ゆっくりのんびり市町村廻り

何年かかるか、もしかしたらできないかもしれないけど、日本の全市区町村の制覇を目指して頑張ってみる!

167日目 避難指示が解除されたその後を訪ねる(1)

2017-03-25 22:06:37 | 南東北
平成28(2016)年10月10日(月祝)


日立駅からJR常磐線に乗りましてひたすら北へ向かいます。
でも、路線は続いているのに電車はここまでしか行かないという駅があります。
当時も今もそうですが、福島第一原発の事故の煽りで分断されてしまっているのが理由ですが・・・。

それが竜田(たつた)駅→
下車客は10数人程度。
何となく竜田揚げを思い出す駅ですが、その由来がここ・・・という噂は全く聞いた事ありません。

原発事故以来よく耳にしているかと思いますが、この駅は楢葉町(ならはまち)にあります。
平成27年9月5日に避難指示が解除され、1年経った町の様子が気になったので来てみたのでした。

駅舎→
止まっているバスは、帰還困難区域に突入して原ノ町駅(南相馬市)まで行く代行バス。
数人乗っていたかな?いずれも鉄ちゃんのような感じの人だったような。
私はというと写真撮影で駅前をウロウロしてましたので、「乗りますかあ~~~~!」と大きな声。
何せ次のバスは10時間後なので親切心もあるだろうけど、乗るのかどうなのかハッキリしてくれ、が正解かも。

↓Jヴィレッジというサッカートレーニング施設があるのでこの看板。

希望に満ち溢れた看板がある一方で、その横には除染のゴミ袋らしきが山積みされていて実に対照的。
モニタリングポストの値は1時間あたり0.159マイクロシーベルト。
これが高いのかどうかは分からん。
が、どことは言わんけど、世界中にはここより高い数値の都市がゴロゴロあるやんよっぽど外国の方が危険

↓駅前の住宅街と商店街。
 
ひっそり。これ以外言葉が思い当たらないです、正直。
家はあっても人のいない世界、そして生活感のない世界。
人はいなくても車だけは走っているというのはよくあることですが、ここではそれすらもない。
飯舘村(いいたてむら)でもそれを経験しましたが、やはりどこか異様です。

風を通しているのかと思いきや・・・→
窓・玄関の枠が根こそぎ剥ぎ取られているし。
敢えてそうしているのか、避難中のどさくさ紛れにやられてしまったのか分からん。

建物は新しそうなんだけど→
草ボーボーで入るにも難儀、というか最早入りたくないような状態。

真昼間から雨戸だらけの戸建て団地→
人の息吹を全く感じない団地は非常に不気味です。

ふくしま復興ステーションという原発事故周辺の自治体の復興状況が分かるサイトがあるのですが、それによると地震当日の楢葉町の住民登録人口は8,011人。
そして平成29年1月4日時点での帰還者数767人。
私が行った頃の帰還者は約6%だったらしいから、それよりは持ち直しているとは言え、非常に寂しく厳しい数字です。
実際、工事関係者にはそれなりにすれ違ったのですが、現地の人らしきとなると一組の老夫婦のたった2人だけでしたし。

高台から町を見下ろす→
ここらでようやく車の音が聞こえてくる。他には工事の音。

(626)福島県双葉郡楢葉町役場
昭和31(1956)年に木戸村と竜田村が合併して成立。
福島第一原発から南10kmに位置し、事故で全住民が避難した自治体のうち最初に避難を解除した町。

先日見た震災関連特集のテレビ番組では、存続が危うい事態に直面している自治体として楢葉町が取り上げられていました。
登場した町長さんが頭を痛めていたのは、今後の人口減の中での財源確保に関して。
当たり前なのですが、インフラなんかを始めとして、町自体の機能維持が困難になるわけだから。

そこで、帰還促進を促す切り札がコレ→
住宅・商業施設・診療所、その他便利な施設全てを一か所に集約したコンパクトタウンの建設に踏み切る。

災害公営住宅では既に入居が始まっているようで、来年春には商業施設などがオープンする予定。
だったのですが、番組では思うようにテナントが集まらないらしい様子が映し出されていました。
となると人もやって来なくなる可能性もあり得ます。

中にはコンパクトタウンから遠い住所、或いはそこに戻る予定の人もいるでしょう、その人達には不便を強いる事になりますし、この構想、かなり前途多難に感じるのは私だけしょうか?

役場の前には、平成26年7月31日にオープンした「ここなら商店街」という仮設商店街があります。
食堂もあり、それは工事関係者には重宝されているようです。
私も是非ここで食事を取りたかったのですが、時間の都合で断念。
ここでお金を落とせず申し訳ない。

竜田駅北にある踏切→

赤錆びて、草に埋もれてしまった線路は実に哀しいものです→
が、今年10月頃までに富岡駅までの約7kmは運転再開されるようです。

駅東側の工事→
町民や廃炉関連事業向けに、駅前広場として駐車・乗降スペースを造ったり、ホテルを建設したり(来年夏にオープン予定)しています。

建設中のコンパクトタウン→
笑(えみ)ふるタウンならは」と名付けられたようです。
文字通り、「笑」のあふれる楢葉に戻ることを願ってやまないのですが・・・。

工事はどれもこれもかなり大掛かりな感じ。
復興財源を元手にやっているのか知りませんが、完成後の維持管理の財源は大丈夫なんでしょうか?

