ゆっくりのんびり市町村廻り

何年かかるか、もしかしたらできないかもしれないけど、日本の全市区町村の制覇を目指して頑張ってみる!

171日目 紀州への途中、一寸寄り道

2017-05-11 23:48:48 | 近畿(大阪・兵庫)
平成28(2016)年12月30日(金)


年末旅(実質)2日目。
↓宿泊したホテルは新大阪駅の近くでしたが、東淀川駅にも近かったので、どうせならとそこからスタート。

新大阪駅から僅か0.7km、大阪駅からたった2つ目の駅なのに、なにこのローカル駅?

元々は戦前の弾丸列車における「新大阪」になるはずの駅だったのに、戦後の新幹線の際には反故にされ、廃止は免れたものの、こんな小駅に甘んじてしまったのには悲哀を感じます。

この日の主菜は和歌山県なので、大阪駅から「紀州路快速」に乗ります。
↓が、日根野で各駅停車に乗り換えて8時半すぎに新家(しんげ)駅で下車。

一気に和歌山入りせず、まずはこの泉南市で前菜を味わいます。

↓ここでは近くの熊野街道を歩いて、和泉砂川駅で和歌山行きの電車に乗ろうと思います。

ところで、この看板にあるとおり、すぐ目と鼻の先に国の登録有形文化財「山田家住宅」という庄屋・豪農の旧家があったのですが、まだ完全に脳は起き切っていなかったせいか見忘れてしまう。何をやっていたんだか・・・。
尤も中には入れないけど。

ミートツョップ?→
このお肉屋さんは空手ツョップ(チョップ)で肉を切るんでしょうかね?(笑)

一岡神社に寄ってみます→
この境内には1350年前に建てられたとされる古代寺院・海会寺(かいえじ)跡があるという。

遠い古に堂々立派なお寺さんがあったことを想像してみる→

↓熊野街道は京都から熊野三山へ詣でる街道で、ここらは信達(しんだち)宿と呼ばれた宿場。

そんな雰囲気がまだ残っています。

街道の左手は高台となっていまして、何があるのだか気になり登ってみる。

すると・・・→
何と!、意表をついたかなりでっかい池。
かの僧侶・行基が開いたとされる灌漑用の海営宮(かいこ)池です。

池から町を見下ろす→
イヤでも目に入る赤い色の建築物はパチスロ屋らしい。いかにも関西っぽい奇抜さ。

信達宿本陣跡→

熊野街道を去って、海側へ向かいます。
(633)大阪府泉南市役所
海岸部は紡織工場が立ち並び地域経済を支えてきたものの、昭和40年代後半以降、紡績業は右肩下がりとなり、苦境に陥っていた泉南市に神風が吹く。
関西国際空港の開港
泉南市だけが関空をガメている訳でもないのですが、これを礎に都市基盤も整備されていくこととなる。
現在人口は6万3,000人ほど。

目つきの良くない泉南市のゆるキャラです→

最初、こちらが市役所かと思いました→
上にある展望台?のようなドームが何なのか非常に気になった市役所前の学校。

↓商店街を通って和泉砂川駅へ。
 

↓和歌山を出たら晴れてきたし、美しい海を眺めながら次の降りる駅は箕島(みのしま)。


のハズが、いつの間にか寝落ち
箕島駅を乗り過ごし、目が覚めたら湯浅駅でドアが閉まる寸前→
慌てて降りる。当然スケジュールも狂う。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

170日目 大坂の陣で散りし日本一の兵に思いを馳せながら(2)

2017-05-08 23:44:57 | 近畿(大阪・兵庫)
平成28(2016)年12月29日(木)


真田幸村めぐルート」の天王寺エリアへ突入します。

まずは、四天王寺にほど近い幸村最期の地・安居神社→

大坂夏の陣の際、幸村は徳川家康の首めがけて本陣に突撃したものの、無念なるかな叶わず。
疲労困憊で休んでいる?幸村さん像→
後ろの注連縄のある木の下で、西尾宗次という鉄砲組頭に討ち取られたという。
松は当時の木ではないらしいですが。

像は堺雅人のようにカッコいいとは言えず普通にオッサン。
尤も、幸村が九度山にて隠遁生活をしていた頃にしたためた義理の兄宛ての手紙には「(前略)ことのほか病者になり申し候、歯なども抜け申し候、ひげなども黒きはあまりこれなく候」とあり、自虐して書いたのか分からないけど、本当だとしたら見た目爺さんで相当草臥れた風貌だったのでしょう。
そのとおりに像を作ったら幸村の颯爽としたイメージが台無しになりますけどね。

↓安居神社の正面は、入口がコワい一心寺。
 
冬の陣の時に家康が本陣を敷いた所なのだという。

ここにも抜け穴と、三光神社といい手抜かりなしの幸村さん→

冬の陣では家康が、夏の陣では幸村が陣を敷いた茶臼山→
それだけ軍事的には重要な場所だったのでしょう。

登ります→
山頂には説明板があるのだけど、ここも実に読みにくい。何とかしてくれ。

余談ですが、全国的に茶臼山と呼ばれる山を見ますが、実は「ちゃうす」という言葉は古くは打つとか叩くとかの意味があって、それはつまり浸食地を示していて土砂流出がよくあるような危険な場所なのだという。
なるほど、ここの茶臼山も一たび大雨でも降れば地滑りが起きそうな感じがしないでもない。

これで幸村に思いを馳せる散歩はおしまい。
後は天王寺から阿倍野区を歩いてこの日は終わりにします。

山を下りると河底池(愛称ちゃぶいけ)→
延暦7(788)年に和気清麻呂が大和川の流れをこちらに変えるために、ここ上町台地を開削するもうまくいかず、この池はその失敗作品。
そして現代まで埋められることなく丁重に残され?晒されています。可哀そうな清麻呂さん、きっと天国で泣いているよ。
赤い橋も「和気橋」。
渡っていたらアベックが臆面もなく堂々と抱き合っていたので(幟に隠れている)、こちらが恥ずかしくなったわい。

和気清麻呂と言えば、僧侶・道鏡による皇位を乗っ取ろうとしたのを阻止し、後世、皇居前に銅像が建てられるほどの英雄。
さらには平安京遷都を進言するなど、カッコいいところを見せている一方で、道鏡事件の際「きたなまろ」と名を貶められ大隅国に流されたりと、かなり波乱万丈な人生を送った政治家。

昭和11(1936)年に完成した大阪市立美術館→

この動物園は日本で3番目に古い大正4(1915)年に開園→

遠目に見る天王寺駅周辺→
一つだけやたら目立つノッポなビルが妙にアンバランス。

「あべのハルカス」は300mあり、高さ日本一のビル→
く、首が痛くなるわい。

車ぎっしり天王寺駅前→
天王寺駅周辺は初めて眺めたのですが、大都会を想像していたもののここも思ったほどではなかったな・・・。

「あびこ筋」を進みます。
〔53〕大阪府大阪市阿倍野区役所

区役所の隣で思いがけず見つけたレトロな建物→
大阪市立工芸高等学校で、学校のHPによると、「大正12年(1923年)に創立された美術・デザイン・造形教育を行う学校です。(中略)本館はモダニズム様式の時計塔のあるレンガ造りで、ドイツのデザイン学校「バウハウス」の前身、ワイマール工芸学校を模したもので、(中略)平成20年には経済産業省近代化産業遺産に指定された貴重な校舎で学んでいます」なのだと。

↓周りはコンクリートのハコだらけの中にひっそりと佇む「寺西家阿倍野長屋」。

日本では唯一、国の登録有形文化財に指定されている長屋で昭和8(1933)年築。
ご飯やさんが多く入っており営業もしていましたが、年末なのにお客さんが来るんかいな?

