超多忙だったものでまたもやブログを放置してしまいました。コメントをくださった皆様、返信できずにまことに申し訳ございませんでした。
とっくに炎上しているのではないかと思い、自分のブログを開けてみるのが怖くなっておりました。先日、おそるおそる開けてみたら非常に節度のある冷静な議論が盛り上がっていて、ホッと胸をなでおろしております。皆さまのマナーのある議論に感謝の気持ちでいっぱいです。また時間ができたら返信いたします。
ブログをサボっていた間に、私の身の回りであった出来事などいくつか記したいと思います。先月の6月22日、東京大学の弥生講堂において、「地域研究と政策研究の協働 -地球環境を救うために-」(熱帯生態学会の主催)という公開シンポジウムがありました。私もパネラーの一人として出席させていただいたので、そのときの議論の感想などを報告したいと思います。
このシンポは、国際会議に参加しCO2削減交渉などを行ってくるような(あるいは行う人々のブレーンとなるような)「政策研究者」と、地域で発生している環境問題をフィールドの現場で地道に研究する「地域研究者」のあいだに、深刻な方法論的なギャップがあり、両者のあいだに十分な対話もなされていないという現状を踏まえて、企画されたものでした。企画責任者は井上真さん(東京大学大学院農学生命科学研究科教授)です。
当初のシンポのタイトルは、「政策研究者と地域研究者、地球を救うのはどっち?」というような挑発的なタイトル案が検討されていましたが、ちょっと対決色を煽りすぎではないかというクレームもあり、モデレートなタイトルに変更されたのでした。ちなみに私は、地域研究にも政策研究にも双方に携わったことがあるというので、「両者のあいだをつなぐ役割を」ということでパネラーの一人になりました。
といっても私がおとなしくモデレートな発言などするわけもないのですが。私は本音を言えば、現在の地域研究にも政策研究にも、双方に批判的なので、「両者をつなぐ」どころか、両者にケンカをふっかけるような発言をしてきてしまいました。以下、現在の日本の地域研究と政策研究の何が問題だと思うのか書きとめておきます。
当日配られたパンフレットの自己紹介文章に、私は以下のように書きました。
*************
「ここ数年、フィールド調査を通して、中国の植林計画の問題点と改善策について研究してきました。政策研究者の中には、現場から政策をつむぎ出そうとする研究態度をさげすみ、政策研究者にとっての「『現場』は国際会議である」と主張する人もいます。政策研究者は、エアコン完備の国際会議場で、CDMやら排出権取引やらODAやらの取り決めをすれば、植林は進むと考えるのでしょう。
地域の現場に出るのは人を雇ってやればよく、研究者自らが出向くようなものではないということでしょう。私の中国の調査地のホームステイ先の農家のおじいさん曰く、「農家を信用しないと、どんな立派な政策でも、結局は失敗するだろう」。実際、その通りになりました。現場が分からない人間が、机上のコスト計算に基づいて資金を拠出しても、結局は失敗するのです」
*************
この文章を読んだ、学会の大御所の某先生は苦笑いしながら「過激やな~」とおっしゃっておりました。しかしながら、この文章の原文はもっと過激であったのです。ちょっと攻撃的すぎると言われたため、原文を穏便に修正した上で、このようになったのでした。これで十分に穏健な内容に変更したつもりだったのでした。
さて、この文章を見ると、私は地域研究の視座に立脚しながら、政策研究を批判しているように見えるでしょう。しかし私は、今の日本の政策研究に批判的であると同時に、地域研究にもすごく批判的なのです。
私の政策研究への批判点といえば、彼らが現場に立脚にしていないが故に、欧米が各自の利害から仕掛けてくる「トレンド」を無批判に受け入れすぎているという点に尽きます。国際レベルでの「流行」を作り出すのは欧米で、日本の政策研究者は、欧米の戦略に自覚的に対峙するしたたかさもないまま、欧米発のトレンドに受け身で流されがちなのです。日本の政策研究者は、せいぜい英語ができると鼻にかけながら欧米の議論を追っかけている(=洗脳されている)と自慢しているだけので、主体的に日本初のトレンドを生みだそうとするクリエイティビティーと意気込みのない人が多すぎるのです。
