ゆっくりのんびり市町村廻り

何年かかるか、もしかしたらできないかもしれないけど、日本の全市区町村の制覇を目指して頑張ってみる!

153日目 ネット配信記事に釣られて訪れた町

2016-06-26 14:32:41 | 近畿(大阪・兵庫)
2016年5月6日(金)


今月11日に毎年恒例の金運神社に行ってまいりました(後日アップします)。

このところ我が国の経済状態はあまりよろしい感じはなく、その煽りを食って(?)今年に入ってからは私の金運もサッパリなので上昇祈願に行ったワケですよ。
しっかりお参りしたし、これでよろしき便りをひたすら待つだけと考えていた最中の先日、以前から非常に気になっていたイギリス住民投票がついに行われ、

EU離脱決定!!

のよもやの衝撃的結果に。

EU残留→米利上げ→日本金融緩和→景気が上向く→私の懐が暖まる、きっとそうなる筈だと思い描いていた青写真は一気に遠のくどころかかなり怪しい状況に。
行った当初はそれなりの恩恵をもたらしてくれた神パワーはもう効かないのか?

何だか旅に出たい気が急激に萎えつつあります(とりあえずは7月の3連休は出かけますが、後は知らん)。

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↓一晩過ごした丹波市の「道の駅丹波おばあちゃんの里」
 
舞鶴若狭自動車道・春日IC近くにある道の駅ですが、ムダに余裕たっぷりの広い駐車場。遺跡もあったりします。
以前は春日町と呼ばれたこの地域は、あの春日局の出生地でもあります。

国道176号線を南下し三田市へ。
(592)兵庫県三田市役所
首都圏の人なら東京都心を走る地下鉄・三田(みた)線に馴染みあるので、ここを「みた」と呼んでしまうであろうけど、「さんだ」です(かく言う私もうっかり「みた」と言いそうになる)。

20年くらい前までは人口増加率上位の常連だったこの都市も、最近は頭打ちどころか微減気味の約11万3千人位。
さすがに都心回帰傾向・人口減少社会には抗えないようです。

ところで市役所前の道路は車の交通量がとても多く、役所の駐車場料金が他の市中のそれよりいくらか安いせいかそこへ出入りする車も結構ある上、人は横断歩道を悠然と渡るので、朝のラッシュ時も重なって大混乱する事しばしば。
信号を設置すればいいのだろうけど、すぐ近くに交差点と踏切があるのでそうもいかないのかも知れない。

↓市役所東側に位置するJRと神戸電鉄が乗り入れている三田駅。


神戸電鉄のホーム→

JR改札口→ 
左のちっちゃなセブンイレブンは、前々日6時40分にオープンしたばかりの新参者。

↓駅前商店街は狭い上に、駐車車両があると他の車は大迷惑。


この通りをまっすぐ進むと武庫川にで出ます。
相生橋より駅方向→

同橋より市役所方向→

神戸電鉄・三田本町駅近く→
昔ながらの落ち着いた雰囲気が感じられる街並み。

↓「ファミコンショップ」と看板を掲げてはいるけど・・・。

さすがにかつてのファミコンソフトはどうなんでしょ?

さて今年の3月6日に、「あの道 この坂 昔の地名を訪ねます」というNPO法人・歴史文化財ネットワークさんだが企画したイベントがyahooニュースに紹介されていたのをご存知でしょうか?
その記事はもう削除されているみたいですが、配信源となったらしき神戸新聞社の記事はまだ見られます。

そんなワケで、それらを実際にこの目で見てみようという次第。

大蔵坂、またの名を歌仙坂→
「江戸時代、この坂に面して三田藩の蔵があった。また、かつては緩やかな階段が三十六段あったので三十六歌仙にちなんで歌仙坂ともいう」とは写真右下にある案内板。