JR阪和線・南田辺駅に続く商店街→
新大阪駅近くでこの日から連泊します。



参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

170日目 大坂の陣で散りし日本一の兵に思いを馳せながら(1)

2017-05-06 23:51:07 | 近畿(大阪・兵庫)
平成28(2016)年12月29日(木)


大阪環状線に乗って天王寺区の玉造駅へ。
ここで降りたのは、オマエさんに会いたかったからなのだよ!→
もっと言うならば、この年末の旅に大阪巡りを取り入れたのは、珍しく大河ドラマに熱を上げた「真田丸」の余韻に浸りたかったから。
夏にも長野県上田(初編2編)にも行ったのもあり、ミーハー感丸出し

路面にシールが貼られていますが、ここは「真田幸村めぐルート」といい、区のアピールのために天王寺区が設けた真田幸村(真田信繁)ゆかりの名所・旧跡11ヶ所を辿るお散歩コースで、真田山と天王寺の2カ所のエリアに分かれています。
区の設定通りのコースを忠実にとはいきませんが、なるたけ多く見て廻るつもり。

まずは「真田丸」があったとされている真田山エリアへ。
三光神社→
創建は5世紀初めとされていますが詳細不明。
大坂の陣後の寛文元(1661)年に別の地に移転し、宝永3(1706)年にこの地に戻ってきたという神社。
ここがどう幸村とかかわるかというと・・・。

威風堂々、勝ち鬨を上げる幸村さん→
像の左の六文銭の盾が並んでいる下、石塁のようなものは幸村が大阪城まで掘らせたとされる「真田の抜穴跡」。

鉄格子に鍵がかかっていて中に入れませんが、せめて覗いてみる→
古墳の石室のようで、別にどーって事なし。
「真田まつり」のある日だけ(毎年11月の第一日曜日)開けられるようです。

↓本殿
 
私の訪れた約2か月前の「真田まつり」にお目見えした「幸村ねぶた」が厳つい顔して睨みを利かせております。

ここって「ブラタモリ」で出てきた坂でしたよね?→

↓坂を上ると心眼寺があります。
 
三光神社もそうでしたが、ここも大河ドラマに触発された?ミーハー観光客で大賑わい。
このお寺さんは元和8(1622)年に白牟(はくむ)という和尚さんが幸村親子を弔うべく建立。

大坂冬の陣から400年の3年前に作られたお墓→
江戸時代は幕府直轄領だとして、作ることを許されなかったお墓。
400という切りのいい数字は分かるけど、明治になって以降作られなかったのは何故なんだろう?

お寺さん正面にある明星高校・中学校脇の「真田丸顕彰碑」→
真田丸やそこでの戦いなどについて解説が書かれているのですが、文字が小さくてとても読みにくいし。

真田山を去って大阪上本町駅前を通ります→
近鉄のターミナル駅で、ここに来るのは初めて。
来る前は渋谷や浅草などの関東大手私鉄のターミナル駅周辺のようなものを想像していたのですが、思ったよりも都会じゃなかったのには拍子抜け。

↓〔52〕大阪府大阪市天王寺区役所
 
かなりレトロな建物。

↓天王寺区の由来となった「四天王寺」にもちょっと顔を出してみます。

聖徳太子が物部守屋との戦いに前に四天王に祈り、その結果勝ちを収めたので推古天皇元(593)年に建立。
台風や空襲などでの大被害を受けるも、そのたびに復興され、現在ではほぼ元の通りに戻ったという。
「和宗総本山」を名乗っている四天王寺ですが、その意味するところはどの宗派の人でも参詣できるという事。

↓四天王寺の代名詞とも言える中心伽藍に入るとお金を取られるので、ここは眺めるだけ(左・金堂、右・五重塔)。
 

夏の陣ではこの石鳥居前で決戦が行われたという→

それよりも、幸村とはあまり関係のない、こちらさんを拝んだ方がいいな→
一見なんてことない中小っぽいこの会社は、社寺建築を主目的とする「金剛組」さん。
でも失礼ながら見かけとは裏腹に日本が誇る偉大な会社なのでありまして、何とビックリ仰天、敏達天皇7(578)年に創業された世界最古の超ウルトラスーパーご長寿企業なのであります。す、素晴らしすぎるではありませんか!
私も一介の商売人なので、長く続くようあやかるべく人目もはばからずお店の前で手を合わせる。
通りがかった人はこんな所で何をやっているのだと、さぞかし訝しがったと思うけどね。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

170日目 大阪駅の南側、中之島を歩く

2017-04-28 23:49:28 | 近畿(大阪・兵庫)
平成28(2016)年12月29日(木)


前々編の終わりの方で、千葉駅にも「祭」がやってきました云々と書きましたが、確かに「祭」っぽいお店があるのは間違いないのですが、一昨日よく見たら屋号は「踊」でした。お詫びして訂正します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

福島駅を出るやビックリする→
いきなり真ん前に線路があって轟音を立てて電車が駆け抜ける。
これは迫力ある!というか、威圧感ありすぎ。
それにしても西日本には、こんなのっぺらぼうな電車が多いのは気のせい?

福島駅近くで外せない名所?がこれ→
ビルを貫く道路。ここに突っ込んでいく感覚とはどんなものなのか、一度この道路を走ってみたいものです。

以上は福島区で、次に歩くのは北区。
ビルをまっすぐ南に歩くと川に出ます。
堂島川→
左が大阪駅側で、右は中学校地理教科書の「近畿地方編」にお決まりのように写真が載っていた中之島。

中之島は堂島川と土佐堀川に囲まれた中州で、北岸側のビジネス街と南岸側の金融街と一体をなす大阪の経済・文化の中心地。
また、周辺にはレトロな建物が多く残っているのも特徴。
という事で、この中之島をひたすら東に歩きつつ、建物などをいくつか取り上げていきます。

錦橋→
昭和6(1931)年に架けられる。「橋」と名付けられていますが、元は可動堰。

住友ビルディング→
北側半分は大正15(1926)年、南側は昭和5(1930)年に竣工。
堂々と佇み貫禄を感じる建物で、現在は三井住友銀行大阪本店。
東京に本店があるのだけど、ここも何故か本店。
この建物周辺には住友系のビルが立ち並んでいるので、通称「住友村」というようです。

明治36(1903)年築の日本銀行大阪支店旧館→
真ん中のドーム型屋根と三角屋根(ほぼ見えておりませぬが・・・)が特徴の、ベルギー国立銀行をモデルにしたネオ・ルネサンス形式と言われる建築様式。

日銀の反対側にあるものがコレ。

(632)大阪府大阪市役所
ご存知、大阪府や近畿のみならず、西日本の政治・経済・文化の中心都市で、日本で2番目に多い人口を抱えている市。
日本書紀には「烏瑳箇(おさか)」と表記され、和銅7(714)年の地名二文字化で「小坂」となり、室町時代の蓮如によって「大坂」とされ、明治期に現在の表し方になる。

いわゆる大化の改新後に長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)が置かれ、日本の首都だった事もありました。わずか9年でしたけど。
遺構は発見されていませんが、仁徳天皇の時代にも「難波高津宮」が置かれたらしいです。

市役所・日銀のあるこの御堂筋「淀屋橋北詰」交差点を南に見る→
はるか遠くズラリ赤信号はなかなか壮観。
昭和10年に完成の淀屋橋は、江戸時代の豪商・淀屋さんが架けたのに始まり、それが由来の橋。

大阪市中央公会堂(大正7年竣工)→
どこかで見たことのある建物だよな~と思ったけど、設計者を知って合点がいきました。
辰野金吾さん、そう、東京駅を設計したあのお方。因みに日本銀行大阪支店旧館もそうなんだとか。

一度これに乗って、川面から大阪を眺めてみたい→
西方向に進む水上バス・アクアライナーです。

難波橋→
古くは奈良時代に行基が架けたとされ、現在の本体は昭和50年に架け替えられたもの。
橋の両詰には狛獅子というか、狛ライオンがあるので「ライオン橋」と呼ばれているのですが、何をボーッとしていたのか、その肝心のライオンを撮り損ねてしまう。
というか橋詰さえ見た記憶が全くないので(勿論ライオンも)、その時に限って足以外の部分は完璧に幽体離脱して夢遊病者が如き状態になってしまっていたようです。
一応かすかに写ってはいますけどね・・・。

中之島の東側突先には噴水があります→
毎時00分と30分に水が噴き出すので、あと5分待ったらその時間だったのでしたが、じっとしていられない性格が災いして天神橋を渡って北の方へ歩いてしまいました。