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

166日目 企業城下町・日立市へ

2017-03-20 23:45:46 | 北関東
平成28(2016)年10月9日(日)


※予めお断りしておきますが、写真は当日・翌日撮影分でゴチャ混ぜとなってます。

↓「この~木何の木、気になる木」とはよく知られたCMですが、その木があるという噂の・・・ウソです、そのCMを世に送り出した企業の創業地である日立市に降り立ちました。

その企業とは市名の字面から分かるでしょう、国内最大の電気機器メーカー日立製作所。

↓ですので駅前に出ると、日立製作所から寄贈されたというでっかい「タービン動翼」のモニュメントがイヤでも目に飛び込んできます。

そんなシンボル的タービンですが、これを恥ずかしがっている日立市民が少なからずいるやに聞きます。
意外ですな。なんでだろう?

日立市観光はのっけから駅にて始まります。
↓1番線(駅だけに)、「SEA BIRDS CAFE」(正面右側のスペース)。

「日立駅絶景天空カフェ」が謳い文句の喫茶店。
優雅にここで天空気分を味わいながら絶景を堪能するのもオツなのですが、時すでに16時近く。
お茶をすると晩酌がマズくなりそうなのでやめます。

2番線、駅通路→
これはたまたまだったのですが、当時は「茨城県北芸術祭」真っ只中で(昨年9月17日から11月20日まで)、駅通路がカラフルに覆われておりました。
なかなか幻想的、見られて超ラッキー(今行っても見ることができませんので悪しからず)。

3番線、この人だかり→
何だろ?と思い、近づくと・・・。

見た目フツーの望遠鏡→
何でこんなものに人が群がるのか意味不明でしたが、翌朝駅に来てみたら誰~もいなかったので覗いてみる。

 ナニナニ?! 上から腕がニョキッーと伸びてきたゾ!!→
てっきり望遠鏡だと思っていた物は「風景幻灯機」といって、海を背景に色々な映像が流れてくる装置。
もう半年も前の事なので何を見たのか忘れましたが、伸びてきた腕は何かを海から拾い上げていたような気がする。

他にこんな催しがあったりと、日立市はイベント三昧→

駅前にはナント!お台場某テレビ屋さんがあったりする!!→
とは、ガセネタですんで・・・。
これは「日立シビックセンター」という、プラネタリウムがあったり科学館があったりする多目的施設。
丸い部分がプラネタリウムで、天球劇場と呼ばれています。
何だパクリかよ、などと決して思わないで下さい。こちらの方が先輩建物なのですから。
街巡りを優先するので、中を見る時間を確保できませんでした。ここも今度リベンジじゃ。

この日の宿泊は駅前の某ホテルチェーン店。
↓ホテルの窓から(市街地の北方向)は「日立セメント」の工場が目を引きます。

特に左の建物は夜には輝いてキレイだったので、窓から撮影を試みましたがうまくいかず(私の持っているデジカメがショボすぎた)。
なお、このセメント屋さんは日立製作所とは何ら関係ないようです。

こちら「かねみ公園」の遊園地→
特におすすめは「ジェットコースター」なんだそうです。
何でも設備が古い上に、山の急斜面に沿って造られているので角度が急で、お墓の中に突っ込みそうな感じになったりと、かなりのスリルを味わえるのだと。
動物園もあったりします。

市内散策に出ます。
駅前から伸びる、だだっ広い「平和通り」→
ただ、人車ともに極めて少なく持て余し気味。

↓駅を背にして「平和通り」をひたすら歩くと、国道6号線に突き当ります。

こちらは逆に、人はともかく、片側一車線で捌くのはちと辛すぎる位の車の量。
うまくいかないもんだ。

↓北方向へ歩を進めると、一部字が消えかかり、「平」が消えた?元々ない?こんな看板があります。

助川とは日立の市街地の古い地名で、駅も助川と呼ばれていたそうな。
随分昔から助川本陣の復元を声高にしているけど、賛同を得られていない様子。

その左隣には、同じ方が訴える実に哀しき看板→
日本創成会議発表「消滅可能性都市」との中に確かに日立市は入っていますし・・・。
今回初めて日立駅に降りたのですが、正直、駅前は寂れた感があるのにビックリしたのも事実。
減っているとは言え約20万人を抱える市なので、勝手にかなりの都会だと思っていましたんで。

(625)茨城県日立市役所
現在新庁舎を建設中で、来年度供用予定。

かつては茨城県でも1位の人口数を誇っていましたが、今では3位に滑り落ちてしまっております。
日立製作所はバブル期には約8万人いた従業員が現在は37.000人余りで、かなりのリストラをしたのが祟ったんでしょうかね?