ころび坂→
「急坂なので冬の凍てつく頃はもちろん、普段でも人がよく転ぶのでこの名が付いた」くらい、確かに角度はきついです。

極めつけは「牛くそ坂」→
年貢米を蔵へ収める時、坂の途中で牛をつないでいたという。
寅さんじゃないけど、当時は「坂の周りはクソだらけ」だったんだろうね。

ま、地名の由来なんて案外単純なもんだと思いますよ。

違和感ある教会の門→
西洋宗教のものにしては珍しく和風建物かいなと錯覚を起こしそうですが、隣に立派な普通にイメージされる教会建物があります。

妙三寺→
詩人・三好達治氏が幼少期に過ごしたというお寺さん。

↓日本初の民間の博物館は三田だったんですねえ。


旧九鬼家住宅資料館→
旧三田藩家老が明治初期に建てた、全国でも珍しい和風・洋風が混在した建物。
あいにくこの日は休館でしたが・・・。

三田市散策を終え、降り出した雨の中、国道176号線をさらに南下し神戸市北区へ。
でも途中で通行止めの箇所があって通せんぼとなっております。
理由はコレ→
記憶に新しい4月22日発生した建設中の新名神高速道路橋桁落下事故現場です。
あれから2ヶ月、今はどうなっているのだろう?

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参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

152日目 丹波の小京都・篠山を歩いてみた

2016-06-21 23:52:01 | 近畿(大阪・兵庫)
2016年5月5日(木)


今だにうっかり「しのやま」と読んでしまうことも多い「ささやま」が今回のお話し。

前々編(竹田城編)で「連休にどこへ行った?」の話しをしました。
当然、篠山も言いました。が、皆「?」という表情を浮かべるので、「丹波篠山ね」と言い直すと「あ~!」とのリアクション。
「丹波」が入る入らないは天と地の差のようで・・・。恐るべし「丹波ブランド」。

ただ、どこにあるのか知らない人がほとんどだろうけど。
何県にあるすら知らないんじゃないかな。

↓まず真っ先に向かったのは桐ヶ城と呼ばれる篠山城跡。



慶長14(1609)年、徳川家康の命を受けた築城名人と名高き藤堂高虎や池田輝政が、1年余の突貫工事で築いた「笹山」という小山を利用した平山城。
だから「ささやま」なんだろうけど、それがどういう訳だか「篠山」に変わってしまう。
でも、いくらなんでも「篠」を「ささ」と呼ぶのは無理があるよなあ。

↓平成12年に復元された大書院内の一番の格式高い部屋。

大書院は篠山城築城とほぼ同時期に建てられ、以来藩の行事に使われ、明治維新後は公会堂などとして使われるも、昭和19(1944)年に焼けてしまう。

大書院の南側→

そして南堀の方→
丹波だな~って感じの風景に癒される。

(591)兵庫県篠山市役所
何てたっていわゆる「平成の大合併」によって誕生した自治体栄えある第1号
しかもそれは平成11年で、唯一の1000年代というオマケ付き。
恥ずかしながら私が篠山という地名を知ったのもこの時でございます・・・(当時、今ほどは旅熱に浮かされていなかったので、知らん地名も多かった)。

篠山だけに(?)「さっさと」合併に持っていったので、「篠山詣で」という言葉が生まれるほど全国からの視察が絶えず、平成の大合併のモデルケースともてはやされる。
ですが、良かったのはここまで。
ありがちな話ですが、行政お手の物のハコもの作りに精を出しすぎたため今は借金で大変なのだという。
いつだったか見ていたのですが、NHKのある番組で失敗のモデルケース(?)として題材に取り上げられてしまう。

でもそんな事は市民以外は眼中になく、この日も観光客で大賑わい。
ただ、電車で来るには篠山口という駅からかなり離れていて不便極まりない。
昔は市街地近くまで国鉄が走っていたようですが。

↓お城の東側にある「河原町妻入商家群」へ。







旧街道に面した昔の名残を残す街並みで、篠山の商業の中心地として栄える。

南堀沿いを通って、御徒士町(おかちまち)という武家屋敷が並ぶ通りへ。


武家屋敷安間家史料館→

これら篠山城・河原町妻入商家群・武家屋敷一帯は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、篠山観光のハイライトといってもいい部分。

