ゆっくりのんびり市町村廻り

何年かかるか、もしかしたらできないかもしれないけど、日本の全市区町村の制覇を目指して頑張ってみる!

62日目 真夏の関西めぐり(6)~堺

2013-11-30 23:40:38 | 近畿(大阪・兵庫)
2013年8月24日(土)


前回に引き続いて、堺市巡りにもう一回お付き合い下さいませ。

堺市役所の展望ロビーから見た「仁徳天皇陵」、かねがね周囲を歩いてみたかったので、ようやく長年の念願を果たす機会がやって参りました。

ですが、展望ロビーで思わぬ時間を食ったので、今回は西側だけ。
展望ロビーのガイドのおっさん(以下、おっさんとします)が、市の博物館も行きな、というのでそこの展示物も見てみたいし。

御陵の北側→
全然見えませんが、この濠の内側にさらに2つの濠があり、つまり三重の濠に囲まれた御陵でございます。なんて豪勢なんだろう。

ここで軽く仁徳天皇陵について。
エジプト・クフ王ピラミッド、支那・秦の始皇帝陵と並んで世界三大墳墓の一つ。
体積こそ、その2つに劣りますが面積は一番大きく、最大の長さは840メートル、最大幅654メートル。

↓ひたすら濠に沿って歩きます
←これだな、おっさんの言っていたホテルとは。



磐之媛命(いわれのひめみこと)万葉歌碑→
磐之媛命とは仁徳天皇の御妃さま。

南側の御陵通り→

拝所→
思わず一礼してしまう、それくらい厳かな雰囲気の場所。
でも、おっさんは「最近の若者はここがなんだか分からんようで、拝所でピースとやって写真を撮るだけで、さっさと行ってまうんや」と、それはそれは大変なお嘆きよう。
そりゃそうだよな~、世が世なら不敬罪でブタ箱まっしぐらだもんな。

それはともかく、伊勢神宮とか富士山とか日本人なら一度は行かないといけないと言われる所はたくさんありますが、この仁徳天皇陵もその一つなんじゃないかな、と思っております。

サギが門番してくれているかのよう→

御陵の東南端→

↓御陵通りを挟んで、御陵の真向かいにある大仙公園


園内の「平和の塔」→
お、これは御陵を見るのに丁度いいものが建っているじゃん!、と思いきや、とんでもない、これは戦没者の方の慰霊塔なのでありまして・・・。

堺市博物館→
堺市の歴史や文化などを学習できます。
館内は撮影禁止(許可を取れば大丈夫なのですが、手続きが面倒なのでやめた)なので、展示品の写真はありません。

百舌鳥(もず)駅→
時間にしてもう13時すぎ、ここからJR阪和線で南下します。

ところで、阪和線や南海電鉄が仁徳天皇陵のすぐそばを通るのですが、いずれも地面よりも低い所に線路が敷かれています。
これは元々そういう地形だった訳ではなく、わざわざ掘ったといいます。
つまり、「畏れ多くも御陵よりも上を走ってはいかん」という事らしい。

2つの町を訪問(それは次回)して後、再び堺に足を踏み入れます。

鳳駅で下車→

駅の近くにある大鳥大社→

境内→
右端の像は、空海和尚と並んで全国各地に超人的な伝説を残す日本武尊(やまとたけるのみこと)、その人。

拝殿だったかな?→

〔22〕大阪府堺市西区役所

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62日目 真夏の関西めぐり(5)~堺

2013-11-27 23:42:56 | 近畿(大阪・兵庫)
2013年8月24日(土)


前日より宿泊している堺市は、中世には自治が発達して環濠都市となり、「東洋のベニス」と言われるほど栄えた町で、他には古墳群もあることでも知られています。
が、なぜか私はこれまで町を歩く機会が全く無く、それどころか通り過ぎたのですら数えるほどしかないので、どんな佇まいをした町なのか非常に楽しみであります。

