ゆっくりのんびり市町村廻り

何年かかるか、もしかしたらできないかもしれないけど、日本の全市区町村の制覇を目指して頑張ってみる!

137日目 北海道開拓時代を偲ぶ(3)~開拓の村

2015-11-30 23:59:29 | 道央
2015年9月21日(月)

やって来たのは博物館は博物館でも、野外の博物館→
昭和58(1983)年にできた野幌森林公園内にある北海道開拓の村(札幌市厚別区)。
ここはこのサイトの言葉を借りれば「北海道百年を記念して設置されました。開拓の過程における生活と産業・経済・文化の歴史を示す建造物等を移設、復元して保存するとともに、開拓当時の情景を再現展示して、北海道の開拓の歴史を身近に学ぶことのでき」、この日のテーマである「北海道開拓時代」を肌で感じるにモッテコイの場所。

↓入口である「旧札幌停車場(明治41(1908)年築)」の建物を抜けると、まずは「市街地群」と呼ばれるゾーンが広がります。

昔の札幌ってこんなんだったのかと思わせる、いかにも北海道っぽい並木道。
そしてすぐに目に付くのが鉄道の客車で、これを馬が引いていきます。

↓どこからともなく馬がやってきて客車に繋がれる。

お馬さん、かわいい。ホントかわいい。

↓イザ、出発! パカパカと蹄の音を立てて歩き出す。

背後の建物は「旧来正旅館(大正8(1919)年築・旭川市)」。
お馬さん、流石に力持ち。3tある客車には20人程が乗っているからさらに重さ1~1.5tが加わっても、朝飯前とばかりいとも簡単に引いていく。
馬一頭の力は人の4~5人分に相当するというけど、人がそれだけ寄ってたかっても動かせる気が全くしない。凄いぜ、お馬さん!因みに冬の時期は馬そりになります。

↓市街地の建物いくつか

左から「旧本庄鉄工所(明治30年頃築・石狩市」、「旧藤原車橇製作所(明治36年・妹背牛町)」。


手前から「旧手宮駅長官舎(明治17年築・小樽市)」、「旧開拓使爾志通洋造家(明治11年築・札幌市)」。


旧札幌警察署南一条巡査派出所(明治44年築)。ちなみに立っているおっちゃんは人形ではありません。

↓「こどもの広場」に来ると、子供達が昔懐かしい竹馬に興じている。

私が通っていた小学校には竹馬がたくさん揃えられていて結構乗って遊んでいたものの、それ以来全く乗る機会がなかったのですが、童心が頭をもたげ遊んでみたくなる。
実際に乗ってみると、昔体で覚えた感覚は忘れることはありませんな。折しも降り出した雨で足元が滑って歩きにくかったのですが、案外うまくいきました。周りの子からは「うまいうまい!」と褒められ(?)ちょっと得意げ(いい年してみっともないが)、というかメンツが保てホッとする。
調子に乗って、うまくできない子には「竹馬を前に倒して乗るんだよ」と教えてあげる(余計なお節介)

↓漁村群

旧青山家漁家住宅(大正8年築・小樽市)


旧土谷家はねだし(明治20年頃築・八雲町)

↓軽食堂で開拓の村名物「いももち(2個で300円)」を戴く。


↓農村群

馬車鉄道はここ「旧ソーケシュオマベツ駅逓所(明治40年頃築・喜茂別町)」でおしまい。

↓シルバーウィーク期間中につき「秋のふるさとまつり」が催されており、大道芸・農作物の試食販売・露店などのイベントも盛りだくさん。

この時はちょうど紙芝居、雷鳴も轟く中ご苦労さまです。

↓村内で私が一番気に入った建物



開拓小屋。夏はともかく、近代にもかかわらず弥生時代の竪穴式住居を思わせるこんなものでよく極寒の北海道の冬を越せたものだよ。昔の人のド根性というか忍耐強さたるや、頭の下がる思いである。

山村群ゾーンというのもあるのだけど、うっかり廻るの忘れました・・・大失敗。

面白いです、ここ。時間の都合で1時間半程度しかいられませんでしたが、また来たいわ。
行かれませんでしたが、野幌森林公園内には「北海道博物館」もあるので、今度はそれも一緒にたっぷり一日かけてね。

再びバスに乗って新札幌駅を目指します。

↓同じく野幌森林公園内の北海道百年記念塔。


↓16時ちょっと前に新札幌駅のバスターミナルに到着。


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137日目 北海道開拓時代を偲ぶ(2)~苗穂

2015-11-26 23:59:18 | 道央
2015年9月21日(月)


苗穂(なえぼ)駅の方に向かい、電車に飛び乗って何処かへ・・・。
そうしたいのは山々ですがそれはならぬとばかり、駅近くには大人のために造ってくれた素晴らしい施設があり、足は自然とそちらに向いてしまいます。

↓サッポロガーデンパークへ。



ショッピングモール「Ario札幌」や北海道日本ハムファイターズ室内練習場などがある巨大な複合施設。

そして私のお目当てはこれ→
日本唯一ビールに関する博物館「サッポロビール博物館」。
元々この建物は、明治23(1890)年に「札幌製糖会社」の工場として建設されたもので、それをサッポロビールの前身である「札幌麦酒会社」が明治38年に買い取って以降はビール製造が行われ、その後に「開拓使麦酒記念館」として工場で使用していた器具などを展示が始まり、昭和62(1987)年に「サッポロビール博物館」に改称。
隣には「サッポロビール園」があり、そこでは飲めや食えやのこれまた魅力的な場所なのですが、私の様な一人でいる者には指を咥えて加えて外から眺めるしかない・・・。

博物館の入っている赤レンガの建物は「札幌苗穂地区の工場・記念館群」を構成する一施設として「北海道遺産」を受けている貴重なものですが、一部すっぽりとホロが被せられているし・・・。
来年春にリニューアルオープンするとかで、その下準備工事なのでしょうか? ついでですが、2月中旬から休館するようです。さすがに雪まつりの時は休まないでしょうけど。

