ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

サンフランシスコ「在留同胞よ健在なれ」〜大正13年 帝国海軍練習艦隊

2018-02-08 | 軍艦

さて、練習艦隊がサンフランシスコに寄港したのは一週間という期間でした。
その間、彼らはわたしにとって非常に馴染みのあるあの街を探訪したようです。

冒頭の写真は、サンフランシスコの現在のベイブリッジ側ですが、
まだ橋など影も形もなかった頃で交通の全ては船に頼っていました。

今、市のモニュメントとなっているクロックタワーはフェリーの発着所でした。

■ 市中及び近郊見学

黄金花咲く金門公園内に燦然たる日本の茶亭を見出すのも懐かしい。
加州大学、スタンフォード大学、オークランド、アラメダ等と
候補生の見学は中々忙しかった。
亦ロスアンゼルスの日本人会の招待で乗員の一部は此の短い滞在の
二日を割いて遠くロスアンゼルス市の油田及び市中見学に赴いた。

クロックタワーがこの右手突き当たりにある当時のマーケットストリートの様子です。
マーケットストリートはサンフランシスコのダウンタウンのメインストリートで、
企業や銀行、デパートなどがあり、今でも同じ線路の上を路面電車が走っています。

サンフランシスコ在住時、TOの勤め先はちょうどこの右側にあり、
市のはずれの我が家からは路面電車で乗り換えなしで来ることができました。

どこでも車で行くことが出来るアメリカも、ダウンタウンは駐車場が高く、
路上のコインパーキングも少しでも時間をオーバーすると、
鵜の目鷹の目で狙っている駐車違反切符係が飛んできて、それこそ
目玉が飛び出る程の罰金を払う羽目になるので、この辺りのオフィスワーカーは
オーナーや重役もない限り公共機関で通勤しています。

この写真の説明には、

「金門公園の海岸に建てられたる家」

とありますが、このブログを読んでくださっている皆さんのなかには、
もしかしたらこれが「クリフハウス」という
温水プールのあるスパハウスの
付属レストランであることを
覚えている方もおられるかもしれませんね。

これを「家」と一言で言い切ってしまっているのは、もしかしたら彼らは
実際にここに行き写真を撮ったわけではなく、絵葉書か写真を買ってきて
アルバムに掲載したからではないかという疑いが持たれます。

ここはわたしが毎年のように訪れているサンフランシスコ西北端の「クリフサイド」です。
昨年の夏もここでクジラを見たことなどをご報告させていただきました。

これも繰り返しになりますが、ここにはスートロ・バスズという
温水プールと、当時の併設されたレストラン施設「クリフハウス」があり、
この写真に見える建物は、焼失した初代に代わって建てられた2代目です。

しかもこの2代目クリフハウスは

1907年に台所からの火事で消失している

はずなのです。
せっかくサンフランシスコ大地震で持ちこたえたのに、よりによって
その翌年、わずか11年で姿を消してしまいました。

1907

で、なぜ1924年の練習艦隊のアルバムに写真があるのかなー?(棒)

当時の日本とアメリカの距離はあまりに遠く、事実を確かめることなどできないと
甘く見て、アルバム製作者は
買ってきた写真でお茶を濁したのでしょう。
実は焼失してもう存在していなかったため、行っていないことがバレてしまったと。

まあ、バレたと言っても指摘しているのはわたしだけですが(笑)
当時の貨幣価値とスケジュールの多忙さを考えると無理からぬことという気はします。

ちなみにクリフハウスは建て替えられた後にも続けて4回火事で焼けています。

この、ゴールデンゲートパークにある「ジャパニーズティーガーデン」の写真も
どう見ても買ってきたハガキではないかと疑われます。

まあ、行ったかどうか怪しいクリフハウスと違って、ここは実際にも見学しております。
と言いながら、わたしは住んでいたくせに今まで一度も行ったことがありません。


ゴールデンゲートパークの日本庭園は、1894年に開かれた国際博覧会の際に造園され、
公共の日本庭園としては
米国で最も長い歴史を持っているということです。

博覧会が終了した後、ここで茶店を経営していた日本人の萩原真という事業家は、
この訪問時点ではまだギリギリ生存していたということですが、翌年、
1925年に萩原は死去し、萩原の遺族が管理を続けていました。

その後1942年になってルーズベルトの出した日系人排斥令にしたがって
萩原の家族はこの家を追われて強制収用所に収監されることになります。

排斥令に伴い「ジャパニーズ・ディーガーデン」は「オリエンタル・ティー・ガーデン」
に改名され、園内のティーハウスの運営も萩原家から中国人の手に渡りました。

戦後、元の「ジャパニーズ」に名称も中身も戻されたのはいいのですが、
2007年時点では、どういうわけか経営はやっぱり中国人だったそうなので、
多分今でもそうなんだろうと思われます。(投げやり)

「加州大学」で軍事教練を見学中、とあります。

加州大学とはカリフォルニア大学のことですが、ご存知のようにカリフォルニア大学には
「バークレー」「ロスアンゼルス」「デイビス」「サンディエゴ」など、全部で
10大学を含むシステムで、ここに写っているのはおそらくサンフランシスコ校、
UCSFということになります。

昔から医学で有名な大学なので、軍事教練をしていたというのが不思議な気がしますが、
普通大学でも教練が行われていた時代がアメリカにもあったということでしょうか。

写真は現在のUCSFのある地帯で、朝らしく、霧が濃いのがわかります。

練習艦隊御一行様、この7日間の間にスタンフォード大学まで行っています。
サンフランシスコからスタンフォードまでは今でも車で1時間、
当時の道路事情と車の性能ではもっと時間がかかったと思うのですが、
それでも西海岸の有名大学をこの機会に一眼見るべきと判断したのでしょう。

写真に写っているのは今でももちろんキャンパスにある

スタンフォード・メモリアルチャーチ

です。
1903年に建造され、大地震では大きな被害を受けて再建されています。

今のスタンフォードは観光地化していて
いつ行ってもどこに行っても人が溢れています。

このメモリアルチャーチは、大学創業者である

リーランド・スタンフォード(1824−1893)

の死後、夫人が彼を慰霊する意味で建てたものです。
実はスタンフォード大学は正式名称を

「リーランド・スタンフォード・ジュニア大学」
 Leland Stanford Junior University

と言います。(今も)
かれの15歳で腸チフスのため亡くなった息子の名前で、
父親であるスタンフォードが永久にその名を残すために作ったのです。

カリフォルニアの州庁舎所在地がサンフランシスコではない、ということを
実はわたしはこの写真によって初めて知りました。

サンフランシスコを内陸に車で1時間半くらい行ったところにある
サクラメント市というのがカリフォルニアの州都だったのです。

ちょっと不思議な気もしますが、この理由は州都制定当時(1854年)、
ゴールドラッシュの影響で人口が多かったということからです。
ゴールドラッシュはサクラメント近郊で1847年金が発見されたことに端を発します。

ちなみに米墨戦争以降、州都は

サンノゼ→バレーホ→ベニシア→サクラメント

と変遷してきています。

サクラメント市はカリフォルニア州議会を持ち、
今でも写真の議事堂で上・下院議会を行っています。

1890年以降、ロサンゼルスに油田が発見されました。

以後、ロサンゼルス、オレンジ・カウンティー各地で油田の発見が相次ぎ、
ゴールドラッシュでサクラメント近辺に集まっていた人口は
今度は「オイル・ラッシュ」でこちらに民族大移動してきます。

金鉱を掘り当て一攫千金のチャンスをものにした人などごく一握りで、
食い詰めていた人たちが多かったということなんですね。
ちなみにリーランド・スタンフォードはその「ごく一握り」の成功者です。

一大石油産地となったロスアンゼルスは、その後テキサスで油田が発見されるまで
アメリカの石油消費の大部分を支え続けて成長しました。


さて、我が帝国海軍練習艦隊の乗員の一部は在米7日の間に、
2日を割いてロスアンゼルスまで行ったとあります。

当時、これもスタンフォードが作った鉄道会社によってサンフランシスコから
ロスまで汽車で行くことができたので、それを使ったのだと思いますが、

サンフランシスコーロス間は今でも汽車で8時間はかかります。

たった二日の行程で、これは体力的にもかなりきつかったと思われますが、
ロスの日本人会のたっての希望でどうしても断れなかったのかもしれません。

現地の日系が、練習艦隊の寄港をいかに楽しみにしていたかがわかります。

 

説明にもあるように、候補生たちは此の短い日程でオークランド、
そして当時は海軍の軍港があったアラメダにも行っています。

前回ご紹介した「ワイレー中将の艦隊訪問」はここで行われたものと思われます。

 

駆け足だったに違いないロスアンゼルス市内観光では、なんと
ワニ園を見学しているという相撲部員の写真が・・・。

なぜ相撲部?なぜワニ園?色々と謎です。

今現在ではロスにワニ園と関係する施設は存在しません。

 

勇ましき出航用意の喇叭は響きぬ。
早くも数台の飛行機に爆音勇ましく濃霧尚晴れやらぬ中
空に雁行をなして我を見送り、日章旗揚げし「ボート」は
数多艦隊近く続りて別離を惜しむ。

さらば 桑港よ 金門港よ

  在留同胞よ 健在なれ

 

艦隊が訪れる直前の1924年7月、アメリカでは移民排斥法が成立しました。
これにより日本人を含む「白人以外の移民」はこれを禁止されることになり、
移民先を失った日本は満州にこれを求めたという説があります。