ところが、昨日の疲れからか、大寝坊をこいてしまう・・・。
「旧堺燈台」という日本最古木造洋式燈台を見てみたかったのですが、これは次回来る時にと、あきらめる。

フェニックス通り→
日本の道100選の一つ。

阪堺(はんかい)電気軌道の宿院(しゅくいん)停留場→

千利休屋敷跡→
千利休とは、わび茶を完成させた人。
このビルの合間にポツンとあるさまは、まさに「わび」しい。
織田信長や豊臣秀吉に仕えたものの、武士でもないのに、秀吉に切腹を命じられたお気の毒な方。せめて別の方法での処罰はなかったのかねぇと思うんですが・・・

↓大道筋(旧紀州街道)沿いにある「与謝野晶子生家跡」
 
去年の衆議院解散の時に政界を引退した与謝野さんは、与謝野晶子のお孫さん。
日露戦争中に「君死にたまふことなかれ」を歌い、批判の矢面に立たされてしまう。

紀州街道であったことを示す石碑→

↓上の交差点を右に折れ、竹内街道を内陸に向かって歩きます


反対の声は果たして届くのか?!→
9月29日に市長選が行われ、堺市民は橋下さんにNOを突きつける結果となりました。
かつてのあの勢いは、今いずこ・・・。

阪神高速15号線を越えると市役所→

市役所前の通り→

(314)大阪府堺市役所
デカいです、いや~高い。
これほど高い役所、他にあったっけ?と思うくらい。
堺市は長いこと人口80万人前後を有しながら、なかなかそれ以上伸びず、以前は仙台市・千葉市と共に政令指定都市を目指す仲であったのに、堺市だけが一人取り残される有様。
「平成の大合併」による政令指定都市要件の緩和という神風が吹いて、美原町との合併の後、平成18(2006)年、晴れてその仲間入りを果たしました。
さぞ、市の関係者は感無量であったろう。
人口が伸び悩んだ最大の理由は、地盤が弱いらしく、引っ越して来てもすぐに出て行ってしまうかららしいです。

ここの最上階である21階は展望ロビーとなっており、あいにくの天気ですが、登ってみましょう。

ロビーで町を眺めているとガイドをやっているおっさんがやって来て、横からあれやこれやガイドし始める。
どうもこのおっさん、話しをしたくてしたくてウズウズしていたようで、仕方ない、少し付き合うか・・・とガイドを聞いていたら、なかなか切りのいい時がなく、結局1時間も消費するハメになってしまいました。

↓内側の壁
 

北側(大阪市の方向)→
頭一つ飛び出ている建物は日本一高いビル「あべのハルカス」

西側(海側)→
通ってきた竹内街道(写真中央を縦に走る道路)は、和泉国と摂津国の境だという。
だから、ここは「堺」。

南側→
中央の森は「大仙陵(だいせんりょう)古墳」。
聞いた事ないな~、と思った方、アンタは古い!(笑)
最近の教科書ではこう教えるこの古墳は、昔風に言えば、最大の前方後円墳である、かの「仁徳天皇陵」。
おっさんに正式名称を知っとるかと問われ、「確か、耳原なんとかかんとか、だったよな~」と考えていたら、「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」でありました。
でも、やっぱり「仁徳天皇陵」の方がしっくりくるわ(私も古い人間でございます・苦笑

堺の百舌鳥古墳群と、少し離れた羽曳野(はびきの)市・藤井寺市の古市(ふるいち)古墳群を併せて、世界遺産登録を目指そうとする動きがあります。
ところがおっさんは「今は無理や」という。
なぜか。その古墳群のキモとなる「仁徳天皇陵」のそばに○○ホテルがあるというのだ。
最近はどこぞの圧力があったかどうかは知りませんが、かなりその数を減らしたというものの、やっぱりそれじゃまずかろうな。

新たな悲願や、いかに?→

〔21〕大阪府堺市堺区役所
市役所に寄り添うようにぴったりとくっついて建っています。

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61日目 真夏の関西めぐり(4)~片町線沿線

2013-11-24 23:28:15 | 近畿(大阪・兵庫)
2013年8月23日(金)


