さて、練習艦隊がサンフランシスコに寄港したのは一週間という期間でした。
その間、彼らはわたしにとって非常に馴染みのあるあの街を探訪したようです。
冒頭の写真は、サンフランシスコの現在のベイブリッジ側ですが、
まだ橋など影も形もなかった頃で交通の全ては船に頼っていました。
今、市のモニュメントとなっているクロックタワーはフェリーの発着所でした。
■ 市中及び近郊見学
黄金花咲く金門公園内に燦然たる日本の茶亭を見出すのも懐かしい。
加州大学、スタンフォード大学、オークランド、アラメダ等と
候補生の見学は中々忙しかった。
亦ロスアンゼルスの日本人会の招待で乗員の一部は此の短い滞在の
二日を割いて遠くロスアンゼルス市の油田及び市中見学に赴いた。
クロックタワーがこの右手突き当たりにある当時のマーケットストリートの様子です。
マーケットストリートはサンフランシスコのダウンタウンのメインストリートで、
企業や銀行、デパートなどがあり、今でも同じ線路の上を路面電車が走っています。
サンフランシスコ在住時、TOの勤め先はちょうどこの右側にあり、
市のはずれの我が家からは路面電車で乗り換えなしで来ることができました。
どこでも車で行くことが出来るアメリカも、ダウンタウンは駐車場が高く、
路上のコインパーキングも少しでも時間をオーバーすると、
鵜の目鷹の目で狙っている駐車違反切符係が飛んできて、それこそ
目玉が飛び出る程の罰金を払う羽目になるので、この辺りのオフィスワーカーは
オーナーや重役もない限り公共機関で通勤しています。
この写真の説明には、
「金門公園の海岸に建てられたる家」
とありますが、このブログを読んでくださっている皆さんのなかには、
もしかしたらこれが「クリフハウス」という温水プールのあるスパハウスの
付属レストランであることを覚えている方もおられるかもしれませんね。
これを「家」と一言で言い切ってしまっているのは、もしかしたら彼らは
実際にここに行き写真を撮ったわけではなく、絵葉書か写真を買ってきて
アルバムに掲載したからではないかという疑いが持たれます。
ここはわたしが毎年のように訪れているサンフランシスコ西北端の「クリフサイド」です。
昨年の夏もここでクジラを見たことなどをご報告させていただきました。
これも繰り返しになりますが、ここにはスートロ・バスズという
温水プールと、当時の併設されたレストラン施設「クリフハウス」があり、
この写真に見える建物は、焼失した初代に代わって建てられた2代目です。
しかもこの2代目クリフハウスは
1907年に台所からの火事で消失している
はずなのです。
せっかくサンフランシスコ大地震で持ちこたえたのに、よりによって
その翌年、わずか11年で姿を消してしまいました。
1907
で、なぜ1924年の練習艦隊のアルバムに写真があるのかなー?(棒)
当時の日本とアメリカの距離はあまりに遠く、事実を確かめることなどできないと
甘く見て、アルバム製作者は買ってきた写真でお茶を濁したのでしょう。
実は焼失してもう存在していなかったため、行っていないことがバレてしまったと。
まあ、バレたと言っても指摘しているのはわたしだけですが(笑)
当時の貨幣価値とスケジュールの多忙さを考えると無理からぬことという気はします。
ちなみにクリフハウスは建て替えられた後にも続けて4回火事で焼けています。
この、ゴールデンゲートパークにある「ジャパニーズティーガーデン」の写真も
どう見ても買ってきたハガキではないかと疑われます。
まあ、行ったかどうか怪しいクリフハウスと違って、ここは実際にも見学しております。
と言いながら、わたしは住んでいたくせに今まで一度も行ったことがありません。
ゴールデンゲートパークの日本庭園は、1894年に開かれた国際博覧会の際に造園され、
公共の日本庭園としては米国で最も長い歴史を持っているということです。
博覧会が終了した後、ここで茶店を経営していた日本人の萩原真という事業家は、
この訪問時点ではまだギリギリ生存していたということですが、翌年、
1925年に萩原は死去し、萩原の遺族が管理を続けていました。
その後1942年になってルーズベルトの出した日系人排斥令にしたがって
萩原の家族はこの家を追われて強制収用所に収監されることになります。
排斥令に伴い「ジャパニーズ・ディーガーデン」は「オリエンタル・ティー・ガーデン」
に改名され、園内のティーハウスの運営も萩原家から中国人の手に渡りました。
戦後、元の「ジャパニーズ」に名称も中身も戻されたのはいいのですが、
2007年時点では、どういうわけか経営はやっぱり中国人だったそうなので、
多分今でもそうなんだろうと思われます。(投げやり)
「加州大学」で軍事教練を見学中、とあります。
加州大学とはカリフォルニア大学のことですが、ご存知のようにカリフォルニア大学には
「バークレー」「ロスアンゼルス」「デイビス」「サンディエゴ」など、全部で
10大学を含むシステムで、ここに写っているのはおそらくサンフランシスコ校、
UCSFということになります。
昔から医学で有名な大学なので、軍事教練をしていたというのが不思議な気がしますが、
普通大学でも教練が行われていた時代がアメリカにもあったということでしょうか。
