後ろ歩きの不思議おじさん

あっちこっちにポケットを一杯もった不思議なおじさんの特技は後ろ向き歩き。その右往左往振りは滑稽で、ちょっぴりもの悲しい。

過ちは好むところにあり 浅い川も深く渡れ

2019年09月30日 | Weblog

大阪泉州地域のちょっと特色のある中堅スーパーが倒産した。
畑で仕事をしていたら、臨家の畑の師匠が教えてくれた。
普段利用する店は目と鼻の先だが、夕方に確認に行った。

このスーパーは市の第二都心に本格的な店を設けた。
市役所移転候補地だったが、住民投票の意に反して市議会が現状地建て替えを決めた。
その地に大型電気器具販売店や紳士服店とともに出店した。
しかし駅から歩いては少し遠い。
しかも駅には2つに比較的大きなスーパーがある。

夢だったのだろうなぁ
こんな店を作りたいと思っていたんだろうなぁ

そんな想いは冷静な判断など吹っ飛ばしたんだろうなぁ


「第31回淡海節全国大会」に行ってきた。
昨年は寿年の部8位なので予選免除。2日間行く必要が亡くなった。

会場の隣はこんな施設もある。
日曜なので閉まっている。お蔭て存分に戸外で声出しできる。


作者の志賀廼家淡海さんは若くして両親を亡くし、
舞台背景にある商人宿「二階家」に引き取られて育った。
子どものころに見た堅田の漁師の風景を唄にしたものが淡海節

18番目の出場、出だしの音が採りにくいのでそこまでは慎重に
おお、今日は調子よく唄えてるやん!!
と思って唄っていたら、なんと歌詞が頭から消えてしまった、
1秒後に思い出したが、時すでに遅し 全てご破算である。
初めての経験。何百回も唄ってきた曲、今朝から10回も唄ってきた曲
がっくりでございました。
また来年は土曜日の予選からの再出発になりました。


今日は一日、畑の畝を立て種を蒔いて過ごした。
降雨の予報が外れて、一週間以上土が湿っていない
移植したイチゴの3分の一が枯れた。
お多福豆、水菜、菊菜、チンゲン菜、ほうれん草を蒔いた。


雑草を刈って乾かしていたものを畑で焼いた。
試し掘りしたサツマイモをその中に投入


半分は炭になってしまった。
疲れたぁ
もう寝る。


松尾芭蕉は水道工事屋さん

2019年09月28日 | Weblog

隔週の土曜日朝は老人会主催で近所の公園掃除に精を出す。
○○台第2号公園には男3人、女4人が集まった。
第3号公園にも恐らく10人弱が落葉掃きや側溝の清掃、除草などをする。
年間48回だが、昨年は一度も降雨がなかったので48回とも清掃した。


一回平均合計15人が1時間労働している。
年間合計720時間だ。
市から老人会に年間59,000円の清掃管理費をいただく。
老人会の貴重な財源の一つだ。
が、時間給に換算すると何んと82円である。
掃除用具費用や参加御礼のジュース代を差し引くと50円程度になってしまう。
何でもお金の話にしてしまうと、まぁこんな有様になってしまう。
関西電力の役員たちにも掃除に参加してほしいものだ。

さて「おくのほそ道」の作者の松尾芭蕉だが
その人物像については不明のことが少なくない。

謎の一つが「なぜ日本橋から深川に移り住んだのか」というその理由

専門馬鹿という言葉があるが、世間知らずの文学研究者に多い説は
「芭蕉は市中の喧騒を嫌い、不特定多数の顧客を相手にした俳諧師生活の俗臭に耐えられなかった。
また深川移住前後の芭蕉の言説に「侘び」「茶」があることから、
物質的乏しさの中に精神的充足感を求め、そこに新しい風雅を見出そうとする美意識を求めて
江戸の中心から遠く離れた深川に移り住んだ」という類の解説。
これは原因と結果を逆転させている。
ある理由で深川に住んだ芭蕉は、その結果、生き方を変えたのである。

