ゆっくりのんびり市町村廻り

何年かかるか、もしかしたらできないかもしれないけど、日本の全市区町村の制覇を目指して頑張ってみる!

179日目 GW日南海岸ドライブ~サルの島と飫肥の城下町

2017-09-07 23:51:04 | 九州南部
平成29(2017)年5月2日(火)


↓曇ってはいるけど、それなりに美しいリアス式海岸を横目に国道448号線を北上。


↓串間市看板動物のもう一方の雄が生息する島、幸島(こうじま)へ。

その雄とは野生のサル。
サルごときなら大分県の高崎山や長野の地獄谷など日本あちこちで見られるので、大騒ぎするほどの珍しい動物でもないけど、ここのサルのある行動目当てに人が押し寄せます。
世界的に有名にした「イモ洗いをするサル」。
昭和28(1953)年に一匹のサルが、さつま芋の土を落とすために川で洗い始めたのが始まりのようで、他のサルもサル真似(?)するようになり、さらにその下の世代へと受け継がれていったのですが、ある行動が他に伝わって継続することは「文化」であるとされ、昔は人間以外は文化を持たないと考えられていたようです。

来た時は干潮時だったのですが、恐らく満潮時はこう→
最初は、特段サルを見たいわけでもないのですぐにサルつもりでした。
が、駐車場にいた舟漕ぎが商いのおっちゃんと話しをしたのですが、その会話中に「もうすぐ島と砂州(さす)が繋がりそう」「20年ぶりの事だ」なんて言葉を聞く。
それを聞いての私の解釈⇒今日20年ぶりに島と砂州が繋がる!
なんてスゴイ時に来たんだ、それを見ないワケにはいかないじゃん!!

そんなワケですぐさま島に向かう→ 
まだ上陸できる状態にありませぬ。

↓砂州の先には見張りをしている人(赤い矢印で示しています)がいます。

まだ繋がっていないので、見張りの人とも話しをする。
「繋がるのは16年ぶり」
どうやら16年の方が正しかったようです。おっちゃん、正しく覚えようぜ・・・。
しかもその人は18年間串間にいて、たった1回しか見てない現象だという。
「繋がるようになったのはここ3ヶ月くらい」
今日だけの超極上レアな現象というのは私の勝手な思い込みでした・・・。そりゃそうだよな。
でもレアな事には間違いありません。

通常であれば、溜まった砂は台風による波がかっさらってくれるのですが、昨年はいつものコースに台風が来なかったので、砂が溜まってしまったのだという。

「島が繋がるまで待ちますよ!」と私が鼻息荒くその気マンマンに言うと、
「岩は滑りやすいので極力上らないように、との行政から指導が入ってます(笑いながら)」。
指導があるのは本当でしょうけど、島に入って山に入っていく輩を阻止するために見張りがいるのだと思ってました。

見張りがいる真の理由、それは人の侵入阻止ではなく、本土に渡って来ようとしているサルの撃退。
畑を荒らさないようするとか、人に危害が及ばないようにとかなのでしょう。

~駐車場に戻り待つこと30分~
その間、見張りの方曰く、サル1匹が姿を見せたようです

島に上陸→
水溜まりは残っているけど、繋がったということで・・・。

島の上の方→
ちょっとでも姿を見せてくれてもよさそうなものですが・・・。
あれから4ヶ月、まだ地続きは見られるのかな?

思いがけずムダな時間を食ってしまったので、脇目も振らず日南市街地へ。
(659)宮崎県日南市役所
昭和25(1950)年に吾田(あがた)町、油津(あぶらつ)町、飫肥(おび)町、東郷村が合併して市制。
その後昭和30年代にいくつかの町と村を呑み込み、平成の大合併で日南市と2町がくっつき今の日南市となる。
市役所(写真右の建物)は吾田地区にあります。
基幹産業は飫肥杉による林業、カツオ・マグロなどの遠洋漁業などで、観光資源にも恵まれた市。
人口は54,000人ほど、市の面積の約80パーセントが山林。

市役所近くのJR日南駅→
開業当初はもちろん吾田駅。
駅の後ろには製紙工場があり、という事はニオイが酷いのが鉄板なのですが、この日は平日でもGW中だったせいか、辟易せずに済んだのは勿怪の幸い。

駅前の伊東マンショ像→
九州の3大名がローマ教皇に送った、いわゆる天正遣欧少年使節団正使の一人。

慌ただしいですが、6年ぶりに飫肥の町へ。
まず普通は読めないこの地名ですが、何故か桃鉄で物件駅になったので少しは知られる地名となったかな?
かく言う私も桃鉄で飫肥を初めて知ったワケですが・・・。

天正16(1588)年に伊東祐兵が九州平定の功により、豊臣秀吉から城を与えられて以来明治初期までの約280年間、飫肥藩51,000石の城下町として栄え、現在では多くの歴史的建造物の残っているので、昭和52(1977)年に「国の重要伝統的建造物群保存地区」に選定される。

↓まず着くや否や突撃したのは、桃鉄でも物件となっていた「おび天屋」。

食べてみたかった飫肥の名物。美味い! でも、酒のツマミにできないのが辛い。
是非実家でも味わってもらいたかったので、もう一つの飫肥名物・玉子焼き(写真はありませぬ)と共にクール便で送る。

飫肥のシンボル飫肥城・大手門→

↓何はともあれ、この中に入らないと飫肥に来た意味がありません。

が、お城と言ってもああいうお城があるワケではないです。

↓城内には小学校がありまして、元気な児童のそばを観光客がゾロゾロ歩きます。


武家屋敷通り→

↓小村寿太郎さんとは、日露戦争後に開かれたポ-ツマス講和会議の日本全権。


↓寿太郎さんのお生まれになった場所は、写真右の所(まっすぐ進むと大手門)。


↓適当にブラブラした後て油津へ向かいます。
 
小京都・飫肥と称されているようですが、あまり京都っぽくないんだな、これが・・・。

6年前はここから歩いて飫肥の市街地に行きました→

 



カッコしてあるのはこれまで行った所→


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