ゆっくりのんびり市町村廻り

何年かかるか、もしかしたらできないかもしれないけど、日本の全市区町村の制覇を目指して頑張ってみる!

170日目 大阪駅の南側、中之島を歩く

2017-04-28 23:49:28 | 近畿(大阪・兵庫)
平成28(2016)年12月29日(木)


前々編の終わりの方で、千葉駅にも「祭」がやってきました云々と書きましたが、確かに「祭」っぽいお店があるのは間違いないのですが、一昨日よく見たら屋号は「踊」でした。お詫びして訂正します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

福島駅を出るやビックリする→
いきなり真ん前に線路があって轟音を立てて電車が駆け抜ける。
これは迫力ある!というか、威圧感ありすぎ。
それにしても西日本には、こんなのっぺらぼうな電車が多いのは気のせい?

福島駅近くで外せない名所?がこれ→
ビルを貫く道路。ここに突っ込んでいく感覚とはどんなものなのか、一度この道路を走ってみたいものです。

以上は福島区で、次に歩くのは北区。
ビルをまっすぐ南に歩くと川に出ます。
堂島川→
左が大阪駅側で、右は中学校地理教科書の「近畿地方編」にお決まりのように写真が載っていた中之島。

中之島は堂島川と土佐堀川に囲まれた中州で、北岸側のビジネス街と南岸側の金融街と一体をなす大阪の経済・文化の中心地。
また、周辺にはレトロな建物が多く残っているのも特徴。
という事で、この中之島をひたすら東に歩きつつ、建物などをいくつか取り上げていきます。

錦橋→
昭和6(1931)年に架けられる。「橋」と名付けられていますが、元は可動堰。

住友ビルディング→
北側半分は大正15(1926)年、南側は昭和5(1930)年に竣工。
堂々と佇み貫禄を感じる建物で、現在は三井住友銀行大阪本店。
東京に本店があるのだけど、ここも何故か本店。
この建物周辺には住友系のビルが立ち並んでいるので、通称「住友村」というようです。

明治36(1903)年築の日本銀行大阪支店旧館→
真ん中のドーム型屋根と三角屋根(ほぼ見えておりませぬが・・・)が特徴の、ベルギー国立銀行をモデルにしたネオ・ルネサンス形式と言われる建築様式。

日銀の反対側にあるものがコレ。

(632)大阪府大阪市役所
ご存知、大阪府や近畿のみならず、西日本の政治・経済・文化の中心都市で、日本で2番目に多い人口を抱えている市。
日本書紀には「烏瑳箇(おさか)」と表記され、和銅7(714)年の地名二文字化で「小坂」となり、室町時代の蓮如によって「大坂」とされ、明治期に現在の表し方になる。

いわゆる大化の改新後に長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)が置かれ、日本の首都だった事もありました。わずか9年でしたけど。
遺構は発見されていませんが、仁徳天皇の時代にも「難波高津宮」が置かれたらしいです。

市役所・日銀のあるこの御堂筋「淀屋橋北詰」交差点を南に見る→
はるか遠くズラリ赤信号はなかなか壮観。
昭和10年に完成の淀屋橋は、江戸時代の豪商・淀屋さんが架けたのに始まり、それが由来の橋。

大阪市中央公会堂(大正7年竣工)→
どこかで見たことのある建物だよな~と思ったけど、設計者を知って合点がいきました。
辰野金吾さん、そう、東京駅を設計したあのお方。因みに日本銀行大阪支店旧館もそうなんだとか。

一度これに乗って、川面から大阪を眺めてみたい→
西方向に進む水上バス・アクアライナーです。

難波橋→
古くは奈良時代に行基が架けたとされ、現在の本体は昭和50年に架け替えられたもの。
橋の両詰には狛獅子というか、狛ライオンがあるので「ライオン橋」と呼ばれているのですが、何をボーッとしていたのか、その肝心のライオンを撮り損ねてしまう。
というか橋詰さえ見た記憶が全くないので(勿論ライオンも)、その時に限って足以外の部分は完璧に幽体離脱して夢遊病者が如き状態になってしまっていたようです。
一応かすかに写ってはいますけどね・・・。

