春の飲み会

2007年03月21日 | 健康・病気


今日は、楽家でよく会う浜さんの家で飲み会があった。
浜さんの家は、私の家から歩いて10分ほどのところにある。
ここでは数年前からこの時期に毎年飲み会をやっているという。
楽家に6年ほど行っているが、やっとこの飲み会に誘われた。
おれもやっとシントコ(新所沢)の飲み仲間になれたという感じです。

午後1時半、みっちゃんから電話があった。
「今から行くから、マツキヨまで来い」と。
おれは浜さんの家を知らなかった。
午前中に買っておいたそば焼酎を持って、急いで駆けつけた。
会費千円、飲み物は自分持ちということだった。
みっちゃんとかよちゃんがいた。
しんちゃんもあとから来て、ビールと焼酎、氷などを買った。

浜さんちに行くと、庭にテーブルとベンチがあり、
脇にブロックで囲って火も燃えていた。
一本の桜の木がりっぱだった。
もうすぐ綺麗な花を咲かせるだろう。

2時過ぎ、飲み会が始まった。
さんは、大手家電ケーカーを退職してから、JICAで働いていた。
最初に、浜さんの日本に帰還したことと、
Hさんの古稀のお祝いの花束贈呈があった。
(喜寿のお祝いだったかな?)
すでにおれはビールを飲み、日本酒に突入してました。
あとはもうアルコールの世界に入ってしまったので、
私の脳は死んでます。

おいしいものを食べました。
楽しい一日でした。
こういう仲間の一員になれたということが、生きる励みになります。
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あれから2ヵ月

2007年03月20日 | 健康・病気
早いもので、もう2ヵ月たってしまった。
過ぎてしまえば早いが、
私としてはかなり辛かった2ヵ月でした。
よくいえば人間としてきたえられた日々でした。
1月21日次のような裏九想話を書き、
それを何人かの友人にメールした。
それ以後の生活は惨憺たるものでした。
また、機会がありましたら、くわしいことは、
書いていきたいと思います。

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裏九想話  さよなら、作業所
どうしてこんなことになってしまったのか。
いや、かなり以前からこうなることは予測していた。
来るべきそのときが来たということだけなのだ。

昨夜、作業所の新年会があった。
所沢、志木、川越の通所者、保護者、職員30名ほどが参加した。
場所の設定予約はおれがした。女房が夜バイトをしている居酒屋だ。
過去2回は女房が料理などを運ぶ担当をしてくれた。
今回は、フラメンコ教室の先生追悼の会があり来られなかった。

通所者、職員が席順に自己紹介をした。
その中で今年の目標なども話した。
おれはこういうことが嫌いだ。
つくづく福祉の世界には合わない自分だと思っている。
ところが昨日、おれはなかなかいい話が出来た。
ま、福祉職員としてうまく“演技”ができたというわけだ。

2時間ほどで新年会は終わり、通所者は帰った。
場所を移して所沢の職員3人と理事長で飲んだ。
飲んでいろいろ話しているうちに、
理事長と口論となり、おれは、「辞めます」といい店を出た。

これですべて終わった。
今日は職員がおれだけの日だったので、責任上、仕事はしようと出勤したが、
理事長がいて「帰れ」という。

団地の駐車場まで帰ってきたが、さあ、家に入れない。
女房にも義母にもなんと話そうか、と苦しんだ。
女房には昨日の夜、メールで説明はしておいた。
近所の中央公園に行った。
そこのグランドのまわりを何度もぐるぐる回った。
煙草を何本も吸った。
梅の花が少し咲いていたので携帯電話で写真に撮り、ブログに送信したりした。
2時間ほど公園にいた。

女房に電話する。11時過ぎだというのにまだ寝ていたようだ。
昨日、かなり遅くまで先生を追悼していたみたいだ。
「ドドールで待っていて」という。
ドトールでコーヒーを飲んで20分ほど待っていると彼女が来た。
こまかいことは訊かない女だ。
以前から作業所のことは話していたので事情はだいたい理解していた。
「気分転換にどっか遠い所に車で行こうか」と呟く。
おれはあまり運転する気もしなかったが、拒否する理由もない。