何かと非難される日本の大陸進出の遠因は、実はアメリカが作ったという考え方です。
もちろんそれは単なるこじつけだという説もありますが、実際満州に
新天地を求めて行った人の多さを考えると、それもそう大間違いではないような。

少数とはいえども移民する権利が存在する状態と、完全に移民する権利が奪われて
1人も移民できなくなることの間には、超えられない差が存在する(wiki)のです。

いずれにせよ、排日移民法が当時の国内外日本人の反米感情を産んだのは間違いなく、
当のアメリカにこれだけ追い込まれては、戦争は単にきっかけ次第だったという気もします。

日本からの練習艦隊がサンフランシスコを離れる日、アメリカ海軍は
当時主流だった複葉機の編隊飛行を行い、艦隊を見送りました。

詳細は記されていませんが、練習艦隊が出航したのを見計らって
飛行機が上空を追い抜いていくように飛び去ったのだと思われます。

これもアメリカの日本海軍に対しての国力と戦力誇示であったというのは
少々穿ちすぎる考え方かもしれませんが・・。

 

 

続く。


桑港・接伴艦「コロラド」級三姉妹〜大正13年度 帝国海軍練習艦隊

2018-02-07 | 海軍

 

大正13年練習艦隊は中南米の航程を経て、西海岸にやってきました。
アメリカでの寄港地はサンフランシスコです。

この頃、現在の練習艦隊が必ず寄港する西海岸最大の軍港、
サンディエゴには寄港していません。

なぜなら、昨日もお話ししたようにサンディエゴが海軍基地となったのは1922年。
この練習艦隊の2年前です。
とても海軍基地として外国の艦隊が寄港できる状態ではなかったのでしょう。


■ 桑港

(マンザニヨより桑港まで 航程1573哩 航走 6日15時)

(自 1月23日 至 1月30日 7日間)

吾練習艦隊歓迎の為、米海軍の精鋭「ウェストバージニヤ」
「コロラード」
「メリーランド」の三艦が、各浅間、出雲、
八雲の
接伴艦の役を取られたのは実に嬉しかった。

日米国旗の交叉される所彼我の間には正義と平等、
親善と理解の曲が高鳴らされて居た。

「ウェストバージニア」は1923年、つまりまだ就役して1年の新鋭艦です。
当時の超弩級戦艦でかつ最新型。
「コロラド」「メリーランド」ともに同じコロラド型の三姉妹です。

実はですね。

この時にアメリカがわが接伴艦にわざわざ戦艦、しかも「コロラド型」三姉妹を全て
出してきたということを知り、わたしは後世の歴史を知る者として軽く戦慄しました。

その訳をお話ししておきましょう。
彼らのサンフランシスコ見学について紹介する前に、
このことだけはぜひ知っていただきたいと思います。

 

ちょっと面倒臭い話になりますが、この少し前に行われたワシントン軍縮会議に遡ります。

ご存知のように英米日で5・5・3と決まった軍艦保有割合を日本は不満に思いましたが、
実はアメリカはアメリカで、日本に対して大変な危機感を持っていました。

この軍縮会議までに日本は16インチ砲を持つ戦艦「長門」をすでに保持していました。
対するアメリカが保有していた16インチ砲搭載艦も「メリーランド」ただ一隻。

つまり、世界にたった二隻の16インチ砲級を、日米が一隻ずつ持っている状態だったのです。

 

しかも、ワシントン軍縮会議では、会議までに完成していない軍艦は廃棄すること、
と決められたのにも関わらず、日本は当時未完成だった長門型2番艦「陸奥」
もう完成済みだと言い張って保有を認めるようにと強硬に主張してきました。

「5・5・3の3の保有しかないくせに、
16インチ砲搭載戦艦を二隻持つだとお?」

とアメリカさんは頭にきたんですねわかります。
ここで「陸奥」所有を認めてしまうと、日本が圧倒的に有利になってしまいますからね。

 

そこでアメリカがどうしたかというと、本来廃棄対象であったはずの
「コロラド」級の「コロラド」「ウェストバージニア」を、

「陸奥の保有を日本に認めさせる代わりに」建造することにしたのです。

なお、この措置のため就役した順番が、

「メリーランド」「コロラド」「ウェストバージニア」

となってしまったので、本級を「メリーランド級」ということもあるそうです。

 

とにかく、この時練習艦隊の接伴艦に、アメリカがこの三姉妹を出してきたのです。
日本にとっては割とどうでもいい話だったかもしれませんが、アメリカにとっては
因縁も因縁、大変な「問題の艦」を見せつけてきたことになります。

現在の感覚では、どう好意的に解釈してもこれはアメリカ側の「威嚇」であり、
「嫌がらせ」
としか思えないわけですが、当時の練習艦隊がこれをどう受け止めたのかは
このアルバムの調子からは全く読み取ることはできません。

皆さんもご存知のように、軍縮会議の結果決められた保有数に日本は不満たらたらで、
その不満が日本の進む方向を変えたといえなくもないわけですが、
これもアメリカ側からいうと、

「日本は(陸奥を持つことができて)参加国中一番特をした国」

だったということになります。
日露戦争以降、アメリカは日本を「オレンジ計画」で仮想敵国として
潰しにかかっている真っ最中だったのですから、これも当然の意見かと思われます。

ワシントン軍縮会議が行われたのはこの練習艦隊寄港のわずか2年前だったことを考えると、
アメリカがこの時なぜわざわざ接伴艦に「コロラド」級三姉妹を選んだのか、
その意図は歴然としているではありませんか。

「貴国が16インチ砲搭載の戦艦『長門』をゴリ押しで持つことになったので、
我が国はやむなくこの二隻をそれに対抗して持つことになったのだ」

とアメリカが嫌味ったらしくこれらを見せつけてきたのに対し、

「実に嬉しかった」

とアルバムの筆者は無邪気にこれを喜んでいます。
さらには、

「彼我の間には正義と平等、親善と理解の曲が高鳴らされて居た」

などと、言わせてもらえばオメデタイというか、お花畑のようなことを
(アルバムのキャプションに過ぎないとはいえ)
書いているわけです。


まあ、実のところ、練習艦隊という立場で訪米をしているに過ぎない海軍軍人は
性善説で相手の行動を量るものですし、万が一2年前の経緯をこの接遇に
因果付けして何かを感じたとしても、胸の内にしまっておいたに違いありません。


しかし、少なくともこの写真で練習艦隊旗艦を観閲するアメリカ海軍の
「ワイレー中将」は、そんなおめでたいことは考えて居なかったと思われます。

この「ワイレー中将」とはおそらく、

Admiral Henry Ariosto Wiley (1867 –1943)

のことで、1924年当時には現地の海軍基地司令であったことがわかっています。

米西戦争に参加し、第一次世界大戦では戦艦「ワイオミング」の艦長として
他の戦艦9隻(戦艦部隊ナイン)とともに英国艦隊に派遣され、そこで功を挙げています。

この写真の3年後に海軍大将になり、アメリカ合衆国艦隊司令を務めたほどの軍人ですから、
このとき、日本の練習艦隊に向かって、にこやかに握手をしながら
テーブルの下で匕首を突きつけるがごとき訳ありの接待を考案したのも、
もしかしたら実はこの人物の意向であったかもしれません。

もっとも、日本側が「テーブルの下」の匕首に気づいていたかどうかは、
先ほどもいったようにあくまでもこの写真集からは読み取ることはできません。

知っていても知らないふりをし、表情に出さずに静かにやり過ごしていきなり

朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス

と暴発するわけわからない国、というのが真珠湾攻撃以降の日本への
世界的な評価になったという気がしますが、少なくともこの軍縮条約のとき
そのおとなしい日本にしてはよくごねたものだ、という感想を持ちます。

なお、現場の海軍軍人たちが国と国のいざこざとは一切関係なく交流するのは
古今東西同じ傾向でもあります。

そういえば軍人ではありませんが、つい最近我が河野外相と中国の女性報道官
華春瑩氏とが実にいい笑顔でセルフィー撮ったのが話題になりましたよね。

国家間の軋轢が深刻な両国の外相と報道官のツーショット。
これを見た日中両国民の感想は概ね好意的で、中国国民のネットの意見も
むしろこれを非難した民進党議員を逆に非難するという調子でした。

 


練習艦隊の接伴を行った「コロラド」三姉妹のその後について書いておきます。

戦艦「メリーランド」USS MarylandBB-46

ー「大和」との対決を望むも叶わず

 

真珠湾攻撃の際には、内側に係留されていたために損傷は軽微であった

タラワ、クェゼリン、サイパンの戦いに参加
1944年10月、レイテ島スリガオ海峡海戦では戦艦「山城」以下の撃沈に貢献 

陸軍特別攻撃隊靖国隊の一式戦「隼」が突入し主砲塔に命中
大破炎上、31人が死亡し30人が負傷

1945年3月ウルシー環礁に到着、戦艦「大和」との会敵が予想される直前、
またしても特攻機が突入し3番砲塔に直撃して使用不能に

メリーランドの艦長も乗員たちも、「大和」との対決を望んで戦列を離れようとせず、
戦闘航海に支障なし」と嘘をついて損害を隠したが、
その時すでに「大和」は大和は坊ノ岬沖海戦で戦没した後だった

メリーランドは戦争を生き延び、1947年4月3日に退役し廃艦処分にされた

 

戦艦「コロラド」USS ColoradoBB-45

ーフレンドリーファイアで破損ー

 

