ゆっくりのんびり市町村廻り

何年かかるか、もしかしたらできないかもしれないけど、日本の全市区町村の制覇を目指して頑張ってみる!

177・178日目 GW大隅半島ドライブ~垂水

2017-07-29 23:57:38 | 九州南部
平成29(2017)年4月30日(日)・5月1日(月)


(注)4月30日と5月1日の両日で行動が重なる部分があります。
   ですので、この編では4月30日を「初日」、5月1日を「2日目」とします。
   なお、2日目に撮影した写真には、(2日目)と振っておきます。

初日、霧島市の鹿児島空港近くのレンタカー屋さんで車を借りて出発、鹿児島を車で運転できる嬉しさで地に足がつかない状態のまま国道220号線を南下、関西の人なら「たるみし」と呼ぶであろう垂水市に入ります。

出発後、最初に地に足をつけた地→
道の駅たるみず。
ですんで、鹿児島の垂水は特段の捻りもなく普通に「たるみず」です。

↓この道の駅の名物は、開業(平成17年)当時、日本一の長さだった60mの足湯。


(2日目)桜島が目の前→
この翌日(5月2日)に来ていれば、火を噴いた桜島が見られたんだよなあ・・・。
自分のツキのなさを恨む。

「湯っ足り館」という風呂屋さんもあるので、車中泊向けの道の駅として割と良さそうだけど、近くにコンビニがないのが致命的。

この道の駅内をあまり見て廻らなかったので気が付かなかったのですが、「日の丸発祥の地」の記念碑があるみたいです。
どうしてここにその記念碑が置かれたのかというのはコチラをご覧下さい。
ここらの特産であるビワを使った「びわソフトクリーム(¥300)」はなかなか美味→

↓(2日目)桜島に渡るため海を跨ぐ平成20年に開通した「牛根大橋」。

全長約380mのバランスドアーチという構造形式の橋だそうです。

↓(2日目)橋の形の美しさもさる事ながら、橋から見える海に浮かぶたくさんの漁船がまたいい。
 

↓(2日目)朝日・橋・海・漁船によるコラボ?は、得も言われぬ美しさ。


1日目はこの後、桜島に向かったのは前編で書いたとおり。
桜島から再び国道220号線に入り、垂水市街に入ります。

(649)鹿児島県垂水市役所
地名の由来は何となく想像できますが、お城の崖下に、岩の間から清水が滴々と垂れて溜水があり、この辺一帯の唯一の飲料水であったので有名となり、この地名が起こったといわれているとによるようです。

↓CMで有名なこのお水は垂水市の地下1,000mから汲み上げたもの。


特産として、漁業はブリ・カンパチの養殖(道の駅ではブリの生簀が見えました)、農作物はびわ・ポンカンなどの柑橘類、インゲンマメ・きぬさやえんどうなどだそうです。
人口は市としては極めて少ない約15,000人。
全国の市で下から数えて9番目。九州で一番少なく、おまけに急加速度的に目減りしています。
だからこれなんだろうな→
確かに鹿児島市から直線距離は短いので、もし実現すれば「通勤通学には至極便利」との触れ込みで人を呼べそうだけど、半面買い物は鹿児島に気軽に行けてしまうので地元経済は相当廃れる気が。

たるたる→
垂水市のこのゆるキャラにはある身体的特徴があるのですが、そのためにあるそしりを受けてしまっています。

市街地を歩いてみます。
国道220号線→
シャッターが目立ち、既に廃れているような気がする。

悠然と歩道を寛ぎどころにしているネコども→
車道は車は多いから危険だけど、歩道にはほとんど人は歩いていない?からね。呑気なもんです。

某信用金庫前にある瀬戸口藤吉サン生誕地の碑→
今やパチンコ屋の曲のイメージがある「軍艦行進曲(軍艦マーチ)」を作ったお方。
殆どが某半島国家系企業であるとされているパチンコ屋が、大日本帝国海軍の行進曲を流していたのだから、考えてみれば非常に奇妙な事です。

どうして香川県がある?→
おまけに「鹿」の字が消えて「児島営業所」となってしまい、あたかも岡山に来たが如し。

↓全通して僅か15年目の昭和62(1987)年に廃止された国鉄大隅線・垂水駅跡地。
 
現在では垂水鉄道記念公園となっています。

国道220号線を走っていても、所々で廃止された線路跡や高架線が見られました。
(2日目)牛根集落手前にて→
気の遠くなるような長~~い年月をかけての自然に戻る最中。