芭蕉(当時は桃青と名乗っていた)は伊賀上野から江戸に下った。
江戸が都市機能を保つためには飲料水の確保が大前提の一つであり、
延宝4年には神田上水建築後50年を経て大規模な浚渫工事が始まっていた。
芭蕉は延宝5年から深川に移り住む8年までの4年間、この工事の請負人になっている。
請負人の業務は契約金の計算、進行表の作成管理、現場監督、作業人員確保、
日当の支払いなど幅広く、顔が効き、信用があり、
細心の注意力と人心の把握、さらになにより体力などを必要とした。
土木、水利技術に優れていた伊賀上野の藤堂藩は幕府から神田上水改修工事を請け負っており、
芭蕉は藤堂新七郎家から江戸に送り込まれた工事技術者であり
、彼は期待に応えてその任を果たし、賄いを得ていた。
藤堂家という後ろ盾を得て江戸に出て、一等地の日本橋に住み、
水道工事を指揮しながら俳諧の道でも才能を発揮して宗匠としても名が売れ始めていた。
家綱が亡くなり、後を継いだ五代将軍綱吉は自らの政治的な統率力強化確立のために、
それまで権力をほしいままにしてきた大老酒井忠清とその関係者に粛清の大鉈をふるった。
藤堂家も例外ではなく、その影響を受けたという説がある。

またまさにそのころ、芭蕉が伊賀上野から連れて来ていた甥の桃印が
あろうことか芭蕉の内妻と駆け落ちをしてしまった。
そのため藩の厳しい掟である5年に一度の帰藩を桃印に果たせることができず
兄と相談して桃印を死んだことにして藩に報告した。
死罪や牢舎につながれる嘘がばれることの無いよう
芭蕉を知る人も少ない江戸奉行管轄外の深川に移り住んだ、という説もある。

芭蕉の、古典文学や漢籍、仏教に関する深い知識が、
何時、どのようにして形成されたのかについてもよくわかっていない。

まぁ 人の行動の背景なんて、他者には容易に分からないもんだけどね。


おくのほそ道の誤記

2019年09月27日 | Weblog

朔日、梅田に出る前に芦原場で途中下車した
通常は天王寺で御堂筋線に、大国町で乗り換えて西梅田に行くので
JR環状線は少し回り道になる。
環状線で大阪(梅田)に行くときは、大学生のころから外回りに乗る。
華やかで人の多い街が多い内回りよりも、
工場街で下町の外周りがお好みであった
もっとも、最近は不思議おじさんがまだ足を踏み入れていないUSJなるものができ
少しずつ雰囲気も変わってきた
新今宮北側の広大な空き地に、星野リゾートのホテル建設も始まったようだ。
それはさておき、芦原橋駅前にある「太鼓正」に用事があった。


買い求めたのは太鼓の撥(ばち)である。
来週の日曜は、大阪市内の大きな民謡団体発表会で鳴り物伴奏を依頼されている。
撥は十数組あるが、ここは新しいもので臨むのが礼儀だと思った。
材質により重さは随分異なる。
結局は、練習で使っている重さに近い檜を選んだ。

さて本日のテーマは「おくのほそ道」における芭蕉の誤記についてだ。
誤記は主に開かなの使い方にある。
その数は夥しい。
ほんの数行の文章に次々誤記がでてくる。
墨染にさまをかえ ⇒正しくは「かへ」
草刈るむおのこに ⇒正しくは「をのこ」
うゐうゐ敷旅人  ⇒正しくは「うひうひしき」
ふみたがえん   ⇒正しくは「ふみたがへん」
ちいさき者ふたり ⇒正しくは「ちひさき者」

これは芭蕉の知識が低いことのあらわれだろうか。
しかし曾良も、清書した素龍も訂正していない。
ということは、この時代、平仮名の誤記はごく普通のことだったと考えるしかない。
朔日のブログに登場した大先輩いわく、
幕末の薩摩藩武士(西郷・大久保・五代など)の日記や手紙を多く読んだが
この類の誤記は当たり前のように使われているという。
研ぎ澄まされた名文の中にこのような誤記が多くあることに少し驚く


