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スタッドレスタイヤ

2004年12月31日 | 戦争

今日は午後から雪が降り出した。
私たちは第2作業所でみかんのネット入れをしていた。
ここは市場の建物の中程にあり、
屋根はあるが風は吹き込んでくる。
私はダウンジャケットを作業服の上に着ていた。
通所者たちもそれなりに着込んでいる。
雪は本格的な降りでどんどん積もっていく。

2時半ごろ作業が終わった。
それから作業所の大掃除をして、
施設長の話があり、今年のすべてが終了した。

6人来ていた通所者のうち両親が迎えにくる子と、
その近所に住む子の2人が車で帰った。
残りの4人を私の車に乗せた。
1300CCの小さな車は、人と荷物であふれた。
雪はすでに7、8センチ積もっていて、
ノーマルタイヤでは危ない。

私は31日の天気がくずれるとラジオで聴いていたので、
この前の休日のときスタッドレスタイヤに替えていた。
昨シーズンは雪がほとんど降らなくて、
スタッドレスタイヤで走っていたことが虚しかった。
しかし、なんか正月あたり雪が降りそうだと予想して、
面倒くさかったがタイヤを交換した。

施設長はノーマルタイヤだった。
「死ぬ覚悟で帰る」と帰っていった。
市場を出て浦和所沢(うらとこ)バイパスに入ると、
車が数珠繋ぎになってのろのろ動いていた。
施設長の車を抜くと、私の車の子たちが小躍りして喜んだ。
私の車は快調に、雪の積もった道路を走り続けた。

しかし、ほどなく二車線とも渋滞し、
まったく車が動かなくなった。
後ろから来た施設長にまた追い越された。
あの子たちはがっかりした。
しばらくのろのろ行くと、左側に3台の車が停まっていた。
見ると、黒のワゴン車にトラックが追突し、
その後ろの軽自動車もそこに突っ込んだようだ。
私は背筋に冷たいものが走った。

その先にも車が右に左に、ハザードをつけて停まっていた。
それらをかわし、私の車は順調に進む。
ゆっくり行く施設長の車をまた抜く。
私の車の中は歓声にあふれた。

オートバックスでは、店員が道路に出て、
スタッドレスタイヤの売り込みをしていた。
かなりの車が店の駐車場に入っていく。
そうとう売れることだろう。

他の車がのろのろ走っているとき、
快調に走れるのは愉快だった。
何事にも劣等感しかない私も、
今日ばかりは優越感を味わえた。
しかし、スタッドレスタイヤだからといって
油断はできない。私は慎重に運転した。
無事所沢駅前に着き、
通所者たちを降ろしたときはほっとした。

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       12月の九想話

  12/1  息子との会話
  12/2  安酒「くらのすけ」
  12/3  難しい結論
  12/4  人生一度でいい
  12/5  再会
  12/6  Sさんの引越
  12/7  紙媒体の絶滅?
  12/8  12月8日
  12/9  ダウン症を育てる主夫
  12/10 青春の歌
  12/11 酩酊
  12/12 宝くじを買おう
  12/13 プリンターを買う
  12/14 光ファイバー 2
  12/15 光ファイバー開通
  12/16 潰れた箱
  12/17 牛飼いたちの決断
  12/18 11月の句会結果
  12/19 息子のメール
  12/20 九想窯
  12/21 借金
  12/22 ゆず湯
  12/23 「冬のソナタ」完全版
  12/24 車の中のクリスマスイブ
  12/25 痩せる
  12/26 生きてるだけで100点
  12/27 フリーマーケット
  12/28 妻が病に倒れたとき
  12/29 初雪
  12/30 リストカット
  12/31 スタッドレスタイヤ


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酩酊

2004年12月11日 | 戦争

今夜は、久保田の萬寿を飲み、
八海山の吟醸を飲み、そのあと、
立山を4、5杯飲みました。
しあわせでした。


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12月8日

2004年12月08日 | 戦争

おれにとって、12月8日は日米開戦の日というより、
ジョン・レノンが死んだ日というより、
友が死んだ日という思いが大きい。
そんなわけで飲みました。
楽家でほろ酔いになり、ブロックヘッズで酩酊し、
家に帰って…、覚えていない。

ブロックヘッズではジョン・レノンの曲がかかっていた。
おれの両隣に坐った若者がギターを弾いた。
左の子は24歳、息子と同じ歳だ。
バンドをやっているといっていた。
右の青年も同じような年齢だった。
女の子を連れていた。
どちらもビートルズの曲をやる。
何曲も何曲もギターを弾きうたった。
いいこころもちだった。
あいつが生きていたらな。

