代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

官僚主義と市場原理主義は親和的

2015年01月14日 | 教育
 
 薩長公英陰謀論者さんから以下のコメントが寄せられました。多くの方々に読んでいただきたいので再掲させていただきます。青字が薩長公英さんのコメントで、白字が私のリプライです。

 薩長公英さんのコメントの元は以下のリンク先にあります。

http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/1050c65e0c2330f91e8f3e6feb36d9ba
 
 関さん、この1月6日の「日刊ゲンダイ」に、「警察庁の統計によると、2013年度までの7年間で大学生の就活自殺者は218人に上る。年間に約30人だが、専門家によると、実際は数倍の規模になりそうという・・・」という記事があることを知りました。大手企業の内定を得ることができず、自分には非正規雇用しかないのかと絶望的になったり、中小企業に受け入れてもらえても大手から内定をもらった同級生と自分を比較して鬱になったり・・・ということだそうです(http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/newsx/156172)。

 「就活自殺」という耳慣れない言葉に、気が遠くなるような現在の若者たちの現実の無惨さに気づかされて自分の能天気さを恥じています。生きるということは何なのだろうと思い、語るべき言葉がないような・・・しかし気を取り直して若干弁じますと:

 日経新聞を見ると世の中はまるで大企業と中央官庁のみでできていると錯覚しますが、以前と比べると職業・生業の、即ち生きることの自由の幅が極端に狭められたように思えます。これは「疑似A層」がむりやり生まれるゆえんでしょうか。

 現在はジャーナリストや学者が知的な自由を失って批判精神を捨て、一斉に同じことをお約束として言うようになっていますね。


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 本日(2014年1月14日)の毎日新聞の記事を見ますと、また文科省はアホなことを言っております。「大学に対し、卒業要件を厳格化せよ」と。

http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/mainichi-20150114k0000m040116000c.html

 これじゃあ、さらに自殺者が増えるだけです。「就活自殺」に加えて、「就職できたけど卒業できなかった自殺」が追加されます。文科省、まるで韓非子のようです。人間を管理し、統制することしか考えない。これで日本経済が良くなるわけないです。

 効率的に知識を詰め込んで模倣だけすればよかった明治時代とは違うんだから、大学生時代に一つのことにじっくり取り組むような時間的ゆとりを持たせた教育をしなきゃ、新しい技術・製品・経営のイノベーションなんて出てくるわけがありません。しかし薩長土肥藩閥文部官僚の末裔たちは、まだ明治時代の発想で教育しようとしています。

 文科省、「卒業要件を厳格化せよ」と要求しながら、一方では「退学者を減らせ」と矛盾した要求をしています。退学者の多くは、バイトに追われて授業に出れないという状況です。せめて学生たちがバイトに追われなくてすむように無利子の奨学金の枠でも拡充しろよと思うのですが、それもしない。

 卒業要件の厳格化によって現場の教員の負担は増え、単位がそろわない学生が必然的に増えます。その上、「退学者を減らせ」とムチャな要求をしてくるので、やれ退学させないように個人面接だ、親も呼び出せだなんだと、際限なく現場の教員の負担は増えます。

 これじゃ研究時間も授業の準備時間もますます減ります。一方で、研究しろ、研究業績出せと・・・・。アホもいい加減にしろと言いたくなってきます。

 連中、この日本をどうするつもりなのでしょう? 文科省内部も縦割りで、それぞれの政策を実施している部署が違うから、こんな矛盾だらけの政策を押し付けてくるのでしょう。やはり各省の政策形成機能を立法府に移管させるのが抜本的な解決策でしょう。


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 世の中全体が、実質的に言論と思想の自由がない企業の内部のようになって、同時に企業のマネジメント・管理職がすっかり官僚化したように思います。これは日本の産業が光を失ったことと表裏一体なのでしょう。
 さらに、官僚の本家、官庁の方では、公共性を投げ捨てて考え方がすっかり営利企業のようになっていますから・・・世の中は総「企業官僚化」した時代なのだと思います。

