅願望を満たそうとする。若い世代に、社会に適応できない、未熟な人間が増えているのだろうか」などといういわゆる俗流若者論を展開した上で、若者が使い捨てにされている派遣労働の過酷な状況には一切言及せずに、ひたすら警察力の強化による解決を訴える内容でした。非常に読売らしい社説でした。
東京新聞の社説は、容疑者の進路面での挫折や孤独感について言及した上で、容疑者の派遣社員という身分の不安定さについても述べ、「格差や貧困の広がりを食い止め、若者が希望を持てる社会を築かなくてはならない」という解決策を提示していました。
さて、この二つの社説を読んだ上で、私の受け持つ大学一年生のクラスの出席者18名に、どちらの主張により共感するか聞いてみました。結果は以下の通り。
読売新聞の社説により共感 ・・・ 3人
東京新聞の社説により共感 ・・・ 8人
両紙の主張にそれぞれ一理ある ・・・ 4人
どちらの主張にも賛成できない ・・・ 3人
ちなみに、このクラスには女性は二人しかいないのですが、女性は二人とも東京新聞により共感していました。多分、母集団に女性がもっと多ければ、東京新聞に共感した人の割合はもっと増えるだろうと思います。
以下、おもな意見を紹介してみます。
読売に共感(男)
「この事件は『社会』よりも『個人』の責任が大きいのではないでしょうか。」
東京に共感(女)
「やはり一番の原因は、このような事件を起こした犯人を生み出した社会制度だと思う。近い年代の私からも見て、今の社会に期待は見出せない」
東京に共感(男)
「自分は格差や貧困などの社会問題がこの事件を引き起こしたのではないかと思う。読売新聞は社会に適応できない未熟な人間が増えている、と書いてあるが、なぜ未熟な人間が増えてしまったのかなど書くべきだと思った」
やはり、読売が展開した俗流若者論にカチンときた学生はいました。ただ、けっこう読売の社説に素直に納得していた学生も予想より多かったですが・・・・。やはり最近の若者はダメだダメだと言われ続けると、自虐的にそう納得してしまうようです。
「社会に適応できない」も何も、「合理的個人主義」を掲げる市場原理主義の興隆で、人間同士が絆で結びつく「社会」そのもがぶっ壊れているのに・・・・。そういう背景が分析できないなんて、こういう社説を書く人こそ「未熟な人間」だといえるでしょう(どうせ団塊世代でしょう)。
ナベツネさんに提案。こういう人こそ、リストラ対象にすべきではないでしょうか? そうすれば、人間の尊厳を踏みにじられた者の気持ちも分かるようになって、少しは人間的に成長できるのではないでしょうか。
ブログを留守にしている間に発生したミャンマーのサイクロンと四川大地震の犠牲者の皆様には心からお悔やみを申し上げます。私にできることは募金しかありませんでしたが、一刻も早い復興を祈念いたします。
そして中国政府の皆様には、手抜き工事が二度と起こらないよう、公共工事のあり方を抜本的にも見直して下さるよう、強く要望いたします。学校・病院などは最高度の耐震基準を確保せねばならないのは当然のことでしょう。それができないのなら、もう「社会主義」などと名乗らない方がよいでしょう。
関東に居住の皆様、そろそろ周期的に考えて関東大震災がいつ発生してもおかしくないと思います。日頃から十分に気をつけましょう。
温暖化すれば凍死者が減ってよいのではないか、などとノーテンキなことを言っている皆様、どうか、この間の熱帯低気圧の凶暴化や旱魃の増加による飢餓の不安などの現実を直視していただきたいと思います。
そして、秋葉原通り魔事件の犠牲者の皆様に心からお悔やみ申し上げます。こんな悲惨な無差別殺人事件が起こらないようにするにはどうすればよいのか、議論が活発化することを願ってやみません。
同時に、今回の事件の背景を知るにつけ、派遣労働者・非正規労働者に対する「人間使い捨て」の慣行を一刻も早く止めさせなければならない、という思いも強く持たざるを得ませんでした。