↓入る事能わざりし、お城の北側にある「青山歴史館」。

旧藩主の別邸で、江戸時代の歴史文化を学べる品々を多数展示しているとの事。

↓来た時には車の運転にはジャマなくらい多くの人がゾロゾロと歩いていましたが、18時のまだ明るい時間にもかかわらずウソのように人が引けてしまった商店街。



郷土料理・ぼたん鍋の看板・幟が目立ちます。そろそろハラの減る時間だし、みんなお店へと消えて行ったんかな?

このお店は異彩を放っておりました→

再び丹波市へ戻ります。
↓本格薬草風呂が売りの「丹波の湯」でさっぱり。


↓「道の駅丹波おばあちゃんの里」でしばしの休息。


この日の走行距離142km、千葉を出てから986km。

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152日目 本州一低い太平洋と日本海の境

2016-06-17 23:27:13 | 近畿(大阪・兵庫)
2016年5月5日(木)


但馬地域とはお別れして、和田山ICから北近畿豊岡自動車道で一気に兵庫の丹波地域に乗り込みます。
丹波とは兵庫県中東部と京都府中部が範囲の旧国名で、黒豆とか栗なんかが有名な所。

(590)兵庫県丹波市役所
平成16年に氷上(ひかみ)郡の6つの町が合併して誕生した市で、市役所は旧氷上町にあります。
旧国名を拝借している自治体は全国あちこちにあるので、それ自体決して珍しい事でもないのだけど、とりわけここ丹波の場合は他の旧丹波国内の多くの自治体から「待った」がかかったみたいです。
要は「丹波」というブランドを安易に使ってくれるな、と顰蹙を買ってしまったらしい。
でも外野の声にブレることなくまんまと「丹波」を名乗るあたり、なかなか神経が図太い。

遥々やって来た氷上の街ですが、特に見たい所はないのだけど、せっかくなのでサラッと軽く見て歩いてみます。

↓街中にあったバスケのゴール付き観光案内図(観光案内図付きバスケのゴール?)に従ってご案内しましょう。

街中にデンと構える甲賀山(こかやま)を中心に時計回りに歩きます。

↓「氷上町役場」とある箇所が今の市役所で、その横に流れる川の橋南側。


↓加古川に沿って南へ歩くと、なかなかオサレな建物があります。

丹波市立植野記念美術館。
私は美術には全く造詣のカケラも持ち合わせていないのですが、結構出入りする人が多かったので、もうすぐお辞めになる某知事さんが見ればきっと気に入ってくれる美術館のハズ?

氷上のシンボル・甲賀山の南側より→

↓どういうワケだか、立派でデッカイお屋敷がとっても多い。


ひっそりした山の西側の商店街→

↓古い建物もかなり目につく商店街でもあります。

右のいかにも豪商っぽい建物は、あまり似つかわしくないけど、お医者さんのようで。
因みに右下にチラリと写っているナメクジっぽいものは「丹波竜のちーたん」といい、市内で発見された中生代白亜紀前期(1億1千万年前)の恐竜化石に「丹波竜」というニックネームが付けられたのですが、これはそれのマスコットキャラクター。

そんなワケで市役所周辺はこれで終わりにして、次に丹波市が一番誇れる名所かも知れない場所へ。

いかにものんびりした雰囲気の山里→
この変哲もない道路。でもこれがある意味、日本のてっぺんとも言える所。
? 何のこっちゃ??でしょうが、種明かしは道路を山の方へ向かって歩くとあります。

