ゆっくりのんびり市町村廻り

何年かかるか、もしかしたらできないかもしれないけど、日本の全市区町村の制覇を目指して頑張ってみる!

146日目 激戦の地・沖縄に思いを馳せる(3)

2016-03-31 22:25:11 | 南西諸島
2016年1月31日(日)


2年間行方不明だった女の子、無事で良かったですね。
ところで、監禁されていたとされている千葉大学裏のマンションですが、大学とマンションの間の道路はしょっちゅう車で通っているし、以前1階にあったコンビニにはよく立ち寄ったのもあって当然知っていたので、とてもビックリしたわ。
まさか犯罪の現場だったとはね・・・。

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ようやく糸満市を脱出し、お隣の八重瀬町(やえせちょう)へ。
(572)沖縄県島尻(しまじり)郡八重瀬町役場
平成18年に東風平町(こちんだちょう)と具志頭村(ぐしかみそん)が合併して成立した約3万人が住む町。八重瀬岳という山が町の由来。

さて、この町が所属する島尻郡ですが、本島南部の他、東は台風が来た時によく聞く南・北大東島、西は久米島、北は本島最北端よりはるか北にある伊平屋(いへや)・伊是名(いぜな)の2島に及ぶ、異常すぎるほど広い郡。正直この大きさには驚きだわ。

↓役場前に立っていたガードマンに「無料なのでいかがですか?」と、この演劇を熱心に勧められるも無下に断る。

スマンのお・・・。
八重瀬町出身の沖縄自由民権運動の先駆者である謝花昇(じゃなはのぼる)の生誕150周年を記念した喜劇のようですが、興味がなかったのもあるけど、劇より是が非でも見たいものがあったからで・・・。

それは富盛(ともり)地区にあります。
↓案内に従って進んでいくと急坂になり、それを登っていくといきなり目の前に階段が現れて車道は行き止まり(私が立っているのは階段)。

あたりに駐車場はないし・・・。それに降りていくのは難儀だぞ、こりゃ。

私のお目当てとはコレ!→
沖縄で最大かつ最古のシーサー「富盛の石彫大獅子」(高さ約140cm、長さ約175cm)。
村火事が多かったので、それを治めるべく風水師の助言を受けて作られ、1689年にここに置かれた火除けの獅子。

ところで、像を間近に見ると所々に小さい穴があいております。
理由はこれ→
旧海軍司令部壕に飾られていた写真。
沖縄の守り神というより、あたかも米軍の守り神になってしまっているかのように見えるのが何とも切ない。
それに70年ほど前にここで激戦が繰り広げられていた事自体も信じられませぬ。

シーサーからほど近い「八重瀬公園」へ→
この日の一週間後(2月7日)に「やえせ桜まつり」が開催されるというので、どんなもんか咲き具合を見に来てみました。

ところで、ここにもひっそり戦争遺跡があります。
左側の階段を登って奥にある「白梅学徒看護隊之壕」で、前々編でお話しした「白梅学徒隊」が活動していた「第24師団第一野戦病院」跡。

ピンボケですみません→
岩が黒ずんでいるのは、米軍によって火炎放射を受けたかららしいです。

階段を登った先の上からの眺め→

↓ヒカンザクラはまだチラホラ咲きでござんした。

ま、こんなもんだろうね。

公園でガードマンをしていたおっちゃんに「夜、ライトアップされるよ」と言われ、「何時くらいになると暗くなるんですか?」と聞くと、「6時半くらいかなあ」という。
えっ?、そんなに日が長いの?
この日の那覇の日没は18時11分。その頃の東京は17時を過ぎるともう暗くなっていたのでね、それに慣れきっている身としてはビックリなのですよ。

18時半まであと1時間近くもあり、ここでずっと待っているのも苦痛なので、車を走らせ南城(なんじょう)市へと向かいます。

閉園後の「おきなわワールド文化王国・玉泉洞」→
人のいないテーマパークというのはとっても寂しすぎ。
でも、国内最大級規模を誇る鍾乳洞「玉泉洞」や、世界で唯一のハブの博物館「ハブ博物公園」、沖縄の古民家を移築した「琉球王国城下町」があったりと一度は行ってみたいお遊び処。

糸数入口交差点→
この先をまっすぐ行くと「糸数アブラチガマ」という戦争遺跡があります。
それは南風原陸軍病院の分室として、「ひめゆり学徒隊」も配属されたガマ。

(573)沖縄県南城市役所
沖縄では「城」を「ぐすく」と呼ぶのですが、何でだかここは「じょう」。
ここも平成18年に4つの町と村が一緒になって誕生した人口約4万人の市。

ようやく暗くなり始めましたし、行けたらいいなと思っていた琉球一番の聖地とされる「斎場御嶽(せーふぁうたき)」や雄大な眺めが売りという「ニライ橋・カナイ橋」は次回の楽しみに。

↓そこで、磯釣りの名所で一周約1.6kmの奥武島(おうじま)へ。


この島の名物は「沖縄風天ぷら」→
でも閉店してしまっていて、いと虚し・・・。

↓再びの八重瀬公園。




那覇市へ行きレンタカーを早々に返却します。
あれっ?、残り2日間車なしでどうするの?なのですが、どうしましょうかね?