加藤容疑者の犯行も言語同断ですが、加藤容疑者の派遣先の自動車工場における派遣労働者200人中150人を一斉にリストラするという行為も言語同断です。「これは資本主義だから止むを得ない」というのであれば、そのような資本主義はトットと廃絶せねばなりません。少なくとも、かつての日本の資本主義はもっと人間にやさしかったはずです。
ここまでメチャクチャな人間の使い捨てがまかり通るような世の中であっては、人間の生命を尊重する心も廃れていくのも必然的だと思えるのです。
秋葉原事件はあまりにも痛ましかったので、私が教える大学の昨日の授業の予定を変更してこの問題を取り上げてみました。大学一年生向けに「アカデミック・スキル」という入門ゼミのような授業があります。その場でどうしてこんな問題が発生したのか、そしてどうすれば防げるのかを話し合ってみました。
といっても議論の取っ掛かりがないといけません。私は6月10日の新聞各紙の秋葉原事件に関する社説の中から、対照的な見方をしていた読売新聞と東京新聞の社説を取り上げ、学生たちにどちらの社説により共感するかを聞いてみました。
読売新聞の社説は、「他人を巻き込んで、自らの破滅願望を満たそうとする。若い世代に、社会に適応できない、未熟な人間が増えているのだろうか」などといういわゆる俗流若者論を展開した上で、若者が使い捨てにされている派遣労働の過酷な状況には一切言及せずに、ひたすら警察力の強化による解決を訴える内容でした。非常に読売らしい社説でした。
東京新聞の社説は、容疑者の進路面での挫折や孤独感について言及した上で、容疑者の派遣社員という身分の不安定さについても述べ、「格差や貧困の広がりを食い止め、若者が希望を持てる社会を築かなくてはならない」という解決策を提示していました。
さて、この二つの社説を読んだ上で、私の受け持つ大学一年生のクラスの出席者18名に、どちらの主張により共感するか聞いてみました。結果は以下の通り。
読売新聞の社説により共感 ・・・ 3人
東京新聞の社説により共感 ・・・ 8人
両紙の主張にそれぞれ一理ある ・・・ 4人
どちらの主張にも賛成できない ・・・ 3人
ちなみに、このクラスには女性は二人しかいないのですが、女性は二人とも東京新聞により共感していました。多分、母集団に女性がもっと多ければ、東京新聞に共感した人の割合はもっと増えるだろうと思います。
以下、おもな意見を紹介してみます。
読売に共感(男)
「この事件は『社会』よりも『個人』の責任が大きいのではないでしょうか。」
東京に共感(女)
「やはり一番の原因は、このような事件を起こした犯人を生み出した社会制度だと思う。近い年代の私からも見て、今の社会に期待は見出せない」
東京に共感(男)
「自分は格差や貧困などの社会問題がこの事件を引き起こしたのではないかと思う。読売新聞は社会に適応できない未熟な人間が増えている、と書いてあるが、なぜ未熟な人間が増えてしまったのかなど書くべきだと思った」
やはり、読売が展開した俗流若者論にカチンときた学生はいました。ただ、けっこう読売の社説に素直に納得していた学生も予想より多かったですが・・・・。やはり最近の若者はダメだダメだと言われ続けると、自虐的にそう納得してしまうようです。
「社会に適応できない」も何も、「合理的個人主義」を掲げる市場原理主義の興隆で、人間同士が絆で結びつく「社会」そのもがぶっ壊れているのに・・・・。そういう背景が分析できないなんて、こういう社説を書く人こそ「未熟な人間」だといえるでしょう(どうせ団塊世代でしょう)。
ナベツネさんに提案。こういう人こそ、リストラ対象にすべきではないでしょうか? そうすれば、人間の尊厳を踏みにじられた者の気持ちも分かるようになって、少しは人間的に成長できるのではないでしょうか。
この間、すごくレベルの高い本質的な議論で盛り上がっていて、ブログ主としても大変にうれしく思う次第です。