真珠湾攻撃の時にはオーバーホール中で、太平洋艦隊で唯一健在な戦艦となった

1944年5月サイパン、グアム、テニアン島で支援砲撃任務に従事

11月27日、陸軍特別攻撃隊八紘隊の一式戦「隼」2機が「コロラド」に突入し、
19名が死亡、72名が負傷、船体にも損傷を負う

1945年1月9日、友軍の誤射により上部構造を破損し18名が死亡、51名が負傷

終戦後は厚木飛行場への占領部隊空輸の支援を行う 

1959年にスクラップとして売却される 

戦艦「ウェストバージニア」USS West VirginiaBB-48

ー真珠湾の遺恨をレイテで晴らすー 

真珠湾攻撃では、甲標的と航空機によって左舷に6本の魚雷が命中
40㎝徹甲弾を改造した2発の爆弾も命中(不発)
砲塔上のカタパルトの水上機から航空燃料が漏出し発生した火災で30時間も燃え続ける
浸水によって着底し、乗員は艦を放棄して退避 

修復と近代化の改修工事を受けて1944年に太平洋艦隊に復帰

同年レイテ沖海戦でのスリガオ海峡で「扶桑」「山城」をはじめとする
日本海軍艦隊を撃破

1945年9月2日の降伏文書調印式に臨席
当艦軍楽隊から5名が「ミズーリ」に移乗し、式典で演奏を担当する 

その後日本に駐留し占領政策に従事 

不活性化のため係留されたシアトルでは隣は姉妹艦の「コロラド」だった

1959年スクラップ処分される

 

続く。

 

 


サンディエゴ海軍基地と伊21の酸素魚雷〜サンディエゴ海事博物館

2018-02-06 | 博物館・資料館・テーマパーク

サンディエゴ海事博物館で、帆船「スター・オブ・インディア」、
レプリカ帆船「サプライズ」、ソ連海軍潜水艦B-39、そして
深海実験潜水艦「ドルフィン」の見学を終えました。

キーステーションになっている蒸気船「バークリー」には
海事博物館としての館内展示がありましたので、今日はシリーズ最後に
これらをご紹介しようと思います。

冒頭画像は、いわゆるブリッジのエキップメント、ジャイロとか
エンジン・テレグラフ、コンパス、ビナクルなど一式ですが、
これは「タイコンデロガ」のブリッジにあったものなのだそうです。

アメリカ海軍は現在に至るまで同名の軍艦を5隻引き継いできましたが、
これは

タイコンデロガ (USS Ticonderoga, CV/CVA/CVS-14)

エセックス級航空母艦で、同級空母の10番目艦のことだろうと思われます。

その後ろに、駆逐艦4隻が並び、乗組員が全員写っている写真がありますが、
これには

Tin Can Sailors

とタイトルが付いています。
駆逐艦のことが「ティン・カン」(缶詰)と呼ばれていたことは以前も書きましたが、
彼ら駆逐艦乗りは誇りを持って自らをこのように称していたのです。

真ん中の USS 「ジョン・H・デント」のところだけアップにしてみました。
写真が撮られたのは1930年、「デント」は18年から就役しています。

駆逐艦は軍人の名前をつけることが当時の慣習となっていましたが、
デントもまたバーバリ戦争に出征し、「コンスティチューション」艦長をしていました。

この写真で他に名前のわかるのは

 USS 「シラス・タルボット」DD-114

ですが、これも「コンスティチューション」艦長だった人物の名前です。

ウィッカー級の艦名は、「コンスティチューション」の艦長の名前を
順番につけているのか?と思ったのですが偶然でした。

ちなみに「Tin Can Sailors 」で検索すると、駆逐艦乗りだった
退役軍人の会が出てきます。

 
こちらは「ロサンゼルス」級原子力潜水艦

 USS「ラホーヤ」SSN-701

の記念グッズコーナー。
「ボトム・ガン」というのが愛称だったようですが、
ボトムガンで調べても石油の掘削用語でしか意味が出てきません。

単純に潜水艦なので「ボトム」ってことでいいのかな。
もしかしたら「トップ・ガン」の向こう(と言うか下)を張った名前?

「ラホーヤ」は初めてトマホークミサイルを射出した潜水艦であり、
当時の艦長ガーネット・C・’スキップ’・ビアードは、のちに映画
「クリムゾン・タイド」のアドバイザーに名前をクレジットされています。

ここサンディエゴを母港として一週間くらいのクルーズが体験できる
レプリカ帆船「サンサルバドル」の写真。

帆船で6泊7日、というのはぜひ生涯に一度くらい体験してみたいですが、
一人999ドル(12万円くらい?)で可能だそうです。

ただセーリングするだけなら4時間で49〜99ドル。

ここはサンディエゴ、ということで

ドック型輸送揚陸艦 USS「サンディエゴ」 LPD-22

の大掛かりな模型もありました。
ドック型揚陸艦というのは、ウェルドック(艦艇の船尾、喫水線直上にある
デッキ状のドック式格納庫)をもつ揚陸艦です。

海上自衛隊の「おおすみ」型輸送艦が備えているのもウェルドックです。
「うらが」型掃海母艦などのもそうですね。

ちなみにLCACなどはそのウェルドックから出入りするわけですが、
一度LCACの艇長だったという自衛官に聞いたところによると、
「降りるのは簡単だけど乗るのは結構大変」だそうです。

このコーナーは海軍の街サンディエゴの基地の歴史について。

上の写真はここに駆逐艦の基地ができたばかりの1922年。
下は海軍基地をここに作ろうとしていた頃の1918年、
当時バルボア・パーク(今は博物館や動物園がある市民の憩いの場)
にあった訓練場での様子です。

海事博物館のあるのが、下の地図でいうとちょうど真ん中。
手前の半島?がコロナドですが、今と形が違います。
どうも海軍基地になってから大幅に埋め立てられたようです。 

現在の海軍基地は、サンディエゴ、その海岸と対岸にあるように見える
長い半島状の土地コロナドの先端のほぼ全て、そしてそのまた対岸の
ラ・プラーヤというところにも展開しています。

どうもこの説明によると、ラ・プラーヤが最初だったようですね。

 

この二つの写真がコロナドの基地です。
ここに基地ができたのは戦争中の1943年。
太平洋側に強力な海軍基地が必要ということで、おそらく
日米開戦後から増設を始めたのではないかと思われます。 

アンフィビアンベースがあった、と説明されています。
ネイビーシールズは、現在もここコロナド(もう一つのはバージニア)
に基地を持っていますので、これが彼らの元祖に違いありません。 

模型は駆逐艦「ポーター」(USS Porter,DD-356)

「ポーター」は真珠湾攻撃の二日前に現地を発って難を逃れ、
その後サンディエゴを母港として出撃していました。

ガダルカナルで不時着した「エンタープライズ」の雷撃機の救助に向かい、
そこで日本軍機の雷撃を受け損傷。
乗組員は艦を放棄し、ショー」 (USS Shaw, DD-373)
の砲撃によって沈められ、その後除籍になりました。

新兵さんたちの到着と、その訓練の様子が本になっています。
大型艦の甲板から海に飛び込む訓練も当時は日常的にやっていたようです。
今の海軍はその辺りをどうしているのか
わかりません。

 

戦艦「ミズーリ」の模型がありました。
サンディエゴとはあまり縁がないのになぜ?という気もしますが、 
そこに模型を作りたい誰かがいたってことなんでしょう。

おそらく日本で行われたこの降伏調印式の様子の模型を置きたくて作ったのかと。

その時「ミズーリ」艦上には甲板にも艦橋にもデッキにも、
あるいは砲の上とかにもアメリカ軍の兵士が掃いて捨てるほどほどいたわけですが、
さすがにそれは再現できないので、サインしているニミッツら4名、
日本全権団は重光葵外相と梅津美治郎陸軍大将の二人という超省略メンバーです。

製作者のコメントによると、後ろの3名は手前からフォレスト・シャーマン中将、
ハルゼー提督、そしてマッカーサー将軍だそうです。
 

それはそうと、軍艦の上で行われたこの調印式もアメリカ海軍の規定に慣い、

「乗艦している最先任の海軍将官の将旗のみをメインマストに掲げる」

と言うことになっていたはずだったのですが、ところがどっこい
陸軍のマッカーサーが強く要求したため、超例外的に

海軍元帥の将旗と並んで陸軍元帥の将旗も掲げられた

ということです。
マ元帥と犬猿の仲だったニミッツ元帥はさぞムカムカしていたことでしょう(笑)

そして余談ですが。

この調印式の時に重光外相の横にいるタキシードとシルクハットの役人は

外務省の加瀬俊一氏と言いますが、なんとオノ・ヨーコのおじさんだそうです。

この方の奥さんが小野さんという家の出身(日本興業銀行総裁の娘)で、
ヨーコさんのお母さんは彼女と姉妹という関係。

おぜう様だったんですね。

こちらも大変力の入った大型模型。
素人の作品ではなく、博物館が依頼してプロに作らせたものだと思われます。

サンディエゴを母港としていていた

護衛空母「シャムロック・ベイ」USS Shamrock Bay  CVE-84

は、沖縄戦で1200回もその甲板から航空機を発進させました。

旭日旗のマークが9個描かれていますが、彼女は海戦をしていないので
旭日旗は墜とした飛行機という意味でしょうか。

沖縄にもウルシーにも出撃していますが、特攻攻撃には遭わなかったようです。

甲板上の飛行機はグラマンのF4Fワイルドキャットだと思われます。
この時代エレベーターは外付けではなく、甲板の真ん中にあったんですね。

マスタージャイロコンパスです。 

「マスター」とついているのは文字通り「大元」になるジャイロで、
このコンパスの示す方位を分配器を経由してレピータコンパスに伝えます。

マスターコンパスの下には独楽が回っており、電気信号を送り出します。
レピータコンパスはこの信号を受け取って、方位盤を動かすのです。

操舵スタンドの中や操縦コンソール内に収められており、
そこからブリッジ中央、ウィング、フライングブリッジなどにある
レピータコンパスに信号を送ります。
レーダーや無線方位測定器などもジャイロコンパスから信号を受け取ります。