一見何だか暗号っぽい・・・→
左上から横に読めばワケ分からないけど、右上から下に読んでいきます。
「麦とホップを製すれ(連)ば(者゛)ビイルとゆふ酒にな(奈)る」。
ビールの醸造法は詳しくは知りませんが、まあ、要するにこれが極意らしい。
明治9(1876)年の「開拓使麦酒醸造所」の開業式の看板を再現したもの。「開拓使麦酒醸造所」が払い下げられ「麦酒醸造場」へと名称を変更し、明治19年に渋沢栄一らがこれを買い取って設立したのが先に出てきた「札幌麦酒会社」。

↓入館無料だし、では遠慮なく入らせてもらいますわ。



日本のビールの歴史が学べます。

↓サッポロビール札幌工場で使われた煮沸釜

麦汁にホップを加えてこれで煮沸するらしい。
ホップはあのビールの特有の苦味や香りをつけるなどの役割を果たすとの事。

↓かわいいかわいいお姉さんが怪しい旅人のために一所懸命身振り手振りポスター広告の解説をしてくれるとても嬉しいサービス。

本当は、見学に来ていた団体があって、その人たちに解説していたのを便乗して聞いていただけなのだけど。

↓ここに来たのだから、やらないワケにはいかないでしょう。

テイスティングサロンという所で一杯200円で飲めます。
コースターには明治9年「開拓使麦酒醸造所」創業当時の味を基本に再現しましたとあるけど、味はもう忘れた(汗)。
「サッポロ生ビール黒ラベル」「北海道限定クラシック」「開拓使麦酒」の3種飲み比べセット(\500)という、夜なら間違いなく手を出していたセットもあったのですが、昼間なのでこの程度で遠慮しておきます。

ここのシンボルたる煙突(49m)→

↓この横では、言うこと聞かないお犬さまに四苦八苦している人たち。

「秋のワンワン運動会」などと、日本てホント平和ボケしているよなあ。真っ昼間から酒食らっている者から言われたくはないだろうけど。

北海道日本ハムファイターズの寮→
この日は札幌ドームで福岡ソフトバンクホークスとのナイターあり。
若い女のコはお目当ての選手に見初めてもらえるよう頑張れ。

ario札幌店内にて→
遥か遠い北海道からの応援虚しく、V4を逃した読売巨人軍。
この時には既にファイターズの優勝は消滅してしまったし、違うリーグの応援なら全く問題なしという事で何とか客寄せ。でもまだ北海道に巨人ファンっているんだろうか?

↓苗穂駅西側跨線橋より(札幌駅方向)

撮りテツが大喜びしそうなスポット。

↓函館本線の森林公園駅へ行き、そこからバスに乗って、またしても某博物館で見学です。




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137日目 北海道開拓時代を偲ぶ(1)~札幌村

2015-11-23 16:32:08 | 道央
2015年9月21日(月)


北の湖理事長が永眠されました。
私が相撲に興味を持ったのは小学生低学年の時でしたが、その頃他を圧倒する無類の強さを見せつけていた力士が横綱・北の湖。
憎まれ役だったというけどガキだった当時の私にそれを知る由もなく、ただ単に強い者には憧れるといった極めて単純な理由で彼は私にとって絶対無比の大ヒーローとなったのです。
もちろん最近テレビでよく流される横綱・輪島との水入りの大一番もドキドキしながら見ておりましたし。
嗚呼、巨星墜つ。合掌。

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北海道滞在の最終日を迎えたこの日、札幌近郊をうろつく予定ですが、どちらかと言うと市町村巡りは二の次で観光がメインの日。たまにはこういうのもいいかな。

前日は「旧炭鉱都市」をテーマとした町巡りでしたが、この日のそれは「北海道開拓時代」で、極力負の側面はあまり出さない方向で進めていきたいと思います。

札幌駅北口からスタート→

↓人口200万人の大都会の駅周辺のわりに、昔の建物がちらほら見られたり、を思わせる櫛の歯が欠けたような空間があったりとなかなか面白い。





 
↓ここでアクシデント発生! 急に具合が悪くなってここに担ぎ込まれ、天使のような優しい看護婦さんに看てもらって・・・。

何て妄想をついつい抱いてしまう、天使萌え~(あまつかもえ~、じゃないゾ!(笑))な病院がありました! おまけに近くには天使大学というのもあるし。

昨日も一昨日にもまたしても尿管結石に苦しみ、悲しい三連休を過ごした私でしたが、何で札幌へ行った時にならなかったのかなあ、残念(?)。
と思ったら、あれっ、泌尿器科がないっ、結局ダメだったじゃん・・・。

〔43〕北海道札幌市東区役所
よ~く見ると、ここにも時計台があるではございませんか。
この区の沿革を見てみると、昭和30(1955)年に札幌市に呑み込まれるまで存在していた札幌村に相当する区域。
慶応2(1866)年に幕府の命を受けた大友亀太郎という役人により開拓が始まり、「札幌黄」というタマネギを特産とした農村として発展。

役所前の通り→

区のマスコットである玉葱の妖精「タッピー」→
浜松で開催中の「ゆるキャラグランプリ2015」には撃って出ていない模様。

初めて札幌の地下鉄に乗ってみる→
ただし、東区役所前駅から環状通東駅までの一区間だけ。
札幌の地下鉄の特徴はゴムタイヤで走っている事。なので、線路の上を走っている普通の鉄道とは違って走行中は何だか違和感あり。

↓安政年間に建立された石狩国最古の古刹「本龍寺」

因みに同じ石狩でも、今の石狩振興局とは違って、もっと広かった当時の石狩国です。

↓この日楽しみの一つであった「札幌村郷土記念館」へ。

「札幌の開拓者である大友亀太郎や当時栽培が盛んであった玉葱を中心に、郷土史を語り継いでいく目的で開設された(Wikipedia)」博物館。
ところが、なっナント・・・。門に鎖が張られているのがお分かりでしょうか?
そうです、休館日なのでありました。なんでやねん・・・。こういう事がホント多すぎだわ。

大友亀太郎さんの像→
神奈川県小田原出身。記念館のある場所に彼の過ごした役宅が建てられ、「御手作場(おてさくば)」といわれる模範農場を開き、大友堀を開削して農業の基礎を築く。

