ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「撃沈撃破、ゼロ」〜潜水艦「シルバーサイズ」第2回、3回哨戒

2022-08-26 | 軍艦

ミシガン州マスキーゴンに展示されているUSS「シルバーサイズ」。
第二次世界大戦中に日本と死闘を繰り広げた「ガトー」級潜水艦の一つです。

前回、「シルバーサイズ」の初代艦長、バーリンゲーム大尉が指揮をした
就役後1年2ヶ月間の5回の哨戒から主に最初の哨戒を取り上げたのですが、
今日はその続きで、2回目からを取り上げます。

■ 第2回目の哨戒


「シルバーサイズ」オフィサーズ・ワードルームの開戸に、
撃沈・撃破した日本艦船を軍艦も民間も一緒くたに旭日旗で表した
ペイントとその下に書かれていた船名をご覧ください。

この船名は、乗員たちが当時撃沈あるいは撃破したと信じていたところの
日本艦船の名前となりますが、実際のところどの程度正しかったでしょうか。

当ブログでは、これを照らし合わせるために、色分けし、

●青字は扉にペイントされた船名あるいは種類
🇯🇵緑色は日本側の記録
🇺🇸茶色はアメリカ側の記録

として書き出してみました。



7月15日、「シルバーサイズ」は2回目の哨戒で日本近海に向かいます。

●トロール船(漁船)500トン 撃沈

🇯🇵7月24日には北緯32度35分 東経158度54分の地点で
500トン級トロール船を砲撃で撃沈。

これはおそらく正確な情報だと思われます。
問題は、次です。

● テンヨウ-マル 10,105トン 撃破

🇯🇵7月28日、北緯33度21分 東経139度24分の八丈島の沖合いで
「大型貨客船」に魚雷を3本発射し、3本とも命中させたと判断された。

🇺🇸4,000トン級の輸送船を沈めた

三者の情報が全くバラバラです。
きっとどれも正しくないのだろうと思います(笑)

ちなみに「天洋丸」という特設敷設艦は実在しましたが、
1942年3月10日にラエの空襲で戦没していたことがわかりました。


【外交官交換船『龍田丸』との遭遇】

🇯🇵8月1日、北緯33度05分 東経135度21分の地点で
日英交換船「龍田丸」(日本郵船、16,975トン)を確認。

「龍田丸」は、戦争が始まってから日英の外交官交換船となっており、
「シルバーサイズ」が確認した2日前の7月30日に、
454名の船客を乗せて横浜を出港したばかりでした。


これは、米潜水艦「キングフィッシュ」の潜望鏡ごしに撮られた
外交官交換船仕様の「龍田丸」の航海中の写真です。

「龍田丸」は横須賀出港後、途中寄港の上海で324名、
サイゴンで146名、シンガポールで4名を乗せ、
計928名で当時中立国であったポルトガル領東アフリカの交換地、
ロレンソ・マルケスに8月27日到着しました。

ここで日本人外交官、民間人877名、タイ人42名の計919名を乗せ、
9月2日出港。
途中シンガポールで日本人571名とタイ人42名が下船します。

その後、外務省関係者6名を乗せて9月27日、横浜に帰着しました。


「シルバーサイズ」が「龍田丸」を確認したのはその出港直後でしたが、
「キングフィッシュ」がこの写真を撮ったのは、帰着後の10月14日です。

つまりこの頃には「龍田丸」は外交官輸送の任務を終わっており、
10日後には民間に戻る予定になっていました。

「シルバーサイズ」が遭遇した時には、「龍田丸」の安導権が生きていて、
攻撃は国際法違反でしたから、彼女はそれをきちんと遵守して
攻撃を行うことはありませんでしたが、
「キングフィッシュ」が写真を撮ったとき、
書類上「龍田丸」はもうその特権の下にありませんでした。

しかし、塗装がそのままで、安導権を意味する十字の印が残っていたので、
攻撃を免れることができたと言うことです。



●ライオンズ(Lyons)マル 1万トン撃沈

🇺🇸7月28日 4,000トン級の輸送船を撃沈

🇯🇵 「りおん丸」2,225トン、
1943年ラバウルにてTBFの空襲で撃破

これも三者共に全く情報が違っています。
日本の資料がおそらく正確なものだと思われます。

「シルバーサイズ」が沈めたと思ったのは全く別の船だったようです。


●セイコーマル 5,400トン 撃沈

🇺🇸 8月8日 客船・貨物船 日慶丸を沈めた

🇯🇵 8月8日、北緯33度33分 東経135度23分の市江崎沖で
輸送船日慶丸(日産汽船、5,811トン)を発見し、
魚雷を2本発射して1本を命中させて撃沈する。


夜になって浮上すると、2隻の哨戒艇や3隻の駆逐艦が見えたので、
「シルバーサイズ」は21ノットの速力でこの海域から去る。

珍しく、日米の記録が合致しました!

「シルバーサイズ」の記録はその場で本を見て確認した程度なので、
どれもいい加減で、史実とは全く違っているのが基本です。

これはどうしても当時の潜水艦という艦種にはあるあるの誤認でしょう。


「シルバーサイズ」が撃沈した「日慶丸」と同型船です。
沈没地点は和歌山県市江崎南方 でした。


🇯🇵8月14日、北緯33度25分 東経135度31分で
輸送船「成田丸」(内外汽船、1,915トン)に魚雷2本発射、命中せず

🇯🇵8月17日、北緯33度17分 東経134度12分の室戸岬近海で
貨客船「室戸丸」(関西汽船、1,257トン)に魚雷3本発射、命中せず
2本は陸岸に当たって爆発した

🇯🇵8月21日、北緯33度12分 東経134度12分の室戸岬近海で
貨客船「浦戸丸」(関西汽船、1,326トン)に魚雷を2本発射、命中せず

「シルバーサイズ」、この頃は絶不調です。
おそらく、乗員一同(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)としていたに違いありません。

ちなみにこのとき「シルバーサイズ」の攻撃を免れた「浦戸丸」
1943年に松山沖で衝突事故のため沈没しました。

「室戸丸」も終戦直後の1945年10月、西宮沖で触雷して沈没しています。

戦後触雷で沈没して多数の死者を出したことで有名な「女王丸」も、
この姉妹船と同じ関西汽船所有の船でした。


●トロール漁船 250トン 撃沈

●トロール漁船 350トン 撃破

🇺🇸 8月31日 敵トロール船2隻を撃沈した

🇯🇵8月31日、北緯33度51分 東経149度39分の地点で
漁船「美洋丸」と交戦。
「美洋丸」救援のために駆けつけた
特設監視艇「第三萬亀丸」
北緯34度07分 東経150度08分の地点で交戦する。

「美洋丸」は大破したものの沈没を逃れ、曳航されて日本に向かった。

「シルバーサイズ」は「美洋丸」撃沈、第三萬亀丸撃破と判断していた。


というわけで、「シルバーサイズ」第2回哨戒における
正確な戦果の発表です!

【撃沈】

7月24日 500トン級漁船

8月8日 輸送船「日慶丸」

【撃破】

8月31日 漁船「美洋丸」

念の為、「シルバーサイズ」はこれを、
撃沈4隻、撃破2隻だと申告していました。


9月8日、「シルバーサイズ」は56日間の行動を終え、
母港である真珠湾に帰投しました。




■ 第3回目の哨戒
 

1回目、2回目ともに日本近海まで哨戒に出ていましたが、
3回目からあとは真珠湾から南洋をパトロールしています。

航路は、ニューギニア経由でブリスベーンまで。
機関は1942年の10月2日から11月25日まででした。

「シルバーサイズ」は、カロリン諸島方面に向かいました。



🇯🇵10月18日、北緯07度17分 東経151度20分の地点で
ジグザグ航行をする
「衣笠」型重巡洋艦と思しき

大型艦を発見するが、攻撃の機会をつかめなかった。


●マニラ-マル 11,200トン

🇺🇸 大型貨物船に大きな損傷を与えた

🇯🇵10月20日、北緯06度45分 東経151度30分の地点で
大型輸送船に魚雷を3本発射し、2本の命中を報じた。



「シルバーサイズ」では、この時の船を「まにら丸」としていますが、
「まにら丸」の登録総トン数は6,500であり、さらには
その時期は病院船として就役していたので、この情報も間違いです。

「まにら丸」は昭和19年の11月にその名と同じ、
マニラ付近で被雷沈没しています。

●日本帝国海軍の雷装艦か駆逐艦 1300トン

🇺🇸 日本の駆逐艦や軽雷装船に魚雷が命中したが沈没はなかった

🇯🇵11月9日、南緯02度26分 東経149度36分の地点で
駆逐艦あるいは白鷹型敷設艦と推定される艦艇に対して
艦尾発射管から3本、艦首発射管から2本の計5本の魚雷を発射し、
2本から3本の魚雷を命中させたとする。

「シルバーサイズ」は2隻10,800トンの戦果を挙げたと報告したが、
実際の戦果は無かった。


戸棚の扉を埋めるべき戦果が全くなかったこの哨戒で、
空いたところには大きなブーメランが描かれています。

今なら何か「おまゆう」的ミームかと勘繰られそうですが、
この頃なので決してそんな意味はなく、単に「シルバーサイズ」が
11月25日、54日間の行動を終えてブリスベンに帰投したことを意味します。

この頃はブーメランと言っても今のようにスポーツだったわけでなく、
アボリジニ(オーストラリアの原住民)の武器としてしか
認識されていなかったということなんですね。

というわけで、「シルバーサイズ」第3回哨戒の公式戦果の発表です!

撃沈・撃破、ゼロ

でした!

こうして見ると、特に潜水艦の場合、実際の戦果と相手の損失は
全くと言っていいほど一致しておらず、
そのカウントは常に自分側の数字をマシマシにする傾向があった、
ということがよくわかる結果となっています。

まあ、なんだ。 ドンマイ。
次切りかえていこう。




続く。

Whole Foods Market グランドオープン〜ピッツバーグ滞在記

2022-08-24 | アメリカ

先日、とても悲しいことがありました。

散歩の時にいつも使っているBOSEのウェアラブル型イヤフォンが
見つからないので、しばらく記憶を辿っていたのですが、
ふと思いついて昨日車を停めた場所に行ってみたところ、そこには


ねじ曲がったフレームと、外れたレンズの変わり果てた姿が・・・。

なぜこんなことが起こったかというと、その理由は
今のAirbnbの駐車事情にあります。

今住んでいるアパートには駐車場がついていません。
しかし近隣の住宅街は駐禁時間を除き24時間長時間駐車可能なので、
その辺をぐるっと回って空いていればそこに停めています。

駐禁期間というのは、ストリートクリーニングやゴミ収集の車が通る時間。

一度、今日は妙に空きスペースが多いなと思いつつ駐車して降りて歩き出したら
後ろからお爺さんが「フィッフィー!」とわたしを口笛で呼び止め、

「今日はストリートクリーニングだから午後まで停められないよ」

おお、親切にありがとうございます、とお礼を言って車を動かしました。



アパートはメインの通りに面していて、朝8時から夕方6時までは有料です。
ただ、料金は1時間1ドルなので、荷物を積み込むなどの用事がある時には
各ブロック備え付けの機械にお金を払って家の前に停めることにしています。


この日は、翌日にMKの荷物をUーBOXに積み込む予定だったのですが、
週末で家の前に停められなかったため、一旦住宅街に停めておいて、
通りから車が消えてから車を移動することにしました。

これが今回の事故の原因となります。

というのは、最初に住宅街に停めて車を降りた時、わたしは
いつもの癖で左の膝にサングラス型イヤフォンを乗せていたのを忘れて、
その脚を外に踏み出したときに地面に落ちたのに気づかず、
サングラスを地面に落としたまま、その場を去ったのでした。


暗がりの道でサングラスは車の横の路上に落ちた状態。

そのまま朝まで車を動かさなければ何事も起こらなかったのですが、
この日に限ってわたしは夜遅くに車を動かしました。

そしてその際自分の車で自分のサングラスを轢いたと思われます。

破損状況から推察すると、
縦列駐車させた車を出すためにバックさせたとき、後進した左の前輪で
地面にあったフレームの右側のツルだけを踏んだようです。

レンズは綺麗に外れてそのままの形で転がっていましたし、
さらに驚くことに電源を入れてみたら普通に再生できました。

人間の顔に装着することもできないくらい歪んでいるのに、
イヤフォンとしての機能は全く損なわれていないのが、悲しい。



ウェラブル型イヤフォンは、ドライブ時にもサングラスとして使うので、
わたしはこれがないと夏場生きていけないと言っても過言ではなく、
悔し涙にくれながらも、次の日ベストバイに代替品を買いに行きました。

元々、壊したサングラスは、不具合がちょうど1年おきに起こり、
その度にBOSEに丸ごと交換してもらった三代目だったので、
もう十分元を取ったと自分で自分に言い訳をしながら・・・。

しかし、新しいのを使ってみて、これは買い替えて正解だったと納得しました。
同製品は2年経って機能が進化していたのです。

例えば先代は、音量を上げるのを「ボタンを押しながら激しく右を向く」
という側から見てもイマイチな方法で行うことになっていましたが、
これだと、フレームの右側を前に向かって指で擦るだけでOKです。

フレームの材質も、前の艶消しから艶ありになって、
鼻に角部分が当たることも無くなって大変快適なものになっていました。

■ Whole Foods Marketの移転

アメリカの大型オーガニックスーパー、Whole Foods Market。
ピッツバーグ近辺にはいまだに三店舗しかありません。

長年お世話になっているピッツバーグ中心街にある店舗にある日、
大きく「8月10日移転(moving)!」と張り紙がされました。

確かにその店舗は利用者の数に対してアメリカのスーパーにしては狭く、
大型カートが(日本のカートの三倍くらいのもの)使えず、
さらに駐車場は露天だったので、移転が計画されたようです。

今までアメリカ生活を長らく経験してきましたが、
スーパーマーケットが新しくオープンするのを見るのは初めてです。

わたしたちはその日を楽しみに待ちました。


いよいよオープン初日。
新しい店舗は旧店舗のすぐ近くのビルの一階に入っています。
当日にはGoogleマップの住所検索が新店舗に変わっていてちょっとびっくり。

「イーストリバティ店、2022年開業」と書かれたエレベーターホール。



店舗には駐車場からホールを経て一階登って入っていきます。
最初なので、駐車場には案内係が配置されていました。

それにしてもこの綺麗な床、こんなものが拝めるのは、
オープン初日の午前中だけであることをわたしたちはすぐ知ることになります。

このWhole Foods Marketにはこののち約十日滞在して何度か行きましたが、
10日の間に既に床には何かをこぼしたシミができていましたし、
駐車場の柱に早くも車をぶつけた人がいたらしく、傷ができていました。



オープン日の午前中ということで、店内にはアメリカには珍しい、
関係者らしいスーツを着たビジネスパーソンの姿もちらほら。



それよりこの野菜売り場をご覧ください。
これこそ、オープン初日の午前中にしか見ることのできない、
整然と並べられたまるで宣伝画像のような美しさ。

店内で使うカートも全て新調されたもので、ピカピカでした。



お菓子売り場には、こんなローカル柄(ピッツバーグのシンボル黄色い橋)
を取り入れたデコレーションのケーキ(パイかな)があったり。

化粧品やドラッグ、洗剤などの日用品コーナーを見ていたら、
お店の人が近づいてきて、

「今日1日だけ全ての商品が25%引きになります」

と教えてくれたので、わたしはここぞとばかりに愛用している商品を
西海岸に送り、さらに日本に空輸するつもりで買い込みました。



旧店舗はアメリカのスーパーにしては面積が小さく、
Whole Foodsにしてはイートインのコーナーが元々狭かったのですが、
さらにCOVID-19の影響で、イートインコーナーを全て
オンラインデリバリーの倉庫にしてしまった関係で、
最近は外にテントを作ってイートインにしていました。

今度の店舗はテレビ画面が備え付けられたゆったりしたスペースで
買ったものを食べることができますし、外にもテーブルをたくさん設置して
季節の良い時にはアウトドアも楽しむことができるようになりました。

■ あなたの落とした斧は?

基本的にここでの食事は昼は部屋で味噌汁や納豆を使って作り、
日本にいるのと同じようなものを食べています。

市内には日本人経営の日本食料を扱うお店があって、納豆、
(日本で愛用しているのと同じメーカーのもの)
油揚げや塩麹、サバのフィレなどはそこで調達します。

先日、山芋を見つけて手に取ったら、誤って床に落としてしまいました。
それをカゴに入れて他の商品と一緒にレジに持って行くと、
レジの店主が床にぶつかって角の潰れた山芋を見て、

「これ、落としたんですか?」

その口調になぜか狼狽して、は、はあ・・と恐縮するわたし。

「すりおろしてしまったら同じですし・・」

するとご主人、じゃあ割引させてもらいます、とおっしゃるので、
慌てて、いや、落としたのはわたしですからと辞退したのですが、

「床に落としてもそのまま棚に戻す人がほとんどですよ。
でもそんなのもう売れませんから、買っていただけるのはありがたいです」

なんか、「あなたの落としたのは金の斧ですか」の童話の
正直爺さんになった気分でした。

■ 各国グルメ


日本、中でも東京ほど世界各国の美味しい食事が堪能できる都市はありません。
随分前に、日本のミシュランの星獲得店がフランスを抜いて
世界一になったというニュースには、驚きながらも
まあこれだけお店が鎬を削っていれば当然だろうと頷いたものです。

しかし、アメリカというところは、ミシュランとは無縁でも、
世界中からやってきた人たちが料理を作り、
その国出身の人たちが利用するレストランが普通にあります。

例えばこの店は、MKのアパートと大学の間にある、
フランス人経営のクレープカフェ。

もう外側からしてパリのクレープ屋さんという感じです。

ミシュランとは無縁でも、その国らしさを最大限に味わえる店が
地元の人々に愛され溶け込み、間接的にその国の魅力を伝えている、
これが多民族国家アメリカの最大の強みであり豊かな部分です。



このクレープ屋さん、注文はカウンターの窓口で行います。

この日は週末だったので外まで溢れる人が列を成していましたが、
何しろ作る人が、ガラスの奥で働いているオーナーのフランスおじさんだけ、
注文を取ってテーブルに持っていくのはマダムらしき女性だけ、
と二人っきりでキリキリまいしているので、なかなか順番が回ってきません。

しかも店主は、注文が済むまでカフェのテーブルに座ることを厳禁していて、
それを知らず待っている間にテーブルを取る客が現れると、
この忙しそうなのにわざわざガラスの後ろから出てきて、
客に向かって、「注文してから座ってください!」と注意するのです。

今あなたがそれをする?と側から見ても思うのですが。



そして出てきた食事クレープがこれ。
わたしはサーモンの入ったサラダ付きクレープを頼んでみました。

お店には人手を募集する貼り紙がしてありましたが、
この切羽詰まっている状態なのに、きっとこのお店には
応募しにくい何かがあるのかなとつい考えてしまいます。



本来は紅茶を楽しむお店にしたかったのかもしれません。

特別にティーメニューが掲げられ、使っているのは
マリアージュ・フレールの紅茶と、日本ならそれだけで人気が出そうですが、
ところがどっこい、アメリカ人って、本当に紅茶飲まないんだよなー。

お店も、せっかく人が並ぶほど流行っているのに、
店主の様子にどうにも余裕がないというか、見ていて辛いというか。

美味しいとか不味い以前に、店のこれからが案じられました。



さて、いかに日本にいろんなレストランがあると言っても、

「ポーランドのビーガン料理」

というのは流石にどこを探してもなさそうですが、ここにはあるんだ。
ポーランド人の経営するビーガンレストランが。



そもそもポーランド料理がどんなものかすらよくわからないのに、
なぜよりによってそのビーガンを食べることになったかというと、
シェフが例のMK行きつけのコーヒー専門店の常連で、
その名前と存在を知ったからです。

お店の名前はアプテカ(APTEKA)

ポーランド語で「薬局」という意味の、よくわからんネーミングですが、
ビーガンと何か意味合い的に関係あるのかもしれません。

予約は受け付けず全てウォークイン、しかも営業が金土日のみ、
というやる気があるのかないのかわからないお店ですが、
わたしたちが行った日はほぼ満席でした。

アメリカにはこんなにポーランドの、しかもビーガン料理を食べたい人が
たくさんいるのか、とちょっと驚いたほどです。



ポーランドはドイツと近いせいか、ザワークラウトを食べますが、
ロシアとも近いので、ボルシチ的なもの(バルシチ)も食べます。

最もポーランドの象徴的な料理はpierogi(ピエロギ)でしょうか。

ピエロギは西洋風餃子またはラビオリとでもいうべきダンプリングで、
中に詰めるのは基本的にほぼなんでも良いようですが、
この写真の細長いピエロギのように、パスタ的に食べることもあります。



評判のアメリカ料理(高級)にも行ってみました。
お店の名前はスポルク(Spork)



スポルクって、どういう意味だと思います?
テーブルの右端にある、これのことです。

先割れスプーン

アメリカには、先割れスプーン=「スプーン+フォーク」で
「スポルク」
という名称で発明し、特許を取った人がいます。

日本では1950年代頃に登場し、1990年代からは幼児用、
コンビニ弁当用、また介護の場でも現在進行形で利用されています。

一時学校給食の場で先割れスプーンが盛んに用いられたことがありますが、
『箸の使い方を知らない子供が増える』
という批判の声が起きて、廃止になったそうです。

面白い(根拠のない)のとしては、先割れスプーンは、

「1940年代に敗戦後の日本を西洋化するべく
マッカーサー元帥と米軍によって発明され、
GHQの命により占領下日本の公的教育機関に導入された


という噂があります。

もちろんこれは全くの嘘で、先割れスプーンを発明したのは
マッカーサーではなかったこともわかっています。

てか、いくらなんでもマッカーサーそんな暇じゃないだろう。


驚いたのが、アメリカのレストランで初めて出てきた
「注文もしていない前菜=お通し」

大きな盃ほどの器に注がれて出てきたこのスープは美味しくて、
これから始まるメニューへの期待を抱かせました。



TOが頼んだズッキーニの入ったカクテル
メキシコのリュウゼツランから作ったメスカルというお酒が入っています。

ちょっと試してみましたが、変な味でした。
パークリングウォーターで割ったらちょっとマシになったようです。



最も驚かされたのが、これも頼んでいない漬物が出てきたことでした。
アメリカ風にアレンジしたものではなく、本当の漬物です。

ピクルスとたくあんとその他は古漬けの味がしました。

ここの特徴は、真空パック調理で下味をつけていることですが、
まさか本物の古漬けが出てくるとは予想していませんでした。


文句なしに美味しすぎのパン。

料理の添え物としてのありきたりのパンではなく、
立派に主食を張れるようなとてつもなく味わい深いパンです。

しょうもないパンであれば、わたしは基本グルテンフリーなので
パスするところですが、これは食べずにいられませんでした。

間違いなく、これまでアメリカで食べた最高のパンのひとつでした。


そして野菜が何を食べても美味しかったのは、
レストランの隣の畑で栽培しているからだったのです!
(左の煉瓦造りの建物がお店です)

流通経路なし、畑からお皿にダイレクト直送。

流石はアメリカ、土地が広いとこういうこともできるんですね。


続く。




ラッキー・ブッダに勝利祈願〜潜水艦「シルバーサイズ」

2022-08-22 | 軍艦

前回に引き続き、ミシガン州マスケゴンに展示してある
第二次世界大戦中の「ガトー」級潜水艦「シルバーサイズ」、
その哨戒活動について引き続きお話ししたいと思います。

前回は、民間漁船(実は徴用偵察船)に手痛い反撃を受けて、
若い砲手を失うという、ある意味「シルバーサイズ」にとって
最も修羅場となったその最初の哨戒での出来事からお話ししました。



パネルには「シルバーサイズ」の乗員の写真もあります。


名前も説明もありませんが、それぞれがどんな人物か
なんとなくわかるような気がします。

双眼鏡の人は、6名の士官のうちの一人ではないでしょうか。
貫禄があるので副長かもしれませんね。

「ガトー級」潜水艦の乗員は60名で、士官以外の54名が下士官兵です。


6人の士官の食事を準備したりするスペースの戸棚を利用して、
「シルバーサイズ」は各戸棚に各哨戒の成果を表示しています。


そしてこれが第一の哨戒なのですが、見たところこれは
戦後展示艦となってから書かれたものではなく、
「シルバーサイズ」が現役時、その都度書き足していったものと思われます。

そう判じた理由は、マイク・ハービンが戦死した最初の戦闘で
「シルバーサイズ」が撃沈した民間徴用船については、
「第五恵比寿丸」という名前(戦後明らかになったはず)ではなく、

TRAWLER 350 tons
(トロール漁船350トン)


としか書かれていないからです。

このトロールとの戦闘で乗員を失っているのですから、
もし名前がわかっていれば他のと同じく明記したはず。



ところで、前回お話ししたマイク・ハービンの話にはまだ続きがあります。
シルバーサイズ博物館遺品の展示を見て、
わたしはこのブログの「引き寄せの法則」(または偶然ともいう)
にまたしても驚かされることになりました。

【ラッキー・ブッダの縁担ぎ】

ここでちょっと画像を見ていただきましょう。
つい先日ここでご紹介した潜水艦映画、「潜航決死隊」の1シーンです。



魚雷係をさせられている?チーフが、二つの魚雷チューブの間に
なぜかホテイさんの像を置いています。



そして、魚雷発射の時にお腹を撫でていましたよね?
まあ、ほとんどの人は映画を見ていないと思いますが、そうなんです。



あのー、ここにある、これは一体なんですか?
ほぼ同じ布袋さんの金色の像なんですよこれが!