中之島の東側突先には噴水があります→
毎時00分と30分に水が噴き出すので、あと5分待ったらその時間だったのでしたが、じっとしていられない性格が災いして天神橋を渡って北の方へ歩いてしまいました。

天神橋筋商店街の南端部→
ここには蓋はありませんが、この先一直線のアーケードに覆われた商店街となり、その長さ2.6kmは日本一。
あれっ?、以前、高松のアーケードを紹介した時に、ここが日本一と書いたような気がしたな・・・。
ウソを書くのはイカンのでWikipediaを拝見すると、「分岐を含まない連続的に連なったアーケードでの日本一は大阪府大阪市の天神橋筋商店街」なんだとか。
もっとも「完全に連続したものとしては長崎県佐世保市の三ヶ町商店街~四ヶ町商店街の約1kmが最長」ともあったけど。

再び川沿いに戻ります。
旧淀川である大川右岸側の毛馬(けま)桜之宮公園→
左には「桜の通り抜け」で知られる造幣局。
この道も桜並木となっているので、ちょっと前はさぞ大賑わいだったことでしょう。
私が訪れたこの年末にはブルーシートに覆われたホームレスの家が軒を連ね、多くのホームレスで賑わっていましたけど。

桜宮(さくらのみや)橋と新桜宮橋→
この上を走るのは国道1号線。
手前の橋が桜宮橋(昭和5年完成)で、鋼板が銀色なので「銀橋」とも呼ばれているようです。
奥は平成18年に完成の新桜宮橋で、左の茶色い建物は階段塔。

川を渡ると都島区。
関東の人なら「としまく」と呼んでしまいそうですが、「みやこじまく」です。
〔51〕大阪府大阪市都島区役所

↓こんな時間ですらネオンでキラキラ怪しい建物が居並ぶ街を通り抜け、人でごった返す京橋駅へ。
 

とても楽しかった大阪レトロ建築物巡り。今度は本腰を入れて見て廻りたいものです。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

169・170日目 年末は関西へ、まずは大阪市巡り

2017-04-22 23:43:43 | 近畿(大阪・兵庫)
平成28(2016)年12月28日(水)・29日(木)


関東の桜はすっかり散ってしまい、ゴールデンウイークを目前にしてようやく年末年始旅に辿り着きました。
昨年4か月間ブログをサボったツケがあまりにデカすぎでしたな・・・。
今回は年末の3日間は関西、正月1日だけ東海の計4日間旅始末記です。

↓激烈なる争奪戦?を勝ち抜いてもぎ取った指定券を片手に「快速・ムーンライトながら」東京駅23時10分発で西へ。

使う切符はもちろん財布に優しい期間限定発売のアレです。
それを買ったのは平成26年の夏以来久し振り。

用意周到、新たなドラマ押しの浜松駅にて→
この時は開始前だったけど、今となってはもう既に3分の1を消化してしまったんだよな~。
正直、見たり見なかったり見なかったり見なかったりで、今現在どのような展開になっているのかすら分かっていない状況。

↓長い時間浜松で停車するので「ちょっとコンビニに買いたいものがありまして・・・」と言って外に出させてもらう。

本来、改札を出たら指定券は無効になるのですが、そこは駅員さん黙認のご慈悲。
3時だというのに驚きのタクシー待ちの長蛇の列。
仕事納めでついついという人達なのでしょう。

翌朝8時頃、大阪駅に到着→
これまで個人的には大阪市内は素通りばかりで、知られた名所の、そのほとんどへは行った事がありません。
加えて「ゆっくりのんびり旅」では、これまで5つの区はクリアしているものの、どこかテキトーな感じだったので、市内(一部ですけど)巡りにこの日1日を費やすつもりでおります。

↓荷物をロッカーに入れ、駅の立ち食いうどん屋で「鶏天うどん」をかき込んでからJR大阪環状線内回りに乗って西九条駅へ。

ここを起点にまずは此花(このはな)区を散策します。

駅から南300m程歩きますと、こんなハコが姿を現します→
ハコの向こうには安治川(あじがわ) が流れていて、行く手を阻んでおります。
ここはそれまでの「源兵衛渡船」という対岸への渡し船に代わって昭和19(1944)年に完成した、人と車が通れる全長81mの安治川隧道出入り口。