車に乗っているうちに越生梅林でも行ってみようか、ということになった。
中央公園の梅がほころんでいたので、越生はどうかな?と思ったのだ。
しかし、越生梅林に梅の花は咲いていなかった。

「芦ヶ久保の道の駅に行きたい」と女房がいう。
そこからカーナビを設定して車を出した。
しかし、それからが大変だった。
秩父の山ひとつ越えて行くことになるとは想像もしていなかった。
かなり高い所まで車はカーナビに誘導された。
道路は狭く、所々雪が残っていて恐かった。
目の前を見ると、ハングライダーが飛んでいた。
なんでおれはこんな山登りを車でしているんだ、と悔やんだ。
仕事を辞めて、こんなところで夫婦で山から転落してしまったら、
心中未遂かと報道されてしまうではないか。

夫婦で冷や冷やしながらなんとか山越えは何事もなく終わり、芦ヶ久保に着いた。
道の駅をうろうろしてから帰路についた。
女房は車の中ですぐ寝てしまった。
おれはカーナビにCDをセットした。
姫神の「風の縄文」だ。
寝ていたはずの女房が「もっと明るい曲にすれば」という。
いいんだ。これが今のおれにふさわしい。

途中、あるドラッグストアに寄る。
女房は車で寝ていた。
その店には作業所でパッケージした野菜が置いてある。
広い店内の野菜のコーナーに行く。
ありました。おとといおれがやった野菜たちが。
そのなかで人参とジャガイモとキウイを買った。
どれも100円だ。
人参はLが3本、ジャガイモは500グラム、キウイは3個だ。
もう野菜のパッケージをすることはないんだな、としみじみ思った。
通所者の顔が1人ひとり浮かんだ。

車に戻ると女房が「何買ってきたの?」と訊く。
「作業所でやった野菜だよ」
「ヒサシくんらしいよ。私だったら辞めたとこなんてもう考えないよ」
そんな割り切りのできる女房の性格がうらやましい。

5時前に団地に着いた。それから2人で夕飯の買い物をパルコでした。
義母には仕事に行っていることになっているので、女房が先に家に帰った。
おれは車の中にいた。10分ぐらいで行こうと思っていたが、
義母にどう切り出そうかと考えたら、ずるずると1時間も車にいた。

どうでもいいことをぐだぐだ書いてしまいました。
すんでしまったことより、
明日からのことを考えなくては…。


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引っ越し

2007年03月19日 | 健康・病気
こんどの土曜日に引っ越します。
といっても同じ号棟(建物)の中ですが…。

現在の家は和室が4畳半で窓がない。
そこが義母の部屋になっている。
こんど引っ越すところは和室が6畳でベランダの隣です。
これだと義母は自分の部屋にいられる。
お義母さんには部屋でゆっくりしてもらいたい。
私と女房の部屋は狭くなって、
4・9畳と4・5畳になってしまうが仕方ない。
義母がとても喜んでいる。
それが一番だ。

そんなわけでここんところ引っ越しの準備で大変です。
引っ越しといっても、4階から6階に行くのですから、
トラックなどは必要ない。
台車を使って女房と2人で運ぼうと考えています。
大変な荷物だから2日で終わるかな。
しかし、経済的に業者や他人(ひと)には頼めない。
自分たちでやるしかない。

私がこの引っ越しでちょっと悩んでいるのが、
KDDIの「ひかりone」の引っ越しが1週間ほどかかることです。
電話とネットがその間使えない。
携帯電話で九想話をUPしようと思っているが、
長いものは書けないな。
ケータイのキーで文章を打つのは面倒ですから。
九想庵のトップページの更新ができないので、
俳句を載せられない。

でも、義母がこれから広い部屋で暮らせるのですから我慢します。
ちょっと手を抜いた九想話になるかもしれませんが
(今もそうだろうなんていわないでください)
みなさん、なにとぞ九想庵を見捨てないでください。