説明を読んで、わたしはさらに驚愕しました。

この真鍮製のブッダは、
おそらくマイク・ハービンが所有していたものです。

ハービンは縁担ぎのため、これを魚雷発射管の間に置いていました。

魚雷発射管の間に置いていました。
(大事なことなので繰り返しました)

最初の哨戒でハービンが亡くなった後、魚雷室のメンバーは
同じ真鍮の仏像をさらにもう2つ製作して、二つは
前後の魚雷室に、同じように魚雷発射管の間に取り付けました。

そして、
魚雷発射の際は必ずブッダのお腹をさすっていました。
「シルバーサイズ」乗組員のほとんどが、この迷信?を信じ、
潜水艦が災害に遭わないと信じて、この儀式を行なっていました。

オリジナルのブッダには、こう刻印されて艦長に贈られました。

「USS『シルバーサイズ』司令官
C.C.バーリンゲーム艦長へ
魚雷発射隊より 1942年」

クリード・C・バーリンゲーム艦長は、
ブッダを「シルバーサイズ」の司令塔内に配置して、
敵の攻撃から潜水艦が守られるように、
そして爆雷に当たらないためのお守りにしていました。」



この映画をブログに取り上げたのもまさしくつい最近だったので、
この「魚雷発射管のブッダのお腹をこする」というシーンが
実際の「シルバーサイズ」の逸話から来ていたという、
この恐るべき偶然に、わたしがいかに驚かされたことか。


このことはすごい偶然のようですが、もしかしたら
特にアメリカの潜水艦業界では、マイク・ハービンの話は有名で、
彼についていろんな媒体で取り上げられたため、
当時のアメリカ人なら誰でも知っているレベルだった可能性もあります。

「シルバーサイズ」のマイク・ハービンの戦死が1942年。

タイロン・パワーの潜水艦映画「潜航決死隊」がリリースされたのが
1943年ですから、映画企画段階で、マイク・ハービンの遺品である
魚雷発射室の「ラッキーブッダ」の話は、時期的にホットだったのでしょう。

特に戦争映画はそこそこ実際にあったことをモチーフに取り入れますから、
この布袋さんのお腹さすりも、ニュースなどで報じられた話題を
わかりやすく映画に登場させたのだと思われます。



■ 最初の哨戒

「シルバーサイズ」の棚にペイントされた旭日旗のマーク。

実際の記録と照合できるかと思ったのですが、これが全くできませんでした。
例えば、第一次哨戒の最初の撃沈として

●SUBMARINE 1400tons


とありますが、これが日本側の記録だとこうなります。

🇯🇵5月13日、シルバーサイズは北緯33度52分 東経137度09分の地点で
潜水艦を発見して魚雷を1本だけ発射したが、命中音は聞こえなかった。

沈没を確認できなくても沈没したことにしちゃうのか・・・。
さらに、戸棚の船名を書き出してみますが、

●TASAN MARU 5,400 tons

●ASOSAN  MARU 8,800 tons

●KOSHIN  MARU 9,600 tons

●TATEKAWA  MARU 10,000 tons

とにかく、戸棚に書かれている船名については、
どの艦も調べても調べても資料一つ引っかかりません。

まず、「阿蘇山丸」以外の戦没漁船並びに戦没商船は、
それに相当するものが戦没徴用船(戦没)名簿にはありませんでした。

三井物産の貨物船「阿蘇山丸」は、実在しました。
そして確かに戦没していますが、戦没地はパラオ付近であり、
しかも撃沈したのは潜水艦「ブルーギル」であることがはっきりしています。

というわけで、この「シルバーサイズがやっつけた日本の船」のペイントは、
哨戒中の乗員の闘志と団結を高める戦意高揚の役目としてはともかく、
全く歴史的資料にはなり得ないことが判明しました。


ところで、第一の哨戒での戦闘歴の一部は次のように記載されています。


■ 日本国旗を掲揚しながら攻撃を行った米潜水艦

5月17日

「シルバーサイズ」は敵の漁船団を発見して接近した。
その際、
潜望鏡に、竹ざおに立てられた日の丸の魚網が絡まりついた。

「シルバーサイズ」は潜望鏡に魚網を絡ませたまま接近を続け、
最初の船である4,000トンの貨物船に3本の魚雷を発射した。
魚雷は2発命中し、貨物船の船尾を切り裂いた。

「シルバーサイズ」は続けて2隻目の貨物船にも魚雷を命中させるが、
貨物船の命運は尽きず、沈没には至らなかった。

その時哨戒艇が接近してきたため、「シルバーサイズ」は付近を離脱する。

何気なく読んでしまいますが、はて、「日の丸の漁網」って何かしら。

このとき、「シルバーサイズ」の潜望鏡には日本国旗が絡みつき、
まるでマストに掲揚しているような状態になっていたというのですが。


なるほど、思い出したぞ。これか。
この状態に「シルバーサイズ」乗員(とアメリカ人)は大いにウケたのね。



このとき絡みついた旗は、相手が漁船であったことから、
海軍旗や国旗ではなく大漁旗だったと想像されるのですが、
まあ現物を見ても、アメリカ人には見分けることはできないかな。

この模型でも、国旗、海軍旗、信号旗と手当たり次第に掲げているけど、
いずれも大漁旗とは全く違うものです。

ともあれこの哨戒から、「シルバーサイズ」には一つのタイトルが増えました。

『日本の国旗を掲揚しながら攻撃を行った唯一のアメリカ潜水艦』

です。
しかしこれも日本側からの記述を見ると、ずいぶん意味が違ってくるのです。

5月17日午後、北緯33度28分 東経135度33分の潮岬沖で
中型輸送船と大型輸送船各1隻を発見する。


この時、「シルバーサイズ」は潜望鏡に竹竿をくくりつけ、

これに日の丸を翻させた上、網で漁船に成りすまして
漁船群ごしに船団を攻撃した。

あー、よくアメリカ映画で見る、卑怯な日本軍がやるような手ですね。
(嫌味)

英語だと偶然国旗が絡まったことになっているんですが、
それはいくらなんでもあまりに不自然で、何か隠してるんじゃないか?
と疑ったわたしのカンは当たっていました。

やっぱり艤装のつもりだったんじゃないか。

映画ではこういうことは日本軍の専売特許ですが、なんのことはない、
「シルバーサイズ」、結構なりふり構わずやっちゃってますよ。

まあ、戦争だからどんな手を使ってもいいですが、だったら、
ちゃんと自国民に向けて、潜水艦博物館でもそのことを明記すべきだな。


先ほども書いたように、「シルバーサイズ」はこの時、
魚雷を4,000トン級の貨物船に2本命中させてこれを撃沈したとしました。

そして戦後の調査でも、「ていむす丸」(川崎汽船、5,871トン)
「鳥取丸」(日本郵船、5,973トン)2隻の陸軍輸送船を撃破した、
と主張したのですが、これも案の定、日本側の記録では、
「ていむす丸」と「シンリュウ丸」が雷撃を受けたとあるものの、
被害の有無ははっきりせず、沈没の記録もありません。

日本側の記録です。

5月21日、
中型輸送船に対して魚雷を2本発射するも命中せず。

5月22日15時
特設運送船「朝日山丸」(三井船舶、4,550トン)に魚雷1本を命中
大破座礁させる。


ちなみに「朝日山丸」の記録によると、

 17.05.14:門司~
~05.22 1140 (N33.30-E135.27)紀伊水道で
米潜水艦Silversides(SS-236)の雷撃により
     船橋前部に2本被雷、前部切断

     
~05.22 1420 日置海岸に擱坐~
     

~05.22 1445 特設掃海艇「第十二良友丸」来着~
     

~05.24 ---- 沖合に引出し、機帆船4隻を傭入し荷揚開始
     

~05.27 1620 曳航され神戸着十七番浮標繋留
 

17.06.01:神戸~06.02玉野

つまり玉野で修理を受けて復活しております。
つまり撃沈ではなく撃破となります。


5月26日
潮岬沖で小型輸送船に対して魚雷を発射、命中せず

6月3日
北緯33度26分 東経135度33分の地点で
海軍徴傭船第二日新丸(大洋捕鯨、17,579トン)と
輸送船宮崎丸(日本製鐵、3,948トン)に魚雷を2本発射
実際には宮崎丸の船底を通過しただけ

6月21日
「シルバーサイズ」は52日間の行動を終えて真珠湾に帰投


まとめてみると、第一回目の哨戒で、はっきりと
「シルバーサイズ」が沈没させたと明らかになっているのは、
なんと「第五恵比寿丸」だけだったということになります。

つまり当事者の主張、撃沈6隻に対し、実際は1隻です。


■ バーリンゲーム艦長による5回の哨戒



アメリカ海軍の人員配置もやはりそう長いものではなく、
一つの艦に勤務している時間はせいぜい1年半といったところのようです。

「火垂るの墓」の清太のお父さんのように、
清太が物心ついてから沈没するまでずっと「摩耶」艦長だった、
というようなことは、もちろん日本でもあり得ません。(説明っぽいな)


こちらも(そして現在も)艦の配置はそんなものだろうという気がします。

「シルバーサイズ」の初代艦長だったバーリンゲーム(最終少将)は、
その任期の1年と2ヶ月で、5回の哨戒を指揮しました。

この地図によると真珠湾を中心として、
第1回、第2回の哨戒は本土付近(九州近辺となっているが不正確)
第3回目は真珠湾からニューギニア経由でオーストラリアまで。
4回目はそのオーストラリアからニューギニア経由で真珠湾に帰還。
5回目は再びニューギニア経由でオーストラリアとなっています。

真珠湾攻撃の直後に辞令を受けたバーリンゲームは
1941年12月15日にカリフォルニア州メア・アイランドで
USS「シルバーサイズ」に転属し、指揮をとることになりました。

これは彼にとって6隻目の潜水艦であり、3番目の指揮艦となりました。

バーリンゲーム艦長は、メアアイランドで就役した「シルバーサイズ」で
カリフォルニア沿岸における短いシェイクダウンを行い、
「シルバーサイズ」を定係港となるハワイに向けて出港させ、
4月30日に真珠湾から最初の戦闘パトロールに出発を行いました。

バーリンゲームの指揮した合計5回の哨戒で「シルバーサイズ」は
最終的に8隻の敵艦、合計44,000トンを撃沈したとされ、この戦功に対して
バーリンゲームは2つの銀星と3つの海軍十字勲章を獲得しました。

また、この間、艦と乗組員は大統領表彰を受けています。

のちにバーリンゲームは太平洋の第182潜水艦師団の司令官となり、
レジオン・オブ・メリットを授与されています。



冒頭の写真は現地にあった比較写真。
こちらが海軍公式のバリっとしたバーリンゲーム艦長で、



こちらが現実のバーリンゲーム艦長。

哨戒終わり頃になると、潜水艦では、

 男世帯は気ままなものさ
髭も生〜え〜ま〜す〜
髭も生〜え〜ま〜す 無精〜ひげ〜♩」

なのは日本もアメリカも同じでございます。



続く。


U-BOXでの引越しとジャパニーズレストラン「Gi-Jin」のお味〜ピッツバーグ滞在

2022-08-20 | アメリカ

ピッツバーグを去る日が近づいてきました。

■MKの引っ越しとU-HAULのU-BOX



1年間お世話になったアパートから、まず荷物を出す日。
この一帯は大学が集中しており、大学生が多いことから、
契約は同じ日(夏は7月31日)に一斉に切れるため、この日には
アパート中が引っ越しで大変な騒動になります。

そのためエレベーターはいくら待っても来ず、来たとしても
荷物と人がいっぱいで降りられないということになるので、
可能な人は少し早めに荷物を動かしたりして、
当日の移動をできるだけ最小限にしようと努力します。

それでも16階建でワンフロアに50部屋はあろうかというアパートなので、
最後の日とその前日には、ゴミ集積所には
粗大ゴミと潰していない段ボールが山をなすことになります。

退出期限の前の夜、ゴミ集積所を通りかかって驚いたのは、
その粗大ゴミを狙って、組織的にゴミを漁る人々が群がっていたことです。

わたしが見たのはインド人の一家総出で、夜遅くにも関わらず
小さい女の子がゴミ集積所で子供用の自転車を見つけ、
お宝ゲットだぜ!と言わんばかりに乗り回していました。

学生街のアパート退出時期は毎年決まっているので、
これを目当てに「商売」している人がいるということを知った夜でした。



MKの部屋は、同じ大学の院に進む予定の彼の友人が
後を引き継いで住むことになってるので、母親としては
息子のよき友人関係の存続のためを思い、特に頑張って掃除をしました。

もちろん退去後は業者が掃除をしますが、一年前の体験から言うと、
業者の掃除というのは割といい加減なものなのです。(トイレとか特に)


そして、アパートから引き揚げた荷物を、Airbnbに運び込みました。

去年の引っ越しの時、わたしはその名も「ザ・コンテナ」という
入れ物ならなんでも買える店(こんまりさんとのコラボコーナーあり)で、
透明で大型、車輪付きのコンテナを大量買いしておいたので、
今回もそれに何もかも詰め込んで運んでしまえばいいだけでです。

このコンテナはよくできていて、移動が簡単な上、
使わない時は重ねて置けるので、引っ越しの多い学生にはピッタリです。

あとは、この荷物をU-HAULという引っ越し業者に持って行って、
自分が借りている大型コンテナU-BOXに詰めていくのです。



U-HAULとの契約の日には、まずオフィスで
送ってもらうU-BOXの鍵を受け取ります。

U-BOXにアクセスできるのは、鍵をもらった日を含めて二日と
最終日の午前中までの間と決まっていますので、
この間に車で荷物をせっせと運んで積み込んでいきます。



そして、自分の契約したコンテナのある場所に車を停めます。
右側にずらっと並んでいるのが陸路輸送用のコンテナ。

これをフォークリフトでトラックに積んで、大陸横断します。



寒い地域なので、ガレージ内にこれでもかとストーブが(しかも宙吊り)。
いったいいつの時代の暖房設備なんでしょうか。



もらった鍵でU-BOXの南京錠を開けます。

鍵は買取式となっており、引っ越しが済んだら自分のものになり、
返却の必要もないので、過去の借主からの盗難を心配することもありません。

この鍵は所有者に二つ渡され、業者が中を見ることはありません。
ですから、コンテナの中に入れてはいけないものや、
梱包の仕方は契約にしっかりと書かれています。

もちろんですが、食べ物と生き物、植物は絶対に同梱厳禁です。
およそ二週間の間、空調なしの空間ですから当然ですね。


開けてみると、中はカプセル式の防音室くらいの広さでした。
結構広いのでびっくりです。

メキシコからの不法移民が、このUBOXに入って国境越えを企み、
このケースに数十人が入っていてほぼ全滅していた、
というニュースを先日も目にした覚えがありますが、一瞬だけなら
ちょっとの我慢で行けそう、と思っても仕方ないくらいの広さではあります。

とりあえずコンテナを一つ入れてみます。


荷物を全部収めたところで、MKと一緒の記念写真を撮っておきました。
奥にいるMKの大きさで、コンテナの広さがお分かりいただけるかと。

家具が全くないので、床一面コンテナケースが並んだ状態です。
これはちょっとスペース的に勿体無かったかも・・。

引っ越しの荷物のトラッキングシステムがないので、MKは
コンテナケースの一つにappleのAirTagを入れておき、
今どこにいるのかチェックすることにしました。

このAirTagというブツ、わたしもパスポートと一緒にしていますが、
誰かiPhoneを持っている人が近くにいて中継局の役割をしないと
追跡できないという特性があるらしいので、
もしドライバーがiPhoneユーザーでなかったら、
システムが用をなすのは、ドライバーが立ち寄ったレストランや
隣を走っている車にiPhoneがあった場合だけとなります。

荷物を入れて2日間、AirTagはU-HAULからピクリとも動かず、
家族全員で気を揉んでいたのですが、二日目の夜急に動き出しました。



その後順調にオハイオまで行ったのですが、
いつまで経ってもオハイオから出ていかないのでまたも心配しています。

これは今朝、デイトン(国立航空博物館のあるところ)にいるところを
キャプチャしたものですが、高速道路上にいるのか、
それとも道を外れて停まっているのかまではわかりません。





■ 高級ジャパニーズレストラン「Gi-Jin(外人)」


先日ご紹介したピッツバーグの「高い」「不味い」「日本食じゃない」
三拍子揃った恐怖の低評価ジャパニーズレストラン、「UMI」。

その非難渦巻くコメントの中に、「Gi-Jinの方がずっと価値がある」
という言葉を見つけたので、早速この日本食レストランの予約を取りました。

写真はダウンタウンにある(ハインツホールの向かい)お店の外側。
何も知らずに街を歩いていて、「外人」という暖簾を見つけたら、
日本人はかなり驚かされそうです。

店名の「JIN」はお酒のジンとかけてあり、
ジンを使ったお酒が得意であるという意味もあるようです。

ただし、わたしは日本の文献や慣習などで
「外人」が「ぎじん」と読まれた例を寡聞にして知りません。

「ガイジン」→「Gaijin」→「Gijin」と崩して行った結果でしょうか。


「UMI」のように妙に日本に寄せすぎて、日本人から見ると
結局大きくハズしているところが残念、というのと違い、
インテリアはそこそこ日本のテイストを盛り込みながらもモダンです。

店の一面を占めるカウンターはバーと料理がどちらも出てくる形。
左の方の人がバーテンダーで、ここからお酒が出てきます。

後ろのボトル棚には獺祭などの日本酒の瓶が並びます。

この日は週末で、さすが予約の取れないお店らしく、
早い時間なのに既に満席になりかけていました。


アミューズ、日本の居酒屋でいうお通しは枝豆。

アメリカでは普通に「Edamame」といって、よく利用されますが、
ほとんどが冷凍のものを茹でただけなのに対し、ここは
ちゃんと生の枝豆から茹でて味付けをしてあったのには感心しました。

しかも、塩のみではなくチリで味をつけてあります。


味噌汁はしっかり出汁を取っていてそれは大変結構なのですが、
出汁が椎茸だったのには虚をつかれた思いがしました。

いただいてみると、それもそのはず、具が椎茸でした。

椎茸の味噌汁・・・日本ではあまりやりませんが、好きな人もいるのかな。


箸置きもちゃんと用意されております。



これと極似。


家族全員のためにサシミプレートを注文してみました。
シソが枯れていない。これはポイント高し(どんな低めのポイントだ)。

普通に美味しい刺身でしたが、それより驚いたのは
刺身にたくあんが添えられていたこと、
そしてそのたくあんがむやみに美味しかったことです。



ここまで大変ポイントが高かった「Gi-Jin」ですが、
おおっと、ここで出てきた握りにトッピングが!

だから、サーモンにトマト乗せるのやめてくれんかな。
レモンはまだいいとして、ハラペーニョ乗せるのもやめていただきたい。
マグロに海苔もいらん。

この、握りにトッピング載せずにはいられない感覚って、なんなんだろう。
一種の「隙間恐怖症」みたいなものでしょうか。

握りそのものは、しょせん「アメリカの寿司」の範疇を出ておらず、
ネタの割りにご飯の面積が大きすぎてあまり褒められない口触りでしたが、


「握りトッピング」で暗雲の立ち込めた当店への評価ゲージ。
最後に頼んでみた「TEMAKI」で跳ね上がることになりました。

アメリカ人が黒い海苔で巻かれた食べ物を内心嫌いなせいで、
「カリフォルニア巻き」というようなアバンギャルドな寿司が
あたかも元々日本にあるものであるかのように思われていますが、
その傾向をここにも見ることができます。

手巻きといいつつ、海苔で巻き切らず?具を見せて提供しているのです。

この状態では手に持って寿司を食べられませんから、当店では
専用の「手巻き置き器」を使って、ここから口に運ぶ仕組みです。

これだと、黒々とした海苔はあまり目につきませんし、
中に何が入っているのか分かりますし(そらそうだ)、
なんと言っても海苔が湿気る時間をちょっとだけ遅らせることもできます。

「ほー・・・これが手巻き・・・」

思わずこのナイスなアイデアに感心しつつもあまり期待せず、
頼んでみたカリフォルニアロールを一口食べて、わたしは唸りました。

「何これ美味しい」

日本の手巻きとは似て非なるものであることは最初からわかっていますが、
この「美味しい」の正体が、寿司の真ん中に仕込まれた
少量のバターであることを知ってさらに驚きました。

しかもただのバターではありません。ブール・モンテです。

ブール・モンテとは、一口で言えば溶かしバターのことですが、
通常バターが分解される温度よりも高い温度でも
乳化状態を保つ溶かしバターという定義があります。

ちょっと面白いので紹介しておきますと、
通常、バターは70℃で分解されるものですが、ブール・モンテは
82〜88℃まで加熱し、乳化状態を維持することができ、
ソースや焼いた肉を休ませる材料など、さまざまな使い方ができます。

【ブール・モンテの作り方】

15〜60ml(大さじ1〜4)の水を沸騰させる
沸騰したら火を弱め、冷たいバターを1~2個ずつ入れて泡立てる
バターが溶けてきたら、さらにバターを加える
乳化が始まったら、さらに一度にバターを加える

好みの量のブールモンテができるまで、泡立てながらバターを加え続ける

出来上がり!

その後、88℃以下に保たないと成分が壊れてしまうので注意

という手間をかけて作ったものなのか、それとも単なる溶かしバターか、
それがわかるほどの量ではありませんでしたが、
少なくとも最後に仕込まれた意外な風味に驚かされたのは確かです。

しかもこの手巻き、トビコのわさびあえと極小の天かすが入っていて、
なんとも言えない歯触りの面白さを楽しめる一品となっています。

日本の寿司屋では決して生まれないであろうアイデアですが、
これもまたアメリカの寿司として、悪くないと感心しました。



そしてデザートは、「Matcha Mis」とチョコレートトルテ。
チョコトルテは普通でしたが、この抹茶ミス、なかなか結構な味でした。

このネーミングはもちろん「ティラミス」から来ていますが、
「抹茶」に「ミス」を加えるというのはちょっと乱暴です。

なぜなら、ティラミスの語源は「Tirami su!」
(イタリア語で『私を引っ張りあげて』転じて『私を元気づけて』)
ですから、「mis」を残すのは全く語源の意味をなさないのです。

だからと言って「Matcha-su」だとどんなデザートか想像もつきませんから、
このような苦しいネーミングに落ち着いたのでしょう。

普通に「抹茶ティラミス」じゃいかんかったのか。



続く。





潜水艦「シルバーサイズ」〜第五恵比寿丸との死闘、ハービン3等水兵の死

2022-08-18 | 軍艦

ミシガン州マスキーゴンに係留されてその姿を残す
第二次世界大戦中の最初の「ガトー」級潜水艦「シルバーサイズ」。

前回は、その進水式についてお話しました。
その後彼女は第一の哨戒に乗り出しますが、そこで
「シルバーサイズ」の歴史上、最も悲惨な事件が起こるのです。




■ 第一の哨戒  1942年4月〜6月

メア・アイランド海軍造船所で完成し、就役した「シルバーサイズ」は
カリフォルニア沖でのシェイクダウン(慣熟航行)の後、
ハワイに向かい、1942年4月4日にパールハーバーに到着しました。

4月30日、真珠湾を出発した「シルバーサイズ」は、
最初の哨戒のために日本近海へ向かいました。

【特設監視艇 第五恵比寿丸との遭遇】

最初の哨区の紀伊水道に向かう途中の5月10日6時ごろ、
日本本土からおよそ600海里、南鳥島の北に位置する海上でのことです。


北緯33度00分 東経152度00分付近

「シルバーサイズ」は1隻の漁船を発見しました。
しかしこれは、ただの漁船ではなく、戦時徴用船でした。

徴用船は、戦時において軍部から徴用された民間の漁船などで、
海軍の徴用船は特設監視艇として、
北東太平洋に展開している米軍を監視する役目を担っていました。

「シルバーサイズ」が発見したのは、日本の東方洋上を哨戒していた
第二監視艇隊所属の特設監視艇第五恵比寿丸(昭和漁業、131トン)で、
哨戒線の最南端付近を西に向かって微速航行していました。

ほぼ同時に「第五恵比寿丸」も南西約2,000メートルの位置に
「シルバーサイズ」を発見し、6時5分、

「敵潜水艦ラシキモノ見ユ 一隻」

と打電していました。

ちなみに、海軍は徴用船に海域の監視を行わせ、
アメリカ軍艦を発見した場合は無線で連絡させていましたが、
その無線内容はほとんど米軍に解読されていたため、
日本軍および徴用船の被害は拡大する結果になったと言われています。




【第五恵比寿丸との戦闘】

6時20分、「シルバーサイズ」は「第五恵比寿丸」との距離が
右舷側後方約700メートルまでのところに接近すると、
3インチ砲と機銃で攻撃を仕掛けました。

この「3インチ砲」と言うのは、

3-inch/50-caliber gun

のことで、この「Mk.21」が1935年〜1942年にかけて進水した
「ポーポイズ」級、「ガトー」級の標準甲板砲として指定されていました。

「シルバーサイズ」の甲板砲は、コニングタワー後方に搭載されています。

「ガトー級」潜水艦の甲板砲は当初これが標準だったのですが、
(してその心は潜水の際の抵抗を減らすため)第二次大戦が始まると、
指揮官の選択により、前方に移動させることもありました。



しかし、現在「シルバーサイズ」に残されているこの艦砲は、

4-inch/50-caliber gun

戦争に突入すると、戦闘により大型の砲を必要になったため、
1942年後半から搭載された4インチ/50口径砲です。

「シルバーサイズ」はこの戦闘の時にはまだ3インチ砲を積んでおり、
「第五恵比寿丸」と戦ったのも3インチ砲だったのですが、
その後、搭載場所は後方のまま、4インチに換装されたものと思われます。



そもそもこの甲板砲もレストアされたものであり、
どこまで史実に正確かは議論の分かれるところかもしれません。



一応レストアした会社が責任を持って名前を名乗っています。


そしてこれが機銃となります。
ボフォース40mmで、見たところこれも載っているデッキは
つい最近改装されたようにピカピカの状態です。
ちなみにここには見学者の立ち入りは禁じられていました。


【マイク・ハービン水兵の死】

さて、「シルバーサイズ」と「第五恵比寿丸」の戦闘に戻りましょう。

「シルバーサイズ」はただの漁船と思ったかもしれませんが、
戦時徴用船で偵察の役割を担っていた「第五恵比寿丸」は武装しており、
搭載の7.7ミリ機銃と三八式歩兵銃で応戦してきたのです。

最新式の潜水艦であった「シルバーサイズ」は優速であることを生かし、
転舵して「第五恵比寿丸」の射撃圏外に逃れてから、
6時27分、3インチ砲弾で相手の無線機を破壊しました。

「第五恵比寿丸」の通信は最初に敵発見の報告をしてから
この破壊によって通信はそれきり途絶えてしまっています。

その3分後には艦橋に弾が命中し、「第五恵比寿丸」幹部は戦死。

その後「シルバーサイズ」は「第五恵比寿丸」の左舷約300mに接近し
機銃掃射による攻撃を加え始めましたが、その時、
「第五恵比寿丸」は反撃を試み、3インチ砲砲座周辺が掃射され、
砲の装填を担当していた水兵マイク・ハービンが被弾しました。

ハービンはほぼ即死だったようです。


3等水兵 マイク・ハービン(Mike Harbin)


そして、これがマイク・ハービンが撮られた最後の写真となります。

マイクはちょうどデッキガンの後方から弾を押し込んでいる人物で、
説明によると「この直後死亡」ということなので、この写真は
まさに「第五恵比寿丸」との戦闘中、戦闘に参加していない乗員が
記録のために撮っていたものの可能性があります。

それではここで、「シルバーサイズ」乗員が語ったふうに綴られた
パネルの「第1哨戒」についての記述をどうぞ。

「最初のパトロールが始まって10日たったとき、
バーリンゲーム大尉(艦長)が最初の標的を発見しました。

小さなセイルスクーナーは魚雷を撃ち込むほどの価値はないとして、
艦長は乗員の銃手を集合させ、まず船首を横切るように
警告のショットを撃ち、相手に停止を求めるようにさせました。

ところがこの船は撃ちかえしてきたのです!