デルタさんの指摘、「地縁コミュニティー」の力が強まることによる非人道的側面の危惧には、一定、理解できます。しかし近代合理主義は、人間への差別を解決しない、それを解消するためにこそ、市場原理主義ではない、政府や国際条約などによる社民主義的な「規制」が必要になっくるのだと思います。
封建社会の非人道性と、市場原理主義の非人道性の双方をアウフヘーベンしなければならいのだと。
けれど、もっとも根本的な「合理性」という言葉が、何を指し示すか、誰を対象とした「合理性」か、というところで、皆さんと根本的にずれていることに、Cruさんの書き込みを読んでようやく気付きました。
……わたしのいう「合理」が、経済学でいう「合理性」とどのようにずれてしまっているか、なぜズレたか、をわたしのBLOGに引き取り、考察することにします。
しかし、それによって労働者の生活レベルが下がり、国内市場が縮小してしまったのでは、国内販売が縮小して、負の連鎖が始まります。
ここにも合成の誤謬があります。
規制が必要ですね。
国際競争によって、問題が起きているのだとしたら、競争を規制するのが、国益を守る政策として合理的なんだと思います。
ですから、関様のおしゃる関税導入論は十分検討の価値がある方策ではないかと考えます。
ただし、実現するためには相当したたかな外交手腕が求められるでしょうね。
保護貿易の弊害についても考える必要は当然あるでしょうし。
多くの場合、反倫理的ではあるでしょうが。
以前読んだもので面白かった事項を御紹介します。
(何で読んだか忘れてしまったのが痛いですが;)
例えば、大企業での就職差別。
女性は、多くが結婚ないし出産退職するのでOJTでかかる経費を回収する率が高い。
総合職には男性を採用するのが合理的。
採用担当者が、いくつかのジャンルでカテゴライズされる集団から人を選択するとき、その集団を目安に採用する事は合理的です。
個々の人間を見れば、いくらでも例外があります。しかし、採用担当者からみると、個々の人間の能力をわずかな採用試験や採用面接で選別することには限界があるからです。
「数撃ちゃあたる」わけですが、「あたる」確率を上げるためのひとつの指針になるわけです。
個々の集団の合理性の追求が社会的に問題を起こすと考えられるとき「規制」が必要になります。
合理性の裏側には非合理な人間の欲望が存在するわけですが、
そうですね。
例えば、パチンコには警察行政からの規制があります。
ほっておけば、より射幸心を煽る性能を持った製品が「売れる」わけですから、メーカーもパチンコ店も、より射幸心を煽る性能を持った製品=高ギャンブル機=ほとんど払い戻さないが、たまに巨額の当りがある機械…を作って営業する事が合理的です。
競争ですから。ギャンブルの反社会性を考えた会社は敗北・退場してしまうでしょう。
しかし、高額の損を抱えた顧客が立ち行かなくなれば、パチンコ業界は縮小するでしょう。
規制は、企業にとっても必要な場合があるわけです。
個々の企業の経済合理性の追求が合成の誤謬をもたらすときには。
派遣の方の低賃金は、搾取を通り越して収奪です。
この低賃金は、「正社員」の賃金をも引き下げます。
やはり問題は、「資本」にあるということでしょう。
システムが、行きずまりです。どうしましょう。
それを改善するための方法が移民奨励という乱暴な意見がよくわかりません。
デルタさんの新自由主義礼賛のご意見に感じるのは、他文化や他者の持つ差異に対する鈍さ、です。なんでもかんでもお金という物差しで計量することが正義だと勘違いしている。お金は数ある物差しの一つでしかないのにもかかわらず、です。