垂水港にも顔を出します→
ちょうど鹿児島鴨池港からやって来たフェリーが入って来ました。
乗らないけどさ。



 

カッコしてあるのはこれまで行った所→

177日目 GW南九州ドライブ~ぐるっと桜島

2017-07-26 23:50:07 | 九州南部
平成29(2017)年4月30日(日)


年末年始とGW(と忘れた頃にやってくるシルバーウィーク)は、しょっちゅうほっつき歩いていても生きるために一応仕事をしなければならぬ私にとっては、数少ない長期間遠出のできる機会。

そしてここ数年のGWは、乗り物やら宿やらの予約が面倒だったので、それを気にしないで出掛けられる長距離ドライブを楽しんでおりましたが、さすがに現地までの行って帰っては心身共に消耗がハンパないので、今年は現地までの部分を省略した旅にすることに決めました。

そうと一旦決めてしまえば準備はサッサとする私、2月初旬には目的地を定め、飛行機・貸し自動車・宿泊先も予約してしまいました。
その目的地は、メインとしては私個人的にはほぼ空白地帯である大隅半島。
さらに日南海岸を北上して宮崎県中南部と熊本県の球磨(くま)地方も廻る、かなり欲張ったコースに仕立てました。

↓予約した便は、成田空港からお馴染みのLCC(ジェットスター)、鹿児島行き。


成田からたった2時間で着いちゃいましたよ→
飛行機って速すぎ。

ゲキ混みの鹿児島市街地方面行きのバス停付近→
さすが、GWの威力は凄まじいです。
鹿児島空港は鹿児島市の中心部からだいぶ離れているので、来た便に乗れるのか、乗れても座れるのか分からん上に、長時間のバス移動が待ち受けるなど、見ていてかなりお気の毒になる。

来年は明治150年→
あー、だから来年の大河ドラマが「西郷どん(せごどん)」なのですね。

鹿児島空港ビル→
私はというと、レンタカー屋さんの送迎車に一人寂しく乗車、ちょっぴりドナドナ気分で運ばれている最中。

車を借りる手続きを済ませた後は、いの一番に桜島を目指します。
真っ先にそこに向かった理由、それはずっと前から桜島を車で一周したいという夢がありまして、それをすぐに叶えたかったから。

↓というワケで、島の南側にある「有村溶岩展望所」へ(途中、道の駅たるみずで休憩したけど、それは次回)。

桜島の概要は、この展望所にあった案内を参照して下さい。
ここは大正溶岩原に作られた展望所で、南岳を望む約1kmの遊歩道を備えています。

↓日常ではお目にかかれない、殺風景で荒涼とした感が実にいい。


噴煙を上げて、ドンと大迫力!な桜島→
のハズなのですが、私のデジカメがショボすぎるので、その迫力を伝え切れませんが、本当に迫力があります。
大袈裟ですが、ここに来られて本当に感激以外の何ものでもありません。

別の場所から→

錦江(きんこう)湾も一望できます→

さらに西へ走らせ、赤水展望広場へ→
鹿児島市街が一望できます。

西郷さんの横顔に見えるといわれる溶岩→
撮り方がいい加減だったので、全くそう見えませぬ・・・。

ここは何と言ってもこれでしょう、「叫びの肖像」→
鹿児島出身のある歌手が、ここで野外コンサートをした事をきっかけに建てられたモニュメントです。
東京のバカヤローがーーー、との叫びが聞こえてきそうな。

鹿児島行きフェリー乗り場近くへ→

↓明るい時間ならいいのですが、暗かったら吸い込まれそうなフェリー料金所。


↓このコンビニにはカープ仕様(赤)以外のものもあるなんて知らなかったわー。

因みに左の車が私が借りた車。

コンビニのすぐそばには「桜島マグマ温泉」→
周辺には海釣り公園があったり、火山の博物館が入っている「桜島ビジターセンター」があったりと、レジャー施設は充実。

島の北側を走って「黒神埋没鳥居」へ→
大正時代の大噴火によって頭だけ残して溶岩流に飲みこまれてしまった、元は3mの高さがあった鳥居です。
噴火後、住民達は鳥居を掘り起こそうとしたのですが、当時の村長さんは爆発の猛威を後世に伝えるため発掘の中止を指示したといいます。
この大正の大噴火は、それまでまさに「島」だった桜島を大隅半島と地続きにしてしまったほどの凄まじさだったようです。