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すき焼き

2007年03月18日 | 健康・病気
昼前、女房と2人でスーパーに買い物に行った。
「今夜、何にしようかな?」と女房。
おれは必死で考えた。

私は、すき焼きが大好きだ。
今年はまだすき焼きを食べていない。
冬のシーズン(今は春だがかなり今日は寒い)に
1度ぐらいすき焼きを食べてもいいだろう。
「お義母さん、肉好きかな。すき焼きなんかどう?」
「私、あまり好きじゃないんだ」

そうか、なんでそんなことを今日までおれは気づかなかったのかな。
だから、うちではすき焼きをこれまであまりやらなかったんだ。
息子たちが家にいたころは、1シーズンに1、2度食べた記憶がある。
思い起こせば、おれはここ何年か、すき焼きを食べていない。
外でなんかすき焼きは高くて食べられない。
ということは、おれはこれからすき焼きを一生食べられないのだろうか。
そうわかってみると、なんかものすごく寂しくなった。

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寒い

2007年03月17日 | 健康・病気
ここのところのこの寒さはなんなんだ。
冬将軍がやっと仕事をしだした、という感じです。
しかし、もう3月なかばです。
こっちの気持ちも身体も春になってしまっているから
よけいつらいです。
これで休眠打破ができて、やっと春をむかえられるかな。

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本日休業

2007年03月16日 | 健康・病気
すみません、休みます。
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ほぼ日デリバリー版

2007年03月15日 | 健康・病気

ほぼ日刊イトイ新聞(デリバリー版)が終刊になった。
正直なところとても寂しい。
編集担当の木村俊介さんが退社するためだ。
私が、「ほぼ日デリバリー版」を読み始めたのが2001年だった。
「ほぼ日刊イトイ新聞」のサイトに遊びに行くようになり、
「ほぼ日デリバリー版」に登録して読み続けていた。

「ほぼ日刊イトイ新聞」は、
ガンジーさんの日々の書き込みが好きで読んでいた。
ガンジーさんとは、癌を宣告され、余命2ヶ月といわれた65歳の男性です。
最初は家族のためにメールマガジンを書いていた。
ある日、糸井重里に「“癌爺”と申します。ハイ。」とメールを書いた。
それがきっかけで「ほぼ日」に連載となった。

この人の文章がよかった。
明るくて、癌を告知された人の文とは思えなかった。
私は、ガンジーさんにメールを書いた。
私もこんなものを書いていると「九想庵」を紹介した。
明るい返事が来ました。
そしてまもなくしてガンジーさんは亡くなった。

それから私は、ほぼ日には行かなくなった。
なんか有名人の文章を読む気がしなかったのです。
それでも登録してあるので「ほぼ日デリバリー版」は配信されてきた。
日本や世界中にいる人々のメールがよかった。
そしてそれを取り上げる木村俊介さんの気配りがよかった。
大好きでした。
最近は「茨城話」で盛り上がっていたのに、残念です。
これから木村俊介さんは文章を書いていくと書いてあった。
「ほぼ日」を辞めて、文章で食っていくということか。
またいつの日か、彼の文章を読めることを楽しみにしょう。
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ガンジーさんのことを書いた九想話
ガンジーさん」2001年3月25日
 「ガンジーさんからのメール」2001年4月12日
バイバイ、ガンジーさん」2001年12月22日

 

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あの頃おれは…

2007年03月14日 | 健康・病気
今夜の九想話に書くことはある程度決まっていた。
10時頃寝てしまい深夜2時半に目が覚めた。
ポケットラジオのスイッチを入れ「ラジオ深夜便」を聴くと
「ロック・クラシックス:ザ・バンド集」をやっていた。
ザ・バンドの曲がよかった。
それを聴きながら必死に起きようとした。
しかし、頭は覚醒してきたが、身体が起き上がれない。
なんとしても九想話を書かなくては。

