後ろ歩きの不思議おじさん

あっちこっちにポケットを一杯もった不思議なおじさんの特技は後ろ向き歩き。その右往左往振りは滑稽で、ちょっぴりもの悲しい。

抱負

2007年12月30日 | Weblog
新年を迎えるに際して
一年の抱負を述べるとき
英語では I hope …と切り出すらしいが
M教授 正しいでしょうか
Hopeなので抱負と洒落たわけでもないでしょうネ

希望なり期待なりを言うときに
なぜ「負け」と言う言葉が入っているかって?
それは まず実現不可能なことを言うに決まっているから!
と言うのは真っ赤な嘘

抱くは手で包むこと
負うは背中に乗せること
気持ちや考えを持つこと
転じて心の中の計画・希望
上昇、沈降などと同様に
同じ意味の重ね言葉

自分に対する未来への可能性を信じるとき
人はそれを青春と言う

さて自分にどのような可能性を感じ取れるか

3月に丹波篠山にお誘いを受けている
浪曲の名人がおいでになる催しがあるそうだ

浪曲
まさに一人で演じる総合芸術ではないか!

不思議おじさんの声に関する歴史は長い
高校生の時は合唱部にも入っていた
毎日コンクールで滋賀県で4位だった
NHKラジオの「みんなのうた」の楽譜が
隔月に発刊されたが 当時のものは数年分ある

大学では演劇部と共に能楽研究会にも入っていた
それで不思議おじさんは出身学部を「農学部」と偽っている
音だけで聞いていればまんざら嘘でもないはずだ
本当に農学部出身と信じている人も何名かはいる
3人の男兄弟はなぜか全員観世流を習った

ドイツリートはレコードを何枚も擦り減らした
詩吟は少しだけ教えてもらったことがある

このサイトのアドレスはrakufuuだが
「楽風」のことである
もう10年をはるかに超えたが
民謡で名取を拝受させていただいている

浪曲ははるかな憧れではある
しかし目下のところは習う伝も無い
そういえば、民謡を習いたいと思って
民謡の会にたどり着くまで数年掛かっている

数年後
ジャイアンと化した不思議おじさんが
浪曲を唸っているかもしれないが
その時は お付き合いのほどよろしく

因みに写真は40年前のもの



白い思い出

2007年12月29日 | Weblog
明日は雪が降るとのこと
果たして徳島でも降るでしょうか?

雪をテーマにした歌は多い
不思議おじさんが思わず口ずさむ唄は
ダークダックスのこの唄

雪が降ってきた ほんの少しだけど
私の胸の中に 積りそうな雪だった
幸せをなくした 暗い心の中に
冷たくさびしい 白い手がしのびよる

雪が溶けてきた ほんの少しだけど
私の胸の中に 残りそうな雪だった
灰色の雲が 私に教えてくれた
明るい陽ざしが すぐそこに来ていると

灰色の雲が 私に教えてくれた
明るい陽ざしが すぐそこに来ていると
すぐそこに来ていると

トラブルに備えて
明日も出勤です

線と床材と婦人下着

2007年12月27日 | Weblog
3題話のようだが
これで判る人は相当な碩学者
写真がヒントではあるが
この写真は異種

眉山の麓に茶屋がある
さだまさしが良く立ち寄った店
映画「眉山」は来年にテレビドラマ化される
撮影の一部が不思議おじさんの会社の前で
行われたことは8月25日に書いた

ライン Line
リノリウム Linoleum
ランジェリー Lingerie
と書くと語源の共通性が目に付く
Linen(亜麻)はラテン語名Linumを源とする

「亜麻色の髪…」と口ずさむ人は多い
ところで亜麻色ってどんな色?
亜麻は北欧や中国で栽培されているため
不思議おじさんも見たことが無い
花は白か紫、稀に青らしい
しかし亜麻色は黄色かかった茶色
亜麻色の髪は栗毛のかかった金髪

