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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

孤独と無力から自由へ

2022-10-18 20:37:41 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)neo

◎あらゆる幽霊を凝視せよ

 

ある人は水子霊だと云い、ある人は狐だといい、ある人は○代前に亡くなった先祖の霊だと言い、ある人は邪悪なバイブレーションだと言い、ある人は単なる曇ったエネルギーのまとまったものだと言う。

 

こうしたものの正体の見分け方を、メキシコのヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファン・マトゥスが説明する。

 

『これからは不思議な亡霊の姿を前にしたら、気持ちをしっかり保って、断固たる態度で凝視するがよい。相手が非有機的存在であれば、それに対するお前の解釈は枯れ葉のように舞い落ちるだろう。もう何も起こらなければ、それはお前の臆病な心が生んだくだらん幻影にすぎん。そもそもそれはお前の心ですらないのだ。』

(無限の本質/カルロス・カスタネダ/二見書房から引用)

 

非有機的存在とは、霊的存在や、アストラル的生物のこと。

 

実際にカルロス・カスタネダが、自分のことを盟友であると自称する二人の非有機的存在を見つめて見た。

『私は容貌を記憶しようとふたりをまじまじと見つめたが、彼らの容貌は刻々と変化した。見つめる私の気分によって変貌するようだった。

 

そこには思考はいっさい介在していなかった。何もかもが本能的感覚によって導かれていた。長々と見つめるうちに、彼らの容貌が完全にぬぐい去られて、ついに私の前にあるのは、二つの震動する輝く塊だけになった。

 

それら輝く塊には境界がなかった。内部に凝集力があって自らを維持しているように見えた。ときどき平べったくなったと思うと、また垂直方向に伸びて、人間の身長の高さになる。』

(無限の本質/カルロス・カスタネダ/二見書房から引用)

 

ドン・ファン・マトゥスは、あらゆるものには、減ずることのできない残留物があり、それがエネルギーだとする。そしてカスタネダは、このセッションで、非有機的存在、霊をその本質へ変容させ、自意識を持つ非人格的エネルギーへと変えることに成功し、その本来の姿を見た。

 

ドン・ファン・マトゥスはまた、単なる自分の心理的な思いこみがそんなイメージを作りだしそれを現実の生き物と認識するケースと、他人であるアストラル的生物に出会うケースがあるが、アストラル的生物のエネルギーを直接見ることが人間、つまり呪師であるクンダリーニ・ヨーギにとっては、最重要事項であると評価する。

 

クンダリーニ・ヨーギは、「意識の暗い海」と呼ぶ死の世界で様々なエネルギー体と出会うが、カスタネダの見えた状態が通俗的霊能力者の卒業というべきものなのだと思う。

 

ドン・ファン・マトゥスによれば、この世には600種類以上の世界があり、それぞれの世界と世界への間を移動する場合は時間が非連続となる。これが三千世界の実情なのだろう。

 

慣れていない世界で旅をするのは、孤独と無力感に襲われがちなもので、人の自惚れなど木っ端みじんに打ち砕かれる。我々も病的なほど自己中心的だし、霊なるアストラル的生物も病的なほど自己中心的だからだ。

 

そうした冷厳な世界の中で、戦士であるクンダリーニ・ヨーギは、絶望に陥ったり、発狂したりせずに、勇敢さ、力強さ、謹厳さを失わずに戦い続けられるのは、自分が「無限」(神、宇宙意識、イーグル)とつながっていることを充分に知っているからなのだと思う。

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霊がかりをやめよう

2022-10-18 20:34:24 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)neo

◎気まぐれな隣人

 

神霊の方では、実のところ我々をどう思っているかというのは、初心者兼野次馬たる我々には関心の高いところである。ドン・ファン・マトゥスの説明では、ここは明快である。彼らは、力はあるかもしれないが、気まぐれで、同情心がないのだ。

 

古代メキシコの呪術師は、神霊を何種類かに分類したが、その中で人間に似ているのが斥候と調査者と呼ばれる存在。その2種は、人間と共生関係を作ることができると考えて、それを盟友と親しみをこめた名前とした。