やっと白の彼岸花が咲いた


白の秀明菊(貴船菊)も花弁をほころばせ始めた








おくのほそ道

2019年09月26日 | Weblog

松尾芭蕉の自筆本である。
1996年にその存在が明らかになり岩波から出版された
それまでは蕉門の達筆家・素龍に清書させた芭蕉所持本や
同じく素龍清書と推定されている柿衛文庫蔵の別本が知られている。
また同行者の曾良が定稿になる前に芭蕉草稿から筆写した曾良本がある。
大半の研究書は素龍清書版をベースにしている。


月に一回、古典の原書を読む会に参加している。
わずか5人のささやかな勉強会。
国道2号線に面した梅田第2ビル6階に母校の施設があり、
そのロビーは無料で利用できる。

窓から外を見れば大阪を代表する歓楽街・北新地である。
ついこの間までは近松の曾根崎心中を読んでいたが
まさにこの場所が浄瑠璃の舞台であった。

さて「おくのほそ道」は芭蕉の紀行文であることは知られているが
読めば読むほどその平明にして簡潔な文体に驚かされる。
俳句は究極のそぎ落としの文学だが
文章そのものの魅力に改めて惹かれる
解説文よりも本文を読むほうがはるかに分かりやすい。

そもそも「おくのほそ道」は芭蕉46歳の3月に江戸を出て
8月下旬に大垣に至る旅を題材にしている。
旅から帰った芭蕉は、推敲に推敲を重ねて紀行文を書き上げた
刊行されたのは旅から5年経った彼の死後のことである。
その推敲ぶりは様々に検証されていて興味が尽きない

要は、「おくのほそ道」は単なる俳句入り旅日記ではないということだある。
創作と思われる寓話も多く採りこまれている。
推敲の過程で創作された有名な俳句も多い。
旅から帰った彼は、曾良の書いた日記も参照しながら
全くの創作小説・紀行文としてこの文章を仕上げた。

不思議おじさんは「奥の細道」というふうに題名を学校で習ったが
いま学校では「おくのほそ道」という題名で教えている。
これは芭蕉真筆本が出現したからである。

まぁこんな道楽をするために月に一回は大都会に出て
北新地駅または西梅田駅周辺の居酒屋で飲んでいるわけだ。

因みにその5人のうちの一人は、まもなく「新五代友厚伝」を著す。
大学100周年事業の記念出版である。
不思議おじさんとは55年にわたる付き合いで
マージャンに釣りに飲み会でとよくもまぁ飽きずに続いたものだ。


呑み明かした帰り道は、泉州地方の秋祭りの提灯が路地を照らす。

さて日曜日は「淡海節全国大会」で堅田へ。
今年は予選免除なので有難いことである。




何となく再開

2019年09月25日 | Weblog

朝日新聞の天声人語によれば今年の彼岸花の開花は遅れ気味だとか。
山形置賜地方では季節通りに咲いているとある方のブログで拝見した

庭に植えている白花の彼岸花はまだ固い蕾だ

確かに例年は暦通りに咲いていたような気がするが、今年は遅い
暑さが続いているせいだと思える


イチゴの苗の仮植え遅ればせながらなんとかやりました
2カ月遅れの作業
ランナーを伸ばすための場所は設えていたが草は伸び放題
子株、孫株、ひ孫株を仮植えしておいて11月ごろ本植えする。
ところが隣の先生役のお百姓さんは仮植えが酷暑で全滅したとかで
不思議おじさんの、サボっていた畑から株を持って行っていただいた。
ケガの功名である。

畑を続けるかどうかは大いに迷った。 
今もである。
一反(300坪)の草の管理をするのは容易ではない。
刈ったと思ったら、2週間後には呆れるほど伸びている。
草刈り機での作業は炎暑の中で並大抵ではない。
500mlの塩入ペットボトル4本は2時間で空になる。
腰の湿布薬も欠かせない。
回転刃の費用だって少なくはない。

自前の畑で作る農産物は、スーパーの10倍程度の費用が必要である。
要は道楽である。
道楽で体を傷めつけているのだから薬の付けようもない。

とはいえここ数日は毎日平均5時間の作業をして
大根、かぶら、人参、白菜、分葱、ニンニク、白菜、キャベツ、ブロッコリーなどを植え付けた。
晩秋収穫のジャガイモも作付けしたが、まだ芽が出ない。

なにはともあれ、生きておりますとのメッセージとして
このブログを再開いたします。
よろしくお願いいたします。