「シルバーサイズ」にとってこれが最初の哨戒でしたし、
全員が戦時下での任務は初めてのことだったので、
漁船がまさか反撃してくるとは夢にも思っておらず、
このことは乗員にかなりの衝撃を与えたと思われます。

この記述では「第五恵比寿丸」のことをスクーナーと呼んでいますが、
スクーナーの定義はマスト2本以上の「帆船」です。

「途端に銃担当の乗員たちは前後に走り、
弾丸を大きなデッキガンに大急ぎで押し込みました」


先ほどの写真はこの瞬間を捉えたものだったのでしょう。

「スクーナーの乗員は機関銃でわたしたちを攻撃してきました。
突然、オクラホマ出身の少年、マイク・ハービンが
甲板にどうと倒れ、そのまま動かなくなりました。

わたしたちは彼の身体が弾丸を受けないように庇いながら
彼に向かって起き上がるようにと叫びましたが、反応はありませんでした。

そして見張に向かって軍医に見せるようにと叫びましたが、
すでにそれは手遅れでした。
彼の受けた銃弾は、甲板に倒れる前にその命を奪っていたのです。」

不運なことに、マイク・ハービンへの一発は致命傷で、彼は即死でした。
おそらく自分が撃たれたことも気付かず死んだに違いありません。


【戦時徴用船 第五恵比寿丸】

「シルバーサイズ」の攻撃で「第五恵比寿丸」も操舵不能に陥りました。

戦死者、負傷者が続出していましたが、射撃を止めず、
7時20分には体当たりを企図して「シルバーサイズ」に突進してきました。

以前も当ブログで戦時徴用船の話を扱ったことがありますが、
彼らは、特に漁船の場合、最後の瞬間、必ずといっていいほど
相手を道連れにするために体当たりを試みています。

民間の漁師でありながら、軍に徴用された責任感が
彼らをしてそのような行動を当たり前のように取らせるのでしょう。

ちなみに「第五恵比寿丸」は焼津漁港所属の漁船でした。
焼津の漁業組合では、「宣戦の大詔に応え奉る」という言葉のもと、
自ら協力の願書を陸軍大臣 東条英機 宛に出された願書には

  「大東亜共栄圏建設の先駆たらん熱意を抱き、練成待機すること」

などとして徴用に積極的な姿勢で臨みました。

そしてその結果、焼津の大手船元、昭和漁業株式会社などは、
徴用船貸出し会社と化し、操業がままならない状況に陥りました。

漁港の80%の船が徴用されて帰らない状態だったのです。


「シルバーサイズ」は「第五恵比寿丸」の体当たりを避けるため、
速力を上げて、7時55分頃に南西方向に向けて戦場を離脱しました。

この戦いで「シルバーサイズ」は3インチ砲弾約50発、
機銃弾を約4,000発消費し、うち砲弾13発、機銃弾多数を命中させ、
これによって「第五恵比寿丸」を大破させたものの、
「シルバーサイズ」自身も艦橋構造物に多数被弾しました。

「第五恵比寿丸」については焼津漁港の記録によると次の通り。

徴用年月 1941年8月
トン数 131トン
所管 海軍
艦隊等 第五艦隊
部等 監視艇隊
確認年月 43/4
消息 沈没
戦況・消失場所など 戦闘
戦死者数 31名

31名は、焼津漁港から徴用された戦時徴用船の中でも
最も多い戦死者数となりました。



【薄暮の海への水葬】

マイク・ハービンは、第二次世界大戦でのアメリカ潜水艦隊最初の、
銃火を交えた行為における戦死者となりました。

「シルバーサイズ」はその日の夜、ハービンを水葬で弔って送りました。

「私たちは、燃えるスクーナーの船体から離脱した後、
その日の日没の海に彼を完全な名誉を持って水葬しました。

このことはわれわれにとって手痛い出だしとなりましたが、
しかし、何人かの男たちは、

『マイクはこれからも、俺たちのことを
無事に帰還できるように見守ってくれるに違いない』

と言い合いました。」



「1942年4月30日に真珠湾を出港した『シルバーサイズ』は
その後いくつもの彼女の成功した哨戒の最初の任務として、
紀伊水道海域にある日本の本土に向かいました。

5月10日、現地時間の0800すぎ、潜水艦は3インチ砲を用いて
日本の砲艦に大きな損害を与えました。

TM3マイク・ハービンは、第二次世界大戦中に
潜水艦の最上部デッキで死亡した唯一の兵士になりました。

ハービン水兵はその夜海に水葬されました。」

砲艦ではなく漁船なんですが、殉職・戦死した者にとっては
武装漁船よりこのように表現した方が良かれと思ってのことでしょう。



「ハービンの家族はマイクの制服と共にこの花瓶と大皿を
五大湖海軍記念館と、マイクを偲ぶよすがをもつ博物館に贈りました」

マイク・ハービンの写真の横にあるこの花瓶には、
当時の「シルバーサイズ」乗員の名前がサインされています。

錨のマークの上にある「クリード・C・バーリンゲーム」は
艦長の名前となります。



「マイク・ハービンの思い出に 1942年8月10日」

と記された大皿にも、乗員全員のサインがされています。
当時は陶器の上に描くような塗料はなかったので、
おそらくサインしたものに釉薬をかけて焼いたのだと思われます。



現在4インチ砲がある当時の3インチ砲の左後ろ部分、
この写真でマイク・ハービン水兵が立っているところには、
このようなプレートがあります。


 DEDICATES TO THE MEMORY OF

MIKE HARBIN  

TM3 USN

KILLED ON THIS SPOT MAY 10 1942

BY ENEMY MACHINE GUN FIRE

アメリカ海軍三等砲手 マイク・ハービンの思い出に捧ぐ

1942年5月10日 敵の機銃砲火によってこの場で死亡



結局、「シルバーサイズ」は第二次世界大戦を生きぬきましたから、
その全艦歴を通じ、彼は戦死したたった一人の乗員となったのです。



続く。



潜水艦「シルバーサイズ」進水!〜シルバーサイズ潜水艦博物館

2022-08-16 | 軍艦

さて、真珠湾攻撃についていつまでも扱うのもどうかと思うので、
そろそろ潜水艦「シルバーサイズ」の話題に入ろうと思います。



シルバーサイズ潜水艦博物館の建物部分を見学していると、
二階のデッキからこんなふうに「シルバーサイズ」が見られます。

この角度は、以前もご紹介したライブカメラとほぼ同じ角度なので、
このデッキのどこかにカメラがあるのだと思われます。

この写真を撮った後、デッキに出るドアがロックされて
締め出されたのに気がつき、慌てていたら、
(後でドアを見たらオートロックなので気をつけるように書いてあった)
この写真に写っている「シルバーサイズ」の上にいる人が気が付いて、
2階まで駆け上がって、中から鍵を開けてくれました。

いやはや、お仕事中だったのに大変申し訳ない。
っていうか、これよっぽどしょっちゅうあることなんだろうな。



「シルバーサイズ」の見学は、艦尾にかけられたラッタルから行います。
入場料を払ってリストバンドをしていれば、自由に出入りできますが、
誰もリストバンドのチェックはしていませんでした。


2階デッキから目についたのが、この艦隊のペイント。



まず、これがおそらく乗員の誰かがデザインしたところの、
「シルバーサイズ」のマークであるわけですが、

艦名になった「ワカサギ」(天ぷらにすると美味しいんだ)は
これを見てもお分かりのとおり、「Silverside」であり、
複数形の「S」がなぜ艦名についているのかは謎です。

とにかく、このマークは潜水艦風味のワカサギくんが、
ヒレに魚雷を抱え、チロリアンハットに煙を吐いているところです。
フィンに立てられた旗に「??????」とありますがこれも謎。



そして艦体に誇らしげに描かれた日本艦艇撃沈撃破のマーク。
これによると、「シルバーサイズ」の対日本戦績は、

撃沈 海軍艦5隻 民間船25隻

撃破 海軍艦4隻 民間船10隻


ということになります。

当ブログでは後にこのこれを検証しつつ取り上げていきたいと思います。



それはそうと、その下のこれは、おそらく16基の機雷をなんかして、
落下傘を2回なんかしたというマークであろうと思われますが、
その「何か」が何かわからないので、これも話を後回しにします。


「シルバーサイズ」潜水艦博物館というだけあって、
館内の壁には大きな「シルバーサイズ」の絵が描かれていたり(冒頭)
このように模型が飾ってあったりします。


そんな模型の一つを見て、わたしは、はて?と思いました。
この「シルバーサイズ」のマストに張られたラインをよくご覧下さい。



なぜ・・・日本国旗と海軍旗が・・・?

おそらくこれは「シルバーサイズ」の艦歴を知れば
わかってくることなのに違いありません。

さて、というわけで、今日は「シルバーサイズ」が進水した日のことを
当時の写真と資料をもとにお話ししたいと思います。


■ Launch!(進水!)

「シルバーサイズ」は道を切り開きます。
潜水艦の艦首が水に入ると、ナパ川の汽水が漣を立て始めます。

進水台の左下隅にあるプラカードには、

「U.S.S. SILVERSIDES. A MARE ISLAND PRODUCT」

と書かれていました。




1941年8月26日;

「シルバーサイズ」は当時アメリカで最新型のボートであり、
西海岸で進水した最初の「ガトー」級潜水艦です。

のちに浸水する同型の姉妹艦であるUSS「トリガー」は、彼女の隣にいて、
熱心に彼女らを見守る造船所の労働者と招待された幸運な人々が
デッキに詰めかけて2隻の周りをぎっしりと取り囲んでいました。


この日、「シルバーサイズ」のスポンサーとなったE.H.ホーガン夫人は
銀のケースで覆われ、金色と青のリボンで飾られた
洗礼用のシャンパンボトルを携えていました。


" I CHRISTEN THEE SILVERSIDES!!"
(我、汝『シルバーサイズ』に洗礼を授ける!!)


スポンサーのホーガン夫人が手を離し、伝統的な儀式として、
シャンパンボトルが潜水艦の艦首に激突すると、
その瞬間、「シルバーサイズ」は誕生の洗礼を受けます。

ちなみにこのシャンパンは、メアアイランドからナパ川を遡ったところにある
ナパのクリスチャン・ブラザーズ・ワイナリーから寄贈されたものでした。



彼女はとても華奢に見えたので、ボトルをちゃんと割ることができず、
「シルバーサイズ」の進水を不吉なものにするのではないかと
実は何人かの人々は心配していたかも知れません。

映画「K-19」で、原子力潜水艦K-19の進水式でボトルが割れず、
それを見て乗員らが皆で不吉だと顔を曇らせるシーンがありました。

当時は特に世界に戦雲が迫る不穏な空気が覆っていたので、
特に潜水艦のような職種にとっては、ボトルがちゃんと割れ、
めでたく進水に成功するかどうかということは、
側が思う以上に気になることだったに違いありません。

K-19も、この時の不吉な進水式のせいで、のちの原子力事故が起こった、
あるいはこれがのちの事故を予言するものだった、と言われたそうです。


ホーガン、ボトル叩きつけの瞬間(飛沫が見える)

しかし、ホーガン夫人は小さなその見かけにもかかわらず、
最初の一撃で見事にボトルを粉砕し、その場にいた少将含む全員に
シャンパンの飛沫を浴びせることに成功しました。

同時にチョック(the chocks、進水の際船体を止めている楔)は外れ、
「シルバーサイズ」はそのまま川に艦尾から滑り込んで、
まるでクリームのようになめらかに水に浮かびました。

もちろんこの時彼女はまだ未完成であり、そのまま
別のドックに曳航されて建造を完了させることになっています。

新しく潜水艦を建造するには建設バースが必要です。

その頃まだ我々は戦争に突入していませんでしたが、
そのころの世界は全てがそこに向かっているように見え、
我々もまた最悪の事態に備えることを余儀なくされていました。

ここからは、「シルバーサイズ」の写真と、それに付けられた
このようなキャプションを紹介しながら進めていきます。

これらの文字は、いかにも手書きのような字体で、
大変親しみやすく、まるで誰かの日記を読んでいるような文体です。

この文章の「我々」は、「シルバーサイズ」の乗員であり、
語っているのはその一人という設定です。



「シルバーサイズ」の進水式当日の準備風景です。

手前に立っている二人の警衛の水兵は、進水式に出席する
著名なゲストのチケットを受け取るために配置されています。

造船所の労働者が、「その瞬間(ビッグ・モーメント)」のために
発射台の周りにある木製のクリブを取り外す作業をしているので、
おそらく後にお見せするプログラムでいうところの、
3から7の工程にかかっているということでしょう。

時刻で言うと13時40分から1時間以内に撮られていることになります。


写真では「シルバーサイズ」は進水路いっぱいに場所を占めており、
右側の隣には姉妹艦の「トリガー」SS-237が見えます。

なお、「トリガー」の反対側にはUSS「ワフー」SS-238がおり、
これらの3隻の姉妹艦「シルバーサイズ」「トリガー」「ワフー」
同じ姉妹艦の中で最高の戦績を挙げた「優秀姉妹」となる運命でした。

しかし、「トリガー」は最終的に、1945年3月28日ごろ、
日本の最南端である九州の東方面で行方不明になったと推定されており、
「ワフー」もまた、1943年10月11日、北海道のすぐ北で
爆雷を浴びて沈没したことがわかっています。

こんにち、「トリガー」は、その戦績において
成功したボートの第11位を占め、また「ワフー」は
7回のパトロールで8位という成績を残しています。



進水式の時のプログラムのコピーもありました。
せっかくなので、プログラムの内容もちゃんと翻訳しておきます。

0700ー ケーソンの洪水弁を開く
水が上昇するにつれて、カバーボード、

ウェイの水没部分を取り外します

0800ーホルストカラーと船のフルドレス(飾り付け?)

0900ーケーソン取り外し


0948ースラックの水位を下げます


1、 1200ー進水クルー報告

ダイバーがケーソン、シート、グラウンド、
通路の下端の間の障害物の有無を調査

指示に従ってトリガーをテスト

2、1305ー発進とドッグショア・ジャッキのテスト、
結果を進水士官に報告

3、1320ーディスタンス・ピースを取り外します
船と本部に人員を配置

4、1340ーファーストラリー、赤いくさび−4取り除きます

5、1400ーセカンドラリー、白いくさびー4取り除きます

6、1420ー3回目ラリー、全てのくさびー指示によって

7、1440ー「親指クリート」「汚れストリップ」

「衝角レール」を取り除きます

全ての岸壁をクリア

赤いブロックを取り除きます

必要に応じて、全てのバルブ、船体の開口部、マンホールの蓋、
およびドアとハッチが閉じられ、安全であることを、
船から本部と進水担当官に報告します

全てのメインバラストタンクの空気圧が5ポンドであること

8、1510ーNo.1とNo.2のクリブ(ベビーベッドの意)を撤去
全てのクライブはクレーンでユニットとして撤去するために、
ドッグする(←?)必要があります


白いブロックを取り除きます

9、1525ークリブを撤去
ショップ72は終点から50ヤード離れたところで
5分間間隔で流動インジケーターを開始

タグボート主任のオフィスからチェッカーフラッグが振られ、
水路が空いている場合、進水が決行されます

最終検査と報告

ダピット中尉の指示に従って左舷通路を撤去

10、1558ーサイレンが3回鳴ると全員が建物の袖から離れます
トリガーを取り外します

スポンサーがプラットフォームでセレモニーを開始します
(牧師による祈祷ならびに国歌斉唱)

セレモニーが完了するとスポンサーのプラットフォームで
ブザー信号が一度鳴ります

11、1600ートリップドッグショア
トリガーロックピンが取り外されます

10秒待機 信号は2回目のブザー

12、1602ートリガーが外れ、ブザーが1回鳴ります

注記:各操作の開始は、時計の信号によって行われ、
それ以外の開始の信号は鳴ることはありません

進水式の装置についての専門用語はちゃんとした日本語もあるのですが、
ここでは大体のところがわかればいいと思い、そのまま書きました。
(はっきり言って手抜きですすみません)

進水に詳しい人ならなんのことか大体わかるというレベルです。

ただ、進水式が朝7時に準備が始まって、
実際の進水は午後4時になるということだけはわかりました。

そして、準備をしている間、おそらく賓客の紳士淑女は
海軍が設えた特別会場で豪華な正餐に舌鼓を打っていたことでしょう。

さて、この「シルバーサイズ」ですが、最初にもあった通り、
その進水が行われたのは、メア・アイランド海軍造船所です。



■メア・アイランド海軍造船所

メアアイランド海軍造船所は、カリフォルニア州ソラノ郡にあり、
1854年9月16日に開設されました。

この造船所は、第二次世界大戦中、西海岸における海軍の生産地で、
ガトー級潜水艦を建造する4つの工廠の一つでした。

(その他三つは
●ウィスコンシン州マニトウォック造船所、
●メイン州ポーツマス海軍工廠、
●コネチカット州グロトンのエレクトリックボート)

建造された77隻のガトー級潜水艦のうち
7隻がメア・アイランドで建造されています。
(SS-236~339、SS-281~284)。

造船所は戦争遂行のための重要な部分と考えられていたため、
そこで従事するものは徴兵されませんでした。

最終的にもメアアイランド海軍造船所は、
戦争遂行に不可欠であることが証明されました。

米海軍の潜水艦の撃沈した船舶は、海軍が沈めた敵船舶全体の
55%を占め、合計1,314隻、530万トンに達しました。

1993年、メアアイランド海軍造船所は、
「議会の基地再編と閉鎖プロセスの犠牲」になりました。

造船所は142年間の使用を経て1996年4月1日に正式に閉鎖されました。




ちなみにこの日「シルバーサイド」の進水を行ったゲストの皆様。
前列左がメアアイランドのあるバレーホ市の市長さんです。
3人の海軍軍人は海軍工廠の司令官や提督たちであろうかと思われます。

そして真ん中の帽子の婦人がこの日のスポンサー、
エリザベス・ハリントン・ホーガン夫人その人です。




スポンサーとなったホーガン夫人には、
メアアイランド海軍造船所から、銀でできたトレイが
記念品としてプレゼントされました。

トレイの真ん中には「シルバーサイズ」の艦影と文字が刻まれています。


続く。



コーヒーとグルメとパイレーツ〜ピッツバーグに住む

2022-08-14 | アメリカ

昨日、ちょっと怖かったこと。

車に乗り込む前に、TOと次の行き先について、

「ウェックスフォードのホールフーズ(マーケット)に行かない?」

と会話していました。

直後に携帯を車に繋ぎ、appleCarPlayで
一番近いWhole Foods Marketを検索しようと「W」を入れた途端、
画面には「Wexford」と表示されたのです。
(ちなみにそれまでウェックスフォードを検索したことはなかった)

携帯電話が人の会話を聴いていることがわかった瞬間でした。



さて、ピッツバーグに旅装を解いて早くも1ヶ月が経過しました。
この間の最も重要なミッションの一つ、
MKのアパートから荷物を運び出す仕事が無事に終わり、
その荷物を我々のAirbnbの部屋に運び込むところまでが終わりました。

わたしが選び抜いたAirbnbの立地は、なんと
彼がインターンシップで仕事をしている会社から歩いて5〜6分。

9時からの就業にうちで朝ごはんをちゃんと食べてから行くという、
おそらく彼には今後しばらくないであろう規則正しい生活を楽しんでいます。


引っ越し前のアパートと、職場の間には、
MKの御用達コーヒーショップ、「コンステレーション」があります。

COVID-19の流行後はカフェであった部分を閉め、
カウンターには何人たりとも近寄らないように、という意味で、
結界線を張って営業していたのですが、今回MKと一緒に行ってみると、
なんとMKは結界のこちら側のカウンターでコーヒーを飲むことができる
「VIPカスタマー」に出世しているではありませんか。



当然、MKと一緒に行ったわたしもカウンターに座らせてもらいます。

なんとMK、その後このお店の人から気に入られたのか、
互いにファーストネームを呼び合う仲にまでなっていました。

卒業後、インターンシップの会社に通うことになった彼は、
わたしたちが来るまで、バスでやってきて通勤前に開店と同時に入店し、
朝ご飯のマフィンとコーヒーの後歩いて職場まで通っていたというのです。



早速わたしも久しぶりのプアオーバーを楽しみました。


カウンターに座って初めて知ったのですが、オーナーのクリフは
毎日豆の種類によって配合を研究するため、
オレンジ色の電卓で計算をしてその結果を左のノートに書き込んでいます。

普通に機械で淹れて提供するコーヒーのことは「バッチ」(batch、
一塊という意味でいっぺんに入れたもの)と言いますが、
バッチコーヒーもそれなりに美味しいのがこのお店。

しかし、プアオーバー(手淹れ)を注文されると、彼は
研究熱心な科学者のような態度で会心の一杯を淹れようと張り切ります。

その理由について、彼は一度MKに

「ただ普通に淹れているだけだと仕事が面白くないから」

と言ったそうですが、いずれにせよそのこだわりは
使用する水に浸透膜濾過器を使うというような選択に現れています。

かといってそれほど気負い込んだものではなく、

「おいしい水と旨くローストした豆を使えば、
そんなに苦労することなく誰でも美味しいコーヒーは淹れられる」

二つは矛盾するようですが、どちらも真実なのでしょう。

また、クリフが自分の仕事に厳しいのは驚くべきで、
今回、何度かコーヒーを頼みましたが、
あまり上手くいかなかった、と言って淹れなおしたのが一回、
今日のは満足しなかったから次のは無料にする、と言われたのが2回。

失敗したと彼がいうのを飲んでも、そんなに変だと思わなかったのですが、
何か途轍もないこだわりを持っていることだけはよくわかります。


そんなこの珈琲店。

最初からいい「気」が満ちている場所だと思っていましたが、
こうやってゆったりとカウンターに座っている時の気分は最高です。

飾りの少ない店内ですが、イコンのようなものがあり、
蝋燭が備えてあったので、クリフはロシア系かと思ったのですが、
MKによると、ドイツ系ということでした。

計算しながらコーヒーを淹れている彼の姿を見ると、それも納得です。


前にも書きましたが、このオーナーの腕には、刺青が全面に施されています。

アメリカに来るたび、人々の刺青着用率が増えていく気がしていますが、
若い人ばかりではなく、いい年をした初老の男女が、
揃ってふくらはぎなどに変な柄を入れていたりするのを見ると、
一生取れないのに、その柄をそこに入れてよかったの?
とちょっと聞いてみたくなったりします。聞きませんけど。

まあ、ここのクリフとエイミーの場合は、それが似合っている
(ヒッピー的な意味で)のでいいんじゃない、としか思いませんが。



この日はお店が混んでいたので、カウンターは遠慮して
隣の空き地にあるテーブルでコーヒーを楽しみました。

ピッツバーグは時々蒸し暑くなって豪雨が降ることもありますが、
おおむね日本より湿度は低く、気温が高くても
日陰に入れば快適に過ごせるので、外での飲食は人気です。



MKもこの街に住んで友達と色々とお店を巡った経験から
いいなと思った店に親を連れて行ってくれるようになりました。

ここはケーキショップですが、夜遅くまで営業していて、
この日も、たくさんの甘党さんが
夕食後のケーキを楽しみに来ていました。(やはり女子率高し)


今のご時世を反映して、ビーガンケーキが食べられます。
3人で普通のケーキひとつとビーガンケーキひとつを選んでみました。
(でもどっちがビーガンだったか忘れた)


この日は雷雨と言ってもいいくらいの土砂降りとなってしまいました。
  The Butterwood Bake Consortium というのがお店の名前。
あえて訳すなら、

「バターの森 焼き物協同組合」

みたいな感じかな。



また別の日、前回行って全員が気に入ったグリルレストランに、
今度は最初からカウンターの観覧席を希望して行きました。



前回好評だった人参のソテー。
アメリカの人参は日本のより細長い鉛筆のような形状で、
「ヘアルーム・キャロット」と言いますが、
それをそのまま短く切って火を加えると大変甘みのあるソテーになります。

これ以降、わたしはにんじんを買ってきては
頻繁にこれでスープ味のソテーを作るようになりました。

ここのはおそらく照りをバターでつけてます。


TOが選んだのはポレンタ。
ポレンタとはトウモロコシの粉から作った練り物みたいなもので、
ここではそれにカポナータ(ナスやトマトを揚げて甘酢で和えたもの)、
それからフェタチーズをまぶしてあります。


これはわたしがオーダーしたツナのステーキ。
シシトウが親の仇のようにたくさん乗っかっていて、
MKにも食べてもらいましたが、ちょっと多すぎでした。

味というより見た目のために乗せたようです。




MKはさすが若者、ハンガーステーキに挑戦していました。

ハンガーステーキ(hanger steak)とは、牛の上腹部、
肉の部位の中でも最も柔らかいとされている部分のステーキです。

上にかかっているソースのことを、サーブしてくれたウェイターは
「ウォータークレスのチミチュリ・ソースです」と言いましたが、
「チミチュリ」が言いにくいのか、ちょっと噛み気味でした。

アルゼンチン発のチミチュリソースは、パセリとニンニクのみじん切りを、
オリーブオイルと白ワインビネガーなどで和えたもので、
おそらくこれはパセリの代わりにクレソンを使っています。


デザートは3人で二種類頼むことにしました。
これは焼いていない、つまりレアチーズケーキ。



こちらのチョコレートケーキは小麦粉を使わずに焼いてあります。
どちらも結構なお味でしたが、まあ普通でした。



ここはキッチンで働く人たちや薪のオーブンが
ガラス越しに見える「鑑賞席」ですが、写真を後で見てみたら
中の人がカメラ目線で挨拶をしていました。



日課の散歩は、毎朝気の向くまま、いろんなところに行くつもりでしたが、
交通の便の関係と、それから、朝の時間も結構暑い日が多く、
日向の多いコースは歩くだけで消耗してしまうので、
結局いつも同じ公園の同じ木陰の多いコースを歩いています。



朝早い時間でなくとも、山奥なので普通に鹿と遭遇します。


ノースエンドという球場の近くのトレイルにも一度行ってみましたが、
ここは今年、とんでもないことに、遊歩道沿いにびっしりと、
ホームレスがテント村を築き上げている事態になっていました。

今時のホームレスなので、テントはどこで拾ってくるのか、
普通のキャンプ用の立派なものばかりですし、
彼らなりに地域に溶け込む努力のつもりなのか、ゴミはひと所に集めて、
テントの外に靴をきちんと揃えて脱いでいたりしていましたが、
それでもホームレスはホームレス。

道端のテントから巨大な裸足の脚が出ているとギョッとしますし、
ベンチに座っているホームレスに愛想よく挨拶されても困りますし、
なんと言っても集団で暮らしている現場付近は臭いがすごいのです。

彼らの中にもヒエラルキーみたいなのがあって、力のある人は
道の脇と言っても天井(橋の下)がある所にテントを持てますが、
中にはテントもなしに木の下とかに住んでいる人もいました。

それにしても、ピッツバーグのホームレス業界で、
わずか1年の間に一体何があったのでしょうか。



今年の夏で我が家はピッツバーグから去ることになります。

しかし、もし将来また戻ってくる日が来たとしても、
この川沿いのトレイルにはもう2度と来ることはないでしょう。
このままホームレスが住み着いてしまったら尚更です。

本来ここは川でウォータースポーツをしたり、
ボートを持っている人が係留して岸辺でパーティを楽しんだり、
という何方かと言えば豊かな人々が集まる場所だと思っていたのですが。

ただ、まだ貸しボートなどはちゃんと営業しているらしく、
週末のこの日、わたしがボートにカメラを向けると、
船の上の二人がオールを持ち上げて挨拶してくれました。


ピッツバーグ名物の黄色いブリッジ。
ここのところ順番に補修工事をしていて、去年とは違う橋が
通行止めして全面改装をしていました。

工事に使用されている重機は圧倒的にコマツかコベルコです。
さすがのメイドインジャパン。



PNCパーク(野球場)の前まで歩いてきて、
去年はなかったこんなモニュメントができているのに気づきました。

地元チームパイレーツの永久欠番の数字が並んでいます。

例えば、手前の33番ですが、このブログでも紹介したことのある
「フライング・ダッチマン」ことホーナス・ワグナー(Honus Wagner)
の背番号です。



さらに、道端に巨大なサインボールが!

