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オスプレイだ
今から60年前、まだ未舗装だった国道161号線を駐留米軍隊の車が行く
幅3メートルもない川を挟んだ小学校の校庭には古い柳並木
その祠に転がり込んだ飴かチョコを拾った記憶
アメリカ兵が投げたものだ
小学校の旧名は饗庭(あいば)小学校
不思議おじさんが生まれたころの村の名は饗庭村
饗庭村の端っこの集落の中心に幅2メートルの川があった
小さな堰の下には子供が水浴びできるような水溜り場ができる
そこは小魚を釣るのに絶好の場所だ
その川からちょっと見上げると江若鉄道の土手だ
日本で唯一だったガソリンカーが走っていた
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/19/a2/af24237fb4e7b243b92672784d729b9c_s.jpg)
短い車両が3輌しか停車できない新儀(しんぎ)駅から
遠くはみ出た茶色の車両が南鐐も連なって止まっている
今から思えば、アメリカの進駐軍が引き上げる列車だったのだろう
車窓から人が乗り出してなにやらわぁわぁと聞こえる
どうやら魚が引いていると言っているように思えた
幼いころの思い出が脳の片隅に残渣のように残っている
早く歳を取って40歳になりたいと必死で願っていた
これは中学生のころのことだ
戦争に連れて行かれる恐怖が体を包んでいた
そんなに切迫感のあるものではなかったが
そのような思いが心の裡からにじみ出てくる機会は
今から思い起こせば、毎日の生活のあちこちにあった
父親は海軍で内地に留まっていた
父親から戦争の話を聞いた記憶はほとんどない
戦争について寡黙だったことが逆に何かを伝えてくる
しかし近所や学校で戦争体験を聞く機会に事欠かなかった
都会(大津や京都)に行けば、傷痍軍人も見かけた
戦争ものの読み物、小説も乱読の中に豊富にあった
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饗庭野(あいばの)演習場である
陸上自衛隊と航空自衛隊が駐屯している
左上の白い曇辺りが不思議おじさんの出身高校のある場所
この右手が不思議おじさんの出生地である
この原野・演習地に続く山に不思議おじさんの家の柴刈り山があった
クマ仙人さんのように、子供のころはマチュタケを取りに行っていたが
http://samidare.jp/jo7uuc2/note?p=log&lid=334344
今はナイキ基地の一部になって入れない
この演習場には落下傘部隊の降下を見に行った
夜になればオレンジ色の照明弾が上がることもあった
真っ暗だった村がオレンジ色に染まり新聞が読めた
大砲訓練はしょっちゅうだった
高校は演習場に近かったので
発射の度にガラス窓が鳴った
教師が「また一万円が飛んで行った」と呟いていた
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/78/8e9e1d1dd45c7d18241c1ae1a378df25.jpg)
明日にもオスプレイが演習するらしい
参加するのは沖縄に駐留するアメリカ軍と
日本からは陸上自衛隊第37普通科連隊の150人が参加する
この37連隊は、なんと不思議おじさんが住んでいる街にあり
まさにその演習地の周りを不思議おじさんは徘徊しているのだ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/a3/e8477ad63cc6a1bb2f19946654545643.jpg)
説明会が開かれた公民館は不思議おじさんの故郷の家のすぐ近く
不思議おじさんの故郷から大飯原発も遠くはない
事故があれば必ず直接的な影響を受ける
従って、琵琶湖に水源を求めている京都市
大阪府のほとんどの都市、阪神間の諸都市の飲み水は汚染を免れない
想像してみる力
目を背けても押し寄せてきて感じてしまうものを受け止める力
恐怖を感じることこそが出発点ではないかと思える