天神橋筋商店街の南端部→
ここには蓋はありませんが、この先一直線のアーケードに覆われた商店街となり、その長さ2.6kmは日本一。
あれっ?、以前、高松のアーケードを紹介した時に、ここが日本一と書いたような気がしたな・・・。
ウソを書くのはイカンのでWikipediaを拝見すると、「分岐を含まない連続的に連なったアーケードでの日本一は大阪府大阪市の天神橋筋商店街」なんだとか。
もっとも「完全に連続したものとしては長崎県佐世保市の三ヶ町商店街~四ヶ町商店街の約1kmが最長」ともあったけど。

再び川沿いに戻ります。
旧淀川である大川右岸側の毛馬(けま)桜之宮公園→
左には「桜の通り抜け」で知られる造幣局。
この道も桜並木となっているので、ちょっと前はさぞ大賑わいだったことでしょう。
私が訪れたこの年末にはブルーシートに覆われたホームレスの家が軒を連ね、多くのホームレスで賑わっていましたけど。

桜宮(さくらのみや)橋と新桜宮橋→
この上を走るのは国道1号線。
手前の橋が桜宮橋(昭和5年完成)で、鋼板が銀色なので「銀橋」とも呼ばれているようです。
奥は平成18年に完成の新桜宮橋で、左の茶色い建物は階段塔。

川を渡ると都島区。
関東の人なら「としまく」と呼んでしまいそうですが、「みやこじまく」です。
〔51〕大阪府大阪市都島区役所

↓こんな時間ですらネオンでキラキラ怪しい建物が居並ぶ街を通り抜け、人でごった返す京橋駅へ。
 

とても楽しかった大阪レトロ建築物巡り。今度は本腰を入れて見て廻りたいものです。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

169・170日目 年末は関西へ、まずは大阪市巡り

2017-04-22 23:43:43 | 近畿(大阪・兵庫)
平成28(2016)年12月28日(水)・29日(木)


関東の桜はすっかり散ってしまい、ゴールデンウイークを目前にしてようやく年末年始旅に辿り着きました。
昨年4か月間ブログをサボったツケがあまりにデカすぎでしたな・・・。
今回は年末の3日間は関西、正月1日だけ東海の計4日間旅始末記です。

↓激烈なる争奪戦?を勝ち抜いてもぎ取った指定券を片手に「快速・ムーンライトながら」東京駅23時10分発で西へ。

使う切符はもちろん財布に優しい期間限定発売のアレです。
それを買ったのは平成26年の夏以来久し振り。

用意周到、新たなドラマ押しの浜松駅にて→
この時は開始前だったけど、今となってはもう既に3分の1を消化してしまったんだよな~。
正直、見たり見なかったり見なかったり見なかったりで、今現在どのような展開になっているのかすら分かっていない状況。

↓長い時間浜松で停車するので「ちょっとコンビニに買いたいものがありまして・・・」と言って外に出させてもらう。

本来、改札を出たら指定券は無効になるのですが、そこは駅員さん黙認のご慈悲。
3時だというのに驚きのタクシー待ちの長蛇の列。
仕事納めでついついという人達なのでしょう。

翌朝8時頃、大阪駅に到着→
これまで個人的には大阪市内は素通りばかりで、知られた名所の、そのほとんどへは行った事がありません。
加えて「ゆっくりのんびり旅」では、これまで5つの区はクリアしているものの、どこかテキトーな感じだったので、市内(一部ですけど)巡りにこの日1日を費やすつもりでおります。

↓荷物をロッカーに入れ、駅の立ち食いうどん屋で「鶏天うどん」をかき込んでからJR大阪環状線内回りに乗って西九条駅へ。

ここを起点にまずは此花(このはな)区を散策します。

駅から南300m程歩きますと、こんなハコが姿を現します→
ハコの向こうには安治川(あじがわ) が流れていて、行く手を阻んでおります。
ここはそれまでの「源兵衛渡船」という対岸への渡し船に代わって昭和19(1944)年に完成した、人と車が通れる全長81mの安治川隧道出入り口。

↓右側のエレベーターで下に降りれば(階段もあるので、それでも下へ降りられます)、隧道で対岸の港区へ行けます。

一日中通れる事ができ、向こう側には「源兵衛渡船」という交差点があります。
狭く薄暗いので、日が昇っている時間帯はともかく、夜になれば一気に危険なカオリがプンプンな隧道。

左側にも2つの扉っぽいのがありますが、ここが車の出入り口。
ただし、現在では閉鎖されております。

↓隧道から西へ向かいますと、大阪駅から僅か4km程の位置にして普通に郊外っぽい光景。

右の建物は、近年徐々に増えてきている中高一貫の公立校で、長ったらしく変わった感じの校名→
これに関しては後で触れる事にします。

六軒家川(ろっけんやがわ)を下流方向に見る→
走っている電車はJR桜島線(ゆめ咲線)。
ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)へ行く時に乗るあの路線。

上流方向を歩いて朝日橋の近くに来ると、こんな石碑がありました→
この碑については区のHPに詳細に載っているのでそちらをご覧戴くとして、ここでこれを取り上げたワケは、この碑文を書いた人について触れかったから。
マスコミによくお出ましの、大阪市長・大阪府知事を務めたあの超有名弁護士の書。
さすがに口はとっても達者。けれども、字はお世辞にもうまいとは言えないね。

阪神電鉄・千鳥橋駅近くのアーケード商店街→
いよいよ正月!という雰囲気は・・・全くないし。

〔50〕大阪府大阪市此花区役所
これも区のHPに書かれていますが、区名の由来として大正14(1925)年に新たな区が設置される際に、渡来人・王仁(わに)が詠んだとされる難波津の歌「難波津に咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」によると。
先の学校もここから引用したんですね。
臨海部に市内随一の重化学工業地域を形成して発展。

公園建設のため暗渠化工事中の正蓮寺川→

↓川の上はまだ橋っぽい姿を留めていますが、いずれ「ここ橋だったの?」なんて状態になるんだろうな。


淀川左岸側に、一見漁港らしき港を見つけました→
で、実際に漁港なのでありまして、「大阪市漁業協同組合」の建物も見えます。
何とビックリ、大阪市内に漁港があったりする
伝法(でんぽう)漁港というそうです。

↓桜島線・安治川口駅まで歩いて、そこからUSJへ行く人達でごった返して騒々しい電車に乗って終点の桜島駅へ。


↓対岸は、日本で2番目に低い山とされている築山の天保山や世界最大級のでっかさを誇る超ド級水族館・海遊館がある一帯。

無料の大阪市営渡し船があってそちらへ行けるのですが、それに乗るのは今度天保山に行く時までの楽しみに取っておきます。

ほんのちょびっとUSJ→
以前、同級生が経営する会社の社員旅行に拉致された付き合った事をこのブログで書いたことがある(最初2回目)のですが、その同級生はGW明けて早いうちに社員旅行としてUSJ遠征を企んでおりまして、私も当然?誘われました。
なのですが、そこには1度も入ったことはないけど、そもそも興味がこれっぽっちもなく目下断固拒否しているところ。果たしてどうなることやら?

大阪駅方面に戻って、その一つ手前の福島駅で降ります→
何を獲物としているのかは知りませんが、ホームの端っこに群がる鉄の塊には笑えてしまいました。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

153・154日目 大阪の山を下りたらそこは旅の終着地

2016-07-07 23:53:03 | 近畿(大阪・兵庫)
2016年5月6日(金)・7日(土)


能勢町と大して変わり映えのない感じの豊能町(とよのちょう)が次の目的地。
(595)大阪府豊能郡豊能町役場
ここ10年で5,000人位減ったとはいえ、それでも約2万人を抱える町。役場周辺を見る限りそう見えないけどね。
キャッチフレーズは「人とみどりが輝くまち とよの」で、「住みたいまちナンバーワン」を目指している志の高い町であるのだけど・・・。

地図をよ~く見ると、役場東側の山奥に何故かポツンと巨大な住宅街があったりする。
違和感を覚えるこの団地は、「希望ヶ丘」という地区の「北大阪ネオポリス」。
もちろん鉄道など来てはおりませんので、唯一の公共交通機関であろうバスを使っても一番近い駅まで余裕で1時間はかかるんじゃないか?そのくらい利便性がハンパなく悪い場所(に思える)、これこそまさに「陸の孤島」。
故に、笑っちゃいけないのだけど、「望ヶ丘」と揶揄されているらしい。

ま、案外あちこちでこんな住宅街を目にするので、ここだけが犠牲者というワケでもないんだろうけど・・・。

鉄道の駅は町内にあるのだけど、役場周辺から相当遠い町の西の端っこで、そこへ行くのにまともな道路一本すらなく、よその市町を廻らないと辿り着けない有り様。
能勢電鉄の駅から役場を結ぶ快適道路を作らないと町が荒む一方なんじゃないかと。

どこか見所がないかと目を皿にする→

↓でも「これは!」と思う所もなく、雨風強い中、役場のある余野地区をブラブラしてみます。


役場前の道路(国道423号線)→

↓のどかな町です。




↓思いがけず出会ったこの看板にビックリする。

「関西人は納豆が嫌い」というのは、実は都市伝説なのでしょうか?