そんなことはないです。カナダでは均等待遇を実現するための法律が定められ、守らない場合は摘発されます。法規制なしの状態(法制定前、そしてそれが法制定の原動力となった)では、歴史的に女性の仕事とされている職種(介護、看護、保育士など)や非正規労働者が、その労働強度に比して低賃金に置かれていました。スウェーデンなど北欧では、確かに顕著な法規制はありませんが(社民なのに!)その代わりに強力な産別労働組合が、企業団体とナショナルなレベルでの団体交渉を行い、政府によらない「規制」を実現しています。例に挙げたのはいずれも社民ですので、デルタさんの言う欧米の中にははいていないかもしれませんが…。確かイギリスにも規制があったと思いますよ(これはうろ覚えです、すみません)。
しかし、他人の不合理な行動は記になって仕方ないし、自分に害が及びだすと、「不合理さ」を非難するものです。
つまり、ひとの行動は他律的に「合理的行動を要求される」というべきでしょうね。
同時に、合理性を追求する態度は、差別待遇を是正するためには強力な武器になります。合理的理由で説明できる差別なぞ、この世に存在しませんのでね。
だからこそお聞きするわけです。
”ある特定コミュニティーにとっての、相対格差を問題にすることが、グローバルに存在する絶対貧困を固定化していることに、目をつぶることになっていませんか」と。
他者の”合理的な目”で判定されてツッコミを受けたときに、そのような態度に合理的な反論ができるのでしょうか
(こんなことを申し上げると身も蓋も無くなってしまうのですが)その点に関してはいくら論争をしても、たぶん溝は埋まらないんでしょうね。
しかし、それをやったのでは、雇用者が社会的な信用を得られない。具体的にいったら求人を出しても、不信感をもたれて応募がほとんど得られない。
江戸時代に越後屋呉服店が正札販売をはじめて社会的な信用を得て発展し、同業他社が追随せざるを得なかったのは、何ら幕府の指導と関係ない。「経営方法の創出」したわけです。なぜ同じコトが、現代日本の労働契約でさなれないのでしょうか?
欧米でも、正規・非正規の待遇差別がないのは、別に政府の指導とは直接関係ないはず。そう考えると、日本政府の暗黙の規制やタダレきった労働慣習が、正規・非正規間の差別を作っているというべきでしょう?
「生まれ育ったコミュニティー」云々については、封建的な地域間差別やボスによる「労働力の不当廉売」などと非常に親和性の高い考え方で、私には非常に危険で非人道的な物言いに映ります。極端な例かもしれないけれど、大陸中国の政府がこの論理で農民を一定の土地にくくりつけ、賃金を買い叩いていることを忘れないでください。
また人が移動することで、地縁的な理由だけで自分たちが不当な差別にあっている(あっていた)ことに気付けるわけです。
人は移動することで、自分を必要とする人に出会え、糧にありつけるのです(基本的には)。ひとところに待っていても、お客さんはやってきてくれませんよ!
以下ちょっと感じたことを書かせていただきます。
>いったい、絶対的貧困を無くすことに、本気で取り組もうとしているのでしょうか?
新自由主義が絶対的貧困をなくす、というのはブラックジョークにしか思えないのですがw。
同じことを新自由主義者に良いように利用された中南米の国々に行って問いかけてみてほしいです。
>私たちは、国籍・住所・民族・性別に一切関係なく、同一の労働に対して同一の待遇を与えるよう、法制化を求めています。
これって、新自由主義者が嫌う、官による「規制」以外の何物でもないではないですか?
そもそも住み慣れたコミュニティを離れ、同一国内の都市への出稼ぎなり、海外移民なりをしなくては経済的にやっていけないという、今の社会の大きな枠組みや歴史そのものに対して、もっと思考を深めていただきたいと思います。
これは、ごもっともかと思います。
ですが、この事件の背景には派遣がどうのとか、関係ないでしょう。事実、「ツナギがない!」と、わざと怒ってみせたような気がする…と、奴の同僚の方が証言されているようです。
勝ち組や、負け組みなんぞ造語ですよ!