神社入口に来ます→

↓上の写真のチラリと見える赤い橋から歩いてきた方向を見る。


橋の背中にはコレ→
ここはというと、左が瀬戸内海(太平洋)、右が日本海へ流れる川の分かれ目。

日本列島に降った雨水は太平洋と日本海のどちらかに分かれますが、その境界線を「中央分水界」といい、まさに日本列島の背骨とも言える線ですが、本州においては端っこを除いてはここら辺がその一番低い所(標高約100m)。
ですので、太平洋側と日本海側を行き来する場合、大抵の場合は高い山がその行く手を阻むのですが、ここを通っていくのが本州では一番ラクなコース。
因みに日本で一番低いのは北海道・新千歳空港近辺のよう。

それにしても日本海側への川は分かれるや否や早速暗渠になってしまっていて、水の分かれ目という雰囲気があまりないのは甚だ残念。

ここ「水分れ公園」は憩いの場所→

↓これは柏原(かいばら)地区にある、ケヤキの根が太く成長して川を跨いでいることに因んで名付けられた「木の根橋」。

どんなものかちょっと興味があったので寄ってみただけです。
合併前は柏原町と呼ばれたこの地区は元城下町で、国の史跡・柏原藩陣屋跡があったりなど、散策にはなかなか良さげな感じ。

↓次に向かったのは、丹波と言えばここ!といってもいいくらいの有名地。



続きは次回。

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152日目 日本のマチュピチュから見る壮大な眺め

2016-06-10 22:38:16 | 近畿(大阪・兵庫)
2016年5月5日(木)


前日から楽しんできた朝来(あさご)市ですが、いよいよ大トリを務めるのは朝来の、というより最早日本の山城のシンボルと言ってもいいかも知れない天空の城・竹田城。

特に説明不要ですね、これ(竹田城公式HPより)→

と思いきや、この連休にどこへ行ったかのかよく聞かれたので、「アレとかアソコとか竹田城とか云々」と答えると、ナント半分くらいの人は「竹田城?(どこ?それ、という意味)」という反応でした。
残念ながら旅行や歴史・城好きなどという人以外には、まだまだ全国区には達していないようでございます・・・。

それでも有名観光地には違いありません。
↓城址に登る気マンマンだったので、車を止めようと街中をウロついたのですが駐車場はどこもいっぱい。


仕方ないので、城址西側の山へ向かいます。
↓途中で潜った播但道のアーチ橋「虎臥大橋」が美しい。


↓「山城の郷」に車を停めます(周辺図も竹田城公式HPより)。




 

↓城址の途中までバスやタクシーで運んでくれはしますが、私は健康的に(?)自力でいわゆる西登山道(2.1km)から城攻めをします。

ところが、この日は気温25℃くらいだったと思うけどムチャクチャ暑いの何の。
おまけに日焼け止めを塗っていなかったので、登って下りて来たら露出部分はいい焼き色に変化してしまってるし・・・。

それよりも・・・。
イヌを普通に散歩するが如く連れていた人がとても多く、とりわけ小型犬にとってはアスファルトの照り返しはさぞ強烈だったろう、熱中症になりはしないかとハラハラする。抱えて歩くとか、どうにかならんものかと。

↓「山城の郷」からせっせと歩くこと20数分、料金所に(入場料は¥500)。

案内板には所要時間は徒歩で約40分とあったけど・・・そんなにかかる?

↓やっとこさ城址へ。



「虎臥城」という別名を持つこのお城は、1400年代中頃に但馬守護・山名宗全によって築かれ、標高353.7mに天守台があって、規模は南北400m、東西100mに及ぶ。

天守台→
ここは今年の3月から入れるようになったと、ガイドさんは言っていたような気が。

↓登ってきた甲斐があった、心からそう思えるよき景色でございます。




下の竹田駅周辺の街並みも趣きがあるので、ちょいとばかり散策します。
その前に腹ごしらえ→
虎臥屋さんの「ぼっかけ丼(¥850)」。
但馬牛のスジとコンニャクを甘辛く煮込んだもの(すじこん)をご飯の上に乗せたものですが、とりたてて感動はなし。
私の行きつけのラーメン屋に置いてあるすじこんの方がよっぽど旨い。