こちらは、説明によると、ピッツバーグパイレーツ、
ホームステッド・グレイズ、ピッツバーグクロフォーズ
、と
ピッツバーグ縁の野球チームの殿堂入り選手のサインボールなんだそうです。

ちなみにホームステッド・グレイズ(Homestead Grays)というのは、
昔存在した黒人ばかりの野球リーグ「ニグロ・リーグ」のご当地チームで、
1950年まで存在していました。


もう一つのピッツバーグ・クロフォード(Pittsburgh Crawfords)も、
ピッツバーグに本拠地を置くプロ・ニグロリーグの野球チームでした。

当時は「クロフォード・カラード・ジャイアンツ」などと呼ばれていました。
BLM全盛の今となっては信じられない呼称ですね。

1930年代半ば、クロフォードはニグロリーグの中でも
最も強力なチームの一つであったということです。


こちらがクロフォーズの選手の皆さんです。

戦争中、女子ばかりの野球リーグがあったのは知っていましたが、
黒人ばかりのリーグがあったのは初めて知りました。


サインボールにはこの3チームの中の殿堂入り選手のサインと、
殿堂入りした年、プレイしていた時期が書かれています。



この日の散歩は、サインボールのところでUターンして、
またホームレス地帯を抜け、パーキングまで戻ったのですが、
途中でボランティアらしいゴミ拾いの集団を追い抜きました。

この少し先にはホームレスのテント村があるわけですが、
ゴミ拾い軍団は果たしてホームレスのゴミを拾うのか?

大変気になりましたが、見届ける時間はありませんでした。



おまけ:MKの住んでいたアパートの駐車場で目撃した
「マイ・ガール」(なぜ明朝体)の描かれた痛車。

アメリカでこのタイプの痛車は初めてみましたが、
どうしたって日本とは「ノリ」が違う気がしますね。

所変われば品変わると申しますが、痛車すらも違います。


続く。



そのとき真珠湾にいた艦たち〜シルバーサイズ潜水艦博物館

2022-08-12 | 歴史


ミシガン州マスキーゴンのシルバーサイズ潜水艦博物館の展示から、
今日もやたらと詳細にわたる真珠湾攻撃についてをご紹介します。

「真珠湾への道」として日米の動きをタイムラインで表した横には、
真珠湾における攻撃後の出来事が記されていました。



7時55分の第一次攻撃

8時53分の第二次攻撃

ミッドウェイに向かうUSS「レキシントン」(←)

ウェーク島から戻ってきていたUSS「エンタープライズ」(→)

がまず図になっています。
そして、その下には、

「ワシントン」「パールハーバー」「フィリピン・マニラ」

で起こったことがこれも時系列で書き出されています。
今回はそれはさっくりと省略しますが、その代わり、
時刻を追って真珠湾に停泊していた艦船がどうなったかを追います。


■ 戦艦「ユタ」



【現役戦艦と誤認され撃沈】

戦艦USS「ユタ」は、ユタ州の名を冠した最初の艦です。

1931年、「ユタ」は前年に調印されたロンドン海軍条約の条件に従い、
非武装化され標的艦に改造され、AG-16と改称されていました。

また、艦隊の砲手の訓練に使われていた艦です。
「ユタ」はちょうど1941年末に真珠湾に入港したばかりで、
フォード島沖のバースF-11に係留され、対空砲術訓練を終えていました。

12月7日の朝8時前、「ユタ」の乗組員の何人かは
真珠湾を攻撃するために接近してくる最初の日本軍機を見ましたが、
アメリカ軍機だと思い込んでいたそうです。

攻撃が始まったとき、「蒼龍」「飛龍」の中島B5N魚雷爆撃機16機は
空母を探して「ユタ」が係留している場所にやってきました。

いつもはそこに空母が停泊しているはずだったからです。

日本軍の飛行隊長は「ユタ」は攻撃の価値なしと判断したのですが、
中島辰巳中尉率いる「蒼龍」のB5N6機は離脱して攻撃を始めました。


バーベット上の形状が空の穴を覆う箱であることを認識せず、
砲塔である、つまり戦艦であると誤認したと思われます。

6本の魚雷が「ユタ」に発射され、そのうち2本が命中し、
もう1本は外れて巡洋艦「ローリー」に命中しました。

【ユタの沈没】


深刻な浸水はすぐにユタを圧倒し始めました。
ユタは左舷に傾き、艦尾が沈んでいきました。

総員退艦が始まったとき、一人の乗員(機関員ピーター・トミッチ)は
乗員を助けるために持ち場を離れず殉職しました。


トミッチ

トミッチはヘルツェゴビナ系クロアチア人のアメリカ海軍水兵です。

攻撃の時ボイラー室に勤務していた彼は、攻撃によって
艦が転覆することを悟りながらも、ボイラーを動かし続け、
すべての乗員が持ち場を離れるのを確認するまで持ち場に留まり、
そのことによって自らの命を失いました。

彼はその行動により死後名誉勲章を受けています。

その後「ユタ」は横倒しになり、脱出できた乗組員は岸まで泳ぎつきました。

その中の一人、ソロモン・イスキス司令官は、
転覆した艦内に閉じ込められている人々のノックの音を聞き、
有志と共に損傷の激しい巡洋艦「ローリー」から切断の道具を取ってきて
閉じ込められた人を解放しようと試み、4人の救出に成功しています。

Solomon Isquith

「ユタ」では合計で58人の将校と下士官兵が死亡し、
461人が生き残りました。

【沈没墓となったユタ】

「ユタ」は当時軍事的な価値がなかったため、沈没後放棄された状態で
海軍艦艇登録から抹消されました。
錆びた艦体を一部海面上に見せながら。

「ユタ」が沈んだときに死んだ兵士たちは、その後も
運び出されることはなく、長い間「墓」に眠っていました。

その後記念碑が建てられた際、
艦の近くにプラットフォームが設置されましたが、
ここには軍の身分証明書を持つ人だけがアクセスできます。

2008年になって「ユタ」の艦内から7人の遺体が運び出されて火葬され、
その遺灰は再び沈没艦に撒かれました。


■ カシンとダウンズ


「カシン」は攻撃時、「ダウンズ」「ペンシルバニア」と共に
真珠湾で乾ドックに入っていました。

250kg爆弾の低次爆発により燃料タンクが破裂し、
両艦に制御不能の火災を引き起こしました。

「カシン」はキールブロックから滑り落ち、「ダウンズ」に衝突。

両艦とも修理不可能なほど損傷しましたが、
機械類や装備は引き揚げられ、メア・アイランド海軍工廠に送られ、
引き揚げ材をもとに全く新しい艦が建造され、
それらには元の艦の名前と番号が与えられました。



その後、再就役した「カシン」は古巣の真珠湾に戻り、
テニアン、サイパン、マーカス、硫黄島で活動。

江戸の仇を長崎で、とばかり、真珠湾の仇を主に南洋で晴らしていた
「カシン」ですが、一度は国際法の遵守を確認するために
日本の病院船に乗り込み、臨検を行い、
違反がないことを確認すると、ちゃんと船を解放しています。




■ ショー(USS SHAW)


USS「ショー」(DD-373)は、「マハン」級駆逐艦で、
海軍士官ジョン・ショー大尉の名を冠した2番艦です。

1941年12月7日には、パールハーバーの乾ドックに係留されていました。

「ショー」が係留されていたのは補助浮遊式乾ドックYFD-2で、
彼女はそこで深度充電装置の調整を受けていました。

日本軍の攻撃で3発の爆弾を受け、2発は前部機銃台を、
1発は艦橋の左翼を貫通し、火災は艦全体に広がりました。

0925までに、すべての消火設備は使い果たされましたが、
火を消し止めることはできず、総員退艦の命令が出されます。

そして0930過ぎに前部弾倉が爆発しました。

「ショー」は修理の結果、現役に復帰し、戦後に至るまで
ほぼ第一線で活躍し、その功績に対して11の賞を与えられました。

■オグララ(USS Oglala)



「オグララ」は機雷掃海艇です。

ネイティブ・インディアンの「オグララ」族から名付けられました。
(oglala族を変換すると、普通に”小倉裸族”になってしまう件)

建造時は高速貨物船「マサチューセッツ」という名前であった彼女は、
その後ボストンで旅客船となってのち、第一次世界大戦の時に
Uボートに対抗するため、機雷掃海艦に生まれ変わりました。

最初に機雷掃海艦になった時の名前は、「オグララ」ではなく、
USS「ショーマット」Shawmut ID 1255
で、その名前のまま無線操縦船、水蒸気テンダー、掃海艇として
就役していました。

「ショーマット」が「オグララ」に改名された理由は、
当時病院船「ショーモン」(Chaumont)というのがいて、
英語では後者のTを落とさず発音する人が多いことから、
「ショーマット」と「ショーモント」で混同する可能性があったからでした。

1941年、「オグララ」は、機雷掃海隊司令官の旗艦となって、
真珠湾攻撃当時、パールハーバー海軍基地のテンテン桟橋に、
軽巡洋艦「ヘレナ」の隣に係留されていました。

【オグララ沈没】

7時55分頃、「オグララ」の乗員は日本軍の攻撃機を発見し発砲しています。

中島B5N2空母魚雷爆撃機「ケイト」は魚雷を放ち、
それは「ヘレナ」との間の左舷近くで爆発しました。

この爆風で「オグララ」は左舷部が破断し、火室床板が浮き上がり、
着水を始めましたが、それとほぼ同時に日本軍機による空爆が行われます。

艦ドックから電力供給を受けている状態だったため、
乗組員は火災に対処するためのポンプを起動することができませんでした。

この損傷により、後に「オグララ」は

"the only ship ever to sink from fright."
「恐怖によって沈んだ唯一の船」


と異名を得ることになります。

火災が防げなかったのは怖気付いたからだったとでもいうのでしょうか。
実際は決してそうではないと思いますが・・なかなか厳しいですね。


攻撃開始から約5分後、爆弾が「オグララ」と巡洋艦の間に落下し、
「オグララ」のボイラー付近で爆発しました。
左舷5度に傾斜し始め、浮力を維持できぬまま急速に沈没していきます。

当時の指揮官であったローランド・E・クラウス司令官は、
「ヘレナ」から「オグララ」を離して、桟橋に直接固定することを決定。

これは9時頃には作業完了しましたが、30分後には艦隊は20度傾き、
廃艦命令を余儀なくされる状態になりました。

10時頃、船はドックの方向に向かって横転し、
左舷側に沈む際にブリッジとメインマストが破壊されました。



「オグララ」の死者はゼロでしたが、負傷者が3人いました。
この人的被害の少なさについて、指揮官はその報告の中で、

「海軍の最高の伝統」に従って行動した全乗組員

を賞賛し、特に2人の乗員の英雄的行動を讃えました。

ジェラルド・"E"・ジョンソン二等水兵は、ボイラーの爆発を防ぎ、
艦への浸水を抑えるように奮闘し、
アンソニー・ジト掌帆長は、日本軍機の接近に対し、
いち早く高射砲を素早く作動させ、迎撃を試みたという功績です。


「オグララ」はその後3度目の引き上げ作業を経てようやく陸に揚がり、
修理ついでに内燃機関修理船ARG-1に生まれ変わりました。

ニューギニアの作戦などに参加し、戦後退役してスクラップ化されました。


■ カリフォルニア(USS California)



1941年12月7日朝、「カリフォルニア」はフォード島の南東側、
バトルシップ・ロウ(戦艦列)の最南端の艦に係留されていました。

攻撃が始まった直後、当時乗艦していた副長のマリオン・リトル中佐は、
総員配置の命令により砲を作動させ、艦の航行準備を行います。

8時3分、乗組員は、三菱A6M零式艦上戦闘機らと交戦を開始。
しかし、すぐに準備弾薬はなくなり、弾倉のロックを解除しなければ
補給ができない中、中島B5N魚雷爆撃機(九七式艦攻)2機が接近し、
投下した魚雷が前部と後部に命中。

攻撃時、検査で「カリフォルニア」の水密扉はすべて開いており、
また、舷窓や外扉の多くも開いていたため、
制御不能の浸水が艦全体に広がって艦体は左舷に傾き始めました。

リトル副長はダメコンチームに右舷の浸水対策を命じましたが、
左舷の浸水は広がり続けます。

魚雷の爆風で前方の燃料タンクも破裂し、燃料系統に水が入り込んで
電気系統は全てストップしてしまいました。

その後、D3A急降下爆撃機(九九式艦爆)から繰り返し攻撃を受け、
爆雷が右舷に1発、左舷に1発命中。

この時対空砲兵は爆撃機のうち2機を撃墜したと主張しましたが、
混乱した状況下での撃墜は困難として認められませんでした。

0845、アール・ストーン中佐(誰?)が乗艦し指揮を執ろうとしたところ、
(こんな時にも国旗に敬礼とかしたんだろうか)
同時に「カリフォルニア」は徹甲弾らしきものを被弾しました。

この爆弾は上甲板を貫通した後、第二甲板で跳ね返り、艦内で爆発し、
火災を引き起こし、約50名の死者を出します。

その後、乗員の必死の作業で電力とボイラーが回復、
しかし火災が広がったので、攻撃が終了してから他の船が接舷し、
消火と排水作業を行いましたが、艦体は3日間かけてゆっくり沈没し、
最終的に泥の中に沈みました。

この攻撃で98名が死亡、61名が負傷し、
何人かは攻撃中の行動に対して名誉勲章を授与されました。
ある者は持ち場を離れることを拒否し、そこで死亡しています。

その後、「カリフォルニア」はずっと沈没した状態であります。

艦内の遺体25体が今後の身元確認のために引き揚げられたのは、
なんと2019年12月6日
のことでした。



■ メリーランドMeryland

【沈没を免れたメリーランド】

12月7日の朝、「メリーランド」は「オクラホマ」を左舷に並んでいました。

前方には「カリフォルニア」、後方には「テネシー」「ウェストバージニア」
艦尾は「ネバダ」と「アリゾナ」という位置関係でした。

この7隻の戦艦は、最近演習から帰ってきたばかりで、
いわゆるバトルシップ・ロウ(戦艦列)にまとめて係留されていたのです。

「メリーランド」の乗組員の多くは、攻撃が始まった時、
9時の上陸休暇の準備をしていたり、朝食を食べていました。

最初の日本機が現れ、爆発音が船外の戦艦を揺らすと、
「メリーランド」のラッパ手が「ジェネラル・クォーター」を吹鳴。

この時持ち場の機関銃のそばでクリスマスカードの宛名を書いていた
レスリー・ショート水兵は、機関銃で魚雷爆撃機を撃墜しました。
(レスリー・ショート水兵の写真は残っていません)

「オクラホマ」の内側にいたため、魚雷攻撃から逃れた「メリーランド」は、
すべての対空砲台を作動させることができました。

最初の攻撃で「オクラホマ」は沈没したため、
生き残った乗員が対空防御のために「メリーランド」に移乗しました。

その後「メリーランド」も空爆を受け被害に遭いますが、
砲撃を続けながら転覆した「オクラホマ」の生存者救出を試みました。

日本側は「メリーランド」を撃沈したと発表しましたが、
沈没を免れ、翌年6月には大幅改修を加えて戦列に復帰しています。

真珠湾で被害を受けた戦艦としては2隻目の復帰を果たしたことになります。

■オクラホマ

わたしが撮った「オクラホマ」の写真、端が欠けてしまっただけでなく、
写真に壁のコンセントが混在しているという・・・。<(_ _)>

攻撃時、「オクラホマ」は「メリーランド」の隣、
戦艦列のフォックス5番バースに停泊していました。

彼女は「赤城」と「加賀」隊の集中的な標的となって、
3本の魚雷を撃ち込まれ、そのうち2本は
第一煙突とメインマストの間の喫水線下6.1mの船首に命中しました。

この瞬間は、確か映画「パールハーバー」で再現されていたかと思います。

魚雷は対魚雷バルジの大部分を吹き飛ばし、
隣接する燃料バンカーの発音管から油を流出させたものの、
どちらも艦体を貫通しませんでした。

約80名の乗員が甲板上の単装砲に就くために奔走しましたが、
発射ロックが武器庫にあったため使用することができませんでした。

そこでほとんどは喫水線の下にある戦闘配置につくか、
航空攻撃時の規定に従って3階デッキに避難します。

0800、3本目の魚雷が命中、艦体を貫通し、
第2プラットフォームデッキの隣接する燃料バンカーを破壊し、
2つの前部ボイラー室への通路、後部ボイラー室への横隔壁、
2つの前部射撃室の縦隔壁を破裂させます。

艦体が左舷に転覆し始めると、さらに2本の魚雷が命中。
なお、乗員は総員退艦を行う際、航空機から機銃掃射を受けています。

12分以内に、マストが着底し、右舷が水面に浮上し、
キールの一部が露出した状態で転覆していましたが、
多くの乗組員が「メリーランド」に移乗して対空砲を手伝いました。

そのうちの一人、アロイジウス・シュミット神父は、
第二次世界大戦で死亡した最初のアメリカ人聖職者となりました。

シュミット神父は他の乗員とともに、コンパートメントに閉じ込められ、
小さな船窓から乗員が脱出するのに手を貸していましたが、
自分は脱出せず、さらに多くの者を救おうとして沈没に巻き込まれました。

彼は12名の乗員の救出を行なっています。


シュミット神父

これらの他にも多くの人が転覆した船体の中に閉じ込められました。
転覆から数分後には救助活動が始まり、夜になっても救助活動は続き、
数時間後に救出された人の例もあります。

この時亡くなった何人かの軍人の名前は、
この後に建造された駆逐艦名として残されました。

USS「イングランド 」(DE-635)/USS「イングランド」 (DLG-22)
ジョン・C・イングランド少尉

USS「スターン」(DE-187)
チャールズ・M・スターン・ジュニア少尉

USS「オースチン」
ジョン・アーノルド・オースチン工兵長

USS「シュミット」 (DE-676)
アロイジアス・シュミット神父(中尉)

USS「バーバー」(DE-161)
マルコム、ランドルフ、リロイ・バーバー水兵

(オクラホマには『バーバー』という水兵が3人いたということです)

などです。

【再沈没したオクラホマとDNA鑑定】

前にもこのブログで書いたことがありますが、「オクラホマ」は
何度も浮上が試みられたものの、不可能だったので、退役し、
スクラップにされるためサンフランシスコにタグボートで運ばれる途中、
ハワイ近海で嵐に遭い、沈んでしまったという悲劇の艦です。

この時のタグボートの名前が「ヘラクレス」「モナーク」だったというのも
個人的には印象深く記憶に残る事件です。

引き揚げた際回収された乗員の遺体は全部で429体でしたが、
当時、そのうち身元が判明したのはわずか35名だけでした。

2015年になって国防総省は2015年4月、国防総省は、
「オクラホマ」乗組員の身元不明遺骨をDNA分析のために掘り起こし、
特定された遺骨を家族に返還することを発表しました。

その後DNA鑑定は着々と進み、2021年2月4日には300人目となる、
イリノイ州の19歳の海兵隊員のを特定したと発表しています。

2021年6月29日プログラムは終了し、
最終的には身元不明者はわずか33名を残すだけになりました。
33名の遺骨は、真珠湾攻撃80年目の12月7日に再埋葬されたと思われます。





■ ウェストバージニアとテネシー

【沈没後16日間生きていた3人の水兵】


「ウエストバージニア」は「テネシー」と並んで停泊していました。

攻撃が始まってすぐ、彼女は魚雷爆撃機に91式魚雷7本を舷側に、
爆撃機に16インチ(410mm)徹甲爆弾を2本打ち込まれました。

最初の爆弾は上部構造物の甲板を貫通し、
下のケースメイトに収納されていた弾薬が誘爆した結果、
その下の調理室甲板に広がる大火災を引き起こしました。

2発目の爆弾は後部の砲塔の屋根に命中し、
砲塔上部のカタパルトに搭載されていた艦載機、
OS2Uキングフィッシャー・フロートプレーンを破壊し、
甲板上に流れたガソリンが火災を起こしました。

魚雷によって開いた穴による転覆はなんとかダメコンで食い止めましたが
「アリゾナ」から漏れた燃料油に引火し、翌日まで続く火災が発生。

「ウェストバージニア」では合計106名が犠牲になりましたが、
そのうち3人は、16日間気密倉庫で生き延びていたことが後でわかりました。

サルベージ後、倉庫で3人の遺体とともに、12月23日までの
16日の日付が赤鉛筆で消されたカレンダーが見つかったのです。



2019年、国防省は「ウエストバージニア」の35名の不明遺体のうち
8名が特定されていると発表しています。

【テネシー】

攻撃が始まって、「テネシー」の周りはダメージを受け始めました。
「テネシー」も徹甲爆弾の直撃を受け、火災が起こります。

戦闘後、「テネシー」の周りの戦艦はほとんど沈没してしまい、
彼女は身動きできないままそこに残されていました。

その後「テネシー」はメア・アイランドで修復を行い、
近代化改修が施されてアリューシャン方面、タラワ攻防戦、
クェゼリン戦やエニウェトク戦、マリアナ諸島、
ペリリュー戦やアンガウル戦、フィリピン戦、硫黄島戦、沖縄戦、
レイテ沖海戦とフルで参加して1947年に退役、1959年に解体されました。


■ ネバダ



攻撃時、「ネバダ」は「アリゾナ」の後部に係留されていましたが、
単体だったため、他の7隻の戦艦とは異なり、操艦することができました。

司令官フランシス・W・スキャンランドが攻撃開始時不在だったため、
甲板士官であるジョー・タウシグ少尉(同名の提督の息子)が
再先任として攻撃と対処を指揮することになりました。



あれ?こんな話どっかの映画で見ましたよね。
ジョン・ウェインのアレだったかな。

「ネバダ」は91式改2魚雷1本が爆発し、継ぎ目からの漏水により、
傾斜を始めましたが、艦を出港させることに成功しました。
しかしタウシグ少尉は攻撃で脚を失うことになります。

第二波攻撃がやってくると、「ネバダ」はヴァル急降下爆撃機
(九九式)の主要なターゲットとなります。

日本軍のパイロットは、水路で「ネバダ」を沈めて
港を封鎖しようと考えたのです。(それなんて旅順港閉塞作戦)。

しかし、常識的に考えて250kg爆弾で戦艦を沈めることは不可能。

この時の戦術的目標選択は大いに間違っていました。
というか、もし日露戦争の記憶がなければ、日本軍の搭乗員は
このようなことを考えなかったんじゃないかと思われますがどうでしょう。

攻撃は「ネバダ」にいくつもの穴を開け、火災を起こすことに成功。
しかし、沈めることはできず、当時「ネバダ」の主弾倉は空だったので、
被害は最悪を免れることになりました。

その後「ネバダ」は深い海での沈没を防ぐために、
移動しながらも航空機を何機か撃墜し続けています。

午前中に合計60名の死者と109名の負傷者を出し、
翌年2月7日になって行われた引き揚げ作業中には、
腐敗した紙や肉から出た硫化水素ガスに侵されてさらに2名が死亡しました。
(この人たちも戦闘による戦死と認められたんでしょうか)

【原爆実験を生き延びて、退役】

着底した「ネバダ」は引き揚げられて大改装を施され、
アッツ島攻略作戦、ノルマンディー上陸作戦、につづき、
硫黄島、沖縄攻略作戦に参加しました。

沖縄では特攻隊による攻撃を受けて死傷者を出しています。


戦後、「ネバダ」はビキニ環礁における原爆実験(クロスロード作戦)
標的艦に供用されることが決定しました。

「ネバダ」は同作戦中の、空中投下実験における目標とされ、
視認性を高めるために全体を赤く塗装されて実験に投入されましたが、
2回にわたる核爆発(エイブル実験/ベーカー実験)を生き残ったため、
結局真珠湾へ戻って、8月29日に静かに退役しました。


■ アリゾナ



「アリゾナ」では、7時55分ごろ空襲警報が発令されました。

「加賀」と「飛龍」隊のそれぞれ5機ずつ、
計10機の九七式艦攻が「アリゾナ」に襲いかかります。

「加賀」搭載機は高度3,000mから爆撃を行い、
その直後、「飛龍」の爆撃機が艦首部を攻撃しました。

爆弾は命中4発、ニアミス3発で、うち1発は砲塔の表面で跳ね返り、
甲板を貫通して艦長用食料庫で爆発し、小火を引き起こし、
もう1発はメインマストの横で命中し、対魚雷隔壁の付近で爆発、
次の爆弾は左舷後部の5インチAA砲付近に命中しました。

【弾倉爆発】

最後の爆弾は08:06にII砲塔付近で命中し、
艦の前部にある弾倉付近の装甲甲板を貫通したと言われます。

命中後約7秒で弾倉は大爆発を起こし、前部内部構造の大部分が破壊されて、
前部砲塔とコニングタワーは下方に、マストと煙突は前方に倒れ、
艦体は事実上真っ二つになりました。

その爆風は凄まじく、横付けされていた修理船「ヴェスタル」は
火災を起こしていましたがこの風で消し止められたほどでした。



この爆発によって当時の乗組員1,512人のうち1,177人が死亡、
真珠湾攻撃時の犠牲者の約半数を占める数です。

「アリゾナ」爆発の原因は、艦体がほぼ壊滅状態で沈んだため、
検証のしようがなく、いまだに議論されているようです。

【アリゾナ・メモリアル】



よく知られているように、「アリゾナ」は生きた墓として
現在も沈没時の姿のまま真珠湾でメモリアルとなっています。

ここでちょっと耳寄りな情報を。

「アリゾナ」の真珠湾攻撃の生存者は、希望すれば、自分の死後、
遺灰を戦友と一緒に艦内に納める権利を有しており、
また、「アリゾナ」に勤務したことがある退役軍人は、
その遺灰を艦の上から海中に撒くことを許されています。

ちなみに沈没した艦体からはいまだに1日に2リットル以上の油が
港に漏れ続けているため、海軍は、港のさらなる環境悪化を避けるために、
油の継続的な漏れを軽減する非侵入型の手段を検討しているところです。
(ロボットに作業させるのだと思われ)

これを知って写真を見ると、確かに記念館の上の海面に
油が作り出している膜のようなものが確認できますね。


「アリゾナ」は永久に就役しない(できない)艦ですが、
いまだに米海軍の所有権下にあり、永久的に、
現役で就役中の海軍の艦艇と同様、合衆国旗を掲揚する権利を保持します。

■ パールハーバーの「最後の犠牲者」?