高山地区→
江戸時代の禁教令によってマニラに追放され、そこで病死したキリシタン大名・高山右近の出生地。
役場に飾られている垂れ幕にもあるとおり、右近の没後400年にあたる昨年、日本のカトリック教会が彼を殉教者として「福者」に認定するようバチカンに働き掛け、今年になって晴れて認定。
因みに「福者」とは、最高の崇敬対象となる「聖人」に次ぐものらしい。

↓細い山の中の道路を走って箕面(みのお)市に入り、日本の滝百選の一つ・箕面大滝の駐車場に到着。

ゴールデンウイーク期間中は17時まで有料のところ、それを過ぎた時間にやってきたのでロハ、ラッキー。
秋になると辺り一帯は紅葉が素晴らしいようです。

「出くわさザル」が一番いいのだけど→
箕面と言えばサル。
研究と観光を目的に昭和29(1954)年にニホンザルの餌付けを始め、昭和31年には天然記念物に指定を受ける(餌付けした動物を天然記念物とは変な気がする)。
ところが、察しは付くと思いますけど、餌付けに慣れたサルは次第にエスカレートして、(人間にとって)いろいろな迷惑行為をしでかすようになったので、平成22年に「箕面市サル餌やり禁止条例」が施行される。

↓もう一つ、箕面と言えば(知らなかったけど)「もみじの天ぷら」。

それを買いたいと思っていたのですが、お店やってないし・・・。
片方の看板の「モンちゃんせんべい」とは、サルの焼き印が入った瓦せんべいなんだそう。

ここを下りて行きます→

マイナスイオンたっぷり浴び・・・→
た気がしません。曇天なので。人もポツリポツリで寂しいし。

「宝くじ発祥」の瀧安寺(りゅうあんじ)も行くつもりだったのですが、ついつい忘れてうっかり山から市街地に下りてきてしまう。

阪急電鉄・箕面駅前→

↓面白い形の駅前だなと思ったら、これ見て納得。

昔は線路が音符みたいな形をしていて、降車と乗車場所が別々だったという。

滝の道商店街→
ここの「もみじの天ぷら」屋さんもお休みかよ・・・。
その名のとおり、ここから歩いて滝に行かれます。その途中に箕面とどういう関係があるのか知らないけど、あの野口英世博士の像があったりするらしい。
約3kmの緩やかな坂道みたいなので、ハイキングがてら自然を楽しみながら登っていくのもまたよし。

ところが、コンビニであっさり「もみじの天ぷら」を発見!→
モノホンのもみじの葉っぱを揚げた、かりんとうのような感じの甘いお菓子。
お土産に買って帰ったのですが、家の人にはかなり受けのいいお菓子でありました。

みのお本通り商店街→

↓有名ドーナツ屋さんの、栄光の「1号店」。

私はこのお店に滅多に入らないのですが、敬意を表して珍しく購入する。

箕面公園通り→

街中をウロついているうちにあたり真っ暗になってもうた市役所。
(596)大阪府箕面市役所
人口は約13万3千人ですが、何といっても「大阪の高級住宅街」として名高く、著名人も多数お住まいのようです。そのせいか財政力指数は大阪府でも上位。
ところが、今月1日配信のyahooニュースでは、「落ちぶれる大阪の高級住宅街」として箕面市が紹介されておりましたけどね・・・。

これで、後は千葉に帰るだけです。
20時10分に茨木ICから高速道路に入り、途中の土山SA(滋賀県甲賀市)、浜松SA、海老名SAでの休みを挟んで、ヘロヘロのフラフラになって帰宅したのは、街がボチボチ活動を開始し始めた7時12分。
♪つらし、ねむたし 朝帰り たまにはこんなムチャクチャいいワ(?)

前日からの走行距離675km、都合1,661kmの旅でございました。

にほんブログ村 旅行ブログ 国内一人旅へ 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

153日目 兵庫県ばかりじゃ芸がないので・・・ 

2016-07-02 23:54:11 | 近畿(大阪・兵庫)
2016年5月6日(金)


県道68号線の山ん中を突き進み、宝塚市を経由して猪名川町(いながわちょう)へ。

道の駅いながわ→
旨い蕎麦が食べられるというので立ち寄ってみたワケなんですが・・・。

見事な肩透かしじゃ→
連休の谷間だし、サービスを提供する側も休んでおかないと過労死まっしぐらだから仕方ない・・・。

石像となっている「いなぼう」とは、この町のマスコットキャラクター。
猪の子どもの「うりぼう」をモデルとして、猪名川の「いな」と、うりぼうの「ぼう」で「いなぼう」。

斜め向かいにあるコンビニで一服し、再び街中に向かって走らせます。

高さ30mの岩壁「屏風岩」→

(593)兵庫県川辺郡猪名川町役場
川辺郡に属するたった一人ぼっちの自治体。昔は宝塚だとか尼崎だとかの方まで広がっていたのに・・・。

↓見てのとおり、猪の一頭や二頭が出てきてもちっともおかしくない田舎。

ですが、役場から東北方向約2.5kmの川西市との境に駅があり、そこへは行かなかったのですが、もしかしたら駅周辺は普通に街っぽいのかもしれません。
なので人口も31,000余人と、なかなか多いです。

町の歴史は古く、役場HPによると「その昔、東大寺大仏鋳造の際に、銅を献じたと伝えられている多田銀銅山を中心にひらけ、その名が示すように多田源氏ゆかりの地として武家文化の栄えた所」とあります。

↓役場の横に古い立派な茅葺きの豪邸が佇んでいたので潜入を試みます。


↓静思館(せいしかん)



冨田熊作さんという町の大富豪が総工費約10万円(当時は中谷村といったらしいですが、村の予算の倍以上!)を費やして、昭和7(1932)年から3年をかけて建てられ、昭和59年に町が譲り受ける。
入館無料。その名のとおり、心静かにしばし思いを巡らすには持って来いの場所で、この日のような雨の日は特にいいかも知れない。

猪名川町の名所といったら、何といっても町のHPでも触れた鉱山の、その跡地。
今年3月10日に国史跡に指定されたばかりのほやほやで、もちろん無視する訳ありません。

↓猪名川町銀山という地名の場所にある「悠久の館」。

ここは資料館にもなっていて、鉱山についての様々な展示物を見ることができます。

多田銀銅山とは、今の兵庫県・大阪府に跨る東西20km、南北25kmのムチャクチャ広い鉱山で、10世紀の終わり頃から本格的に採掘され、それは昭和48(1973)年まで続く。
そして特に品質のいい銀が取れたのが、ここ猪名川町銀山地区。
豊臣秀吉は直轄鉱山としたので、今でも秀吉ゆかりの間歩(まぶ・坑道のこと)が残っています。
そして何といっても、日本最大の埋蔵金伝説の地
秀頼の将来を案じて秀吉が4億5千万両を分散埋蔵したとされてる、夢のまた夢の地でもあります。

その裏手にある「代官所跡」→

↓悠久広場にある、明治時代に操業された「堀家精錬所」跡地。


アテなく埋蔵金を探しに、さらに山奥へと続く道を行きます。

銀山の最盛期には「銀山数三千軒」と言われるほどの賑わいを見せていたようですが、でも今では見る影もない、空き家ばかりの落ちぶれた集落。

金山彦神社は鉱山の神様→

さらにここから先にも史跡はあるようだけど、車一台通るのがやっとの細道。
この先、車を反転させられるスペースがあるかどうか怪しいのでここで引き返します。
雨さえ降っていなければ、ハイキングがてら埋蔵金探しに行ったのだが。
いつか本格的に探しに来てやる。待ってろよ、埋蔵金!
ただ、クマが怖いけど(いるかどうか知らない)。

