ゆっくりのんびり市町村廻り

何年かかるか、もしかしたらできないかもしれないけど、日本の全市区町村の制覇を目指して頑張ってみる!

165日目 ベタな呉を見て力尽きる

2017-03-04 22:34:25 | 山陽
平成28(2016)年9月18日(日)


全くお呼びでないのですが、生きていれば(恐らく生きていると思うけど)もう少しで勝手に1つの年齢がやってきます(法律的には誕生日前日の今日1歳加齢されます。ただし、24時00分になった時点でですが・・・)。
毎年の恒例行事ではあるんですけど、全然嬉しくないのもいつもどおり。
それに明日は日曜だから、誰かがお祝いと言ってどこかへ誘ってくれそうな気もしないし。
仕方ないから、一日愛犬と遊んでいようかな・・・。
と、ボヤいてみる。

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呉中通商店街で雨露をしのぎます→
ここは36万個のレンガを敷き詰めているので、「れんがどおり」と呼ばれています。
雨が原因なのか、魅力的なお店がないのか、休日にもかかわらず人はまばら。
ただ、この通りの周りには飲食店が多いので、夜になればまた違った姿を見せるのでしょうけど。

↓上蓋が取れると、さらに輪をかけてうら寂しい場末のような雰囲気になります。


堺川沿いを出て、海の方へと歩きます→

↓呉線の踏切を渡って、さらに進んだその先には造船所を始めとする工場群。


↓そんでそこは、かの戦艦「大和」が産声を上げた場所でもあります。

そのドッグは今でも残っているのですが、どれじゃ?

↓というワケで、大和ミュージアム(常設展示の見学だけなら¥480)に入ります。

せっかく呉に来てここに行かないと、「何で入らなかったの?」といわれなき非難を浴びるのも不本意だし。

やっぱりこれでしょう!→

↓雨降りにもかかわらず、寧ろ雨で他に行くところがないからなのか、かなりの入り。
 



ところで、「大和」と「武蔵」の超ド級戦艦コンビは有名ですが、実はこれらは3姉妹になる予定だったのをご存知でしょうか?
もう一人の姉妹とは「信濃」。
戦艦として建造され始めるも空母に変更され、横須賀から呉への回航中に潮岬沖で沈められてしまう。
しかも、一度の実戦に出ることなく・・・。
ある意味「大和」「武蔵」よりも可哀そうで惨めな運命の軍艦でした。

↓ついでに「大和ミュージアム」の目と鼻の先にある「海上自衛隊呉史料館」へも。
 
愛称は「てつのくじら館」で、入場は無料。
「くじら」を名乗るだけあって、確かにまあ、この潜水艦のデカさには圧倒されますね。

↓ここもなかなかどうして、かなり人気があります。
 

これらを見終えて、最早疲労困憊目一杯、ただただ早く帰りたくなりました。
↓重い足取りでペデストリアンデッキを通って呉駅へと向かい、14時4分発の電車に乗ります。


市街地だけでも他にも、旧呉鎮守府庁舎やアレイからすこじま、大和神社、歴史の見える丘、「千福一杯いかがです♪」のCMで有名な醸造元・三宅本店に行かずに去るのは後ろ髪を引かれる思い。
でもそれ以上に、両城という場所にある超急斜面に張り付いた住宅地とそこにある200階段にはどうしても行きたかったので、これは断腸の思い。
でもでも、それ以上にそれ以上に疲れ果てました・・・。
もっと言うなら、安浦漁港の護岸として使われてるコンクリート船、音戸の瀬戸、大崎下島の御手洗集落へも行ってみたいしで、悩ましすぎるゾ、呉。

広(ひろ)駅で三原行きに乗り換え→
坂・呉・広、なにかと呉線には漢字一文字の駅が多く、おまけに仮名2文字駅はこれらに加え「やの」「あと」があったりする。

↓瀬戸内海を眺めながら東に移動。
 

↓重要伝統的建造物群保存地区に選定されたここの街並みは是非見たいし、


↓相撲取りのような地名のここから出ている船に乗って、うさぎと毒ガスで有名なあの島へも行きたい。

こんなに欲張って果たして両城に辿り着けるんかいな?

↓福山で酒つまみを買い漁って、17時59分発「のぞみ50号」に乗って長旅にやっと終止符を打ちます。
 

 

165日目 ゲリラ豪雨でダイヤが麻痺した呉線

2017-03-02 23:54:30 | 山陽
平成28(2016)年9月18日(日)


まずはローカルネタから。
「さくら野百貨店仙台店」が破産したというニュースを耳にしました。
私が仙台に住んでいた頃は「丸光」と呼ばれ、一番よく利用したデパートでした。
仙台から千葉に引っ越して後に仙台に行ったときに、「ビブレ」やら今の名前に変わっていてビックリしたけど、今回の衝撃度はそれ以上。昨年、せっかく70周年を迎えたばかりだったのに・・・。
「丸光」同様よく入った「藤崎」はこれからもずっと頑張ってくれるよね?
知っているものがなくなるというのはとても寂しい事なので。

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夜行バス泊も入れての4泊5日中国旅もようやく最終日を迎えました。しかも雨で・・・。

これまでは珍しくコウモリの出番はなかったのですが、さぞ羽を伸ばしたくて荷物の中でウズウズしていた事でありましょう、コヤツの祈りはめでたく?通じてしまいました・・・。

さて、雨と言えば、前の晩の猛烈なゲリラ豪雨ですが、かなり凄まじかったようです。
このたっぷりと湛えた泥水でそれは推し量れます→
が、話しはそれに留まりません。
3時間に降った雨量は77.0mmで、それはナント、広島市での9月の観測史上最大を記録したというおまけつき。

さて、予定では8時7分広島発の電車に乗るつもりも、これまでの疲れからか、朝支度がやや緩慢になってチェックアウトが遅れしまい、駅に着いたのは8時45分頃。

手許にある切符の経由地は「広島・新幹線・東京」と表示されていますが、元々新幹線でも在来線の山陽線でもどちらでも乗っていい上に、山陽線と呉線のどちらも可というのは、鉄オタの常識としてはイロハのイのレベル。
そこで、今まで乗ったことのない呉線を経由して東京に帰ります。

さてさて、肝心のダイヤと言いますと・・・。
駅に来て30分後→
ずっと待ちぼうけ、呉へは通せんぼとなっております。
その間、山口県・徳山駅からやって来る8時40分発の普通電車は20分遅れの案内放送があったのですが、結局広島に辿り着いた気配は全くなし。

ようやく呉への表示が灯りました→
8時40分発の事などいつの間にやら忘れ去られ、9時10分発の普通電車が回送されてきましたが突如運休のアナウンス、いきなり9時28分発の快速電車に変身するゴタゴタぶり。
停車する駅に行く人はいいけど、通過する駅が行き先の人はさぞ怒り心頭だよな。

そんなワケで10時少し前に着いた坂駅→

↓坂駅とその周辺。
 
駅から繋がっている歩道橋は「あさがおロード」と呼ばれているのですが、実際は「あさがお」のカケラを微塵も感じさせない橋。

駅周辺は「平成ヶ浜」と呼ばれる地区。
まだそれほど全国的にあまり使われている感じのしない「平成」を使った地名。
そのものズバリは熊本にあって駅もあるけど、近く「平成の世」も終わりそうだし、そうなったら「懐かしき平成」を忘れまじと大いに用いられるのかも知れません。

(620)広島県安芸郡坂町(さかちょう)役場
広島や呉へ近くて利便性は高いけれども、意外に人口は少なく約13,000人。
山が海にせまっているので平地は少ないようで、それが故に「坂」なる地名になったのかな?