この奥に行くと、雰囲気のいい佇まいの社殿があります→

さて、この2日後の5月2日早朝、桜島が噴火しましたが、その時私は霧島市から日南海岸に向かっていて噴火を目の当たりにすることができませんでした。
尤も私が噴火を知ったのは、さらに翌日3日だったワケでありまして・・・。
その間、車内ではラジオを付けっぱなしにしていたにも関わらず、地元ニュースでは噴火の「ふ」の字も出てきませんでした。
どうやら現地では噴火とは言えない程度の噴火だったようです。
が、こうして折角遠くから遥々やって来たのだから是非見たかったなあ、残念無念。

それはさておき、長年の悲願はとりあえずここに叶いました。
ただただ感無量でごわす。

 


176日目 桜を愛でながら中山道を歩く・続編(5)~深谷・神保原

2017-07-24 23:46:56 | 南関東
平成29(2017)年4月8日(土)


北九州の次は今度は秋田ですか・・・。

実は先の3連休に秋田に行ってまいりました。
川が氾濫したとして一大事になっている大仙市・大曲にも僅かな時間とは言え滞在し、花火会場となる雄物川の土手も歩きました。
まさかあの土手の間際まで水が来るなんて。どんだけ降ったんだろう?
現地の方々、私がいくら自他共に認める雨男だからと言って、どうか「1週間遅れて変なのを連れて来やがって、このヤロウ!」などとゆめゆめ思わないで下さい。。。

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気持ちを切り替えて?深谷市の続きです。
が、かなり端折って深谷の建物図鑑的なものを造って終わりにします。
(行ったのがもはや随分前となってしまったので、当時の事を思い出すのが面倒なだけ)

和風建物の両側に煉瓦をあしらったお店→

老舗酒屋の赤煉瓦煙突→
埼玉県の「景観重要建造物」に指定されているそうな。

道路を挟んで屋号が似て紛らわしい2つの人形屋さん→
あたかも同一人が営んでいるかのようですが、お店のHPを見るとどうもそうではなさそう。
同族なのか、真向かいでも仲良くやっているのか、バチバチとやっているのか非常に気になる両店の関係。

深谷れんがホール→
信用組合の倉庫を昭和8(1933)年に解体し、その煉瓦を再利用して建てられた倉庫。
1階はレンタルスペースに使用されています。

七ツ梅酒造さん→
300年以上続いた酒蔵跡。
この奥に伸びる敷地には、違和感あるけど映画館「深谷シネマ」があったりします。
見た目結構人は入っているようでした。

左は坂本邸で市内最大級の町屋→
右は江戸時代から続く蔵元・滝澤酒造。
奥にチラッと写っている煙突には、戦時中に機銃掃射を受けた跡が残っているのだと。

赤い鐘楼が鮮やかな呑龍院→
この向かいに深谷宿西側を示す高さ4mの常夜灯があります。

小林商店→
大正元(1912)年築の赤煉瓦倉庫と昭和2(1927)年築の洋館がくっついた面白い建物。

ふっかちゃん横丁→
平成25年に開業した別名・深谷宿屋台村。

最後は埼玉県の最北端・上里町(かみさとまち)。
因みに今回使っている切符はお馴染み「休日おでかけパス(¥2,670)」。
この切符のフリー区間のうち高崎線で最も北が神保原(じんぼはら)駅で、そこは上里町の中心地。  

神保原駅→
高崎線では唯一、町に存在する駅。

↓駅前・南口(左)と北口。
 

役場は南口からほど近い所。
(648)埼玉県児玉郡上里町役場
昭和29(1954)年に4つの村が合併し上里村ができ、昭和46年に町に昇格。
関越道に上里サービスエリアがあるので、案外関東の人には馴染みがあるんじゃないでしょうか。
人口は約31,000人。

まあ、こう言っては何ですが、下調べで行きたくなるような名所旧跡等は上里町にはなかったので、テキトーに駅周辺を散策してお終いにします。

↓庭先に置かれていた奇抜な形の岩に目が留まる。
 
何に使い、或いは使われていたのだろう?