落ち着かない旅はまだ続きます(大都市圏に来ているのだから仕方ない)。
大阪府に入り、四條畷(しじょうなわて)市→大東(だいとう)市の順に廻る予定だったのですが、電車の中でウツラウツラやってしまい、目が覚めたら大東市中心部の住道(すみのどう)駅に来てしまった・・・。
なので、先に大東市を片付けます。

↓住道駅北口



街灯の下にあるピグモンみたいなの、正面から撮ってしまったのでこのような写りになっていますが、これ、ライオンなのです。しかも口から水を噴くもの。

駅を背にして撮影→
なかなかインパクトのある、人が両手両足を広げた?形をした時計塔ですな。

駅前はペデストリアンデッキになっています。
ただ、ここのは目の前の川を跨いでいるという珍しいもの。

↓上流側
 
左の寝屋川が右の恩智川と合流し、大阪城の北側で旧淀川に呑みこまれます。

ペデストリアンデッキから眺めた駅前ロータリー→

駅前商店街をまっすぐ歩いて、府道8号線との交差点を右に歩き、寝屋川を渡って左に行くと市役所があります。

商店街にあったオシャレな自販機→

(312)大阪府大東市役所
大東という名前は大阪の東にあるからというみたいです。
ここは妙に多くのプロ野球選手を輩出していて、現役でも西武・おかわりとか阪神・西岡とかいます。
という事は、甲子園で超強豪校として鳴らしたあの大阪桐蔭高校があるのが、ここ大東市であります。

↓行きとは違う道で住道駅へ。






続いて、四条畷駅へ。

四条畷駅西口→
四条畷駅自体は大東市にありますが、ちょっと歩くと四條畷市に入ります。
ところで、「じょう」の部分は駅は「条」で、市名は「條」となっています。
自治体名と駅名の表記や音が違うのは、結構あちこちで見受けられます。

↓商店街
 

↓小楠公御墓所(しょうなんこうごぼしょ)







小楠公とは楠木正行(くすのきまさつら)のことで、案内板にあるように、この場所で戦死したといいます。
去年の10月に同じ大阪府の島本町へ行った際、島本駅前に「楠公父子訣別の所」がありましたが、子にあたる人。大楠公とは勿論、楠木正成(くすのきまさしげ)。

何の取材でござろうかな?→

こちらは役所近くの遺跡調査の現場、何の遺跡かな?→

(313)大阪府四條畷市役所

やれやれ、疲れた、疲れた・・・
やっとこの日の予定していた市区町村訪問はこれで全部終了、宿泊地の堺市に行きます。

南海電鉄・堺駅→

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61日目 真夏の関西めぐり(3)~片町線沿線

2013-11-17 23:20:00 | 近畿(滋賀・京都)
2013年8月23日(金)


↓祝園(ほうその)駅からわずか10分、4つ先の駅、京田辺駅へ。

乗っては降り、乗っては降りと、ホント、落ち着く暇がないですよ(泣)

駅を降りるとこんな小坊主がお出迎え→
箒を持った小坊主、ん?どこかで見覚えがあるでしょう。
そう、テレビ番組で、とんちで有名な・・・


ここ京田辺市には一休さんのゆかりのお寺「酬恩庵(しゅうおんあん)」があります。
酬恩庵は一休禅師が晩年を過ごし、ここで亡くなったので、「一休寺」とも呼ばれています。このお寺さんは宗派は臨済宗で、鎌倉時代に建立されたとされています。

まずはその一休さんに会いに行きます。

↓駅前の道路をまっすぐ歩いて、突き当りを右に折れます。




ここを左に→

多くの電柱にこういうのが貼ってあります→
全部写すと大変なので、これしか撮影していません。

酬恩庵の駐車場→
がら~ん。
広い敷地で、左には喫茶店もあるのですが、観光客らしきは誰一人としておらず・・・。

↓お殿様、「屏風のトラ」を追い出して下さい。拙者が捕まえてご覧にいれます、というヤツ。


総門と参道→

一休さんの墓所→

鐘楼→

本堂→

↓虎丘庵



一休さんが住んでいた所。

↓一休さんの木像
 


枯山水が心を和ませてくれます。
一休さんが見ていたのと同じ風景を見ているとは感慨深いものですね~。
しばし縁側に座ってボーッっと。
慌てない、慌てない、一休み、一休み・・・
という訳にはいかず、少し休んでまたテクテク歩き。