長~いお付き合いだった兵庫県はこれにて(ずっと兵庫も飽きた)。じゃあね。
というワケで大阪府に乗り込みます。

↓軽くうどんか何かを食べようと思って来てみた「道の駅能勢(のせ)」。



能勢、お前もか! ここも絶賛閉店中・・・。

↓(594)大阪府豊能(とよの)郡能勢町(ちょう)町役場

地図をご覧になると分かるのですが、大阪府の北部には兵庫県と京都府の間をムリクリ割り込んだいったような場所があります。そこにあるのがここ能勢町。

↓とても大阪府とは思えない田舎町。



東京で言えば奥多摩のような所か?
町のHP内では、「町全体が田園と自然のギャラリーのようなものです」と言い切っているのだから、掛け値なしの田舎です。でも人口は1万人もいたりする。

長時間滞在は無用なので、さっさとお隣の町へ向かいます。

能勢町・猪の子峠手前の府道4号線→
実はこの道路、4年前に走った事があって、再びこうしてまた通るとはその時には正直思いもしませんでした。
その時に一部未舗装部分があってビックリしたのですが、あれからちっとも整備が進んでいません。

横は崖だったりする→
でもそんなに怖くありません。それよりも・・・。
対向車来るなよ!

にほんブログ村 旅行ブログ 国内一人旅へ 

↓参考・カッコしてあるのはこれまで行った所
 

153日目 ネット配信記事に釣られて訪れた町

2016-06-26 14:32:41 | 近畿(大阪・兵庫)
2016年5月6日(金)


今月11日に毎年恒例の金運神社に行ってまいりました(後日アップします)。

このところ我が国の経済状態はあまりよろしい感じはなく、その煽りを食って(?)今年に入ってからは私の金運もサッパリなので上昇祈願に行ったワケですよ。
しっかりお参りしたし、これでよろしき便りをひたすら待つだけと考えていた最中の先日、以前から非常に気になっていたイギリス住民投票がついに行われ、

EU離脱決定!!

のよもやの衝撃的結果に。

EU残留→米利上げ→日本金融緩和→景気が上向く→私の懐が暖まる、きっとそうなる筈だと思い描いていた青写真は一気に遠のくどころかかなり怪しい状況に。
行った当初はそれなりの恩恵をもたらしてくれた神パワーはもう効かないのか?

何だか旅に出たい気が急激に萎えつつあります(とりあえずは7月の3連休は出かけますが、後は知らん)。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

↓一晩過ごした丹波市の「道の駅丹波おばあちゃんの里」
 
舞鶴若狭自動車道・春日IC近くにある道の駅ですが、ムダに余裕たっぷりの広い駐車場。遺跡もあったりします。
以前は春日町と呼ばれたこの地域は、あの春日局の出生地でもあります。

国道176号線を南下し三田市へ。
(592)兵庫県三田市役所
首都圏の人なら東京都心を走る地下鉄・三田(みた)線に馴染みあるので、ここを「みた」と呼んでしまうであろうけど、「さんだ」です(かく言う私もうっかり「みた」と言いそうになる)。

20年くらい前までは人口増加率上位の常連だったこの都市も、最近は頭打ちどころか微減気味の約11万3千人位。
さすがに都心回帰傾向・人口減少社会には抗えないようです。

ところで市役所前の道路は車の交通量がとても多く、役所の駐車場料金が他の市中のそれよりいくらか安いせいかそこへ出入りする車も結構ある上、人は横断歩道を悠然と渡るので、朝のラッシュ時も重なって大混乱する事しばしば。
信号を設置すればいいのだろうけど、すぐ近くに交差点と踏切があるのでそうもいかないのかも知れない。

↓市役所東側に位置するJRと神戸電鉄が乗り入れている三田駅。


神戸電鉄のホーム→

JR改札口→ 
左のちっちゃなセブンイレブンは、前々日6時40分にオープンしたばかりの新参者。

↓駅前商店街は狭い上に、駐車車両があると他の車は大迷惑。


この通りをまっすぐ進むと武庫川にで出ます。
相生橋より駅方向→

同橋より市役所方向→

神戸電鉄・三田本町駅近く→
昔ながらの落ち着いた雰囲気が感じられる街並み。

↓「ファミコンショップ」と看板を掲げてはいるけど・・・。

さすがにかつてのファミコンソフトはどうなんでしょ?

さて今年の3月6日に、「あの道 この坂 昔の地名を訪ねます」というNPO法人・歴史文化財ネットワークさんだが企画したイベントがyahooニュースに紹介されていたのをご存知でしょうか?
その記事はもう削除されているみたいですが、配信源となったらしき神戸新聞社の記事はまだ見られます。

そんなワケで、それらを実際にこの目で見てみようという次第。

大蔵坂、またの名を歌仙坂→
「江戸時代、この坂に面して三田藩の蔵があった。また、かつては緩やかな階段が三十六段あったので三十六歌仙にちなんで歌仙坂ともいう」とは写真右下にある案内板。

ころび坂→
「急坂なので冬の凍てつく頃はもちろん、普段でも人がよく転ぶのでこの名が付いた」くらい、確かに角度はきついです。

極めつけは「牛くそ坂」→
年貢米を蔵へ収める時、坂の途中で牛をつないでいたという。
寅さんじゃないけど、当時は「坂の周りはクソだらけ」だったんだろうね。

ま、地名の由来なんて案外単純なもんだと思いますよ。

違和感ある教会の門→
西洋宗教のものにしては珍しく和風建物かいなと錯覚を起こしそうですが、隣に立派な普通にイメージされる教会建物があります。

妙三寺→
詩人・三好達治氏が幼少期に過ごしたというお寺さん。

↓日本初の民間の博物館は三田だったんですねえ。


旧九鬼家住宅資料館→
旧三田藩家老が明治初期に建てた、全国でも珍しい和風・洋風が混在した建物。
あいにくこの日は休館でしたが・・・。

三田市散策を終え、降り出した雨の中、国道176号線をさらに南下し神戸市北区へ。
でも途中で通行止めの箇所があって通せんぼとなっております。
理由はコレ→
記憶に新しい4月22日発生した建設中の新名神高速道路橋桁落下事故現場です。
あれから2ヶ月、今はどうなっているのだろう?

にほんブログ村 旅行ブログ 国内一人旅へ 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

152日目 丹波の小京都・篠山を歩いてみた

2016-06-21 23:52:01 | 近畿(大阪・兵庫)
2016年5月5日(木)


今だにうっかり「しのやま」と読んでしまうことも多い「ささやま」が今回のお話し。

前々編(竹田城編)で「連休にどこへ行った?」の話しをしました。
当然、篠山も言いました。が、皆「?」という表情を浮かべるので、「丹波篠山ね」と言い直すと「あ~!」とのリアクション。
「丹波」が入る入らないは天と地の差のようで・・・。恐るべし「丹波ブランド」。

ただ、どこにあるのか知らない人がほとんどだろうけど。
何県にあるすら知らないんじゃないかな。

↓まず真っ先に向かったのは桐ヶ城と呼ばれる篠山城跡。



慶長14(1609)年、徳川家康の命を受けた築城名人と名高き藤堂高虎や池田輝政が、1年余の突貫工事で築いた「笹山」という小山を利用した平山城。
だから「ささやま」なんだろうけど、それがどういう訳だか「篠山」に変わってしまう。
でも、いくらなんでも「篠」を「ささ」と呼ぶのは無理があるよなあ。

↓平成12年に復元された大書院内の一番の格式高い部屋。

大書院は篠山城築城とほぼ同時期に建てられ、以来藩の行事に使われ、明治維新後は公会堂などとして使われるも、昭和19(1944)年に焼けてしまう。

大書院の南側→

そして南堀の方→
丹波だな~って感じの風景に癒される。

(591)兵庫県篠山市役所
何てたっていわゆる「平成の大合併」によって誕生した自治体栄えある第1号
しかもそれは平成11年で、唯一の1000年代というオマケ付き。
恥ずかしながら私が篠山という地名を知ったのもこの時でございます・・・(当時、今ほどは旅熱に浮かされていなかったので、知らん地名も多かった)。

