ゆっくりのんびり市町村廻り

何年かかるか、もしかしたらできないかもしれないけど、日本の全市区町村の制覇を目指して頑張ってみる!

172日目 京都府南部の長閑な2町村

2017-05-31 23:16:49 | 近畿(滋賀・京都)
平成28(2016)年12月31日(土)


関西線をさらに東へ東へ→
奈良駅から3つ目の加茂駅で気動車に乗り換えて、木津川の渓谷美を堪能し始めるや否や早速一つ目の笠置(かさぎ)駅で降りねばなりません。

この加茂駅から東、三重県の亀山駅までは田舎な区間でありながら概ね1時間に1本の運転があるので、この沿線にある2自治体はそれぞれ1時間滞在することにします。
本音を言えば、訪ねた所は出来れば1時間半程度はいたいのですが仕方ありません。

笠置駅→
桜と渓谷美で知られる駅みたいです。

↓駅前には、後醍醐天皇の倒幕を目的とした鎌倉時代末期の戦い・元弘の変(元寇にあらず)の笠置合戦を再現したものがあります。

笠置山に籠った後醍醐天皇側は僅か3,000余人、そこを取り囲む幕府軍は完璧にイジメであろう25倍、75,000人で包囲する。
これではいくら何でも天皇側は歯が立たないだろうと思いきや、山は巨石・怪石で覆われた「天然の要害」、再現にあるとおり弓で狙い撃ちするわ巨岩を投げつけるわで幕府軍は相当難儀したという。
最終的には天皇は捕えられ隠岐へ流されてしまったのですが。

↓駅から木津川までは、中々味わいのある街並み。
 

笠置大橋を渡って木津川の右岸側へ。
橋から見る川→
川辺にはこのクソ寒い時期でもかなり人が寄ってきているキャンプ場。
近くには「天然わかさぎ温泉笠置いこいの館」という天然温泉施設もあるので、冷え冷えになったら一時しのげるし。
尤も温泉は大晦日・元日は休みみたいですが。

(640)京都府相楽(そうらく)郡笠置町(ちょう)役場
日本で2番目に人口の少ない町だそうで、その数僅か1,400人程。
1位は以前登場した山梨県早川町
町HP内には町長さんのあいさつとして「3年前は出生児ゼロ、最近の国勢調査では府下最高の人口減少(中略)ワースト面がマスコミに取り上げられ(中略)駅前商店街もあと5、6年すればシャッター通りになってしまう(中略)2040年には人口は693人になると予想(後略)」と、涙目に(?)語っています。

この町は川遊びには良さげだし温泉もあるし、特産品はキジ肉・しいたけ・鴨肉・鮎などで、郷土料理はぼたん鍋・きじ鍋くらいしかなさそうなのが少々弱いけど、要は自然豊かな町。
ほんの休暇には持って来いなんでしょうけどね、現実的には長い事はいられないよね・・・。

町西部に隣接する木津川市に笠置町の飛び地があるのですが、気持ち悪い程グチャグチャした形をしています(地図を見てもらえれば分かります)。

役場背後の高台から→

ところで、笠置町にはその手のマニアには超有名な建物があるそうです。
↓てっきり川の左岸側にあるこの旅館がそれかな?と思ったのですが・・・。


↓実際、一見仕舞屋っぽいんだけど、一部明かりが灯っていたりと、よう分からん旅館。


浴室が開けっぴろげになっていたので、ちょっと侵入させてもらいました→
やっぱり仕舞屋だよな~。

それはそれで、実際には有名物件はこれではありませんでした。
↓駅を出てすぐ左手の山腹にある、ポツンとドでかいホテル跡。

昔の「笠置観光ホテル」で、特に夜なんかはかなりヤバイ場所だとか。
なお、笠置山もそれで有名なスポットみたいです。
怖いもの知らずとか命知らずの人向けでもある笠置町。

次、またまたお隣の大河原駅→
宮城県にも大河原駅がありますが、あちらは「おおわら」。
こちらは「おおわら」。

関西線と木津川に挟まれた国道163号線→
車が全く走っていません。
これまでどんなに人がいない市町村でも車だけは元気に動いていたものですが・・・(離島や山奥なんかは除く)。
そんなに落ちぶれた所なのかと思いつつ、駅から東に向けて歩きます。

(641)京都府相楽郡南山城村(むら)役場
一応「村」ではありますが、笠置「町」よりも多い人口の2,800人余り。
ま、数は村に相応しいけど。
特産は建物にあるとおり日本三大銘茶の一つである宇治茶。

車がないのはこういう理由からでした→

↓失礼ながら、ここを買いたいという業者は、どんな目算があるんだろう?