そんな造語に振り回されている時点で、それこそ「負け組み」なのです。
これは適切な言葉ではないですが、経済的に困っているなら、もっと他の手段もあったはずです。
ネットの中でも理解者がいれば、奴は凶行に走らなかったと思います。
事実、奴自信「誰かが止めてくれれば…」とか言っています。
国民は勝手な事を言うものです。
アメリカを批判する一方で、「欧米では、こういう試みもあります」とか、自分の自説に都合のいい時だけ、アメリカを持ち上げます。
全員平等に生きれるはずがないっ!
生まれた時から平等ではないのですよ!
こんな「当たり前」の事が飲み込めない奴が犯罪に走るのです。
それを内心では分かっているくせに「全て国が悪い!」とか文句ばかり言うのは危険です。
共産主義だとか何だとかいう前に「働く」べきです。
私も良い車とか乗りたいです。
でも、お金が無いから我慢しています。
加藤はWRXとかFDを乗っていたそうです。
そしてローンを踏み倒して逃げて、それで田舎には帰れなかったそうです。
奴は「犯罪者気質」だったのですよ。
それを遺族者感情を「全く無視」して問題のすり替えをしようとし、あたかも有識者であるかの如くふるまう人が多すぎますね。
それでは、いつか加藤のようになってしまいますよ?
加藤容疑者も『この会社で真面目に働けば将来は心配ないけど……』みたな職業に就けていれば、あそこまで追い詰められなかったかもしれませんね。
資本主義ってのは、どうやっても一定数の敗者を生み出します。
全ての敗者が素直に敗北を受け入れられれば問題ないのでしょうが、そこで歪んでしまう人も一定数は存在するのでしょうね。
何かしらの対策を打たなければ今後も同じような事件が起きるでしょうね。
しかし実際、我々にできるのは犯罪の起きる可能性をわずかでも減らす事ぐらいでしょう。
いわゆる負け組の人に慰めのレスをするぐらいしかできませんけど……。
<テロしか手段がないイスラム過激派のように彼らにはそれしか手段がないんですから。
まるで加藤を擁護してるように聞こえますが?
イスラム??
それしか手段がない???
全く落ち度の無い人が何人も殺されたんやでっ?!
何人も怪我して!
「彼女がいればなぁ~」とか言うてる「アホ」に。
話にならんな…
戦争とどう関係すんのよ。
>終戦直後と比べたり、貧困国を引き合いに出して批判を交わそうとするのは新自由主義論者によく見られる傾向ですね。
この決めつけこそが、問題のすり替えです。
確かに我々は非常に恵まれたことに、20世紀後半から21世紀の日本に生まれ、経済的な幸福を享受しています。
これは、ひとつには歴史の進展(生産性の向上)が理由でもあったでしょう。しかしそれ以上に、「国境」(税関とか出入国管理とか)によって貧困を国外へ閉め出してきたから確保出来てきた、”薄汚れた”幸福です。
難民の受け入れすらも拒否する日本;高度経済成長期には特にこの排他性が顕著でしたが、その一方で外国人労働者の賃金を買いたたき、そして我々のコミュニティから「見えなくする」(統計から排除する 等)ことによって、確保していたことを、忘れないでください。
新自由主義者の1人として、明言しておきます。
私たちは、国籍・住所・民族・性別に一切関係なく、同一の労働に対して同一の待遇を与えるよう、法制化を求めています。
しかし、圧倒的多数の人は、「外国人労働者が大量に入ったら我々の賃金が下がる」と言って反対されます。
いったい、絶対的貧困を無くすことに、本気で取り組もうとしているのでしょうか?
非常に限られたコミュニティ(日本国内の”日本民族”)内部の相対的貧困を無くすことに、それほどの優先度がなぜあるのでしょうか?
ぜひとも答えて下さい!