旧中山道→
神保原は宿場ではないので、当たり前ですが昔っぽい雰囲気全くなし。

現代の中山道(国道17号線)→
ロードサイト店が広がっており、車の数も多いですが、車線が少ないので詰まる事しばしば。

↓そんな中、この通り沿いにピラミッド型のパチ屋さんを発見。

でもシャッターが降り、草ボーボーが示すとおり仕舞屋。

反対側は扉が開けっ広げでしたので、ちょいとばかり覗く→
怖~い人が出てこなくてよかった(笑)。
個人的にはカジノは賛成でパチスロ廃止派の私ですが、でもこうした成れの果てを目の当たりにするととても切ない。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

176日目 桜を愛でながら中山道を歩く・続編(4)~深谷

2017-07-21 23:52:23 | 南関東
平成29(2017)年4月8日(土)


前々編でお話しした「上尾夏まつり」、ビックリしました。
突風が吹いて怪我人が出てしまったとか。
亡くなった人がいなかったのは幸いでしたが、紹介した事がとんだ藪蛇となったような気がして、何とも言葉がありません。

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お次は見所が実に豊富な深谷市。

深谷は中山道の宿場(板橋宿より9番目)として栄えましたが、市場町としても繁栄し、繭や生糸の集散地でもありました。
今でも街中には江戸時代的な?面影が随所に見られますが、近代以降の建物も数多くあり、散策には実にうってつけの町であります。

さてさて深谷駅には14時すぎに到着→

東京駅にそっくり駅舎というので有名→
駅舎内が暗いのも、薄暗い感のある東京駅丸の内側と同じ。

ふっかちゃん、深谷市のイメージキャラクター→
「ゆるキャラforチルドレン」の初代王者で、「ゆるキャラグランプリ」でも常に上位に君臨していたかなりの実力派ですが、一昨年の大会で残念ながら3位に終わり、大会からは退いてしまいました。
角は地元の特産「深谷ねぎ」、胸には深谷市の花である「チューリップ」のボタン。

その「深谷ねぎ」など、地元野菜をふんだんに使った「煮ぼうとう」は深谷の古くからの郷土料理で、今回は叶わなかったのですが、ずっと食べてみたいと思っている一品。

↓さしずめふっかちゃんが深谷のアイドルならば、神様と言ってもいいかもしれないのお方が渋沢栄一サン。

第一国立銀行や東京証券取引所、東京ガス、帝国ホテルなど多くの企業設立・経営に関わった「日本資本主義の父」。

↓近くには「渋沢栄一からくり時計」というのがあり・・・、えっ?

おかしいな?、「ふっかちゃんからくり時計」とは聞いてないし・・・。
実は定刻になるとこのアイドルは上に退場して、代わりに渋沢サンがお出ましするらしい。

↓駅の東側から伸びている遊歩道。
 
元々は日本煉瓦製造工場で作られた煉瓦の輸送専用線。
この工場で造られた煉瓦を用いて建設されたのが東京駅丸の内の駅舎。
こういう関わりがあったので深谷駅は東京駅を模したという事のようです。

↓遊歩道を歩いて行くと、盛ったネコばかりの?盛り場に出くわす。

ご近所の人によると、全部ノラなんだとか。

↓邪魔したら容赦しないぞ!とばかり、ドスの効いた顔で睨みつける見張り番のネコ?

怖すぎる・・・。

中山道深谷宿東側入口を示す常夜灯→
西側にもありますが、両方ともその高さ約4mと巨大なもので、中山道でも最大級のものらしいです。

ちょいとばかり中山道をはずれます。
深谷商業高等学校記念館→
大正11(1922)年築で大正ロマンの香り漂う建物。

(647)埼玉県深谷市役所
さて、間もない今月29日には「第22回深谷まつり」が開催されますので紹介しておきます。
が、上尾と同じように変な事が起きなければいいなと願う次第・・・。

