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来日していた米陸軍航空・世界一周飛行隊〜スミソニアン航空博物館

2023-04-08 | 飛行家列伝

2回続けてスミソニアン博物館から、1920年〜30年代の
海軍航空の歩みに関する展示を中心に紹介してきました。

というところで、今日は陸軍航空の挑戦についてです。




「ミリタリー・エア」のコーナーには、ダグラスの航空機の下に
二人の陸軍パイロットのパネルがあり、このように書かれています。

ローウェル・スミス大尉とレスリー・アーノルド大尉と
ダグラス ワールド・クルーザー「シカゴ」

1924年、スミスとアーノルドの操縦する
アメリカ陸軍航空サービスの1機である「シカゴ」号は
世界初の「完全な世界一飛行」を175日で終えました。

スミスとアーノルドってどんな人?

●世界一周するために出発したアーミー・ワールド・クルーザー、
4機のうちの一つの乗組員

●スミスは37時間の耐久飛行記録を打ち立てました

●アーノルドは陸軍の追跡パイロットであり、
バーンストーマー(アクロバット飛行などもするパイロット)でした

●彼らは世界飛行という脅威的な偉業を達成するために、
広大なグローバルネットワークによるサポートに支えられました

ダグラス・ワールド・クルーザー「シカゴ」
The Douglas World Cruiser Chicago

「シカゴ」とその仲間である「ワールドクルーザー」は、
世界一周の挑戦の過酷で変化に富んだ状況に耐えるのに
十分なくらい頑丈で、かつ信頼できるものではなければなりませんでした。

彼らは航続距離を確保するために追加の燃料タンクを採用し、
ホイールとフロート、どちらも選択することができました。


胴体に書かれた地球に二羽の鷲のイラストは、
世界を巡る陸軍パイロット二人を象徴しています(たぶん)


1924年、アメリカ空軍の前身であるアメリカ陸軍航空局所属の飛行士が、
「世界初」=(着水なし)の空中周航を達成しました。

全行程175日間の旅は、航行距離42,398km以上。
その航路は、環太平洋を東から西に回り、
南アジア、ヨーロッパを経て米国に戻るというものでした。

冒頭で紹介されているのは、そのメンバー4人、

ローウェル・H・スミス  Lowell H. Smith

レスリー・P・アーノルド  Leslie P. Arnold

エリック・H・ネルソン Erik H. Nelson

ジョン・ハーディング・ジュニア John Harding Jr.

のうちの上二人です。

彼らは単発オープンコックピットで水上機仕様の
ダグラス・ワールドクルーザー(DWC)2機を挑戦に用いました。

実はこの2機の他にDWC2機、乗員合計4人が同じルートに挑み、
いずれも途中で脱落しましたが、飛行士は全員無事でした。

■ 世界一周への挑戦


1920年代初頭、当時の世界の航空界におけるトレンドは、
「飛行機による世界一周一番乗り」
だったかもしれません。

イギリスは1922年、真っ先に世界一周飛行にチャレンジし、失敗しました。

1923年春、アメリカ陸軍航空局は

「軍用機飛行隊による初の世界一周飛行」

を試みました。

この陸軍のハイレベルな試みは、最終的にパトリック将軍の指揮の下、
海軍、外交団、漁業局、沿岸警備隊の支援も受けることになります。

【使用機の選定】

まずは使用する飛行機の選定です。

陸軍省は、フォッカーT-2輸送機とデイヴィス・ダグラス・クラウドスター
どちらが適しているかを検討し、試験用の実機を入手するよう
航空省に指示しするところから始めました。

陸軍省はこのどちらにもそこそこ満足しましたが、
計画グループは、車輪と着水用のフロートを交換できる専用設計にしたい、
と考え、現役および生産中の他のアメリカ航空局軍用機を、
全て検討するように要請しました。

デイビス・ダグラス社が、デイビス・ダグラス・クラウドスターについて
ふたたび打診された時、創始者のドナルド・ダグラス
1921年と1922年にアメリカ海軍のために製造した
魚雷爆撃機DT-2の改造機のデータを代わりに提出しました。