実は亜麻の茎は高級繊維リネンの原材料
枯れた亜麻の茎の色なのだ
油も採れて亜麻仁油になる
空気に触れると固まる乾性油

眉山にはモラエスの像が
故郷ポルトガルを向いて建っている
明治初期に外交官として来日して神戸に住み
ヨネと死別して徳島に来て姪のコハルと共に生活した
コハルにも先立たれて西洋乞食と呼ばれるように暮らした
1929年に徳島で没している
瀬戸内寂聴氏がその生涯を人形浄瑠璃の脚本にした
「モラエス恋遍路」である

写真は、モラエスが持ち込んだと言う
黄色亜麻の花である
瀧の茶屋のすぐ上で
今が盛りと咲いている






ドッペルゲンガー

2007年12月26日 | Weblog
まだ明けきらぬ朝の7時
西の空に満月が浮かんでいる

夢と言うものは
何と何をくっつけるか分からない

何かの集まりで懸命に説明しているときに
「雨森芳州」と言う名がどうしても出てこない
夢の中で頭をフル回転して思い出す
「八州」という言葉が浮かんできた
大学1年生のときにハンストを一人でやったが
4日目に先輩の家で介抱してもらった
その先輩は漫画を作画していた
ペンネームは「八州一夫」だったと思うが下の名はうろ覚え

目覚めればもう朝だった
腰の調子は日にち薬
腰が気になるには 一つの気持ちがあるから
来年4月27日に徳島で初めての市民マラソンが開催される
チャレンジしようかとの気持ちが
心の奥で蠢く (春に虫2つのこの漢字は表意文字そのもの!)
もちろん 無理であろう
そんな気持ちにさせるのは
もともと高校生で陸上中距離選手だったからだが
もう一つだけ わずかな理由がある

自分の名前をgoogleで検索すると
市民マラソンの記録が出てくる
どうやら関東在住の同年代の人らしい

同じ名前で 同じ時代を生きる
まるでドッペルゲンガー
わが影法師 (ハゲ防止ではない!)
もう一人の自分のようでもある




カレーおじさん

2007年12月25日 | Weblog
間もなく14年目となる
阪神淡路大震災の被災地を
徳島から大阪の往復で
毎週のように通る

地震は毎日、必ず発生している
気象庁のHPを見ると慄然とする
例えば近畿・四国・中国地方を見てほしい
http://www.seisvol.kishou.go.jp/eq/daily_map/osaka/index.html
マグニチュード2以下は30件以上だ

食品製造企業は様々なリスクに対応しなければならない
そのための保険も多様に売り出されている
しかし事業者用の地震保険は無茶苦茶高い!
個人住宅の場合は国と保険会社が共同運営しているが
事業者向けは保険会社自身が直接にリスクを背負うためである

被災後の個人住宅再建促進法については
不思議おじさんも運動の一端にかかわってきた
空前の署名を集めたが 
出来上がった法律は自然災害自立支援法であった
兵庫県だけは、独自の共済制度を作っている

13年前、一年間の復興活動を行っていたが
その一つのは炊き出しであった
大勢の方にできるだけ温かいものを手際よく
となると、カレーが最適であった

西宮市、芦屋市、神戸市の被災地で
仮設住宅近辺の公園等で炊き出ししたが
自転車に乗った40歳がらみのおじさんがいた
どこで調査したのか今でも分らないが
わが現地救援本部のカレーのときは必ずおいでになって
何回も並んで三杯から四杯を平らげられていた
いつしかカレーおじさんの異名がつけられたが
来られないときは 「どうしたんだろう?」と
スタッフの心配のネタになったものだ

さて三日間の苦行が終わった

百貨店には試食おじさんがいた
毎日試食するにはタイミングと技術が必要
笑顔も武器になる(はず!?)
しかし喰っていくため(?) ともなると
事情はいくらも変わってくる
想像力を逞しくして
自らをその身に置いてみても
その心は窺い知れない

シューベルトの「冬の旅」を待つまでもなく
若い男が望みを断たれたとき
自らを乞食にまで貶めることで
自らの魂を救おうとする

男にはどこか乞食願望のようなものが潜んでいるようだ
人里離れた山のふもとに庵を編み
乞食のような暮らしを黙々と送る
歳をとると そのような夢を見る元気もなくなる
乞食になるには ある種、健康な心と丈夫な体が必要なのだろう

そして現実の不思議おじさんは というと
腰がぐらぐらして 椅子から起立することも困難
いやはや 
順調に歳をとったものである










職人? 技術屋? 芸術家?