山手幹線→
一休寺そばを通る道路で、役所の近くまで通じています。

(311)京都府京田辺市役所
人口約7万人、奈良や大阪などのベッドタウン的な都市。

↓一休寺に向かう途中にも同じようなものがありました(上から5番目の写真で、駐停車禁止の看板の上にチラリと見えます)が、これ何だろうと思いつつ、眺めるだけで通りすぎる。

いわゆる天井川。
この川がJRの線路を跨ぐ際は「みつまんぼ」と呼ばれる赤レンガの橋で、それはそれはなかなか見事なんだそう。
電車の中からはその橋に気付かなかったし、ここからそう遠くない所にあるにもかかわらず見そびれました、シマッタ!

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61日目 真夏の関西めぐり(2)~片町線沿線

2013-11-10 01:01:01 | 近畿(滋賀・京都)
2013年8月23日(金)


さらに南下し、木津駅へ→

西口→

ホームの上に改札口があります。
はて?こんな駅だったっけ??
ずいぶん昔に一度降りた事がある駅なのですが、その時は確か地下の通路を歩いて、そのまま駅の外へ出たような気がするんだけど・・・
記憶違いかな?
JR関西線・奈良線・片町線が一挙に集まる要衝駅ですが、この反対側は田舎の長閑な風景であるのは昔も今も変わっていない感じ。

駅前の通りを真っ直ぐ歩けば市役所があります。

(309)京都府木津川市役所
平成19(2007)年に木津町・加茂町・山城町が合併してできた市で、この木津地区には、かつて木材の集積港があったといいます。だから木津。

東にある加茂地区は、一時、都(恭仁京・くにきょう)だった時期もありました。
といってもわずか3年間しか首都ではなかったのですが。
「3年間しか」という事は、そうです、かの有名な遷都大好き聖武天皇の頃のお話しです。
聖武天皇、名前はカッコいいけど、遷都を繰り返したり、盧舎那仏(るしゃなぶつ、奈良の大仏の事です)建立を言い出したり、ホント人迷惑な天子様ですな~。

ちょいとばかり町を歩いてみましょう。

↓歴史を感じさせる街並みです。





が、伝統的建造物群保存地区とするまでのものの価値ではないらしい。

↓和泉式部の墓
 
なに寺といったかな?、とにかくお寺さんの中にあります。

このお寺さんの奥にあります→
紫式部に「和泉はけしからぬ方こそあれ」と非難されたにもかかわらず、案内板にもあるようにあちらこちらにお墓を造ってもらった伝説の多い歌人。
スキャンダルめいたことばかりしていたらしいとは言え、才色兼備の人はやっぱり得ですな~。
ところで、和泉式部といい、紫式部といい本名は何だったのでしょうかね?私が小さい頃から気になっている事であります。

天王神社→

↓木津惣墓五輪塔
 
高さ3.47メートル、正応5(1292)年に建立。
惣墓とは、共同墓地的意味らしいです。
かなり巨大で、けっこう存在感あり。

木津駅より、11時58分発塚口行きの電車に乗り、僅か7分乗っただけで祝園(ほうその)駅に下車。

駅前通り、奥に見えるのが駅→

何で祝園という変わった地名がついているのか、以前から興味があったのですが、この際調べてみました。

地名の由来は「日本書紀」に遡ります。
第10代・崇神(すじん)天皇が謀反を起こした者を打ち負かし、死体であふれたかえった地を「羽振苑(はふりその)」と命名したことによるらしい。
「はふり」はきっと「屠(ほふ)る」からなのでしょう。
それがだ、「羽振」とか「祝」とかといった縁起のいい字が当てられているという事は、崇神天皇はよほど謀反者が憎かったんだね。

(310)京都府相楽(そうらく)郡精華(せいか)町(ちょう)役場

ここは特に見るところはないので、裏通りをブラブラして、はい次へ行こう。




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