このコーナーには、
The Last Victims of Pearl Harbor?
として、二人の軍人の名前と写真が掲げられています。

ハズバンド・エドワード・キンメル提督、
そしてウィリアム・キャンプベル・ショート将軍

どう「犠牲者」なのかと言いますと。

真珠湾攻撃について、多くは誰が責任を負うべきかを知りたがった。

海軍と陸軍の司令官だったキンメルとショートは、
議会の調査によって、非難を受け、降格され、引退を余儀なくされる。

今日、歴史家は、キンメルとショートが攻撃への備えがなかったのか、
それとも(真珠湾攻撃そのものが)意図的に仕組まれていて、
適切に準備できるような情報が得られなかったのか、意見が分かれている。

戦後、海軍上層部は、その指揮下における施設や装備が
非常に限られていたことを考えると、キンメルは

できる限りのことをした有能な指揮官であったと主張した。

チェスター・ニミッツ提督はキンメルを擁護し、

もしキンメルが艦隊を出撃させて日本軍を捜索する指令を出していたら、
空母6隻とその護衛艦38隻からなる聯合艦隊によって、
おそらく米艦隊は壊滅させられていたかもしれない
(だから彼の判断は
リスクマネージメントの点からベストではないがベターだった)と述べた。

実際、パールハーバーでは、被害こそ大きかったものの、
すぐに活動を再開し、わずか数週間でほぼ平常に機能を取り戻している。

1995年になって、議会は、真珠湾攻撃の責任を負うべきは

この二人だけにあらず、他の高級将校も同じである、と結論づけたが、
キンメルとショートの名誉が挽回されることはなかった。

1999年、議会はついに二人の無罪を証明する決議を行い、
post humously(死後)階級を復活させようというところまでいったが、
当時の大統領ビル・クリントンは署名を拒否。

ジョージ・ブッシュも、それ以降の歴代大統領も
悉く署名を拒んでいるため、

この問題は未解決のままである。

さて、なぜでしょうか。(意味深)


続く。




パールハーバーへの道〜シルバーサイズ潜水艦博物館

2022-08-10 | 歴史

ミシガン州マスキーゴンにある潜水艦「シルバーサイズ」をメインとした
潜水艦博物館の室内展示は、日米開戦のきっかけとして
真珠湾攻撃について大変こだわりを持っているように見えます。



館内はこのようなパネルによる通路に沿って歩いていくわけですが、
潜水艦博物館という割に手前の真珠湾攻撃の写真が大きすぎ。


天井からはさらに零式艦上戦闘機の模型が吊り下げられ、
この角度で見るとより一層迫力ある展示になるというわけです。たぶん。


天井から吊られているのは零戦のみ。
つまり、真珠湾攻撃のパネルに効果を与えるための展示なのです。



何というか、真珠湾攻撃に全振りしている感じです。
それにしてもこの写真、本物なんでしょうか。

上空の航空機、脚が出ているということはこれは米軍のだと思いますが、
遠方にいるのに妙にはっきりしすぎてないか?


前回、当博物館の真珠湾攻撃展示を解説したのですが、
ここでまたもや、

「The Road to Pearl Harbor」
(パールハーバーへの道)

とタイトルされた気合の入ったパネルが現れました。
そこまで気合を入れて真珠湾攻撃について語りたい何かが
この博物館にはあったということなのでしょう。

●1931−1940

日本は満州に侵攻し、中国での影響力を
万里の長城と沿岸沿いに拡大し続けていた。

日本も中国も互いに宣戦布告をしなかったため、
米国の中立条約(US Neutrality Acts)の下で
両国との貿易停止を余儀なくされていたルーズベルトは、
貿易を継続することを許されるようになった。

日本は国内で必要な鉄くずとオイルの80%を米国からの輸入に頼っていた。
中国の輸入品にはやがて武器が含まれるようになる。

●1940年1月

日本海軍の山本五十六提督は、アメリカが日本に対する石油の供給を
遮断
した場合に備えて、真珠湾攻撃を模索し始めた。

主なターゲットは空母と戦艦であった。

その数日後、アメリカ大使はペルー大使館を通じてこれを発見したが、
ワシントンはその報告に対し、不可能な作戦であるとして取り合わなかった。


■ 真珠湾攻撃についてー
実は米大使がペルー大使から事前に聞いていた説

世の中には、開戦に至るまで、日本が経済的に追い込まれていったとされる
ABCD包囲網(当時の日本人は一般国民でもこの言葉を知っていた)すら、
日本が戦争を起こす動機ではなかったとする説もあるくらいです。

ましてやアメリカ側の解説にこの辺りへの言及がないのは当然です。

しかし、その割に、赤字の部分を史実として言い切っているのが、
何ともバランスが悪いとわたしは思ってしまうわけです。

この部分こそ、陰謀論がまつわる真偽不確かな話だからです。

このペルー大使館云々の噂について解説しておきましょう。
噂は噂らしく、3通りの説があります。


【噂 その1】

当時駐日アメリカ大使館員だったフランク・シューラーの追想です。
ペルーの特命全権公使リカルド・シュライバーが、
駐日アメリカ大使であったジョセフ・グルーに、

「日本が真珠湾を攻撃する計画をしているらしい。
このことを至急アメリカ政府に通報してほしい」


と伝えたのですが、グルー大使は

「あなたは、米国と世界に偉大な貢献をされました。
すぐに国務省に電報を打つことにしましょう」


と感極まった口調で言ったものの、
本国に通知をするのを意図的に避けたという噂です。

だとしたら一体何の目的で?


ジョセフ・グルー駐日大使
日本贔屓だったという噂もあり(←この辺りが噂の元かも)

【噂 その2】

コーデル・ハル国務長官

ハル国務長官の回顧録によるとこうなります。

グルー大使が東京から1月27日、次のように打電してきた。

『日米の間で事が生じた際、真珠湾に大規模な奇襲攻撃をかけることが、
日本の軍部によって計画されている』


と云う話を、駐日ペルー公使が、
日本人を含む多数の筋から聞いたと言っている”

また、この時ペルー公使は、グルー大使に対して、


『自分としては日本側の
このような計画は奇想天外だと思うが、
たくさんの筋から聞いたのでお伝えしようと思ったのだ』

と告げたらしい。

そこで国務省としては翌日、この公電の内容を陸軍省と海軍省に伝達した。

【噂 その3】

駐日アメリカ大使館員、一等書記官クロッカーが、シュライバーから
「一日本人(ペルー公使館の日本人通訳)を含む複数の情報」
として聞いた話。

「万一日本がアメリカと紛争になった場合、日本は
全軍事力を使用して真珠湾に大攻撃を加える意図を持つ」


それを伝えられたグルー大使が電報を打ち、その内容は
アメリカ海軍にも伝えられたが、海軍作戦部長のハロルド・スターク
太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメルに対して

「海軍情報部としてはこの
流言は信じられないと考える」
「予測できる将来に、こうした行動が計画されているとは
考えられない

という内容の電報を2月1日付で送った。

噂;以上


「ワシントンはそれを実現不可能として取り合わなかった」

という説に一番近いのは「噂その3」でしょうか。
「その1」の噂は、グルー大使が本国に打電しているのが本当なら、
全く間違っていたことになります。

「その2」の噂は、ハルの回想録の話によると、
グルー大使は国務省にその話を電報で伝えていたことになりますが、
ハルはその話を「取り合わなかったのかどうか」については書いていません。

さて、噂はともかく、展示の続きです。

●1940年5月

通常はサンディエゴに駐留している太平洋艦隊は
ハワイのパールハーバーに恒久的に移転することになる

●1940年7月5日

アメリカは日本への武器などにつながる機械、そして
交換部品の全ての輸出を停止したが、
石油・鉄鋼は停止しなかった

●1940年9月27日

日本全権代表がベルリンでの会議に参加し、
ナチスドイツ、イタリア、日本による枢軸国を正式に確立
(三国同盟)

●1940年11月

ルーズベルトは、先に攻撃されない限り、
アメリカは戦争しないと公約し、前例のない3期目の大統領に就任


「あなた方の息子たちを戦場に送らない」

というこの時のルーズベルトの公約があったからこそ、
彼は「日本に先に撃たせた」とする説がいまだに存在します。

●1941年4月

日本側の暗証番号が解読され、全ての通信が傍受される

● 1941年6月24日

アメリカが日本に対し石油と鉄鋼の禁輸措置をとる

●1941年9月24日


日本の諜報機関からのメッセージが傍受される
内容は真珠湾のすべての艦船の係留場所を示すグリッドの要求だった

そのことを真珠湾関係者の誰も伝えられていない


ということは、やっぱりアメリカは真珠湾攻撃のことを
少なくとも3ヶ月前に知っていたことになりますよね。
もちろんこの報告はルーズベルトにも上がっていたに違いないのです。

ここまで知っていながら、なぜ奇襲を許したのか。

●1941年11月

日本は外交団をアメリカに派遣し、平和的解決策を模索する
どちらの側も立場を譲ることはせず、交渉は決裂


いわゆる「最後通牒」ハルノートのときですね。
これを受けて、日本は開戦やむなしと判断し、
真珠湾への道が開かれることになります。

●1941年11月26日

423機の航空機と護衛部隊を乗せた6隻の航空母艦が
真珠湾に向けて日本を出発

● 1941年11月27日

真珠湾の艦隊司令官キンメルとショートは、和平交渉が再開されない限り、
日本軍はフィリピン、タイ、マレー半島、ボルネオで
可能な攻撃を発動するかもしれないという
最初の警告を受ける

キンメル提督とショートは警戒体制をとり、弾薬装填、人員配置、
対潜網を張って真珠湾の入口を封鎖した

あれ・・・?

キンメルもショートも知っていて、ここまで準備していたのか。
しかもこれ、攻撃の10日前ですよね?
なんで奇襲攻撃を成功させてしまったんだろう。

というか、恥ずかしながらわたし、このことを初めて知りましたが・・。


●1941年11月28日

航空母艦USS「エンタープライズ」は、艦載機を引き渡すために
ウェーク島に向けて真珠湾を出発した


「エンタープライズ」と護衛艦艇は12月6日に帰港する予定であった

これって、深読みするならば、真珠湾攻撃を知っていた「誰か」が、
被害を空母に及ばせないように真珠湾から「逃した」
っていうことかもしれないと思ったり。(とする説も実在しますね)

これだと、真珠湾に残された艦艇群は、アメリカからある意味
デコイ扱いされていたということになります。

これは当事者たちの心情としてはとても受け入れ難い仮定かもしれません。



●1941年12月3日

真珠湾で第2の戦争メッセージが受信された
アメリカとイギリスの領土にいるすべての領事館が、

暗号を破棄し、
文書を燃やしていた(らしい)

開戦準備であるとの警告


●1941年12月

航空母艦「レキシントン」は真珠湾を出港し、ミッドウェイに向かった

12月6日、米国諜報機関は日本からの14パートからなるメッセージを
解読することに成功している

それによると、南太平洋のどこかに攻撃が迫っていることが示されていた

「レキシントン」とエスコートは巨大な嵐に足止めをくらい、
パールハーバーの200マイル真西にいて到着が遅れそうになっていた


パネル左側の

「知っていますか?」

というところには、何とこんなことが書かれています。

1940年以前、太平洋艦隊は毎年夏真珠湾で訓練を行なっていました。
1932年と1938年の2回、真珠湾はこの模擬演習として
アメリカ軍に「攻撃」されていたことになります。

どちらの演習も、真珠湾の艦隊にとっては完全な「奇襲」となり、
攻撃は完全な成功を収めたとされます。

そして1932年の演習は、「本物」と全く同じとなる
日曜日の明け方に行われていたのでした。


知っていますか?いや、わたしは知りませんでした。

つまりこれによると、模擬攻撃が2回成功していたのに関わらず、
直後の同じような日本の攻撃を許してしまった
ということでよろしいか。

って、何のための模擬演習やね〜ん!

こういうのを見ると、アメリカはいまだに(この博物館もある意味そう)
日本の奇襲攻撃ガー!という立場に立っていますが、
攻撃があるかもしれないと思いながら何もしてなかったくせに、
被害者ぶりっこも大概にせいよ、とついツッコんでしまうのよね。




ツッコむといえば。

ちょっと皆さん、見てくださいよ。
アメリカ人にはこれが真珠湾攻撃の演習に見えるんですってよー。

これってあれですよね。

戦後、あまりのリアルさにてっきり実写だと思われてフィルムを没収された
映画「ハワイ・マレー沖海戦」の撮影セットじゃないの。

いくら慎重に行われるべき大作戦であったとしてもですよ。

本来紙の上の図演で済むところ、こんなリアルに真珠湾を再現し、
艦船の模型まで縮尺をきちんとしていたといまだに信じてるのね。

日本人、どれだけ几帳面だと買い被られているんだろうか。

そういえば、この勘違いをアメリカではいまだに誰も訂正しないらしく、
マイケル・ベイの怪作「パールハーバー」でも、
同じようなことをしていた怪しい日本人軍団がいたような気がするな。

確かプールの入り口に巨大な鳥居が立っているシュールなもので、
あのシーンには大笑いさせていただいた記憶があります。

今回もわたしはついこれを見てふふっとなってしまったのでした。

歴史にはある意味完全な真実というものはない、
ということを思い知らされる一枚の写真です。


続く。





日米開戦とアメリカ潜水艦隊〜シルバーサイズ潜水艦博物館

2022-08-08 | 歴史

ミシガン州マスキーゴンにあるシルバーサイズ潜水艦博物館。
まずは潜水艦「シルバーサイズ」ではなく、前庭に艦橋のある「ドラム」、
「シルバーサイズ」の隣の沿岸警備隊のカッター、そしてなぜか
入口を入るとすぐに現れた触雷潜水艦についての話になりましたが、
これはまあいわゆる前座的な潜水艦の世界への導入とお考えください。

沿岸警備隊のカッター「マクレーン」についても、ここにある理由として
アラスカで日本軍の呂32号潜水艦を撃沈したとされるから、
ということだと理解することにしましょう。

もっとも、前回も説明したように、これはアメリカ側の誤認で、
「マクレーン」が撃沈したのは呂32ではなく、それどころか、
本当に撃沈したという証拠もないということがわかったわけですが。

潜水艦博物館的にはそうであってはあまり好ましくないので、
訂正された情報を頑なに受け入れず、展示のアップデートもしていない、
ということが重々理解できたところで、次に進みます。



■真珠湾攻撃〜全ての始まり




「シルバーサイズ」と潜水艦隊を語るために、まずこの博物館は、
真珠湾攻撃が全ての始まりだったとする解釈のもとに、
(それまでの両国の関係、歴史的経緯などに対する考察はスッパリとなしで)
アメリカの潜水艦隊が、第二次世界大戦にどのようにその力を求められ、
最終的にはアメリカの勝利に寄与したか、という流れを構成しています。

日本人であるわたしがアメリカの軍事博物館に立って、
諦めにも似た無力感に苛まれるのが、こういうアメリカの意志を見る時です。

なぜならわたしは、戦争という国益のぶつかりあいにおいて、
歴史を刻むのは勝者であり、そのことは神の目から見るところの
「善悪」とは何の関係もない、という考え方に立っているからです。

そもそも戦争が始まるに至る経緯について、
よほど中立を意識する、スミソニアン博物館のようなところでもない限り、
アメリカ側の正義に立ってしか語られることはないというのが
わたしがこれまで見てきたアメリカの軍事博物館の基本的姿勢であります。

それでも毎回こうやって地方の軍事博物館を訪れるたび、
もしかしたらアメリカという大国のどこかに、
戦争という普遍的なものが、ただパトリオティックな立場からではなく
科学的に論じられている場所があるのではないかと
心のどこかで期待している自分がいるのです・・・・

・・と言うようなドリーマー的ポエムはそこそこにして。

ここシルバーサイズ潜水艦博物館の説明は、先ほども言いましたように、
真珠湾攻撃から全てが始まったとされ、その解説に力を入れています。




日本帝国海軍の機動部隊がその日どうやって真珠湾を攻撃したか。
このパネルでは、空母から発進した航空隊の航路を図解で示しています。

「奇襲攻撃は午前7時48分に始まりました。
当時、日本の代表団はワシントンで
介入しないことを交渉していました。

どうやらそれは我々の軍隊の不意を突くためだったのです。
策略はうまく働きました。


353機の日本軍の戦闘機、艦攻、艦爆機が真珠湾に降下し、
それが午前9時30分に終了したとき、2402人のアメリカ人が殺害され、
8隻の戦艦が沈没又は深刻な損傷を受け、
数百機の航空機が損傷又は破壊されました。」



開戦の際の通知が、現地大使館の不手際により、攻撃より後になり、
その結果意図せぬ国際法違反になったこと。

そしてその前段階で、日本に最後通牒として突きつけられたハルノート。

これらは歴史的にも検証されていることであるにもかかわらず、
ここではそういった日本側の事情や言い訳は全く斟酌されることなく、
とにかく日本が悪いという姿勢を清々しいくらいきっぱり貫いています。

「介入しないことを交渉していた」とおっしゃっていますが、
ハルノートという名の事実上の最後通牒を、アメリカが突きつけてきたのは
まさにそのワシントンではなかったでしたっけ。

ま、いいんですけどね。
ミシガンの田舎で歴史的な中立を叫ぶ気はわたしにも全くありません。



とはいえ、この部分の展示、日本側が真珠湾攻撃を行った時の経緯は、
非常にわかりやすく、段階的にまとめられており感心しました。

ある意味、今まで見てきた真珠湾攻撃の資料の中で
一番わかりやすく時系列が語られているような気がします。



まず、下の地図からご覧ください。

日本列島とハワイが線で繋がれ、攻撃までの動きが
番号に従って説明されています。

1、山本五十六提督が率いる攻撃の秘密の計画は、
41年初頭から海軍の艦隊本部で開始されました。

目標は迅速な日本の勝利であり、アメリカの艦隊が、オランダ領東インドと
マレー半島の日本の征服に干渉するのを防ぐのが目的です。

日本軍は、主要な米艦隊のユニットを破壊することによって、
彼らの海軍力を高め、侵攻を強化する時間を手に入れんとしました。

2、11月22日までに攻撃隊は日本の北、千島列島の単冠湾に集まりました。

3、南雲忠一提督が指揮を執る機動部隊は、11月26日に出発し、
連合国からの探知を回避するために北ルートをたどりました。

艦隊には「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」
の六隻の空母が参加していました。


4、機動部隊は12月3日、油槽船団から洋上補給を受けました。

5、艦隊は、12月7日未明にオアフ島の北約200マイルに到着し、
午前8時に
攻撃を開始しました。

2400人以上の人員を殺害し、8隻の戦艦を沈没又は損傷せしめ、
数百機の航空機を使用不可能にしたのち、午後3時までに離脱しました。

この攻撃はアメリカ海軍と真珠湾に破壊的な大混乱をもたらしました。

6、12月16日、空母「蒼龍」と「飛龍」が帰還した艦隊から分かれ、
ウェーク島の攻撃に加わりました。

7、残りの艦隊は12月23日に日本に帰着しました。

8、ワシントンにいた日本の代表団は勾留されましたが、
1942年に日本に帰国を許され釈放されました。






1、艦隊は12月7日未明にオアフ島の北約200マイルに到着し、
午前6時に攻撃を開始しました。
日本の艦隊本部から無線で送信された命令は、

「ニイタカヤマノボレ」

408機の航空機が二波の攻撃によって熱帯の朝の空に唸りを上げました。

2、日本の潜水艦は、オアフに「ミゼット・サブ」を運んでいました。
特殊潜航艇のこと)
午前1時、それらは真珠湾に潜航するために発進を行います。

最初の潜航艇は午前3時42分に
駆逐艦USS「コンドア」に発見され、
6時37分に撃沈が確認されました。

これが太平洋戦争におけるアメリカの最初の「1発」となりました。

しかしこの出来事にもかかわらず、アメリカ側で
警戒警報は発令されず、
アメリカ軍もまた全くこれらに対応することをしなかったため、
迎撃も行われず、日本軍の波状攻撃を易々と許したのです。

3、183機の最初の攻撃波は、午前7時48分に真珠湾に到着し、
攻撃という名の破壊を開始しました。
この攻撃で艦爆と艦攻がアメリカの戦艦を沈めました。

4、さらに多くの水平爆撃機と急降下爆撃機を含む
第二波の171機が、午前8時50分に到着しました。

この時までに第一陣の攻撃隊は艦隊に戻っていました。

5、空襲の総指揮官である
淵田美津雄少佐は、
午前11時に偵察飛行を開始し、戦果を確認してから
午前1時に艦隊に戻って、報告を行いました。

6、淵田は、艦隊をすぐに帰還させるのが最善であると決定した
南雲忠一提督と、第三波攻撃について話し合いました。

最初の2回にわたる攻撃は大きな犠牲を私いました。

日本軍は真珠湾の攻撃そのものには成功したものの、
最もターゲットとすべきアメリカの
三隻の空母の位置がわからず
さらに天候は悪化しつつあり、今やアメリカ軍の防衛と警戒体制は
最初と違いより緊密なものへとなってきています。

さらに、第三波の攻撃は100機以上の飛行機に燃料を補給する必要があり、
それが日没後に行われなければならなくなっていました。

日本軍の機動部隊は、確実な夜間の作戦手順を開発しているべきでした。

もし第3回目の攻撃が行われていたら、それは
アメリカ軍の潜水艦をノックアウトし、燃料補給中のそれを炎上させ、
さらに造船所を無力化させた可能性がありましたが、
それには日本側のリスクはあまりに大きく、

数十機の航空機を失うことになり、南雲はそれを懸念したのでした。




■ そしてアメリカ潜水艦隊は


そして、この「サドンリー・アット・ウォー」を受けて、
潜水艦隊がどうなっていったか、と話が続くわけです。

「1941年12月7日の日本の真珠湾攻撃は、
アメリカを第二次世界大戦に突入させました。

当時アメリカ海軍の太平洋水上艦隊は非常に弱体化していたため、
55隻の潜水艦は日本の領土内で活動できる
唯一の攻撃部隊として
就役を余儀なくされたのでした」

アメリカが随分と受け身で一方的な被害者として語られていますね。

それはともかく、水上部隊が弱体化していたというのは、
ワシントン軍縮条約の結果を受けて、ということでよろしいか。

というわけで、戦力の重きが潜水艦に置かれていったということなのですが、
ここでアメリカ海軍の潜水艦戦術についての説明があります。

やっぱりここは潜水艦博物館ですのでね。


【アメリカ軍の潜水艦技術】

Torpedo Direction Computer(TDC)
は、1940年から41年にかけて開発されていました。

そのメカニズムによって、移動する潜水艦から移動するターゲットに
魚雷を命中させるデータが魚雷の誘導システムに搭載されるようになります。

これは、必要なデータを入力した瞬間に魚雷を発射できるため、
潜水艦の戦術を簡略化することができました。


Target Bearing Transmitter(TBT)
は、
オペレーターが夜間の消灯時にブリッジからターゲットのベアリングを感知し
乗員に送信することができました。
このデータを使用して彼らはTDCを設定し、魚雷を発射するのです。


暗視潜望鏡(The Night Vision Periscope)
は、1942年に使用されるようになった、強力で非常に人気のある
目標補足装置であり、さらに大幅に改良されたものは
1944年から使用されるようになりました。




第二次世界大戦の太平洋戦線での1941年から2年までの状況です。
番号のついたところで日米の戦闘が行われています。

1、真珠湾

日本の空爆では潜水艦基地は攻撃を免れ
港の4隻の潜水艦は無傷のままでした。

当時、フィリピンのペアトに27隻の潜水艦、カビテに28隻の潜水艦がおり、
平時のパトロールと偵察の訓練を受けていましたが、
多くは戦時中の攻撃などの戦術に移行することができませんでした。
このため、135名の潜水艦長のうち、40名が交代
させられています。

2、ジャワ沖

1942年2月、日本軍はオランダ領東インドを占領しました。
総称して、ジャワ・キャンペーン(ジャワ沖海戦)と言われる

4回の海戦の過程で、日本は南西太平洋の広大な資源を確保し、
シンガポールからスマトラとジャワに至り、ニューギニアの北岸を越えて、
ニューブリテンのラバウルまで広がる防御線を確立したのでした。

3、珊瑚海

1942年5月4日から8日までの珊瑚海の戦いは、
日本の南方への侵攻の勢いを止めました。

これは航空機によって戦われた最初の海戦となり、しかも
艦船同士は視覚的にすら接触することなく終わりました。

日本軍の輸送船団と航空機の多大なる損害は、
アメリカのミッドウェイでの勝利への道を準備することになります。

4、ダーウィン


チャールズ・ロックウッド少将は、1942年5月、
アメリカ軍南西大西洋潜水艦隊の指揮を執り、
魚雷の技術的問題の解決に取り組みを始め、
潜水艦隊をますます強靭にするための戦術的革新を行いました。




ちなみにロックウッド少将ですが、やる気がないと思われる潜水艦長を
闘志に溢れた者に躊躇いなく入れ替えて人事刷新を行うだけでなく、
乗員の待遇改善も進め、任務から帰還した潜水艦乗りたちに
充実した休暇を提供するため、ロイヤル・ハワイアンホテルを開放し、
航海中の食事を豪華にし、生野菜やアイスクリームを提供させました。

アイスクリーム製造機が故障した潜水艦は出撃を禁じたという話もあり。

実際、アイスクリームはアメリカ軍人にとって
日本人にとっての白いコメ同様「やる気の源」だったからねえ・・・。


5、ミッドウェイ

ミッドウェイ海戦は1942年6月4日から7日に起こりました。
ここで我々の海軍は大日本帝国海軍の攻撃を打ち負かし、
日本の航空隊に取り返しのつかない損害を与えました。

この時から日本は守勢に回らざるを得なくなります。

6、ガダルカナル

42年8月から43年2月までのガダルカナルキャンペーン中の戦闘は、
連合軍による最初の攻撃であり、日本の最初の陸上戦の敗北でした。

日本は戦略基地となるヘンダーソン飛行場を奪還できませんでした。




そして、1941年8月26日、カリフォルニアのメア・アイランドで
潜水艦「シルバーサイズ」は就役を行いました。

写真は進水式で海上に滑り出した直後の「シルバーサイズ」です。



続く。


チャールズ・リンドバーグの光と影〜スミソニアン航空博物館

2022-08-06 | 飛行家列伝

リンドバーグについて書いている途中に渡米してしまったため、
取り残されてしまっていたシリーズ最終回をお届けします。




さて、リンドバーグが大西洋を横断した歴史的な飛行機は、旅行直後、
彼自身が寄贈したことでここスミソニアンに完璧な形で残されています。

「歴史的航空遺産」の一つとして展示されている航空機に付けられた
説明をそのまま翻訳しておきましょう。



ライアンNYPスピリット・オブ・セントルイス

史上初のノンストップ単独大西洋横断飛行

1927年5月21日、チャールズ・オーガスタス・リンドバーグは、
ニューヨーク州ロングアイランドのルーズベルトフィールドからパリまで、
ライアンNYP「スピリット・オブ・セントルイス」で飛び、
史上初のノンストップ大西洋横断飛行を達成しました。

飛行距離は5,810キロメートル、所要時間は33時間30分です。

このフライトで、リンドバーグはニューヨークのホテルオーナー、
レイモンド・オルテイグがニューヨーク-パリ間を大西洋直接横断する
最初の飛行士に提供するとした2万5千ドルの賞金を獲得しました。

リンドバーグは、パリのル・ブルジェ・フィールドに着陸した瞬間、
何十年もの間世界に語り継がれる世界的な英雄になったのです。

飛行の余波は航空業界の「リンドバーグブーム」となって現れました。

その結果、航空業界の株の価値は上がり、人々の
飛行への関心が急上昇しました。

リンドバーグが「スピリット」で行ったアメリカ国内、そして
中南米へのツァーは、飛行機という輸送手段がいかに安全で、
信頼できるかを実証することになったのです。

*チャールズ・リンドバーグ寄贈


翼幅 14m
全長 8m
高さ 3m
総重量 2,330kg
重量(ガソリンなし)975kg
エンジン ライト ウィールワインドJ-5C、223hp
製造 ライアンエアラインズ株式会社




ライアンエアラインズの社長は前にも書いたように
マホニーという人物ですが、この名前は現在全く無名です。

彼は社名をのちに「マホニーエアクラフト」に変えましたが、
1929年の株の暴落で財政的に苦しみました。
航空業界でそれなりに活躍したのですが、リンドバーグの時ほど
成功することはなく、若くして心臓病で世を去っています。

ライアンの名前を冠した「スピリット・オブ・セントルイス」は
世界で一番有名な飛行機だったのに、そのオーナーが無名なのは、
彼が社名を変えるのが数ヶ月遅かったからだと言われています。

この飛行機の横にもしライアンでなく「マホニー」とついていたら、
彼の存在そのものも重要なパイオニアとなっていたかもしれません。

その他、この飛行機についてのスミソニアンの記述を書いておきます。


飛行機にはフロントガラスがないことに注意してください。
燃料タンクを大きくしたために、フロントガラスが犠牲になったのです。


前方が見ることができないため、リンドバーグは飛行中
側面の窓からしか外界を見ることができませんでした。

うーん、これ、前も書きましたが、
単独飛行に挑戦する飛行機がこれってかなり辛かったんじゃないか?