2007年12月24日 | Weblog
オランダ人でドイツのマイスター資格を持った人がいる
13年間、当社で技術指導していただいた

ある日、群馬県の老練のハム屋のご主人から
抗議の電話があった
弟子を育てることが
第一のマイスターの仕事ではないかと

マイスターを職人の資格制度と訳すのが普通だが
当社の工場長は「職人」と言う言葉が嫌いで
当人は「技術屋」だと言っている

コッホもローストポークも特製ミートローフも
全て彼が作っているが それだけではない
売り場の飾りつけ、配置、盛り付けから
お客さんへの売り込みに至るまで
全てにおいて彼にはイメージがあり
率先実行の人である
食べてもらってナンボであると考えている
食べてもらうまでの全過程を楽しんでいる

小妻いわく
「芸術家だね!」

ソーセージを飾り付けたツリーと
骨付きモモのハム(コッホシンケン)
写真で楽しんでください

類人猿からヒトになる苦しみ

2007年12月24日 | Weblog
ヒト=人類が地球に現れて数百万年
類人猿から人類に移行する間の化石が
ようやく少しずつ発見されているそうだ
2足歩行が最大の特徴である
ただし後ろ歩きはしていない はず?!

世間は3連休
不思議おじさんは3連勤

徳島県唯一の百貨店の地下で
コッホシンケン(骨付きハム)や
ローストポーク・ミートローフなどの
特製ミートデリカの3日間限定販売だ
いわゆるデパチカの惣菜を頼まれて出店

朝の9時過ぎにデパートに着いて
夜の8時までの11時間
何が苦しいと言って
要は 立ちっ放し!

ずっと立っておくのがしんどいから
学校では罰として立たしていたのだと
小妻が教えてくれた 
なるほどね!

前後左右の店の売り子さんたちに聞くと
立ちっ放しは慣れることのない辛さだそうだ
それでも売れれば時間の経つのは忘れるけれど
雨でも降れば 一日の長さもさらに辛いらしい
せめても店内を歩ければよいけれど
同じ場所に立っておくのは苦しみ以外の何物でもない

類人猿が2本の足で立ったとき
立ちこと自体に意味は無くて
立って歩くことに意味があったのだ
などと 腰の痛みが教えてくれる

さて今日も初期人類の苦しみを
たっぷりと味わうことにしよう
なにせ 誰かの誕生日の前の日だから
人類の産みの苦しみを味わうのも
一興かもしれない



アレロパシー その後

2007年12月21日 | Weblog
いやはや 最多忙の毎日である
ギフトの時期に多忙でなくては
とてもやっていけない

発送伝票の二重、三重のチェック
いつもと異なる業務にミスは許されない
総動員体制だ!

個人情報に関わるので言えないが
超々有名人から 超々々々…有名人への
お歳暮を承っている
当社製品をご指名いただいたことに
従業員一同感謝!
改めて 誇りを感じる瞬間である

当社からほんの1km先には
日本を代表するN社の発祥となった工場がある
大手メーカーの罪は重い
ハム・ソーセージに関して
ヨーロッパでは「イミテーション」の表示が必要なものを
それが本物であるかのように日本の消費者に植え付けた

グローバリゼーションの弊害の一つは
強いものが弱者を”完全”に制圧する
そのこと自体が目的であり正義でもあり
正しい行動だと考える理念にある

そもそも地球上に生命が誕生して36億年
強者が圧倒的な地位を占めたときから
強者は必ず滅びる歴史を繰り返してきた
多様性のなかで共生することに
生命の本質はある

さて小難しい話は別にして
あのホテイアオイはどうなるのだろうか
年末を向かえたというのに
葉こそ茶色くなってきたが
飯尾川の水面を覆ったままである
9月1日のブログと比較していただきたい
川の水面はかの植物によって完全に制覇され
水中に太陽の光が届くことはない
もう年末と言うのに水面は全く見えない
数キロの長さにわたっての状態だ