竹田駅→

駅近くの街並み→

旧木村酒造場EN
明治期築の建物をリニューアルし、ホテル・レストランなどが入った複合商業施設として平成25年にオープン、竹田城を深く知ることのできる情報館もあります。

↓古い建物・土塀のわりに違和感を覚えた暖簾「HOTEL」。


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参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

152日目 八鹿と和田山の街を朝ぶら

2016-06-08 23:39:23 | 近畿(大阪・兵庫)
2016年5月5日(木)


ぐっすりと寝ていた1時20分頃、いきなり下からドーンと突き上げるような縦揺れらしきを感じ、以来しばらく心臓がバクバクしていたからか全く寝付けなくなり、悶々とした一晩を過ごす。
その時はてっきり地震かと思ってましたが、後日地震情報を見たらそんな記録は一切なかったので、もしかしたらトラックの揺れなのか、或いは夢で見ていたものを実際に起きたものと勘違いしたんだろうか?

↓そんなこんなで、寝不足のまま迎えてしまった養父(やぶ)市の「道の駅但馬楽市(たじまらくざ)」の朝でございます。


(588)兵庫県養父市役所
平成16年に八鹿(ようか)町、養父町、大屋町、関宮町が合併してできた、現在25,000人程が暮らす市。
役所は旧八鹿町にあります。ですので、街散策は八鹿地区のみにします。

上写真の真ん中の小佐川(おさがわ)は、新町橋下で右からの八木川と合流してます。
新町橋から見るとこんな感じ→

市役所庁舎敷地内にて→
ついこの間終わってしまったイベントを今更紹介してもしょうがないんだけどね・・・。
それと前日さんざん巡っていた「鉱石の道」についても、養父市部分のメイン・明延(あけのべ)鉱山は初めから行く予定はなく、重ね重ね申し訳ない、養父市。

↓八木川の左岸側の商店街。




↓昔ながらの卯建のある建物が見られます。


至る所で見られたツバメの子育て→
引きもなくエサを運んでくる姿を見ていると、自分の持て余す暇時間をあげたくなる。

左岸側へ→
お祭りはまさにこの日。甘茶の接待付きの花祭りなんだそう。

↓どこにいても妙に目立っていた八鹿病院。

養父にある病院だけあって、ヤブ医者ばかりか?(笑)
というのは冗談だけども、でも冗談ではなく「ヤブ医者」の語源が養父が由来だったという。
養父市HP内のそれについてのページには、元々は「藪医者の語源は、養父の名医 」とあり、今とは真逆な意味だったのだという(そもそも「ヤブ医者」の語源については諸説あるようですが)。
そして町おこしの一環として、僻地で頑張っている若手医師にスポットを当てて顕彰する「やぶ医者大賞」が開催されたりしてます。
因みに養父という地名の由来は、古くは居住者がおらず、草木が叢生していてまさに藪だったからなんだとか。これにはワロタ。

八木川が合流する円山川沿いにある道の駅→
腹具合がおかしくなったので立ち寄っただけ。

(589)兵庫県朝来(あさご)市役所
平成17年に和田山町・生野町・山東町・朝来町が合併してできた市で、人口は31,000余り。
訪れた時は新庁舎の工事中でしたが、7月1日にはめでたく開庁するらしいです。
小さくて見づらいのですが「住みたい田舎ベストランキング全国第1位」の横断幕が掲げられています。
このランキングは、宝島社「田舎暮らしの本2月号」に掲載されたもの。

↓町興しには「大河ドラマ」と並んで、これが一番手っ取り早い方法なんだろうね。

因みに前回の朝ドラは題名が縁という事で、朝来市が放送局の許可を得て「勝手に応援」していたんだとか。
だからこの願いを叶えてくれるかもよ・・・。

↓鉄ファンには知名度高い、朝来市の代表駅・和田山駅へ。

山陰本線と播但線が乗り入れる要衝駅。

↓明治45(1912)年に建築された見た目ボロボロの駅名物の車庫。


↓駅前と駅東側に伸びる商店街。




↓駅の北側を流れる円山川の東河橋(とがはし)より。

こんな風景を見ていると、確かに「住みたくなったしまう田舎」に感じてしまう。でも私には「ずっと」住むのは無理かな・・・。
「お豆さん」で有名な会社の工場がデンと構えていて、「丹波黒豆」の看板も見えるので、朝来は丹波だと一瞬錯覚してしまいそうですが但馬にあります。

街をフラフラして市役所に戻る→
これから熊本に向かうんですかね?