↓右側のエレベーターで下に降りれば(階段もあるので、それでも下へ降りられます)、隧道で対岸の港区へ行けます。

一日中通れる事ができ、向こう側には「源兵衛渡船」という交差点があります。
狭く薄暗いので、日が昇っている時間帯はともかく、夜になれば一気に危険なカオリがプンプンな隧道。

左側にも2つの扉っぽいのがありますが、ここが車の出入り口。
ただし、現在では閉鎖されております。

↓隧道から西へ向かいますと、大阪駅から僅か4km程の位置にして普通に郊外っぽい光景。

右の建物は、近年徐々に増えてきている中高一貫の公立校で、長ったらしく変わった感じの校名→
これに関しては後で触れる事にします。

六軒家川(ろっけんやがわ)を下流方向に見る→
走っている電車はJR桜島線(ゆめ咲線)。
ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)へ行く時に乗るあの路線。

上流方向を歩いて朝日橋の近くに来ると、こんな石碑がありました→
この碑については区のHPに詳細に載っているのでそちらをご覧戴くとして、ここでこれを取り上げたワケは、この碑文を書いた人について触れかったから。
マスコミによくお出ましの、大阪市長・大阪府知事を務めたあの超有名弁護士の書。
さすがに口はとっても達者。けれども、字はお世辞にもうまいとは言えないね。

阪神電鉄・千鳥橋駅近くのアーケード商店街→
いよいよ正月!という雰囲気は・・・全くないし。

〔50〕大阪府大阪市此花区役所
これも区のHPに書かれていますが、区名の由来として大正14(1925)年に新たな区が設置される際に、渡来人・王仁(わに)が詠んだとされる難波津の歌「難波津に咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」によると。
先の学校もここから引用したんですね。
臨海部に市内随一の重化学工業地域を形成して発展。

公園建設のため暗渠化工事中の正蓮寺川→

↓川の上はまだ橋っぽい姿を留めていますが、いずれ「ここ橋だったの?」なんて状態になるんだろうな。


淀川左岸側に、一見漁港らしき港を見つけました→
で、実際に漁港なのでありまして、「大阪市漁業協同組合」の建物も見えます。
何とビックリ、大阪市内に漁港があったりする
伝法(でんぽう)漁港というそうです。

↓桜島線・安治川口駅まで歩いて、そこからUSJへ行く人達でごった返して騒々しい電車に乗って終点の桜島駅へ。


↓対岸は、日本で2番目に低い山とされている築山の天保山や世界最大級のでっかさを誇る超ド級水族館・海遊館がある一帯。

無料の大阪市営渡し船があってそちらへ行けるのですが、それに乗るのは今度天保山に行く時までの楽しみに取っておきます。

ほんのちょびっとUSJ→
以前、同級生が経営する会社の社員旅行に拉致された付き合った事をこのブログで書いたことがある(最初2回目)のですが、その同級生はGW明けて早いうちに社員旅行としてUSJ遠征を企んでおりまして、私も当然?誘われました。
なのですが、そこには1度も入ったことはないけど、そもそも興味がこれっぽっちもなく目下断固拒否しているところ。果たしてどうなることやら?

大阪駅方面に戻って、その一つ手前の福島駅で降ります→
何を獲物としているのかは知りませんが、ホームの端っこに群がる鉄の塊には笑えてしまいました。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

168日目 人のいない旧宿場町・二本松と矢吹の商店街

2017-04-20 22:46:50 | 南東北
平成28(2016)年10月11日(火)


バスで再び二本松駅に戻ってきましたが、せっかくなので、かつては旧奥州街道の宿場町でもあった駅チカ市街地をブラブラしてみます。
↓戊辰戦争で灰燼に帰してしまいましたが、町割りはその当時と変わりません。


↓日本三大提灯祭りの一つらしい「二本松提灯祭り」とはこんな感じなのね。

3日間開催されますが、何故だか初日にクライマックスを迎えるのだとか。

旧奥州街道のメイン通り商店街→
平日だからなのか分からないけどかなり苦戦気味。

中でもこの仕舞屋が非常に気になりました→
これまでそれなりの数の廃墟も観察してきた私にとってピンときたものがありまして、早速このウラへの侵入を試みます。
するとどうでしょう。

まさに大当たり!
 