大友堀の上流部分に当たる部分→
現在は創成川と呼ばれています(札幌駅の近くで写す)。

ションボリしながら苗穂に向かって歩きます。

↓一服しに入ったコンビニで見つけた、ご当地限定もの。

まさにトウモロコシ味の甘いお茶。でも私の好みではなかったわ・・・。

↓珍しくとも何ともないけどボーイスカウトの建物があるわいと、何げにボンヤリ見ていたその奥にひっそり佇んでいたものがこれ。



札幌村はタマネギが特産だったと先に述べましたが、それ以前はリンゴやブドウなどの果樹栽培が盛んだったようで、これはその名残りか。実は小ぶりでまだ酸っぱそう。
後で知ったことなのですが、この碑があるのは個人の敷地なんだそうで・・・。スミマセン。

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参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

136日目 炭鉱夫どもが夢の跡(3)~悲別駅

2015-11-19 23:40:30 | 道央
2015年9月20日(日)


9回表、則本が続投でマウンドに上がった瞬間、あっ、これは負けるかもと思い、実際そのとおりになって試合終了の瞬間すぐにテレビを消してしまった私であります。土曜日の楽しみがなくなってしまったがな・・・。

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この日の「旧炭鉱都市を訪ねてシリーズ」、3番目は上砂川町(ちょう)。

14時20分頃、このバス停で下車→

↓旧炭鉱都市であった証しは、イヤでもすぐに分かります。

ここを後ろに目を向けるとある高く聳える塔がそれ。近くに行ってみましょう。

↓上砂川町のシンボル的存在の「旧三井砂川中央竪坑」
 
「センタ」となっているのが、ちと笑える。
昭和62(1987)年に炭鉱が閉山した後の平成3年に「地下無重力実験センター」の実験棟として平成15年の廃止まで使われました。
実験内容は文科省HPによれば「710mの縦穴を地下にむけて真空カプセルを落下させることで、約10秒にわたって10-5Gの微小重力状態を10秒間作り出すことができる設備を利用して各種実験が実施された」という。何のこっちゃ?? とにかくこれは当時世界一だったという。

塔のちょっと先には「上砂川炭鉱館」→
平成17年からの無期休館が一転、昨年から期間限定で開館するようになり、今年は原則5~9月の土日が対象、というのを旅から帰ってきて知りました
まさにこの日がそうだったワケですが、残念ながら、上砂川町では充分な滞在時間を確保できなかった事情もあり入館を一顧だにせず。嗚呼、痛恨の極み・・・。

↓下車したバス停近くには昔の駅舎が見えます。



平成6年に廃止された函館本線上砂川支線の終点・上砂川駅、歌志内市の時も紹介したテレビドラマ「昨日、悲別(かなしべつ)」で」では、この駅が「悲別駅」という設定で登場。
昭和59年のドラマですが・・・、このドラマが放映された事は全く記憶になく、「山河燃ゆ」「心はいつもラムネ色」程度しか知らんがな・・・。
鉄道が走っていた頃でも私はここに来た事はなく、その当時は、下車したバス停前に駅舎があったようで(下車したバス停は「上砂川駅前」という停留所だったらしい)、今は100m程奥に引っ込み、しかも向きも90度回転させております。因みに増毛でも触れた映画「駅 STATION」でも使われたという。

砂川駅方向→
昔はいっぱい線路が敷かれていたんだろうね。石炭満載の貨物列車で埋め尽くされた様子が目に浮かぶようだ。

町のメインストリート(道道114号線)→
人はほとんど見かけず、寂しい限り。かつて国を支えた炭鉱都市がかくなる姿になってしまうのは非常に忍びない。安倍さん、石破さん、早く何とかして下さい・・・。

(545)北海道空知郡上砂川町役場
日本で一番人口の少ない市である歌志内市とたいして変わらない3,400人程が住む町。
明治32(1899)年に福井県鶉(うずら)村(現在の福井市、現在でも上砂川町には「鶉」という集落があります)から来た9名による開拓が町の始まり。
昭和24(1949)年に当時の砂川町と歌志内町の一部を分割して成立。

またもバスで砂川市に入ります。
近くの遥か彼方まで一直線の函館本線を眺める→
この直線区間は約20kmはあるでしょうか、線路を敷設した当時は全く障害物がなかったんでしょう、ただただひたすら真っ直ぐ。

ところが道路の方には更にこれを上回る29.2kmの、道路としての日本一の直線区間(美唄(びばい)市-滝川市)があります。
国道12号線のこの区間です→
ただし、砂川から滝川までの間が若干曲がっているとかで、実際は27.7kmみたいですが。

ただ、鉄道にしても道路にしても「すげぇまっすぐー、ワーワー、キャーキャー」と大喜びしている訳にはいかない。
国道12号線の前身は「上川道路」といい、建設されたのは恐らくロクな機械もなかったであろう人力が頼りの明治19(1886)年で、約90kmの道路をたった3ヶ月で完成させてしまう。そして、ここも含めて北海道中の道路・鉄道建設、炭鉱などの労働の担い手となったのは多くの囚人たち。
とにかく、北海道へ行ったならば前にも紹介したことがありますが、月形樺戸(つきがたかばと)博物館に行って北海道開拓時代の負の側面を多くの人に知って欲しいと思います。

砂川オアシスパーク→
180haの敷地内に100ha遊水池がある市民の憩いの場所。因みに市民一人あたりの都市公園面積は、平成26年3月現在で208.46㎡と日本一

樺戸連山も一望できます→

(546)北海道砂川市役所
歌志内市の地名の由来となったアイヌ語「オタウシナイ(「砂浜の多い川」の意味)=ペンケウタシュナイ川」を意訳した地名。因みに上砂川町は、ペンケウタシュナイ川の上流にあるから。
明治19年にたった1世帯5人が入植したのがスタート、その後砂川は農業も営みつつ、工業都市としても発展する。ただ、ここも御多分に漏れず人口減少には苦悩しており、現在約17,800人。なので、市民一人あたりの都市公園面積は拡大の一途で日本一はしばらく安泰と思われる(喜んでいいのか?)。

↓国道の西側に並行する飲み屋の多い歓楽街「柳通り商店街」


東側には「東1条南通り商店街」→
それにしても見事なシャッター商店街だ・・・。

↓国道12号線には多くの菓子屋があるので、「すながわスイートロード」と呼ばれています。

滝川方向のこの先をずっと行くと、今年6月に起こったあの惨たらしい飲酒運転による死傷事故現場があります。おまけにその事故後、共産党の砂川市議と砂川署の巡査部長が飲酒運転していた事実が発覚、砂川市はあたかも「飲酒運転天国」の様相。やりたい放題。