Long Lance Torpedoというのは、つまり酸素魚雷です。

このひっそりと展示されている航空魚雷は、実は伊21の発射したものなのだとか。

これはカリフォルニア沿岸で発見された酸素魚雷だそうですが、
伊21は1941年から1921年にかけて、アメリカ西海岸の沿岸地域で
通商破壊作戦に従事しており、オイルタンカー2隻を攻撃、いずれも
撃破することに成功したということですので、 
その時の残骸でしょう。

 

そしてこれがその時伊21に沈没させられたタンカー「モンテベロ」の模型。
これもやたら力入ってます。 

「AT WAR! TANKER IS SUNK!」

の文字の隣の絵には、しっかり伊21潜水艦の姿が描かれているではありませんか。
この時期(開戦当初)アメリカは本当に危機感を覚えていたってことですよ。 
雑な言い方をすると、やられればそれだけ燃える闘争的な国民性なので、
これから終戦までに日本の民間船は復讐に燃えたアメリカ潜水艦によって
それこそ倍、倍々返し、というくらいの甚大な被害を被ることになります。

いやー、アメリカさんの執念深さを見たって気がしますわ(適当)

さて、というわけで海事博物館の館内展示を見終わりました。
この日サンディエゴではコミコンという(本当です)全米でも有名なコミケがあって、
そのせいで空港も街中もコスプレな人たちが変な格好でウロウロしていました。

70年以上前は日本とドンパチやり合っていたのと同じアメリカ人が、
その日本文化を取り入れて楽しんでいる姿を、展示を見て出てきた途端目撃し、
平和に感謝するとともに、仲良きことは美しき哉、と心から思ったのでした。 


サンディエゴ海事博物館シリーズ終わり

 

 


サー・ニールス・オラフ准将(ただしペンギン)〜ミリタリー・アニマル

2018-02-05 | すずめ食堂

 

何の気なしに始めた「ミリタリー・アニマル」シリーズですが、
結構面白いので制作のために調べることをとても楽しみました。

犬や猫、クマですら階級を与えられて任務についていたという話は
まるでおとぎ話を聞いているような気すらします。

人の命令を聞かない猫はともかく、頭のいい動物はわかった上で
人間に従うものだということも数ある例が証明していますね。

さて、頭のいい動物というと、その筆頭はイルカではないでしょうか。

 

■ イルカ

 

かつて地球上に現れた高い知能を持つ動物が二種類いた。
陸に住むことを選んだのが人間、海に残ることを選んだのがイルカ。

いや、それほどじゃないだろう、という話も聞かないわけではないですが、
とにかく「わんぱくフリッパー」以来、イルカの知能の高さはワールドワイドで
有名になったと思われます。

 

しかしアメリカ海軍ではそれよりもっと昔、50年以上前からイルカに
救われてきた歴史を持っています。

1965年には、海軍で「海軍海洋生物プログラム」というプロジェクトが始まり、
写真のバンドウイルカの「タフィー」が200フィートもの深海に潜水し、
SEALAB IIと呼ばれた海底のステーションに滞在するアクアノー
(aquanaut、水の中で生きる人の意で宇宙飛行士のアストロノーの水中版)
のところまでなんども往復してツールを運搬する役目を果たしました。

シーラブ計画とは飽和潜水(減圧症を避けつつ深海に人間が滞在するための技術)
の可能性と、長期間隔離された人間の生活を証明するために1960年代から
アメリカ海軍によって開発された実験的な水中ステーション計画です。

イルカのタフィーが導入されたのはその第二計画を意味するIIからで、
アクアノーの一人は30日間、その他は15日の滞在記録を作りましたが、
地上からダイバーへ、ダイバーからダイバー(カプセルは一人用)の元を回遊し、
メッセージを運んで非常時には水上警察に連絡することもできました。

タフィーの活躍でIIは成功で、次回プロジェクトにも彼を投入するということが
ほぼ決まっていましたがが、SEALABIIIでは海洋ではなくIIの三倍の深海と同等の
圧力をかけたチェンバーで実験されたため、彼の出番はありませんでした。

なお、海洋で行われた実験では二酸化酸素中毒による殉職を出しています。

冒頭写真のタフィーが加えているのは認識用のブイで、
彼は例えば機雷を発見したら近くに目印になるブイを設置して
人間がそれを処理できるようにすることもできたということです。

高速で泳ぐことができ、ステルス性のあるイルカは優秀なスパイになります。

セキュリティネットをかい潜ることを訓練すれば、例えば敵の艦船に近づき
情報を収集することも可能でしょう。

これは名前をK-ドッグという名前のバンドウイルカで、
ペルシャ湾での機雷処理を任務としていました。

彼が右のヒレにつけているのはスパイ用ではなく、ハンドラーが
潜水中の彼がどこにイルカがわかるためのカメラです。

イルカが初めて戦闘に使われたのはベトナム戦争時、70年代初頭でした。
その時の任務は、停泊している艦船の周囲を彼らの反響定位を用いて
不審なものなどがいれば人間に知らせるという仕事をしていました。


反響定位(エコロケーション、Echolocation)はしばしば動物に備わっている
ソナーのようなもので、イルカの他にはクジラ、コウモリ、一部の鳥に見られます。

水中で、自分が出した音が何かにぶつかって反響し帰ってきた音から、
その何かの方向と位置を知ることができるというもので、コウモリが暗闇でも
活動できるのはこの能力によるものです。

2003年から始まったイラク戦争にもイルカは投入されています。

食べ物や医薬品、そのた救急用品を港に運ぶ船が安全に航行できるように、
ペルシャ湾の機雷を探知するのが彼らの役目でした。

外地だけでなく、アメリカ国内でもイルカは海軍の仕事をしています。

1996年、「海軍イルカ」は共和党全国大会がサンディエゴで行われている間、
シークレットサービスの周辺海域の警備警戒を助けたということです。

(仕事が終わったらサンディエゴのシーワールドに帰ったのかな)

イルカというのは案外目つきが悪いとこの写真を見て思うわけですがそれはともかく。
彼がくわえているのは何かはわかりませんが『スパイグッズ』だそうです。

その下にちらっと見えるのがバスケットボールをくわえるベルーガで、
海軍はベルーガも訓練して何か利用できないかテストをしたことがあります。

その成果についてはわかっていませんが、ベルーガがターゲットになったのは
イルカやアシカより深海に行くことができ、さらには低温にも強いからだとか。

というわけで色々と海軍は彼らを使う方法を模索し続けてきたのですが、
現在ではロボットを採用する方向に進んでおり、「ドルフィンソルジャー」が
海軍によって正式に雇用される機会は少しずつ減ってきています。

しかし、それらがイルカと同等のソナーや何より高度な知能を持つ日は
まだまだ先のことだと言われています。

 

■ アシカ

イルカの持つ探査能力ーソナーはおそらく海洋生物一でしょう。
しかし、彼らに備わっていない優れた探査能力を備えているのがアシカです。

カリフォルニアアシカはずば抜けた視力と聴力を備えており、
たとえ夜間や暗黒、濁った海中でもはっきりとものを捉えることができます。

そのアシカの優れた視力を海軍は海中探査のために利用しています。

海軍が訓練などで使用し、海底に落としたり沈んだりした武器や装備。
こういうものを探し出すことで、彼らは海軍に何百万ドルもの利益を提供します。

彼らは650フィートもの深海にも楽々と泳いで行くことができるのです。

アシカは訓練を施すことによって、不審なスイマーを発見すると、その足に
警戒船と繋がった紐の先のクランプや手錠をかけることまでできるようになります。

あとは船上から魚釣りのように紐を引っ張って文字通りお縄、という流れ。

アシカが泳いできたと思ったら可愛らしく足の先に手錠?をかけてしまう。
彼らの海中での動きは目にも留まらぬくらい早く、しかもほとんどの人は
自分の足に金具がはまってからそうと気付くくらいの素早さなんだとか。

こんな体験ができる人をちょっと羨ましく思いませんか?

ついでに、アシカは逃げ足も早く、悪者(笑)がそうと気づいて
アシカに危害を加える前に現場を離脱し、船上の人間に

「今悪い奴がいたので、ア シ カ ら先に手錠かけてきましたー」

と報告するのだそうです。

 

ちなみに、海軍に雇われているアシカは「Neutered」、
つまり去勢したオスと決められています。
去勢した動物のオスは一般的によく言えば温和に、悪く言えば覇気がなくなり、
アグレッシブさがなくなるので人間にとっては扱いやすくなるのです。

海軍アシカ軍団はボーイズラブ・・じゃなくてボーイズクラブってことですね。

体重も300パウンドを維持するように厳しく管理されており、海軍では
デブのオカマは使い物にならない、とされているようです。

■ ペンギン

階級章を肩?につけて閲兵を行ういかにも偉そうな・・・このお方は?