そこは過疎の山村によく見られる打ち捨てられたボロ家のパラダイス。
趣味悪いですけど、こういうものを見ていると妙に興奮してくる私は神経がおかしいのでしょうか?

別の仕舞屋ですけど、戸が開いていたので思わず撮ってしまった写真→
文具屋さんですかね、奥に掲げられている右から読みの「ライトインキ」の額がいい味出していて、それを盗んでいきたい衝動にかられる。

太鼓屋さん→
このご時世、太鼓でメシを食っていけるのか気になります。

↓そこで副業?なのかもしれませんが、これらが糊口の足しになるように全く見えません。

好き放題言ってばかりでスミマセン。是非何とか「和」の伝統を守り抜いて欲しいものです。

そんなこんなで商店街が意外にも楽しかった二本松を去り南に反転、その途中、寄り道したのが矢吹町(やぶきまち)。
降りた矢吹駅の自由通路→
矢吹町は日本三大開拓地の一つ。
日本三大開拓地とは、戦後の大規模国営開拓事業が大成功したとされる三か所の開拓地。
他には青森県十和田市、宮崎県川南町があります。

因みにこの垂れ幕のド真ん中に立って右腕を高らかに上げている御仁は、この町出身で「絶好調~~っ!」のフレーズで有名だった野球選手(横浜市を本拠地にする某球団の監督でもあった)。

駅の東口(左)と西口(右)→ 
丸い部分は飛び出ていて展望台?になっておりまして、1個だけだと巨大望遠鏡か戦艦の大砲程度にしか見えないのですが、2個並ぶとアラ不思議!、蚊やトンボ、或いは宇宙人になってしまいました(笑)。

東口から伸びる「四季のプロムナード」の路面には、鉄道に関するパネルがいくつか埋め込まれています。
私が仙台に住んでいる頃、東京への行き来によく乗った特急→
あの頃は上野までがっつり4時間余りかかりましたからね、そのお蔭で?忍耐力が備わりました(苦笑)。

始期は1982年だけどな~→
ウソはいかんな、ウソは。

新幹線開業前後でもよく見られた超オンボロ客車列車→
デッキなんかはドアもなく吹き抜け状態で、うっかりすると走行中線路に真っ逆さま。
こんな怖いの、よく乗っていたのぉ。
クッション性が全くなく、振動がモロ伝わってくる硬い木のバリバリ座席が懐かしい。

(631)福島県西白河郡矢吹町役場
源義家の奥州征伐時に、八幡社を造営し屋根を矢柄で葺いたため「矢葺」の地名が起こったという。
「日本三大開拓地」らしく農地が町の面積の半分以上を占めており、平成29年3月1日現在の人口は17,300人。

「あゆり祭」とは何ぞや?→
10月1日~11月30日までの長~い期間開催される矢吹町民による文化祭。
町の北部にあって住民に恩恵をもたらしてきた「大池」が昔、「あゆり沼」と呼ばれたことに因んだものらしい。
おまけにその「大池」には、我らが千葉市から譲り受けた約2000年前の古代ハスで知られるオオガハス(千葉市の花でもある)が生育しているのだと。
ひょんなことで縁を感じた矢吹町。
 
駅西側が町の中心商店街となっております→
矢吹も旧奥州街道の宿場で、この通りがまさにそれ。

贅沢すぎる立派すぎる町営団地→
すぐにここに移住したい!タダで住めるのなら。

町のマスコットキャラクター→

↓地方のおもちゃ屋にはよく飾られているんだよなあ、ヒーローものの人形。


東日本大震災で被害を受けた修復中の「大正ロマンの館」→
昨年11月30日(水)にめでたくオープン!したそうです。

↓宿場の名残りを留める建物を期待して来てみたワケですが、目ぼしいものはこんな程度しかなく残念。
 

↓郡山のホテルで見ていたテレビ番組でたまたま絶賛紹介されていたので、食べてみたくなった郡山駅弁(¥900)。

東京駅の駅弁屋「祭」でも売られているそうですが、あっという間に完売してしまうのだという。
「祭」にはよく行くにもかかわらず全く気が付きませんでしたが、そういう理由だったのね。
それだけの超人気駅弁、酒のつまみにもなかなかよかったわ。
千葉駅にも「祭」がやってきましたが、そこにも置いてくれないかな?