昭和14(1939)年に助川町+日立町で今の日立市は成立したのですが、その日立町とは明治22(1889)年に「宮田村・滑川村」が合併して成立した日立村の後身。
ところで、日立製作所は大正9(1920)年に日立鉱山から独立した企業。
その日立鉱山は明治38年に創設されたので、実は「日立」は鉱山や製作所から起因する地名ではない。
では、日立地名の由来は?

名付け親は茨城県とは切っても切れないあの超有名人
さすがに全国を廻ったというのはウソっぱちですが、領内視察には熱心だった黄門様はこの地に来ての一言「この村は朝日が立ち昇るが如く繁栄するだろう」、これが由来だとか(本当に言ったかどうかの真偽の程は知りませんが)。
確かに大当たり。でも昇った太陽はやがては沈みます。日立市は今はそんな状況になりつつあるのだろうか。

因みに私の生まれた愛媛県新居浜市も鉱山が元に発展した住友の企業城下町。
そういう意味では個人的にはどこか親近感の湧く町なんですけどね~。廃れた感じも似てますし。

↓見た目明らかに苦しそうな昔からの商店街。
 

↓30年前には「いきいきとした楽しい街並み」で、賞を受けているのだけど・・・。

今の様子をその当時の誰が予想できただろう。

↓まだまだ人で賑わう日立シビックセンター前の新都市広場辺りに戻って参りました。


↓スーパーでダラダラと酒つまみを物色している間に、一気に夜の帳が下りてしまいました。

そして人も一気にいなくなってしまい、急に寂しくなった新都市広場です。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

166日目 徳川御三家城下町と原子力城下町

2017-03-19 01:07:10 | 北関東
平成28(2016)年10月9日(日)


水戸にはまだしつこく纏わりつきます。

あまりそんな雰囲気を感じさせないのだけど、水戸はれっきとした城下町。
最後は水戸城址を廻って終わりにします。

三の丸西側の空堀→
水戸城は鎌倉時代の初期に築かれ、豊臣秀吉の天下統一直後には佐竹氏54万石の城下町となるも、江戸時代になるとご存知徳川御三家・水戸家が治める。

↓三の丸に入りますと正面に立派な建物がありますが、これは昭和5(1930)年に建てられた茨城県庁の旧本庁舎。

今の本庁舎はやたら離れた地に移転してしまっていて、駅から遠い県庁としては、恐らくぶっちぎりで日本一でしょう。

対照的に、三の丸敷地の片隅に借りてきたネコのように佇むは水戸市役所の臨時庁舎。
(623)茨城県水戸市役所
前にも触れましたが、本庁舎は解体されていて各部署があちこちに分散されております。
となるとどこでもいいのですが、この建物を以て水戸市クリアとします。

かつては議事堂だっという「茨城県立図書館」→
愛媛の田舎の我が一族郎党のお墓に「常陸国・6万石の某城主○○豊前守を元祖とし、江戸時代初期に当地に移り住んだ」という碑文が書かれているので、その確証を得るべくこの図書館で郷土史を片っ端から調べたことがありました。
ま、はなっからその伝承は信じちゃあいませんでしたけどね(一族皆もそうだと思う)、結果もお察しのとおりでございます。

弘道館正門→
弘道館とは、第9代藩主徳川斉昭が天保12(1841)年に設立した藩校で、全国の数あるそれらのうちでも最大規模のもの。
ただ、その中には以前入った事もあって今回は入りません。

弘道館への道すがらにある、復元された「八卦堂」→
ここには建学の精神の象徴である弘道館記碑を納められているのですが、戦災で本堂が焼け落ちてしまったにもかかわらず、碑だけは(気合いで?)守りぬいたのだと。

二の丸へ。
水戸市立第二中学校門脇に建つ「大日本史編纂之地碑」→
偕楽園には「完成の碑」があったけど、途中で編纂場所を変えたってこと?

本城橋→
橋の下は空堀を走るJR水郡線。
向こう側はが本丸跡で水戸第一高校があって、その敷地には水戸城唯一の建築遺構である「薬医門」があるのですが、見忘れた!