町にはいくつかのウォーキングルートが整備されています。
ここは駅南口近くの「頭部(ずぶう)ルート」入口→
コース途中の「みはらし公園」では、その名のとおり広島湾の美しい眺めが一望できるらしのですが、この天気ではね・・・。

この見晴らしで我慢して下さい・・・→

街中をもう少し歩いてはみたかったのですが、ウロウロしていて次のを逃すと呉散策に大打撃となりそうなので、駅でずっと待機して11時ちょっと前に来た電車(元々は10時14分発)に乗ります。

せっかくの瀬戸内海も、つまらん眺めに→

そんなこんなでやっとこさ着いた呉駅→
10時頃の予定が、大幅に遅れた11時20分頃になってしまいました。これは痛い。

ここでもコインロッカーを探すも、広島駅同様少なく、どれもこれもいっぱい。
でもしぶとい執念で、クレストという駅ビルの食料品売り場で空きを探し当てる。
案外食料品売り場の階のロッカーは盲点なのかも知れない。

呉駅舎→

駅前通り→

↓オマエさんの戦闘力でこの雨雲をどかして欲しいものだけど・・・。


(621)広島県呉市役所
明治23(1890)年に海軍鎮守府が置かれてからは、それまでのわびしい漁村が急速に姿を変え、海軍・軍需工業で発展する。
なので、戦前戦中は列車が呉に近づくと軍艦が見えないようにする為、海側の窓の鎧戸を下ろすよう命じられていたのはよく知られたお話し。
現在は23万人ほどが住んでいますが、大東亜戦争中は倍近い40万人もいて、当時としては全国十指に入る都市だったのだという。
戦後は重工業都市として変換する。

昨年4月、日本遺産の認定を受けました→
そもそも「日本遺産」とは何ぞや?、ですが、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として文化庁が認定するもの(文化庁HPより)。
そして呉がどう日本遺産に関わっているかといいますと、他の有名な軍港とタッグを組んでの「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」。

「日本遺産」一覧を見ると、結構たくさんあって、これらだけを巡る旅をしたとしてもかなりのボリュームとなります。
誰かこれに特化したブログを始めてくれないかな?

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

164日目 原爆資料館を見て、川のほとりを歩いて

2017-02-26 14:07:43 | 山陽
平成28(2016)年9月17日(土)


原爆ドームとは川を挟んでの平和記念公園へ。

原爆の子の像→
石碑の上に立つは佐々木禎子さんの像。
手を合わせる人で絶えません。
折り鶴の話しは道徳だったか何だったか忘れたけど、小学生の時に授業で初めて知ったのですが、禎子さんの亡くなった年齢に近かったのもあり非常に衝撃を受けたのを覚えております。
それはそうと、以前は石碑の下に折り鶴が置かれていたような気がするんですが、私の記憶違いかな?

↓慰霊碑
 
こんな斜めった構図となっているのは・・・。

↓ここもお祈りする人が多くて、正面に這い入る余地がありませぬ。

奥にあるは原爆資料館(正式には広島平和記念資料館)で、これより入ります。
今回で3回目ですが、増築されてからは初めて。
入場料は200円。これでも充分安いのだけど、昨年(平成28年)4月にそれまでの50円から大幅値上げ。
凄まじいインフレ率ですが、元々赤字運営だったらしいし、赤字の削減分は原爆ドームの保存のために積み立てられるようなので、値上げしても全く問題なし。というかもっと取ってもいいような気がする。

これまでも何回かお話しした博物館実習、ここも見学コースに含まれていたのですが、展示品を見終えてボーッとしていていたせいか、気が付いたら周りに知った人は誰一人としておらず、慌てて探すもなかなか見つけられずに大学生にして迷子になったという恥ずかしい経験を持つ。
皆はとっくにバスの中で待機していて、乗り込んだ時の彼らの眼差しが実に痛かったな・・・。

↓ところで長崎の資料館も2度見学した事があり、そこは入るやズーンとした重い雰囲気になるのですが、ここはそれに比べるとそれほどではありません。

ですが、展示品というと・・・。
重い空気が体にのしかかったようになり、じゃんじゃん撮りまくるのが憚れてきます。
観覧者がいっぱいで、見るのもやっとだったというのもありますけど。
やっぱりこれは写真なんかより、実際に現地に行かれて自分の目で見るべきですね。

結局、館内で撮った写真は上とこれの2枚だけ→

外国、特に欧米の人がとても多く、とても熱心に見学していたのが印象的。
彼らに人気のある日本の観光地でもここは常に上位らしいです。

さて、そろそろ日没が近づいておりますので、残りは恒例行事をすることにします。
↓(619)広島県広島市役所・〔48〕広島県広島市中区役所

手前が市役所で、奥が区役所。
中国の政治・経済・文化の中心地。「札仙広福」に名を連ねるとおり、人口約120万人の支店経済都市。
明治維新までは浅野家42万石の城下町として発展し、今でこそ世界平和の象徴都市ですが、戦前は日清戦争時に大本営が置かれるなど軍事都市。
昭和55(1980)年に国内で10番目に政令指定都市となる。

↓国道2号線を東に向けて歩いていると、鮮やかな廃墟らしき建物が目に入る。

東千田公園にあるこれ、大学っぽい。

スマホを持っていないので後で調べてみたら、やはり「広島大学旧理学部1号館」であると。
昭和6(1931)年に竣工され、被爆したのですが倒壊は免れた模様。
何と素晴らしき廃墟ではないか!ぜひ入って中を見てみたいのですが生憎立ち入り禁止。
是非、管理者の広島市にはこれの有効活用を期待したい。

京橋川・平野橋下流方向→

〔49〕広島県広島市南区役所

↓昭和14(1939)年竣工の京橋川に架かる被爆橋梁・比治山橋。


橋のたもとにある道路票→

橋の東側は比治山→

よく目立っている多聞院という真言宗のお寺さん→
原爆投下の際、ここは臨時県庁的な役割を果たしたり、臨時救護所が置かれたりしたという。
知らなかったけど、倒壊を免れたここの鐘楼は、爆心地に最も近い被爆木造建造物なのだと。

再び広島駅へ行き、実家や知人への土産物を物色しているうちに真っ暗。
水面に照らされる光が美しい→

21時半あたりから突如として超ゲリラ豪雨に襲われる広島→
4回も避難勧告メールが届く。あの土砂崩れ災害があったが故、広島は特に大雨には神経質になっているのだろう。
ところで、この雨が翌日の行動に支障をきたすとは・・・。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

164日目 ありきたりですが、広島城と原爆ドームへ

2017-02-20 23:54:08 | 山陽
平成28(2016)年9月17日(土)


広島市の中区に入ります。
名勝・縮景園は門から覗くだけ→
広島藩主浅野長晟(ながあきら)が家臣に命じて元和6(1620)年から別邸として造らせた庭園。
原爆で壊滅状態になるも復元される。

次、広島城→
名古屋城・岡山城と共に「日本三大平城」の一つで、別名は鯉城(りじょう)。
よく知られた事ですが、広島東洋カープのチーム名の由来となったお城。
毛利輝元が天正17(1589)年に築き始めて10年かかって完成。

多くの川に囲まれているので、あたかもそれが天然のお堀の役割を果たしていて、さぞ防御は完璧!
と思いきや、水攻めをされたら一たまりもない脆弱なお城なんだそうで・・・。
そんな弱っちぃお城だからか、櫓の数が多く実に88基。この数は日本一なんだそう。
そうか、だからカープはあんなに弱かったのか!(関係ないし) 

日清戦争当時、ここに大本営が置かれましたが、原爆で壊滅→

あちらこちらにこうした被爆樹木があります→
爆心地から910m。大本営は吹っ飛んだけど幾つかの樹木は耐えました。
人間で言えば大ヤケドを負った状態だよな・・・、その強さには驚嘆するほかありません。

さて、登城します!→

天守閣より→
真横西側の基町(もとまち)高層団地。基町の地名は「広島開基の地」が由来なんだそう。

それはそれとして、ここは戦後、戦禍から生き残った人や引揚者、疎開から帰って来た人、在日朝鮮人らが建てたバラックで密集していて「原爆スラム」と呼ばれる、まさにスラム街だったらしい。
そのスラムを整備すべく建てられたのがこの団地。
団地のその独特な構造ゆえ建築計画学の教科書には必ず載っているらしく、集落ではないのだけど、次回広島を訪れた際は必ずこの中を散策するつもり。

ここは後で→

ちょうどホテルのチェックインの時間を迎えたので、そこへ行ってちょっとばかりの休息して再び外出。
ようやくお荷物であった荷物から解放されましたわ・・・。

鯉城通りを通って、広島の繁華街・紙屋町へ→

広島県庁

紙屋町交差点下の地下街・紙屋町シャレオ→
最初、あれっ?こんな地下街、昔あったっけ?と思ったけど、たいして最近でもないのですが15年ほど前に開業したという。
ま、広島市中心部は長らく御無沙汰でしたからね・・・。

↓かつて広島市民球場のあった所では「広島オクトーバーフェスト2016」絶賛開催中。

ドイツのビールやグルメなどが楽しめる魅力的なイベントで、しばしボッチ酒池肉林を満喫しようかと脳裏をかすめました。
が、これから原爆ドームや平和記念公園、原爆資料館といった厳かな場所に行こうというのに真っ赤な顔をしていたらかなりの不謹慎。
やめておきます。