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参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

146日目 激戦の地・沖縄に思いを馳せる(2)

2016-03-26 23:33:54 | 南西諸島
2016年1月31日(日)


↓喜屋武(きゃん)岬の次は、国道331号線沿いにある沖縄戦跡の代名詞とも言うべき「ひめゆりの塔」へ。


↓完璧に観光地と化してます→
 
何だかおかしい、変だと思うのは私だけではないはず。
紛れもなく悲劇があった場所なんですが・・・。

まずは「ひめゆり」から西へ行く事すぐの所にある戦跡に行きたくてそちらに向かうと、駐車場で車の誘導係しているおっちゃんに呼び止められる。「お~い、(ひめゆりは)そっちじゃないぞ~」
どうやらそれを見に行く人は全くいないようです。
でも「ひめゆり学徒隊」に関係のある所なんだけどなあ。

やっぱり私の他には誰もいませんでした→
「伊原第一外科壕」というガマで、「ひめゆり学徒隊」が配属された壕のうちの一つ。

中の様子→
ポツンと置かれているものは折り鶴だったか?、この壕でも亡くなった女学生がいたようです。

国道から見た「伊原第一外科壕」の茂み→
今では長閑な辺り一帯。夏なら「ざわわ」と、さとうきびが揺れている風景になるのかな?
恐らくまだ見つけられずに眠ってらっしゃる方も多いんでしょう。

↓次は「ひめゆりの塔」、ではなかった・・・、隣の駐車場の奥にある「梯梧(でいご)の塔」。

沖縄戦における女子学徒隊は全部で9つあり(「白梅学徒隊」「積徳学徒隊」(以上は前編で紹介)「ひめゆり学徒隊」「なごらん学徒隊」「瑞泉学徒隊」「梯梧学徒隊」「宮古高女学徒隊」「八重山高女学徒隊」「八重農学徒隊」)、そのうちの一つ「梯梧学徒隊」が組織された私立昭和高等女学校関係者で戦死した60名を祀っている慰霊碑。
ここもあまり人が来ることなく、ひっそり。建物一つ隔てた所は大賑わいなのだけど・・・。

今度こそ、人が多く来ている「ひめゆりの塔」へ→
何も知らなければ、後ろの白い大きな慰霊碑が「ひめゆりの塔」と思ってしまうでしょう。
ですが、写真真ん中のガマ「第三外科壕」の右にある小さい碑こそが「ひめゆりの塔」

有名な「ひめゆり学徒隊」は、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校から動員された総勢240名(生徒222名、教師18名)からなる女子学徒隊。
沖縄県立第一高等女学校広報誌の名前「乙姫」と、沖縄師範学校女子部の広報誌の名前「白百合」を併せて「姫百合(ひめゆり)」となったらしいです。

彼女たちは負傷兵の看護などに当たるも、米軍の進攻により島南部へ撤退する。
そしてこの「第三外科壕」で突然の解散命令を受けた日の翌朝の米軍の攻撃で、壕の中にいた女学生や教師のほとんどの命が奪われ、荒崎海岸まで逃げ延びられた女学生らも手榴弾等で集団自決したという。

↓かなりの人が「ひめゆり平和祈念資料館」に吸い込まれていきます。

私は一度見学したのもありますが、他にも行きたい所がいっぱいあるので今回は入りません。

魂魄(こんぱく)の塔→
沖縄で最初に建立された最大の慰霊碑で、2番目にできたのが「ひめゆりの塔」。

写真左の石碑文には「(前略)戦後、真和志村(今は那覇市)民が収容移住を許された所で村民及び地域住民の協力によって、道路、畑の中、周辺いたる所に散乱していた遺骨を集めて祀ったのがこの魂魄の塔である。祭神3万5千余柱という、沖縄で一番多く祀った無名戦士の塔(以下略)」とあり、住民はもとより、軍人・兵士も敵味方の区別なく祀っています。
遺骨は一箇所に集められて大きな穴が掘られその中に収められたが、それでも収まりきれず、積み上げられ一つの大きな骨の山が築かれ、周囲から石をかき集めて納骨堂が完成したという。

この塔の周囲には1都1道8県の慰霊塔が、沖縄県全体では1都1道2府42県の慰霊塔があるのですが、1県だけありません。その1県とは・・・。
沖縄県
なので、ここが「沖縄県の塔」とも言うべき慰霊碑のようで、親族がどこで亡くなったか分からない人達はここにきて涙を流すという。

本来は「ひめゆり」などの他のどこよりも真っ先にこの塔を慰霊すべきなのですが・・・。
順序が逆になってしまいました、すみません。

昭和20(1945)年6月23日、第32軍司令部・司令官の牛島中将以下が自決して組織的な抵抗が終わった地・摩文仁(まぶに)の平和祈念公園へ。
↓ただ、ここに着いたのは16時半で、平和祈念資料館の「常設展示室」へ入れるのも16時半まで。