DT-2は車輪式とポンツーン式の着陸装置を交換可能であり、
さらに頑丈な機体であることが証明されていたからです。

ダグラスは、この既存機をもとにして、
ダグラス・ワールドクルーザー(DWC)に改造し、
契約後45日以内に納入することになりました。

ダグラスはジャック・ノースロップの協力を得て、
DT-2を世界一周挑戦用に改造する作業に取り掛かりました。

主な改造部分は航続距離を確保するための容量を増やした燃料タンクでした。
内部の爆弾搭載構造をすべて取り除き、主翼に燃料タンクを追加。
機体の燃料タンクも拡大された結果、総燃料容量は
435リットルから2,438リットルへととんでもなく増えました。

ダグラス案はワシントンに持ち込まれ、航空局長、
メイソン・M・パトリック少将がこれを承認し、本格的に動き出します。

まず試作機が発注され、試験の結果さらに4機が納入されました。
予備部品には15基のリバティエンジン、14セットのポンツーン、
さらに2機分の機体交換部品が含まれていたました。

これらの予備部品は、航空機が辿る予定となっていた
世界一周ルート上の場所に先に送られました。

航空機は無線機もアビオニクスも一切備えておらず、
乗組員は冒険の間中、完全に推測航法技術に頼ることになりました。

大丈夫なのか。

そこで重要となってくるのが参加する乗員の人選です。

【選ばれたパイロット】



スミソニアンに展示してある飛行機は「シカゴ」ですが、
実は他の3機も、アメリカの都市名が付けられていました。

写真は、この世界一周に挑戦したエリートパイロットたちで、
各飛行機のメンバーは次の通りです。

シアトル(No.1)失敗

フレデリック・L・マーティン少佐(1882-1956) 機長兼飛行指揮官
アルヴァ・L・ハーヴェイ軍曹(1900-1992) 飛行整備士

シカゴ(No.2)


ローエル・H・スミス中尉(1892〜1945)機長、飛行隊長
レスリー・P・アーノルド少尉(1893〜1961)副操縦士

ボストン(No.3)/ボストンII(試作機)
失敗

リー・P・ウェイド少尉(1897~1991)機長
ヘンリー・H・オグデン2等軍曹(1900~1986)整備士

ニューオーリンズ(No.4)

エリック・H・ネルソン中尉(1888-1970)機長
ジョン・ハーディング・ジュニア中尉(1896-1968)副操縦士


写真には7人写っていますが、おそらくこれは、
士官パイロットだけで撮ったもので、真ん中の一人が
この作戦の総指揮を執った偉い人なのだと思われます。

参加パイロットは全軍から集められた腕利きの飛行家ばかりでした。
世界一周飛行を成功させた後、有名になった二人の経歴を記します。

【ローウェル・スミス中尉】




スミスは、大学在学中に、モハーヴェ砂漠のポンプ工場で働き、
その後自動車修理工場で整備士、 ネバダの鉱山で飛行機の操縦を習った、
という変わった経歴の持ち主です。

メキシコのパンチョ・ビラの革命軍に参加して、
飛行担当として偵察操縦をしていたこともあります。

第一次世界大戦をきっかけに陸軍航空隊に入隊したスミスは、
出征はしませんでしたが、飛行教官、技術官を務めた後、
太平洋岸で火災哨戒を行う飛行隊の指揮官を務めていました。

操縦の腕を買われ、彼は1919年、陸軍代表として、大陸横断速度、
耐久性コンテストに参加することになります。

ところが、コンテスト直前に整備士の灯火が翼に引火し、機体は焼失
スミスは現地を訪れていたあの『陸軍航空の父』の一人、
カール・スパッツ少佐の乗っていた飛行機を直々に譲り受け、
コンテストで史上初めてサンフランシスコからシカゴまで飛行を成功させ、
さらに往復によって記録を作ることになります。

その後、1923年、スミスはポール・リヒター中尉とともに、
デ・ハビランド・エアコDH.4Bのペアで史上初の空中給油を成功させます。

この飛行でスミスは飛行距離、速度、飛行時間の16の世界記録を更新し、
37時間15分の滞空記録と次々に挑戦を成功させてきました。

その時すでにスミスの飛行時間は2000時間以上。
世界一周飛行に挑戦するのに選ばれて当然のキャリアと実力でした。

ただし、中尉だった彼は最初から隊長に選ばれていたわけではなく、
当初予定されていたフレデリック・マーチン少佐の飛行機が
アラスカで墜落してしまったため、急遽指揮官を任されたのです。

