短現将校という言葉をご存知でしょうか。
1922年、ワシントン軍縮会議の結果を受けて陸海軍ともに大幅な人員縮小を行ったツケが、
1935年以降始まった軍拡競争、軍艦建造競争のころ人手不足となって現れてきました。
いくらフネをつくっても、乗せる人間がいないのです。
1936年には人員を増やすためにいくつかの対策が取られました。
特務士官の増員、そして尉官級の進級を早めることなどです。
兵科士官はこれで何とかなったのですが、軍隊のマネージャーたる主計士官がこの方法では確保できません。
そこで、海軍は任官期間を三年以下二年と定めた二年現役制度を発足させ、これが
短期現役(短現)主計科士官という名の特殊士官を誕生させることになりました。
1938年のことです。
短期現役主計士官の資格は、旧制大学の法学部、経済学部、商学部などの卒業者もしくは高等試験合格者。
1939年(昭和14年)より高等商業学校などの旧制専門学校卒業者も対象となっています。
この制度では大卒の訓練終了者はすぐに「海軍主計中尉」という階級がもらえました。
「海軍主計中尉 小泉信吉」でその短い人生が語られた小泉信三の息子信吉は、
一高から銀行にいったん就職が決まっていましたが、こちらを選んでいます。
この待遇ゆえに「海軍に一生を捧げる気はないが、あの凛々しい短剣をつって国のために働きたい」
と、まあ、どちらが主な理由かは人によって様々でしたでしょうが、志願は殺到。
第一期生の募集人員は35名でしたが応募してきたのは九百名以上、実に二十六人に一人の狭き門となりました。
「榛名」に転勤した兵科士官の某中尉は
「二年現役の主計中尉がわたしの席の上にデンと構えていた。
たった六か月で中尉とは、どうしても納得できなかった」
とその当初の短現士官に対するオモシロクナサを述解しています。
軍隊という組織に不公平と矛盾はつきもの、自分もまた兵学校を出たばかりで叩き上げのベテランよりも
上官になってしまう、という下士官から見れば「納得されない方の」立場であったわけですが、
やはり人間、不満に思う側に立たないと見えてこないものはあるのです。
しかし、この主計中尉は某中尉に経済の基礎について、GNPや国家予算の解説などを絡ませながら教えてくれ、
今まで全くそちら方面には無知であった「本チャン」(兵学校出)の某中尉は、
いつの間にか彼に尊敬の念すら抱くようになり、ついには格好の飲み友達にまでなったということです。
この小さな一例が示すように、この短現士官制度は一般の、それも優秀な頭脳と角度の違う視点、
そして知識を海軍内に流入させることになりました。
とかく膠着しがちだった海軍組織の言わば活性化につながることになったのです。
そう、この海軍苦肉の策が、のちに海軍人事中最大の「ヒット制度」と呼ばれる所以です。
そして、苦肉の策の「補助員」として登用したはずのこの主計士官の中の優秀な人物は
海軍が期待する以上の能力で「本チャン」士官にも負けず劣らない力を発揮したと言われています。
海軍が彼らに期待したのは「優秀なクラーク(官吏)」でしたが、彼らはその期待を大きく上回り、
あるものは指揮官として、ある者は占領地の行政官として予想以上の働きをあげることになりました。
この短現士官の戦地での活躍については、また項を別にお話ししたいと思います。
さて、戦後この短現将校から、二人の総理大臣が出ています。
中曽根康弘と鳩山威一郎。
戦後の政界、財界、法曹界、そして経済界の中心に、実に多くのこの短現主計士官の活躍がありました。
戦後の日本をつくってきた政治家の中には短現士官のみならず、
兵学校卒士官や予備学生出身の海軍出身者が数多くいます。
源田実、安倍晋三(予備学生、海軍滋賀航空隊)有馬元治(短現)林田悠紀夫(短現)
小坂徳三郎、宮沢弘(短現)田英夫(予備学生)松野頼三(短現)大谷藤之助(兵56)。
東大生だった田英夫氏は学徒出陣で震洋特攻隊長として終戦を中尉で迎えています。
昭和53年のこと。
当時、海軍出身で国会に籍を置く政治家は70余名いました。
衆参両院で総員750名、実に一割がネイビーだったのですから驚きます。
このメンバーは「オールドネイビークラブ」を結成し、この年その第一回大会を憲政会館で行いました。
会館にはZ旗が飾られ、その錚々たる顔ぶれは壮観なものでした。
それにしても、自民党の故中川昭一氏が何かの会合で会場にあった国旗のことで
「国旗を見て不愉快だと感じる人に配慮しないのか」「何故飾っているのか」
と某新聞の記者に詰め寄られたというようなことが起こる21世紀の日本からは信じがたい光景です。
国政にも戦争従事者がいなくなって平和や国体に対する意識をかえって硬直させているのかもしれない、
と思う今日この頃ですが、こう言う話はまた別の機会に。
海軍兵学校74期卒の民社党代議士吉田之久氏が「甲板士官」を務めました。
海軍喇叭「君が代」の演奏される中、正面に飾られた大きな軍艦旗に対し
「かしら、中!」
かけられた号令に艦内帽をかぶった国会議員たちはしばしの間挙手の礼を捧げました。
そのとき、鳩山威一郎、中曽根康弘ら数名の議員の目には涙がありました。
その涙にいささかの驚きを以て、甲板士官の吉田氏は主計短期現役出身の議員にそっとこう聞きました。
「学徒出陣の先生方がそれほどの思いを軍艦旗に込められるとは・・・」
するとその議員はこう言ったのだそうです。
「いや、海軍のおかげで僕たちは今日があるのです。
愈々(いよいよ)戦闘出動のとき、艦長らは短期出身の将校の多くに、重要書類を持って直ちに艦を降り、
本隊に戻れ、と命じられました。
命を大事にしろと言われた海軍への恩義は一生涯忘れられないのです」
海軍にはこういう、ある意味精神主義的なだけではない、冷静で科学的な一面がありました。
大和最後の特攻でも、艦長は激しく抵抗する少尉候補生を艦から降ろしたと云います。
この後、オールド・ネイビー・クラブは1984年の16回までは会合を重ね、そのときに
第一回大会の70名は20名ほどになっていましたが、
このとき甲板士官を務めた吉田氏もその後2003年、76歳で亡くなりました。
田英夫氏が亡くなったのは2009年。86歳でした。
この会合が何回まで持たれ、現在中曽根氏以外にそのメンバーの誰が健在であるのかは
今回調べたのですが分かりませんでした。
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