タッチの差でした、残念・・・。

↓エントランスホールの床の一部にはガラス張りになっています。

覗くと、狭い所に不発弾数発。
爆発したのは当然比べるべくもなくもっと多かった筈で・・・。
「鉄の暴風」と呼ばれた砲弾射撃の凄まじさがほんの少しわかるような気がする展示品。米軍に撃ち込まれた砲弾は約270万発だったらしく、想像しただけで恐ろしい。

建物を出る→
右の石碑は、沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」。

平和の広場→
周りにはシナ大陸から来た多くいて、ここを知ってか知らずか大騒ぎ。
さすがに「我々は小日本に勝ったんだぞ!」などと叫んではいないと思うけど・・・。

広場からの眺め→
喜屋武岬同様、今でこそ美しい眺めのここですが、逃げ場を失った兵士や住民らが身を投じたようで、それはさぞ凄惨極まりなかったのでしょう。
平和とは本当にありがたいもんです。改めて亡くなられた方々に合掌。

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146日目 激戦の地・沖縄に思いを馳せる(1)

2016-03-20 23:13:36 | 南西諸島
2016年1月31日(日)


糸満市は大東亜戦争における沖縄戦の最後の激戦地ゆえ、至る所に戦跡があります。
なので沖縄本島南部を廻っている以上、訪れる所はどうしてもそれらがメインになります。
もちろんそれはとても多く、シラミつぶしに行くワケにもいかないので、事前にいくつかピックアップしておきました。

さて、いわゆる沖縄戦跡と言えば一番有名なのは、恐らく「ひめゆりの塔」でしょう。さすが映画となっただけあります。
ですが、「○○の塔」などと呼ばれる慰霊塔は「ひめゆり」以外にもたくさんありますし、野戦病院や兵士・住民の避難場所として使用された洞窟(現地ではガマと呼ばれる)も多く残っています。

ところが世間の注目は「ひめゆり」ばかりに集まっており、それはいくら何でもなって事で、あまり知られていない戦跡を少しでも知って貰えればと思っております。

↓まずは、県立第二高等女学校の関係者149名が合祀されている「白梅の塔」。

従軍看護婦として働いたいわゆる女子学徒隊は何も「ひめゆり学徒隊」だけではない
他にもあった学徒隊のうちの一つ、県立第二高等女学校の生徒50名程で編成され、22名が戦死した「白梅学徒隊」は、糸満市の次に訪れますが、今の八重瀬町に八重瀬岳病院壕があり、昭和20(1945)年3月下旬からそこで活躍する。

米軍が迫ってきた6月に病院が解散すると、白梅隊も解散し、彼女たちは数人ずつに分かれ南部へ逃げる途中に見つけたのがこの塔がある洞窟。
16名が隠れていたという洞窟に、米軍は「馬乗り攻撃(洞窟の上から穴を開け、そこからガソリンなどを注ぎこんで火を付ける攻撃方法)」を仕掛け、6名が亡くなったという。

↓観光客で賑わう「ひめゆりの塔」とは実に対照的でひっそりとしていて、慰霊塔は鬱蒼とした木々の中(写真左側)にあります。

果たして戦時中はどんな光景だったのでしょうか・・・。想像すらつきません。
因みに近くには「山形の塔」「眞山の塔」などといった慰霊塔もあります(画像は略)。

↓突然のいきなりの洞窟ですが、ここは沖縄県庁最後の地と呼ばれる「轟壕」。

糸満市のサイト・観光部門の解説には「全長約100mの東西に延びる自然壕。壕内を川が流れる。名城の住民や他地域からの避難民が隠れていた。6月下旬に島田叡知事以下の県庁職員幹部が避難し、沖縄県庁最後の地とも言われている。18日ごろ米軍が壕を攻撃するが、日本兵は住民の脱出を許可しなかった。」とあります。
でも、24日頃に約600名の住民が米軍に保護されたという。

いくつか戦跡としての壕を見ましたが、ここは特に雰囲気が重く感じました。
下から見上げる→

↓一人の出入りがやっとのこの小さな穴から「全長約100mの東西に延びる自然壕」に繋がっているようです。

覗いてみましたが真っ暗だし、仮に入っても中にハブでもいたらイヤだしで、やっぱりガイドさん付きでないと入れないよなあ。

この壕は平和学習でよく利用されているらしく、実際私がここにいた時に、東京から若い教職員の団体が見学に来ておりました。

次に「陸軍病院糸洲第二外科壕」だと思って来た所→
実際には私の全くの勘違いだったのですが、「糸洲の壕」とよばれている洞窟。「ウッカーガマ」ともいうようです。
周りは一面畑で、その中にひっそりある戦跡。