ところで、深谷市には血洗島という何とも血生臭い、非常に気になる地名があるのですが、何を隠そう左のでかい立て看板に書かれている地がまさにそこ。

再び中山道。
大谷邸→
昭和初期に建てられた和洋折衷住宅で、国の登録有形文化財。

昔の面影残すお米屋さん→

↓唐沢川の桜堤と菜の花です→

 
規模は熊谷には及ばないけど、水面に映える淡紅色が実に素晴らしい。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

176日目 桜を愛でながら中山道を歩く・続編(3)~熊谷

2017-07-09 01:04:37 | 南関東
平成29(2017)年4月8日(土)


毎年のようにどこかで起こる大水害。
今回の九州、これ以上被害が拡大しない事を願うしかありません。
片や関東はというと、7月に入るやもう梅雨明け?って感じの凄まじい暑さ。極端すぎます。

ところで、3年前に訪れた東峰村の大行司(だいぎょうじ)駅舎が土砂崩れによって倒壊してしまったのを昨日知りました。いい雰囲気を醸し出していた駅だったのでとても残念です。

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熊谷駅北口→
バス停上の屋根から垂れ下がっている幕は、2年後のラグビーワールドカップが熊谷での開催決定したのを受けてもの。

「ラグビータウン熊谷」を標榜しているようですが・・・→
果たしてその認知度はいかほどなのだろう?

北口の駅前通りを進むと川が交差します→
星川と呼ばれている両岸のこの通りは「星川シンボルロード」と呼ばれ、所々に彫刻が飾られています。

鯉か鮒しか分からんかったけどな→

↓高崎線に並行する旧中山道(国道17号線)を越えて、高城神社へ。


↓狛○で犬以外は牛・兎・猫・獅子・馬に今回の亀と見ましたが(他にもあった気がするけど、よく覚えておりませぬ)、案外色々バリエーションに富んでいるもんです。


ここの占いと絵馬は特徴的です。
まずはコレ→
日本一長~い「おみくじ」、箱の長さ110cm、おみくじ棒はが80cm。
棒を箱から取り出したら2m近くになるのだから、それだけでも中々難儀っぽそう。

もう一つは写真に撮っていないのでお示しできませんが、木製の丸い玉である「むすび玉」。
玉の中に入っている紙(絵馬の一種と言っていいのかな?)を取り出して、願い事を書いてから玉の中に戻して奉納します。

(646)埼玉県熊谷市役所
人口は約20万人。
元々は「くまがい」だったらしく、鉄道が通った時に「くまがや」となったようです。

ここも中山道の宿場町で、明治初期には熊谷県の県庁所在地となったこともある埼玉県北の中心地。
生糸・製粉が主産業だったのが、鉄・セメント工場ができたことにより重化学工業にシフトしていく。
お気の毒な事に終戦の前日に空襲を受けてしまい、市街地はこっぴどくやられてしまったみたいです。

↓国道17号線に戻り、地元の老舗デパート「八木橋百貨店」へ。

埼玉県内初の百貨店でありまして、創業は明治30(1897)年。

ここに来た用件は買い物ではありません(百貨店には悪いけど)。
↓一見何の変哲もない出入り口からそのまま建物内の通路を進むと、向こう側の出入り口に行けます。


実はこの通路はかつての旧中山道そのもの→
つまり旧中山道にデパートが被さっているという珍しい形態。
因みに宿場町の名残りを留めるものは空襲で灰燼に帰した上に、さらに戦後の都市計画により現在は残念ながらほぼ見られないようです。

さて、熊谷を全国的に有名にしているのは、間違いなく夏の酷暑(と思われる)。
その凄まじさたるや平成19年8月16日に岐阜県多治見市と共に当時の日本観測史上最高気温40.9℃を観測した程だし、ニュースや天気予報で頻々に取り上げられるし。

日本一を叩き出した年から毎年登場するのが、百貨店出入り口に掲げられる「巨大な温度計」。
でもこの日はありません。
そりゃそうだな、夏なら何度まで上がったって興味あるけど、まだ春先には気温なんて全然気にしないし。
ただ、私が訪れた僅か1か月後の5月11日にはもう設置されたようです(熊谷経済新聞より)。
そんな時期から暑いのか・・・。

↓昨日(7月8日)、熊谷では今年最初の猛暑日だったようだし、さながらこんな感じの日がこれから続くんだろうな。
←見るからに暑い「あつべえ」。
ま、それは全国的にですが(ゲンナリ)