比べるんならプラザ合意前の健全だった頃の日本と比較すべきでしょう。
企業利益の総計に関してはあの頃より遥かに多いです。
日本がバブルで絶頂期を迎えた80年代末期の2倍をとっくに超えております。
それが国民はおろか従業員にすら還元されなくなったのが今の荒廃した日本社会に繋がってるのは明らかでしょう。
例えばトヨタの日本の工場と北米の工場では賃金に3倍以上の開きがあります。
為替リスクや政治上の取り引きが絡んでるとしてもおかしいと思いませんか?
全てを失った敗戦後やアフリカや北朝鮮と言った最貧国、あるいは極一部の例外を持ち出すような詭弁にしか聞こえない議論はなしにしましょう。
それこそ何の為に前の世代が営々と努力して来たか分からなくなります。
こんな社会にする為じゃないでしょうに。
小泉路線=新自由主義を痛烈に批判してたんですがね・・・
彼個人の意見と社の方針とは異なると言う事なんでしょうか。
TV局は外資規制法や外資系金融や人材派遣業の広告料収入で完全に新自由主義のプロパガンダ機関と化してしまいましたが、新聞までそうなっちゃうんですね。
メディアが権力や大資本に擦り寄ればその国はろくな事にはならんのですが・・・
第2次大戦がまさにそうでした。
反対意見は抹殺されるようになり段々と後戻り、修正が効かなくなる過程が当時とそっくりだなと思いますね。
今五味川純平の「戦争と人間」と言う長大な小説を読み返してる最中ですが、ふとそう思いましたね。
著者はノモンハンで悲惨な実体験をしてるだけに余計にリアルに感じます。
当時の時代の空気と今は良く似てるように思いますね。
新自由主義化、若者の貧困化の先には戦争が待ってるんでしょうか?
それとも国家の解体、民族の衰退が待ってるんでしょうかね。
この件に関しての欧米メディアはその辺を取り上げていると聞いておりますが・・・
自己責任論も何も若者は社会を映す鏡なんです。
ある程度歳を取ればそれは自己責任を問うてもいいですが。
そんな若者を量産する社会や教育を作った世代、あるいは支配層の責任をもっと問うべきでしょう。
マスコミを含めた今の支配層の無責任ぶりが垣間見えると思いますね。
全てを自己責任論で逃げようとするのは新自由主義論者共通の傾向ですね。
企業しかり、政治家しかり、マスコミしかりです。
その象徴と言うべきなのが人材派遣会社ザ・アールの奥谷社長の「過労死は自己責任」と言う言葉ですね。
無責任極まりない発言だと思いますね。
経営者は株主だけに責任を負うと言う米英流資本主義の典型でしょう。
一昔前ならメディアや世論の袋叩きに遭っててもおかしくはないですね。
それだけメディアも社会も変質してると思います。
もちろん悪い方にですね。
メディアは本来権力の監視機関・批判機関、弱者の味方であるべきなんですが、それさえもおかしくなって来ました。
責任を個人に還元する限り、この手の事件はますます増えるでしょう。
テロしか手段がないイスラム過激派のように彼らにはそれしか手段がないんですから。
絶望や貧困は君子も豹変させると言います。
これから日本も殺伐とした国になるでしょうね。
人間は主観の生き物ですよね?(~_~)
私の親戚連中は皆、「大金持ち」です。
叔父なんぞ昭和天皇から勲章も貰ってました。
まぁ、結構な数の人が貰ってはいるのですがね。
NHKにもよく出演してました。経済の事を何やらしゃべってましたね。(~_~)私は子供だったので、よく覚えてません、内容は。
さて、この「カネモ」の親戚連中…(うちは違いますよ!(~_~))、支持政党は与党です。彼の国では共和党ですね、マ・チ・ガ・イ・ナ・ク!