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

168日目 長丁場の宴を迎えた二本松

2017-04-18 23:59:01 | 南東北
平成28(2016)年10月11日(火)


本宮市の次に向かいしは、北隣りにある二本松市。

残念ながら毎年10月4~6日に開催される「二本松提灯祭り」は終わったばかり。
さぞ祭りの後の虚しさで満ち溢れているものだと思いきや、そんなことでおとなしくなる二本松市ではありません。
↓間、髪を入れず前日より「第62回菊の祭典 二本松の菊人形」が絶賛開催されたばかり。

これは11月23日までのロングラン。この2ヶ月間でどれくらいのお金が落とされるんだろ?

さて、疲れているのもあってチャリを借りようと、ここに声をかける→
当然借りられるものと余裕をかましていたのですが、思いもよらぬ言葉にクラクラする。
すみませ~~ん、全部出払っちゃいましてねえ・・・(汗)

菊へ向かいそうな人はそれなりにいたけど、この日は普通に平日。たいした数ではない。
だけど、10時半頃にノコノコやってくるのはあまりにも舐めすぎか。

本宮ではなく最初にここに来るべきでしたが、仕方ない、かくなる上は極めて原始的移動手段を使わざるを得ません。
その代わり行くつもりだった「智恵子記念館」はバッサリ切る事に・・・。

駅前の文化ホール→
ここで密かに楽しみにしていたものがあったのですが・・・。

よくあるパターン→
とことんツキに見放されております。

気を取り直して、まずは線路越えて駅の南側へ。えっちらおっちら坂道を上ると市役所。

(630)福島県二本松市役所
その名のとおり、「二本の松」に由来したと思われる地名ですが、日本辞典の中の「地名由来辞典」によると、『昔、山王寺山にあったとされる「鶴松」と「亀松」の二本の霊松に由来か』らしいです。
室町時代からの城下町と、意外にも歴史のある町で、戊辰戦争の際は町は焼けてしまう。
現在は約56,000人が住む市。

役所のある辺りはかなり縁起のいい地名→
でも市の財政力はぱっとせず、県内でも59市町村中第22位(平成23年度)。

さあ、これから坂を下りて市街地を通り抜けて菊会場である二本松城へ→
役場とお城の距離は直線にして1.2~1.3km程度なのだけど、途中、意地悪く山が立ちはだかっており、先行きが思いやられます。

とりあえず適当に歩いて行くと、やがて鮮やかな赤に映えるお寺さんに来る。
だけど、目の前は山が行く手を阻んでいて、あたかも通せんぼ。
横には山を上る階段があるのだけど、「そこからお城に行けるんかなあ」と困っていたら、実にナイスタイミングで寺主さんらしきが用事先から車で帰ってきたではないか!
しんどい思いをしていたのを神様、いやいや仏様は見ていてくれたようです、ツキを取り戻したか?

↓「階段を上って、ああ行って、こう行って・・・」と教えてもらったその階段を登る途中。


やれやれ、ようやくお城が見えてきました→

日本100名城の一つ、二本松城→
別名は霞々城(かすみがじょう)といい、応永21(1414)年に畠山満泰により築かれたお城。
戊辰戦争であえなく落城してしまう。

二本松少年隊群像→
「少年隊」だからと言って、ご当地アイドルグループではありませぬ。

戊辰戦争時、迫る新政府軍と相対すべく、出陣を志願した数え13~17歳までの少年達62名で構成され、うち14名が戦死してしまう。
一方で、同じ少年兵でも有名な会津の「白虎隊」に比べるとほとんど知られていないのが哀しい。
像は激戦地・大壇口での奮戦姿と、出陣服を仕立てる母の姿だそう。