坂を下りてくると、黄門様が生まれし「義公生誕之地」があります→

ようやく水戸駅に戻って参りました→

↓水戸駅北口のペデストリアンデッキから眺める「黄門さん通り」でございます。

多大な時間と労力をかけて廻った水戸市ですが、それだけの価値のある町だったというのが私の感想です。実に楽しい街でした。

電車に乗って、東海駅で下車→
東海村という自治体にある駅ですが、「東海」というと日本では愛知県あたりがイメージされるので何だか違和感を覚える。
当たり前ですが、「日本海ではないニダ、東海ニダ」とイチャモンを付けている某半島国家式の読み方でもない。
村名の由来は、水戸藩士・藤田東湖が詠んだ『正気の歌』にある「卓立す東海の浜」から。

それよりもここは何と言っても、昭和32(1957)年に「日本で最初に原子力の火が灯った村」。
そして「東海村」は世界的に知られた地名なんだとか(某事故があったからかな?)。

ただ、村で特に見たいものはなし。
沿岸部に行けば、名所案内にあるとおりのものがあったりするのだけど、なにぶん遠すぎ。
なので、駅周辺をぶらついてここは終わり。

山側の駅舎→

海側の駅前→

村役場近くの「原研通り」→
他にも「原電通り」「動燃通り」があったりと原子力押しはかなりのもの。

↓それはそうでしょう、役場にあったこれらを見る限り、村は原子力と一蓮托生だと宣言したのだから。
 
でもその揺るぎない思いは平成23年3月11日までで、ここから僅か北100kmの所で起こった事態に、現村長さんは考えを変えたみたいです。

(624)茨城県那珂郡東海村(むら)役場
村にしてはダブつきすぎの人口約38,000人。
おまけに財政力指数は、平成26年時点で全国第10位を誇る超リッチな村。

↓7人で構成される、村のマスコットキャラクター「イモゾーファミリー」の一員である「イモゾー」です。


 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

166日目 歩いてゆくんだ水戸漫遊記(2)

2017-03-15 23:55:24 | 北関東
平成28(2016)年10月9日(日)


水戸市散策はなおも続きます。
常磐神社→
水戸の誇る偉人お二方を祀るために、明治初期に偕楽園内に創立された祠堂に由来する神さま。
その偉人とは水戸藩第2代藩主・光圀公(黄門様です)と第9代藩主斉昭公。

↓んで、境内には義烈館(ぎれつかん)というのがあります。

光圀公が義公、斉昭公が烈公と呼ばれていることから名づけられた博物館で、両公の遺品などが展示されております。
入ってみましたが(入館料¥300)、残念ながら中の撮影は禁止。

少し離れたお寺さんに鎮座する「水戸大観音」→
お庭を見て、神社に行って、観音様を仰いで心穏やかに水戸を廻るハズなのに、あっという間にそれは吹っ飛び、次第に気持ちが昂ぶってまいりました。

↓これのせいじゃ。
 
建物の形といい、ツタに覆いつくされんばかりのサマといい、なにやら香しいニオイを醸し出ております。

名園・偕楽園から歩いてもそんなに遠くないこの場所ですが、近くにはしっかりと夜のお遊びどころ(真昼間でも営業してはおりますが)、まさに快楽園が用意されているのは、さすがは水戸。

↓ツタの廃墟の向こう側にはこんな感じの怪しい風俗街があります。

名誉のために行っておきますが、私はここは歩いて写真を撮っただけですので。

そしてこの風俗街にはその手のマニアに超有名な建物があります。
威風堂々、お城っぽい建物がそれ→
クイーンの絵がやたら目立つ別名・トランプ城。
だからと言って、某国大統領の極秘別荘というワケではありません

元々は「クイーンシャトー」と呼ばれた「お風呂屋さん」で、なんでも8億円もの巨額をかけて昭和55(1980)年にオープンしたものの、昭和62年頃に敢えなくドボンしてしまったようです。
以前は侵入できたみたいですが、勝手に入る輩が相次ぎボヤ騒ぎなどもあって、今では封鎖されていて入れることができません。

外観もそうですが、8000万円のシャンデリアがあったとかでかなりゴージャスでバブルなものでしたが、当時はこんなものを平気で建てたんだから、昔のやることは豪気だよな~と、昭和が懐かしい。

↓木が塀を倒しそうで危なっかしい連れ込み宿らしきも魅力的でござった。


ディープでカオスなお話しはこれまで、真っ当な?水戸散策に戻ります。

「黄門さん通り(国道50号線)」に出てきました→
この通りは水戸駅から伸びる繁華街。
正面の古い建物は、昭和30年代に建てられたという昭和レトロ「泉町會舘」。

↓水戸駅に向かって左手にはクネクネした変な形の塔を見ることができます。

近くへ行ってみましょう。

スネークキューブですな→
水戸芸術館のタワーで、水戸市制100周年を記念して平成2年にオープン、高さも周年に合わせて100m。
勿論上へ行けまして、87mの高さには展望室があるのだという。

再び「黄門さん通り」。
何故か茨城にして「京成」の百貨店→

水戸市のゆるキャラ→
これが置いてある場所から水戸駅に向かって数軒隣りには空きとなったビルがあるのですが、外壁が崩れて非常に危険な状態になっているとの記事がこの旅の1か月前にネットにアップされていました
ですが、このほど行政代執行によって外壁が撤去されるようになったとの事。

↓水戸駅が目の前の東照宮鳥居と参道と奥の寂れた感じの商店街。
 
でもここへ来たのはこれが目的ではなく、鳥居の左にあるタバコ屋さん。
タバコを買いに・・・、ではなく、宝くじを買いに、でもなく、お店にいる人気者に会いに来たのであります。