役場からそう遠くない所に、日本建築学会による「全国の建物2000棟」にも選ばれ、土木学会推奨の土木遺産に認定されている大河原発電所という大正8(1919)年に運転開始の水力発電所があるのですが、それを知ったのは帰った後の事です。しまった・・・。

駅の西側にも行ってみましょう→

恋路橋は沈下橋→
橋の向こう岸の小字は「北海道」。
だからと言って北の大地とは何の関係もなさそう。

向こう岸には「恋志谷(こいしだに)神社」という縁結びの神様があります。
名前が「恋を志す」とあるくらいですからねえ、名前はかなりいい。
実際、後醍醐天皇に纏わるお話しがあるそうです。
ところがこの神様のお守りは、春と秋の大祭(4月2日と9月2日)じゃないと買えないのだという。
なので、このレアお守りを手に入れられればめでたく恋愛成就するかも
人はいないけど、見る所は結構あるやん、南山城村!

↓14時頃発の気動車に乗り、亀山で乗り換えて一気に名古屋へ行く予定。

三重県に入って大勢が下車する伊賀上野駅でハッとする。
伊賀上野駅は伊賀市の玄関口。そしてまだ伊賀市はクリアしていません。
日没までまだ2時間程あるので、そこそこの町歩きができます。
ただ、この日は愛知県安城市での宿泊予約しているので今更変えられません。
何で伊賀市での年越しを考えなかったのだろう・・・。
一年の最後の最後で大ポカをやってしまった私めでございました。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

172日目 2年前の夏のリベンジを果たしに

2017-05-27 23:56:01 | 近畿(奈良・和歌山)
平成28(2016)年12月31日(土)


大晦日、つまり平成28年の最終日です。
そんでもって関西も最終日にして、千葉への帰路につきます。
尤も2日間をかけての「のんびりゆっくり」したものですが。

この日の出立は新大阪駅から→
天王寺駅へ向かい、JR関西線に乗り換えて奈良県入り。

8時すぎに三郷駅にて下車→
関東の人なら「みさと」と呼びそうな駅ですが、さんごう駅。

これより三郷町(さんごうちょう)と王寺町(おうじちょう)をウロウロするつもりですが、これらは2年前に訪問しようとしていたところ、大雨で関西線が麻痺した煽りを受け断念した町
敢えて早々と再チャレンジの機会を設定しました。

駅ホームの立て看板にもある「龍田大社」へ行きます→
ま、言わば1年のお礼参りですな。

朝廷からも深く信仰された由緒ある神社で風の神様。
でもまだ神様はお眠りになられていたのか無風。
時期も時期ですし早朝ですから元気元気していたらとても困っていたわ。

「ぼけけ大祭」かと一瞬思ってしまう→
みんな一斉にすっとぼけた事をやるお祭りかと。私の方こそかなりぼけていました(苦笑)。
「いつまでも健やかに心楽しく過ごしていただけるようにと祈願するお祭り(神社HP)」なんだそう。
お祭り当日は大根料理が振舞われるそうなんですが、なぜか絵はカボチャ。

初詣でに向けて用意は万端のよう→

拝殿→
今年(平成28年)もありがとうございました。全く冴えない年ではありましたが。

大和川のほとりに来ました→
一頃「日本一汚い川」として名を馳せていましたが、近年は汚名返上とばかりだいぶ改善してきているようです。
恐らく汚いのは大阪府の方で、奈良県側は見た目全くそんな風に感じません。
向こう岸は王寺町。

視線を左にやると近鉄生駒(いこま)線→
鉄橋の上を轟音を響かせて走る列車姿はいいな。

(638)奈良県生駒郡三郷町役場
明治22(1889)年に3つの村が合併したので「三郷村」となる。
でも元々は「みさと」だったらしく、町になった時に今の呼び方になったようですが、「みさと」の方が言い易くない?
約23,000人が暮らす町。

↓役場とは目と鼻の先にある、近鉄・信貴山下(しぎさんした)駅。


大和川の明治橋より→
信貴山はどれかな?と適当に写してみましたが、2つコブがあるのがそれでしょうか?