 

ところが古代メキシコの呪術師たちは、もともと人格など有していない純粋なエネルギーに人間の特性を賦与したり(神々として親しみやすい名前をつけたり)、その神霊(非有機的存在)のエネルギーを利用できると信じた。

 

ところがその神霊は、もともと純粋なるエネルギーであるがため、いかなる努力をも持続することはできないので、神霊によるサポートを期待した呪術師にとっては、しばしばその期待を裏切られることになった。

 

他方、そうではないと考える呪術師のグループもいて、彼らは、神霊と友情を取り結ぶための神霊から人間への要求がいつも法外なものであるため、神霊を人間の親類と見ていながらも、それと友人になることは、無駄だと考えていた。

 

すなわち、神霊も人間もたまたま同じ世界に住んでいるけれど、以下のような理由から、ドン・ファン・マトゥスは、神霊と人間が協力し合って生きることについては、ほとんど無理であると結論づけている。一歩進んで、神霊から来るエネルギーには意味がないとまで断言している。

 

1.人間も神霊も、それぞれに病的なほど自己中心的であり、気むずかしくて、些細なことで腹を立てる。

 

2.人間は彼らを無意識のレベルで知っているが、神霊は人間をはっきりと知覚し、認識している。こうした人間と神霊の意志交換は始終行なわれているが、無意識においてのみである。

 

3.人間は神霊を助けることはできないし、神霊は人間を助けることはできない。

(参考:無限の本質/カルロス・カスタネダ/二見書房)

 

この理屈は、古代メキシコの霊的世界だけに通用するものではなく、世界の八百万の神々にも通用すると思う。またこの見方は、出口王仁三郎の守護神霊の見方とレベル的に共通すると感じる。

 

霊がかり好きな人がいるが、霊との相互作用は、マントラ念唱や、向精神薬や過呼吸などと同様に、深い意識レベルにアプローチする方法なのかもしれないが、だからといって人間の絶望や孤独、不安を超越するための確かな方法であるなどと、安易な期待を持ってはいけないと思う。簡単ではないのだ。

 

秋深き 隣は何をする人ぞ (ばせを)

(となりとは、神霊の謂いなるか)

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一点と世界全体、一瞬と永遠

2022-10-09 17:22:18 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)neo

◎華厳経とドン・ファン

 

華厳経から

『一一の微塵の中に仏国海が安住し、仏雲が遍く護念し、弥綸して、一切を覆う。

一つの微塵の中において、仏は自在力を現じ、神変することもまたかくの如し。

諸仏及び神力は、盧遮那の示現したもうなり』

(華厳経盧遮那仏品 第二之二)

 

一粒の微塵の中に巨大な仏国土が存在している。

 

これに対してヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファン・マトゥス。

『「一瞬が永遠にもなるということを知ってるか?これはなぞなぞなんかじゃないんだぞ。事実なんだ。

ただし、お前がその瞬間に乗って、自分の全体性をどの方角へも広げていけるようにそいつを利用すれば、

の話だがな」』

(力の話/カルロス・カスタネダ/太田出版P16から引用)

 

さらにドン・ファン、

『いまこの瞬間、お前が不滅というものに囲まれているのがわかるか?そして、お前が望みさえすればその不滅というものを利用できることを知ってるか?』

(力の話/カルロス・カスタネダ/太田出版P16から引用)

 

ドン・ファンは、一瞬が永遠であることを示し、それすらも利用できることをほのめかす。この言葉に続いて彼は、自分の全体性をまとめて、肉体という境界を越えて出ることすらもできると言う。

 

自分の全体性とは本尊のことであり、アートマンのこと。一即全、一瞬即永遠とは、無味乾燥な戯言にも聞こえるが、そこには体験とはいえない体験の裏打ちがある。

 

肉体から出ると言ってもヘミシンクのことではない。神人合一を見ているわけだ。

 

例の広島県三原の隠遁者エスタニスラウ・マリア・ヨパルト神父も華厳経のことは評価していたようだ。

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