たった一度だけここで試合を見たことがあります。
三次の時にもお話しした博物館実習を終え野に放たれたのですが、すぐに千葉に帰るのも何だし・・・。
って事で横浜大洋ホエールズ戦(古い!)を観戦したのでした。
そして遠路遥々南宮崎からやってきた今は亡き寝台特急富士でのんびり帰ったのでした。

相生通りの紙屋町交差点方向→

↓原爆ドーム
 
負の世界遺産なんだよな・・・、いつ見ても重苦しい気分になるけども、平和の象徴でもある。
これを未来永劫守っていくのは我々日本人の責任なのだな、と改めて思います。

高校生が熱く核廃絶を訴える!→
偉いな。私が高校生の頃と言ったら遊んでばかりだったし。
その情熱に惹かれたか、多くの人達が耳を傾けておりました。

原爆ドームの東側、程近い所にある「広島本通商店街」の入口→
東西約600mで、アーケードは昭和29(1954)年から設置される。
江戸時代にはこれは山陽道の一部だったようです。
まだこの商店街を歩いた事はなく、今回も歩く予定ではないのですが、ここも次回だな、うん。

これも原爆ドームからすぐ東にある「島外科内科」という病院の横→
東経132度27分27秒、北緯34度23分29秒、高さ約600mのここで原爆は炸裂。

一体何人もの人が見上げた事だろう?→

↓70数年前にここで悲劇があったなど信じられないくらい、穏やかで平和な時間が流れておりました。


 

164日目 赤く染まった広島駅周辺さんぽ

2017-02-16 23:52:15 | 山陽
平成28(2016)年9月17日(土)


↓三次(みよし)駅でもそうでしたが、乗車した快速気動車は途中駅からでも「MAZDA Zoom-Zoom スタジアム」での試合観戦のための大勢の赤ヘルファンを拾って広島へ向かいます。


↓知らぬ間に工事をしていて妙に暗くなった広島駅ホーム。
 

↓一方で跨線橋や駅前駅ビルは、広島東洋カープが9月10日に優勝が決まってまだホヤホヤなので、お祝いムードいっぱい。
 
加えて「それ行けカープ」の大音量。栄光の旗を立てよ~
カープ党である私にとっても嬉しい限り。思わずニヤける(←傍から見れば変人だな)。
単に確率論だけで言えば6年に一回は優勝を体験できる計算なのであるけど、それが4倍もの年月がかかってしまったのだから、喜びもひとしおなのです。というか単にこれまで弱すぎたってだけの話しなんですけどね。

さてさて、ホテルのチェックインまでとりあえず駅周辺をウロつくつもりであるのですが、荷物を抱えながらはしんどいので、当たり前ですがコインロッカーを探します。

ところが探していくうちに全く知らなかったのだけれども、広島駅の2つの重大問題点が判明する(知っている人には驚きでも何でもないかもしれませんが)。
まず、コインロッカーはあるにはあるのですが、非常に数が少なく 、不幸にも野球試合があるためどれもこれも「使用中」。

一縷の望みをかけて新幹線駅舎に行こうと思い、今度は連絡通路を探すも全くその場所が分からず、しばらくあたふたするハメに。
交番があったので聞いてみようとするも、あまりの駅周辺の雑踏ぶりに出動を余儀なくされているのか、昼メシに行ったのか、お巡りさんいないし・・・。
ただ、新幹線側への行き方の張り紙があったので何とか行けましたが、普段からそういう「お尋ね」が多いのでしょう。

通路は駅の西はずれの地下に1本だけあり、それも古いし薄暗いし幅も狭い実にお粗末なもの。
何とかしようよ、JR西日本・・・。
と思ったら、今現在の駅の工事はそれの建設のためのものでした。

想像通り新幹線側のコインロッカーも完璧に塞がっており、荷物を抱えて歩くよりそれに執着する方がかえってしんどくなる。腹をくくりました。
因みに在来線・新幹線の駅舎共に南区なのですが、新幹線側は一歩出るとそこは東区。

↓赤いバス、さらに赤い幟がズラッと並んでいるので街の雰囲気も何となく赤い。
 

どうせならこれも赤く染めればいのに・・・→
赤字になるから縁起悪いか。

〔47〕広島県広島市東区役所
この東区には、戦国時代の坊さんである安国寺恵瓊(あんこくじえけい)ゆかりの不動院というお寺さん以外特段行きたい見たい所はないので、これで東区散策は終わりにします。
不動院は機会があれば、という事で・・・。

駅東側に架かる跨線橋を渡って南区へ→
野球場に向かう人たちの大行進。
丁度いい機会です、電車の中からしか球場を見たことがないので、私もこれに紛れて間近まで行ってみます。

↓青がシンボルカラーのこのコンビニも、さすがにここでは郷に入れば郷に従ってます。
 

私も違和感のない恰好で・・・(普通のTシャツです)→

↓核被爆都市広島らしく「国際平和デーin マツダ スタジアム」と銘打って開催されるこの日の中日ドラゴンズ戦。
 
元から入るつもりはないのですが、どのみち入れませぬ。
青い服の人は極めて若干ですがいることはいました(度胸あるよな)。

↓ですが、気合と根性と体力(と貧乏性)があれば、ここからフルでロハ見できます。


球場の雰囲気を大いに満喫した後は再び駅近くへ。

ついこの間まで政令指定都市の駅前にしてはショボすぎると思ってましたが、最近はデカいビルも建ち、それなりに?近代化してきているようです。
奥が広島駅→

↓とは言うものの、周辺には昭和的な場所もまだまだ多く残っていて、昭和レトロ好きにはとっては嬉しかろう。
 

 

↓三次もそうでしたが、広島も街中に大きな川が流れていて、非常に羨ましい限り。
 
我が家は海に近いので毎日のように海は見ているのですが、やっぱり川の方が落ち着くよなあ。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

164日目 早朝から三次市内チャリ巡り

2017-02-13 23:55:18 | 山陽
平成28(2016)年9月17日(土)


前回三次(みよし)市を訪れたのは、それはそれは今は遠い昔の20世紀、私が大学生の頃。
学芸員資格を取るべく参加した博物館実習は中国の博物館見学だったのですが、その行き先の一つに「みよし風土記の丘」という屋外博物館が組み込まれていたのでした。

今となってはその時のことは全く思い出せないです。
展示品の高床式建物の下にアリジゴク(ウスバカゲロウの幼虫)の巣がたくさんあったので、その巣を掘り出して砂を払いのけて「これがアリジゴク。後ろにしか歩けないんだよね、コレ。ほらほら・・・」と一人喜んでいた傍で、ある女のコが興味津々じっと見ていてくれたのだけ覚えております。
勉強しに行って何やっていたんだかね・・・。

そんな三次市に××年振りに帰って参りました。

さてこの日の予定ですが、昼から広島市内でブラブラするつもりなので、三次散策は早々に片づけねばなりません。辛いけど前日に続いて超早起きして5時半頃から行動開始となります。
ラッキーにもホテルに貸しチャリがあったのでそれを借りて。

唸りを上げて頭上を通過する前日乗った三江線一番列車→
この高架線は廃止後どうするのかね?

三次は川の町。
江の川に馬洗川や西城川などが合流していて、そのためか、秋から早春にかけての快晴の早朝に深い霧で覆われ、それを山から見ると実に幻想的な光景なんだとか。
「霧の海」と呼ばれ、霧が出始める時期になると「霧の海開き」というイベントもあるのですが、この年(平成28年)のそれは9月25日。
霧を見るにはちと来るのが早すぎたようです・・・。

ここは江の川と馬洗川の合流地点→

列車が通り過ぎたばかりの三江線の鉄橋→
さっきの高架線と共に歩く人・チャリ用の道路に転用かな?