 保守主義者であり、反TPP論者であるという中野剛志氏は著書『官僚の反逆』(幻冬舎新書、2012年)において官僚制と新自由主義とが共通の基盤を持つことを指摘示唆していますが、その根底には「市場の官僚制化」があると論じています。ありふれた言い方をしますと、これは「金融支配の経済社会になった」ということだと思います。


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 中野氏の『官僚の反逆』、未読でしたが、官僚主義と新自由主義・市場原理主義が親和的というテーゼには全く同意いたします。「市場の自由」を掲げた小泉改革時代、こんなことやればやるほどますます官僚の統制が強まるだけだと思っていましたが、案の定、そうなりました。

 当初は「情報公開」だの「透明性」だのの美辞麗句を掲げていた市場原理主義者たち。いまではTPPなんて極秘の非公開で透明性はゼロ。あんたたちがかつて言っていたことは何だったの?と呆れ返って言葉も失います。結局、冷戦崩壊から25年間の実験で明らかになったことは、市場原理主義は官僚主義と親和的なのであり、民主主義とは相いれないということだったと思います。
 

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 ひと頃「市場が判断する」「市場にゆだねる」という言い方が「お約束」になっていましたが、ここでいう市場とは究極的には金融取引市場、ありていに言って「株価」のことでした。市場の自由とは、株式売買の自由のことで、それ以外の市場では強者の独占と支配が効率追求のよき結果としてむしろ称揚されていたわけです。

 株式売買の市場こそが、新古典派経済学が想定する「市場の理想的形態」で、そこでは、のっぱらぼうの「かおなし」である合理的経済人が完全に機能しているわけです。そこから関さんの言われる「本当に冷酷な人間」が無限に生み出されるということになります。

 じつはきのう考えておりましたのは、この新自由主義、そしてそこから生まれる、人間を無個性化し隷属的支配を行うファシズム、この双方に対して「マネジメント」という看板を掲げて対峙したのが、『もしドラ』ブームで若い人たちに知られるようになったピーター・ドラッカーであること、そのドラッカーの「反・新自由主義的」経営論と、孔子の考えを対比して結びつけたのが安冨歩氏の『ドラッカーと論語』(東洋経済新報社、2014年)であり、2009年の『もしドラ』ブームを意識せずにドラッカーや孔子を含めて経営と経済を論じた、安冨歩『経済学の船出 創発の海へ』(NTT出版、2010年)であることです。

 「日経派A層知識人」にとっての基本的語彙であるはずの「真摯さとしてのインテグリティ」、「暗黙知の形式知化」、「目標管理」、「生産性効率の追求」といったものが、ラディカルに、しかし「マネジメント(企業経営)」をポジティブに追求する立場で批判されています。
 また、ドラッカーを「たたき台」として、マーケティングや市場とのコミュニケーション、イノベーションといった経営の定番的問題についての非常にユニークなアプローチがなされています。

 安冨氏によるこの議論が、「日経派疑似A層」ならびに「読売・産経派B層」に自分のアタマで「理」を考えること、そして「利」と「力」に対する「仁」と「義」に就くこと・・・に導く役割を果たす可能性があるのではないかと考えました。



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 安冨氏の『ドラッカーと論語』、気になりながらまだ読んでいませんでした。『東大話法』シリーズは熱心に拝読いたしましたが・・・・・。ご紹介ありがとうございました。時間ができたら拝読させていただきます。

 かつての日本にはたくさんいた、まともな企業経営者は、誰も新古典派経済学なんて信じちゃいなかった。渋沢栄一の言うように、「君子は義に喩り、小人は利に喩る」という『論語』を読んでいた方が経営の役に立つ。企業経営者がみんな内部留保と株主配当第一主義に走ったから、日本経済はダメになりました。麻生太郎さん、内部留保への執着を「守銭奴」とは、たまには良いことも言ってくれますね。



 


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