ですが、お店を覗いてみてもいらっしゃいませぬ。
番をしていたじい様に「今日はいないのですか?」と尋ねると、「平日しかここには来ないよ」。

仕方ないので写真で会った気に・・・→
名物ネコの「ハチ」でございます。眉毛が「八」の字になっているからこの名前なんでしょう。
このニャンコが店頭に登場してからは、ここで買った宝くじが当たっただの、顔を見ていい事があっただのいう人が続出し、「幸福を呼ぶ猫」で知られるネコとして一躍有名になったのです。
せっかく来たというのにな・・・、平日に水戸リベンジせんといかんな。

 

166日目 歩いてゆくんだ水戸漫遊記(1)

2017-03-12 23:59:43 | 北関東
平成28(2016)年10月9日(日)


雨脚が一段と激しさを増して始まった茨城県都・水戸市訪問です。
↓「出歩きたくないよなー」と、しばしボーゼンと雨を眺める。


さてさて、全国的に知られた水戸ですが、水戸と言えば?
助さん格さんを従えて全国を廻るじい様?→

或いは、臭くてネバネバした私の大嫌いなもの?
 
の2つが鉄板か?

意外にも1世帯当たりの納豆購入額は一昨年までの3年間は日本一ではなかったらしく、だからこんな横断幕なのですが、この呼びかけが功を奏してか、昨年めでたく日本一を奪い返したみたいです。

えっ?、あの女性ユニットも水戸??→
なワケないし。
白黒の石を打ちあうこの遊びは水戸が発祥なんだという。

見所という点では「水戸と言えばコレ」というのがかなり多くありまして、さすがに全てとはいきませんが、できるだけ廻ってみたいと思ってます。

ただ雨が降っていなければレンタサイクルを使うつもりでした。
でも傘をさしてのチャリは危険だし(そもそも違法)、片や歩きで通すと相当の時間と体力を費やします。

雨が止むまで待つか歩くか悩んだ末、後者を選びました(同じ場所に長い時間じっとしていられない私の性格も災いした)。人生楽ありゃ苦もあるさ~♪、と心の中で歌いながら。
果たしてこの選択は吉と出るか凶と出るか?

駅前から南に伸びる通り→

↓ちょっとまっすぐ歩いてから右に折れると、ここも工事中の市役所。

東北地方太平洋沖地震で使用不可となったので解体され、目下機能が分散されております。

↓そして来ましたるは、水戸市民の憩いの場である千波湖(せんばこ)。

「湖」と書きましたが、水深が浅いために実際は「沼」扱いなんだそう。

湖周辺一帯が千波公園となっていて、それと湖を見下ろす感じで隣り合っている有名な「偕楽園(かいらくえん)」を合わせた面積は、都市公園としては世界第2位の広さを誇っているとな。
街中に川があるのも羨ましいですが、こんな大きな水溜まりがあるのも羨ましい。
おまけにでっかい公園もあるのも、涎を出さんばかりに羨ましい。

ところで、うっとうしかった雨は10時頃にはほぼ止みました。
駅で一時間辛抱しさえすれば後はチャリを使えたので、悩ましかった選択は結果的にでございました・・・。

↓千波湖は水鳥たちの憩いの場でもあるよう。
 
人が近くを通ってもちっとも騒ぎません。悠然としたもんです。
平和でいい光景じゃありませんか。

時に高く水が吹き上がります→

JR常磐線の偕楽園駅を跨ぎます(右側が湖)→
この駅は、文字通り偕楽園の最寄り駅なのですが、下り(水戸方面)列車のホームしかなく、毎年行われる「水戸の梅まつり」期間中のみにしか機能しない臨時駅。
上り(東京方面)ホームがない理由として、おまつりの客を市街地に誘導して買い物をしてもらうために地元が設置に猛反対したんだとか。

↓偕楽園へ通じるつづら折りの坂道の途中の、ちょっと引っ込んだ所にある石碑。

かの大作の完成記念の碑にしては、こんな鬱蒼とした中にポツンと置かれた少々寂しい扱い。

史跡名勝・偕楽園→
入場無料なので、当然潜入を試みます。

偕楽園は「衆と偕(とも)に楽しむ場所」として、天保13(1842)年7月、水戸藩第9代藩主徳川斉昭により造られました。
金沢の兼六園・岡山の後楽園とともに日本三名園の一つ。

さて、先ほど触れた「水戸の梅まつり」ですが、先月18日より今月いっぱいまで開催されます。行くなら今!
今年で実に121回を数えるそうです。

↓この時は10月でしかも天候悪なので、色彩感は全くよろしくありませぬ。

もう一か月早ければ、萩で綺麗だったようですが。

↓偕楽園の中に好文亭(こうぶんてい)と呼ばれる素朴で、雅な建物がありますので入ってみましょう。

ここはさすがに有料(¥200)。
斉昭公は文人、家臣、領民をここに呼んで詩歌や慰安の会を催していたという。

↓左から桜の間、萩の間、紅葉の間。
  

千波湖が目の前に丸見え→
確かブラタモリだったと思うけど、偕楽園の中に大名庭園に付き物の「池」を作らなかったのは、大きなアレがあるからなんだとか。納得。

 