三次のシンボル・巴橋→
鮮やかな赤に塗装された橋なのでよく目立つのですが、何故かカラスが橋にたくさん集まってカーカー大騒ぎしているので、そういう意味でもよく目立つ。
行ってみる。

彼らは何だか白いものを目当てに来ているようで・・・→
遠くからは何だか分からず、?だったけど、近づいて正体がようやく分かる。
蛾の死骸。せっせと啄んでキレイに掃除しておくれ。

この巴橋は三次と十日市の町を結ぶ橋。
実は三次駅を中心とした三次市の核心をなしている地区は「十日市」と呼ばれる地域で、「本来」の三次はこの巴橋を渡った場所をいうらしい。
まずはその「真正」の三次へ。

↓三江線・尾関山駅のムダに長いホームと駅舎内の張り紙。
 
もう二度と三江線に接することはないでしょう(多分)。永遠にさようならです。

↓「みよし本通り商店街」として売り出している古い町並み。
 



 
三次の売りの一つだと思うんですが、市公式観光サイトでは思ったほどゴリ押ししていないのはちと気になる。
それに「備後の小京都」と呼ばれていて、確かに京風の町並みな箇所はあるんだけど、「京都」を名乗るにはパンチの効きが今一つ。

 
「卯建(うだつ)の似合う町」を謳っているけど、思ったほど卯建はないし・・・。

ところで、この商店街に面してこんなお寺さんがあります→
石の門柱の文字に注目してほしい。
「浄土真宗本願寺派」の下の文字、これにピンと来た方、アンタは素晴らしい!
この選手のご実家でございます(知らんという人やファンでない人は気にしないで結構)→
知る人ぞ知る、珍しいお寺さんの出のプロ野球選手。
我が家の宗派も浄土真宗だし、梵英心、より親しみが湧いたわ!
それはともかく、三次は何故だかプロ野球選手を多く輩出する町でもあります。

巴橋を渡って再び十日市側へ。
馬洗川に架かる水道橋という橋の下流方向→
西城川との合流部。向こうに見える橋は巴橋。

水道橋の上流方向→
ボート場のような場所は、三次名物である鵜飼の乗船場。

(618)広島県三次市役所
そもそも不思議な漢字の当て字。「次」が「よし」だもん、かなりムリがある。
山陽山陰を結ぶ交通の要衝地で、約54,000人が暮らす町。
自然も豊かであることから、近年は農林業実体験ができたり農家民泊したりといった「みよし田舎ツーリズム」にも力を入れているようです。

役所近くの商店街→

苦労して市南部の高台に登る→ 
ここに登ったワケは、開いていないのは分かっていたんだけど、広島県内唯一のこの窯元があって、なんでだか妙に気になったから。
粘土を原料にした人形である三次人形の作業風景を見学できるんだとか。
でも何らの収穫もなく、徒労に終わったのだった・・・。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

162日目 西日本一の巨大都市

2017-01-27 23:58:38 | 山陽
平成28(2016)年9月15日(木)


広島県に来たんだなあ、と実感する横断幕→

↓こんな横断幕が掲げられている備後庄原(びんごしょうばら)駅の周辺は、空き地だらけでスッカスカ。

スゴイ廃れっぷりだと思ったのですが・・・。

こういう事情でした→
3年後にはこのような駅周辺を目指すようですが、市役所HPにはこの事業の目的が載っています。
要約すると、「駅前を公共交通の乗換拠点にして、活気のある市街地を創り出す」。

ここ庄原市の地図を見ますと、やや距離を開けて駅を囲む感じで国道が通っていて、そこには例の如くロードサイト店が充実している模様。
現在は見廻しても歩行者がほとんどおらず、空洞化に拍車がかかっているようではあります。
事業が首尾よく完成して、果たしてそれらにも負けない魅力的な駅前になれるのか、興味のあるところ。

坂道となっている駅前からの道を登ると市役所に出ます。

(614)広島県庄原市役所
広島県東北部に位置する庄原市は、平成17年に昔の庄原市と周辺の6つの町が合併して成立し、「"げんき"と"やすらぎ"のさとやま文化都市」を標榜する都市。
特筆すべきは、1,246.49km2あるというやたら肥大化した面積。

自治体面積のランキングは完全に東日本の独壇場で、上から見ていくとようやく13番目に西日本が顔を出しますが、それが庄原市。
こんなにデカくても37,000人ほどしか住んでいないので、1km2あたり人口密度はわずか30人。
因みに第一位は岐阜県高山市(2,177.61km2)で、大阪府や香川県よりもデカい超ド級サイズで、ほぼ東京都並み。

役所の東には桜の名所「上野公園」があります→

↓広島と言えば厳島神社。だからか?ここにも厳島神社があったりします。

本家とは違い、ささやかな祠。

↓駅から役所を結ぶ坂道の西側にある、古くからの商店街。
 


そろそろ奥様方が晩御飯の材料を買いに行く時間のはずですが、誰もいません・・・。

庄原は河岸段丘の町。
なので地形的に、川沿いは低く、それを離れると高くなっていく傾向があります。
商店街近くから北の方向→
向こうに西城川が流れています。

商店街から西へ、坂を下って来た所→
交差点先には川が流れていて、それを越すと緩やかな登り坂になります。

↓その坂に面して「三日市(みっかいち)」という古い町並みがあります。
 

 
地名に「市」とあるとおり、古くから市が立っていましたが、当時ライバルであった隣の庄原とは商売の縄張り争いが絶えなかったとか。

↓18時2分発の列車に乗るべく、高校生しかいない駅ホームに。

ここ駅構内や車内は高校生のお天下で、大声出しても誰にも咎められることなくやりたい放題。
でも賑やかさは感じられるので、シ~~ンと静まり返った状態よりかはまだマシに思えなくもない。

30分乗って三次(みよし)駅へ→
この日から三次市に2連泊します。

カープ戦のテレビ中継を見ながら晩酌→
優勝決定直後だし、相手巨人に対して余裕の試合運びだったしで、周りは皆ご機嫌というか平和そのもの。

ところで、「こんな山ん中の町に来て刺身かよ!」とお思いでしょう。
ですがコレ、この地方の名物だったりします。その正体とは・・・?

わに

アリゲーターとかクロコダイルとかの類いが名物とは凄まじい食文化の地域だな、などと思ってはなりませぬ。
「ワニ」と言っても、「因幡の白兎」の神話でウサギの皮を剥いでしまったアヤツですな。
お味は普通に魚な感じでした(サメなんだから当たり前?)。でも筋が硬くて噛みきるの大変・・・。
名前のとおり、なかなか手ごわい相手でございました。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

162日目 日本一?空気輸送に徹する区間に乗ってみた

2017-01-24 23:58:09 | 山陽
平成28(2016)年9月15日(木)


今回は鉄分が異常に高くなってしまってますが、悪しからず。

↓バスを降りてからは、山陽と山陰を結ぶ大動脈・JR伯備(はくび)線の電車を乗り継いできましたが、ようやく岡山県新見(にいみ)市にある備中神代(びっちゅうこうじろ)駅に着きました。

JR芸備(げいび)線の列車に乗り換えるためですが、ここは分岐駅であることを全く感じさせない静かな山の中の田舎駅。

芸備線は起点駅は備中神代で、終点の広島駅までを結ぶ約160kmの路線。
起点を示す「0キロポスト」→
折れてそのまま放置されていて、いとあはれ。

新見駅からやってきた気動車→
乗客なんてほとんどいないだろう思っていましたが・・・
これが意外にも結構な客数で最後尾に立つのを余儀なくされる。
ま、写真を撮り易くなるからそれもいいけど。

この芸備線、広島に近い所はそれなりに利用者がいるものの、山間部では超閑散路線に化けます。
特にその途中の東城駅~備後落合駅の間は、クマか仙人しか住んでいなさそうな秘境を走る区間。
なので、一日上下僅かに6本!しか運行していないのも惨めですが、もっと凄まじいのは、

1日1kmあたり8人

しか乗っていないという、乗客数が少なくついに泣きが入ったJR北海道でさえも真っ青な区間でありまして・・・(「データで見るJR西日本(平成27年度)より」
備中神代~東城の87人も酷いけど、採算の取れるラインは8,000人/日あたりらしいので、もはや引導を渡されても仕方のない末期的状況にあるのは火を見るより明らかでございます。
全国にはこんな成績不良路線がゴロゴロしているので、再びローカル線大整理時代を迎えつつあるのでは?と思うワケです。

↓参考地図(地図の加工がド素人すぎてスミマセン)

真ん中上の「新見」という文字の左、3つの線が交わっている所が「備中神代駅」。
そこから左に伸びる線が「芸備線」。右の赤い矢印が「東城駅」、左の方が「備後落合駅」。