ホテイアオイの栄養は下水道処理水である
各地で水質浄化のために植えられているらしいが
このまま放置すれば、膨大な有機物が
川を富栄養化することを避けられない
そんなことに心を痛めるおじさんである



 

銀杏

2007年12月19日 | Weblog
葛城山の奈良側に一言主神社がある
言うまでもなく葛城氏一族に繋がる神社
民間信仰では、「一言だけ」願いを聞いてもらえる
大阪の尊敬する大兄は「お金」と言ったそうだ
不思議おじさんはなんと言ったか?
「三言!」と言ってから3つのお願いをした!

一言主神社に珍しい銀杏の大木がある
「乳銀杏」だ
気根が、まるで人の乳のように垂れ下がっている
おまけに、「お葉付き銀杏」でもある
銀杏の葉の先にギンナンが実る

世の中には不思議な木があるもので
葛城山の大阪側の麓にある弘川寺には
西行の墓があり、桜の名所だが
なんと松葉が3本の松がある

毎朝の通勤路に天神さんがある
老人たちが早朝から境内を掃除して
必ず2,3ヶ所で焚き火をする
その煙の中を歩いて会社に行くのだが
老人たちはすでにゲートボールに熱中している

天神さんの銀杏は見事だった
その散りっぷりは堂々としていて
老人たちの掃除は間に合わない
黄金色の絨毯が出現した
贅沢な気分になる

そう言えば
不思議おじさんの出身大学では
大学祭を「銀杏祭」と名付けていた
ほとんど何の思い出もない
祭りどころではない時代だった


終わりのない講座

2007年12月18日 | Weblog
韓国では「2030代」世代の保守化が
大統領選挙を左右しそうだとのこと
李明博候補の当選が確実視されている

彼はソウル市長のときに
清渓川改修を手掛けた
高速道路を壊して
都心に人工の清流を蘇らせた
もう3度ほど訪れた

高速道路を作って儲けたのは
現代建設の社長だった李明博氏
それを壊して人口河川を作って儲けたのも
同じ李明博氏である
高速道路を清流に変えたからと言って
素直に評価するのは単純すぎる

12年になる「ふれあいハングル講座」の忘年会に出た
半分ぐらいしかお顔と名前が一致しない
この講座を受講した人は500名くらい
受講後に韓国に語学留学し
韓国関係の会社に勤めた若い女性も2人
他人の人生に深く関わった重さを感じる

この講座創設の経緯は
http://nanunse.com/を!

第1期生も三人残っていると言う
言葉を何のために学ぶのか
それは人と人を結びつけるため
隣国の言葉を学ぶことなく
隣国との関係を結ぶことなど
当たり前のことだが 
不可能だと断言できる

戦争は常に隣国との起きる
平和憲法を守ることも大事だろうが
憲法云々の前に
戦後教育で作られた自分を
自らが取り戻すことが一番ではないか
戦後教育でハングルと日本語を
それぞれに遠ざけた歴史を
市民がそれぞれに取り戻す
それが「ふれあい共生塾語学講座」

12年にもなったが
もちろんリーダーの2人の先生の熱意が
この講座の芯となっている
学校やピンクウサギなら
語学講座には 終わりが来る

ふれあい共生塾ハングル講座には
終わりはない
人と人の交わりが紡ぎ出され
野火のように拡がることを
不思議おじさんは夢見るばかりである



年末のご褒美?