写真は現在のUCSFのある地帯で、朝らしく、霧が濃いのがわかります。
練習艦隊御一行様、この7日間の間にスタンフォード大学まで行っています。
サンフランシスコからスタンフォードまでは今でも車で1時間、
当時の道路事情と車の性能ではもっと時間がかかったと思うのですが、
それでも西海岸の有名大学をこの機会に一眼見るべきと判断したのでしょう。
写真に写っているのは今でももちろんキャンパスにある
です。
1903年に建造され、大地震では大きな被害を受けて再建されています。
今のスタンフォードは観光地化していて
いつ行ってもどこに行っても人が溢れています。
このメモリアルチャーチは、大学創業者である
の死後、夫人が彼を慰霊する意味で建てたものです。
実はスタンフォード大学は正式名称を
「リーランド・スタンフォード・ジュニア大学」
Leland Stanford Junior University
と言います。(今も)
かれの15歳で腸チフスのため亡くなった息子の名前で、
父親であるスタンフォードが永久にその名を残すために作ったのです。
カリフォルニアの州庁舎所在地がサンフランシスコではない、ということを
実はわたしはこの写真によって初めて知りました。
サンフランシスコを内陸に車で1時間半くらい行ったところにある
サクラメント市というのがカリフォルニアの州都だったのです。
ちょっと不思議な気もしますが、この理由は州都制定当時(1854年)、
ゴールドラッシュの影響で人口が多かったということからです。
ゴールドラッシュはサクラメント近郊で1847年金が発見されたことに端を発します。
ちなみに米墨戦争以降、州都は
サンノゼ→バレーホ→ベニシア→サクラメント
と変遷してきています。
サクラメント市はカリフォルニア州議会を持ち、
今でも写真の議事堂で上・下院議会を行っています。
1890年以降、ロサンゼルスに油田が発見されました。
以後、ロサンゼルス、オレンジ・カウンティー各地で油田の発見が相次ぎ、
ゴールドラッシュでサクラメント近辺に集まっていた人口は
今度は「オイル・ラッシュ」でこちらに民族大移動してきます。
金鉱を掘り当て一攫千金のチャンスをものにした人などごく一握りで、
食い詰めていた人たちが多かったということなんですね。
ちなみにリーランド・スタンフォードはその「ごく一握り」の成功者です。
一大石油産地となったロスアンゼルスは、その後テキサスで油田が発見されるまで
アメリカの石油消費の大部分を支え続けて成長しました。
さて、我が帝国海軍練習艦隊の乗員の一部は在米7日の間に、
2日を割いてロスアンゼルスまで行ったとあります。
当時、これもスタンフォードが作った鉄道会社によってサンフランシスコから
ロスまで汽車で行くことができたので、それを使ったのだと思いますが、
サンフランシスコーロス間は今でも汽車で8時間はかかります。
たった二日の行程で、これは体力的にもかなりきつかったと思われますが、
ロスの日本人会のたっての希望でどうしても断れなかったのかもしれません。
現地の日系が、練習艦隊の寄港をいかに楽しみにしていたかがわかります。
説明にもあるように、候補生たちは此の短い日程でオークランド、
そして当時は海軍の軍港があったアラメダにも行っています。
前回ご紹介した「ワイレー中将の艦隊訪問」はここで行われたものと思われます。
駆け足だったに違いないロスアンゼルス市内観光では、なんと
ワニ園を見学しているという相撲部員の写真が・・・。
なぜ相撲部?なぜワニ園?色々と謎です。
今現在ではロスにワニ園と関係する施設は存在しません。
勇ましき出航用意の喇叭は響きぬ。
早くも数台の飛行機に爆音勇ましく濃霧尚晴れやらぬ中
空に雁行をなして我を見送り、日章旗揚げし「ボート」は
数多艦隊近く続りて別離を惜しむ。
さらば 桑港よ 金門港よ
在留同胞よ 健在なれ
艦隊が訪れる直前の1924年7月、アメリカでは移民排斥法が成立しました。
これにより日本人を含む「白人以外の移民」はこれを禁止されることになり、
移民先を失った日本は満州にこれを求めたという説があります。
何かと非難される日本の大陸進出の遠因は、実はアメリカが作ったという考え方です。
もちろんそれは単なるこじつけだという説もありますが、実際満州に
新天地を求めて行った人の多さを考えると、それもそう大間違いではないような。
少数とはいえども移民する権利が存在する状態と、完全に移民する権利が奪われて
1人も移民できなくなることの間には、超えられない差が存在する(wiki)のです。
いずれにせよ、排日移民法が当時の国内外日本人の反米感情を産んだのは間違いなく、
当のアメリカにこれだけ追い込まれては、戦争は単にきっかけ次第だったという気もします。
日本からの練習艦隊がサンフランシスコを離れる日、アメリカ海軍は
当時主流だった複葉機の編隊飛行を行い、艦隊を見送りました。
詳細は記されていませんが、練習艦隊が出航したのを見計らって
飛行機が上空を追い抜いていくように飛び去ったのだと思われます。
これもアメリカの日本海軍に対しての国力と戦力誇示であったというのは
少々穿ちすぎる考え方かもしれませんが・・。
続く。