今(12/9 AM6:42)目覚め、これを書きました。


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台風「トカゲ」

2004年10月20日 | 戦争

今回の台風23号は、「トカゲ」というらしい。
次のようなことが asahi.com に書いてあった。
> 北西太平洋域で発生する台風には00年から、
> 領域の14カ国が名前を出し合って順番につけている。
> 23号は日本が出した星座の「トカゲ」。
> 次に発生した24号は、
> ラオスが出した「ノックテン(鳥)」になる。
なんかピッタリという感じです。

この「トカゲ」は、今年最悪の台風被害を起こすようだ。
私もこの台風の中での作業はたいへんだった。
疲労困憊です。
もう台風はいいです。
といっても「ノックテン」が控えているのか。


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久しぶりの2連休

2004年08月27日 | 戦争

昨日と今日は仕事が休みだった。
昨日は、耳鼻科と整形外科に行った。
それ以外の時間はほとんど寝ていた。
呆れるほどよく眠れた。

今日は本を読むことにした。
「今夜、すべてのバーで」中島らも著をやっと読み終えた。
あらためてアル中というものの悲惨さを教えられた。
主人公は作者がモデルの小島容という人物だ。
肝臓が悪くなって病院に入院するところから小説は始まる。
内科医の赤河という人物がいい。
同室や喫煙室で出会う患者との交流。
酒を飲むことを教えてくれた親友
天童寺不二雄とその妹が物語を活き活きさせる。

入院して元気になった小島がある夜、
病院を抜け出し蕎麦屋に行って、
軽い気持ちでビールを飲んでしまう。
せっかく入院中は酒をやめていたのに…。
ここからのエピソードを読んでいて、
酒好きな私としてはつい主人公と同じ気持ちになり、
別な私が「飲むな、飲むな」と叫ぶ。
しかし、アル中の主人公は場所をかえて
浴びるほどウィスキーを飲んでしまう。
病院に帰ると赤河と出会う。
それからの赤河とのやりとりを、
私は涙を流しながら読んでいた。
小説を読んで涙を流すなんてことはずいぶんなかった。
いい小説だった。

読み終えて図書館に返しに行こうと思ったら、
小説すばるに「蛇でピアス」金原ひとみ著が
あることを思い出した。
それも読むことにした。

正直、こういうのは苦手だ。
舌にピアスをして、
そのピアスを少しづつ太くして穴を大きくし、
最後に舌の先端までを切ってスプリットタンにする。
登場人物にも好感が持てない。
ときどき派遣のコンパニオンをしているルイ。
一緒に暮らしているフリーターのアマ。
それに、スナックをやってるが、
ピアスの穴を空けたり刺青を彫ることが本業のシバ。

先月、この著者の芥川賞受賞後に書いた小説を読んだが、
それも若い男と女の今の風俗を書いているものだった。
簡単に男と寝る女の子が主人公だった。
こういうコがほんとにいるのかな、
と思ってしまう私はおじさんなのでしょうか。
いるんだろうな。

ここまで私のいる世界と離れていると、身を引いてしまう。
ただ、この作者の文章は最後まで読ませてしまう。
金原ひとみの10年後の作品を読んでみたい。

午後4時前、図書館に行く。
借りてる本を返し、入院中に読む本を借りるためだ。
私は明日から入院まで休みがない。借りてきた本は、
「少年H 」上・下 妹尾河童 著
「火車」       宮部みゆき 著
「夜明けの辻」  山本周五郎 著
「恋愛白書」    家田荘子 著
さあ、入院が楽しみだ。


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ヒロシマの思い

2004年08月05日 | 戦争

私が、広島の平和記念公園を訪れたのは、
息子が高校1年生の1996年だった。
23歳(1975)で死んだ友人の墓参りをしようと
山口に行った帰りに寄った。
そのとき次男が一緒に行くというので2人で行った。

初めて見た原爆ドームは私を圧倒した。
平和記念資料館で見たいろいろな展示品は、
私の心をしめつけた。
息子もひとり黙って静かに見ていた。

今夜の〔クローズアップ現代〕を観た。
「危機に立つヒロシマ ~被爆体験は継承できるか~」
キャスターと大江健三郎が
原爆の子の像に捧げられた折り鶴の前に立ち、
「伝わるかヒロシマの思い」というテーマを語っていた。

被爆から59年目の広島はいま、焦りの中にある。
平和公園の折り鶴が燃やされた事件のあと、
原爆ドームへの落書きや
不法侵入といった事件が相次いでいる。
折り鶴を燃やした学生が在籍する関西の大学の
「平和学」講座の報告があった。
外部の講師や被爆者を招いてやっているが、
“ヒロシマの思い”は学生たちには伝わっていないようだ。

私自身、どれほど広島の原爆のことを理解しているのだろう。
正直なところ、目を背けたいという思いがある。
何年か前、友人たちの劇団水無月で、
井上ひさし作の「父と暮せば」を観た。
(2000 9/2 の九想話に書いてます)
いい芝居だった。
ああいうものだと「原爆」とか「被爆者」ということが、
心にまっすぐ入ってくる。
明日は、人類史上初の原子爆弾が広島に投下され日だ。