2007年12月13日 | Weblog
第1次世界大戦でドイツは負けた
約4700人の俘虜が日本各地に拘留された
そのうち約1000名が徳島県の坂東収容所で暮らした
あの延長18回を村椿と戦った徳島商業の坂東投手の出身地
(というよりも、タレントの坂東英二というほうが分かりやすいが)
そして協同組合の父、賀川豊彦の生誕地でもある

松江中佐はドイツ人の自主的活動を奨励したため
酪農、農業、家具製造、靴屋に至るまで
ひとつのドイツの町が出現した
そして、日本で初めて第9交響曲が演奏された
もちろん、ハム・ソーセージも作られた

その映画化が2006年に図られ
「バルトの楽園」が日独で公開された
そのロケ地が四国88ヵ所の一番札所
霊山寺の背後にある
鳴門市が力を入れて観光地とした

不思議おじさんが赴任する前のことだが
会社の人たちが当時のソーセージを復活させた
同時期の習志野収容所に遺されたレシピを再現した
もちろんこの映画にも”出演”している
「復元ソーセージ」と命名して、
昨年は多くの百貨店や雑誌等で紹介された

観光地となったロケ村にみやげ物店がある
そこで販売を続けてきたが無残なものであった
大体・そもそも 観光客が来ない!
賞味期間1週間の復元ハム・ソーセージの大半は
売れ残って廃棄処分となってきた
納品伝票は、差引ゼロ円の週が続いていた
08年3月の終わりを 一日千秋の思いで待っていた

突然に知らせが入った!
なんと今年の12月20日で閉鎖すると言う!
これほど皆んなが喜んだ知らせは久しく無かった!
人件費、物件費の持ち出しは計り知れなかった!

久しぶりに商品の入れ替えに行った
もちろん新品と売れ残りの入れ替えだけ
伝票の合計欄はゼロ円!
冷蔵ショーケースの排水を捨て
(夏場だと2日に一回は必要な作業だった!)
売り場の職員さんに声を掛けて
お別れのご挨拶をしてきた

その顔は
隠しようも無い笑みがこぼれていた筈だ!

因みに もう製造計画は無い
冷凍した在庫があるだけだ
当然ながら、プレミアが付く!

と言うことは、多分無いだろう


阿波女に讃岐男

2007年12月13日 | Weblog
東京に生まれ
フルートを手作りする男性と結婚し
山形県川西町の寒村に15年暮らし
夫の死後に 娘の近くで暮らすために
徳島市内で 大学の掃除婦をしながら
捨て犬と暮らす女性と会った

山形では自給自足に近い生活だったようだ
家には電気はあるが、テレビも何もない
自動車を持つことなど考えてもいなかったらしいが
娘さんが小学校に行くようになって
あまりにも遠いためにご主人が免許を取ったらしい

川西町の自然は「豊か」を通り越していたようで
夏に自転車に乗るときには
網を振り回して前に進む
するとアブがドッチボール球くらい取れて
飼っている鶏の餌にしたそうだ

そんな彼女が8年ほど住んだ徳島について
「戦争のときも食うに困らなかった土地柄」を
少し皮肉をこめて語った
食うに困らないから深く考えない
のほほんとしていて、決断しない
「次」を想像することができない
従って、何か新しい方法、やり方を
頑張って工夫しようとすることがない
「できる人」は徳島に残っていないと言う
大学では、来春卒の就職先探しで
バスを何台も連ねて大阪に向かっていると言う

コテンパー である。
しかし 共感する心を拒めない!

当社の工場長の念願は
徳島から大阪への移転である
ほとんど 夢想・空想の世界だが
分からなくもない

それに対して
徳島の女性陣の元気さはどうだ!

瀬戸内晴美さんが文化勲章をもらったとき
文学に対してだけではなく
女性としての自立した「生き方」が対象になったらしい
もっとも 地元徳島の娘さんのいる家庭では
「瀬戸内さんのようにだけはならないで欲しい!」が
共通する合言葉だったらしいが…

昔から讃岐(香川県)男に
阿波(徳島)女というらしい
労と工夫を惜しまない働きぶりは
今も昔も変わらないらしい








おいら岬のーー

2007年12月11日 | Weblog
模造紙に朱と墨で縦書きに
映画3本建ての案内が
鄙びた村の家の壁に貼ってある

会場は小学校 
スクリーンは校舎の壁だ
親に連れられて暗い夜道を
少しわくわくして向かう

激しい波に抗い
灯台を守り抜く
 おいら岬のー
 灯台守はー
 妻と二人でー
 沖行く船のー
 無事をー 祈ってー
 灯をかざす
 ひいーいひをかざすー
小学生のころ 
意味は8割くらいしか分からないけど
しょっちゅう 唄ったものだ