↓星渓園に少しだけ寄ってみます。
 
星渓園とは、元和9(1623)年に荒川が氾濫してできた「玉の池」を中心に作られた回遊式庭園で、池を水源とする川が星川。

秩父鉄道の上熊谷駅→
左が秩父鉄道、右の2本が高崎線。
残りの果てた線路はとっくの昔に廃止された東武線で、妻沼(めぬま)という所まで通じていました。
その妻沼には「妻沼聖天山」という古刹があり、そこの「歓喜院聖天堂」の本殿外壁の彫刻は実に豪壮華麗なんだとかで、最近国宝に指定されたみたいです。

しょっちゅう大暴れするので名付けられた荒川へ→
この時期の熊谷最大のイベントがここで行われているのでやってきました。

↓江戸時代から桜の名所として知られたらしい熊谷桜堤での「熊谷さくら祭」。
 
「さくら名所100選」に選定され、約2kmに渡り約500本ものソメイヨシノが植えられています。
熊谷の満開日は4月7日、つまり前日。絶好の時に来たもんだ(高笑)。
桜と菜の花、キレイだな。晴れていればもっと良かったけど、雨降りよりは遥かにマシ。

↓ここで飲み食いはしなかったけど、花を愛でられたし充分満足でございまする。


 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

176日目 桜を愛でながら中山道を歩く・続編(2)~上尾

2017-07-08 00:48:47 | 南関東
平成29(2017)年4月8日(土)

もうちょっとだけ浦和の続き。
悶々とした気分を抱えながら、工事中の浦和駅西口へ→
目の前の像は「武蔵武者群像」。
説明板には「彼らは荒野に開拓の鍬を振い、ことあれば剣を取って勇敢に戦った。争乱の世には、剛健質実な気風と固い団結をもって云々」とあります。
そうか、浦和レッズのあの一致団結した熱狂的で過激すぎる応援はそこから来ているのか。

でも西口といったらこちらでしょうか。
浦和区のマスコットキャラクター「浦和うなこちゃん」→
前編でもお話ししたとおり「鰻の街」浦和をPRすべく考案され、デザインは何と、あのやなせたかし氏なんだとか。なるほど、そんな感じの表情。

さてさて、浦和を終え高崎線に乗るべく駅構内に入る。
すると、何だかアナウンスが騒々しい。こういう時は何らかのアクシデント発生が鉄板。
いやーな予感を抱きつつ、毎度の事ながら何を言っているのだかよく聞き取れんアナウンスに耳を傾けてみると、「高崎線は8時すぎに発生した北本-桶川間の人身事故により、今度の電車は宮原駅で運転見合わせ・・・」思わず頭を抱える。

↓同じ場所でじっとしていられない私は、とりあえず電車で行けるところまで行こうとホームに。

立派な高架駅となった浦和駅、あのショボかった頃が懐かしい。
もっと言えば、ずっと昔は特急・急行はもちろん、朝夕以外の東北線・高崎線の普通列車ですら通過し、京浜東北線のみが細々と停まっていたのがウソのよう。

すぐに来た8時37分の電車は大宮駅の次の宮原駅までは行くけど、後はどうなるのか分からんのだと。
宮原駅とは、次の私の目的地の上尾(あげお)駅の一つ手前
どうしてもう一つだけ頑張ってくれんのかな?(苦笑)。

抑止中の宮原駅→
することがないので、駅の中をフラフラしていると9時頃再開のアナウンス。
先に宮原駅に到着していた高崎行き電車(写真左の電車)は突如3つ先の桶川駅止まりに変身して出発するのだと。
桶川より先に行きたい人はどーすんの?ですよね。無慈悲すぎ、お気の毒すぎ。

この事故ですが、ある女性が遮断棒の降りた踏切内に入って上り電車にはねられてしまったようです。
もし自○だったとしたら、これ以上のはた迷惑な話しはないのですが、或いは急ぎの用があってついつい潜ってしまったんでしょうか?
でも、狭い日本そんなに急いで永遠にどっかに行っちゃったとあれば本当にシャレにもなりません。
NAVERまとめ」には、はねた電車に偶然乗っていた方々の実況、当惑・お困り等々の声などが纏められてました。