第24師団第二野戦病院が、戦局の悪化により、元々は豊見城にあったのが、移動して来た場所がここ。それに従軍したのが私立積徳(せきとく)高等女学校の女生徒25名(積徳学徒隊)。
この部隊長は珍しく命の尊さを説く軍人だったお蔭で、犠牲者は3名で残りは生還できたという。

壕の中から外→

↓そして、カーナビがないと他所者にとっては辿り着くのが案外難儀な、沖縄本島のほぼ最南端の岬・喜屋武(きゃん)岬へ。

高さ10~20mの断崖が切り立つ岬。
「きゃん」とは沖縄の方言で「極み、突端」という意味らしいです。

眺めはとっても抜群→
写真の海に突き出た部分は荒崎といい、そこが沖縄本島最南端。

景色の良いここも悲劇の場所であります。
平和の塔→
アメリカ軍が南に進攻するに伴い、それから逃れるため住民は南に逃げ、行き着いたここで多くの人たちが身を投げたといいます。

合掌。

146日目 テキトーに糸満市街地をブラブラしてみる

2016-03-15 23:41:25 | 南西諸島
2016年1月31日(日)


市役所に車を止めます。
(571)沖縄県糸満(いとまん)市役所
じわじわ地道に人口が増加させ、一昨年前に6万人を突破した沖縄本島最南端の市。
明治41(1908)年に沖縄で最初の町となり、琉球政府時代の昭和46(1971)年に市制。
南端部は沖縄戦の最後の激戦地としても知られ、それら戦跡は追々出てきます。

↓役所近くの国道331号線バイパスの橋より内陸部。


橋の袂にノラがいたので、カメラを向ける→
すると、凄みのある形相で今にも私に飛びかからんとしてくる。取り込み中に邪魔してしまったようです。
沖縄はとてもノラネコが多く、しかも痩せ細ったのばかり。数が多いからかエサ取り競争も激化しているんでしょうか?ネコだってつらいよ。
襲いかかってきそうだったのも、或いは空腹で気が立っていたのかもしれない。

何故か自転車が水辺に投げられているし→

国道331号線旧道へ。
↓琉球赤瓦やシーサーを見るとやっぱり沖縄に来た気がしますなあ。


ちょっと気になったお店→
ちょうどお昼時だったのでお腹は空いていたのですが、オヤツっぽいのよりソバでも何でもいいけど普通にご飯が食べたかったのでパス。買わないでゴメン・・・。

街路樹は糸満市の木「ガジュマル」→

↓糸満ロータリーに来ると、登ってみたくなる高台が目の前に現れる。

もちろん登ります。なぜ人は高い所へ行きたがるんだろう?

高台へ向かう途中→
すれ違ったパンツ一丁でふらつくおっちゃん。しかも半分シリを出してるし(笑)。
本当に一週間前は雪が降らんという寒さだったのかねえ?

↓眺めよろしき展望台より→


山巓毛(さんてぃんもー)という標高約25mの丘で、昔は海に面していたという。
前々編の飛行機着陸寸前の市街地写真はここ。

眼下の糸満ロータリー(上の写真)は、環境に優しいとして最近注目されつつある「ラウンドアバウト(環状交差点)」で、今月(3月)まで社会実験中。

糸満漁港内(下の写真)では、旧暦5月4日に糸満ハーレーという、ハーレーダビッドソンによる水上バイク競争が行われ、いやいや、沖縄の伝統船・爬竜船(はりゅうせん)による舟漕ぎ競争のお祭りが開催されるそうです。

沖縄戦で破壊されてしまったと思った石碑→
戦時中、敵機を発見するために「防空監視哨」が置かれていたという山巓毛。
それで標的にされないよう、横倒しにされてしまったんだとか。

商店街へ→
左は昔本屋?なかなか豪快な表示。

↓冷たいものだけで商売が成り立つとは、さすが沖縄。


市役所に戻る途中のスーパーにて→
この注連飾りを見て、今は年末だっけ?と一瞬混乱する。
そうか、確かに旧暦では正月目前なのよね。シナ大陸の文化が色濃く残る沖縄ならではの売り物ですな。

ところで、このスーパーをウロウロしていたら、紅芋アンダギーが目に入ったので思わず買ってしまう(よっぽど空腹)。うむくじだんご屋さん、本当にスマヌ。

照屋の石彫獅子→
愛らしい表情が魅力の照屋地区の守り神、とは糸満市のサイト。
制作年代・制作者は分からずらしい。

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参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

146・148日目 沖縄に来たら行くべき所

2016-03-11 22:32:50 | 南西諸島
2016年1月31日(日)・2月2日(火)


もう5年たったんですね、早いもんです。
特に今年はテレビでの特集番組が多いので、どうしてもあの日を思い出したり、被災地の現状などについて考えさせられたりする事が多くなります。
東北の被災地へはかなり足が遠ざかっているので、今年はきっと必ず・・・。

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豊見城(とみぐすく)市内にあるレンタカー屋で手続きを済ませ、早速出発。
↓が、その前に隣に「道の駅豊崎」があるので、ちょいとウロついてみる。