関西の信仰を集める朝護孫子寺があり、大学1年の奈良でのサークル合宿の時に、先輩に拉致られ車でそこへ連れて行かされた事があります。
でも何を見たのか全く覚えておらず、当然阪神タイガースの選手が必勝祈願するという有名な虎も・・・。

橋を渡れば王寺町。商店街を抜けて王寺駅へ→
昭和57(1982)年8月1日、台風10号によって葛下川(かつげがわ)が氾濫して王寺駅周辺が水没し大災害となったようです。
この日、当時住んでいた仙台から姫路の親戚の家に遊びに行くため、特急「ひばり」と新幹線と乗り継いで移動していたのですが、確かに雨降りでした。
でもすぐ近くでこんな大事があったなんて全然覚えていません。
姫路で合流した愛媛のいとことの山陰旅行をこの後に控えていましたし、よっぽど浮かれていたのだな。
この年には長崎でも大水害があったし、よくよく雨に祟られた年だったんですね。

町のわりにそんじょそこらの市よりも遥かに都会の王寺駅周辺→

南口側の出入り口へ→

↓今の教育現場風に言えば厩戸皇子と、一匹のワンが描かれたパネルが迎えてくれます。

まずはこのワンですが、「雪丸」という王寺町公式マスコットキャラクターで、ゆるキャラにはあまり興味のない私にとって数少ないお気に入りの一つ(単に私がイヌ好きだからか?)。
イヌだけあって、翌日(1月1日)になれば1つ年齢を重ねます。
かつては「ゆるキャラグランプリ」でも全国11位に入った事のある実力派?で、地上だけでは飽き足らず最近ではドローンの世界にも進出して「雪丸ドローン」として空をも闊歩するようになったんだとか。

その「雪丸」ですが、パネルにもあるように厩戸皇子=聖徳太子の愛犬で、日本最古の犬のペットとされていて、雪のように白くとても賢い犬だったらしいです。
足跡がありますが、王寺駅から達磨寺までの約1kmのウォーキングコース「雪丸ロード」を示すもの。
そして王寺町と聖徳太子との関わりですが、それは後ほど。

では、足跡を辿ってみましょう。
(639)奈良県北葛城郡王寺町役場
大阪市のベッドタウンですが、正直、市になっていないのが意外で、人口は三郷町と同じくらい。
地名は、葛下郡品治(ほむち)郷の地から転訛されたものだという。

間には葛下川が流れてます。
左は平成元年に設置された「和(やわらぎ)の鐘」。
十七条憲法の「以和為貴(和を以て貴しと為す)」の精神に由来した鐘との事ですが、もうちょっと見栄えのするものを造っても良かった気がする。
町のキャッチフレーズも南口階段にもあり、文字が小さくて見にくいですが役場建物に書かれているとおり「和の鐘が鳴るまち王寺」。

いたずらされないようにね→

足跡の終わりはこの達磨寺→
ここは聖徳太子が飢人伝説に基づいて開かれたとされるお寺さん。
そしてその伝説とは何ぞや?ですが、それについては寺のHPにはマンガが掲載されていますので、興味のある方はそちらをご覧下さい。

本堂→
達磨大師のお墓と伝えられる古墳の上に築かれているそうです。
お寺さんには、木造達磨坐像・木造聖徳太子坐像などの重要文化財があるのですが、恐らく本堂の中にあるのでしょう、見ることができませんでした。

でも雪丸クンはしっかりといましたよ→

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

171日目 紀州路での様々な発祥地巡りを終える

2017-05-23 23:53:00 | 近畿(奈良・和歌山)
平成28(2016)年12月30日(金)