大ダメージは何とか回避して上尾駅へ→
「大宮行き」になっている右の電車がどうやら件の電車らしいです。

↓快速何だかみなかみ、とか言ってった臨時列車も上尾駅に止められたまま。

あたかも「オレ、これからどうなるの?」って感じで止まってます。

↓上尾駅西口と近くの商店街。
 


上尾市のマスコットキャラクター「アッピー」は、以前登場した本宮市のキャラ「まゆみちゃん」と結婚して、 子供「あゆみ」までいる設定なのだと。
ゆるキャラごときにそこまでやって話題作りをして、肝心の町のPRはうまくいっているんでしょうか?

↓片や西口。
 

↓西口側のウラ通りを歩いていたら、とあるお寺さんへ。

このお寺さんでは近々大仏様を建立するとの看板が掲げられていました。
どんな大仏様ができるのでしょうか。どうせなら度肝を抜くようなものを・・・。

(645)埼玉県上尾市役所
江戸時代は中山道の宿場町だった上尾。
田園都市だったのが東京のベッドタウンとして住宅が増え、さらには大工場が進出し重工業都市へと変貌と遂げる。人口は約23万人。

これからのある上尾市のイベントの宣伝でもしておきます。
上尾商工会議所のサイトより→
「上尾夏まつり」です。7月15日(土)・16日(日)に絶賛開催予定。

これと言って特段見たい上尾での史跡旧跡等はないのですが、どうしても一か所だけ行きたい所がありました。それは市役所から南約1・5km位の所。

かつて私が埼玉県民だったのは前編でお話ししましたが、当時近所のおばちゃんに連れられて毎年スケートをしに行っていた場所がありました。
それがここ→
「水上公園」とだけ覚えていたのですが、施設の様子などはちっとも覚えていませんでした。
でも、次第に思い出してきたぞ→
この左の建物でスケート靴を借りて履き替えて、階段を下りてスケート場へ。
茶色の陸上トラックのような所でグルグル周って滑ったのですが、当時は今のように真っ平ではなく、凹んでいたような?
そもそもスケートができる雰囲気が全くないぞ・・・。

ちょうど、事務員のおばちゃんが通りかかったので、「昔、ここでスケートができましたよね?」と聞くと、「そうでしたね」。
今ではスケートは近くの施設でできるように移されたので、凹みは潰されてしまったそうです。

埼玉時代の少年期にほんの一瞬でも戻れて、満足して駅に向けて歩きます。
↓宿場の面影、まるでなしの旧中山道。
 
当時からあるのはこの神社くらい?

駅に戻ればダイヤはかなり回復しつつありました。
次に全国的に知名度の高い熊谷へ一気にぶっ飛びます→

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

176日目 桜を愛でながら中山道を歩く・続編(1)~浦和

2017-07-01 00:51:31 | 南関東
平成29(2017)年4月8日(土)


かなり早い時期から桜満開を見計らって行こうと決めていたJR高崎線沿線日帰り旅です。

今年の東京の開花は本土トップを切っての3月21日。
え゛っ、早すぎるんだけど。年度末の忙しい時期には出掛けられないので、下手するとその間に散っちゃうじゃん・・・。
そんな心配をよそに満開になるのが妙に遅く、まず4月1日に行こうと決めたけど寒かったし雨だったので、8日に延期。
まあ、その8日も朝は雨だったけど・・・。

さて、3年前に4回にわたって「中山道を歩く」と銘打ってブログを書きましたが、今回は埼玉県内の残りを一気に片付けます。

↓首都圏の街巡りの際はお決まりの稲毛駅4時49分の快速電車で出発、東京駅で京浜東北線に乗り換えて北浦和駅にて下車。

手始めに、さいたま市の浦和を歩きます。

駅前を旧中山道が南北に貫いています→
キツネのような、でっかいリスのような像は、浦和レッズのマスコットらしい。
サッカー王国として知られる埼玉県、中でも浦和は「サッカーの街」の名を欲しいままにしている土地柄。

この道を南、つまり浦和駅の方に向かいます。
北浦和駅周辺は、特段昔ながらの古い建物なんかは見られず。

JR東北線の線路を跨ぎます→
後で知ったのですが、東京都心の満開は4月2日でしたが、一方の埼玉県熊谷は4月7日。
結果的にめでたく見頃の時期を選んで出掛けたという事になりました。