何故か?!私などの若輩で無学な人間がいうまでもありません。
「政権交代なんぞ起こったら株価が下がるから」
です。
銭を億単位で持っていて、尚且つ株式を保有している富裕層なんて、そんなもんす。
日本の将来や世界の行く末…なんてな事は微塵も考えていませんね。
なにが言いたいのかと申しますと
「自分のまわりの環境をみて、それを重きに捉えて主義・主張を述べる」
皆、そうではありませんか?
私のまわりには働いている御婦人はいません。
いるかもしれませんが、わたしは知らないです。
30過ぎの知り合いは妻帯者で、家を購入し、豪華なミニバンを持っています。
氏、曰く「俺はワーキング・プアだっ!政治が悪い!」そうです(^_^.)
私からみれば分相応な生活を送れば、そんなに困る事はないと思うのですが?
金が無ければ結婚を諦め、一生賃貸で過ごし、チャリンコで良いじゃないですか?!
派遣なんか良いはずがありません、それは無学の私でもわかります。
でも凶悪な事件とは何の関係もないです。
今回の事件に限らずですが、マスコミがここぞとばかりにやれ過去の卒業文集だ、元同級生の証言だと取り上げて、やたら犯人の「心の闇」に突っ込もうとするのには辟易します。
しかし、ある程度今回の事件のきっかけとなったことを考えそれを踏まえた対策を採ることは決して無益ではないと思います。
特に、関先生おっしゃる通り、使い捨て雇用の実態は早急に改善すべきだと私も思います。
> 結婚前の1年間だけ働きたい!でも社会保険には入りたいし…
いつの時代のお話でしょう?たしかに四半世紀も前にはそんな風潮もありましたけれど。
いまや専業主婦で生涯幸せに暮らせると思っている女性はほんの一握りです。少なくとも下流である私の身の回りの実感としては「自己実現」のために働くとかいう高級な意識以前の、差し迫って経済的な問題です。(実際のところは社会保険など無しのまま、食べるために働かざるおえない人がたくさんいるのですが)
>役者やバンドをしている方がいまして、イベントやオーディション・等で任意で休みたいので、派遣の方がいいと言う方もおられます。
そういう特異な人たちの基準を地道に働くしかない人間に適用されても困ります。
さて今回の事件…
私は異常な精神の持ち主の事を、正常な精神では永遠に理解出来ないのでは?…と、思います。
「そんな事、わかっとるわい!再び、こんな事件が起こらないように、どないしたらええか考える事に意義があるんじゃい!」
と、いう人も居られるでしょう。
しかし、考えてみて下さい。有史より犯罪の全く無い世の中がありましたでしょうか?
数字の上でですが、昭和一桁の時代なんぞ、間引きや娘を売りに出したりしていたのですよ?
現在でも中国の貧しい農村部では、そういう事があるそうです。そして、それを非難する有識者の人もいますが、なんてことはない日本も何十年か前はエライ事をしていたのです。
それに比べて良い時代ではないですか?!
寿命も世界一ですよ?
まぁ、呼吸しているだけで行為を伴わないのは「生きる」とは言えないのでなんとも言えませんが(^_^.)
数十年前から、無差別殺人や死体遺棄事件、集団強姦事件はありました。少年犯罪などは現在の数倍もあったそうです。
メディアの普及やその「報道の仕方」で、凶悪な犯罪が増えた「印象」があるだけです。
アホは、ほっといて、もっと議論せねばならない事があります。
<非難すべきは、”資本”ではなく、”消費性向”でないかと思うのです。>
デルタ殿の上記の意見に賛同します。
また、派遣がどうのこうのと「悪い」事ばかり言う人もいらっしゃいますが、大変に良いところもありますよね?取り急ぎの仕事にありつけ、その間にスキル・アップや資格取得し巣立つ人もいれば、渡りのように色んな職場に顔をだし、交流を深め、商売のヒントを得る人もいるかもしれません!
女性とかでは「結婚前の1年間だけ働きたい!でも社会保険には入りたいし…」と、いう人は派遣が最適ではないですか!