日本で最も西にある道の駅。でもこれといった特徴なし。

市役所はこのすぐ近く。
(570)沖縄県豊見城市役所
平成14年に村からいきなり市へ大出世を遂げる。
おまけに村時代には、役所は村としては珍しい「豊見城村役所」を名乗っていたという。
沖縄本土復帰前は町村でも役所といっていたのが、本土復帰後は自治省から「本土並みに役場にしろ」とのお達しが来たにもかかわらず、中央に楯突いていた見上げた自治体。
県都・那覇市のすぐ南に隣接しているので人口の増加は鰻のぼりで留まるところを知らず、約62,000人が住んでおります。

借りた車はこれ(役所前の駐車場にて)→

今の知事さんと同じ名前の交差点→
これより国道331号線を南下し、糸満(いとまん)市へ向かいます。

さて、沖縄といったら「青い海と白い砂」だの、「離島」だの「本土にはない特異な琉球文化、風習」「食・酒」といったある種楽しい面ばかりに目が行きがちで、それはそれで仕方ない事ですが、悲惨な歴史があった事も我々日本人は忘れてはいけないと思います。

↓そういう意味で訪れたのが、今回で2度目の見学となる、いわゆる沖縄戦跡の一つである「旧海軍司令部壕」。

ここから話しはいきなり翌々日に飛びます。
この壕は那覇市と豊見城市の境に跨っているのですけど、事業所が豊見城市にあるので本編で紹介します。

「旧海軍司令部壕」とは、米軍の沖縄上陸必至となった昭和19(1944)年に海軍によって掘られた地下防空壕で、司令部としても使用され、4,000人余りの兵士がここに収容されていたという。
そして昭和20年6月13日に司令官・大田實中将以下、幕僚5名が壕内で最期を遂げる。

大田中将が自決する前の6月6日に「沖縄県民斯ク戦ヘリ」という有名な電報を送った所でもあります。知らないという方は検索して是非一度お読み下さい。

長さは450mほどあるとの事ですが、機械ではなく全て鍬やツルハシなどを使った手作業で掘られ、公開されているのはその一部300m。

那覇市中心部からモノレールで空港に行く途中に寄ったので、奥武山公園(おうのやまこうえん)駅からおよそ2kmくらいをのんびり歩きながらやって来ました。

見晴らしはいいです→
だから司令部設置場所に選ばれたんだろうけど。周辺は海軍壕公園として整備されています。

入場料は\440→
JAF会員は50円引きなので会員証を見せたのですが、持っていた「ゆいレール1日乗車券」を提示するともっと安い90円引き。知らなかった、失敗した・・・。

資料館は無料で見られます→

↓さて、無機質な壕内へ。心の中で手を合わせながら。
 
とにかく雰囲気が重い・・・。

作戦室→
重要な部屋はコンクリート漆喰で固められ丈夫に造られてます。

幕僚室→
正面のシミみたいなものは、幕僚が自決した時に用いた手榴弾の破片跡(左側の壁にも跡があります)。生々しすぎる。

↓司令官室と壁に書かれていた「醜米覆滅」。
 
戦う糧がこのたった4文字か・・・、切ない。

↓寝床にも使われたという通路。
 
ひしめく兵士で、きっと息が詰まるような状況だったのであろう事は想像に難くないです。

下士官室→
玉砕前はたくさんの兵士でいっぱいとなり、立ったまま睡眠や休息をとったとある。
絶望的な状況に追い込まれていた事が如実に伝わってきます。

兵士が出撃していった出口→
絵にある「兵士たちのほとんどは武器らしい武器もなくこの出口から出撃、大半が二度と帰ってきませんでした」という文章がとても胸を締め付ける。

↓緊張感のない「おっぱのじぇらーと」の幟がある出口を出る。

壕と対照的な光景。この幟を見て改めて平和のありがたみを感じずにはいられなかったのでした。

1月31日の続きは、沖縄本島の南部に向かうが故、そのほとんどが沖縄戦跡を訪れたものばかりの内容になりそうです。かなり重たいかもしれませんがご容赦戴きたいと思います。

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参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

146日目 久しぶりの真冬の旅(但し、年末年始は除く)

2016-03-08 23:56:00 | 目的地へ(から)移動
2016年1月31日(日)


昨年11月、国内ツアーのサイトを見ていた時の事。
「1月2月って、こんな所でもたった2万円でネグラ付き2泊3日も行けるのかっ!!」と、ソッコーで予約した某所へのパックツアー、いよいよその日が訪れました。
この時期に出かけるのは雪の山形へ行って以来3年振り。

↓稲毛駅より、東京からの下り快速一番電車の成田空港行きで出発。


というワケで、(イヤだけど)空からの目的地入りです。
そして2万円の貧乏ツアーだから当然ですが、全日空やら日航やらの豪華版に乗れるはずもなく、LCCでの空の旅でございます。