軍隊が採用する動物は多々あれど、命令を下す側の動物は滅多にいません。
しかし、スコットランドはエジンバラ動物園のこのペンギンは
Norwegian Royal Guard、ノルウェー陸軍近衛部隊の司令官で、
「サー」の称号を持つニルス・オラフ(Sir Nils Olav)。

彼は2016年現在で准将の地位と騎士号を持っています。
(言っておきますが本当に持っています)

一体どうしてこんなことになったのでしょうか。

自衛隊の音楽隊も参加することで有名になった世界の軍楽隊による音楽祭、
ミリタリー・タトゥーが1961年にここエジンバラで行われた時のことです。

ノルウェー陸軍近衛部隊もこの祭典に参加するためにエジンバラを訪れ、
その際隊員たちは余暇を利用して動物園に遊びにきたのですが、
隊員の一人ニルス・エジェリン中尉はペンギンにいたく魅了され、
その次に行われたなんと11年後のミリタリータトゥーで、ここのペンギンを
正式にマスコットにしたいと動物園に申し出たのです。

動物園側が快く承諾したため、一羽のペンギンはニルス・オラフ(国王の名前)
と名前をつけられて上等兵からの軍人生活をスタートさせました。

その後、音楽祭に近衛部隊が参加するたびに彼は昇進してゆき、1982年に伍長、
1987年には軍曹となりました。

しかし軍曹に昇進してまもなく、1世は死去したので、引き続き2世が指名され、
階級を引き継いで1993年には連隊上級曹長、2001年には名誉連隊上級曹長となります。

2005年には、ニルスは名誉連隊長(Colonel-in-Chief)の称号が与えられ、
エジンバラ動物園に銅像が設置されることになりました。
2008年にはニルス・オーラヴ二世に対し、ノルウェー国王より
騎士号が授けられましたが、二世はそこで死去。

その後、ニルス・オーラヴ3世が引き継ぎ、2016年には准将に昇進しました。
その際ノルウェー陸軍近衛部隊50名が参加しての「閲兵」セレモニーが行われており、
この写真はその時のものです。

動画もあるので閲兵の様子をご覧ください。

Sir Nils Olav promoted to Brigadier by Norwegian King's Guard

指揮官の前で立ち止まり、羽をパタパタさせるのが可愛すぎる・・。

それにしてもなぜノルウェーとスコットランドが?と思ったのですが、
実はエジンバラ動物園に最初にペンギン三羽を送ったのがノルウェーなんだそうです。

1913年に 捕鯨に行って連れて帰ってきたペンギンだったとか。

 

■ ヤギ

アメリカの独立戦争におけるあのバンカーヒルの戦いにおいて、
野生のヤギがイギリス軍の兵士たちの一団を案内して戦場を突っ切り、
丘を登り、アメリカ軍の防衛ラインを急襲することに成功させたという話があります。

それ以来、ロイヤル・ウェールズ・フュージリアーズ連隊(Royal Welch Fusiliers)
ではヤギを正式なマスコット、というか軍隊階級を持つメンバーとしているのだそうです。

ちなみに「フュージリアー」とは本来、「フュージル」(fusil)と呼ばれた
軽いフリントロック式マスケット銃で武装した兵士のことです。
この言葉は1680年頃に初出し、後には連隊の名称として使われるようになりました。

現在のRWFでマスコットになっているヤギは、そのツノも神々しい

ウィリアム・ウィンザー二世(William Windsor II )

ウィリアムなので、あだ名はビリー・フォー・ショート、
普段はライトにビリーと呼ばれているようです(笑)

二世というからには当然初代もいたわけですが、南北戦争の後、
イギリス王室は定期的に王室所有のヤギの中から一匹ずつ、
連隊にプレゼントしていたのだそうです。

先代のウィリアム・ウィンザー一世は、2006年のエリザベス二世の
80歳の誕生日がキプロスで行われた時、

「不適切な行動をとった」

ということでマジで降格になってしまったことがありました。
その不適切な行動とは、

列の中にいることを命じられたにもかかわらず命令に従うことを拒み

足並みをそろえることに失敗し

ドラム奏者に頭突きをしようとした

「ヤギ少佐」であった22歳のデイビス兵長は、ビリーを統御することができず、
ビリーは「容認できない行動」「無礼」「直列指令への不服従」で告発され、
懲戒委員会の後に、フュージリアー(兵士)に格下げされました。

ビリーが兵長だった時、兵士たちはすれ違うさい敬礼をしなくてはいけなかったのですが、
この処置のあとはその必要がなくなったわけです。

ここでなぜかカナダの動物愛護団体が出てきて、彼は「ヤギらしくふるまった」にすぎず
復位されるべきだと述べイギリス陸軍に抗議する騒ぎになりました。

3か月後の勝利を祝うパレードでビリーはもとの地位に復帰しました。

「彼はひと夏中女王の生誕祭での彼の振る舞いをよく反省し、
明らかにもとの階級にふさわしい振る舞いをした」

と評価されたのです。
ヤギの反省の形がどのようなものか知りたいような気もしますがそれはともかく。

 歴史的にこのような措置をされたのはビリーだけではなく、「将官への無礼」に対して
最終的に軍法議会にかけられ降格させられたり、制服のズボンのストラップを固定するために
身をかがめた大佐を角で突いたりして降格されたヤギは存在するそうです。

特にこの出来事は「不服従の恥ずべき行動」と言われ厳しく非難されたそうですが、
まあなんちうか、ヤギ相手に何をやっているのかという気もしないでもありません。

現在のビリー二世は、そういう問題をできるだけ避けるために、
性質の穏やかで「冷静な」ヤギを厳選したということですので、
今のところ問題は起こしていないようです。

 

アメリカ海軍では船にペット兼非常食として船にヤギを載せていたことがあります。

また、ある時一人の士官が海軍兵学校対どこかのフットボールの試合の時
面白半分にハーフタイムに剥製になっていたヤギの皮を被って
サイドラインを走り回ったところ、後半になって海軍兵学校が大勝したことから、
その後兵学校のマスコットはヤギと決められているのだそうです。

 

 

さて、今まで「ミリタリーアニマル」についてお話ししてきましたが、
最後に、動物をマスコットにしている軍隊(主にイギリス軍)を列挙しておきます。


(イギリス軍)

第1ビクトリア女王近衛竜騎兵連隊 ポニー(エムリス)

ロイヤルスコッツ近衛竜騎兵 ドラムホース(タラベラ)

クィーンズオブ・ロイヤルアイルランド ドラムホース(アラメイン)

パラシュート連隊 シェトランドポニー(ペガサスとフォークランド)

ロイヤル・スコットランド連隊 シェトランドポニー(クルアチャンとイズレー)

ロイヤル・アイリッシュ連隊 アイリッシュ・ウルフハウンド(ブライアン・ボル)

アイリッシュガード アイリッシュ・ウルフハウンド(ドムナル)

メルシャン連隊 スウェルデール羊(ダービーラム)

ロイヤル・レジメント・オブ・フュージリアズ アンテロープ(ボビー)

第3大隊メルシャン連隊 スタッフォードシャーブルテリア(ワッチマン)

ヨークシャー連隊 フェレット (インファルとケベック)

 

(アメリカ海軍)

USS「ヴァンデクリフト」FFG-48 犬(シーマン・ジェナ)

(米海兵隊)

ブルドッグ (初代ジグ一等兵に始まり現在は十六匹目、チェスティ)

(アメリカ陸軍)

ウェストポイント 騾馬

(カナダ軍)

ロイヤル22連隊 ヤギ(バティス)

(オーストラリア軍)

王立オーストラリア連隊 第1大隊 シェトランドポニー(セプトムス)

第5大隊 スマトラ虎 (カンタス)

第6大隊 オーストラリアカウドック(リッジレイ・ブルー)故人

空軍 はやぶさ(ペニー・アラート)

(ニュージーランド軍) 

(スペイン軍) ヤギ

(スリランカ軍)

 

やっぱりスリランカ軍は象ですか。
個人的に虎をマスコットにしている王立オーストラリア連隊と、
はやぶさを飼っているオーストラリア空軍はイケてると評価します。

あと、イギリスパラシュート連隊のポニーが「フォークランド」がじわじわきます。
たいていの動物はパレードに借り出したりするわけですがフェレットは無理かも。

 

ミリタリーアニマルシリーズ、終わり。

 

 

 


パナマ運河通過!〜大正13年度 帝国海軍遠洋練習艦隊

2018-02-04 | 海軍

さて、アカプルコから大正13年度帝国海軍練習艦隊はパナマに向かいました。
パナマ運河を通過するというのは遠洋航海のハイライトです。

当時の船は石炭を動力としていたので、艦隊の皆さんは寄港地で
船に石炭を摘む作業を総出で行いました。

頭から顔を覆うヒサシ付きの帽子をかぶり、サングラス、脚絆着用。
これぞ、この時代の艦隊勤務につきもの、石炭積み作業。

明治、大正の戦争文学にも石炭を使ったボイラー室の仕事の過酷さが出てきますが、
その石炭を積むのも並大抵の重労働ではなかったらしいことがこの写真からもわかります。

右側に後ろを向いて何かを運んでいる人の列がありますね。
まさかとは思いますが、これも石炭を機関室に運んでいるのでしょうか。

石炭は低い石炭船の船倉から、外舷の高い軍艦に、すべて人力で積み込み、
10メートルもある外舷に板で階段を造り、その一段ごとに兵員が腰を掛け、
下の石炭船から丸い大きな竹籠にいっぱい石炭を入れては、次から 次と
手送りで上に揚げていくことになっていました。