しかも窓ってこんな窓ですよ。

飛行機には左側にペリスコープが付けられていて、
それで前方を見ることができたとはいえ、これは辛い。

しかし、それにもかかわらず偉業を成し遂げたリンドバーグは、
愛機についてこのように語っています。

「わたしにとって、スピリット・オブ・セントルイスは
未来に焦点を当てたレンズそのものであり、
時間と空間を整復するメカニズムの先駆者でもありました」

それもこれも、彼が大西洋の横断の時に失敗しなかったから言えることです。



こうして見ると尾翼の形が変わっています。

劇的なデモンストレーション

一つの都市から別の大都市へと大西洋上を直接飛行することで、
リンドバーグは、長距離はもはや障害ではなく、それどころか
長距離の空の旅の可能性が急速に現実になりつつあることを示しました。

リンドバーグがパリに上陸した瞬間、すべてのアメリカ国民は
彼自身と航空というツールに夢中になりました。

同時に、「航空の時代」が到来したのです。


アメリカ人の中でも頭ひとつ背が高かったリンドバーグ。
スピリット・オブ・セントルイスの高さは3mですから、
それから考えても2メートル近くあったのではないかと思われます。

グレゴリー・ペックやジェームズ・スチュアートでも
190センチはあったといいますから、彼がそれ以上でも驚きませんが。

彼がカリスマ的人気を得た理由は、ルックスはまあまあながら、
アメリカ人としても長身痩躯だったのが大いに関係あると思います。


1927年5月20日の午前7時52分、ザ・スピリット・オブ・セントルイスは、
土煙の中、ルーズベルト・フィールドからパリに出発しました。

そして33時間と30分後、着陸したことになります。
前にも書いたように、朦朧として幻覚を見ながら、
無事に間違いなくパリに着陸できたというのが凄いと素直に思いますが、
もっと凄いのは、彼は離陸前、丸々24時間寝ていなかったということです。

どういう事情があったのか、興奮して寝られなかったのか、
準備が間に合わなかったのかはわかりませんが、要するに
ざっと60時間横になっていない状態だったということになります。

飛行中は細切れに睡眠を取りながら飛んでいたとしても、
よくその状態で失速とか決定的な失敗をしなかったなと思いますね。

しかも、到着後、すぐに横になれたとは思えません。
老人ならともかく、若い彼にはそれだけで大変な苦行だったでしょう。

もし「スピリット」の仕様がもう一人バックアップを乗せられるもので、
睡眠をとることができたとしても、快挙には違いありませんが、
結果として一人で成し遂げた栄光に及ぶものではなかったと思われます。


アメリカへ帰国したスピリット・オブ・セントルイス号。

スピリット・オブ・セントルイスは、リンドバーグを帰国させるために
クーリッジ大統領がヨーロッパに派遣した
巡洋艦USS「メンフィス」に乗ってフランスから米国に戻りました。

機体は「スーベニア・ハンター」から守るため、
ワシントンDCのヘインズポイント沖のはしけの上に展示されました。

どういうことかというと、地上に展示した場合、
こっそり何かを持ち帰る輩がきっと現れるに違いない、
と警戒されたという意味です。

海の上なら近づけませんし、たとえ近づいても
怖い海軍のお兄さんたちが守ってくれるでしょう。


そして彼はワシントンD.C.で英雄として歓迎を受け、そこで議会から
主君飛行十字章と、特別議会名誉勲章を授与されました。



リンドバーグの大西洋横断成功に対して発行された
オルテグ・プライズ、2万5千ドルの小切手。

特別に印刷された小切手であることは、左上にリンドバーグが乗った
スピリット・オブ・セントルイスが印刷されていることでわかりましょう。

インクは特別に発光するものが使われています。
小切手の縁の外側には栄光を意味する月桂樹の葉があしらわれています。

現在も存在するブライアントパーク銀行の発行となっています。

リンドバーグが小切手を現金に換えた後も、
銀行は歴史的な資料としてこの実物を保存していたようですが、
のちにスミソニアン博物館に寄付されました。


説明がないのでわかりませんが、ニューヨークに
「メンフィス」がリンドバーグを乗せて到着してきた時の騒ぎでしょう。

右の方に水を撒き散らしている船がいますがこれは何?



「チッカーテープ」が舞うニューヨーク市街の凱旋パレード。
リンドバーグが帰国してから行われたものです。

しかし、いつ見ても陰鬱そうな顔をしていますね。



小売人はお土産や記念品を販売することで彼の名声を利用しました。

写真は、スミソニアンが所蔵している「リンドバーググッズ」
コレクションで、これだけでも大変な数となります。

不鮮明ですが、リンドバーグのキューピー人形や、
まるでイコンのように後頭部に輪を乗せた絵を額に入れたものなど、
さまざまな形でアイコンとなったリンドバーグ便乗商品の数々です。


■ アン・モロー・リンドバーグ



リンドバーグ夫妻が日本への訪問を含む飛行旅行を行い、
それについてアンが書いた本「ノース・トゥ・ザ・オリエント」(1935)
そして「リッスン!ザ・ウィンド(風よ!聴け)」(1938)
実際に彼女がシリウスに乗って体験した事柄が人々の興味を惹き、
大変なベストセラーになりました。

作家のシンクレア・ルイスは、「ノース・・」について、

「かつて書かれた最も美しく偉大な心を持つ本」

と絶賛しています。

彼女はその中でほとんどのアメリカ人が経験し得ない異国での
文化的なイベントやそこでのライフスタイルについて語りました。

アラスカ州ノームでのボートレースについては次のように書かれています。

「レースに参加する予定だった3人の男性は、
キャクス(kyaks、カヤックのミススペル)に押し込まれました。

(男性が座っている場所を除いて、ネイティブのボートは
完全にアザラシの皮で覆われていました)

次に、水が入らないように、それぞれがパーカーのスカートを
開口部の木製の縁の周りに結びつけるのです。

そうすると、まるでギリシャのケンタウルスのように、
人と船が一つになるのでした」



ケースの中には彼らが訪れた各国のコインがあります。
穴が空いたのは、ノルウェイの1クローナ硬貨だそうです。


右側の銅色のメダルは、ナショナル・ジオグラフィックソサエティから
アン・モロー・リンドバーグに贈られたハバードメダル(ブロンズ)です。

この裏面にはリンドバーグの飛行コースが、北南米、ヨーロッパ、
アフリカのレリーフ地図に示されています。


■ 第二次世界大戦でシマダ・ケンジ大尉を撃墜

FDRと決定的に決裂し、陸軍を退役したリンドバーグでしたが、
真珠湾攻撃後は陸軍航空隊への再就職を希望していました。
しかし、陸軍長官ヘンリー・L・スティムソンはホワイトハウスの指示で
この要請を断っています。

ある歴史家は、もしルーズベルトと仲違いしていなければ、
リンドバーグはのちに将軍になれたかもしれないと言っています。

入隊を断られたリンドバーグは、諦めませんでした。

彼の視線は常に空にあったのでしょう。
多くの航空会社に接触した結果、1942年にはフォードの技術顧問として、
B-24リベレーター爆撃機のトラブルシューティングに関わっています。

1943年にユナイテッド・エアクラフトに入社し、
チャンス・ヴォート部門のコンサルタントを行いました。

そして翌年、ユナイテッド・エアクラフト社を説得し、
戦闘状況下での航空機の性能を研究するため、
ついに技術担当者として自分を太平洋戦域に派遣させることに成功します。

彼は、アメリカ海兵隊航空隊のために、ヴォートF4Uコルセア戦闘爆撃機が
2倍の容量の爆弾を搭載して安全に離陸する方法を実演しています。

当時、いくつかの海兵隊飛行隊が、
オーストラリア領ニューギニアにある日本軍の拠点、
ニューブリテン島ラバウルを破壊するために、
現地で爆撃機の護衛に当たっていました。

1944年5月21日、リンドバーグは最初の戦闘任務に就き、
ラバウルの日本軍守備隊の近くでVMF-222と一緒に空爆を行ったり、
またブーゲンビルからVMF-216とも飛行しています。

リンドバーグが任務に出たとき、ロバート・マクドナー中尉という搭乗員が
護衛に指名され、一度は一緒に飛んだのですが、彼はその後、

「リンドバーグを殺した男」

になるのを恐れ、任務を2度と引き受けませんでした。
日本と違って、任務を拒否できるのが、なかなか民主的な軍隊ですな。

っていうか、リンドバーグ、結構海兵隊に気を遣わせてたってことですよね。
さぞかし周りは内心迷惑くらいに思ってたんだろうて。

しかし、1944年の太平洋での6ヶ月間、リンドバーグは日本軍基地に対し
戦闘爆撃機の空襲に参加し、50回もの戦闘任務に就いています。

海兵隊エース、マリオン・カールと一緒に歩いていた写真もこの頃のです。

その後彼はロッキードP-38ライトニング戦闘機の運用を刷新し、
支援するダグラス・マッカーサー元帥に感銘を与えることになります。

この変革で、P-38の巡航速度での燃料消費は大幅に改善され、
長距離任務が可能になったと言われています。

リンドバーグと共に行動したアメリカ海兵隊と陸軍航空隊のパイロット達は
ことごとく彼の勇気と彼の愛国心について称賛しました。

実はこのとき彼は日本軍機を撃墜しているらしいのですが、
この搭乗員の名前が現在ではわかっています。

1944年7月28日、第433戦闘飛行隊によるP-38爆撃機の護衛任務中、
リンドバーグは第7飛行士団独立飛行第73中隊(軍偵)の指揮官である
シマダサブロウ大尉が操縦する三菱キ51「ソニア」観測機を撃墜しています。

三菱キ51「ソニア」観測機は陸軍の攻撃機、九九式襲撃機のことです。

このシマダサブロウ大尉についての日本語での記録は見つからず、
代わりに英語サイトで結構詳しく書かれていたのでそれを書いておきます。
ただし、こちらではサブロウは間違いで、「シマダケンジ」とあります。

日本語ではさらに「島田三郎中尉」とされていて、どちらが正しいか
もう少し調べないとわかりません。

第七十三旭日中隊

パイロット シマダ・ケンジ大尉
偵察員(MIA / KIA)
1944年7月28日墜落

航空機

三菱製造
キ51A偵察型かキ51B強襲型かは不明
日本陸軍航空隊に99式突撃偵察機/キ51ソニアとして配属され、
製造番号は不明

第73独立飛行連隊に編入される
本機は、上面が緑、下面が灰色の斑模様の塗装である
マーキングや機体記号は不明。

シマダケンジ大尉軍歴

1944年7月28日、

日本陸軍第35師団をソロモンに輸送する船団を護衛した後、
撃墜機捜索のため同じくキ51ソニアのパイロット横木軍曹と共に離陸した。
セラム近くのアマハイ島にあるアマハイ飛行場に戻る途中、
第49戦闘航空群第9戦闘飛行隊のP-38ライトニングに迎撃された。

島田が操縦するKi-51ソニアは単独で30分にわたりP-38を回避し続ける。
一方、無線で迎撃を聞いた第475戦闘航空群、第433戦闘航空隊のP-38は、
午前10時45分、天拝飛行場付近で戦闘に参加する日本機を探した。
3,000フィートから急降下旋回したP-38は、
発煙を起こすほどの撃墜を記録した。

被弾しながらも、このSoniaは激しく左旋回し、
Danforth "Danny" Miller大尉の操縦するP-38から発砲を受けたがかわす。
旋回を終えたSoniaは、

Charles A. Lindberghの操縦するP-38Jに向かって飛び込んだ。

リンドバーグは真正面から6秒間砲撃し、エンジンに命中したのを確認するが
上空に退避することを余儀なくされた。

煙に巻かれたソニアは半回転し、
ジョセフ・E・"フィッシュキラー"・ミラー中尉の操縦するP-38が発砲、
片翼に命中し海に墜落するのが確認された。

その後、このソニアはリンドバーグの功績となり、
彼の最初で唯一の空中戦勝利のクレジットとなった。

リンドバーグの戦闘参加は1944年10月22日の
『Passaic Herald-News』の記事で明らかにされた。



■ 二重生活とドイツの隠し子

1957年から、リンドバーグはアン・モローとの結婚生活を続けながら、
3人の女性と長い間関係を持っていました。

バイエルン州の小さな町ゲレッツリートに住んでいた帽子職人、
ブリジット・ヘシェイマー(1926-2001)との間に3人の子供を、
また、グリミスアトに住む画家の妹マリエットとの間に
2人の子供
を、そしてヨーロッパでの私設秘書だった東プロイセンの貴族、
ヴァレスカとの間に息子と娘(1959年と1961年に生まれた)を
、と、
主にドイツで子孫を残しまくっていました。

どうにも感心しないのは、亡くなる10日前、
ヨーロッパの愛人たちそれぞれに手紙を書き、自分の死後、
彼女たちとの不倫関係を極秘にするよう懇願していたことです。

と言うわけで、ドイツの子供たちは、全員が私生児として育ち、
皆、自分の父がリンドバーグとは知らずに育ちました。

後年、自分の出自に疑問を持ったドイツの娘の一人が、
リンディの写真やラブレターを発見し、その後2003年にはDNA検査によって
リンドバーグが父親であることが確認されるという、
なんだか本人にとって情けない話になっています。

リンドバーグはそのうち科学の発展によって、そう言ったことが
全て明るみに出るとは思わなかったのでしょうか。
思わなかったんだろうな。

そのことを知ったアンとリンドバーグの娘、作家のリーヴは、
そのことについてこのように述べています。

”These children did not even know who he was!
He used a pseudonym with them
(To protect them, perhaps? To protect himself, absolutely!)"

子供たちは彼が誰だったかすら知らなかったのです!
彼(父)は彼らに偽名を使っていました。
(子供達を守るため?いや、自分を守るためでしょう!)


■死去

リンドバーグは晩年をハワイのマウイ島で過ごし、
1974年8月26日にリンパ腫のため72歳で死去しました。

彼の墓碑銘は、

「チャールズ・A・リンドバーグ
ミシガン州 1902年生まれ マウイ島 1974年没」


という言葉に続くシンプルな石に、詩篇139篇9節を引用しています。

「もし私が朝の翼を手に入れ、海の果てに住むならば」


リンドバーグシリーズ  終わり





映画「MORITURI」死に往く闘士の敬礼 (後編)

2022-08-04 | 映画

映画「MORITURI」後半です。

マーロン・ブランドという役者の映画にあまり詳しくない人は、
この作品での彼の演技が、実に独特なのに驚かれるかと思います。
その容姿に似合わない比較的細くて頼りなげな声、ボソボソした喋り方、
大事なことを言う時にも、声を張り上げない台詞回し。

実際、英語圏の人によると、この作品での彼はドイツ人風だそうですが、
わたしはこれがそう見せるための過剰な演技だと思ったくらいです。

この芝居らしくない芝居は、彼が広めた「メソッド演技法」なるもので、

「役柄の内面に注目し、感情を追体験することによって
より自然でリアリスティックな演技・表現を行う」


ことを目的とする、当時画期的な演技方法でした。

この方法は、役作りのために内面を掘り下げようとするあまり、
薬物依存やアルコール中毒で破滅すると言うケースを生んでおり、
その一つの例がヒース・レジャーだったといわれているものです。

そしてブランド本人ですが、この映画の頃彼はほとんど干されていました。
常に周囲と軋轢を起こし、セリフを覚えてこず、共演の女優に手をつける、
と言う問題児だったことが祟って、仕事が激減していたそうです。

父親の借金の穴埋めのために安いギャラで二流作品にも出ていた頃で、
この「モリトゥリ」も、まさにその頃の作品に当たるのですが・・・


とりあえず続きです。

さて、連合国側のスパイ、カイルことクレインが鳴らした汽笛のせいで
駆逐艦に臨検されそうになったドイツ貨物船「インゴ」船長のミュラーは、
積荷ごと船を爆破する決断を下し、総員退船を命じました、



しかし肝心の積荷のゴムが沈められてはたまったものではありません。

カイルが慌てて操舵室に駆け込み、スイッチの鍵を開けているミュラーに
爆破を止めるようにと説得を始めたその時です。

彼らの目の前で駆逐艦が爆発炎上してしまいました。
敵の敵もさるもの、日本海軍の潜水艦が船団を発見し攻撃したのです。



東京でミュラーに任務を命じた提督が乗り込んでいます。
なんか指導のために乗ってやる的な文句を言っていた気がしますが、
日本海軍の潜水艦を舐めていたらいかんよ?

船団が潜水艦の餌食になっている間に、ミュラーは
「インゴ」を霧に突っ込んで逃げることに成功しました。



船橋に上がってくる幹部の一人、航海士ミルカライトを演じているのは
ライナー・ペンカートと言うドイツ人俳優です。

前段の幹部の会食シーンで、若い時、手紙にヒトラーの悪口を書いて
ゲシュタポに捕まった経歴があることをクルーゼにバラされた人物で、
彼はたまたまカイルが煙突の汽笛を鳴らすのを目撃していました。

それからガン見してくるので、カイルもそれに気が付きます。



探りを入れるために彼に航海先を聞き出そうとしますが、
彼は守秘義務を盾に教えようとしません。

彼は敵なのか、それとも?



その後ミルカライトはカイルを自室に呼び出しました。
そこには、すでに何人かが彼を待っていました。



不気味な政治犯の「ドンキー」もいます。

「茶番は終わりだ」

彼は豚の油貯蔵庫での取っ組み合いの後、
カイルが爆破装置を無効にしようとしていたことに気付きました。

今回の汽笛の件が決定打となって、カイルが工作員だと確信したのです。

ミルカライトはというと、ゲシュタポに逮捕されたことが示す通り、
「隠れ反ヒトラー」として、艤装の時から政治犯と組んでいました。

彼らは、敵の敵は味方のセオリーで、カイルを巻き込むつもりです。



カイルは彼らと、爆破物を連合国に渡す前に無効化してから
航路近くの無人島にボートで脱出する作戦を立て始めました。


その時です。
先ほど目の前で米国の船団を攻撃した日本海軍の潜水艦が
「インゴ」に追いつきました。



「インゴ」はまたしても艤装を済ませていました。
今度はどちらからも攻撃されにくい中立国の
スウェーデン船「クリスティーナ」に変えています。



ドイツ海軍の提督が、米船の捕虜を移乗させるついでに、

「スウェーデンの船長と会うのは初めてだ」

などと冗談を言いながら乗り込んできます。

ん?これやばくないか?



「インゴ」は捕虜15名を引き受けることになったわけですが、
ミュラー船長は、その中の一人の女性だけは、
男たちと一緒にできないとして、自分の船室に連れて行かせました。



それからおもむろにウェンデル提督に向かって、
「あなたたちが乗せた監視」(カイル)について嫌味を言うのですが、
提督たちはキョトンとしています。

「そんな人間を乗せた話は聞いてないぞ?」



そこで提督はカイルに次々と質問を浴びせますが、大抵の質問には
「極秘です」か、質問に質問で返すという技でケムに巻こうとします。

が、頭から疑っている提督は、実在しない軍人の名前を話題に出し、
カイルはそれに引っ掛かってしまいました。


ピンチのカイルを救ったのは、なんとミュラー船長でした。

自爆装置を作動させようとした時、それを止めたことをもって
ミュラーはカイルをこちらの味方だと信じていたのです。

「彼がいなかったら今頃ゴムは海の底でした」

そこですかさず、疑われたことは不愉快だから上に報告する、
と逆ギレしたふりして居丈高に反撃するカイル。

ミュラーはベルリンに無電を打って聞けばわかる話だ、と取りなし、
提督たちはとりあえず追求をやめましたが、これはつまり
ベルリンから返事が来れば全てがバレるということですよね。

カイル、ピーンチ。


さて、ミュラーは部屋でアメリカ船の捕虜、ユダヤ人の娘と話していました。

彼女の本名はその民族を表すレヴィですが、ミュラーは
この船ではその名前は隠しておくようにと伝えます。

そして、ボルドーに着いたら彼女の「書類は紛失する予定」だから
そうしたら運が良ければ身を隠すことができるだろう、と言います。

彼はユダヤ人に人種的偏見は持っていないと言いますが、
もしエスターが女性でなかったら、ここまで危険を冒すだろうか、
とここで誰もが思うでしょう。



当事者である彼女もそう思いました。
ミュラーに向かって、あなたは私と寝たいのか、とせせら笑います。

しかし、ロルフ・ミュラーは、真に高潔な人物だったのです。
そのことは、彼がエスターに向かっていう、

Young lady, even this kind of impudence will not stop me 
from treating you simply as another member of the human race.
(お嬢さん、この種の無礼を受けたとしても、だからと言って
私は君を同じ人間としてのみ扱うのを止めない)


という言葉が表しています。

その言葉に動かされた彼女は、レヴィという名前を航海の間だけ、
ゴダードという仮名にすることを了承しました。

ゴダードというと、本名マリオン・レヴィだったハリウッド女優、
ポーレット・ゴダードをアメリカ人なら誰もが思い出すでしょう。


ここで事件発生。

アメリカ人捕虜の手当てに医務室に行ったら、
船医は行方不明で、モルヒネを打ってラリっていたため(実は常習)
医療行為のできるのは、ユダヤ人のエスターしかいなくなりました。

しかもその時、船倉に押し込まれていた他のアメリカ人捕虜が彼女を妬み、
ユダヤ人であることをバラしてしまったので大騒ぎに。

早速クルーゼはミュラーに激しく食ってかかり、
ついでにミュラー船長の古傷である、以前の失策を詰るのでした。

「ナチス党員なら、船長なのに泥酔して船を沈めたりはしません!」



カイルがスパイであることがバレるのも時間の問題となりました。

かくなるうえは一刻も早く、アメリカ人捕虜を説得して
ドイツ人囚人グループとの合同で反乱を起こす準備を始めねばなりませんが、
ドイツ人である彼にアメリカ人捕虜の説得は難しすぎます。

そこで彼は隙を見てエスター・レヴィを物陰に引き込み、
彼女にアメリカ人捕虜の説得を頼むことにしました。



エスターは彼がなぜ連合国側のスパイとしてここにいるのかと尋ねました。



「 I was blackmailed to the strains of Mozart.」
(モーツァルトのついでに恐喝されたのさ)


トレヴァー・ハワード演じるイギリス諜報部員がやってきて、
モーツァルトの交響曲第40番ト短調が流れる中、
いうとおりにしなければゲシュタポに引き渡すと脅迫されたと。

しかしその後がまずかった。

「君はゲシュタポが何をするか知らないだろう」

この一言が彼女のトラウマに火をつけました。



彼女はゲシュタポ17人の見ている前で兄との行為を強要され、
それを断った兄を殺された上、彼らから何日にも亘る辱めを受けていました。

「あなたがモーツァルトを聞いていたとき、私の両親は
ガス室まで行進させられて殺されたのよ。
私がゲシュタポを知らないなんてよく言えるわね!」

だがちょっと待って欲しい。

この映画で私が違和感を感じるのは、そういう体験を持つ女性が、
男ばかりの商船に乗りこんで、医療活動を行なっていただけでなく、
ばっちりナチュラルメイクして、前髪は眉毛の位置で綺麗にカットした
サラサラのロングヘア(ヘアスタイルは60年代風)を結びもせずに靡かせ、
膝をむき出しにした薄いワンピース一枚でウロウロしているという設定です。

もしその種の体験から逃れた女性なら、いくら味方でも、
男性ばかりの船に乗る状況は受け付けないのでは・・・。


まあそれはこの際よろしい。よろしくないけど。

その夜の夕食の時、ドイツのラジオが各種栄誉賞受賞者を報じました。

その中に、ミュラーの息子、カール・ミュラー少尉が、
魚雷艇(トルピードボート)を指揮して英船「カラペス」を撃沈、
その他3ヶ月で5隻撃沈の戦功をあげ叙勲されるというニュースがありました。

喜びに顔を輝かせる父親のロルフ・ミュラー。
船員たちも口々にミュラー船長にお祝いを述べます。

他の区画からも次々に祝意を告げる船員が現れ、
調理長はお祝いのお酒まで持ってきました。



ところが、気を利かせたつもりで他の者が調べたところ、
「カラペス」とは、攻撃すると国際法違反の病院船だったのです。



ページを真っ先にめくったミュラーの顔色が変わりました。



船長室に飾ってあった(夫人の写真はない)息子の軍服姿の写真板を
叩き割った時、ミュラーは既にしたたかに酔っていました。

危ない。これは危ないぞー。



荒れる中年。

クルーゼはチャンスとばかり、ミュラーの指揮続行は不可能だから
この船の艦長に俺はなる!と独断で決めてしまいました。

そして早速被服係に3本だった制服の袖の線に1本追加させるのでした。



一方、エスターはアメリカ人捕虜に計画の協力を頼むため
彼らの閉じ込められている船倉に入ろうとしたところを見つかり、
カイルとクルーゼの前に引っ張ってこられました。