ただ予約後、例の軽井沢での事故で「安かろう悪かろう」なツアーがどうのこうの言われて、急に不安になったのも事実。
でも事故に遭われた方々には申し訳ないのですが、その事故とは違って飛行機には「悪かろう」は確率的に極めて少ないだろうし(もちろん安全面について。座席の快適性や機内サービスの面はここでは目をつぶる)、宿なんて寝られるスペースがあれば充分なので、ツアー自体には問題なかろうと自分に都合よく考える。
ただ一点、宿の消防設備がきちんとしているかは気になるところではあるんだけど・・・。

↓乗る飛行機はジェットスター、成田7時40分発。


↓搭乗して約30分後、山中湖に富士山。綺麗な景色でござる。
 
実は富士山を上から見るのは初めてだったりする。
中腹にボコッとある凹みは「宝永火口」。

行き先は西です。この時期は間違っても北へ行くワケないし(厳密には一回間違って行ったことがある→山形)

関空を見下ろして、→

開聞岳がうっすら見える錦江湾をかすめ、→

↓ある陸地の南側を旋回し、市街地を真横に見ながら着陸態勢に。
 

↓成田を出て3時間あまりかけて、はるばるやって来たのは「めんそーれ」との歓迎を受けた地。
 
個人的には5年ぶりの沖縄でございます。

さすがは南国! 雪が降っただの降らないだので大騒ぎしていた一週間前がウソのような腕まくりしたくなるこの日の暑さ。20℃超えているからねえ。
成田を離陸した頃は急に冷え込んでムチャクチャ寒かったし、とても同じ日本とは思えん。

さてさて、沖縄を廻るには車がないとお話しになりません。
↓というワケで、上陸した感慨に耽る間もなく、レンタカー予約していたО社のお迎えのバスで豊見城(とみぐすく)市の営業所へ。


↓瀬長島(せながじま・豊見城市)、空港南にある島。

離着陸する飛行機を間近に見られます。

さあ、ここから南国ドライブを楽しむぞ!→
と、ハイテンションでいきたいところですが、道中そんな気分になるのは憚られまして・・・。

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145日目 年末年始旅を締めくくる

2016-03-07 23:58:56 | 近畿(大阪・兵庫)・山陽
2016年1月1日(金)


山陽線の電車は岡山駅を出てすぐに緊急停車。
踏切の遮断機が降りているにもかかわらず、線路内に入った人がいたらしい。
車内では18キッパーが「前にもここで人が入って止まったんだ」と叫んでいるし。

↓おまけに踏切の遮断機が降りたままなので、線路を横断できない車で大渋滞している。

本当に困った輩だ。

↓というワケで、次に降りる予定の和気(わけ)駅には15分ほど遅れて到着。


(568)岡山県和気郡和気町(ちょう)役場
町のサイトの町紹介には、自然に囲まれ、災害の少ない約15,000人が住む町であると。

役場の目の前は金剛川と山→
ま、自然が多いのは確か。

ところで、和気町はPRキャラクターをいささか過剰気味の3つも抱え、それぞれ「わけまろくん」「フジコちゃん」「タンタン」という。
「フジコちゃん」「タンタン」は町花・藤、町鳥・タンチョウからですが、では「わけまろ」は?

そのモチーフとなったのは、ある坊さんからの天皇家乗っ取りを阻止した英雄・和気清麻呂さん。
って誰?という方もあろうかも知れませんが。

約40年前にエチオピア皇室が滅びてからは、意外に知られざる事ですが、世界最古の皇室に躍り出た万世一系の日本の象徴・天皇家。これは日本人として大いに誇るべき事ではないですか!
奈良時代に血筋が耐えていたかも知れない乗っ取り事件の概要は「宇佐八幡宮神託事件」でお調べ下さい。

和気町の和気神社という神社には彼の銅像があるようですが、そんな事情からか、皇居前にも銅像があったりします。

ところで、和気清麻呂はこの件で時の天皇の逆鱗に触れ、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名の罪に処せられ、大隅国に流される。
いくらなんでも「きたなまろ」はないだろ。それに刑が子供じみているし。
後に彼は政界に復帰するのですが、京都に都を遷すのを進言する。なので京都の恩人でもある。

駅の南側には「片鉄ロマン街道」→
備前市から美咲町(みさきちょう)までの34kmのサイクリングロードで、平成3年まで営業していた片上鉄道跡を利用したものとしたもの。
以前、ちょっぴりですが備前市の部分は紹介したことがあります。

↓山陽線を跨いで、昔の「本和気駅」までの約1.5kmを歩いてみる。






↓駅名に「本」とあるくらいなので、恐らくこのあたりが和気の中心街であったみたい。



上の写真の、右側の古い立派なコンクリート建物とその奥の建物は郵便局で使ったらしき建物。
今の郵便局はもうちょっと離れた所にあり、三代で残っているなんてそうはないぞ。

中国ばかりウロウロしているのもつまらないので、近畿の町一箇所訪れてみる。

上郡(かみごおり)駅→
いわゆるJR西日本アーバンネットワークの西の端っこ。
尤も「アーバン」という雰囲気がここにはこれっぽっちもないのだけど。
でも鳥取へ行く智頭急行線が分岐しているので、鉄道の要衝だったりする。