船まで石炭の荷を上げるまでの仕事は水兵が行いますが、
下士官や候補生もそれを見物していたわけではもちろんありません。

手拭いで頬かむりをし、眼鏡を掛け、口にはマスクを当てて 、
写真ではわかりませんが、チョークで顔を白塗りしていたそうです。

石炭船から上げるだけでなく、これを機関室(船の底)まで
運ばなくてはいけないのです。
大正年間にはエレベーターがあったという話もありますので、
おそらく彼らは機関室につながるエレベーターまで石炭を運んでいるのでしょう。

この写真で旗艦が「出雲」になったということを初めて知りました。
どうも当時旗艦は航海中交代するものだったようです。

写真には

大日本帝国練習艦隊 旗艦出雲
大正十三年十二月廿九日 バ航 入港

とあります。

という訳で大正13年度帝国海軍練習艦隊は、南米のアカプルコを出立し、
パナマのバルボアに到着しました。

■ パナマ運河

世界一を標榜する米国民は流石にえらい仕事をして居る。
パナマ運河もその一ツで構造の豪壮、設備の完全共に驚嘆に値する
我が国には「船頭多くして船山に登る」という諺があるが
此処では閘門(運河の水量を調節する水門)によって本当に
船が山に登って向こう側の海に降ろされる。

パナマ運河は、パナマ共和国のパナマ地峡を開削して
太平洋とカリブ海を結んでいる閘門式運河です。

1913年、つまりこの遠洋航海のわずか11年前に開通したというのは
世界的にも大変な出来事として衝撃的に喧伝されていたものと思われます。

 

日本人にとっては地球の裏側の出来事で、あまり関心はなかったかもしれませんが、
何しろそれまでは太平洋側と大西洋は南北アメリカ大陸で遮断され、
船を使った運輸を行おうと思ったら、わずか80キロの反対側の海に行くため
南米大陸先端のマゼラン海峡やドレーク海峡を回らなくてはならなかったのですから、
南北アメリカ大陸の国々にとってはこの快挙はそれこそコペルニクス的転回だったのです。

練習艦隊で此処を通過した海軍軍人たちも、この巨大な構造物とそれを成し遂げた
技術には大いに驚き、
アメリカという国の底力に感嘆した様子が記されています。

帝国海軍の練習艦隊の行き先に「パナマ運河」が初めて出てくるのは
大正10年、太平洋横断後、パナマ運河経由でヨーロッパに回るコースの時です。

その前年度の初めての世界一周、大正7年、鈴木貫太郎が司令官だった時の
練習艦隊も通過していた可能性はありますが、こちらは資料がなく定かではありません。


さて、そこでこの写真をご覧ください。

我が日本国海上自衛隊の遠洋練習航海においても、パナマ運河は必須コース。

最近の練習艦隊でパナマ運河でなくマゼラン海峡をあえて超えた例がありましたが、
これは「艱難辛苦汝を珠にす」的な意味で選ばれたのでしょう。(多分)

練習艦隊司令官真鍋海将補が後日水交会で行なった報告会では、
パナマ運河を航行する「かしま」の艦橋から撮った映像が早回しで上映されました。

「こんなに速く進めたら本当に楽なんですけどね」

と真鍋海将補は会場の人々を笑わせていましたが、実際、
パナマ運河というのは最小幅91m、最浅12.5mという難所でもあるので、

熟練の操舵をもってしても目を瞑ってスイスイというわけにはいかないのです。

待ち時間を含めると、通過には現在でも丸々24時間かかるということです。

パナマ運河は当初アメリカ統治下で、総督を置き、軍が管理をしていました。
民政となったのちも、運河総督は代々アメリカ陸軍軍人が務めています。

それ以外にも陸軍はパナマ運河軍と称する防衛隊を結成したようですね。

月夜のパナマ運河、これはどう見ても絵・・・ですよね?

紹介文に出てきたところの

「閘門によって船が山に登って向こう側の海に降ろされる」

というのが具体的にどういう意味かというと、パナマ運河を大西洋側から入ると、
まずガトゥン閘門というのがあり、此処で3つの閘門を越すと、
船は結果的に
海面から26mの高さに持ち上げられることになるということです。


出典:海上自衛隊ホームページ 平成29年度練習艦隊活動報告

これがまさに船が山に登って降ろされているの図。

パナマ運河を通過するアメリカの艦船。
流石に自分たちが通過している写真を撮ることはできなかったようです。

「カレバカット航行中」とありますが、現在の日本語では「クレブラカット」
 別名「ゲイラード・カット」と呼ばれる分水嶺の地帯のことです。

パナマ運河の太平洋側の都市バルボアで艦隊は正月を迎えました。
現地の陸軍を観閲するために正装して歩く司令長官百武中将と艦長たち。

案内はアメリカ陸軍軍人が行なっていますね。

■ バルボアの正月

(自12月28日 至 1月5日 8日間)

遠く太平洋を隔てて常夏の国で白服に汗を流して
思い出多い正月を迎えた我々は清しき椰子樹の陰に佇みて
はるかに祖国の雪景色と炬燵情調を偲ぶのであった。

白服で 雑煮を祝う 椰子の国

お正月を迎えた出雲の舷門の様子です。

こちらは「八雲」のお正月舷門。
注連縄をかけ門松の代わりに椰子の木でデコレーションしていますね(笑)

1月5日、バルボアを出発するにあたって、旗艦が「出雲」から
「浅間」に交代される事になりその引き継ぎの儀式が行われているところです。

状況がわかりませんが、捧げ銃の儀仗隊の前を、これから
敬礼した練習艦隊が下艦し「浅間」に乗り替えるところでしょうか。

遠洋艦隊中、旗艦の交代は2回行われました。
つまり、全部の艦が一度ずつ旗艦を務めたことになります。

ガトゥン湖の水力発電所を見学する候補生たち。
皆さん手ぶらですが、大きな水筒を背負っている用意周到な人もいますね。

一番右の人は制服を思いっきり汚しているのを写されてしまいました(笑)

バルボア、というのはスペインの探検家で征服者?というか植民地政治家だった

ヴァスコ・ヌニェス・デ・バルボア将軍

の名前から取られた地名です。
スペインからカリブ海を通ってパナマ地峡をあの悪名高い?ピサロと一緒に進み、
海が見えたので、

「新しい海(太平洋)を発見した」

と報告し、ついでに自分の名前をその地につけたというわけです。
当時のスペインの探検家らしく、結構残虐なこともやらかしています。

同性愛者を犬に食べさせるの図。

なぜ同性愛者なのか、なぜ犬なのか、色々疑問ですが、
ツッコミどころは見物している人々が全員モデル立ちしてることでしょうか。
なにポーズ決めてんだよっていう。

それと犬の首が妙に長いのも気になりますね。

ちなみにバルボア将軍、黄金を求めてさらに探索しようとしていたら、
かつての部下ピサロに
処刑されてしまったそうです。(-人-)ナムー

いやー、義理も人情もあったもんじゃありませんわこの時代は。

大西洋側のコロン県クリストバールには載卸炭場がありました。
当時は石炭が動力だった船のために、此処で給油ならぬ給炭を行なったのです。

現在のコロンにはコロンビアの麻薬組織が蔓延り、周辺の移民が流入し、
ただでさえ危険なイメージのある中南米一危険な土地と言われています。

300年前海賊モルガンに壊滅させられたオールドパナマの廃墟

と説明があります。

モルガンことヘンリー・モーガンはカリブの海賊、
つまり「パイレーツ・オブ・カリビアン」でした。

イギリス出身のカリブの海賊で、この一帯を遠征しては荒らし回っていましたが、
軍隊並みに力を持っていて、パナマ遠征では2時間の戦闘で市を壊滅させた、とあります。

モーガンの経歴を読んで驚くのは、海賊をやめた後、彼は

イギリスから重用され、治安判事、海事裁判所長などを歴任し、
1680年には、なんと
ジャマイカ島代理総督にまでなった

ということです。
「カリブの海賊」の話って、ファンタジー以外の部分は割と実話に基づいてたんですね。
イギリスが海賊を利用していたっていう。


バルボアを1月5日に出航、練習艦隊は再びメキシコの
マンザニーヨに向かいました。

航程1747.3マイル、6日と21時間の航程です。

儀式やレセプションではもちろん、艦内での娯楽として
コンサートを行なった軍楽隊の演奏中の写真が残されています。

アルバムによると、艦内では乗員の慰安のために、何度となく
音楽演奏が行われたといいますから、これもその一環でしょう。

指揮者と何人かの隊員は腰に短剣を佩しています。
検索してみると、ヤフオクでは「軍楽隊高級士官用短剣」なるものが
オークションに出たという形跡もありました。

それから彼らの軍服が兵学校生徒のそれのように裾が短いのにご注意ください。
これでよく知らなかったり暗かったりすると兵学校生徒と間違えて
うっかり敬礼してしまい悔しい思いをした下士官が結構いたそうです。

 

寄港地で日本からの便りを受け取ることもできました。
家族が鎮守府宛に出すと、海軍が先回りして届けておいてくれたようです。

わたしも練習艦隊あてに手紙がいつ届くのか知りたいという下心もあって、
実は手紙を出したことがあります。(もちろんお礼がメインの目的ですが)

とりあえず呉地方総監部にある練習艦隊宛に出したところ、
出航前の艦上レセプションの段階では届いていないようでしたが、
結局どこかの寄港地で追いかけるように先方は受け取ったようでした。

 

毎日発行されていたという「軍艦新聞」。
ガリ版に手書きで書いて、謄写版で刷って配られました。

現地の観光案内などもあり、皆が情報を得るのに重宝していたようです。

 