お城の一部を間借りした会場でございますが・・・→
菊はちっとも咲いておりませぬ。

でもメインは祭り名にもあるように菊人形。
こんな感じでたくさんの人形が突っ立ております→
罰で立たされている感じのお偉い方。

↓八重さん人形よりも津田梅子さん人形の方が、大河ドラマ「八重の桜」で八重さんを演じた女優に似ている気がする。


真ん中のお人形さんはモノホンの人間かと見間違えるくらい→
私のお好みの顔立ちに仕立ててくれた本名はナゾの紫式部でございます。

首のない少年隊→
見れば見るほど不気味。

菊を羽織らせてくれなかった人形→
目をいきなりかっぴらいて怪光線を発するビックリ人形だったら面白いんだけどね。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

168日目 ほんとの空を見に来たというのに

2017-04-10 23:58:25 | 南東北
平成28(2016)年10月11日(火)


郡山から東北線を北に進むことからこの日はスタート!
早速、安達太良山と(右)と和尚山(左)が姿を現します→
むかーしむかし、智恵子さんという方がいしゃっらいまして、曰く、この山の上がほんとの空らしい。
そして、私が普段見ている千葉、というか広い意味での東京の空はほんとではないと真向全否定される。
ホンモノを見に来たというに、雲がかっていてお天道様は何て意地悪。

この日最初の訪問地は本宮(もとみや)市。
本宮駅→
かの野口英世博士が故郷・会津の三城潟(さんじょうがた)から約40kmを歩いて来て、東京へ向かう列車に乗った駅がここ。
博士が上京を目前にして生家の床柱に刻んだ文「志を得ざれば再び此地を踏まず」。
このホームでその思いを秘めながら列車を待っていたのかと思うとなかなか感慨深いものがあります。

駅前広場→

↓「福島のへそ」を自称している本宮市ですが、どちらかというと郡山の方が真ん中な気が・・・。


明治5(1872)年創業の大天狗酒造さんの煙突が目立ちます→

駅前通り→

まだ眠そうにもかかわらず、行儀よくお出迎え→

メイン通りを外れ、怪しい裏路地へ→

↓そこにはますます怪しげなその手のマニアが大喜びしそうな廃墟っぽい建物があったりする。

大正3(1914)年築の本宮映画劇場で、一見キレイだけど、よく見るとバリバリな外装。

↓廃墟と思いきやまだ現役らしく、テレビにも紹介されたなかなかいい味を醸し出している映画館ですな。
 

(629)福島県本宮市役所
平成19年に本宮町と白沢村が合併し誕生。人口は約3万人。
古くは会津街道の起点で、三春街道と相馬街道が交差する宿場町。

ところで、この旅に出る前の事前準備の段階から気になっていたのが、この学校名→
「本宮まゆみ」さんという偉い人が昔いて、その記念に建てられた学校だと思っておりました。

ここで由来が判明→
「まゆみ」という木なんて初めて聞いたわ。

安達太良川のほとりへ→

秋らしくススキが伸びて、散策には実にいい堤→

鉄路を越えると水色にあしらわれた公園→
名前もやっぱり「みずいろ公園」。
本宮市には多くの川が流れているので、「みずいろの町」でもあるという。
で完璧に安達太良山上空は見る事できなくなっています。

さらに川を歩くと、阿武隈川との合流部→

これから秋祭りが目白押しの本宮市でした→

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

167日目 二人の美女に会いに・・・

2017-04-06 23:54:52 | 南東北
平成28(2016)年10月10日(月祝)


磐越東線・小野新町駅には14時頃到着→

↓何でだか分からないけど、ホームには何人かのポリさんが眼光を鋭くしていらっしゃいます。

辺りはピリピリ緊張のある重苦しい雰囲気。
彼らを見て「まさかオレを捕まえに来たんじゃないよな?」と一瞬でもビビッてしまう私は小心すぎますか?