166日目 秋のぐるっと常磐岩代巡り~石岡

2017-03-08 23:49:45 | 北関東
平成28(2016)年10月9日(日)


予定では中国行きだったのですが、それを9月に繰り上げたので、ぽっかり空いてしまった「秋の乗り放題パス(¥7,710)」発売シーズン。

どこへ行こうか思案した結果(出掛けないという選択肢は毛頭ない)、おおまかに「常磐線→いわき→郡山→東北線→千葉」、こんな感じで廻ることにしました。
被災地もご無沙汰だったというのもありましたし。

稲毛駅4時35分発の総武緩行線初電で出発→

↓西船橋→武蔵野線→新松戸→常磐緩行線で我孫子へ行き、5時42分発の勝田行きに乗り換え。

常磐緩行線に乗っていると、ドア上の画面に「石岡-高浜間で電車とタヌキが衝突して、上り電車が遅延」と表示されている。
シカやイノシシならたまに見るけど、こういう事もあるんだねー。
でも可哀そうに・・・。

6時28分に茨城県石岡市の石岡駅に到着→
これまで天候は曇りだったのですが、着いたとたんに降り始める。
ここでも雨呼び寄せパワーはいかんなく発揮されました。

↓石岡市の「茨城県フラワーパーク」では「秋バラまつり・ダリアまつり」絶賛開催中ですが・・・。

すみません、雨男がやってきたせいで、せっかくの書き入れ時が・・・。

もっと、迷惑かけた(であろう)は、右に立っている二人のおっちゃん。
同じく石岡市の「サミットゴルフクラブ」というゴルフ場ではこの日、「日本プロゴルフシニア選手権大会」の決勝が行われ、その最終日なのですが、おっちゃんはそれの案内人のよう。
雨のせいでギャラリーは減るかも知れないし、そうなるとおっちゃんは暇になる可能性も。
ゴルファー達にしても、絶好のコンディションでやりたかったでしょう、重ね重ね申し訳ないのお。

忠犬がいたのは渋谷駅だけではなかった!→

犬好きな私にとっては、ここに書かれている文章を見ただけで涙の出る思いなのですが、肝心の、何故飼い主と離れ離れになってしまったのかが書かれていません。
でもネットで検索すれば詳しい事は分かりますし、『あした会えるさ―忠犬タローものがたり』という本が出版されているようなので、興味のある方は手に取ってみるのもよし(私は読んでいないけど)。
因みに名前は「タロー」となっていますが、元の飼い主は「コロ」と名付けていたようです。

↓石岡の町が熱気に包まれるのは、これらが町を練り歩く「石岡のおまつり」の時。
 
左・山車、右・幌獅子。
正式には「常陸國總社宮大祭」といい、毎年40万人もの人が訪れるお祭りで、関東三大祭の1つ。
昨年(平成28年)は9月17~19日に催されました。

駅前がゴチャゴチャした感の石岡駅→

↓お祭りの最大の山場は、山車12台・幌獅子30台が大行列をなす、駅前のこの「御幸(みゆき)通り」。

この通りを歩き始めると、誰だかジ~ッと動かずに突っ立っている人がいるゾ・・・(写真左)。
気味悪と思って見たら、なんじゃこりゃ?

いやらしい腰つきのメスのタヌキ→
おまけに抱えているウナギも意味わからんし。

御幸通りを真っすぐ進むと、丁字路になります。
丁の字の-部分に当たる道路は国道355号線で、「中町通り」と呼ばれる商店街。

↓この通りを中心にして、昭和レトロな建物が多く残っております。
 

 
黒壁に瓦屋根の商家、土蔵造りの壁が通常の土壁漆喰塗りではなくコンクリートでできている商家、洋風デザイン装飾を施した看板建築などなど。

そんな中、江戸末期に建てられた染物屋が異彩を放つ→
昭和4(1929)年に石岡は大火に見舞われたのですが、奇跡的に焼け残ったそれ以前の建物。

↓個人的には、「府中誉」という酒蔵のこの汚れた土蔵が気に入りました。

かつて石岡に常陸国の国府があったので、どうやらそれが酒蔵名の由来のよう。

国道6号線の、常磐線を跨ぐ橋より→
バスが走っている道は、ちょうど10年前に廃止された鹿島鉄道が走っていた所で、今ではバス専用道。

(622)茨城県石岡市役所
庁舎は仮のもので、その奥に古い庁舎があったようです。
1か月前に庁舎建設工事の入札があって、落札者も決まってようやく新庁舎を建設の運びとなりました。

気象庁の地磁気観測所が置かれており、スカイスポーツが盛んで地域でもあります。
そして日本一のダチョウ飼育数を誇る「ダチョウ王国」があり、だからか、ダチョウの肉が隠れた?石岡名物らしいです。
一体どんなお味なんでしょうね?