謄写版のローラーを動かす水兵さん、楽しそう。
この頃はカーボンのようなインク紙に、直接それを削り取る鉄筆で原稿を書き、
それを一枚一枚刷っていたのです。

ほぼ毎日のように発行されていたといいますから、大変な努力ですね。
きっと当ブログ主のように、皆に読んでもらうことが何よりの喜びだったのでしょう。

なんちゃって。

 

 

 

続く。




アカプルコ・赤道直下の餅つき〜大正13年度 帝国海軍練習艦隊 遠洋航海

2018-02-02 | 海軍

 

さて、ハワイ出航後の練習艦隊は南アメリカに向かいます。
航路途中、訓練を行うのは今も昔も同じです。

■ 公開中の諸訓練

(ヒロよりアカプルコまで

航程3190.5マイル 航走 17日14時間)

真の偉大に接し、無限を味合わんとするものは先ずまさに海に往くべし。
艦ゆけば雲もまた追い雲行けば艦もまた追う。
洋中に於いて視界幾十哩は実に我等の自由なる天地なり。
如何に我等が弾丸を飛ばし、小銃を放つと雖も無限に寛大にして何等の羈絆なし。

我等は天際の空の水平線に接するあたりを眺めて我が職務に勉るのみ。

写真に添えられた文章は、特に当時の基準として格調高い訳ではありませんが、
それにしても時々現代ではお目にかかることもない熟語が出てくるので、
なかなか漢字の勉強になります。

羈絆(きはん)

「おもがい」「きずな」「たびびと」と読む羈と言う字に
脚絆の絆を合わせたもので、行動するものの妨げになるものの意味です。

つまり、如何に我等が弾丸を飛ばし小銃を撃っても、なんの妨げるものもない、
と言う意味になります。

我々には生涯経験することのない「無限に寛大な海」を、海軍軍人は
航海中に行われる訓練によってその初心に叩き込むことになります。

艦腹から突き出るこの時代の砲から立ち上る白煙。
艦砲射撃の訓練とそれを見守る候補生たち、帯をして訓練に臨む水兵の様子。


船の形や訓練の方法は変わっても、この航海が初級士官である彼らの
初めて海の武人としての基礎を身につけるための最初の試練であることに変わりありません。

 

さて、遠洋航海に乗り出し、ハワイで過ごした後、練習艦隊の寄港地は
メキシコのアカプルコです。

大昔のユーミンの曲に「ホリデイはアカプルコ」と言う曲があって、そのような
地の果てのような場所ででホリデイを過ごすなんてどんなリッチな主人公なんだ、
と漠然と思った記憶があるのですが、
その後アメリカに移住してみると、
メキシコは(当たり前ですが)目と鼻の先の隣国でした。

そのため、在米中にはユカタン半島の先っちょにあるリゾート、
カンクンでのホリデイを
体験することもでき、アカプルコもわたしの中では
決して「地の果て」ではなくなりました。


ところで平成29年度海上自衛隊の遠洋航海も、ハワイの後はサンディエゴ経由で
メキシコに向かい、
チアパスに寄港後、これも恒例のパナマ運河を経由してから、
帰路にマンサニージョと言う都市に寄港しています。

マンサニージョは「Manzanillo」と綴るため、日本語の読みは
「マンサニーニョ」「マンザニーヨ」とどうも落ち着きませんが、
実は大正13年の練習艦隊も「マンザニーヨ」と記しているところの
この地に寄港したことがわかりました。

もしかしたら、明治の遠洋艦隊実施の際に寄港地に選ばれた都市が、その後も
連綿と
海軍、そして海上自衛隊の継続的な寄港先になっているのかもしれません。

 

それでは太平洋航行中の訓練風景からお送りしましょう。

「臨戦準備」とタイトルのある写真。
アーティスティックに吊られた舫越しに、甲板上の機銃が見えます。

その機銃射撃の訓練を行なっている最中の候補生たち。
右側で体育座りしている人の着ているのが幻の候補生の制服だと思われます。
しかし艦内で座り込んでこんな訓練をするのに白い服とは・・・・。

古い白黒写真でもはっきりとわかるくらい黒ずんで汚れていますね。

射撃を行なっている右には衝立のようなものを支えもつヘルメット着用の下士官がいます。

護衛艦などで甲板を探すと、大抵「溺者救助用」のダミー人形がありますが、
その伝統も遡れば明治大正の帝国海軍からのようです。

ただしこの訓練は「溺者」などと言う甘いものではありません。

「傷者運搬」

つまり、戦闘状態になった時、負傷した者を運搬する訓練です。

広瀬中佐が殉職した閉塞作戦から帰還した中佐の部下の写真でも、
ちょうどこの写真のようなものに簀巻きにされていた人がいましたが、
骨折などで体を動かさない方がいいような重傷者も、これに包んで
体に負担を与えず移動させることができるグッズです。

これだと階段を引っ張り上げることもできますね。

「砲側通信」と説明があります。

この頃の砲撃は、目視によって目標 (敵艦) の対勢、即ち照準線に対する向きと
速力を判定し、射撃計算、即ち発砲諸元の算出を行い、旋回手や 俯仰手は、
「準備」 の前に砲弾を装填した砲身を苗頭の指示をうけ、修正し、
砲手のそばにあるブザーが2回ブッブーとなると 「準備」、ブーと鳴ると 「撃てー」 。
引き金を引く砲手は、単にブザーに合わせるだけで、 そして 「撃てー」 の合図で、
どちらかの舷側の 6インチ砲は一斉に射撃を行うことになっていました。

そして弾着の修正も行われます。
一発撃つのにこれだけの手間が必要ということは、各部署間の連絡が
必要となってくるわけですが、これらの組織・系統を結ぶ通報器や電話、
伝声管などの通信装置のうち、射撃指揮所と方位盤、測的所、発令所を結ぶものを

「射撃幹部通信」

発令所と各砲塔・砲廓砲を結ぶものを

「砲側通信」

と言いました。

よくわからないのですが、この真ん中にあるものが通信機器なんでしょうか。

■ アカプルコ

(自 12月19日 至 12月21日 二日間9

ここは三百年の昔伊達政宗の命を奉じて遠く騾馬に使した
支倉常長以来屡々(しばしば)我が国船の往来した處として
頗る縁の深い市である。
廃墟のようなサンヂエゴ砲台、厚い壁に小さな窓の民家、
石コロの路、豚と蝿、ペリコとインコ等何れも談の種となるものである。

「豚と蝿」という記述がすごいですね。
もちろん今ではそんなものはないでしょう。

ユーミンがホリデイにバカンスをするお洒落なリゾート地なんですから。


文中の支倉常長(はせくらつねなが)は安土桃山時代の武将で、
伊達家の家臣として慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、
アジア人として唯一無二のローマ貴族となり、さらには洗礼を受けて
ドン・フィリッポ・フランシスコの洗礼名を持つに至りました。

支倉常長さん

支倉は油絵で肖像画を描かれた最初の日本人と言われています。

その後日本では切支丹禁止令が出たので、本人は失意のうちに死去、
子孫も処刑により支倉家は断絶の憂き目にあいました。

(切支丹禁止令といえば、余談ですが、遠藤周作原作、映画『沈黙』、
まだご覧になっていなかったら是非見ていただきたい映画です。
リアム・ニーソンやスターウォーズのカイロ・レンの俳優が出ていて、
浅野忠信の英語がやたらうまくて、窪塚が絶妙ないい味を出してます。)

ちなみにこの説明による「伊達政宗の命」とはスペインとの通商の締結でしたが、
その途中に寄港したのが、スペイン領だったここアカプルコだったのです。

 

 

街並みはテラスのあるスペイン風の二階家が見えています。

「アカプルコ公園」だそうです。
ベンチには二人で座っている水兵さんの姿がありますね。

「砲台より港を臨む」

この砲台というのは、海賊からスペインの貿易船を守るため、
1616~1617年に建造されたサンディエゴ要塞のことです。

ダウンタウンの小高い断崖の上に位置し、堀を巡らせた建物は五角形、
石造りの砲台が並んでいる昔ながらの観光地となっています。


サンディエゴ砲台から見た「八雲」「浅間」「出雲」。
一番後ろ、二本煙突が「浅間」です。

サンディエゴ要塞入り口。

同じ方角から見た現在の入り口の写真を上げておきます。
当時は橋に手すりなどはなかったようですね。
城壁の上部の白い構造物は後から設置(復元?)したようです。

「アカプルコ土産」という題がついています。

当時の写真には珍しく、軍服でニコニコしていますね。
冒頭の紹介文にもあるように「ペリコとインコ」が当地の名産です。

ペリコというのも緑色の「アカガタミドリインコ」のことですが、
練習艦隊の皆さん、お土産についインコを買ってしまった模様。
全員が一羽ずつ、手に乗せたり肩に乗せたりして嬉しそう!

階級章はこの写真ではわかりませんが、特務士官という感じですね。
インコちゃんたち、ちゃんと日本に連れて帰ってもらえたのよね?