乗車から程なくして岡山県を出て広島県庄原(しょうばら)市に入ります。
↓ぽつぽつ降りていって、東城駅を出るといよいよ車内は閑古鳥のハズ。

一体何人が残るやら・・・。

ある種の期待はあっさり裏切られる→
20人程はいるでしょうかね。新鮮な空気が吸える普段とは違い?、空気が汚染され息苦しくなっています。
一日8人のノルマを余裕でクリア?したどころか、この日に限れば普段の4~5倍のもの乗客は見込めそう。平日なのにスゲーじゃん!
でも手放しで喜べないのです。ほとんどが団体客なのでありまして。
リタイアして悠々自適を満喫していそうな方ばかりでしょ?
やっぱり地元民がせっせと乗ってくれないと・・・ね。

↓線路が錆びていたら、あたかも廃線のような所を進みます。
 
車窓はいいです。
ここらは豪雪地帯。以前1回乗った事がありますが、その時はまさに真っ白になっていた時で、その風景もまたいいもんでした。

↓牛山隆信氏の言うところの秘境駅で、2016年度版ランキング第28位の内名(うちな)駅。

でも、駅前に家がデンと構えられていて秘境感は今一つ。

その家の窓からワンは我々を見守ってくれているし→

終点が近づいてきました→

備後落合駅、乗り換え時間は10分余り→
ある意味最強のターミナル駅。廃れっぷりがね・・・。

↓勿論過疎っている駅前。
 

駅そばにあった仕舞屋→
昔、夜行列車が走っていた頃、次の列車が出るまでの間、仮眠するために使われた旅館なのだという。

備後落合付近では、UMA「ヒバゴン」がいないかとずっと見まわしていたけど、いるワケないし・・・。
↓さらには、「日本のピラミッド」との異名を持つ葦嶽山(あしたけやま)を車窓から探すもどこか全く分からん・・・。

そもそも列車から見えるのかどうかも知らないけど。

備後庄原駅には15時24分に到着→

 

145日目 鶴舞う後楽園と獅子舞う岡山城

2016-03-03 23:53:55 | 山陽
2016年1月1日(金)


↓中区役所から歩いて北区に入り、今回が2度目の特別名勝・後楽園へ。

後楽園はお殿様・池田綱政さんが命じて元禄13(1700)年に完成させた大名庭園で、ミシェランガイドで3つ星とランクされた日本三名園の一つ(残りは金沢市・兼六園、水戸市・偕楽園)。
当初はお城の後ろに造られたという意味で「後園」と呼ばれていたのですが、明治になって今の名称になったようです。
私は東国暮らしが長いせいか、後楽園と聞くと真っ先に東京の野球場を思い出すのですが、両者に関連性はないらしい。
さて、正月三が日は初春祭の真っ最中、特に元日はサービスよくフリーパス。
せっかくなので恩恵に預かりましょう。

入るや、何じゃ、この黒山の人だかりは!→
タダで入れるからこんなにも人が大勢寄ったんだ程度にしか考えてなかったところ、突然、ワーーーッと大歓声が上がる。

ナニ?と思ったら白い物体が空に飛び始める→
拍手も起こってるし。これが目当てだったんだな。

タンチョウなんですが、園内で飼っているらしく、元日に放鳥されるんだそう。
しかし舞っている姿をカメラで追いかけるって難しいですわ。
飛ぶ事約1分、来てすぐだったから超ラッキー! まだかまだかと待って待って待ちくたびれた人もきっといるんだろうし。

↓唯心山(ゆいしんざん)という高さ6mの築山から。


↓お休み処でちょいと一休みしてから岡山城へ。
 
慶長2(1597)年、豊臣秀吉の寵愛を一身に受けた宇喜多秀家が築いたお城。
昭和20(1945)年の空襲で天守閣は焼失したものの、昭和41年に再建される。

この日は「烏城(うじょう)初夢まつり」で、これまた天守閣へは入場無料。
烏城という愛称は、太陽光に照らされるとカラスの濡れ羽色に似ているからなんだと。

↓天守閣へ。
 
眺めはいいんだけど、中は広いとは言い難く、さすがに人も多かったので少々窮屈。

↓降りてきたらお正月らしく獅子舞が始まる。


↓宇喜多秀家とその奥さんに扮する「岡山城下町物語り役」のお二人。

宇喜多秀家はなかりの美男子であったらしく、奥さんは豪姫という前田利家・まつの四女。
岡山の素晴らしさを語って広めるのが任務。

内下馬橋の正面は岡山県立図書館→
この図書館については以前、テレビで紹介されていたのを見たのですが、一昨年まで10年連続来館者数日本一を誇る図書館。しかも個人貸出冊数、購入冊数でも4年連続日本一。
こんなに充実した図書館があると岡山市の人は嬉しいでしょうけど、本屋さんは商売大丈夫なのかね?

岡山県庁

旭川の可動堰のような橋を渡る→
左に見えるは東中島、右が西中島。
この双子のような二つの島には昔、遊廓があったという。

2つの中島に架かる京橋→
橋の上を走る路面電車はなかなか絵になる。

西中島の様子→
確かに遊廓ぽい雰囲気がしますです。

今でこそ市の繁華街は駅の方に移ってしまいましたが、昔は京橋付近が中心部。
立派な風格のあるお店があります→
本当かどうか知らないけど、日本三大饅頭を謳っている創業170年の備中銘菓・大手饅頭伊部屋。

これで岡山市を去りますが、西大寺町駅で岡山駅前行きの路面電車を待つもなかなかやって来ない!
乗る予定のJRの電車の発車時間がジワジワと迫っている。

イライラしていた駅前→

焦りながらも売店でどうにか大手まんぢゅうを見つけて、お土産として買って発車寸前の電車に飛び乗る。

酒饅頭ですな→
「三大」を名乗るだけあって確かに美味しかったですよ、さっぱりして。

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145日目 元旦の倉敷美観地区

2016-03-01 23:45:55 | 山陽
2016年1月1日(金)


以前行ったことのある北海道・月形町役場へ、ある書類の請求申請書を速達機能のあるレターパックで昨日発送したんですけど、タイミング悪く北海道は猛烈な吹雪。
追跡サービスを見ても受付の記録しか表示されていないので。今は郵便機能は難儀している状態なのかな? ひょっとして飛行機を北海道まで飛ばせないんですかね?
でも札幌ドームでオープン戦はあったみたいだけどさ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

美観地区、クラシックな倉敷の観光の肝。
倉敷川を中心とした白壁・海鼠壁などが並ぶ商人の町で、昭和54(1979)年に伝統的建造物群保存地区に指定されました。
何だかんだ言ってもやっぱり落ち着く界隈だわい。しかもすいているし。

↓手前の建物は大正6(1917)年築の旧倉敷町役場、今は観光案内所の倉敷館。

中橋の向こう側の建物は倉敷考古館。土蔵作り米倉を改装したもの。

倉敷館正面右側にある昔のポスト→
箱の真ん中縦に薄い字で「書状集箱」とありますが、郵便制度が始まった頃のポストには「郵便箱」とも書かれていたそうです。
「郵便」という言葉に全く馴染みのない当時の人たちは、「便を垂れる」ための箱と勘違いして、ここに用を足した人がかなりいたようで・・・。しかしこんなに高くてどうやってやったんだろ?

中橋は渡らんとね→
遠くを見る。
んっ?何だか大勢でこっちに向かってきたよ?。イヤな予感

「△■★Σζ∽∇!」何言っているのか分からないけど、大声で話ししているのでどこからの人かは分かる。
そう、日本の観光という観光地を席巻している大陸から来た方たち。きっとこの橋は瞬く間に大群に呑み込まれてしまうだろう。

↓その人たちに取り囲まる前に、美観地区でも一番のお気に入りの本町通りへ。



こっちもかなりの人が歩いておりました。ただし、倭人だけ。ホッとするわ。
「倉敷川沿いより先に町となり箪笥屋、桶屋など職人達が軒を連ねる場所でした」とは倉敷観光WEBの解説。

倉敷市民の初詣は創祀1700年を超えるここで→
鶴形山という山に鎮座している阿智神社。昔は島だったという。

↓このウラ通りも好き。でも何故か人気が今一つ。



日当たりが悪いからかな?