カイルは自分がそれを依頼したことをおくびにも出さず、平然と彼女を殴り、
そんなに船倉がいいなら連れて行け!と怒鳴りつけました。


無事に船倉に入ったエスターはアメリカ人捕虜に説得を始めました。

まず、工作員で火を起こし、甲板に飛び出して混乱に乗じて武器を奪い、
ドイツ側の「反乱組」(つまり囚人たち)9人と組んで戦うこと。

しかし、船の上の暴動は失敗すれば死刑だ、と誰かが言い出し、
決をとったところ、15人のうち10人が賛成、5人が反対。

しかも、揉めているうち、何人かの男が彼女に好色な興味を示し出しました。
男ばかり閉じ込められていた空間に若い女性が入ってきたことで、
平常なら理性とか自制心とかでそういうことを決してしなさそうな男も、
旅の恥は掻き捨て(ちょっと違う)的欲望をむき出しにしてきたのです。



その時彼女は、まるで表情のない顔をしたまま、協力してくれるなら
ここにいる15人全員で自分を好きにして構わない、と言い放ちました。

ゲシュタポであろうがアメリカ人であろうが、生身の男とは、
そのような状況になれば同じことをする醜い生き物であり、
ミュラー船長のような男は稀有な存在だと彼女は見限っています。

それにしても、彼女のこの「壊れっぷり」はなんなのでしょうか。
それだけ最初の出来事によって感情が麻痺してしまったのか・・・・。


しばらくして、カイルは船倉の隅に倒れているエスターを発見します。




彼女は一瞬張り付いたような笑いを見せますが、
その笑いはすぐに拭い去られ、能面のような表情が残されました。



酔い潰れていたミュラーは、正気になって、自分が船長室に閉じ込められ、
鍵も奪われて監禁状態であるのに気が付きます。



そのころクルーゼは、ベルリンからの返事を受け取り、
今度こそカイルが偽物であることを知りました。



さらに船内にも反乱分子がいて、ミルカライトがその一人だったことも。


銃を奪った囚人と船員の間に銃撃戦が行われますが、
彼らは船員によってすぐに制圧され、甲板に並べられました。



エスターの態度も異常です。

船倉から上がってくるなりクルーゼの首に抱きつき、振り払われて倒れ、
とろんとした目で起き上がったところをクルーゼに撃ち殺されてしまいます。



彼女が最後にクルーゼを同じ方法で懐柔できると思ったのか、
それとも既に精神に異常をきたしていたのかは謎のままです。

本当に彼女は生きたかったのでしょうか。
それとも最初から死のうと思っていたのでしょうか。


すぐにカイルとドンキーの捜索が始まるでしょう。
ドンキーは、カイルを庇うためクルーゼの前に進み出ていくのでした。

いつの間にいい奴になった、ドンキー。



カイルは、船を爆破することを決めました。

船を爆破すれば、アメリカの艦が物資を横取りすることもできず、
彼は任務を達成できなかったとして連合国の敵になります。

しかし、今の時点で船を爆破することはドイツの敵にもなるということです。

いずれにしても、彼が誰のための戦いをしようとしているのか、
誰にもわからないまま、物語は突き進んでいきます。

強いて言えば、もはや彼にとって忠誠を尽くす相手はどこにもなく、
ただ生き残るだけが目的の戦いといえるかもしれません。

この考察と「死に往く闘士の皇帝への敬礼」は、全く相反する意味となり、
わたしは今もこのタイトルの真意がどこにあるのかわからないままです。


クルーゼらと彼の壮絶な追いかけっこが始まりました。

普通なら掴まるのも無理そうな船の外壁を軽々と伝って移動し、
カイルはミッションインポッシブル並みの超人的身体能力を見せます。



そして、閉じ込められているミュラーの部屋に侵入し、
一人呆然と座っている彼に一緒に来いと誘いました。



しかし、ミュラーに私は反逆者ではない、と同行を拒否されます。
彼はどうやら船と運命を共にするつもりです。



カイルはそのまま船橋に駆け込み、爆破スイッチを押しました。
まだ全部不発処理しきれてなかったのが功を奏したのです。


クルーゼは、せっかく念願の船長になったというのに、
わずか数時間で総員退船を命じることになってしまいました。



航海士と調理長がミュラーにも退船を勧めますが、
ミュラーは船に残るといいガンとして動きません。



説得されて船を降りる前のクルーゼのその目には、涙が光っていました。



しかし、舫を伝っている時に爆発が起こり、
彼はロープに捕まったまま船殻で額を打ち、海に落下しました。


海面で転覆したボートに捕まっていたドンキーとその他囚人たちは、
「ミスター・クルーゼ!」と呼んで救いの手を差し出していますが、
他の者がボートを漕ぐので、クルーゼはなかなか近づけません。

力尽きて沈んでいくクルーゼをドンキーはほくそ笑みながら眺めています。


そしていつの間にか空は白んでいました。
なのになぜ船は沈んでいないのでしょうか。

それこそ船と運命を共にするつもりで
船長室で夜を明かしたミュラーは、ふらふらと立ち上がります。

しかも不思議なことに、部屋の外の床にカイルが転がっていました。
カイルってば、どうして脱出しなかったんですか?




船内を見回したミュラーは、船が今まで沈まなかった理由を知りました。



そして筏を作ろうとしていたカイルを呼びました。



沈まなかった理由は、穴に詰まったラードです。
ラードが固まって、とりあえず穴を塞ぎ、沈没を防いでいたのです。



「あとどれくらい浮いているんだ」

「2時間浮いていたけれど、後2時間か10時間か・・・わからない」




「ミスター・ミュラー、私のために無電を打ってくれと言ったら?」

ドイツ軍に助けられるということ、それは彼にとって
反逆者として処罰されることを意味します。



「君はあまり狡猾じゃないね、ミスターカイル。
でも、君の勇気は称賛するよ」

おそらく、彼が「私のために無電を」といったのは嘘でしょう。

当初からミュラーは船と運命を共にするつもりでしたし、
カイルを当局の手に渡すことになるのは明白なので、
こうでも言わなければ彼は決して打電しようとしないだろうからです。

つまり彼は、ロルフ・ミュラーという男の命を助けるつもりです。
それでは、自分は?


この後の二人の会話をできるだけ原語に忠実に書いておきます。



「勇気のあるのは君だよ、ミュラー。
自分の息子が無慈悲な狂信者になるのを目の当たりにしても、
カビ臭い祖国の教義を信じ続けるのは、本当に勇気のいることだ」




「私は君のほうが羨ましい。
それだけ信じられることがあればいいと思う」



「何も信じていないのになぜ船を爆破しようとした?」



「わからん」



彼が筏(らしきもの)に手をかけた時、
あの鳥の鳴き声がしました。



ドンキーの鳥です。

そして、同時にモールス信号が打電されているのが聞こえてきました。

”CQ CQ CQ DE SS INGO
CARGO SHIP OUT OF . . . "



本作の撮影の傑出したところは、ヘリコプターから撮影された
息を呑むほど効果的なロングショットなどにあります。

雰囲気のあるモノクロ映像は例えば機械室などのシーンでも完璧で、
特殊効果も古さを感じさせません。
1960年代に作られた白黒映画であることを考えると、
これは驚くべきことだと思います。

登場人物それぞれのキャラクターがリアルに描かれているので、
誰かを一つの形容詞で表現するのは難しくあります。
それが嫌われ者のクルーゼであっても。

これは、原作が小説であるからで、全ての登場人物について
複数の側面が描かれているせいです。

この映画のテーマは「義務と信念の間の葛藤」だと言えましょう。

カイルは、戦争は無益なものと考え、さらに祖国への忠誠心を持たず、
脅迫されて祖国を裏切りますし、ミュラーは、愛国的なドイツ人ですが、
ナチスそのものに対しては、何の共感も持たず、それゆえ
ユダヤ人のエスターを違法に逃すことをなんとも思っていません。

彼らはその意図において等しく「悪」なのです。


魅力的な両俳優が演じる二人の男たちは、
互いが思うよりも、はるかに多くの共通点を持っており、
このことが二人の間にぞくぞくするような対立を引き起こします。

評論家には、この奇妙なタイトルのせいで評価されませんでしたが、
真面目に?見た人からは、必ず高い賞賛を得る映画です。

ただ、わたし個人的には、「名誉と忠誠の帰属先」という問題を考えたとき、
彼らの祖国がナチス・ドイツであれば懐疑的でも仕方ない、という
戦後の価値観に全体が当たり前のように支配されているのは、ある意味、
あからさまな反ナチ映画より巧妙で悪質だなと思わないでもありません。


さて、ところで、この後クレインはどうなったのでしょう。
一人で筏に乗って「インゴ」から脱出したのでしょうか。


終わり。


映画「MORITURI」死に往く闘士の敬礼(前編)

2022-08-02 | 映画

英国諜報部に脅迫されて、偽のナチス党員になりすまし、
日本から出港するドイツ輸送船に乗り込んで
連合国に物資を奪わせる工作を行う男と、輸送船長。

そんな二人のドイツ人を主人公とする、アメリカ映画です。

船にはゴリゴリ党員の副長、護送される囚人船員、
撃沈された米船の捕虜たち(ユダヤ人の娘含む)が乗っており、
それぞれの人物とその事情が絡み合い、海の上でドラマが展開します。

世間的にはほぼ無名と言っていいこの戦争関連映画「MORITURI」は、
じっくり観れば観るほどにその真価が光ってくる、
喩えて言えば古道具屋の隅で埃をかぶっていた宝物のような映画でした。

最近当ブログが扱った戦争関係映画でも群を抜いて独創的。
そのスクリプトは適度に複雑で、そして全ての登場人物には、深みと
人間らしいリアリズムが与えられており、中でも演技が光るのは
マーロン・ブラントとユル・ブリンナーという超大物です。

どうしてこの映画が世間にあまり認知されていないのかが謎ですが、
思い当たる理由は、公開当時はベトナム戦争の最中だったということです。

戦争を扱っていながら、軍人が主人公というわけでもない、
軍艦での戦いが描かれるわけでもない地味〜な反戦映画は、
ジョン・ウェインの海兵隊映画が最高の売り上げを記録するご時世では
あまりにインパクトに欠けていたのかもしれません。

しかし、それから半世紀が経ったこんにち、両者を鑑賞してみると、
興行的な売上は、必ずしも作品の志とは比例しないという
当たり前のことにあらためて認識させられたわたしでした。



邦題は「モリツリ〜南太平洋爆破作戦」となっていますが、
後半は日本の配給会社の「良かれと思って」説明をタイトルに加えた結果、
原作の雰囲気を台無しにしているおなじみのお節介サブタイトルです。

ついでに言えば、ラテン語のMORITURIの発音は「モリトゥリ」が正確です。

MORITURIは「死ぬことについて」(about die)という
ラテン語の複数形で、「皇帝伝」を書いたローマ帝国時代の歴史家、
スエトニウスの用いたフレーズから取られた

「MORITURI TE SALUTANT」

からきており、全文は(画面にも表れます)次の通り。



Ave Imperator, morituri te salutant
(皇帝万歳、死のうとする者たちがあなたに敬礼します)


であり、この「皇帝」とはカエサルを意味しています。
この映画における「死に往く闘士」とは何を表しているのでしょうか。





舞台は1942年の日本から始まります。

往く人々の服装や、浴衣専門店の入り口に掲げられた国旗と店の旗とか、
そこここに見える旭日旗は紛れもなく実際の戦前の日本の映像です。


東京のドイツ大使館にメルセデスで乗り付けてきたのは、
クルーゼという特務船の航海士です。



航海士のクルーゼは、ドイツ海軍ウェンデル提督の命を受けて
日本からボルドーにゴムを輸送する特務船の乗り組みを命じられました。

しかし彼は、今度の航海では自分が特務艦の指揮を執れると信じていたのに、
ベテランのミュラー船長の補佐だったとわかり不満の意を隠しません。


そこにそのミュラー(ユル・ブリンナー)が乱入してきました。
こちらはこちらで今回の任務に大いに不満があります。

今回彼の輸送船にはドイツに送還して処刑する予定の殺人犯2名、
殺人未遂2名、窃盗犯、政治犯1名ずつが乗せられる予定でした。

ミュラーの不満は、本来収監しておくべき囚人を、あろうことか
「船員として」自分の船で使役しなければならなくなったことです。

船員として使い物にならないばかりか、処刑予定の囚人となれば、
海の上で何をやらかすか判ったものではありません。

そんなのミュラーでなくともまともな船長なら誰だってお断りです。

しかし、そんなミュラーに向かって、ウェンデル提督という偉い人は、
やんわりと、これは、船員の人手不足を補うことの他に、
当のミュラー船長への「懲罰任務」であると宣言しました。

ミュラーは腕利きでしたが、どうも酒癖が悪いのか、
前回の輸送任務で自分の指揮する船が魚雷を喰らった時、
運悪く酒を飲んで寝ていたことを当局に握られていました。

しかもウェンデル提督、ミュラーの息子が海軍士官であることを盾に、

「父親の今回の働きいかんで、息子さんの将来もどうなるかわからないよ」

と暗に脅迫してまで、今回の輸送任務を押し付けてきます。

海軍がそこまでしてミュラーにこの仕事をやらせたい理由は、
それだけ彼の腕を勝っているということなのでしょうけど。



さて、場面は変わってここはインド。



イギリス情報部のスタッター大佐も、一人のドイツ人を脅迫していました。
この老獪な大佐を演じるのはイギリスの名優、トレバー・ハワード

脅迫されているのは本作品主人公で、
クレイン(マーロン・ブラント)という爆破専門技師だった男です。

彼は兵役を逃れるため身分証を偽造し、全財産を持ってドイツを脱出後、
中立国スイス人のふりをしてインドにもう三年住んでいました。

イギリス情報部は当初から彼の身分を突き止めていたのですが、
ここぞというところで利用するため情報を温存していました。

そして、今回それをネタに、ある協力を要請(強要)してきたのです。

「断ってもいいが、それならゲシュタポに身分を密告されるのと、
イギリス上空で飛行機から突き落とされるのと、どちらかを選びたまえ」


それはどっちも嫌かも

イギリス側が今回彼の「利用」を思いついたのは、爆発物のプロである彼が、
ドイツの輸送船の自爆装置を止める技術を持っているからでした。

イギリスの思いついたその作戦とは。

1、ナチス党員に成り済ました彼がドイツの輸送船に潜り込む
2、船内の自爆装置を全て切断して無効化する
3、そこに連合軍が船を急襲!!!!
4、積荷である資源の生ゴムをまるっと頂く(゚д゚)ウマー

というものです。



そうと決まれば(クラインに選ぶ権利はないんですが)早速準備です。

とても日本とは思えない(香港映画で見た感じの)娼館の一室で、
クレインは、彼のために用意されたガジェット一式を渡されました。


妻と家族の写真、ドイツ紙幣、結婚指輪にベルリンのバーのマッチ、
日常生活についてのメモ各種、愛犬のダックスフントの写真(笑)
そしてナチス親衛隊幹部大佐の徽章まで。

「ザワークラウトは入ってないのか」

「あります」

家政婦の三田さんなら言うところですが、流石にそれはない。
しかし、クレインの皮肉はもう止まりません。

「ホルスト・ヴェッセルソングを歌えば完璧だな」
(日本語字幕は『ナチス党歌を歌うのか』になっている)

ホルスト・ヴェッセルというのは、ナチスのでっちあげた英雄で、
家賃の支払いをめぐって共産党員に射殺されただけの男ですが、
宣伝効果を狙って神格化され、中でも彼を讃えて作られた
「ホルスト・ヴェッセルの歌」は、その後ナチス党の党歌、
「畑を高く掲げよ」の元歌になっています。

この時、スタッター大佐は、クレインに作戦を具体的に指示しました。

クレインが爆破装置の解除を終了する。
その後太平洋の某地点でアメリカ海軍の船が
彼の乗り込む「インゴ」号を拿捕する予定であると。

そして彼には新しい仮の名前も与えられました。

作戦名の「カイル海域」から、「ハンス・カイル」。
身分はナチス党の大佐で極東地区保安機関勤務という設定です。


さて、ここは横須賀か横浜。
ドイツの輸送船、「インゴ」出発の日になりました。



噂の「囚人船員」たちも乗船を始めました。
流石は囚人というだけあって、態度が悪い。
中には口笛を吹きながら歩いている囚人もいます。

その様子を見ていたクレインは、冷酷な副船長のクルーゼが
目の前で囚人をいきなり殴りつけるのにドン引きします。

殴りつけられた男の怪我の心配をしたのは
囚人を乗せるのを嫌がっていたはずのミュラーでした。

クレインは、船長ミュラーが「まとも」な男であるのに早速気がつきます。



「インゴ」には途中まで日本海軍が護衛につくという設定なので、
所々に日本の海軍士官が登場します。



岸壁の鉄柱に、縦に倒された横書きで
「注意深い」とあるのがツッコミどころ。


ミュラー船長は、「カイル」=クレインに警戒感を露わにします。
ナチスから派遣されて自分の監視をする保安局の犬と思っているからです。

船長権限で船内の立ち入り区間を制限するとまで言い出すミュラーに、
クレインは内心慌てて、表向きやんわりと釘を刺します。

「私の地位と私の組織にもう少し敬意を払っていただきたい」

クレインは精一杯冷酷なナチス親衛隊員を演じようとしているようです。
行動範囲を制限されたら本来の仕事もやりにくくなっちゃうからね。


そしてカイルとなったクレインは、早速本来の仕事に取り掛かりました。

機関室で船内に仕掛けてある自爆装置を不発化していくシーンで
撮影に使われたのは、スコットランドの貨物船MVケープロドニーです。

自爆装置は船内にいくつかありますが、カイルはここで
二つの爆破装置を切断することに成功しました。


一生懸命お仕事していると、突然荷積係の政治犯、
不気味な「ドンキー」に声をかけられます。

彼は機関室でけたたましく鳴く鳥を飼っているという設定ですが、
囚人である彼がどうやって鳥を持ち込んだのか謎です。
まだ出航したばかりで鳥を餌付けする時間などなかったはずですが・・。

「政治犯か・・それなら冤罪じゃないのか」

「いや、冤罪じゃありませんよ」

ニヤリと笑うドンキー。
ドンキーは船員の俗語で荷積係のことですが、彼の名前になっています。



その後もチャンスを見つけてはこまめに仕事に励むカイル。
非常時想定訓練の間は、絶好の内職タイムです。

ミュラーには訓練に参加していなかったようだが、と怪しまれますが、
しれっと嘘をつき、うまく乗り切って誤魔化します。


情報収集も怠りません。
ドンキーから、さりげなく船倉への入り方を聞き出します。



しかしさすがは政治犯、ドンキーは何事かをカイルから感じ取りました。
そして、同胞にこんなことを言います。

「約束する。この船は港に着くまでに親衛隊野郎の死体を載せてる」

”I promise you: before this ship reaches port, 
there is going to be one dead SS bastard on it.”


しかしなかなかことは面倒で、このままでは効率が悪いとわかったため、
カイルはクルーゼの懐柔に取り掛かりました。

彼のミュラー船長への不満を利用して、同調し、煽てながら、
船内への立ち入りをもっと自由にできるように計らわせるのです。



歯の浮くようなお世辞に嫌らしい脅迫、褒美をちらつかせるやり方。
ほとほと自分のやっていることが嫌になったカイルは、
一人になると、力任せに飾り棚を叩き落して鬱憤晴らしせずにいられません。



その時、東京から敵艦隊接近中の知らせが入りました。
「インゴ」はペイントを消して英貨物船に偽装を行います。



しかし、カイルの爆弾不活性化は遅々として進んでいません。
こうなれば最後の手段です。

カイルはクルーゼに、

「自分の本当の任務は自爆用の爆発物を点検することだ」

と、(ある意味本当の)嘘を言い、
堂々と彼から爆弾の設置場所を聞き出すことにしました。

クルーゼはその言葉をまるっと信じ、爆弾設置場所ツァーを行います。

ここで、最初に案内された船倉の樽の中身を尋ねられたクルーゼが、
沖縄で積み込んだラードだ、と答えるシーンがあります。

このラードの会話、一度見ただけでは気にも止めず忘れていましたが、
2度目に見たら、ラストの伏線になっていました。

ラード。これ覚えておいてね。試験に出ますよ。

ツァーさせたまではよかったのですが、当然ながら
カイルが破壊済みの機関室の起爆装置も見つかってしまいます。

「絶対やったのはドンキーだ。船長に報告せねば」

というクルーゼをカイルは必死で引き止めるのですが、
もちろんそんな彼の態度はクルーゼに怪しまれます。

この辺りの駆け引きの会話が無茶苦茶スリリングです。

そして駆け引きの結果、カイルは、爆博物のスイッチは船長室にあり、
鍵はミュラーが持っていることを遂に突き止めました。



さて、ここは「インゴ」からさほど離れていない別の海域。

ドイツ軍提督を乗せた日本海軍の潜水艦が、
単独で航行していたアメリカの民間船を撃沈しました。

米船から脱出した乗員は潜水艦に救出されることになりました。
この映画は1942年という設定なので、
「ドイツ潜水艦はいかなることがあっても敵乗員を救出しない」
とする「ラコニア・オーダー」はまだ発令されていません。



甲板でドイツ軍の士官が、救出した米船の乗員の尋問を始めました。



オーストラリアに向かう途中だったというこの船には、
外科助手として乗っていたドイツ系の名前の女性がいました。
彼女はドイツ軍士官に、

「なぜドイツ人がアメリカ船に乗っている」

と聞かれると、自分はドイツ人ではない、と声を震わせて抗議します。

「私はドイツ人の敵です」



こちらイギリス船に偽装し終わった「インゴ」号。

「ベンソン」級駆逐艦の護衛がついた大船団に周りを囲まれてしまいました。
無電で誰何されると、ミュラー船長は大胆不敵にニヤリと笑って、

「イギリス船籍のストーンヘンジ号だと混線させながら答えろ」



ところがこの船内に、連合国軍の接近を喜んでいる連中がいました。
護送されているドイツの囚人たちです。
捕まえてくれたらハワイで捕虜になれる、と喜ぶ奴もいます。

そのとき、政治犯の「ドンキー」は、あの親衛隊員=カイルが、
自分が教えてやった入口から船倉にこっそり入っていくのを目撃しました。

ドンキーはほくそ笑んで後を追いかけます。



ラードの貯蔵室の爆破装置を開けようとしているカイルの後ろから、
ドンキー、いきなり肉用フックを振り上げて襲いかかりますが、
逆にやられ、日本語で「豚の油」と書かれた樽の中に倒れ込みます。

はて、このおっさん、何のためにカイルを襲ったんだろう。
親衛隊が嫌いだから?それだけの理由?



さて、そのカイルですが、彼も「インゴ」が拿捕されてほしいのです。
その意味では囚人たちと同じ願望を持っているわけですね。

ところが、駆逐艦は「インゴ」の偽装にすっかり騙されて
英船だと思いこみ、転舵して行ってしまいそうになります。

それを知った彼は、とっさに煙突の梯子に素早くよじのぼり、
そこにある非常装置で汽笛を鳴らしたのです。

爆破技師なのによく汽笛の非常装置の場所なんか知ってたな。



汽笛を聴きつけた駆逐艦は、船脚を止め、
「インゴ」に臨検のための停止を命じてきました。

これを聞いたミュラー船長は即座に停船、総員退船の命令を下しました。
つまり、輸送船を積荷ごと自爆して沈める決断をしたのです。



瞬時にして出された命令を受けて着々と進む乗員の退船。
カイルはこの展開の速さに、自分でタネを撒いておいて呆然としています。

しかし、ここで船を爆破されては彼の任務は失敗です。

スパイがバレてドイツ側には捕らえられ、処刑は間違いなし。
万が一生きて帰れたとしても、イギリス政府にも処罰される運命。


さあ、どうするハンス・カイル!

続く。




沿岸警備隊「マクレーン」が撃沈した呂32〜USS「シルバーサイズ」潜水艦博物館

2022-07-31 | 軍艦

ざっと駆け足で五大湖沿いの海軍施設巡りについて概要をお話ししました。
新しい住処での生活も落ち着いたので、さっそく詳しい解説に入ります。

事情があって、2番目に訪れたミシガン州マスキーゴンの
潜水艦「シルバーサイズ」に併設されていた博物館の展示から始めます。

■ 「シルバーサイズ」潜水艦博物館



USS「 シルバーサイズ」 サブマリンニュージアムは、
ミシガン州のマスキーゴンにあります。



マスキーゴンは赤い印の部分で、ミシガン湖の東岸となります。

博物館は2階建てのミュージアムビルと常設展示室、
そして岸壁にはガトー級潜水艦USS「シルバーサイズ」
その隣に禁酒法時代の沿岸警備隊のカッター、USCGC「マクレーン」
大きくこれらのの3つの施設から構成されています。



USS「シルバーサイズ」Silversides(SS-236)
は、第二次世界大戦時の「ガトー」級潜水艦です。

「シルバーサイズ」はアメリカの当時の潜水艦の命名機基準に倣った魚名で、
別名「スメルト」(smelt)、「ホワイトベイト」(whitebait)ともいい、
これは日本語だと「ワカサギ」となります。

等級の名前になっている「ガトー」gatoはトラザメの意味です。
トラザメ基準だとワカサギは体が小さすぎることから、
潜水艦の等級は魚の大きさ別というわけではないことがわかりました。

潜水艦「シルバーサイズ」は4回の哨戒活動で12の戦功を挙げ、
大統領単位勲章を授与されています。

その戦歴において23隻、90,080トンを沈めたとされ、これは、
現存するアメリカの潜水艦の中で最も多い記録とされています。

USS「シルバーサイズ」は内部と外部を全て公開されており、
砲から食堂に至るまで、見学箇所は「慎重に復元した」とのことです。

また、団体で予約すれば、キャンプで一泊することも可能です。
艦長や士官の個室はもちろん、魚雷横のバンクで寝る体験ができるわけです。
(ということはトイレやシャワーも使えるようになってるんだろうか)

ちなみにHPでは(一体どういう効果を狙っているのかわかりませんが)
ライブカメラで四六時中潜水艦の映像が流れています。

「シルバーサイズ」ライブカメラ

5分ほど流しっぱなしにしていると自動的にストップします。

このページの下の方を見ていただくと、通過する船の現在状況がわかる
「チャンネル・シッピング・マップ」も見られます。



わたしがこれを見て初めて気がついたのは、マスキーゴンというところが、
「ミシガン湖沿岸の(さらに)内陸のマスキーゴン湖」沿いにあり、



この博物館はその二つを繋ぐ運河沿いにあったということでした。

うーん、アメリカってやっぱり広い。

■潜水艦「ドラム」艦橋


それでは博物館の前庭部分の展示から順にご紹介していきましょう。
USS「ドラム」の艦橋部分だけが展示されています。

USSドラムDrum (SS-228) 

はアメリカ海軍のガトー級12番艦ですが、最初に完成し、
第二次世界大戦で最初に戦闘に参加したため、
「ガトー級の実質1番艦」であり、現存する同級の中では最も古い艦です。

ただ、ちょっと不思議なことに、「ドラム」の本体は
1969年から戦艦アラバマ記念公園に展示されているはずなのです。

現地は2005年のハリケーン・カトリーナで被害を受けたものの、
その後ベテランのコミュニティなどの寄附によって修復されたとか。

その艦橋だけここにある理由がなんなのか、それは分かりませんでした。



沿岸警備隊カッター、USCGC「マクレーン」



冒頭写真は、沿岸警備隊のカッター「マクレーン」です。

実はこの内部も公開されていたのですが、我々は
潜水艦と博物館を隈なく見た後、気力が尽きてしまっていて、
「マクレーン」に乗艦することなく次の場所に移動してしまいました。



現地にある説明を後から読んで、わたしは、しまった、見ておけばよかった、
と後悔したのですが、もちろんそれは先に立たず。

残念ですがこれはもう仕方がありません。

それではその現地の看板の説明です。

US Coast Guard Cutter
McLane W-146

アメリカ合衆国沿岸警備隊のカッター、「マクレーン」へようこそ!