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

165日目 ベタな呉を見て力尽きる

2017-03-04 22:34:25 | 山陽
平成28(2016)年9月18日(日)


全くお呼びでないのですが、生きていれば(恐らく生きていると思うけど)もう少しで勝手に1つの年齢がやってきます(法律的には誕生日前日の今日1歳加齢されます。ただし、24時00分になった時点でですが・・・)。
毎年の恒例行事ではあるんですけど、全然嬉しくないのもいつもどおり。
それに明日は日曜だから、誰かがお祝いと言ってどこかへ誘ってくれそうな気もしないし。
仕方ないから、一日愛犬と遊んでいようかな・・・。
と、ボヤいてみる。

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呉中通商店街で雨露をしのぎます→
ここは36万個のレンガを敷き詰めているので、「れんがどおり」と呼ばれています。
雨が原因なのか、魅力的なお店がないのか、休日にもかかわらず人はまばら。
ただ、この通りの周りには飲食店が多いので、夜になればまた違った姿を見せるのでしょうけど。

↓上蓋が取れると、さらに輪をかけてうら寂しい場末のような雰囲気になります。


堺川沿いを出て、海の方へと歩きます→

↓呉線の踏切を渡って、さらに進んだその先には造船所を始めとする工場群。


↓そんでそこは、かの戦艦「大和」が産声を上げた場所でもあります。

そのドッグは今でも残っているのですが、どれじゃ?

↓というワケで、大和ミュージアム(常設展示の見学だけなら¥480)に入ります。

せっかく呉に来てここに行かないと、「何で入らなかったの?」といわれなき非難を浴びるのも不本意だし。

やっぱりこれでしょう!→

↓雨降りにもかかわらず、寧ろ雨で他に行くところがないからなのか、かなりの入り。
 



ところで、「大和」と「武蔵」の超ド級戦艦コンビは有名ですが、実はこれらは3姉妹になる予定だったのをご存知でしょうか?
もう一人の姉妹とは「信濃」。
戦艦として建造され始めるも空母に変更され、横須賀から呉への回航中に潮岬沖で沈められてしまう。
しかも、一度の実戦に出ることなく・・・。
ある意味「大和」「武蔵」よりも可哀そうで惨めな運命の軍艦でした。

↓ついでに「大和ミュージアム」の目と鼻の先にある「海上自衛隊呉史料館」へも。
 
愛称は「てつのくじら館」で、入場は無料。
「くじら」を名乗るだけあって、確かにまあ、この潜水艦のデカさには圧倒されますね。

↓ここもなかなかどうして、かなり人気があります。
 

これらを見終えて、最早疲労困憊目一杯、ただただ早く帰りたくなりました。
↓重い足取りでペデストリアンデッキを通って呉駅へと向かい、14時4分発の電車に乗ります。


市街地だけでも他にも、旧呉鎮守府庁舎やアレイからすこじま、大和神社、歴史の見える丘、「千福一杯いかがです♪」のCMで有名な醸造元・三宅本店に行かずに去るのは後ろ髪を引かれる思い。
でもそれ以上に、両城という場所にある超急斜面に張り付いた住宅地とそこにある200階段にはどうしても行きたかったので、これは断腸の思い。
でもでも、それ以上にそれ以上に疲れ果てました・・・。
もっと言うなら、安浦漁港の護岸として使われてるコンクリート船、音戸の瀬戸、大崎下島の御手洗集落へも行ってみたいしで、悩ましすぎるゾ、呉。

広(ひろ)駅で三原行きに乗り換え→
坂・呉・広、なにかと呉線には漢字一文字の駅が多く、おまけに仮名2文字駅はこれらに加え「やの」「あと」があったりする。

↓瀬戸内海を眺めながら東に移動。
 

↓重要伝統的建造物群保存地区に選定されたここの街並みは是非見たいし、


↓相撲取りのような地名のここから出ている船に乗って、うさぎと毒ガスで有名なあの島へも行きたい。

こんなに欲張って果たして両城に辿り着けるんかいな?

↓福山で酒つまみを買い漁って、17時59分発「のぞみ50号」に乗って長旅にやっと終止符を打ちます。
 

 

165日目 ゲリラ豪雨でダイヤが麻痺した呉線

2017-03-02 23:54:30 | 山陽
平成28(2016)年9月18日(日)


まずはローカルネタから。
「さくら野百貨店仙台店」が破産したというニュースを耳にしました。
私が仙台に住んでいた頃は「丸光」と呼ばれ、一番よく利用したデパートでした。
仙台から千葉に引っ越して後に仙台に行ったときに、「ビブレ」やら今の名前に変わっていてビックリしたけど、今回の衝撃度はそれ以上。昨年、せっかく70周年を迎えたばかりだったのに・・・。
「丸光」同様よく入った「藤崎」はこれからもずっと頑張ってくれるよね?
知っているものがなくなるというのはとても寂しい事なので。