3時過ぎから〔にっぽんの歌こころの歌〕
「青春の歌:懐かしのフォーク&ポップス集」になった。
昭和40年中頃の曲が流れた。
これで九想話に書くことが変わった。

「ひとり寝の子守歌」加藤登紀子
「夜が明けたら」浅川マキ
「サルビアの花」岩淵リリ
「花・太陽・雨」PYC(これでいいのかな?)
「どうにかなるさ」かまやつひろし
「たどりついたらいつも雨ふり」モップス
「自転車に乗って」高田渡
「カレーライス」遠藤賢二
「遠い世界に」五つの赤い風船

浅川マキ、う~ん、たまりません。
たしか新宿の映画館でやったライブで聴いたことがある。

「サルビアの花」
♪ ボクの愛のほうが素敵なのに
失恋するたびにこのフレーズを心でうたっていた。

「たどりついたらいつも雨ふり」
宮川泰夫アンカーが番組の準備をしているとき、
鈴木ヒロミツ死去をニュースで知り、
急遽この曲を入れることにしたという。
これは、ど田舎の高校生にはショッキングな歌だった。
合掌

「自転車に乗って」
何年か前の近所でやったライブのあと、
高田渡と飲んでギターをおそわったことを思い出す。
このときのことは2002年の7月7日の九想話に書いた。

「カレーライス」遠藤賢二この歌も好きだったな。
宮川アナウンサーが長崎支局にいたとき、
遠藤賢二のコンサートがあり、
まだ幕が下りているコンサートの前に、
井上陽水がうたっていたそうだ。

「遠い世界に」五つの赤い風船
この曲は、
高校生のときのコンサートで、
西岡たかしの真似をしておれがソロでうたった。
今思い出しても“穴があったら入りたい”気持ちです。

あの頃、もっとしっかり人生を見つめて生きていたら、
今のようなおれではなかったはずだ。
しかし、現在の“おれ”は存在しない。
もっとスマートに生きている人間になっていた“はずだろう”。
グダグダと九想話を日々書いている九想なんていない。
 
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ワラビ採り

2007年03月13日 | 健康・病気
今ぐらいの時期だったかな。
子どもの頃、仲のいい友だちとよく山にワラビ採りに行った。
誰も風呂敷を1枚持って行く。
山に入るとすぐワラビが目につく。
それを1本2本と手で茎を折り採っていく。
左手で握れないくらいワラビを採ると、
それを風呂敷に包んで背中にななめに背負う。
2時間ほど山を歩くと、背中の風呂敷が
直径10センチほどになる。
そうすると家に帰る。

あの生家の近くの山のワラビはどうなったのだろう。
昔、ガスがそれほど普及していなかった頃、
薪が燃料だった。
野菜の肥料は山で採ってきた木の葉で堆肥を作っていた。
現在、ガス、化学肥料が普及し、山に行く人がいなくなり、
山は荒れ放題だ。
だからワラビ採りなど行く人もいないらしい。
さびしいけれどしかたのないことなのだ。

もし、できることなら、風呂敷1枚持ってワラビ採りに行きたい。

九想
http://www.ne.jp/asahi/qsou/an/

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小椋佳

2007年03月12日 | 健康・病気
「プレミアム10 」(22:00~23:30 NHK総合)
「小椋佳・63歳のメッセージ」を観た。
初コンサートから最近の様子までの映像があった。

昔、来生たかお、井上陽水、小椋佳が「少しは私に愛を下さい」を
3人でうたっているステージの映像はよかった。

次男が13歳で脳梗塞になり、全身が麻痺し言葉もしゃべれなくなった。
そのことは知っていたが、10年ほどで普通の状態に戻り、
現在は、琵琶の製作者になっていることが嬉しかった。
息子が病気になったとき、辛かったろうな。
それを笑顔で話している小椋佳はいい親父の顔だった。
本人も胃がんになり克服してしている。
小椋佳の顔がよくなったな、あらためて思う。

「もう」といえば下り坂
「まだ」と思えば上り坂

というようなことを中村雅俊と話しているときいっていた。
そうだな、とおれは頷いた。
63歳の彼が「まだ」と思っているのだ。
おれだって、「まだ」といおう。

17日午後10時からBS2で「小椋佳コンサート~未熟の晩鐘」をやる。
これは観なければならない。

コメント (4)
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