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151日目 朝来の「鉱石の道」(2)

2016-06-05 23:50:05 | 近畿(大阪・兵庫)
2016年5月4日(水)


続いて神子畑(みこばた)鉱山の方へ車を走らせます。
↓神子畑鋳鉄橋(ちゅうてっきょう)



明治18(1885)年の架けられた現存する日本最古の全鋳鉄橋で、国の重要文化財。
神子畑鉱山からの鉱石運搬のために建設された神子畑-生野間16.2km、幅員3.6kmの馬車道(鉱山道路)が神子畑川を横切るための橋。

次に、程近い神子畑選鉱場跡へ。
↓因みにこの周辺の地図(「鉱石の道」のサイトより)。


↓約6km離れた明延(あけのべ)鉱山(養父市)から運ばれてきた鉱石を亜鉛や銅、スズに選鉱した場所。
 


もう日が暮れるようかという時間だからか、場の雰囲気は虚無感・廃墟感たっぷりで、時計の針が止まったかのような空間。

今では見てのとおり、22段あるという建物基礎部分とインクライン(ケーブルカー)の廃線、シックナーなどが残るだけですが、選鉱所自体は昭和62(1987)年の明延鉱山閉山後、操業を終了し閉鎖されてもなお、しばらく建物は残っていたという。
ですが、平成16年についに撤去・解体。

↓明延鉱山閉山と同時に廃止された「一円電車」。

神子畑-明延を結んでいたので、正式な名は「明神電車」。
私が小さい頃はまだこの電車(といっても電気機関車が客車を引っ張っていたっぽいけど)は現役バリバリで、当時の小学生向け雑誌に「たった1円で乗れる鉄道があるんだぞ」などと小学生物知り博士のための記事として載っていたのを記憶しています。

ただ、どこを走っているのだか全く分からず、いつしかこの鉄道の事など記憶の彼方へと吹っ飛んでしまっていましたが、今回この旅に出るにあたって事前の下調べしていた際にここを走っていたのをようやく知り、併せて当時の記憶もブーメランのように戻ってきた次第。

因みにこの鉄道はここから走っていたのではなく、インクラインの上から明延へ向かっていたよう。

中に入ってみる→
客車というより人運搬箱ですな。
大人が二人向かい合って座ると、膝を突き合わせるどころか、相手の吐息まで感じられそうな狭さ。夏なんかはむさ苦しそうだ。

↓ムーセ旧居(現在はムーセハウス写真館)

生野鉱山開発のため明治政府によって招かれたフランス人技師のうちの一人、ムーセさんの元住居。
彼が日本を去った後の明治20年に神子畑に移築され、事務舎・診療所として利用される。

こういう所だから、当然周辺も廃墟感が漂ってます。
小学校跡→

昔は旅館だったぽい仕舞屋→

右岸側の旧道→

↓この日のネグラは、養父(やぶ)市の「道の駅但馬楽市」。



宿泊施設もあるのだけど、そこはケチる。

美肌の湯「やぶ温泉」付きの道の駅ですが、レストランもあり、松阪牛などの全国のブランド牛がその血を引いているとされる、まさに和牛の始祖たる「但馬牛」の料理が味わえます。
因みにかの有名な神戸牛は、但馬牛のうち一定の基準をクリアしたものだという。
知らなかったわ。

ただ、ここに着いたのは19時半頃。オーダーストップは20時半だけど、店はいっぱいな上、待っている人がそこそこいる・・・。諦めて温泉に浸かる。

この日の走行距離140km、千葉を出てから844km。

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