その灯台が
岩手県重茂(おもえ)であるとは
石けん運動を通じて知った
まだ行ったことは無い

その重茂から鮭が届いた
もう15年以上になるのか
毎年、自分宛で注文する
今年は徳島に届けてもらった

90センチはあろうかと言う鮭の腹を割くと
溢れんばかりのイクラが零れ落ちる
黄金色の生命の塊
多数のご来客があった夕方だったので
うっかりと写真を撮り忘れた

知らないとは恐ろしいもので
最初のころは、手でしごいてイクラを取り出した
塩水を用意して 慎重に 慎重に

もう何年も前にバトミントンセットを買った
今年は大阪からわざわざ持ってきた
イクラを取り出すためである

●●大学農学部水産学科卒の●村氏も
イクラ取り出し作業は初めてだったらしい
魚の捌きは、山形の渡部●雄さんにお願いした
なんと 魚屋さんに勤めたことがあるとのこと

山名さんの純米酒と
浄慶さんの国産大豆・小麦で醸った醤油を
たっぷりと吸い込んだイクラは
一年の終わりを祝う至高の肴である




時代は変わる

2007年12月10日 | Weblog
時は断りもなしに過ぎていく
振り返ることによってのみ
時の移り変わりを確認することができる

30年以上前の鶏肉会社は
いまは売上高250億の企業となった
豊富で多様なアイデアを湧き出させ
決断力と行動力のある社長を
横からずっと見させていただいてきた
地鶏売上高№1の阿波尾鶏を育てた丸本昌●社長

自分の企業を高校野球に譬えて
いままでは打って打って打ってきたという
たまたまヒットや二塁打を打てたから
それなりの点数も入ったが
球場設備や野球道具、人材への投資で
大きな借財を抱えて
次世代への引継ぎに悩む

いまは守備が99%であるという
投手・野手を除く7人の守備で守れなければ
倍の14人で守ると言う

日本の食品企業の多くがそうなのだろう
打撃に転じる余裕すらない
それでも打たなければ点数は入らない

どこに向かって打つのか
満塁でもスクイズという手もある
野手のどこに間隙があるのか

そもそも何のために野球(製造)しているのか
それは未来にどう繋がるのか
繋げるためには何をしなければならないのか

太陽はずっと南寄りから上がる
後ろ歩きの姿は
伸びてきた牧草の上に
細長く延びる

ご利益

2007年12月09日 | Weblog
お客様が続いている
不思議おじさんの近くには
それなりの見て頂く場所がある

四国三郎吉野川の第十の堰
江戸時代 洪水に苦しめられた人々の
知恵と汗の遺跡が今も役立っている

四国88ヶ所のお寺をめぐる
以前にも書いたが
この旅は死出の旅である
口減らしのために自ら家を出る老人
野垂れ死に覚悟の出立
明日は我が身 
だからおもてなしが根付いた
野道に点在する墓は
懇ろに土地の人が遇した証

現世の幸福を願うのは人の常だが
どこかの政治家のパフォーマンスは
白々しいを通り越している
あの政治家とちょっとやりあったことがあるが
労働運動の 人を恫喝する
面の厚さと 傲慢さが臭った

さまざまな人と人の結びつき組織の父
賀川豊彦の記念館は
人は変われるものだという
勇気を与えてくれる

もちろん第一次世界大戦で
俘虜となったドイツ人を収容した
坂東の地には立派なドイツ館も。
おかげでドイツビールの入手が簡単だ

そして四国88ケ所巡礼の
第一番目のお寺
霊山寺
毎週のようにお訪ねしている
一本100円の蝋燭を献灯している
家内安全から商売繁盛まで
4文字熟語が蝋の中に溶けていく

いまや観光バスによる
弾丸ツアーでお寺をめぐり
その証拠としての印を
冊子に捺していただくツアーが
四国を走り回っている

一番札所には
旅立ちの道具を売る店が
寺の中を含めて数軒あるが
真宗さんも国際的になったものだ
なにせ 旅姿のモデルは
青い眼のおじょうさんだものね