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野沢尚氏の死

2004年06月28日 | 戦争

今夜もテレビの前でいぎたなく寝てしまった私を、
11時過ぎ、あるニュースが目覚めさせた。
「野沢尚さん、自殺か?」というものだった。

私はテレビのドラマはあまり観ないので、
このひとの作品はほとんど知らない。
北野武の初監督作品「その男、凶暴につき」は観たけど、
あまり好きではなかった。
文学雑誌などにあった短編はいくつか読んでいるが、
あまり印象に残っていない。

ただあちこちに名前は出ていたので意識はしていた。
字は違うけど、私と同じ「ひさし」という名前なので、
親近感を持っていたのです。
44歳で、首を吊るとき、どういうことを想っていたのか。


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人質解放

2004年04月15日 | 戦争

午後9時前テレビを観ていたら、ニュース速報が流れた。
イラクで拘束された3人が解放された、というものだった。
私は思わず目の前の安酒で祝杯をあげた。
それから急いで、
居酒屋でバイトをしている女房にメールを書いた。

誕生日おめでとう!!
今、イラクの3人の人質が解放された、とテレビでいっている。
でも、顔を見るまで心配だ。

そのあと9時のニュースで、解放された3人の映像が流れた。
それでやっと私は安心した。

よかった、よかった。
善意で行動していた3人が命を落とすようなことがあったら、
私は哀しくてしょうがない。
国民の中には、誹謗中傷のメールなどを
家族に送った人が多かったらしい。
「危ないところに好きで行ったのだから、自己責任だ」
という内容が多かったようだ。
でも、それはおかしい。
政府は、非武装で安全なところということで、
イラクに自衛隊を送ったのだ。(私はそう思わなかったが)
そういう“安全”なところに、あの3人は行ったのです。
それで拘束されたから、あそこは危ないところだ、
なんていわれてはたまらない。
国が安全だといってたのだ。

昨日の党首討論で小泉首相は、
人質事件があったから、自衛隊を帰すわけにはいかない、
テロに屈っしてはならない、
といっていた。本末転倒だろう。
非武装だといっていた地域が、そうじゃなくなってきたのだから、
自衛隊を日本に帰せばいい。それだけだ。
しかし、政府は自衛隊のことは棚に上げてしまったようだ。
(なんでか今日、
 私は朝霞の陸上自衛隊の広報センターに行ってきた。
 いろんな展示物や映画を観ていて腹が立ってきた)

それはそれとして、とにかく人質が解放されたのはうれしい。
しかし、また別な2人が拘束された。
こっちの問題のほうが大きくなるかも知れない。

ふと我が家に視線を落とすと、今日は女房の誕生日だった。
それらしいこと何もしていない。
このことのほうがもっと大きな問題に発展するかも…。


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イラクで3邦人拘束

2004年04月08日 | 戦争

とうとう憂慮すべき事態が発生した。
日本の民間人を人質として、
自衛隊の撤退を要求してきた。

予想されたことだ。当然、
政府も自衛隊でもこういう事態は考えていただろう。
すべてのことを想定して自衛隊派遣を決めたはずだ。
そうでなかったらおかしい。
そのとき考えてた方法で、早く解決して欲しい。
「人質をとって自衛隊撤退要求?考えてなかった」
なんてこと、政府がいうはずないですよね。

私は自衛隊派遣には反対だった。
そもそも、
米国がイラクでの戦争を始めたことがおかしい。

これからどうなるのだろう?
3人の無事救出されることを祈るばかりです。


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旅立ちの日に

2004年03月18日 | 戦争

日曜日の夜、〔EZ!TV〕(フジテレビ22:30~23:55)の特集で、
旅立ちの日に」という歌を取り上げていた。
この曲、すてきですね。初めて聴きました。
今、卒業式で一番うたわれている歌だそうです。

有名な人がつくった歌なんだろう、と思っていたら、
無名の先生ふたりがつくった歌なんですね。

メモもとらず、ただぼや~と観ていたのを、
今頃思い出して書くので、
正確じゃないかもしれないですが…。

秩父のある中学校は荒れていて、
校長はどうしたらいいか悩んでいた。
そして考えたのが、歌で学校をかえようと思った。
生徒たちに歌をうたわせた。
クラス対抗の合唱コンクールをやった。
そんなとき校長は「旅立ちの日に」の詞をつくった。
それに共鳴した音楽の先生が曲をつけた。
校長が定年で学校を去る年の卒業式で、
「旅立ちの日に」をうたった。
それからその学校では、その歌が卒業式の歌になった。

それが10何年か前のことで、そのうち、
「旅立ちの日に」がよその学校でもうたわれるようになった。
今では、かなりの学校の卒業式でうたわれているそうです。
いい話だな、と思って私はテレビを観ていました。


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