【レスリー・アーノルド少尉】


イケメソ

「シカゴ」の副操縦士を務めたレスリー・P・アーノルド少尉は、
追跡パイロットとして訓練を受けた飛行士です。

第一次世界大戦の戦闘には間に合わず、軍のバーンストーマーとして
アメリカの田舎を旅し、人々に感銘を与えたパイロットの一人となりました。

アーノルドは、ウィリアム・"ビリー"・ミッチェル准将が率いる
陸軍の特別臨時航空旅団の一員となり、ここでもお話ししたことのある、
1921年のミッチェルの戦艦爆破実験に参加しています。

もともと世界一周飛行の企画段階では予備パイロットでしたが、
出発のわずか4日前にアーサー・ターナー軍曹が病気になったため、
「シカゴ」でスミスに合流しました。

追跡パイロット出身、さらに陸軍のバーンストーマーと、
こちらもその操縦技術と経験は十分だったといえるでしょう。

■ 世界一周

パイロットたちはバージニア州のラングレー飛行場で
気象学と航法の訓練を受け、試作機での練習、ついで
ダグラス社とサンディエゴで量産機での練習も行っています。


アメリカ・ワシントン州シアトル

「シアトル」「シカゴ」「ボストン」「ニューオーリンズ」の4機は、
1924年3月17日にカリフォルニア州サンタモニカを出発、
ワシントン州シアトルを発ってこの日が正式の出発日となりました。

各機はシアトル出発前に、それぞれの名前の由来となった都市から
わざわざ持ってきた水をボトルに入れて機体で割る儀式を経て
正式に命名され、車輪はポンツーンフロートに交換されました。

1924年4月6日、彼らはアラスカに向け出発しますが、
9日後に早速トラブルが見舞います。


カナダ・プリンスルバート

4月15日にプリンスルパート島を出発した直後、先頭機「シアトル」は
クランクケースに穴が空いて着水せざるを得なくなったため、
エンジンを交換して3機を追いかけますが、

アラスカ準州・シトカ、スワード、チグニク・ポートモラー
で濃霧の中、アラスカ半島の山腹に墜落して「シアトル」は損壊します。

しかし乗員二人は山腹を歩いて6日間を過酷な環境の中で生き延び、
缶詰工場にたどり着いて助かりました。



1番機が脱落したので、スミスとアーノルドの「シカゴ」が
1番機を務めながら北太平洋を横断しました。


ソ連・ニコルスコエ
ソ連とは国交がなかったので上空の航行は認められていませんでしたが、
「シカゴ」はなんとなくソ連領土にも着陸してしまっています。

この頃はのんびりしていたのね。

日本
そして5月25日、この時チームは東京にたどり着いています。


霞ヶ浦到着 旗を振る人々



一行は日本では千島列島はじめ6カ所に着陸しました。
6月2日には鹿児島に到着したとあります。

説明によると、陸軍航空隊の皆様は、特に日本の滞在には興奮したとのこと。


「日本で皇室の歓迎を受ける」

と見出しに書かれていますね。
日本は官民あげての大歓迎をしたようで、特に帝國陸海軍は
総出で彼らのアシストをおこなったと新聞記事にも書かれています。

「バンザイ!」

霞ヶ浦に到着した時には海軍士官が特に出迎え、
海軍施設で心温まる歓迎をしてくれたとか、
集まった人々は皆手に日米の国旗を打ち振っていたとか、
子供たちが400人も集まって歓迎してくれたとか、
到着した時人々の間から「バンザイ!」という声が上がったとか、
日本の航空機が歓迎のための航空デモをしてくれたとか、
最終日には上野公園で「帝国航空協会」?から花束をもらったとか、
陸軍高官に茶を振る舞われ、政府主催の公式晩餐会があったとか、
「ガールズ」が花束贈呈をしたとか(それがどうした)
乾燥した栗とsake、日本の酒が出され、これが美味かったとか。



海軍の施設でメインテナンスされている「シカゴ」を見る二人。
メダルは串本町?町長から贈呈されたものです。

ただし、

スミソニアンの説明は、

「日本は航空機の到着そのものには大歓迎をしていたが、
操縦者が軍人であることから軍の関与を疑っており、
軍事機密を保護するため、国内の移動には曲がりくねった航路を指示した」