駅前通りを歩きます→

面白そうな入口があばら家な飲み屋がある→
入るのためらいそうだけど、口コミを見ると、落ち着いた感じの店内で、味もなかなか評判はよろしきよう。

↓そのうち千種川(ちくさがわ)の川っぺりに来ます。


右岸側の川の真ん前に役所があります。
(569)兵庫県赤穂郡上郡町(ちょう)役場
県は違えど山一つ越えただけの二つお隣さん・和気町と似た感じの雰囲気かな、住んでいる人の数も似たり寄ったりだし。

↓左岸側には旧・因幡街道があって、古い街並みが見られます。

このあたりは昔は「上河原」と呼ばれていたようで、それが上郡の地名の元となったみたいです。

大正11(1922)年築の元酒屋→
今ではギャラリーとなっている・ひがし蔵。

一気に暗くなった駅前はキラキラ輝く→
12月11日から1月4日までの「駅前イルミネーション2015」ですが、見に来ている人はほとんどおらず虚しく輝くだけ。電車の客は喜ぶかも知れないけど。

駅前にある案内観光所→
左のマスコットキャラクターは地元名産である「野菜の王様」モロヘイヤをPRする「モロげんきくん」。
そんでもって、上郡ではそれをさらに発展させ、モロヘイヤを練り込ませたうどん、せんべい、羊羹などを売り出しているようです。特に、うどんである「円心モロどん」は写真を見るといかにも旨そう。
今度姫路の親戚の家へ遊びに行った時にここに食いに来よう。

相生からは「ひかり482号」→
「のぞみ」が大増発してからというもの存在感がとんと薄くなった「ひかり」、乗ったのはいつ以来だろう?

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↓参考・カッコしてあるのはこれまで行った所
 

145日目 鶴舞う後楽園と獅子舞う岡山城

2016-03-03 23:53:55 | 山陽
2016年1月1日(金)


↓中区役所から歩いて北区に入り、今回が2度目の特別名勝・後楽園へ。

後楽園はお殿様・池田綱政さんが命じて元禄13(1700)年に完成させた大名庭園で、ミシェランガイドで3つ星とランクされた日本三名園の一つ(残りは金沢市・兼六園、水戸市・偕楽園)。
当初はお城の後ろに造られたという意味で「後園」と呼ばれていたのですが、明治になって今の名称になったようです。
私は東国暮らしが長いせいか、後楽園と聞くと真っ先に東京の野球場を思い出すのですが、両者に関連性はないらしい。
さて、正月三が日は初春祭の真っ最中、特に元日はサービスよくフリーパス。
せっかくなので恩恵に預かりましょう。

入るや、何じゃ、この黒山の人だかりは!→
タダで入れるからこんなにも人が大勢寄ったんだ程度にしか考えてなかったところ、突然、ワーーーッと大歓声が上がる。

ナニ?と思ったら白い物体が空に飛び始める→
拍手も起こってるし。これが目当てだったんだな。

タンチョウなんですが、園内で飼っているらしく、元日に放鳥されるんだそう。
しかし舞っている姿をカメラで追いかけるって難しいですわ。
飛ぶ事約1分、来てすぐだったから超ラッキー! まだかまだかと待って待って待ちくたびれた人もきっといるんだろうし。

↓唯心山(ゆいしんざん)という高さ6mの築山から。


↓お休み処でちょいと一休みしてから岡山城へ。
 
慶長2(1597)年、豊臣秀吉の寵愛を一身に受けた宇喜多秀家が築いたお城。
昭和20(1945)年の空襲で天守閣は焼失したものの、昭和41年に再建される。

この日は「烏城(うじょう)初夢まつり」で、これまた天守閣へは入場無料。
烏城という愛称は、太陽光に照らされるとカラスの濡れ羽色に似ているからなんだと。

↓天守閣へ。
 
眺めはいいんだけど、中は広いとは言い難く、さすがに人も多かったので少々窮屈。

↓降りてきたらお正月らしく獅子舞が始まる。


↓宇喜多秀家とその奥さんに扮する「岡山城下町物語り役」のお二人。

宇喜多秀家はなかりの美男子であったらしく、奥さんは豪姫という前田利家・まつの四女。
岡山の素晴らしさを語って広めるのが任務。

内下馬橋の正面は岡山県立図書館→
この図書館については以前、テレビで紹介されていたのを見たのですが、一昨年まで10年連続来館者数日本一を誇る図書館。しかも個人貸出冊数、購入冊数でも4年連続日本一。
こんなに充実した図書館があると岡山市の人は嬉しいでしょうけど、本屋さんは商売大丈夫なのかね?