「ゆっくりのんびり旅」では一度登場した事のある、ここ小野町(おのまち)ですが、以前この町出身の人とたまたま話す機会がありまして、その人が言うには「真夏の8月でも寒いからコタツを出している」ようなお寒い土地柄なのだと。
冗談だと思ったけど当人は至ってマジな目つき。どんだけ極寒地なんじゃ

じゃあ10月なら耐えられない位の寒さなんじゃないかと、密かに(小野だけに)恐れおののいていたのですが・・・。
実際全く暖かくはないのだけど、さして寒くもない。やっぱりあの人は話しを盛っていたのでしょうか?

駅前にはいきなり何やら由緒ありげな石碑→
9世紀前半の漢学者・遣唐副使であった小野篁(おののたかむら)のお屋敷跡の碑。
ですが、館は実際には奥の山裾にあったようなので、非常に紛らわしい人迷惑な碑であります。

彼は遣唐大使と良船を争うといった子供じみたケンカをした挙句、隠岐に流されてしまったことで名を残す。
さらには超有名なあの人のじい様(父親という説もあるよう)であるらしいけど、そのお話しは後で。
思いっきり察しは付くと思いますが、小野という地名は彼の由来らしい。

↓市街地へ。
 


古い時代から浜通りと中通りを結ぶ盤城街道の要衝で宿駅。
少ないながらも古い建物があり、それらしい雰囲気は一応醸し出しております。

(628)福島県田村郡小野町役場
戦前は馬産地。その後、葉タバコ生産・畜産が盛んになるも、近年小野町が力を入れているのは「ミネラル野菜」。
人口は1万人余り。

仙台屋さん→
大盛ラーメンを提供することで地元では有名なお店。

右支夏井川(うしなついがわ)のほとり→
きっと現地の人は咲くのは今か今かと待ち遠しいんだろうね。

しばらく川沿いを歩くと、この橋に来ます→

↓小野町が御自慢の麗しき女性二人の像がここにはありますが、誰だか分かりますか?
 
左は世界三大美女の一人とされているあのお方。
既にモロバレでしょうが、先に出てきた小野篁の孫?娘?で、当時の男のアイドル・小野小町。
さらに小野町で産声を上げたのだという伝説があるので、「小野小町生誕の地」に手を挙げております。
だた、「生誕の地」を名乗る地は他にもたくさんあるようなので、私は同じ「小野」という事でムリクリこじつけたのではないかと勝手に推測しております。
それに今じゃ小町=秋田のイメージが定着してしまっているので、「ここで生まれました」と言ってもどうもピンときません。
蛇足ですが、世界三大美女の一人として小野小町を加えているのは日本だけのようです。

さて、右のお方ですが、名前は香山リカさん。
あ、メディアによく出てくるあの女医さんではないですからね(笑)。似てないでしょ?

橋の目の前にあるこの建物は、香山リカさんに関係のあるお城→
リカちゃんキャッスルといい、女のコの永遠のアイドル・リカちゃん人形のテーマパーク的施設です。

↓この日宿泊は郡山。駅前ではコンサートが行われ、非常に騒がしくなって賑わっておりました。
 

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

167日目 避難指示が解除されたその後を訪ねる(2)

2017-04-01 00:49:30 | 南東北
平成28(2016)年10月10日(月祝)


昨日今日と、立て続けに四つの町村(富岡町・飯舘村の大部分と浪江町の一部、川俣町山木屋地区)に出されていた避難指示が解除されました。
あれからもう6年も経ってしまったのですね、でも以前の姿を取り戻すには相当大変だろうな。
先に解除されても、もぬけの殻のような状態が解消されない楢葉町を目の当たりにしてしまったので余計そう思います。

さて、福島第一原発から南20~30kmの所に位置し、震災から一年後の平成24年3月31日に避難指示が解除された広野町(ひろのまち)はどうなっているのでしょう?