浦和は中山道の宿場(板橋、蕨を経て3番目)→
ちょっぴりではありますが、宿場の名残りを感じさせる建物が見られます。

毎月2と7の日に開かれたという浦和の市、その市場跡→

↓何かしらの汚物を拾い上げているかのようなこの像は、野菜を売る「農婦の像」。


仲町交差点付近→
ここらに本陣があったらしいです。

↓(644)埼玉県さいたま市役所
 
細かいところですが、さいたまの「さ」の字はこの「さ」で、にあらず。
平成13年に浦和市・大宮市・与野市が合併して誕生し、平成15年には政令指定都市に昇格、平成17年に岩槻市を飲みこむ。
現在10の区に分けられ、市としては全国第9位の130万人近い人口がいます。

埼玉県庁所在地であるさいたま市ですが、突っ込みどころの多い都市でもあります。
まず、テレビの天気予報なんかを見ていると当然「さいたま」と表示されるのですが、これが実にカッコ悪い。
少なからずそう思っている市民(県民も含めて)も多いのではないでしょうか。

次に、埼玉県は旧武蔵国埼玉郡が由来ですが、平成13年合併時の「さいたま市」は全く埼玉郡にかすりもしなかったので、本来は「さいたま(埼玉)」を名乗る資格がなかったウソ偽りの都市名。
そもそも浦和・大宮・与野は元々足立郡であったのだから、東京都足立区に気兼ねする事なく、寧ろ堂々と「足立」を使った方が良かったと当時私は思ってました。
今では埼玉郡に属していた岩槻をめでたく?手中に収めましたので、一応偽名は返上できました。

市役所敷地内にある「埼玉サッカー発祥の地」→
そのキックオフ、明治41(1908)年6月7日午前。

〔55〕埼玉県さいたま市浦和区役所
何とビックリ、お粗末な建物! このひどすぎな扱い、ナニ?
と思いきや、元々市役所本庁舎1階が区役所であったのですが、耐震補強工事の煽りを受け、ここに仮移転させられてしまったみたいです。今現在は工事は終わったかどうか知りません。

かつて「鎌倉文士に浦和画家」という言葉があったそうです。
関東大震災以降、被災した多くの画家が浦和に移り住んだため、文豪が多かった神奈川県鎌倉と並んでそのように称されたのですが、今でもその流れを受け継いでいて、文教都市でもあり、首都圏でも屈指の高級住宅地なんだそうです。
歩き廻った範囲が狭かったためか、あまりそんな感じは受けなかったけど・・・。

この日のお天気→

埼玉県庁
私にも少年だったという過去がありまして、その約10年程は埼玉県民でした。
小学校の社会科見学に県庁が入っていまして、ここはそれ以来。
ただ、建物と建物を繋ぐ長ーい渡り廊下を歩いた事しか覚えていません。

裏門通り商店街→
県庁官舎の裏門に通じることから名付けられたこの通り、レトロなお店多し。

玉蔵院→
弘法大師が創建したとされる真言宗の古刹で、しだれ桜と白砂の庭が美しいのだとか。

さくら草通り→
埼玉県では初めて、全国で9番目に整備された歩行者専用道。
毎月第4木~日曜には古本市が催されるようです。

幾つか見受けられた鰻屋さん→
鰻の蒲焼の発祥地は浦和という説があるようです。
江戸時代は沼地が多かったという浦和、そこで採れた鰻は味の良いことで評判だったみたい。

↓調神社
 
読みは「つきじんじゃ」。伊勢神宮への「調物(みつぎもの)」を納める倉庫があったという神社。
神社にして鳥居がないのと、狛兎なのが大きな特徴。
お水取りの兎はどちらかというと海獣っぽいけど。

浦和第一女子高校→
埼玉県で最古の、一番名前の知られた女子校で、県内トップクラスの進学校。
ここに来た理由ですか? もちろん登校中のピチピチの女生徒を見・・・。
いやいやそうではなく、昔この高校出のとても可愛かった才女と付き合っていたことがありましてね、どんな姿で通っていたのかなあと想像しに。
ま、そんな意味のない事をしてて虚しくもなりましたけど。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→