↓砂川駅から一路札幌へ。



この日の宿泊地は、恋の町・札幌でございまする。

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136日目 炭鉱夫どもが夢の跡(2)~日本最弱の市

2015-11-16 23:42:37 | 道央
2015年9月20日(日)


↓雨を避けようと乗ったバスは山間部に入り、長いトンネルを抜けると歌志内(うたしない)市に入り、その最初のバス停で下車します。

この間たったの10分。それに雨脚は全く衰えておらず、避難した意味なし。

いつもであれば、市町村の紹介は役所・役場の写真でするのですが、先に歌志内市について触れておこうと思います。

私が日本地理に興味を持ったのはもうだいぶ昔の小学校低学年の時でしたが、その時から歌志内市の存在は知っておりました。
何故なら、その頃には既に日本で一番人口の少ない市だったから(初めて手にした日本地図帳に市の人口一覧表が載っていたので)。
そしてそれは今も変わらず今年の10月31日現在、その数、たったの3,695人市のHPによる)。
もはや村どころか、集落レベル。何故かくも悲惨な状況になってしまったのか?

一番は何といっても炭鉱の閉山によるもので、市HPの「人口と世帯数の推移」のページを見ると、最高は昭和23(1948)年の46,171人、市制が施行された昭和33年は40,697人。まあ、ここらはまだいいのですが、昭和38年の炭鉱の閉山で一年間で一気に8千人減り、昭和40年代の閉山でさらに激減、昭和56年にはついに1万人を切ってしまう。
いつから「一番人口の少ない市」のという偉大なる冠(?)を被り始めたのか知りませんが、恐らく相当長年ビリをぶっちぎっているものと。そして2位の夕張市(北海道)は9,100人程なので、その座は当分安泰と思われます。めでたしめでたし。

市を自ら返上して町村に降格も可能らしいですが、住民サービスの低下につながるとして、目下その考えはないよう。せっかく手にした市なるブランドは失いたくないらしい(今では市が大増殖してしまってブランド力はかなり低下していると思うんだけど)。
近年では町のスイス風景観づくりや、かもい岳山麓など、観光に力を入れているようですが、それだけではなかなかいかんともし難いように思われます。

さてさて、道道114号線をバスの行ってしまった方に歩いていくと、早速気になる建物が左手に見えてきます。

↓悲別(かなしべつ)ロマン座



旧住友上歌鉱の職員厚生施設として映画・演劇などが催され、昭和59(1984)年のテレビドラマ「昨日、悲別で」のロケ地としても使われた施設。
超有名な映画「幸福の黄色いハンカチ」でも登場したらしく、はて?、どの場面だったのだろうと平成24年から更新された形跡のないHPを見てみると、フォークグループが「銀座カンカン娘」を歌っている場面でした。それなら覚えておりますわ。
それにしても「悲」の文字が、歌志内の悲哀を一層引き立たせているような感じだ・・・。

さらに歩く→
右の共同住宅がいわゆる「スイス風景観づくり」の一貫としてのものなのでしょう。左の昔風共同住宅とのアンバランスさが妙にいい。

↓僅かながらでも人を呼びこもうと役所は苦心しているんだけど・・・。

分譲が始まって数年は経っているようですが、なかなか完売しません。

東光(とうこう)交差点→
その交差点から私が立ってる左側の道(駅前通り)を歩いてみる。

↓手前のトンガリ屋根の建物は「歌志内市郷土館ゆめつむぎ(入館料\200)」。


↓ちょっと覗いてみようかね。



1階には家庭内で使われた用具や国鉄歌志内線などの物、地下には炭鉱で使われた機械などが展示されています。
過去にはこんな輝いた時代もあったんだぞ、と言わんばかりの資料館。

ちょっと進む→
左の郵便局は歌志内駅があったという場所。

↓「ゆめつむぎ」でも展示されていましたが、市のHPにも載っていた昭和40年代の駅前通りの写真。

賑やかで、一見都会にも感じられる。が、・・・。

50年でこう変わっちゃいました・・・→
後方の山(ズリ山らしい)も消えてしまっているし・・・。
少子化がさらに進んで、50年後にはこうした光景が至る所で当たり前のようになってしまうのかも知れない。日本の将来、大丈夫なのだろうか?

打ち捨てられたスーパー→

↓灯が消えた感の市街地の建物と比べてお寺さんはかなり立派です。


さて、お昼の時間なのでどこかでご飯をと探しましたが、食べられるようなお店は一軒もない!
仕方なく道民の道民による道民のためのコンビニ「セイコーマート」が分譲地近くにあったので、そこで何か調達しようと入ったらビックリ!
何と、店内に9月だというのに暖房が効いている・・・。こちらは暑くてずっと長袖を捲くりあげているというのに。どうやら北海道の人とはお肌の感覚が相当違うようです。

鉄道跡らしきを歩く→

(544)北海道歌志内市役所
地名は、「砂浜の多い川」を意味するアイヌ語「オタウシナイ」から。その「オタウシナイ」とは市内を流れる「ペンケウタシュナイ川」の事で、役所の裏手(写真左側)に流れています。

道の駅「うたしないチロルの湯」→
宿泊ができる温泉施設。私は立ち寄れませんでしたが、目の前をドライブなんかで通ったならせめて一風呂浴びて下さい。風呂がダメなら買い物でも。歌志内市のために・・・。

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参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

136日目 炭鉱夫どもが夢の跡(1)~爆笑の777階段

2015-11-13 23:56:13 | 道央
2015年9月20日(日)


祝! 前日(9月19日)に北海道日高のアポイ岳ジオパークが世界ジオパークにも認定されて、朝から道内のニュースはその話題で持ち切りであります。

旭川駅8時10分発の電車に乗るのは前日と同じ。ただ違う点は、下車駅は滝川であるという事。
2年半前に来た時を懐かしみながら軽く滝川駅周辺をブラブラしてから、根室本線9時36分発の各駅停車に乗るワケなんですが・・・。
この列車、テツには超有名で、JR北海道が誇る看板列車(?)でもあります。

↓市街地散策に出る直前のその列車が発車するホーム

普通の待ち客と待ちテツらしきのこの多さ。なので席取り合戦への参戦はあっさり放棄。
たかだか鈍行列車の何が多くの人を惹きつけるのか?