篠山だけに(?)「さっさと」合併に持っていったので、「篠山詣で」という言葉が生まれるほど全国からの視察が絶えず、平成の大合併のモデルケースともてはやされる。
ですが、良かったのはここまで。
ありがちな話ですが、行政お手の物のハコもの作りに精を出しすぎたため今は借金で大変なのだという。
いつだったか見ていたのですが、NHKのある番組で失敗のモデルケース(?)として題材に取り上げられてしまう。

でもそんな事は市民以外は眼中になく、この日も観光客で大賑わい。
ただ、電車で来るには篠山口という駅からかなり離れていて不便極まりない。
昔は市街地近くまで国鉄が走っていたようですが。

↓お城の東側にある「河原町妻入商家群」へ。







旧街道に面した昔の名残を残す街並みで、篠山の商業の中心地として栄える。

南堀沿いを通って、御徒士町(おかちまち)という武家屋敷が並ぶ通りへ。


武家屋敷安間家史料館→

これら篠山城・河原町妻入商家群・武家屋敷一帯は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、篠山観光のハイライトといってもいい部分。

↓入る事能わざりし、お城の北側にある「青山歴史館」。

旧藩主の別邸で、江戸時代の歴史文化を学べる品々を多数展示しているとの事。

↓来た時には車の運転にはジャマなくらい多くの人がゾロゾロと歩いていましたが、18時のまだ明るい時間にもかかわらずウソのように人が引けてしまった商店街。



郷土料理・ぼたん鍋の看板・幟が目立ちます。そろそろハラの減る時間だし、みんなお店へと消えて行ったんかな?

このお店は異彩を放っておりました→

再び丹波市へ戻ります。
↓本格薬草風呂が売りの「丹波の湯」でさっぱり。


↓「道の駅丹波おばあちゃんの里」でしばしの休息。


この日の走行距離142km、千葉を出てから986km。

にほんブログ村 旅行ブログ 国内一人旅へ 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

152日目 本州一低い太平洋と日本海の境

2016-06-17 23:27:13 | 近畿(大阪・兵庫)
2016年5月5日(木)


但馬地域とはお別れして、和田山ICから北近畿豊岡自動車道で一気に兵庫の丹波地域に乗り込みます。
丹波とは兵庫県中東部と京都府中部が範囲の旧国名で、黒豆とか栗なんかが有名な所。

(590)兵庫県丹波市役所
平成16年に氷上(ひかみ)郡の6つの町が合併して誕生した市で、市役所は旧氷上町にあります。
旧国名を拝借している自治体は全国あちこちにあるので、それ自体決して珍しい事でもないのだけど、とりわけここ丹波の場合は他の旧丹波国内の多くの自治体から「待った」がかかったみたいです。
要は「丹波」というブランドを安易に使ってくれるな、と顰蹙を買ってしまったらしい。
でも外野の声にブレることなくまんまと「丹波」を名乗るあたり、なかなか神経が図太い。

遥々やって来た氷上の街ですが、特に見たい所はないのだけど、せっかくなのでサラッと軽く見て歩いてみます。

↓街中にあったバスケのゴール付き観光案内図(観光案内図付きバスケのゴール?)に従ってご案内しましょう。

街中にデンと構える甲賀山(こかやま)を中心に時計回りに歩きます。

↓「氷上町役場」とある箇所が今の市役所で、その横に流れる川の橋南側。


↓加古川に沿って南へ歩くと、なかなかオサレな建物があります。

丹波市立植野記念美術館。
私は美術には全く造詣のカケラも持ち合わせていないのですが、結構出入りする人が多かったので、もうすぐお辞めになる某知事さんが見ればきっと気に入ってくれる美術館のハズ?

氷上のシンボル・甲賀山の南側より→

↓どういうワケだか、立派でデッカイお屋敷がとっても多い。


ひっそりした山の西側の商店街→

↓古い建物もかなり目につく商店街でもあります。

右のいかにも豪商っぽい建物は、あまり似つかわしくないけど、お医者さんのようで。
因みに右下にチラリと写っているナメクジっぽいものは「丹波竜のちーたん」といい、市内で発見された中生代白亜紀前期(1億1千万年前)の恐竜化石に「丹波竜」というニックネームが付けられたのですが、これはそれのマスコットキャラクター。

そんなワケで市役所周辺はこれで終わりにして、次に丹波市が一番誇れる名所かも知れない場所へ。

いかにものんびりした雰囲気の山里→
この変哲もない道路。でもこれがある意味、日本のてっぺんとも言える所。
? 何のこっちゃ??でしょうが、種明かしは道路を山の方へ向かって歩くとあります。

神社入口に来ます→

↓上の写真のチラリと見える赤い橋から歩いてきた方向を見る。


橋の背中にはコレ→
ここはというと、左が瀬戸内海(太平洋)、右が日本海へ流れる川の分かれ目。

日本列島に降った雨水は太平洋と日本海のどちらかに分かれますが、その境界線を「中央分水界」といい、まさに日本列島の背骨とも言える線ですが、本州においては端っこを除いてはここら辺がその一番低い所(標高約100m)。
ですので、太平洋側と日本海側を行き来する場合、大抵の場合は高い山がその行く手を阻むのですが、ここを通っていくのが本州では一番ラクなコース。
因みに日本で一番低いのは北海道・新千歳空港近辺のよう。

それにしても日本海側への川は分かれるや否や早速暗渠になってしまっていて、水の分かれ目という雰囲気があまりないのは甚だ残念。

ここ「水分れ公園」は憩いの場所→

↓これは柏原(かいばら)地区にある、ケヤキの根が太く成長して川を跨いでいることに因んで名付けられた「木の根橋」。

どんなものかちょっと興味があったので寄ってみただけです。
合併前は柏原町と呼ばれたこの地区は元城下町で、国の史跡・柏原藩陣屋跡があったりなど、散策にはなかなか良さげな感じ。

↓次に向かったのは、丹波と言えばここ!といってもいいくらいの有名地。



続きは次回。

にほんブログ村 旅行ブログ 国内一人旅へ 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

152日目 日本のマチュピチュから見る壮大な眺め

2016-06-10 22:38:16 | 近畿(大阪・兵庫)
2016年5月5日(木)


前日から楽しんできた朝来(あさご)市ですが、いよいよ大トリを務めるのは朝来の、というより最早日本の山城のシンボルと言ってもいいかも知れない天空の城・竹田城。

特に説明不要ですね、これ(竹田城公式HPより)→

と思いきや、この連休にどこへ行ったかのかよく聞かれたので、「アレとかアソコとか竹田城とか云々」と答えると、ナント半分くらいの人は「竹田城?(どこ?それ、という意味)」という反応でした。
残念ながら旅行や歴史・城好きなどという人以外には、まだまだ全国区には達していないようでございます・・・。

それでも有名観光地には違いありません。
↓城址に登る気マンマンだったので、車を止めようと街中をウロついたのですが駐車場はどこもいっぱい。


仕方ないので、城址西側の山へ向かいます。
↓途中で潜った播但道のアーチ橋「虎臥大橋」が美しい。


↓「山城の郷」に車を停めます(周辺図も竹田城公式HPより)。




 

↓城址の途中までバスやタクシーで運んでくれはしますが、私は健康的に(?)自力でいわゆる西登山道(2.1km)から城攻めをします。

ところが、この日は気温25℃くらいだったと思うけどムチャクチャ暑いの何の。
おまけに日焼け止めを塗っていなかったので、登って下りて来たら露出部分はいい焼き色に変化してしまってるし・・・。

それよりも・・・。
イヌを普通に散歩するが如く連れていた人がとても多く、とりわけ小型犬にとってはアスファルトの照り返しはさぞ強烈だったろう、熱中症になりはしないかとハラハラする。抱えて歩くとか、どうにかならんものかと。

↓「山城の郷」からせっせと歩くこと20数分、料金所に(入場料は¥500)。

案内板には所要時間は徒歩で約40分とあったけど・・・そんなにかかる?