この船は1927年4月8日ニュージャージー州カムデンで就役しました。
「マクレーン」は当初、禁酒令を施行するために建造されましたが、
第二次世界大戦が始まると、アラスカ沖チャタム海峡の警備に就きました。

現役当時の「マクレーン」

1942年7月9日、海軍の哨戒艇を伴って航行しているとき、
「マクレーンは」日本海軍の潜水艦呂32を撃沈しています。

ここを読んで、わたしは乗船をパスしたのを後悔したわけですが、
調べてみると、現地の看板に書いてある情報は、正確ではなさそうです。

この撃沈時の状況が、別のサイトで詳しく述べられています。



1942年6月7日、アラスカとブリティッシュ・コロンビア間で哨戒中、
日本海軍の潜水艦が目撃されたとの報告を受けた「マクレーン」は、
その海域での継続的な捜索を開始しました。

1ヶ月後の7月8日、「マクレーン」はカナダ空軍の哨戒機が、
潜水艦を爆撃し損傷させたという報告を受けます。

そこで、海軍哨戒艦USS YP-251、カナダ海軍掃海艦HMCS「Quatsino」
とともに本格的な潜水艦の探索を開始しました。
「マクレーン」の報告が詳しく残されているので箇条書きにしていきます。

0800 潜水艦の音信を得たが、その後失う

水深91mにセットした深度爆薬は不発

「潜水艦がジグザグに走り、回避しようとした」

1540 音信を探知

1553 46mと76mにセットした2つの深爆を投下

1556 61mと91mにセットした2つの深爆を追加

「泡が表面に上がってきた」と報告

1735 潜水艦が発射したらしい魚雷が「マクレーン」の前方を通過

YP-251、潜望鏡を視認 その地点に深爆を投下

「マクレーン」続けて2つの深爆を投下

両艦は油膜が浮上したことを確認

1935 YP-251は潜望鏡を視認、深爆を投下

「マクレーン」は2つの爆雷を投下

油と泡とロックウール(潜水艦の消音に使用)らしきものが浮上したと報告

7月10日早朝まで早朝まで潜水艦の痕跡がないか捜索を続けたが、
何も発見できなかった

潜水艦を撃沈したという確たる証拠は得られなかったと、
こういうわけですね。

にも関わらず「マクレーン」、YP-251、哨戒機の指揮官たちは
潜水艦を撃沈した功績でレジオン・オブ・メリットを受賞し、
陸海軍合同評価委員会は、潜水艦を日本の潜水艦呂32と特定したのでした。

ところが、です。

日本側の記録によると、呂号32はその時期そこにはいませんでした。

♩そこに〜わたしは〜いません〜沈んでなんか〜いません〜〜♪

いられるわけがありません。
なぜなら呂32は1942年の4月1日付で(この日付がいかにも日本ですね)
退役しているのです。

彼らが呂号潜水艦らしき敵と格闘したのは、
本物の呂32が退役してから3ヶ月も後のことになります。

まあ、敵の軍艦について何も分からないのは戦時中のあるあるですが、
1967年になって、戦闘記録と呂号の情報「を照合したアメリカ海軍は、
「マクレーン」が撃沈したのは、呂32ではなかったことを知りました。


というわけで、1942年7月9日に沈没したとされる潜水艦の身元は
いまだに未確定のままになっています。

これって、日本の潜水艦だったかどうかもわかっていないってことですね。
まさかとは思うけど実は敵ではなかったとか・・いや何でもない。



現地の解説の続きです。

さらに、「マクレーン」は、1943年、アラスカへの航行中に、
墜落したロッキードエレクトラ10B航空機の乗員二人を救助しました。



「マクレーン」は1960年代にはカリフォルニア州アラメダ、
そしてテキサス州ブラウンズビルでも勤務を行なっています。

1970年代にはシカゴ地域に移動して、沿岸警備隊カデット隊の
若い隊員のトレーニングプログラムに使用されていましたが、
それを最後に、1993年、シルバーサイズ潜水艦博物館に買収されました。



というわけで、これが現地にあった看板の説明となりますが、
「マクレーン」が撃沈したのが呂32でないことが明らかになって、
もう半世紀は有に経過しているのだから、
いくら何でもこの情報は書き換えておくべきだと思うんだな。

というか、「マクレーン」が撃沈したと思ったのが呂32でなかったどころか、
実は逃げられていたっていう可能性はないですか?

油膜だって防音材だって、映画でよくあるあの話みたいに、
「潜水艦死んだフリ作戦」で放出してたかもしれないじゃないの。

それに、潜水艦が沈没した痕跡は結局何も見つからなかったんでしょう?


なんて疑うのは、ここアメリカではベテラン様に対して失礼!
ってことになってしまうのでタブーなんでしょうか。



■ 触雷沈没した潜水艦「フライアー」


さて、その次は本当に沈んだ潜水艦についてです。

博物館に入館すると窓口がこの展示の右側にあり、
入館料は大人は17ドル50、支払うと手首にバンドを巻いてくれます。
ここでも売り場の人に、「あなたはミリタリー関係者か」と聞かれました。

現役の軍人なら入場料が無料になるからですが、
どこにも「アメリカ軍」という規定が書かれていないので、
もし自衛官だったら、タダで見学できるのだろうと思います。

自衛官の方、こんな機会があればぜひお試しください。
おそらくベテランでも何らかの割引があると思います。



入り口にあったこの稲妻と潜水艦の艦首の描かれたバナー。
大変ドラマチックですが、何が書かれているかというと。

1944年8月13日日曜日の午後10時近く、曇天の暗い空。
西に稲妻が点滅しました。

USS「フライアー」は、フィリピンのバラバク海峡に向かって
南南西に17ノットの速度で航行しています。

潜水艦は目立たないように静かに航走を行います。
暖かく、穏やかなうねりがデッキ全体を洗い流していきます。

9人の乗員がスピードを上げる潜水艦のブリッジと見張り台に立っています。

彼らが目標とするのは、南シナ海における日本の護送船団です。
海面を航走しながら「フライアー」は「絶好調」でした。
(makes good time.)

夜間でも発見されるリスクはあるので、さらなる見張りが
敵の哨戒に備えて海と空をどちらも警戒するのです。

ここで終わりです。
「フライアー」がこの後どうなったのか、
輸送船団を沈めることができたのかについては書かれていません。

これだけ見た人にはこの後の「フライアー」の運命はわかりませんが、
実は「フライアー」は、2回目の哨戒でバラバク海峡を浮上して航行中、
つまりこの後、

日本軍の機雷に触雷して2〜30秒ほどで沈没しているのです。


在りし日の「フライアー」

艦橋で見張りを行っていたジョン・クローリー艦長を含む数名は、
触雷の衝撃で艦体から海中に放り出されました。
また、別の資料によるとこのように書かれています。

「艦長はブリッジの後部に投げ出されたが、しばらくして正気を取り戻した。
油と水と瓦礫がブリッジに溢れかえっている。

燃料の強烈な臭いがし、コニングタワーのハッチから
ものすごい勢いで空気が抜け、下からは浸水音と男たちの悲鳴が聞こえた。」


USS「レッドフィン」(SS-272)に収容された生存者8名のうち7名
後列真ん中がおそらくクローリー艦長

燃料油の臭いが立ち込める暗闇の海で立ち泳ぎをしながら、
艦長は点呼を取り生存者を集めました。
その結果、艦橋にいたクローリー艦長以下14名が生き残り、
その他72名の士官と兵員は、艦と運命を共にしたことがわかりました。

沈没地点は陸地からわずか3マイルでしたが、空が暗く曇っていたため、
艦長は明るくなるまでその場で立ち泳ぎをすることを命令しました。


「この間、ケイシー中尉は油で目が見えなくなり、目が見えなくなっていた。
4時頃、彼は疲れ果て、他の隊員は彼のもとを去らざるを得なくなった。
クローリー中佐は、最速で泳ぐことが唯一の希望であることを悟り、
全員に対して、見えてきた陸地に向かって最善を尽くすように指示した。
マデオは遅れをとり始め、5時過ぎには見えなくなった。」


その後何人かが脱落していき、海岸にたどり着いたのは艦長以下8名でした。

その後、生存者たちは、たどり着いた島での壮絶なサバイバルの末、
現地にいたフィリピン人ゲリラと接触し、なんとか生還を果たしました。

「フライアー」が触雷したのは、日本の伊123
1941年12月7日、つまり開戦の日に敷設したものでした。

その後、アメリカ海軍内で、これに触雷した責任問題をめぐって
諮問委員会で送り込まれた上層部の間に対立が引き起こされ、
ちょっとした内輪揉めの騒動になったという後日譚が残されています。
(でも割としょうもない話なので割愛します)


海底の「フライアー」

2009年2月1日、「フライアー」は北緯7度58分43.21秒、
東経117度15分23.79秒の地点に眠っていることが確認されました。

この調査はフライアーの生存者が残した情報に基づいて行われ、
Naval History and Heritage Command の調査の結果、
この潜水艦の身元が特定されるに至ったものです。

水中で撮影された映像によれば、艦体の位置は海深100m地点。
砲架とレーダーアンテナからガトー級であることが確認されました。



その隣にあるのが、USS「レッドフィン」の時鐘です。

潜水艦「レッドフィン」は第二次世界大戦中、第4回目の哨戒で、
特別任務として「フライアー」の生存者の収容を命じられました。

「レッドフィン」による生存者救出作戦は慎重に行われました。

敵の目に止まらないように、まず無線でクローリー少佐らと連絡を取り、
予定日に会合予定地点で浮上して、そこに停泊していた
200トン級海上トラックを砲撃で撃破してから人員収容を行っています。

その後「レッドフィン」は現地のフィリピン人ゲリラに対し、
「フライアー」生存者を保護してくれたお礼として、食物、潤滑油、
医療用品、携帯兵器、弾薬および予備の靴、衣料を与えたということです。

その後オーストラリアのダーウィンに到着して
「フライアー」乗員を上陸させたあと、本来の任務の哨戒を再開しました。



続く。





ピッツバーグ・グルメ〜怒涛の悪評価ジャパニーズレストラン

2022-07-29 | 歴史

ピッツバーグに到着してからあっという間に二週間が経ちました。
Airbnbの部屋を住みやすくするための立ち上げもすみ、
唯一の心配だった、ガレージがないという問題についても、
駐車禁止の時間と場所を把握することによって、路上駐車に慣れてきました。

さて、今日は到着以来ここピッツバーグで訪れたレストランの中から、
アジア系と日本料理をご紹介しようと思います。


バッファローからピッツバーグに到着した夜は、
前回ピッツバーグで最後の夜に行って感激した高級タイ料理、
「プサディーズ・ガーデン」でMKとの再会を祝いました。


ここのタイカレーはいつ食べても感動的に美味です。
そしてこのパパイヤとスティッキーライスのココナッツ和えは最高。


去年はCOVID19のせいでオープンしていなかったお店です。
カジュアルなベトナム料理の「ツーシスターズ」。

お店の名前通り、二人の姉妹が経営しているレストランで、
オーナーらしい姉妹はキッチンでなくフロアとレジで頑張っています。

今回行ってみると、お店は大変繁盛しているように見えましたが、
壁には「人手不足でサービスが十分にできずすみません」
みたいなことを書いた張り紙があり、実際にもオーナー姉妹が
一人で運んで片付けてレジもしてオーダーも取るとキリキリ舞いしていました。


そんな中でも以前から品質を落とすことなく、
美味しいベトナム料理が提供されていたのは嬉しいことです。

前菜がわりにまず生春巻きをひとつ。



ここでは3人が3人ともいつも同じものを注文します。
それがこのチキンフォー。
自由にトッピングする野菜もたっぷりで、見かけより量が多く、
わたしなど全部食べ切ることができないほどです。

味は少し物足りないかなくらいのあっさりで、
その透明なスープもその気になれば全部完飲できるレベル。

コストパフォーマンスの点でも高評価を差し上げたい良店です。


今住んでいる通り沿いにあるジャパニーズレストラン「UMAMI」。

「旨味」という日本語がアメリカで市民権を得たのは、
ネットの発達によるところが大きいのではないかと思います。

西海岸、シリコンバレーに「UMAMIバーガー」が登場し、
その言葉選びに驚いたのが4〜5年前だったでしょうか。

わたしたちがアメリカに住んでいた頃には、日本食を謳うストランでも、
出汁を取っていない(つまりお湯に味噌を溶かしただけの)味噌汁を
平気で出してくることがあり、もしかしたら日本人以外には
昆布だしの旨味は味として認知されていないのか?と思ったものですが、
今では、たとえ日本人など見たことがないような地域の人でも、
ネットで本物の日本食の調理について簡単に知ることができます。

まあ問題はいくら知識があっても味わうことはできない、つまり
本物の味を知ることができないという点については
ネット以前と何も変わっていないということですが。

「UMAMI」という店の名前から受ける印象は悪くありません。
なまじ日本人がやっているというだけで、別に美味しくもない日本食を
これぞ本物、とばかりに海外で広めている微妙な店よりは、
ずっと日本の食について理解が深そうな予感を抱かせます。

そんな「UMAMI」については、MKがすでに友人と行った事があり、
評価については「まあまあ」という事だったので、
特に大きな期待もせず軽い気持ちで一度食べに行ってみました。



お水のグラスがパンダなのはいかがなものかと少し思いますが、
枝豆にはちゃんと塩が振ってあるし、味噌汁も出汁は取れています。
具も豆腐にわかめにネギと実にオーソドックス。


鉄火丼。
悲しいのは、ちゃんと紫蘇を使ってくれているのはいいとして、
それがほとんど黄色い色をしていた(つまり枯れかけ)ていたことです。

それから、アメリカのきゅうりは日本のと種が違うため、
日本の胡瓜の1.5倍太く、胴体にくびれもイボイボも全くありません。


これはわたしが頼んだ海鮮丼。
問題のシソは刻まれていて、生のうずら卵、トビコがあしらわれています。
ご飯はちゃんとすし飯の味がしました。

これ以外に、ここではお好み焼きも食べる事ができ、
MKいわく「まあまあ」ということです。

アメリカ人にも美味しく手頃なジャパニーズと認識されているようで、
この二日後、MKが友達と夕ご飯に行ったらまたここになったそうです。


日本料理、特に寿司レストランは、アメリカ人には少し高級で、
たとえばデートに選ぶ店みたいな位置づけの店が多い気がします。

値段が高いのは、生魚を扱うことから仕方がない部分がありますが、
いわゆるインチキジャパニーズの経営者は、
高い値段を取るためにろくに寿司のことを知らないで、
聞き齧り、見かじりの偽寿司を提供しているところがほとんどです。

もちろん前述のように日本人が経営しているからといって
必ず美味しいとは限りません。
日本にある店が全て美味しいわけでないのと同じです。

しかし今回遭遇したジャパニーズレストランほど、値段だけは一流で
中身はとてもじゃないけど日本からは味も中身も、程遠い、
残念なレストランはありません。

しかし、ブログのネタとしてはもう最高の逸材だったので、
早速ここで、ネットの低評価(太字)と共にご紹介していきます。ネタだけに。


昨年の夏に行った、SOBAというレストランに併設されているUMI。
UMIはピッツバーグでも数少ない高級和食の店と自称しています。

SOBAは決して悪くなかった(特に良くもなかったけど)ので、
高いのは分かっていましたが、家族で一度は行ってみようとなり、
MKになかなか予約が取れない中取ってもらい、出撃しました。

このレストランに入るのはとても難しい。
いつも予約でいっぱいで、一流レストランのような錯覚を覚えるからだ。
しかし、金曜日の夜、私たちがいた2時間の間、
多くの空きテーブルがあり、決して忙しいわけではありませんでした!!
要約すると、この経験はすべて気取った見せかけのように感じられました。


この人は「忙しく見せかけて高級なふりをしている」としていますが、
わたしが実際に行ってみたところ、要するにテーブルはあっても、
作る人がいないのだと思われました。

延々と続く階段を三階まで上っていくと、ドアを開けた途端、そこに
寿司カウンター(決して誰も座らない)が出現します。

あれっと思ったのは、そこにいた職人からなんの挨拶もないことでした。
見かけだけは日本人風のアジア系職人は、日本語が喋れないらしく、
「イラッシャイマセ」(ニューヨークの一風堂では金髪の店員にも言わせる)
どころか、助手らしい黒人女性と無言でこちらを眺めるのみ。

実はわたしはこの時点でかなり失望していました。



写真の右手は掘り炬燵風のテーブルですが、土足で利用します。
「掘り」の部分の掃除はどうしているんだろうとか、
土足で出入りするその座る部分はつまり地面に座っていることになるのでは、
とか、掘り炬燵ゾーンにサービスする従業員は、日本仕草のつもりか、
床に指や膝をついているけど、ここは(略)とか、色々と考えさせられました。

「書」のつもりで壁に貼られた「花鳥風月」は、日本なら
小学生高学年の部なら学校で優等賞をもらえる程度のレベルの達筆です。
っていうか、額にするのに、こんな練習用の半紙選ばないっつの。

心あるアメリカ人もこんなことをおっしゃっておられる。

私たちは日本のミニマリズムが大好きなのですが、
このスペースは完全に的外れで、アップデートが必要です。
照明が貧弱で、頭上のスポットライトは何も強調していません。



照明が当たっていないしょぼい滝、
(画面の右側にある水が流れる石段のようなもののこと)



効果のない照明に紛れてしまっている二つの壁画、



テーブルはあまり目立たない蛍光灯のある勝手口を向いていて、
(わたしが座ったのはまさにその席)
拭いたばかりでびしょびしょに濡れたテーブルに座らされたため、
さらにずさんな第一印象になりました。


日本のミニマリズムが好きな人にとってはインチキ以外の何物でもない、
これは確かにその通りですが、まあ日本人に言わせると、
この程度のインチキさはまだ許容範囲というものでしょう。

ここが料金の高い高級レストランを謳っていなければの話ですが。

ウェイトレスはなぜか全員がアフリカ系の女性でした。
カウンター内の助手もアフリカ系でしたが、ここは西海岸と違って
日本人風味のアジア系のウェイトレスは調達しにくいのかもしれません。

しかし、彼女のサービスはフレンドリーで丁寧で、
説明もちゃんとしており、悪いものではありませんでした。

問題は料理の内容そのものです。
って、レストランでこれに問題があればその時点でもうダメなんですが。

ここはピッツバーグで最高の日本食レストランとして宣伝されています。
しかし、先週の金曜日の夜、私たちの体験はひどいものでした。

料理は最悪で、満足感がなく、値段も高く、せいぜい平均的なものでした!!!

このレストランはおまかせの7コースか11コースしかなく、
ニューヨークのNobuより高いし、とてもがっかりしました。


ふざけたことに、ここは夕食しかやっておらず、
しかもチョイスできるのは「OMAKASE」のみ。
オーダーを聞いてその都度一皿作る、ということをできる料理人が
おそらくはいないのだと後からわたしは確信しました。

この人が言っている「7コース」「11コース」は皿数のことです。



こんなこともあろうかと、わたしはいつになく熱心に
皿の写真を全部撮ってきました。
写真がどう加工しても暗いのは、店内の異様な暗さのせいです。

これがその一皿目なのですが、まず、上に載っているものはともかく、
それが白くて丸い洋皿に乗ってきたのに猛烈な違和感を覚えました。

高級日本料理を自称するなら、器にもう少し気を使わないか?
こんな皿で出された日には、海原雄山でなくとも味見前にブチギレ確実だ。

皿の上は、なんか忘れましたが魚の身をツミレにしたものに、
甘いソースがかかっているもので、特に感銘も受けず。

いや、でも、最初の一皿くらいはね?前菜だし。



ところが2皿目、魚の切り身に同じようなソースをかけたものが
全く同じお皿で出てきて、あれっと思いました。

ま、まあ、これもまだ前菜ということなのかも。

写真は拡大していますが、切り身の大きさは寿司に乗っているのと同じくらい。



三皿目、今度はサワラの味噌焼き的なものが出てきましたが、
これにかかっているソースもほとんど同じもの。

ここで嫌な予感が萌してきました。

まさかとは思うけど、ずっとこんな感じなの?
お皿も白い丸皿のままだし・・・。

さて、この辺でアメリカ人の意見を聞いてみましょう。

「7品とも魚が同じに見えました。
真っ白な皿に紙のように薄い切り身、野菜は一つもありません。
海草のサラダ、緑の野菜のスチーム、野菜の天ぷらはどうでしょうか?」

客にメニューの提案をされてるし。

「シェフはベストを尽くしていますが、味はお互いを引き立たせておらず、
すべてのソースは嫌な甘さです。

11品のコースのうち7品が2ピースの小さな刺身でしたが、
どれも同じような味で、独自性、味、創造性が欠けています」


全くその通り。
日本料理に砂糖を使うという噂を間に受けて、
どのソースにも甘みをつけてしまったって感じです。

わたしたちは行く前に次の中国系らしい人の感想を読んでいたのですが、
店を出てから、その人の意見に100%賛同していました。

「11品のおまかせコースが進むにつれ、
失望という言葉では言い表せないような感覚に陥りました。


コースのほとんどが魚の薄切りで
甘すぎる醤油ソースは魚の味を消してしまっている」

提供されたわさびは本物の生わさびではない。
本物のわさびは、まろやかな味とほのかな甘みがあるが、
偽物のわさびは非常に強く、甘みはない。
135ドルのおまかせコース(11品コース)で、
新鮮な食材を提供すると言っているのに、これは全く納得がいかない」

「ウニもない」

全くその通り。もはやこの意見はわたしのものではないかみたいな。
わたしたちは後からこう言い合いました。

「あの中国人の意見そのまんまだったね」

「きっとあの人は孔子様の生まれ変わりだったに違いないだ」

そしてこの「孔子の生まれ変わり」の意見のうちで、
一番参考になったのがこの情報でした。

「白マグロ(エスカラール)が出てきた。
油分が多く、たくさん食べると下痢になるため、日本では違法な魚である」



英語ではホワイトツナなので、なんの問題もなさそうですが、
日本語の「アブラソコムツ」のことです。

アブラソコムツの恐怖

日本では幼稚園での集団食中毒?が起きたこともあり、
法律的に売ってはいけない魚として指定されているものが、堂々と。

脂が多いため、危険とされているこのアブラソコムツですが、
毒というわけではないので大量に食べなければ大丈夫。

というわけで、アメリカでは禁じられていません。
しかし、ロスアンゼルスの多数の韓国系寿司屋でこれを偽装して出し、
弁護士事務所から巨額の賠償を請求されたという事件もあったそうです。

孔子様のおっしゃった通り、前菜の最後にこれが出てきたので、
わたしは一切れだけ食べてパスしました。

問題は、この「外道魚」を出す店がいやしくも一流店を気取っていることです。

あーだんだん腹たってきた。

そして、6皿目までがこの白い洋皿の連続だったことで、
呆れ返ったわたしたちは、

「まさかこのまま最後まで行かないよね」

「最後にお寿司が出るよね」

「大丈夫、カウンターでおじさんがお寿司作ってるのが見える」

「11品コースだけ寿司が出ますだったらどうする?」

「もうその時にはテーブルひっくり返して帰る」

とヒソヒソ言い合っていました。


そして初めて白い丸皿以外で出てきた最後の希望、いや最後の一皿。
寿司の上にトマトのトッピング(笑)

寿司の大きさだけは一流っぽく小さくまとまっていましたが、
これは単に材料をケチるための握り方でしょう。

すし飯はいつ炊いたのか冷たくて硬く、粒が感じられる舌触りで、
日本では決してやらないトッピングは、味を誤魔化すため。

「トッピングに溺れ、魚の味をほとんど感じることができませんでした。
魚の寿司でないことを事前に言ってほしかった」


しかもサーモンの握りにはクリームチーズが。

「この夜一番がっかりしたのは、クリームチーズ入りサーモンの握りだろう。
立派な「おまかせ」料理でありながら

クリームチーズの入った握りを出したところは初めて見た気がします」

「握りにクリームチーズ?がっかりです :( 」

それより何より、お高いコースなのにたったこれだけで終了!というのに、
わたしたちはもうほぼ茫然としてしまいました。

おそらく出された全品は全部かき集めても一皿に軽く乗るくらいしかなく、
最後の寿司以外は全部白い丸皿に乗ったカルパッチョ的前菜。

まさにふざけんなでございます。



かろうじてマシだったのはこの偽寿司風デザートでした。
巻き寿司のようなピスタチオをかけたチョコファッジ、
醤油のようなチョコソース、そしてワサビのようなクリーム、
ガリそっくりのマスクメロンの薄切り。

これはアイデアとして面白いし、楽しい話題にもなります。


このコースが一人100ドルでなければ、もう少し寛容になれたでしょうけど。

それでは最後に、この店に対するアメリカ人たちの罵詈雑言をどうぞ。

「シェフは、美味しくない魚や料理の失敗作でこの値段を取る前に、
ロサンゼルスやニューヨーク、デンバーなどの
素晴らしい日本食レストランを経験するべきだ」

「ピッツバーグには選べる日本食レストランが限られているので、
非常に高価で質の悪い寿司と日本食しか知らない客は
こんなところでも満足してしまうのでしょう」

「しかし、本当にがっかりしたのはその量です。
3コースとデザートをいただきましたが、お腹が空いたまま帰りました。
夕食後、そのままブリトーを食べに行きました。
前菜が全部で2オンスの生魚で構成されていたので笑ってしまった」

「お金を貯めて、もっといいところで本物の寿司を食べましょう」

「Gi-jinの方が断然価値があるし、美味しいです」


最後の「GI-JIN」とは、ピッツバーグのもう一つの有名高級寿司店です。

この意見は、孔子の生まれ変わりさんのものだったので、
わたしたちはピッツバーグを去る前に、この店(Gi-jinは漢字で外人と書く。
日本人にとっての外人がやっている寿司屋であると標榜しているらしい)
に予約を入れ、行ってみることにしました。

美味しくてもそうでなくても、またとんでもなら尚のこと、
ここで紹介するネタとなってくれることを祈りつつ。