ここまで行くんです→
何てったって日本最長距離(300kmあまり)・最長時間(8時間半ほど)を走行する鈍行(早朝から深夜までひたすら走り続ける山手線電車があるらしく、それこそ日本一という噂もあるけど、ここはJR北海道の顔を立てておこう)。

連休中もあってか、デッキまで一杯→
車内は空調などないどころか、扇風機すらもないあたかも蒸し風呂状態。
このまま釧路まで行くハメになるのか・・・。死んぢゃいますよ、確実に。

↓勿論そんな甲斐性は全くを持ってございません。

乗ること15分で早々に脱出し、あばよ!(柳沢慎吾風)と列車を見送る。
釧路まで行こうとしている乗りテツども(それを企てている勇者はきっといると思うんだけど)、せいぜい頑張ってねぇ~。

降りた駅は赤平(あかびら)駅→
雲は相変わらず多いけど、久々の晴れで気持ちがいい。
駅舎は6階建てで「赤平市交流センターみらい」と同居しているムダに立派なもの。センスの欠片も感じられないし。

駅前の様子→

(543)北海道赤平市役所
地名はアイヌ語で「山稜の崖」を意味する「アカピラ」から。
明治24(1891)年に岡山・熊本からの34人により開拓が始まり、大正7(1921)年になると茂尻炭礦が開鉱すると大いに繁栄。ただ、昭和30年代後半からは衰退の一途となり、平成6年に最後の住友炭礦が閉山してしまう。
昭和35(1960)年には6万人近くいた人口も、以降は当然ジリ貧となり、今では11,000人で1万人割れも時間の問題。

駅のウラ側「こもれび通」へ→
ここに来たとたん、木漏れ日すら消え、雲行きが次第に怪しくなってくる。
以前は赤間炭鉱(昭和12(1937)年~昭和48(1973)年)の施設があったみたいですが、今ではほとんど解体されてただの広っぱと化しております。

↓そんな中に、パチンコ好きを大いに刺激しそうな看板がお目見えします。

旧赤間炭鉱ズリ山階段。「ズリ山」とは採掘で出た石などを積み上げた山で、九州では「ボタ山」という。標高197.65m、階段の数は777で日本一。聞くところによると、他の場所でもこれ以上の段数のものを作ろうとしたら、赤平市が泣き落しにかかり、高さだけを譲って段数日本一は守りきったという。

アノ手コノ手で赤平のアピールをしてます→

↓選炭工場跡が階段入口にポツンとあります。


ではでは、登ってみましょうか!→
写真に入り切りませんでしたが、この右側に「熊出没注意」の看板もあったりする。
怖え~。もちろん熊よけの鈴など持ってはいないので、家のキーをガチャガチャ言わせて登ります。

↓頂上まで7割のこのあたりで既に膝はガクブル。笑いが全く止まりません。

この年末にさらに段数の多い某観光地に行く予定なので、登る訓練をしておかないと・・・。

↓ようやく着いた頂上

眺めは誠によろし! 遠くの景色までもが手に取るようにわかる。そして、左の方からシャワー付きの黒い綿の塊がゆっくりと迫っていることも。・・・。

↓右手側に見えるこれは、赤平のシンボル「旧住友赤平炭鉱立坑」。

高さは約44m。地下深くまで鉱員を送り、採掘した石炭を引き揚げるのに使われ、昭和38(1963)年に完成と比較的新しい施設。

ダメージを受けた足を引きずりながら下の街を歩きます。

↓御殿倶楽部(通称「山田御殿」・昭和26(1951)年築)

地元石炭商「山田さん」が建てた総秋田杉造りの建物で、現在はお蕎麦屋さん。

↓「やすらい通り」という商店街に来たら、ついに大振りの雨に捕まってしまいました。


バスに乗って一時避難じゃ→

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参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

135日目 一部区間廃止予定の留萌本線に乗ってみた(5)

2015-11-11 22:45:13 | 道北
2015年9月19日(土)


留萌本線沿線の2市3町のうち、最後の訪問地となったのは留萌振興局の中心地・留萌市。
雨曇のような空ですし、日没も1時間半後に迫っておりますので、四の五の言っていないでまずは散策開始・・・。

駅前通り→
とは言いつつも、左側の「魚や」とある看板のお魚屋さんで、実家へのお土産選びでかなり時間を費やしてしまう。
送ったのはニシンやホタテなどなどで、千葉に帰ってきて私も食べましたがやっぱり美味かったわ。しかもムチャクチャ安かったし。もっと買えば良かった・・・。

留萌振興局
1市6町1村で構成される北海道西北部に位置する南北に長い地域を管轄。
かつての基幹産業であった農業や漁業、鉱業が枕を並べて落ちぶれたために人口も激減し、現在5万人程度と東京ドーム一杯分。しかも管内の全市町村が過疎地域の指定を受けているという凄まじさ。一体ドーなるんだろう、ここ?

振興局前の歩道橋は、留萌では「痛歩道橋」とされているらしいんですが・・・。
なんてことはない、「豊岬あゆみ」「千望みさき」という沿岸バスのイメージキャラクターが描かれている横断幕があるだけ。これで「痛」か・・・、ふざけているわ。

↓振興局の前の道路は「国道231号線」で西向き(海のある方向)に歩きます。

車は結構頻繁。反面たまに見かける人、それもジイさまバアさまばかり。

↓この「旭町3丁目交差点」を北方向に折れ、再び駅の近くへ。

ここらで増毛灯台にいたおっちゃんの見立て通り、本格的な雨降りとなります。

全く「萌」感のない建物→
せっかく「萌」という字をを売りにできる町なのだから、萌え系キャラとか少女とかのイベントを開催するのもありかなと。

ボロすぎる(笑)お宿→
夏限定のミツバチ(死語だな)の巣で、ライダーやチャリダーには超有名らしいです。
徒歩ダーでも泊まれそうだし、貧乏倹約汽車旅派も是非どうぞ。