逆に、私の地域研究への批判点はといえば、「地域研究者の政策マインドのなさ」という一言に尽きるでしょう。日本の地域研究者ときたら、地域の現場にドップリと沈澱して、地域の社会構造をオタッキーに、微に入り細に入り、こと細かに記述し、それでよしとする風潮が強すぎるのです。それで何の政策的なインプリケーションもないままに、「この地域はこんなにオモロイでっせー」といって終わらせている場合が多いからです。こうした研究文化が形成されたのには、日本の地域研究をリードしているとされる某大学の探検趣味的な研究カラーが大きく寄与しています。
探検趣味的な地域研究オタク同士であれば、「うーんじつにオモロイでんなー」で盛り上がって、それでよいのですが、一般の人々から見れば「それを調べて何かの問題が解決されるの?」と疑問に思うような研究がじつに多いのです。
日本の地域研究では、地域をありのままに詳細に記述するディスクリプティブな研究が評価されます。逆に、現場で得た視座を国レベル・国際レベルでの政策形成に結び付けようとする政策マインドの研究は敬遠されます。論文において「べき論」を展開してはいけないというのが、日本で主流の地域研究において暗黙の了解事項だったのです。実際、私は大学院時代、地域研究者から「べき論はするな」と言われたものでした。
私は「研究するからには、何らかの政策形成に結び付かなければ意味などない」と思っています。私の書く論文は、必ず「故に~すべきである」という「べき論」で締めくくられてきました。そういう態度は、ディスクリプティブな研究を好む日本の地域研究の主流派からは非常に嫌われるわけです。
そういうわけで、現場から乖離した国際会議貴族の政策研究者は欧米が戦略的に仕掛けてくるトレンドに流されてフワフワしている。片や現場に軸足を置いているはずの地域研究者は思いっきり「地域オタク」化してしまっています。ある人は、そうした研究者を「世界ウルルン滞在記」にちなんで「ウルルン研究者」と呼んでいましたっけ。「ウルルン研究者」は、その地域の人間関係や社会関係には詳しくても、その地域で発生している問題と、ナショナルな次元さらにグローバル資本主義の経済政策と結び付けて考え、解決策を探るといった訓練を受けていない。つまりミクロとマクロをつなげる思考回路を持っていないのです。
というわけで、地域研究者と政策研究者が協働して地球環境を救おうというのがシンポジウムの趣旨なのでしたが、私としては、両者の現在の思考パターンから推し量るに、その可能性は限りなく暗いのではないかと思えたのでした。
長くなってきたので、この続きをまた書きます。
とっくに炎上しているのではないかと思い、自分のブログを開けてみるのが怖くなっておりました。先日、おそるおそる開けてみたら非常に節度のある冷静な議論が盛り上がっていて、ホッと胸をなでおろしております。皆さまのマナーのある議論に感謝の気持ちでいっぱいです。また時間ができたら返信いたします。
ブログをサボっていた間に、私の身の回りであった出来事などいくつか記したいと思います。先月の6月22日、東京大学の弥生講堂において、「地域研究と政策研究の協働 -地球環境を救うために-」(熱帯生態学会の主催)という公開シンポジウムがありました。私もパネラーの一人として出席させていただいたので、そのときの議論の感想などを報告したいと思います。
このシンポは、国際会議に参加しCO2削減交渉などを行ってくるような(あるいは行う人々のブレーンとなるような)「政策研究者」と、地域で発生している環境問題をフィールドの現場で地道に研究する「地域研究者」のあいだに、深刻な方法論的なギャップがあり、両者のあいだに十分な対話もなされていないという現状を踏まえて、企画されたものでした。企画責任者は井上真さん(東京大学大学院農学生命科学研究科教授)です。