町の玄関口である広野駅→

駅東側(海側)→
福島県広野町東日本大震災の記録Ⅰでは水浸しとなった駅東側の写真を見ることができます。

一面の荒野に似つかわしくない建物は「広野みらいオフィス」。
コンビニや各種事業所が入っていたりします。

後でも触れますが、広野町は震災前の約50~60%しか人が戻らないので、町活性化のカンフル剤として投入されたのが「広野駅東側開発整備事業」。
ゆくゆくはここに医療機関を移設したり、宿泊施設や集合住宅の誘致も企てているのだという。

ハコ造りだけはお手の物の行政ですが、これを造っても活性化する保証はない。だけど、ハコがないと活性化に繋がらないと言われればそうかもしれない。
でも安全面もさることながら、やっぱり地域の発展には働き口を増やせるかどうかなんだと思うんですけどねえ。
いずれにせよ、広野駅東側開発整備事業のイメージ図では立派な街並みが描かれていて、果たしてそうなっているか数年後またここを通るのが楽しみ。

跨線橋から北側→
楢葉町との境にある広野火力発電所の煙突がやたら目立ちます。

童謡「汽車」の碑→
「今は山中 今は浜 今は鉄橋渡るぞと~」で始まる童謡の碑で、その歌の舞台がここ、広野駅周辺であるという。なぜか?
続けて歌うと「思う間も無く トンネルの 闇を通って広野原」。
なるほど、最後に「広野」が出てくるわい。だかららしいんだけど、こじつけ感がある。
実際、歌の舞台には諸説あるらしいし。
「山 浜 鉄橋 トンネル 広い野原」なんて列車に乗っていれば日本中にたくさんありますからね。

寧ろ「汽車」で真っ先に頭に思い浮かぶのは、かつて広島東洋カープに山中潔というキャッチャーがいて、その選手の応援曲に使われていた事かな。
昔の選手応援歌(曲)なんて、歌謡曲を使ったり、アニメソングを使ったりと案外適当なのが多かったよなー。

駅舎→ 

線路に並行する商店街→
あまり人は歩いていません。目立つはやっぱりシャッター。

(627)福島県双葉郡広野町役場
右の平べったい低い建物が役場。その横には「ひろのてらす」と呼ばれる公設商業施設があります。
町のキャッチフレーズは「東北に春を告げる町」。それくらい温暖な地域なのだと。

↓さすがにこれを見た時は何をハッタリこいてんだ・・・と思ったけど、本当に作っているらしい(失礼しました)。

ま、要は暖かいんだね。

さて、原発事故直後、緊急時避難準備区域に指定され、その年の9月30日にそれが解除されて比較的恵まれているように見える?広野町ですが、
ふくしま復興ステーションによると、「平成23年3月11日現在の住民登録人口5,490人」、
町役場のHPでは「平成29年2月末日現在 総人口5005人、平成29年2月24日現在 町内居住者数2949人」と、やっぱり苦しい状況。
因みに一時お医者さんがいないと大騒ぎになった「高野病院」はこの町です。

町おこしに童謡を起用しています→
「汽車」だけが理由ではないのですが、そのワケは後ほど。

役所横の「ひろのてらす」ではサッカーイベントの最中→
地元資本のスーパーを誘致できなかったんでしょうかねえ、またぞろあのスーパーが進出していて残念。

遠くに海を見る→
堤が見えますが、その上は県道。
実は堤の奥には従来の防潮堤(高さ6m)があるのですが、津波はその遥か上(9m)だったという。
そこで、念には念を入れて多重防衛としてもう一本、高さ10mの新しいこの堤を築き、内陸側はなだらかな下り斜面としています。
いわゆる某政権時で「スーパー無駄遣い」とされたスーパー堤防のようなものですな。
約6万本の苗木が植えられているようです。

この左側は築地ヶ丘公園。
その中にこれがあります→
誰もが知っている童謡「とんぼのめがね」は広野町発祥。

↓でも噴水の音だけが響き渡るだけの、誰もいない寂しすぎる公園でした。


↓広野駅を去り、まだどうにもしっくりこない「いわき駅」に来て磐越東線のディゼルカーに乗り換えます。

かつて呼ばれていた平(たいら)のイメージが未だに強いのは、私が古い人間だからか?(まあ、実際そうだし苦笑)。
3年後には「仙台方面」の表示が磐越東線から常磐線に変わると思うけど、それまでにもう一回この浜通りに来よう!

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→