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夜行バス泊も入れての4泊5日中国旅もようやく最終日を迎えました。しかも雨で・・・。

これまでは珍しくコウモリの出番はなかったのですが、さぞ羽を伸ばしたくて荷物の中でウズウズしていた事でありましょう、コヤツの祈りはめでたく?通じてしまいました・・・。

さて、雨と言えば、前の晩の猛烈なゲリラ豪雨ですが、かなり凄まじかったようです。
このたっぷりと湛えた泥水でそれは推し量れます→
が、話しはそれに留まりません。
3時間に降った雨量は77.0mmで、それはナント、広島市での9月の観測史上最大を記録したというおまけつき。

さて、予定では8時7分広島発の電車に乗るつもりも、これまでの疲れからか、朝支度がやや緩慢になってチェックアウトが遅れしまい、駅に着いたのは8時45分頃。

手許にある切符の経由地は「広島・新幹線・東京」と表示されていますが、元々新幹線でも在来線の山陽線でもどちらでも乗っていい上に、山陽線と呉線のどちらも可というのは、鉄オタの常識としてはイロハのイのレベル。
そこで、今まで乗ったことのない呉線を経由して東京に帰ります。

さてさて、肝心のダイヤと言いますと・・・。
駅に来て30分後→
ずっと待ちぼうけ、呉へは通せんぼとなっております。
その間、山口県・徳山駅からやって来る8時40分発の普通電車は20分遅れの案内放送があったのですが、結局広島に辿り着いた気配は全くなし。

ようやく呉への表示が灯りました→
8時40分発の事などいつの間にやら忘れ去られ、9時10分発の普通電車が回送されてきましたが突如運休のアナウンス、いきなり9時28分発の快速電車に変身するゴタゴタぶり。
停車する駅に行く人はいいけど、通過する駅が行き先の人はさぞ怒り心頭だよな。

そんなワケで10時少し前に着いた坂駅→

↓坂駅とその周辺。
 
駅から繋がっている歩道橋は「あさがおロード」と呼ばれているのですが、実際は「あさがお」のカケラを微塵も感じさせない橋。

駅周辺は「平成ヶ浜」と呼ばれる地区。
まだそれほど全国的にあまり使われている感じのしない「平成」を使った地名。
そのものズバリは熊本にあって駅もあるけど、近く「平成の世」も終わりそうだし、そうなったら「懐かしき平成」を忘れまじと大いに用いられるのかも知れません。

(620)広島県安芸郡坂町(さかちょう)役場
広島や呉へ近くて利便性は高いけれども、意外に人口は少なく約13,000人。
山が海にせまっているので平地は少ないようで、それが故に「坂」なる地名になったのかな?

町にはいくつかのウォーキングルートが整備されています。
ここは駅南口近くの「頭部(ずぶう)ルート」入口→
コース途中の「みはらし公園」では、その名のとおり広島湾の美しい眺めが一望できるらしのですが、この天気ではね・・・。

この見晴らしで我慢して下さい・・・→

街中をもう少し歩いてはみたかったのですが、ウロウロしていて次のを逃すと呉散策に大打撃となりそうなので、駅でずっと待機して11時ちょっと前に来た電車(元々は10時14分発)に乗ります。

せっかくの瀬戸内海も、つまらん眺めに→

そんなこんなでやっとこさ着いた呉駅→
10時頃の予定が、大幅に遅れた11時20分頃になってしまいました。これは痛い。

ここでもコインロッカーを探すも、広島駅同様少なく、どれもこれもいっぱい。
でもしぶとい執念で、クレストという駅ビルの食料品売り場で空きを探し当てる。
案外食料品売り場の階のロッカーは盲点なのかも知れない。

呉駅舎→

駅前通り→

↓オマエさんの戦闘力でこの雨雲をどかして欲しいものだけど・・・。


(621)広島県呉市役所
明治23(1890)年に海軍鎮守府が置かれてからは、それまでのわびしい漁村が急速に姿を変え、海軍・軍需工業で発展する。
なので、戦前戦中は列車が呉に近づくと軍艦が見えないようにする為、海側の窓の鎧戸を下ろすよう命じられていたのはよく知られたお話し。
現在は23万人ほどが住んでいますが、大東亜戦争中は倍近い40万人もいて、当時としては全国十指に入る都市だったのだという。
戦後は重工業都市として変換する。

昨年4月、日本遺産の認定を受けました→
そもそも「日本遺産」とは何ぞや?、ですが、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として文化庁が認定するもの(文化庁HPより)。
そして呉がどう日本遺産に関わっているかといいますと、他の有名な軍港とタッグを組んでの「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」。

「日本遺産」一覧を見ると、結構たくさんあって、これらだけを巡る旅をしたとしてもかなりのボリュームとなります。
誰かこれに特化したブログを始めてくれないかな?

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→