↓「開運だるま通り」という商店街を通って、再び国道に向かいます。

このあたりは開運町という町名ですが、縁起のいい地名とは裏腹に廃れ感剥き出し。

↓この交差点で右に曲がり、再び国道へ。




「留萌十字街」交差点→
この先の黄金岬とは、夕陽に映し出された群来(ニシンの群)がきらきらと黄金色に輝きながら岸をめがけて押し寄せたことからの命名された岬で、あたかも「留萌の黄金時代」を思わせる名前。
夕日がとても綺麗らしく、今回それを見るのを密かな楽しみとしていたのですが・・・。早朝になら一度行ってはいるんですけどね。

(542)北海道留萌市役所
「る」から始まる珍しい地名。他にはリゾート地・留寿都(るすつ)と北見市の留辺蘂(るべしべ)(いずれも北海道)くらいしか思い当たらん。
地名はアイヌ語「ルルモッペ」が由来(「汐が奥深く入る川」という意味で市内を流れる留萌川を指す)で、明治になってから当初は「るもえ」と呼ばれていたようです。
江戸時代初期に「ルルモッペ場所」が開かれて以降はニシン漁で栄え、今でも水産業は基幹産業。
昭和40(1965)年の人口4万人をピークに右肩下がりの現在は2万2千人あまりで、今後も下がる一方の見通し。そこで市は25年後の「14,678人の人口維持」(これでも非常に寂しい数字ですが)を目指すべく「留萌市総合戦略」を策定しました。果たしてどうなることやら。

↓坂を下って留萌本線のガード下を潜り、港へ足を伸ばしてみます。



上の写真の廃線跡は「留萌鉄道築港線」。

↓留萌港




石倉倉庫群→
漁業基地としても、貿易港としての物流拠点基地としても、この地域にとっては重要な港。
たた、人はいないし暗闇が迫っているせいか、次第に心細くなる。

留萌の代表的な旨いもんはお寿司。しかもビックリするほど安いけど、雨脚は相変わらず強いし、早く旭川のホテルに戻ってゆっくりもしたい。

↓留萌鉄道築港線の廃線跡と留萌本線を横目に駅に戻りますか。


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135日目 一部区間廃止予定の留萌本線に乗ってみた(4)

2015-11-08 23:59:51 | 道北
2015年9月19日(土)


↓着くなり撮影会が始まった増毛(ましけ)駅です。



見てのとおり、車輪止めで線路がプッツリ途切れていて、終着駅という郷愁を感じられる駅。
昭和56(1981)年封切りの映画「駅 STATION」のロケ地でもあります。見た事はないけど。
5年前の5月の連休に初めて増毛駅に来たのですが、その時は夜7時頃でしたので既にあたりは真っ暗で、どういう所なのかよく分かりませんでした。なので、今回が実質初めて来たようなもの。ナルホド、こういう所だったのね。

駅前→
左側の建物は昭和8(1933)年築の「旅館富田屋(今は営業していません)」。最初に駅に来た時に目に入ったのがコレ。堂々たる佇まいに圧倒されたものです。
右側は「旧多田商店(昭和8年築)」で、今では駅前観光案内所となっております。かつては雑貨屋さんでしたが、「駅 STATION」では「風待食堂」として使われた建物。

折り返しまで50分ありますので、ざっと町の散策をします。

↓駅南側の小高い丘の上にあるのが「増毛灯台」。


↓ここからは留萌湾が一望できます。


たまたまいた現地の人と思しきおっちゃんが、ありがたい事に解説をしてくれる。
「遠くに見える平べったい島は天売島(てうりとう)、その奥にかすかにとんがっているのがあるでしょ?それは利尻富士。ここから160kmくらいかな。利尻富士はめったに見えんから、ラッキーじゃのぉ。」
一年にどれくらい見られるかと尋ねると、「数回しか見えん」。それは本当についてるわ!
写真ですか・・・。私のデジカメは利尻を捉えるほど高性能ではありませんです。スミマセン。
ただ、その次の言葉が・・・。
「天売と利尻の両方見えるということは天気は下り坂ということだ」。
今後の天気予報は知っていましたが、やっぱりそうなんですか・・・。すると言ってる傍から、パラパラ降り出してきた。おっちゃん、大当たり! でもすぐに止んでしまいましたが。
ところで、天売島隣の焼尻島(やぎしりとう)は見えなかったような気がするんだけど、どうだったかな?

さらに南に行くと「旧増毛小学校」→
昭和11(1936)年築の「戦前記都市型木造校舎の中では北海道内最古で最大」という。

(541)北海道増毛郡増毛町(ちょう)役場
今から250年以上も昔に漁場が開かれて以来、ニシン漁で繁栄を極めましたが、今では人口4,700人ほどの観光が主流といった感じの町。
「増毛」、読んで字の如く、オツムのお悩みの方の希望の地(?)として密かな人気だそうで、それにあやかってか、「増毛町の願い」というヘアローションもあるし。 効き目?知らん。
ただ、地名の由来はアイヌ語「マシケイ」、つまり「カモメの多い所」という意味なので何ら関係なし。
漁場にカモメの群れが集まることかららしいけど、そう言えば、ついこの間全焼してしまった青森県八戸市の蕪嶋(かぶしま)神社(昨年5月に行っております)でも、ウミネコが魚の群れのいる場所を教えてくれるとして大事にされてきたんだっけな。

役場のすぐ近くにある「増毛厳島神社」→
一見、ここも「増毛」に効果あるが如き神様に見えますが、京都嵐山に「御髪神社」というれっきとしたオツム用の神様があるので、ゆめゆめお間違えないよう。

↓低地に降りると、増毛の歴史を感じさせる建物を見ることができます。


↓明治15(1882)年創業・北海道最北の造り酒屋である「國稀酒造」


↓国指定重要文化財・旧商家丸一本間家(明治10~30年代築)


旅館増毛舘(昭和7年築)→

早晩ここには再び来ます。もっと性能のいいカメラを携えて(笑)。
その時、駅舎や駅構内はどうなっているでしょうか?

行きより乗客数が増えている感じ→

↓留萌駅に16時11分到着。





5年前、駅前の駐車場で車中泊したんだよなあ。懐かしいデス。JRさん、その節はすみませんでした。

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135日目 一部区間廃止予定の留萌本線に乗ってみた(3)

2015-11-07 01:07:40 | 道北
2015年9月19日(土)

朝起きる。んっ?! んっ?!
左脇腹から背中にかけてムチャクチャ痛い・・・。えっ?、何、この激痛は?
寝ている間に変な格好をして筋でも痛めたのかな? でもそんな痛みじゃないぞ?