↓やっとこさ城址へ。



「虎臥城」という別名を持つこのお城は、1400年代中頃に但馬守護・山名宗全によって築かれ、標高353.7mに天守台があって、規模は南北400m、東西100mに及ぶ。

天守台→
ここは今年の3月から入れるようになったと、ガイドさんは言っていたような気が。

↓登ってきた甲斐があった、心からそう思えるよき景色でございます。




下の竹田駅周辺の街並みも趣きがあるので、ちょいとばかり散策します。
その前に腹ごしらえ→
虎臥屋さんの「ぼっかけ丼(¥850)」。
但馬牛のスジとコンニャクを甘辛く煮込んだもの(すじこん)をご飯の上に乗せたものですが、とりたてて感動はなし。
私の行きつけのラーメン屋に置いてあるすじこんの方がよっぽど旨い。

竹田駅→

駅近くの街並み→

旧木村酒造場EN
明治期築の建物をリニューアルし、ホテル・レストランなどが入った複合商業施設として平成25年にオープン、竹田城を深く知ることのできる情報館もあります。

↓古い建物・土塀のわりに違和感を覚えた暖簾「HOTEL」。


にほんブログ村 旅行ブログ 国内一人旅へ 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

152日目 八鹿と和田山の街を朝ぶら

2016-06-08 23:39:23 | 近畿(大阪・兵庫)
2016年5月5日(木)


ぐっすりと寝ていた1時20分頃、いきなり下からドーンと突き上げるような縦揺れらしきを感じ、以来しばらく心臓がバクバクしていたからか全く寝付けなくなり、悶々とした一晩を過ごす。
その時はてっきり地震かと思ってましたが、後日地震情報を見たらそんな記録は一切なかったので、もしかしたらトラックの揺れなのか、或いは夢で見ていたものを実際に起きたものと勘違いしたんだろうか?

↓そんなこんなで、寝不足のまま迎えてしまった養父(やぶ)市の「道の駅但馬楽市(たじまらくざ)」の朝でございます。


(588)兵庫県養父市役所
平成16年に八鹿(ようか)町、養父町、大屋町、関宮町が合併してできた、現在25,000人程が暮らす市。
役所は旧八鹿町にあります。ですので、街散策は八鹿地区のみにします。

上写真の真ん中の小佐川(おさがわ)は、新町橋下で右からの八木川と合流してます。
新町橋から見るとこんな感じ→

市役所庁舎敷地内にて→
ついこの間終わってしまったイベントを今更紹介してもしょうがないんだけどね・・・。
それと前日さんざん巡っていた「鉱石の道」についても、養父市部分のメイン・明延(あけのべ)鉱山は初めから行く予定はなく、重ね重ね申し訳ない、養父市。

↓八木川の左岸側の商店街。




↓昔ながらの卯建のある建物が見られます。


至る所で見られたツバメの子育て→
引きもなくエサを運んでくる姿を見ていると、自分の持て余す暇時間をあげたくなる。

左岸側へ→
お祭りはまさにこの日。甘茶の接待付きの花祭りなんだそう。

↓どこにいても妙に目立っていた八鹿病院。

養父にある病院だけあって、ヤブ医者ばかりか?(笑)
というのは冗談だけども、でも冗談ではなく「ヤブ医者」の語源が養父が由来だったという。
養父市HP内のそれについてのページには、元々は「藪医者の語源は、養父の名医 」とあり、今とは真逆な意味だったのだという(そもそも「ヤブ医者」の語源については諸説あるようですが)。
そして町おこしの一環として、僻地で頑張っている若手医師にスポットを当てて顕彰する「やぶ医者大賞」が開催されたりしてます。
因みに養父という地名の由来は、古くは居住者がおらず、草木が叢生していてまさに藪だったからなんだとか。これにはワロタ。

八木川が合流する円山川沿いにある道の駅→
腹具合がおかしくなったので立ち寄っただけ。

(589)兵庫県朝来(あさご)市役所
平成17年に和田山町・生野町・山東町・朝来町が合併してできた市で、人口は31,000余り。
訪れた時は新庁舎の工事中でしたが、7月1日にはめでたく開庁するらしいです。
小さくて見づらいのですが「住みたい田舎ベストランキング全国第1位」の横断幕が掲げられています。
このランキングは、宝島社「田舎暮らしの本2月号」に掲載されたもの。

↓町興しには「大河ドラマ」と並んで、これが一番手っ取り早い方法なんだろうね。

因みに前回の朝ドラは題名が縁という事で、朝来市が放送局の許可を得て「勝手に応援」していたんだとか。
だからこの願いを叶えてくれるかもよ・・・。

↓鉄ファンには知名度高い、朝来市の代表駅・和田山駅へ。

山陰本線と播但線が乗り入れる要衝駅。

↓明治45(1912)年に建築された見た目ボロボロの駅名物の車庫。


↓駅前と駅東側に伸びる商店街。




↓駅の北側を流れる円山川の東河橋(とがはし)より。

こんな風景を見ていると、確かに「住みたくなったしまう田舎」に感じてしまう。でも私には「ずっと」住むのは無理かな・・・。
「お豆さん」で有名な会社の工場がデンと構えていて、「丹波黒豆」の看板も見えるので、朝来は丹波だと一瞬錯覚してしまいそうですが但馬にあります。

街をフラフラして市役所に戻る→
これから熊本に向かうんですかね?

にほんブログ村 旅行ブログ 国内一人旅へ 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→


151日目 朝来の「鉱石の道」(2)

2016-06-05 23:50:05 | 近畿(大阪・兵庫)
2016年5月4日(水)


続いて神子畑(みこばた)鉱山の方へ車を走らせます。
↓神子畑鋳鉄橋(ちゅうてっきょう)



明治18(1885)年の架けられた現存する日本最古の全鋳鉄橋で、国の重要文化財。
神子畑鉱山からの鉱石運搬のために建設された神子畑-生野間16.2km、幅員3.6kmの馬車道(鉱山道路)が神子畑川を横切るための橋。

次に、程近い神子畑選鉱場跡へ。
↓因みにこの周辺の地図(「鉱石の道」のサイトより)。


↓約6km離れた明延(あけのべ)鉱山(養父市)から運ばれてきた鉱石を亜鉛や銅、スズに選鉱した場所。
 


もう日が暮れるようかという時間だからか、場の雰囲気は虚無感・廃墟感たっぷりで、時計の針が止まったかのような空間。

今では見てのとおり、22段あるという建物基礎部分とインクライン(ケーブルカー)の廃線、シックナーなどが残るだけですが、選鉱所自体は昭和62(1987)年の明延鉱山閉山後、操業を終了し閉鎖されてもなお、しばらく建物は残っていたという。
ですが、平成16年についに撤去・解体。

↓明延鉱山閉山と同時に廃止された「一円電車」。

神子畑-明延を結んでいたので、正式な名は「明神電車」。
私が小さい頃はまだこの電車(といっても電気機関車が客車を引っ張っていたっぽいけど)は現役バリバリで、当時の小学生向け雑誌に「たった1円で乗れる鉄道があるんだぞ」などと小学生物知り博士のための記事として載っていたのを記憶しています。

ただ、どこを走っているのだか全く分からず、いつしかこの鉄道の事など記憶の彼方へと吹っ飛んでしまっていましたが、今回この旅に出るにあたって事前の下調べしていた際にここを走っていたのをようやく知り、併せて当時の記憶もブーメランのように戻ってきた次第。

因みにこの鉄道はここから走っていたのではなく、インクラインの上から明延へ向かっていたよう。

中に入ってみる→
客車というより人運搬箱ですな。
大人が二人向かい合って座ると、膝を突き合わせるどころか、相手の吐息まで感じられそうな狭さ。夏なんかはむさ苦しそうだ。

↓ムーセ旧居(現在はムーセハウス写真館)

生野鉱山開発のため明治政府によって招かれたフランス人技師のうちの一人、ムーセさんの元住居。
彼が日本を去った後の明治20年に神子畑に移築され、事務舎・診療所として利用される。