当初のシンポのタイトルは、「政策研究者と地域研究者、地球を救うのはどっち?」というような挑発的なタイトル案が検討されていましたが、ちょっと対決色を煽りすぎではないかというクレームもあり、モデレートなタイトルに変更されたのでした。ちなみに私は、地域研究にも政策研究にも双方に携わったことがあるというので、「両者のあいだをつなぐ役割を」ということでパネラーの一人になりました。
といっても私がおとなしくモデレートな発言などするわけもないのですが。私は本音を言えば、現在の地域研究にも政策研究にも、双方に批判的なので、「両者をつなぐ」どころか、両者にケンカをふっかけるような発言をしてきてしまいました。以下、現在の日本の地域研究と政策研究の何が問題だと思うのか書きとめておきます。
当日配られたパンフレットの自己紹介文章に、私は以下のように書きました。
*************
「ここ数年、フィールド調査を通して、中国の植林計画の問題点と改善策について研究してきました。政策研究者の中には、現場から政策をつむぎ出そうとする研究態度をさげすみ、政策研究者にとっての「『現場』は国際会議である」と主張する人もいます。政策研究者は、エアコン完備の国際会議場で、CDMやら排出権取引やらODAやらの取り決めをすれば、植林は進むと考えるのでしょう。
地域の現場に出るのは人を雇ってやればよく、研究者自らが出向くようなものではないということでしょう。私の中国の調査地のホームステイ先の農家のおじいさん曰く、「農家を信用しないと、どんな立派な政策でも、結局は失敗するだろう」。実際、その通りになりました。現場が分からない人間が、机上のコスト計算に基づいて資金を拠出しても、結局は失敗するのです」
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この文章を読んだ、学会の大御所の某先生は苦笑いしながら「過激やな~」とおっしゃっておりました。しかしながら、この文章の原文はもっと過激であったのです。ちょっと攻撃的すぎると言われたため、原文を穏便に修正した上で、このようになったのでした。これで十分に穏健な内容に変更したつもりだったのでした。
さて、この文章を見ると、私は地域研究の視座に立脚しながら、政策研究を批判しているように見えるでしょう。しかし私は、今の日本の政策研究に批判的であると同時に、地域研究にもすごく批判的なのです。
私の政策研究への批判点といえば、彼らが現場に立脚にしていないが故に、欧米が各自の利害から仕掛けてくる「トレンド」を無批判に受け入れすぎているという点に尽きます。国際レベルでの「流行」を作り出すのは欧米で、日本の政策研究者は、欧米の戦略に自覚的に対峙するしたたかさもないまま、欧米発のトレンドに受け身で流されがちなのです。日本の政策研究者は、せいぜい英語ができると鼻にかけながら欧米の議論を追っかけている(=洗脳されている)と自慢しているだけので、主体的に日本初のトレンドを生みだそうとするクリエイティビティーと意気込みのない人が多すぎるのです。
逆に、私の地域研究への批判点はといえば、「地域研究者の政策マインドのなさ」という一言に尽きるでしょう。日本の地域研究者ときたら、地域の現場にドップリと沈澱して、地域の社会構造をオタッキーに、微に入り細に入り、こと細かに記述し、それでよしとする風潮が強すぎるのです。それで何の政策的なインプリケーションもないままに、「この地域はこんなにオモロイでっせー」といって終わらせている場合が多いからです。こうした研究文化が形成されたのには、日本の地域研究をリードしているとされる某大学の探検趣味的な研究カラーが大きく寄与しています。
探検趣味的な地域研究オタク同士であれば、「うーんじつにオモロイでんなー」で盛り上がって、それでよいのですが、一般の人々から見れば「それを調べて何かの問題が解決されるの?」と疑問に思うような研究がじつに多いのです。
日本の地域研究では、地域をありのままに詳細に記述するディスクリプティブな研究が評価されます。逆に、現場で得た視座を国レベル・国際レベルでの政策形成に結び付けようとする政策マインドの研究は敬遠されます。論文において「べき論」を展開してはいけないというのが、日本で主流の地域研究において暗黙の了解事項だったのです。実際、私は大学院時代、地域研究者から「べき論はするな」と言われたものでした。