と、まあ近代国家なら普通にするであろうことを
なんとなく意味ありげに書いています。

その後航空機は比較的順調に朝鮮半島(これも日本)を経由し、


中華民国 上海


中国沿岸を下って・・・・、


フランス領インドシナ(現ベトナム)
へと。

【『シカゴ』のトラブル】

トンキン湾を出発した後、「シカゴ」のエンジンの一部が破損し、
フエ近くのラグーンに着陸したところ、飛行機を珍しがった現地の人が
わらわらと飛行機に近づいてきて乗ろうとするので困ったそうです。

他の三機の救助ボートが、「シカゴ」の翼の上に座っている二人を見つけ
3台のパドル式サンパンで10時間、かけてフエまで牽引し、
そこでサイゴンから緊急輸送されたスペアエンジンと交換さました。

怪我の功名とでもいうのか、この時交換したエンジンは性能が良く、
もしかしたら「シカゴ」が成功したのはこのおかげだったかもしれません。

しかしながら、「シカゴ」のトラブルはまだ続きました。


タイ・バンコク


イギリス領インド・カルカッタ、カラチなど

6月29日の夜、カルカッタで足回りの整備を済ませた日、
夕食を食べ終わったスミスが暗闇で滑って肋骨を折ってしまいました。
しかしそれでも彼は作戦を遅らせることなく続行することを主張。

「ニューオリンズ」壊滅的なエンジン故障に見舞われ、
足を引きずるようにカラチにたどり着き、全機がエンジン交換を行いました。

その後、中東、そしてヨーロッパへと向かいました。

シリア・アレッポ

トルコ・コンスタンチノープル

ルーマニア王国・ブカレスト

ハンガリー王国・ブダペスト

オーストリア・ウィーン

フランス・パリ・ストラスブール
7月14日のバスティーユ・デイにパリに到着。


イギリス・ロンドン、ブラフ、スカパ・フロー
ロンドン、イギリス北部へと飛行し、
ポンツーンの再設置やエンジンの交換など、
大西洋横断の準備を行います。

【『ボストン』号脱落】


アイスランド・レイキャビク

1924年8月3日、アイスランドに向かう途中、「ボストン」は
オイルポンプの故障により、で無人の海に墜落しました。

「シカゴ」はフェロー諸島まで飛行し、支援のため待機していた
アメリカ海軍軽巡洋艦USS「リッチモンド」にメモを投函し、
乗員は無事救助されたのですが、曳航されていた「ボストン」は
フェロー諸島到着直前に転覆して海の藻屑と消えてしまいました。

残った「シカゴ」と「ニューオリンズ」は
アイスランドのレイキャビクに長期滞在し、そこで偶然にも
同じ周航を試みていたイタリアのアントニオ・ロカテッリ
その乗組員に出会っています。

その時世界一周に航空機で挑戦していたのは、
何カ国もありました。(ブームだったんですね)


グリーンランド・タラーシクなど
「シカゴ」と「ニューオーリンズ」は、今や
5隻の海軍艦艇とその船員2500人を伴って、
グリーンランドのフレドリクスダルに向け前進を続けていました。

これは、その5隻の船がルート上に連なる、
全旅程の中で最も長い行程となりました。
グリーンランドで2機はまたエンジンを取り替えています。


カナダ・ラブラドール
に到着。

最初に脱落していた「ボストン」の乗員二人ですが、
彼らはなんと、「ボストンII」というオリジナルの試作機に乗り換えて
ここからちゃっかりまた合流しています。


アメリカ・メイン州カスコ湾、マサチューセッツボストン
ニューヨークミッチェル空港、ワシントンD.C.など


首都での英雄的歓迎の後、3機のダグラス・ワールド・クルーザーは
西海岸へ飛び、複数の都市を巡り歓迎されました。

全行程363時間7分、175日以上、42,398 km。

同時期に挑戦したイギリス、ポルトガル、フランス、イタリア、
アルゼンチンは全チーム失敗しましたが、彼らだけが成功させています。

それもそのはず、全チームでアメリカだけが、

●複数の航空機を使用した

●燃料や予備部品などの支援機器を
ルート上に大量に事前配置していた

●海軍の駆逐艦数隻を応援に配備していた

●事前に手配された中継地点で
5回のエンジン交換、2回の翼の交換をした

のですから。
まーこれはチートってやつですよね。他の国から見たら。

その後ダグラス・エアクラフト社は、

「ファースト・アラウンド・ザ・ワールド
 - First the World Around」

というモットーを採用するようになりました。
めでたしめでたし。

続く。