「武器・体技・遊技」とタイトルがあります。
これらの催しは、アカプルコを出港し、バルボアまでの、
航程1478マイル、7日と22時間の航海中に行われました。

剣道、銃剣、弓術、すもうなどが武技・体技です。

アカプルコでは剣道、柔道などを現地の賓客に観覧していただきました。
どんな試合が行われているかは、皆さんの表情から伺い知れますね。
前列に座っている全員の顔が・・・・・・・・(笑)

( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)

さぞ白熱した試合が展開されたのでしょう。
右から三番目の白の軍服が、練習艦隊司令百武三郎中将です。


かと思えば、片足を縛ってケンケンで紐の先の飴を咥える「飴食い競争」。
真面目な顔で一生懸命やっている様子がじわじわきますね。


■ 航海中

 

毎日目に見える様な気温の昇騰と共に「バルボア」は近づき、
記念すべき遠航の正月は眼前に迫ってきた。
甲板からは景気の良い餅搗く音が一日中聞こえた。

 

冒頭写真は艦上での餅つき大会の様子です。
今と違い、餅つきはお正月を控えた日本人の特に大事な、そして
故郷を思い出す心の行事だったので、盛大にこれを執り行った様です。

アルバム中、全員が相好くずして笑っているのは唯一この写真だけです。

ただし日本のお正月準備とは違い、ぐんぐん上がる気温のため
現場では大変な暑さになっていたことが写真からもわかりますね。


 

続く。

 

 


ハワイ・ヒロ寄港〜大正13年度 帝国海軍練習艦隊

2018-02-01 | 海軍


横須賀を出航した我らが帝国海軍練習艦隊。
ここからがいよいよ「遠洋航海」の始まりです。

そしてこの艦隊には個人的な想いから遠洋航海を古川中将から
横取りした(笑)百武三郎中将が練習艦隊司令として
今や意気揚々と乗り込んでいることでしょう。

 


■ 航海中 

横須賀よりヒロまで航程3859.1哩航走
16日と13時間

海は神秘なり海洋は偉大なり
藍碧の洋と碧瑠璃の空と相呼応する状は無限なる宇宙の一つの「シンボル」なれ
見よ、雄大、偉大、荒天、平穏、寂寞、単調と海洋の有する種々の相を
おゝ我が帝国の使命を有する海神の寵児等が艟艨(どうもう)海に浮かぶるの時、
幾千年、幾万年の太古より溢れ湛えし水は驚愕し、歓喜し、舞踊し、
果ては舷側近く喜びの音楽を奏でて陽の光に輝く波の宝玉を齎らしぬ


まず、平成29年度練習艦隊の横須賀出航は5月22日、
ハワイの真珠湾到着は6月2日。
11日しかかかっていないわけですが、この頃の「4日の違い」
がその頃と今の船の性能の違いであるわけです。そして、それに続く大変詩的な文章の中にある

艟艨(どうもう)

という言葉ですが、各々の漢字は舟編に童の艟、同じく舟編に蒙と書いて、
どちらも訓読みで「いくさぶね」と読みます。

いくさぶね+いくさぶね=いくさぶね

で、艟艨(どうもう)=いくさぶねとなるのです。

言葉自体に感嘆の意を含むので、戦後自国を守るためにであっても
「日本の保有する船はいくさぶねではない」という建前から、
「駆逐艦」「戦艦」という言葉を無くしてしまった自衛隊では
さらに一層使われることのない死語と成り果てた言葉の一つでしょう。

現在海上自衛隊遠洋航海で出港前に行われる海幕長の訓示では、

「さまざまな形に姿を変える海」

という言葉が必ずと行っていいほど出てきます。
冒頭の言葉にも、形を変える海の姿がさまざまな表現で言い表されています。
そしてこれはある日の艦首に砕ける波の様子。

もちろんこうなると甲板に出るのは禁止になるはずですが、
海の怖さを甘く見ている空自出身の某空母艦長などは、わざわざ台風の時に
甲板にのこのこ出ていって

「私はお前を恐れぬ!」

とか言って波をかぶり、脚を掴んで海に落ちるのを防いだ副長に呆れられます。

全く、パイロット出身の空母艦長ってのはよお・・・。

ところで日本国自衛隊が保持を予定している空母「いずも」においては、
艦長は海自からなのか、それとも空自出身がすることになるのか、
気になるところですね。

アメリカ軍空母はパイロット出身が勤めることになっていますが、
先日ある海自の幹部の方に聞いてみたところ、

「操艦できない艦長なんてありえない!」

ということでした。

太平洋航海中の写真も残されています。
訓練の一環で実弾射撃が行われました。
5〜6の水柱が水平線に立ち上がっているのが見えます。

候補生たちは事業服を着用しているようですね。

11月21日の午前9時半、東経180度子午線を通過しました。
慣例に従って神事とお祭りを行なった様子です。

「今日御祭す 波路一百八十度」

後ろにはいわゆる「土人」に扮した乗員の姿が見えますが、
この神職は一体・・・?

まさか従軍神父みたいに神職が乗り込んでいたわけでもないだろうし・・・。
これもまさか・・・コスプレかな。

 

 

■ ヒロ

(自 11月26日 至 12月15日)

在留同胞の万歳の辞と日の丸の旗に迎えられて
艦隊は悠々弧月湾に入る。
一万四千尺の高峯「マウナロア」は我らの眼前に控え、
若人の憧れて椰子の木茂る布哇島は月光を浴びて我が舷側に其の姿を浮かべた。

想えば三十年の昔、「キャソリック」寺院の鐘の響が
椰子の葉末を渡る時、夕陽淋しき入相を待ちし「ヒロ」の街も今は
自動車の鋭く強き眼光の交錯する市と化し、
一圓茫々たりし原野も緑滴る甘蔗畑と変わった。

されど想え、この発展の歴史の中に潜む在留同胞の汗と力を。

文中の「弧月湾」から臨む「 マウナケヤ」です。

「弧月湾」というのが現在ないので想像ですが、これは「カーブ」を意味する
「ハナウマ湾」の日本人、日系人だけの呼び名ではないかと思われます。

ハワイの日本人移民が始まったのは1868年のことで、
1902年にはサトウキビの農家の70%が日系だったとされています。

ただし、この練習艦隊がハワイに訪問したのと同年の1924年、
アメリカではついに排日移民法が成立しました。

本土では日系人が収容所送りにされたのはご存知だと思いますが、
ハワイではすでに彼らが社会の中心を担っていたため、もし彼らを収容所に入れると
現地の経済がたちまち立ち行かなくなるという現実的な理由から、
ごく一部の者だけが「見せしめ」に収容されるということになりました。

この写真の頃にはすでにそれが交付された後で、
したがって練習艦隊の海軍軍人たちもそのことを重々承知をしていたはずです。


この写真に見えるのは、おそらく自分たち日系人の行く末に不安を感じつつも、
昨日と同じいつも通りの生活を続けているらしい人々の姿です。

「されど思え、この発展の歴史の中に潜む在日同胞の汗と力を」

と称揚しながらも、練習艦隊の乗員たちが、忍び寄る暗雲を
現地の人々の様子から感じる瞬間があったやもしれません。

「ヒロ公園より軍艦望遠」とキャプションがついています。
今でもヒロ湾を一望する湾岸には公園が幾つか広がっているので、
おそらくそのうちの一つであろうと推察されます。

右上はヒロに入港したときの様子。
デリックで海面に降ろされる内火艇に3人乗っているのが見えますね。

左下は横須賀出航以来初めての燃料の補給です。
この頃は石炭を積み込むことが「燃料補給」でした。

 

■ キラウエア火山

壮観か?凄惨か?将(はたま)た恐怖か?
ある時は魔の蛇のごとく、ある時は呪いの女神の焔の如く湧出し、
飛散し昇騰する噴焔の物凄さよ。

 

この頃のカラー写真というのが、フィルムからカラーだったのか、それとも
後から彩色したのかというと後者だと思うのですが、
それにしても真っ赤っかにしすぎではないだろうか。

というキラウエア火山の噴煙の写真。(冒頭)

ヒロのあるハワイ島の活火山で、1883年から噴火を繰り返しており、
よくまあこんなところに人が住んでるなあという状態なのですが、
桜島もそうであるように、そこに住んでいる人は割と平気みたいです。

まあ日本そのものも、外国から見たらよくそんなところに住んでるなと
言われても仕方がない国なんですが、みんなわかってて住んでますしね。

初めて外国に出て、このようなものを目の当たりにした練習艦隊乗員たちの
感動と驚き、自然に対する畏怖がいかばかりであったかは
想像に余りあります。

その火山見学に、練習艦隊の皆さんは無謀にも白い制服でやってきました。
11月ですが、ここでの季節を夏と規定して、皆さん夏服を着ている訳です。

こちら、百武司令(一番左)と3人の練習艦艦長たち。

候補生たちも火山口を夏服で見学です。
以前紹介した六十七期の遠洋航海では、火山見学の時
わざわざ冬服とマント着用でやってきていましたが、それは
この先達の経験から忠告を取り入れてのことだったかもしれません。

火山までは車をチャーターするほかないわけですが、これを全て
地元の日系人たちが手配したということが書かれています。

■ 歓迎

布哇島が生まれてよりこの方。
嘗て無かったと言われるほどの所謂(いわゆる)島を挙げての
在留同胞の心からの歓迎!!
それは到底筆で表すことはできない。

殊に自動車の百数十台を連ねて三十哩を距てた
キラウエア火山への案内等には乗員一同如何に感謝したことであろう。

そしてハワイを発つ日、日系人同胞は熱烈に練習艦隊を見送りました。
錨を上げた艦隊の周りを、岸壁はもちろん手作りらしい日章旗を
押したてて漕ぎ、名残を惜しむ日系人の姿が写真に残されています。


思い出多き滞在の日も慌ただしく過ぎて、艦隊は
艦も沈まんばかりの同胞の贈り物と熱誠な見送りの裡に
墨國はアカプルコに向け出航した。

 

続く。