しばらくしたら落ち着くかなと思って様子を見ていましたが、一向に痛みがひかない。
あまりの激痛に仰向けに寝てみたり、立ってみたり、胡座になって体を丸めてみたり、四つん這いになってみたり、それはそれはありとあらゆる格好をして一番楽な姿勢を探ってみるも、どれもこれも甲斐なし。おまけに冷や汗は出るわ、吐き気を催すわ・・・。
痛みはますます酷くなり、床でのたうちまわって、「痛いよ~痛いよ~」と泣き叫ぶ(コレ本当です)しかなくなる。

正体不明の激痛に不安と恐怖が否応なく我が身に押し寄せる。
一体どうなってしまったんだ俺? 癌にでもなったのか? もう、あの世に召されないといけないのか?
このまま逝ってしまったら、色々な人に迷惑かけるなあ・・・。
連載中のこのブログも「金色夜叉」のように中途半端な状態で終えないといけないのか?

いよいよ耐え切れず、フラつきながら近くのお医者さんへ。
病院に入るなり、末期的な客が来たという目で見られるし(笑)。
動くのもしんどい中、トイレで採尿したり、痛み止めの座薬を入れたり(自分で入れた)、レントゲンやCTスキャンを撮ったりなどして、グッタリしながら診断を待つ。
果たしてその結果は・・・?





尿管結石

病院から帰ってきてこれを調べてみたら、「三大激痛」の一つに数えられ「七転八倒の苦しみ」と表されているようです。まさにそうだわ!
女性でしか分かりませんが、結石と出産では、結石の方が痛かったという人もいるようだし。

原因はいろいろあるらしいですが、一番思い当たるのが「水分不足」。
普段からあまり水を飲まないので、実は以前から結石ができなければいいなとは思ってはいたんです。ただ、結石が溜まった時にはどうなるのかまでは知らなかったんで。

写真を見せてもらいながら、先生の診断結果を聞く。
「ほら、ここに石が一つある。でも米粒以下の大きさだ。もう峠は越したろう。じき石は出ていくだろうから、それまでのガマンだね。たいした症状じゃないから安心しなさい」
やれやれですよ、全く・・・。
でも、これほどまでに恐怖のどん底へと突き落としてくれた、たった一つのちっぽけな石、恐るべし

そんなこんなで午前中は仕事どころではなく、午後はかなり痛みも治まってきたけど「痛み疲れ」でのダメージがハンパなく、結局今日一日生ける屍状態。

とにかくこれになったら、地獄のような強烈な痛みですので、是非味わってみて健康にはくれぐれもご留意下さい。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

前置きがやたら長くなりましたが、いよいよ留萌本線の留萌-増毛(ましけ)の廃止予定区間です。

留萌本線の現状と廃止理由についてはJR北海道のプレスリリースに詳細に載っています。
曰く、一日上下13本走らせて乗客は平均たったの39人! で、一列車あたり3人であるとか、
曰く、一昨年度の700万円の収入(そこらのサラリーマン並み(笑))に対して、25倍以上の経費を要し赤字は1億6千万円以上であるとか、
曰く、雪や大雨などでの土砂崩れに対する防災工事費は数十億円かかるとか。
これじゃあ、しょうがないな。というか、こんなんでよく生きながらえていたというのが正直な感想。

留萌駅を出た列車内→
20人はいますかね、近年の一日平均乗客数の半分をここでめでたくクリア!

さて、留萌から増毛までの間に、瀬越(せごし)、礼受(れうけ)、 阿分(あふん)、信砂(のぶしゃ)、舎熊(しゃぐま)、朱文別(しゅもんべつ)、箸別(はしべつ)の7駅があります。 全駅撮影しましたので、特別にお見せしましょう。

瀬越駅→

↓沿線にベッタリ並行する国道231号線、「日本海オロロンライン」と呼ばれる区間。

5年前ここを車で走りましたが夜間でした。こういう風景だったのね・・・。

礼受駅→

留萌からは海岸に沿って走ります→
家はそこそこあります。皆乗ってくれれば・・・。でもいずれ廃止される運命だったかな?
写真奥に見える山の先は厳しい断崖絶壁が続き、かつては船でしかたどり着けなかった陸の孤島「雄冬(おふゆ)集落」があります。

阿分駅→
タイミング良く忍者の如く現れた若者、ついでだ、このブログに登場させてあげよう。

信砂駅→

舎熊駅→

増毛の町が近づいてまいりました→

↓朱文別駅(左)と箸別駅
 

↓右手に増毛港を見て、増毛駅に到着。




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135日目 一部区間廃止予定の留萌本線に乗ってみた(2)

2015-11-03 23:34:23 | 道央
2015年9月19日(土)


いち早く留萌本線の廃止予定区間に馳せ参じたいところですが、そうはさせじと留萌市までに2つの町があります。
市町村巡りというお荷物名目も抱えている以上は寄らざるを得ませんが、幸か不幸か、これらにはさして見たい所もないので、余計な時間をかけられずに済みます。

石狩沼田駅→
昭和47(1972)年まで、札沼線という路線がこの駅まで乗り入れておりました。
その事は、以前新十津川駅に行った時に触れております。

↓切符を販売しているという事は、それなりに利用客がいるようです。

ただ、何故にハンパな13時40分までか意味不明。

駅前左手側→

右手側→

(539)北海道雨竜郡沼田町(ちょう)役場
明治27(1894)年に、富山県から沼田喜三郎さんというお方ら18戸が移住して来たのが町の始まり。昔は炭鉱があったものの閉山し、今では稲作を中心とした農業が主要産業の、約3,400人が暮らす町。

↓ちょっと市街地を離れると、このとおり一面水田だらけ。


↓さらにまっすぐ進むと、留萌本線と札沼線との分岐点であったらしき場所。

新十津川方向に目をやっても、鉄道跡らしきカケラすら見当たりません。

↓上の写真の青い色の小さな物置の左側にあった遺構っぽいもの。

奥に留萌本線の線路があります。

↓お昼は街中のこのお店
 
お値段はかなり良心的。冷やしたぬきそばを戴きました。

↓深川方面に戻り、秩父別(ちっぷべつ)駅へ。


↓一日上下16本しか止まらない無人駅に、ムダに貼り付けられたタテの駅名標(笑)