岡山県庁

旭川の可動堰のような橋を渡る→
左に見えるは東中島、右が西中島。
この双子のような二つの島には昔、遊廓があったという。

2つの中島に架かる京橋→
橋の上を走る路面電車はなかなか絵になる。

西中島の様子→
確かに遊廓ぽい雰囲気がしますです。

今でこそ市の繁華街は駅の方に移ってしまいましたが、昔は京橋付近が中心部。
立派な風格のあるお店があります→
本当かどうか知らないけど、日本三大饅頭を謳っている創業170年の備中銘菓・大手饅頭伊部屋。

これで岡山市を去りますが、西大寺町駅で岡山駅前行きの路面電車を待つもなかなかやって来ない!
乗る予定のJRの電車の発車時間がジワジワと迫っている。

イライラしていた駅前→

焦りながらも売店でどうにか大手まんぢゅうを見つけて、お土産として買って発車寸前の電車に飛び乗る。

酒饅頭ですな→
「三大」を名乗るだけあって確かに美味しかったですよ、さっぱりして。

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145日目 元旦の倉敷美観地区

2016-03-01 23:45:55 | 山陽
2016年1月1日(金)


以前行ったことのある北海道・月形町役場へ、ある書類の請求申請書を速達機能のあるレターパックで昨日発送したんですけど、タイミング悪く北海道は猛烈な吹雪。
追跡サービスを見ても受付の記録しか表示されていないので。今は郵便機能は難儀している状態なのかな? ひょっとして飛行機を北海道まで飛ばせないんですかね?
でも札幌ドームでオープン戦はあったみたいだけどさ。

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美観地区、クラシックな倉敷の観光の肝。
倉敷川を中心とした白壁・海鼠壁などが並ぶ商人の町で、昭和54(1979)年に伝統的建造物群保存地区に指定されました。
何だかんだ言ってもやっぱり落ち着く界隈だわい。しかもすいているし。

↓手前の建物は大正6(1917)年築の旧倉敷町役場、今は観光案内所の倉敷館。

中橋の向こう側の建物は倉敷考古館。土蔵作り米倉を改装したもの。

倉敷館正面右側にある昔のポスト→
箱の真ん中縦に薄い字で「書状集箱」とありますが、郵便制度が始まった頃のポストには「郵便箱」とも書かれていたそうです。
「郵便」という言葉に全く馴染みのない当時の人たちは、「便を垂れる」ための箱と勘違いして、ここに用を足した人がかなりいたようで・・・。しかしこんなに高くてどうやってやったんだろ?

中橋は渡らんとね→
遠くを見る。
んっ?何だか大勢でこっちに向かってきたよ?。イヤな予感

「△■★Σζ∽∇!」何言っているのか分からないけど、大声で話ししているのでどこからの人かは分かる。
そう、日本の観光という観光地を席巻している大陸から来た方たち。きっとこの橋は瞬く間に大群に呑み込まれてしまうだろう。

↓その人たちに取り囲まる前に、美観地区でも一番のお気に入りの本町通りへ。



こっちもかなりの人が歩いておりました。ただし、倭人だけ。ホッとするわ。
「倉敷川沿いより先に町となり箪笥屋、桶屋など職人達が軒を連ねる場所でした」とは倉敷観光WEBの解説。

倉敷市民の初詣は創祀1700年を超えるここで→
鶴形山という山に鎮座している阿智神社。昔は島だったという。

↓このウラ通りも好き。でも何故か人気が今一つ。



日当たりが悪いからかな?

しばらく時間がたったのであの方々はいなくなったかな?、と思って大原邸の方から戻ると、先程と比べてもさらにパワーアップした数がいる(ような気がする)。
それに、もはや日本語の会話は全く聞こえないですよ?、向こうの言葉しか聞こえん。
ここって日本だよな?なんて思うことしばしば。

大原美術館→
倉敷紡績の2代目・大原孫三郎氏が昭和5(1930)年に創立した日本初の私立西洋美術館。
ここも博物館実習で見学させられましたが、苦痛でしかなかった事だけは覚えております。

もういいでしょう。
美観地区にサヨナラする前に、もう一度中橋に。

「くらしき川舟流し」は運休のよう→
できるだけ川っペリに近づいて、せめて舟に乗った気分になったつもり。

↓駅方向に続く閑古鳥がうるさい正月休みのアーケード商店街を通りホテルに戻る。

チェックアウトを済ませて倉敷を去ります。

昔、チボリ公園があった駅北口→
ついぞ入ったことはなかったのですが、短期間であっさり閉園。
こんなにいい駅前の絶好の立地にあって潰れたとは、かなりつまらんテーマパークだったようです。

用意周到、岡山駅を経て→

西川原・就実駅へ→
正式には西川原駅らしいけど、駅建設費用全額を近くにある就実学園という学校法人が出したのもあって駅名票には「・就実」が付いたらしい。

〔45〕岡山県岡山市中区役所
区名に「中」とあるけど、市の中心部は北区。

↓近くのコンビニでは元日らしくお汁粉のサービスがありました。

「いかがですか?」と言われましたが、あいにく苦手でな。せっかくのご好意をすまんのお。
焼いたモチに醤油を付けて海苔を巻いてくれたらいくらでも戴くんだが。

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