後ろ歩きの不思議おじさん

あっちこっちにポケットを一杯もった不思議なおじさんの特技は後ろ向き歩き。その右往左往振りは滑稽で、ちょっぴりもの悲しい。

松尾芭蕉は水道工事屋さん

2019年09月28日 | Weblog

隔週の土曜日朝は老人会主催で近所の公園掃除に精を出す。
○○台第2号公園には男3人、女4人が集まった。
第3号公園にも恐らく10人弱が落葉掃きや側溝の清掃、除草などをする。
年間48回だが、昨年は一度も降雨がなかったので48回とも清掃した。


一回平均合計15人が1時間労働している。
年間合計720時間だ。
市から老人会に年間59,000円の清掃管理費をいただく。
老人会の貴重な財源の一つだ。
が、時間給に換算すると何んと82円である。
掃除用具費用や参加御礼のジュース代を差し引くと50円程度になってしまう。
何でもお金の話にしてしまうと、まぁこんな有様になってしまう。
関西電力の役員たちにも掃除に参加してほしいものだ。

さて「おくのほそ道」の作者の松尾芭蕉だが
その人物像については不明のことが少なくない。

謎の一つが「なぜ日本橋から深川に移り住んだのか」というその理由

専門馬鹿という言葉があるが、世間知らずの文学研究者に多い説は
「芭蕉は市中の喧騒を嫌い、不特定多数の顧客を相手にした俳諧師生活の俗臭に耐えられなかった。
また深川移住前後の芭蕉の言説に「侘び」「茶」があることから、
物質的乏しさの中に精神的充足感を求め、そこに新しい風雅を見出そうとする美意識を求めて
江戸の中心から遠く離れた深川に移り住んだ」という類の解説。
これは原因と結果を逆転させている。
ある理由で深川に住んだ芭蕉は、その結果、生き方を変えたのである。

芭蕉(当時は桃青と名乗っていた)は伊賀上野から江戸に下った。
江戸が都市機能を保つためには飲料水の確保が大前提の一つであり、
延宝4年には神田上水建築後50年を経て大規模な浚渫工事が始まっていた。
芭蕉は延宝5年から深川に移り住む8年までの4年間、この工事の請負人になっている。
請負人の業務は契約金の計算、進行表の作成管理、現場監督、作業人員確保、
日当の支払いなど幅広く、顔が効き、信用があり、
細心の注意力と人心の把握、さらになにより体力などを必要とした。
土木、水利技術に優れていた伊賀上野の藤堂藩は幕府から神田上水改修工事を請け負っており、
芭蕉は藤堂新七郎家から江戸に送り込まれた工事技術者であり
、彼は期待に応えてその任を果たし、賄いを得ていた。
藤堂家という後ろ盾を得て江戸に出て、一等地の日本橋に住み、
水道工事を指揮しながら俳諧の道でも才能を発揮して宗匠としても名が売れ始めていた。
家綱が亡くなり、後を継いだ五代将軍綱吉は自らの政治的な統率力強化確立のために、
それまで権力をほしいままにしてきた大老酒井忠清とその関係者に粛清の大鉈をふるった。
藤堂家も例外ではなく、その影響を受けたという説がある。

またまさにそのころ、芭蕉が伊賀上野から連れて来ていた甥の桃印が
あろうことか芭蕉の内妻と駆け落ちをしてしまった。
そのため藩の厳しい掟である5年に一度の帰藩を桃印に果たせることができず
兄と相談して桃印を死んだことにして藩に報告した。
死罪や牢舎につながれる嘘がばれることの無いよう
芭蕉を知る人も少ない江戸奉行管轄外の深川に移り住んだ、という説もある。

芭蕉の、古典文学や漢籍、仏教に関する深い知識が、
何時、どのようにして形成されたのかについてもよくわかっていない。

まぁ 人の行動の背景なんて、他者には容易に分からないもんだけどね。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