この事(派遣にもいい所がある)を併せて報道しないと、今、派遣で頑張っている人達に失礼ですよね。
私の友達にも役者やバンドをしている方がいまして、イベントやオーディション・等で任意で休みたいので、派遣の方がいいと言う方もおられます。
私20歳頃対人恐怖のために、10日ほどアパートから外に出られなくなった経験があります。
その時に漠然と考えたのが、表題のようなこと。
現在においても、「社会」はぶっ壊れてはいません。ほんの少しシステムが変っただけで、高度経済成長期から何ら変っていないのが実態でないでしょうか。
あの頃にしても、”季節労働者”が数多くおられて、先月は川崎、今月は瀬戸内のどこかという風に工場(現場)と転々と移らざるを得なかったのですから。
一方、今も。
30歳代後半の私でさえ時折腹立たしく感じるくらい、頑丈で融通がきかず、”私”の前に立ちはだかっています。
「彼」のことを理解できるとは、うぬぼれてはいませんが、「彼」がその”確固たる”社会を打ち破れないことに苛立っていたことは、理解してあげて欲しいのです。
フォード主義の時代くらいまで戻れれば、急激な雇用調整が無くなると思います。が、今の少量多品種生産(しかも限りなく受注生産)の元では、この種の労働者が居ることを前提とした工程を組むことになります。非難すべきは、”資本”ではなく、”消費性向”でないかと思うのです。
私も大学生ですが、周りを見ていると、昨今の派遣社員・ワーキングプアの増加を見るにつけ、「自分はああはなるまい」と考えている人が多い気がします。また、「自己責任論」(個人的には大嫌いな言葉ですが)がかなり浸透していて、そうした人々にシンパシーを感じる人は意外に少ないような印象を受けます。
そうしたことから、読売新聞の社説に共感する人は一定数いると思われます。私はいわゆる「俗流若者論」が嫌いで(そういうことを言っている人の若者時代はどうなのかと思ってしまう)、今回の事件の背後にある社会に問題があると思っているので東京新聞の社説に共感します。被疑者の犯行は言語道断だとしても、私は今まで以上に「派遣社員」ばかりの現在の労働環境を強く意識しました。
私の両親の職場も、最近は来る人来る人派遣社員ばかりで、両親はその状況を嘆いています。少なくとも、労働者の権利を蔑ろにするような社会は改善せねばならないと思います。「自己責任」「甘えるな」「○○なんて当たり前」などの言葉を嬉々として語っている人をTV党で見るにつけ、身震いを覚えます。
記事に「自虐的に納得してしまう」というようなくだりがあるのですが、決してそうではないと思います。むしろ、すぐに社会に責任転嫁しないための冷静な姿勢の現れではないでしょうか。とはいえ、私もこの件は昨今の社会の空気にも原因があると思います。
こんにちは。私もこの事件についてブログに掲載しました。ただし、数十年前からこうした事件が起こることを予期していた、経営学の大家ドラッカー氏の見解などを補足する形になりました。ドラッカー氏はもう数年前になくなっていますが、その遺志をひきついで、「ドラッカー財団」が様々な活動を行っています。その財団が10年ほど前に「未来社会への変革」という書籍を出しています。この書籍には、都市の文明化ということで、各方面の人々が様々な意見を書き、いわば集合知のような英知のかたまりとなっています。まさに、アメリカの良心を代表するといっても過言ではありません。このなかには、今日あらゆる国の主要都市が、混沌たるジャングルようになっており、今回のような事件が多発すること、それに対する対処法に関しても書かれてあり、この10年間でアメリカも相当変わっています。無論、まだまだ至らないところもありますが、具体的な成果をあげつつあります。
ひるがえって日本では、都市の文明化ということにあまりにも注意が払われていないと思います。このままでは、いつまでも根本的な問題解決にならないと思います。ここに書くと長くなってしまいます。詳細は私のブログを是非ご覧になってください。