私は「研究するからには、何らかの政策形成に結び付かなければ意味などない」と思っています。私の書く論文は、必ず「故に~すべきである」という「べき論」で締めくくられてきました。そういう態度は、ディスクリプティブな研究を好む日本の地域研究の主流派からは非常に嫌われるわけです。
そういうわけで、現場から乖離した国際会議貴族の政策研究者は欧米が戦略的に仕掛けてくるトレンドに流されてフワフワしている。片や現場に軸足を置いているはずの地域研究者は思いっきり「地域オタク」化してしまっています。ある人は、そうした研究者を「世界ウルルン滞在記」にちなんで「ウルルン研究者」と呼んでいましたっけ。「ウルルン研究者」は、その地域の人間関係や社会関係には詳しくても、その地域で発生している問題と、ナショナルな次元さらにグローバル資本主義の経済政策と結び付けて考え、解決策を探るといった訓練を受けていない。つまりミクロとマクロをつなげる思考回路を持っていないのです。
というわけで、地域研究者と政策研究者が協働して地球環境を救おうというのがシンポジウムの趣旨なのでしたが、私としては、両者の現在の思考パターンから推し量るに、その可能性は限りなく暗いのではないかと思えたのでした。
長くなってきたので、この続きをまた書きます。
社会人類学の精髄とは何か、を説いて一つの重大な考え方に曰く、
「一つの社会を深く観察することにより、人類に普遍な原理を洞察していく」点であると。
民俗誌を記録するだけでは、人類学に到達していないのだ、逆説的にそういっていたのでした。
わたしは1技術者にすぎませんけれど、
この年齢になって、たこつぼ的に専門化した技術者の世界観をずいぶん反省しているところです。
社会的な全体最適とは何なのか、……技術者なりの解はあるはずなのですが、それに気付けない。
うーーむ。「ウルルン研究者」、そのものです……。
社会科学系でも同じ問題が起きているのに(深刻な様子に)、ああこっちもか、と(汗)
せめて、ファーブル先生的な全方位への好奇心を持ち続けることで、抵抗して行こうと考えております。
高校のときからも、文系・理系に早くから分けようとして、早期からの専門特化が奨励されてしまっている。それが視野の狭い研究者を生みだしているのではないかと。リベラル・アーツを軽視する傾向が、日本の大学教育に蔓延し、題を深刻化させているように思えます。
葛西・鈴木編『これからの教養教育』(東信堂)の対談部分にも「早期からの専門特化はキケン」というどなたかの意見が書かれていたように思います。
またこんな事情も。わたしが院生時代をすごした大学では教養教育は軽視されているわけではないのですが、受験偏差値で競争しつづけてきて、さらに進振でも競争しつづける学部生の中には、(同じ土俵で)他人よりも少しでも前にでることばかりに気をとられ、何やってるのか、何がしたいのか、わけわかんなくなっている学生もいるような気がします。小さいころからそういう価値観で育って、それをすっかり内面化しちゃっているので、それを克服するのはかなり時間がかかることなのではないでしょうか。大学でオファーされる学びの機会を活かしきれていないのが残念です。でも、これは学生個人の問題であると同時に、日本の社会システムの問題でもあるので、なかなか対応が難しいように感じます。
ありがとうございます。
>れ、何やってるのか、何がしたいのか、わけわかん
>なくなっている学生もいるような気がします。
私の出身大学でもその手の人は多かったです。その意味で本当に必要な構造改革は、教育改革ですね。偏差値エリートは、新しい産業革命を必要とするフロンティアを切り開く時代には役に立たないと思います。
やっぱり、画一的な公式丸暗記の詰め込み教育からはおさらばせねば。私には、ゆとり教育を受けた世代の方が、個性があって独創的な考え方をする人が多いように思えます。
私は、おんぶ紐で子供を背負いながら、パソコンに向かって論文を書いたりしていましたが、よく背中で泣かれました。やはり育児は集中力が肝心ですね。