こういう所だから、当然周辺も廃墟感が漂ってます。
小学校跡→

昔は旅館だったぽい仕舞屋→

右岸側の旧道→

↓この日のネグラは、養父(やぶ)市の「道の駅但馬楽市」。



宿泊施設もあるのだけど、そこはケチる。

美肌の湯「やぶ温泉」付きの道の駅ですが、レストランもあり、松阪牛などの全国のブランド牛がその血を引いているとされる、まさに和牛の始祖たる「但馬牛」の料理が味わえます。
因みにかの有名な神戸牛は、但馬牛のうち一定の基準をクリアしたものだという。
知らなかったわ。

ただ、ここに着いたのは19時半頃。オーダーストップは20時半だけど、店はいっぱいな上、待っている人がそこそこいる・・・。諦めて温泉に浸かる。

この日の走行距離140km、千葉を出てから844km。

にほんブログ村 旅行ブログ 国内一人旅へ 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→


151日目 朝来の「鉱石の道」(1)

2016-05-31 23:51:01 | 近畿(大阪・兵庫)
2016年5月4日(水)


多可町をオサラバした後は山を越えてJR播但線沿線に向かい、今は朝来(あさご)市の旧生野町(いくのちょう)にやって参りました。

ステージは北播磨地域から但馬(たじま)地域へ移ります。
但馬とは旧国名の事で兵庫県北部一帯を指しますが、今回廻るのはその一部だけ。
そして、この日の残りは市町村訪問というより、どちらかと言うと観光に精を出します。

というワケで、平成19年に近代化産業遺産群に認定された「鉱石の道」へ。
↓話しを分かりやすくすべく、「鉱石の道」のサイトから引っ張ってきた地図。


↓ルートマップ(同サイトより)。というより寧ろ土地断面図。

有体に言えば、生野鉱山、神子畑(みこばた)鉱山、明延(あけのべ)鉱山の3鉱山とそれらに関する産業遺産群の事(詳細はサイトをご参照あれ)。

↓まずは「鉱石の道」の中でも一番の呼び物と思われる「史跡生野銀山」へ。



大同2(807)年から昭和48(1973)まで1,000年以上も金・銀・銅・亜鉛・スズなどを採掘し続けてきた鉱山。
信長・秀吉、そして江戸幕府が直轄し、明治政府が継承した後に三菱に払い下げられる。

とにかく来場者多し→
ここの知名度が高いのか、近くに超有名なお城2城もあるのでそのついでに来てみたのか分からないけど。
と思ったら、私は見ていなかったけどあの「びっくりぽん」に出てきたという実業家・五代友厚が生野銀山に関わっていたというらしい。ミイハアが多い?

こちらは右手にある出口→

鉱山資料館内にて→
蟻の巣のよう。何だか気色悪い。
実は坑道を見てからこの資料館に入ったのですが、最初にここを見てからの方が良いかもしれません。

坑道内のお決まりの人形→
顔がコワイ真剣。

削って持って帰りたかった。

「慶寿の堀切り」と呼ばれる江戸時代の露頭採掘跡→

鉱山を降りてきて、下界の口銀谷(くちがなや)へ。
そこは「銀山まち回廊」と売り出していて、鉱山町の佇まいを残す地域。

町の佇まいはこんな感じ→

  

↓現存している社宅では日本最古の「旧生野鉱山職員宿舎」。

閉館間際だったにも関わらず、中に入れてくれました。
応対してくれた案内係のおっちゃんは、「これが建てられたのが明治9(1876)年」などと閉館過ぎたにもかかわらず、サービス残業になってまでも(元々ボランティアかもしれないけど)親切にもガイドを買って出てくれる。

↓「今はないけど、俳優の志村喬さんが住んでいた家があってな。ホレ、あのマツの所。」

「寅さん」に出てた(後で「七人の侍」にも出演していたのを思い出したけど)程度しか覚えのない(私にとっては)馴染みの薄い俳優さん。
ですが、彼は生野の誇りらしく、ここは「志村喬記念館」にもなってます。

寺町通り→
その名前のとおり、お寺さんがズラズラと並んでいる通り。

姫宮神社入口→

↓神社への橋からの眺め。



市川という川沿いにはトロッコの軌道跡があります。

生野代官所跡にある「生野義挙碑」→
文久3(1863)年、尊皇攘夷の一派が農民層に働きかけて代官所を襲撃したいわゆる「生野の変」ですが、僅か3日で敗走する。
それより、愛想よく写させてくれた置き去りのワンがかわいい。

にほんブログ村 旅行ブログ 国内一人旅へ 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

151日目 北播磨地域はこれにてクリア

2016-05-29 23:53:25 | 近畿(大阪・兵庫)
2016年5月4日(水)


前編で先に西脇市から触れましたが、この日最初の訪問地は、平成18年に社(やしろ)町・滝野町・東条町とが合併してできた加東市。

↓(585)兵庫県加東市役所
 
市をアピールするためのマスコットキャラクターとしては地味な印象の「加東伝の助」のモチーフは、加東に釣り針を伝えたとされる「小寺彦兵衛」というお人。
全然知らないけどね・・・。
それに、立派なキャッチフレーズとは裏腹に住民は思うようには増えないようで、ここ最近は4万人あたりをウロウロしています。

↓市役所庁舎横にある、ツツジが取り囲む状ヶ池。

赤穂藩ゆかりの池であるようで、きっと今頃は役所周辺で「つつじまつり」が開催されていて大いに賑わっている(ハズ)。

加東市散策は市役所庁舎がある旧社町だけにします。
まずは千鳥川のほとりへ→
風薫る5月の早朝。目にも鮮やかな新緑、心地よい鳥のさえずり。とても気持ちが良い。我が家の近所にもこういう川があったらな、とかなり羨ましい。

↓川沿いの「新宮神社」で、遅まきながら旅の安全祈願。


「やしろ商店街」の入口手前→
写真には収まりませんでしたが、左側に「←赤穂四十七士の墓(観音寺)」という看板があります。

↓ドレドレ、どんなものかと見てみたけど、草が伸び放題で手入れされていなさそう。

夜になると人魂が飛び交っていそうな一見無縁墓地のようで、四十七士のものにしては貧相すぎる。
後で知ったのですが、観音寺は浅野家の祈願所だったため、江戸時代後期に四十七士の供養墓碑が建立される。どうやらそれは奥の立派なお寺さんにあるのかも。

商店街→

この商店街にあった自販機→
だいたいこの手の自販機で売られているのは、エ○本だったり、20年前の雑誌だったりで、しかもお金を入れてもモノが出てこないとか・・・。
でも普通の大衆週刊誌が売られ、しかも新刊。それなりにここで買う人がいる模様。でも、コイン投入口が塞がれているし、どうやって買えというのだろう?

銀座通りの「やしろ商店街」→
整然と並ぶ街灯・垂れ幕が美しい。

佐保神社→
北播磨第一の大社。故に「社」という地名になったという。

明治館→
旧加東郡の公会所で、平成4~5年に復元修理した建物。

間に西脇市を挟んで、多可町(たかちょう)へ。
(587)兵庫県多可郡多可町役場
ここも平成17年に中町・加美町・八千代町が合併してできた町で、役所があるのは旧中町。
シワジワ人口が減っていて、合併時25,000人ほどいたのが今では22,000人を少し下回っていて、早晩2万人を割り込むんだろうな。

↓多可町は「日本一の酒米・山田錦発祥のまち」でアピールする町。

「敬老の日」発祥の地でもあり、昭和22(1947)年、旧八千代町で初めて村主催の敬老会を開催したのがきっかけに、9月15日を「としよりの日」として祝日とすることにし、昭和41年に「敬老の日」として国民の祝日になる。
他には、「日本一の手漉き(てすき)和紙・杉原紙」が町の自慢。

↓平成2年まで走っていたJR鍛冶屋線の駅跡地の「あかね坂公園」。




↓ついでに鍛冶屋線の終着駅・旧鍛冶屋駅へ。



鉄道資料館(鍛冶屋線記念館)となっております。

西脇市訪問の際に触れませんでしたが、かつてあった市原駅舎(大正10(1921)年築)も同様に「鍛冶屋線市原駅資料館」として保存されています。

鍛冶屋地区の街並み→
鍛冶屋という地名だけあって鍛冶屋さんが多かったのだろうと容易に想像できるけど、実際近くにあった牧野鉱山から採掘された鉄をここで加工していたのだという。

にほんブログ村 旅行ブログ 国内一人旅へ 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→