しばらく時間がたったのであの方々はいなくなったかな?、と思って大原邸の方から戻ると、先程と比べてもさらにパワーアップした数がいる(ような気がする)。
それに、もはや日本語の会話は全く聞こえないですよ?、向こうの言葉しか聞こえん。
ここって日本だよな?なんて思うことしばしば。

大原美術館→
倉敷紡績の2代目・大原孫三郎氏が昭和5(1930)年に創立した日本初の私立西洋美術館。
ここも博物館実習で見学させられましたが、苦痛でしかなかった事だけは覚えております。

もういいでしょう。
美観地区にサヨナラする前に、もう一度中橋に。

「くらしき川舟流し」は運休のよう→
できるだけ川っペリに近づいて、せめて舟に乗った気分になったつもり。

↓駅方向に続く閑古鳥がうるさい正月休みのアーケード商店街を通りホテルに戻る。

チェックアウトを済ませて倉敷を去ります。

昔、チボリ公園があった駅北口→
ついぞ入ったことはなかったのですが、短期間であっさり閉園。
こんなにいい駅前の絶好の立地にあって潰れたとは、かなりつまらんテーマパークだったようです。

用意周到、岡山駅を経て→

西川原・就実駅へ→
正式には西川原駅らしいけど、駅建設費用全額を近くにある就実学園という学校法人が出したのもあって駅名票には「・就実」が付いたらしい。

〔45〕岡山県岡山市中区役所
区名に「中」とあるけど、市の中心部は北区。

↓近くのコンビニでは元日らしくお汁粉のサービスがありました。

「いかがですか?」と言われましたが、あいにく苦手でな。せっかくのご好意をすまんのお。
焼いたモチに醤油を付けて海苔を巻いてくれたらいくらでも戴くんだが。

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参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

145日目 元旦の倉敷を歩いてみた

2016-02-27 23:59:58 | 山陽
平成28(2016)年1月1日(金)


平成27年最後の夜は、ホテル飲みをしているうちに夢の中、紅白歌合戦を見ないのは私の大晦日の恒例行事でそれはいいのですが、カウントダウンの瞬間も見ないまま新年を迎える事に。
早朝から市内を散策する予定でしたので、それはそれでちょうど良かったし、テレビ中継ですけど富士山からの綺麗な初日の出も見られましたし。早寝早起きはやっぱりいいよなあ(普段は全く逆)。

因みにこの日が年末年始旅の最終日です。

早朝の駅前通り(倉敷中央通り)→

倉敷観光と言えばどうしても美観地区へ目が行きがち。
ですが、正直あまりそこは好きではありません(JR西日本のテレビCMに喧嘩売っているようですが)。
私が天邪鬼な性格だし、俗化されすぎているというのもありますし、女性をターゲットにしたお店・施設ばかりだし

ただ、この日は元日という特別な日だけあって、倉敷の大看板・美観地区の様子を見て廻りますが、今回来てまだたった3回目なんですけれど、ひとまずこれで見納めにしたいと思っております。

というのも、まだ行っていない瀬戸大橋の袂にある下津井(しもつい)や「ALWAYS三丁目の夕日」のロケ地として選ばれたくらい昭和レトロがふんだんに残っているらしい玉島という2つの古い街並みが残る港町に食指が動いておりまして・・・。(これこそ、男の渋い趣味趣向!、だよね?)
あと、水島コンビナートの夜景も見てみたいですね。

↓まずはJR倉敷駅南口、駅を背にして右手にある「一番街」へ。

以前はアーケード街だったらしいこの通り、多くの飲食店が並んでおります。

↓さらに行くとちっぽけな川を渡り、その左手には海鼠壁の蔵があります。

「蔵Pura(くらぷーら)」という旧家の建物を利用した和風喫茶・食事処。

↓上の写真の反対側、左側の道が以前は遊廓があったという「川西町本通り」

元遊廓だった名残りか、今は飲み屋が多くある歓楽街のようです。
「倉敷てくてくマップ」という、名所・食事処がやたら細かくゴチャゴチャ載っていて、しかもカラフルすぎて目がチカチカしてきそうな、とても分かりづらい散策地図をホテルから持ってきたのですが、元遊廓付近のお店の紹介はほぼ無く、実質無視された状態。
昔のそういった類に通じるものは何とかして消し去りたいようです。当たり前か。
右は倉敷用水に沿う「川西町北通」。

早朝すぎるからか(というか、元旦だからか、と言った方が正しいのかもしれない)、いかにも観光客って風貌は私だけでしたが、散策には意外に悪くない所だとは思うんですけどね。

↓古い建物が建ち並ぶ道を通って、再び「倉敷中央通り」へ向かいます。



下の写真奥にあるのが国の重要文化財「大橋家住宅(寛政8(1796)年築)」。
江戸時代に新田開発などでボロ儲けして建てたお屋敷。もちろんお休み。
背後の近代的建物とアンバランスすぎ。景観規制できなかったのか行政はもうちょい考えて欲しいところ。

まだ8時すぎ→
新年明けたばかりで普通はまだお寝ん寝している時間だろうに、人間の飽く無き欲望には恐れ入る。

(567)岡山県倉敷市役所
観光客が多く来て、重化学工業地帯・水島を抱えて潤っているせいか(?)、かなり立派な、一見ホテルのようなお役所。実際に平成24年当時ではありますが財政力指数は県内で一番。住む人も多く、約50万人を抱えております。

江戸時代は天領で、物資の集散地として発展。
中世、荘園から年貢などを本所・領家に輸送する際、中継地として一時保管した場所を倉敷地といい、それが地名の由来。なので、倉敷と呼ばれる地名は結構あちこちで見られたりします。

倉敷川に沿って歩いて美観地区へ→

ご存知「倉敷アイビースクエア」の赤レンガ壁→
江戸時代にはお代官さまがいた所で、明治になるとここに倉敷紡績所が建設され、今では倉敷アイビースクエアとして博物館やホテル、レストランなどが入った施設となっています。
大学生の頃に博物館実習で施設をいろいろと見学したのですが、全く印象に残っておりません。
きっと当時はつまらなく感じたんでしょうね、でも今後見たとしたらどんな感想を持つのか興味あるところです。

↓その正面にある骨董店・博物館の方がよっぽど面白そうだけど。

これまたお休みなのが残念。

倉敷お決まりの光景→
元日から晴れていて気持ちいいな!それに人もまだあまり来ていないし。
静かにゆっくり散策できそう、と思ったのですが・・・。続きは次回。

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参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

144日目 井原鉄道に乗る(2)~へぇー連発だった井原

2016-02-24 23:59:28 | 山陽
2015年12月31日(木)


○○市(町・村)という自治体があるのは知っている。
だけど全く馴染みがないので、具体的にはどんな所かは知らない。

ところが、こんな著名人が出身だったのかとか、A級B級にかかわらずこんな特産・名所旧跡があったのかと、実際に行ってみて初めて知る事しばしば。

さて、岡山県南西部に位置する井原(いばら)市ですが・・・。

早雲の里荏原(そううんのさとえばら)駅→
この駅名票を見るまで北条早雲が井原市出身だったって事を全く知りませんでした。高越(たかこし)城というお城で生まれたらしいです。てっきり根っからの東国人かと思ってましたわ。

井原駅には15時44分に到着→

駅舎内にて→
ジーパン生地であるデニムが特産の井原市。昔から繊維産業が盛んな土地柄で、「井原デニム」は有名ブランドの生地として使用されているだとか。倉敷市・児島もジーパンで有名ですね。
しかしまあ、服に関しては全くの興味のない小生、デニムって言葉をここで初めて知った程の服音痴。恥ずかしながらここで白状いたしとうございます。さすがにジーンズは知っておりましたですよ。

駅を出る。
何のモニュメントでござんしょ?→

那須与一、何げにここでご登場→
駅自体、弓と矢がモチーフになっているのだそう。
彼については屋島(香川県高松市)での一件しか知らないけど、井原に荘園を持っていたとはなあ。

駅前の通り→
これを見て違和感。
というのも、井原は昔からあった都市だろう。
なのに駅前にありがちな雑然としたゴチャゴチャしたものでなく整然としている。
この違和感は後で氷解するんですが。

市役所のある方へ。
(566)岡山県井原市役所
人口42,000人ほどの、市の多くの部分を山が占める町。
井原が誇る特産として、ぶどう・ごぼう・乳製品・豚肉加工品があります。

市役所ウラ側にある「田中美術館」の入口→
「たなかびじゅつかん」、ではなく「でんちゅうびじゅつかん」ね。
日本彫刻界の大巨匠・井原出身の平櫛田中(ひらくしでんちゅう・現地では田中翁と呼ばれているみたいです。)の作品が展示されております。美術にも全く疎い私、そもそもこういう方がいた事自体初めて知る。
東京の小平市にも美術館があるようです。
そしてこのド派手なド金ピカ像はまさに田中翁、ではなく翁の師匠・岡倉天心をモデルにした像。

