田原総一朗

2020年04月03日 | 健康・病気

4月2日と3日のラジオ深夜便の【明日へのことば】は、
「ニッポンへの遺言(1)(2)」ジャーナリスト 田原総一朗(85)だった。
なぜか私は4月2日の朝4時に目が覚めた。
いつものくせで目が覚めるとラジオのスイッチを入れる。
そのときにこの番組だった。
頭が寝起きのボーッとしている状態でラジオを聴いていた。
田原は彦根で生まれたという。
高校生の頃小説家になりたかったので早稲田大学に行こうと考えた。
でも、母親から家には仕送りしろといわれたので、早稲田の夜学の文学部に入った。
昼間は日本交通公社(現JTB)で働いていて家に仕送りをした。
文学賞に何度か応募したが箸にも棒にもかからず、
同世代の石原慎太郎・大江健三郎の作品を読み、
「これはダメだ、全く敵わない」と作家を目指すことを断念した。
大学を出るとき、NHK・TBSや朝日新聞などを受けたが全部落ちて岩波映画製作所に入った。
不器用だった田原は、岩波映画製作所では仕事がなくなった。
そんなときに東京12チャンネル(現テレビ東京)が誕生した。
応募したら入れた。
そこでディレクターとしていろんな番組を作った。
カルメン・マキや山下洋輔のドキュメント番組を作った。
このへんあたりが「ニッポンへの遺言(1)」だったかな。
4月3日私は午前3時40分頃に目が覚めたので、「ニッポンへの遺言(2)」も聴けた。
田中角栄をインタビューしたこと、「朝まで生テレビ」を始めたきっかけなどを話した。
田原の奥さんのことも話していた。
東京12チャンネルを退社するときに、奥さんは何もいわなかったという。
自分が乳がんのときに、田原に北朝鮮に行って取材する話があった。
しかし、田原が北朝鮮に行っている間に奥さんは死ぬだろうと医師にいわれた。
そのとき、奥さんは田原に「北朝鮮に行ったほうがいい」といって亡くなった。
田原は、大きな放送局にいなかったから、
それと奥さんの助言でこれまでの仕事が出来た、という。
私は彼の生きてきたことを聴いて勉強になりました。
2日間このラジオ番組を聴けてよかったです。

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