一枚しか発注しなかったのに、間違って余分に注文してしまい、やむを得ず柱という柱に貼っつけたものと、勝手に想像。

↓昭和30年頃の駅(留萌駅に飾ってあったもの)

駅構内といい、人の数といい、隔世の感ありを思わせる一枚。

駅前の通り→
急にお日様がはっきり顔を出して、暑くなった中をひたすら歩きます。

↓各家々の庭には灯油の貯蔵タンクがあり、様々な形が見られ面白い。
 

↓(540)北海道雨竜郡秩父別町(ちょう)役場

アイヌ語で泥炭地を意味する「チックシペツ」が由来。なので、埼玉県の秩父(ちちぶ)市とは何ら関係なし。田舎っぽいという点は似ているけど。
明治28(1895)年に屯田兵200戸の入植が町の始まりで、泥炭地は土地改良の末、多くが水田となっております。
人口は約2,500人ですが、45年前の半分と右肩下がり。何とか町でも人口減に歯止めをかけるべく、定住する人には1平米あたり1円!で宅地を叩き売りするという何ふりかまわぬ策に出ております。
1区画460平米あるので、460円か・・・。もっとも保証金が60万円必要だけども。こんなハンパな事しないでタダであげちゃえばいいのに。
秩父別に住みたい!という勇者お方は町のHPをご覧下さい。

↓駅の南側にある「道の駅鐘のなるまち・ちっぷべつ」

「百年記念塔」と呼ばれる塔のてっぺんには国内最大級のスイングベルが設置されていて1日4回鳴り響くとの事。展望台もあって中に入れるらしいです。
塔の左側には「秩父別温泉ちっぷ・ゆう&ゆ」という温泉施設があります。

秩父別駅13時33分の列車は混んでおりました。仕方なく後ろの方に陣取ります。

恵比島駅(沼田町)→
朝の連ドラ「すずらん」で、ロケに使われた明日萌(あしもい)駅舎のある駅。
5年前のゴールデンウィークにここに自家用車で訪れたけど、ホームにはまだ大雪が積もっていてビックリしたわ。

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135日目 一部区間廃止予定の留萌本線に乗ってみた(1)

2015-11-01 23:57:17 | 道央
2015年9月19日(土)


宿泊した旭川のホテルでは、深夜にどこかの部屋からかすかに聞こえる音楽で目が覚める。
神経がとても繊細な私はそれが気になって気になって眠れなくなる。カンベンしておくれよ~。
↓てなワケで、睡眠不十分なまま朝を迎えての出発です。

北の恵み 食べマルシェ」とは、平成22年から旭川市で行われている食のイベント。非常に魅力的な催しではあるのですが、参加は見送り。

さて、今回の旅は今年の3月から計画を練っておりまして(気が早すぎ?)、この日の当初の予定は、宗谷本線沿線の旭川より北の町巡りをする事となっていました。
そんなシルバーウィークを今か今かと待っていた最中の6月、寝耳に水の「留萌本線廃止の検討」の報道があり、結局8月になって正式に来年度中の「留萌-増毛(ましけ)の廃止が決定してしまいました。今まで留萌本線は一度も乗ったことがなかった上に、すぐ近くまで来ているワケだし、じゃあ「いつ乗るか? 今でしょ!」という具合で俄かに変更。

↓旭川駅8時10分発の電車に乗り、約25分で留萌本線の起点駅・深川駅へ。


留萌本線の列車は11時8分までないので、約2時間半の待ち時間でゆっくり深川市内をブラブラしてみます。

駅前の通り→

この日も曇りで、前日と打って変わって早朝というのもありムチャクチャ寒い。駅前ビルでホットココアを飲んでいると「もうすぐ雪の季節だね~」なんて会話が聞こえてくるし。
そんな中を駅を背にまっすぐ歩きます。

深川市地域交流施設プラザ深川→
旧拓銀の建物を使った施設。なるほどいかにも銀行っぽい建物。

↓その交差点
←札幌方向

←旭川方向

↓そのまま進むと石狩川に架かる深川橋が現れます


←下流方向
今の車道部分は昭和37(1962)年にできた3代目の橋。

↓さらに行くと、かつて「じゃらん」の読者投票で北海道内1位に輝いたという「道の駅ライスランド深川」があるのは知っていたので、最初はそこに行ってみようかと思ってましたが、距離を見てやめる。


プラザ深川のある交差点に戻り旭川方向へ。

(538)北海道深川市役所
農林業が主流産業の町で稲作がメインですが、ソバの生産の盛んで国内第2位の生産量といいます。
明治22(1889)年に、華族組合雨竜農場が設立されたことなどをきっかけに開拓が始まり、昭和38(1963)年に市制施行。
地名はアイヌ語「ナエ(谷川)」が由来とする説や、市内を流れる大鳳川(アイヌ語では「オオホナイ」)を意訳した「深い川」とする説などがあるよう。つい最近開拓が始まったのに分からんのかい・・・。

↓駅東側にある「一已跨線橋」より北側の町の様子


南側→
ところで「一已」は何て呼ぶのかご存知でしょうか? 鉄オタならお茶の子さいさいでしょうが・・・。答えは「北海道ファンマガジン」にてどうぞ。

↓跨線橋から駅まで間は飲食店街が広がってます。

いや~、2時間半を潰すのは結構しんどく、まだ時間が余ってます。飲み屋が空いていればちょいと一杯やったんだけどな。
↓仕方なくさらにブラブラして、土曜市が催されていて賑わっているこの市場を覗いてみたけど買いたいものないし。




↓落雪防止の為だと思うけど、傾斜のある屋根にはこうしたものが施され、しかも色々なタイプがあってなかなか面白いです。


やっと列車に乗る時間になったよ・・・→
かつてこの駅からは、平成7年9月に廃止された深名(しんめい)線という路線が出ておりまして、廃止された年のゴールデンウイークに乗りました。
網走からの夜行列車で4時すぎに深川に着いて、5時すぎの一番列車に写真の左隣のホームから乗車したような気がしますがほとんど記憶なし。ただ、早朝の列車なのにやけに人がいっぱい乗っていたということだけは覚えておりますが。

さて、留萌本線の列車は立ち客はいないけど、席はほぼ埋まった状態で出発進行!

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