美術館の敷地にあった看板→
この子守唄は知っていましたよ、もちろん。でも、こんな題名だったのか・・・。
知らんことばかり、我ながら無知すぎ。

楷の木の名所・田中苑→
美術館と一体となった市民の憩いの場で、像は田中翁の代表作「鏡獅子」なのですが・・・、小さすぎですよね。

田中美術館HPより拝借してきました→
これぞ歌舞伎のいかつい風体。

市のマスコットキャラクターも当然これ→
いろいろなゆるキャラを見てきましたが、私が自分の心の中の「いいね!」ボタンにポチッした数少ないうちの一つ。

再び駅前通りに戻りさらに奥へ。
バスセンター→
ここに昭和46(1971)年まで井笠(いがさ)鉄道の井原駅があったようです。
一方の井原鉄道は平成11年にできた鉄道。そうか、だから今の駅前は最近整備された感じの印象なんだな。

故に、ここらへんが昔からの市街地だったようです。
↓その証拠に昭和的な商店街があります。





そしてここも他の都市の古くからの商店街同様に見るからに大苦戦中の気配、まさにの道を歩んでいるかの如し。頑張って欲しいとは思いますが、なにぶん今の駅からずいぶん離れているのでね・・・。

小田川→
2kmに渡って堤防に桜が植えられております。あと1ヶ月もすれば・・・。

暗くなってきたので、井原を去ります→
勉強になったなー。あちこち出掛けていろいろな事を知る。だから止められませんがな、旅。

欲を言えば、ご婦人さまの団体から非難轟々されはしないか「嫁いらず観音院」というお寺さんや、「木之子(きのこ)」という可愛らしい字名がある地域も歩いてみたかったけど・・・。
因みに「嫁いらず観音院」とは、奈良時代の名僧・行基によって開山され、ここを参拝すると無病息災で一生を幸福に過ごせ、老後は嫁の手を煩わさず極楽往生できるという。だから誤解なきよう。
でも一人もんの私には(一部)関係のない事かもしれないけど。

年越しは倉敷市にて!

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参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

144日目 井原鉄道に乗る(1)~矢掛の宿場

2016-02-21 15:05:51 | 山陽
2015年12月31日(木)


「岡山・尾道おでかけパス」はJRの切符ですが、第3セクターの井原(いばら)鉄道にも乗れます。

↓清音(きよね)駅発13時11分の列車は、JR線と別れて高梁川を越えます。


清音から2つ目→
あの吉備真備?と思ったらやっぱりそうでした。
駅名になっている位だから、ここらは彼の故郷らしく、実際に、今は倉敷市となっていますが以前は真備町でした。ただし、読み方は「き」が抜けた「まびちょう」。
同じ岡山県にある駅「宮本武蔵」に比べると、奈良時代の学者政治家・吉備真備は知名度だけに限れば超劣るのがちょっと切ない。

↓こんな感じの風景がひたすら続いて、向かうは矢掛(やかげ)駅。


矢掛駅→

↓(565)岡山県小田郡矢掛町(ちょう)役場
 
人口も約15,000人で40年前に比べの約2割の減少。
過疎化に対する危機感の表れか、或いは今の外国人の訪日ブームに乗ってか、今年度を「観光元年」と銘打って、観光で町を活性化させる取り組みが始まりました。

地理的には岡山市や倉敷市に近くてアクセス面は決して悪くはないのですが、両市はネームバリュー・人の吸引力が偉大すぎて、矢掛町がちょっとでもそこに食い込んでいくのには相当の労力と時間と金がかかるんだろうと思う。
でもこのご時世、何が起こるか分からないので、ちょっとしたきっかけで神風が吹くかも知れないから、普段から地道な努力は必要かも知れませんね。

そんな観光に力を入れ始めた矢掛は何と言っても、旧山陽道の宿場町の面影を色濃く残す街並み。
そこを見る前に、町中心部の西側に流れる川を越えた所に、もう一つ「矢掛駅」があるというので行ってみます。

↓そこへは古い建物並ぶ旧松山街道を通って。


↓確かに「矢掛駅」があるわ。



けど、一本の線路もなくバスがやたらあるだけ。
ここは昔、昭和42(1967)年まで走っていた井笠鉄道の終着駅で、今はバスターミナル。

ではでは旧山陽道の街並みをブラブラします。
せっかくやんでいた雨が時折降ってきて非常に厄介ではありますが。

国道486号線→
左側に行く道が旧山陽道。右の川は高梁川の支流・小田川。

↓古い建物が多い中、洋風建築もあったりする。






旧矢掛本陣石井家→
国指定重要文化財。参勤交代で大名・公家・役人の宿に使われたお屋敷で、あの篤姫も薩摩からの嫁入りの道中に泊まったという。

↓「観光元年」の魁となった昨年3月オープンした矢掛屋(上)と温浴別館(下)




旧矢掛脇本陣高草家→
これも国指定重要文化財で、本陣の補完的を果たしておりました。
このように本陣と脇本陣の両方が揃って健全な状態で現存しているのは矢掛町のみらしいです。

矢掛一番のお祭り→
殿様らに扮した人達が「下~に~、下に~」という掛け声と共に大名行列ばりに街を練り歩くお祭り。

ところで、「下に」は時代劇の影響か、全ての大名がこの掛け声で歩いていたものと思いがちですが、それをしていたのは将軍家・尾張家・紀州家だけ。他の大名は「よけろー、よけろー」の掛け声だったという。しかも庶民は土下座というイメージですが、実際は普通に立ったまま見ていたらしい。

それにあんな大人数が道中常に行列をなしていたわけではなく、自国領地内や江戸などではアルバイトを雇って多くの人が歩いているように見せかけたのです。
よく考えてみれば、時代劇のように江戸から自国までゆっくりと延々とやっていたらお金がいくらあっても足らんわな。

「矢掛テンペ」って家具、何ぞや?→
お店の貼紙を見てみると、どうやら大豆を発酵させたものをコロッケにしたものらしい。

普通のコロッケというなら間違いなく買ったでしょう。が、私は「大豆・発酵」という文字で即刻拒否!
「大豆・発酵→納豆」の単純な連想から、納豆をコロッケにしたものだと思い込んだのでした。
要は私は、納豆が大大大(大をいくつ付けても足らん)の苦手なのであります。

ところが後で調べてみましたら、納豆のようなネバネバも臭みもなく、ほんのり甘い味らしく・・・。失敗したわ。
どこかに「納豆の味はしません」とでも表示してくれればな・・・。もしかしたら私と同じ考えを持ってしまう関西からの観光客がいるかも知れませんので。

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参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

144日目 旅人は讃岐を去って備中に向かったそうじゃ

2016-02-18 23:00:03 | 山陽
2015年12月31日(木)


平成27年最後の日でございます。
そして、四国ともオサラバする日でもあり、以後の主戦場は岡山県になります。

↓8時55分発のマリンライナーで高松を脱出し、岡山を経由して総社(そうじゃ)市へ。
 

使う切符は当日売りをしない「岡山・尾道おでかけパス(\1950)」。前々日、早島駅で買っておいたもの。
1日間有効のこの切符ですが、大晦日から使う場合のみ2日間有効に化けるJRグッジョブな切符。
せいぜい使い倒してやろう!

さて、ここ総社市は見所がとっても多く、とてもじゃないけど歩いてでは見切れません。
例えば・・・。
↓水墨画で知られる雪舟が少年時代に修行した井山宝福寺。

涙でネズミを描いたという有名な逸話を残したお寺さんですが、駅からちょっと遠い。
この像から察するに、雪舟さんはアンパンマンばりの丸顔で、小さい頃からメタボ気味だったようです。

さらには、市の名前の由来となった「総社宮」や、「きびろーど」と呼ばれる自転車道で見て廻る全国で10番目にでっかい前方後円墳・作山古墳や、こうもり塚古墳、備中国分寺の五重塔などの古代吉備を味わえる史跡。
さすがに自転車ではムリですが、鬼ノ城(きのじょう)という古代の山城もあります。

そんなワケでここは貸チャリのご登場といきたいのですが・・・。
心配していたとおりに→
年末なのでこういう事もあろうかと考えておりましたので、慌てることなく第二の手を使うことにします。
それは歩くのみ。ただし、行ける範囲内で。
というか、それしかないんだけどさ。

駅前の大通りを東へ。

(564)岡山県総社市役所
備中国府が置かれ、備中国の政治・経済・文化の中心地だった町。人口68,000人。
手前のピラミッドのようなモニュメントは、石の彫刻としては日本一なんだとか。

↓名前に惹かれてやって来たのは、今現在は公園でも「昔公園」という名の公園。

総社が古より人類の活動の場ということで、古墳を模した築山や竪穴式住居が造られております。


ただ、それだけでした。

↓次に総社宮へ向かいます。





参道が回廊になっていて、庭園は美しい。夜は電灯の光が水面を照らしてさらに映えそうです。
神社サイトによれば、「平安時代末期、国司が赴任してきた際、備中国中すべての神社の巡拝を行っていた。しかし、巡拝の手間を省く為、国府の近くに備中国内三百二十四社の神社を勧請し、お祀りした。」とある。神社を一つに纏めたから総社なのでしょう。
合理的な考えを持った頭のいい国司だったのか、ただ自分の体を酷使したくなかっただけの物臭な国司だったのか・・・。

総社宮の参道は、緩くではあるけどヘビのようにグニャグニャしており、和風洋風の古い建物が混ざっています。
まちかど郷土館→
明治43(1910)年築の元警察署。
薬売りと言えば富山ですが、元を辿ればそれは総社の薬売りから引き継いだもの。それに関する展示が多くあるらしいので見学したかったのですが年末休み。





一番大きかったお屋敷→
なかなか見ていて楽しい参道であります。

3日後です!→

↓市街地はこの程度で引き上げて、次に10年ほど前までは清音村といっていた所へ。

是が非でも見たいものがありましたんで。

ところで、「晴れの国おかやま」を自称するだけあって、雨の少ないのが自慢(?)の岡山県。
千葉を出てからの道中は珍しく好天に恵まれていたのですが、総社駅を出る頃に雨に見舞われ始め、清音でそこそこの振りとなる。
「岡山の晴れ」も吹っ飛ばすほどの私の雨男パワー。ただ40分もしたら晴れパワーが息を吹き返しましたが。

それは駅から歩いて10分程の神社→

狭いとは言えやっぱり広い日本、神社はたくさんありまして、中には思ってもみない神様が祀られている場合があります。じゃあ、ここは何かと言うと・・・。

たくさんの目ん玉、ギョロギョロ→
ではなく、おっぱい! がいっぱい!!なのでござる。
ここは「軽部(かるべ)神社」といい、垂乳根の桜といわれる枝垂桜があったことから、全国の安産・母乳の出を願う女性に信仰される神様で、別名、おっぱい神社・乳神様というようです。

ご利益を受けられない男の私が何のためここに?
話しのネタに、というのもあります。
これほどとは言いません、本物にいっぱい囲まれたい!というお願いに。

一番デカかった絵馬→

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参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

141・142日目 年末年始旅第四弾、スタート!

2016-01-14 23:59:28 | 山陽
2015年12月28日(月)・29日(火)


まだ2週間あまりしか経っていないのですが、もうかなり昔の事にしか思えないこの間の年末年始のお話しです。
そしてそれは前年と同様に寝台特急「サンライズ」で幕が開けます。

日取りは元日までの4泊5日(28日を含む)と、当ブログでの年末年始旅にしては短めの設定。
今回は普通に6連休なので仕方がない・・・。

乗ったのは「瀬戸」→
ちょっぴり見てみたい気がする、たまに走っている「琴平行き」の表示。
発券日(11月28日)の早朝から駅に行って「10時打ち」に持ち込んで手にしたノビノビ座席指定券(名も知らぬ若い女性1人に寝台を譲ったつもり)でしたが、朝は非常に弱い私にとって、かなり辛い戦いでございました。

さて、「サンライズ」に乗るくらいなので、当然行き先は西なのですが、具体的には当初は山陰を廻る計画でした。
ですが、待てよ、冬だしなあ、日本海側は雪が降るし街歩きには厄介だな、ならば無難に太平洋側にしようかと気が変わり、ホテルの手配等も済ませてしまったところ、蓋を開けてみれば超が付くほどの暖冬。恐らく雪なんぞ積もってなかろうに、しくじったわ。

↓これまた前年と同じく岡山で下車し、宇野線の快速「マリンライナー」に乗り換え。

切り離し作業の見物に群がる様子を遠くから(冷静に)見ると、当事者は必死なんだろうけど結構滑稽。
てなワケで浮気相手に選んでしまった行き先は、岡山県と香川県の備讃地域でございます。

↓10分あまりで、うすら明るい早島町(はやしまちょう)の早島駅(写真は瀬戸内海方向)に到着。

右は住宅密集地ですが、左は田んぼだらけと実に対照的。

私が小さい頃、両親の故郷に帰省する時に必ず通った宇野線。
瀬戸大橋開通以前の事で、岡山で新幹線を降りた後は快速電車で宇野まで行き、連絡船で高松へ渡っていたのですが、朧げな当時の記憶では、宇野までず~~っとひたすらひたすら写真左のような田んぼの中を走っていた感じのローカル線。
今回の早島駅に至っては快速通過駅だったので、全く印象なし。
そして当時は全線単線も、今では一部ですが複線になっていたり、近代的な駅があったりと、隔世の感ありあり。随分立派になったもんです。

駅前→

↓駅前に飾ってあった「昔洪水があった時の絵図」

この辺一帯は昔は海。つまりは干拓地という事。駅西側は丘陵地なのですが、それは早島の名が示す通り「早島」という島だったそうな。
今から約400年前に、この地を治めていた戦国大名・宇喜多秀家は海の干拓を思い立って、潮止めの堤を築かせたのが始まりといいます。

↓写真を撮りながら歩きますが、それに夢中になっていると・・・。

柵がないんだけど・・・。しかも車は多いし。怖すぎるぞ、早島町!
酔っ払いがフラフラ千鳥足で歩いていたら、下手すると土左衛門になりはしないか? 歩きスマホもかなり怪しい。
でも柵がないってことはそんなマヌケは未だかつていなかったらしい。

(556)岡山県都窪(つくぼ)郡早島町役場
岡山市・倉敷市などの一部も範囲だった都窪郡も、その所属の仲間達がどんどん消えて、今では早島町一人ぼっち。
イグサや畳表の一大生産地であったのですが、平成12年をもって450年続いたイグサ栽培もなくなってしまう。

↓この道を歩くと「老いない」というワケではありません、もちろん。

全長約10kmある歴史散策道。毎日歩けば浅ましく老いを少しでも後回しできる(可能性のある)この道で、町の歴史にちょっとだけ触れてみる事にします。

↓おひさま昇りたてほやほやを久しぶり見た気がする。

清々しい気分になるなあ。もっとも私の後ろにはお墓が並んでいるのだけど。

↓厳島神社→


お社の後ろには岩がゴロゴロ。
これは昔の波打ち際であった証しのようなもので、「弁財天」という名の港だったらしいです。

干拓前は島だった丘陵地へ→
左の「鶴崎神社東参道常夜灯(右側にもある)」は、江戸と早島の畳問屋が船の航海の無事を願って安政3(1865)年に奉納したもの。

「天満宮」へ→
早島町のビュースポットというんだけど・・・。大昔だったら間違いなくきっとそうだったろうね。
天神さま・菅原道真が大宰府に流される途中にここに寄って水浴びしたという謂れのある神社。

古い街道へ。
いかしの舎→
畳表・経糸(たていと)問屋(明治末期~大正築)を改修した建物で、落ち着いた佇まいの中で法事・宴会・結婚式はもちろん、お茶しながらの駄弁でも与太話でもどうぞの多目的スペース。

戸川家記念館→
関ヶ原の合戦以前は宇喜多家の重鎮であり、江戸時代以降は旗本だった戸川さんちの陣屋。
でも開いておりませぬ。

清澄家住宅→
元眼科医で町内に残る唯一の明治洋風住宅。明治41(1908)年築。

早島町はこれくらいに切り上げて、再び快速「マリンライナー」に乗って、平成27年2度目の四国上陸を目論みます。

因みに買った切符は「千葉⇔志度(しど)」の往復乗車券。
ところで、よそ様の旅ブログを見る事も多い私ですが、長距離の切符(601km以上)を往復で買うと、行き帰りそれぞれ1割引きになるのを知らないお方が実に多い。駅弁2つは最低でも買えるのにね。
切符の写真を見たり、文章を読んだりするたび、コメントして教えてあげるのは親切なのかもしれないけど、反面、知識をひけらかすようでイヤミったらしいしで、どっちがいいのか(ムダに)悩ましく思っております。

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