↓湯浅駅から電車に揺られること10分程、紀伊由良駅に到着。

この駅のある由良町(ゆらちょう)の名所の一つとして、寺院の形をした赤錆びた立て看板の興国寺(こうこくじ)。元々は鎌倉3代将軍源実朝の菩提を弔うために建てられたお寺さん。

開山として迎えられた法燈国師が宋で習得した金山寺味噌の製法を伝え、その製造過程から醤油を生み出されたといいます。
また虚無僧の総本山でもあり、法燈国師が宋からの帰国の折に虚無僧を伴い、そのうちの一人が尺八の元祖とされているようです。
おまけに長さ2.4m、幅2.7mのでっかい天狗のお面が見られるようです。

そんな由緒ある興国寺ですが、午前中に有田(ありだ)市訪問ができていれば駅からそう遠くない所にあるなので恐らく行けたのでしょうけど、この日のうちに何が何でも有田市をクリアしたかったので、お寺さんへの大いなる未練を抱えつつもアッサリ切り捨てます。

「日本のエーゲ海」とも呼ばれる白崎海岸という風光明媚な場所もあるようですが、そもそも駅から遠いので端っから眼中になし。

駅前の道を海の方へ向かって歩きます→

(636)和歌山県日高郡由良町役場
人口は6000人程。手前の川は由良川。
町のキャッチフレーズは「“生き活きと暮らせる幸せ”を求めて」で、名物は温州みかん等の柑橘類や美味で知られるクエといったところ。

由良港に架かる由良港橋へ→

↓由良港と漁港。
 
広川町同様、海のド真ん前で高く架橋されているので見晴らしがよく、おまけに晴れているのでなおよろし。
沖に浮かぶ小さい島は蟻島。形は蟻というよりクジラっぽいけど。

↓海に向かって左手には「海上自衛隊由良基地分遣隊」が覗き見できます。
 
天然の良港である由良、ここに帝国海軍の紀伊防備隊が設けられた流れを継いでいるようです。

↓由良川北側・網代地区には集落・商店街が広がっています。
 
区画がきっちりなされていて、およそ漁村らしくない漁村。

確かに「家」なのだけど(笑)→
空き家なのか、売り家なのか、あばら家なのか。車庫・倉庫っぽいけどね。

↓次は大阪方向に引き返して、午前中に降り損ねた箕島(みのしま)駅とその駅前。
 
既に16時半頃なので、駅周辺をうろつくしかする事がありません、残念ですが。

箕島高校→
高校野球で超有名な学校。
よく知られるのは、昭和54(1979)年の星稜高校との激戦ですが、夕飯を食べ終えてテレビのチャンネルをガチャガチャ回すと(懐かしい笑)、真っ暗になってもまだやってるよ!と驚いた記憶が微かにあります。
ですが、私自身にとっては、今年の選抜にも出ていましたが、その2年前の選抜での中村高校との決勝戦ですかねー。

箕島の真ん中を貫く有田川→

(637)和歌山県有田市役所
昭和29(1954)年に箕島町・保田村・宮原村・糸我村が合併して有田町となり、その翌々年に市制施行。
人口は約29,000人。
佐賀県にも焼き物で知られる有田がありますが、あちらは「あり」。
こちらは「あり」で、広川町もそうですが、どうもここらは濁点を付けるのがお好きな土地柄のようです。

昭和28年に県内最悪の気象災害と言われる紀州大洪水の氾濫原となった水田はことごとく果樹園となりました。
というワケでこの町の特産は何と言っても「有田みかん」。
ところがドッコイ、有田市の名物はこれだけに留まりません。
ここは市役所近くの「有田市文化福祉センター」の花壇→
除虫菊とやらが植えられているやに聞いていたのですが、これなんでしょうか?

明治18(1885)年にアメリカから輸入された防虫菊が日本で初めて栽培されたのがここ有田市。
そして有田市出身の上山英一郎氏がその菊を使って発明したのが「日本の夏」に欠かすことのできない、何とも懐かしい匂いのする、グルグルと渦巻いたアレ。
つまり有田市は「蚊取り線香発祥の地」で、和歌山県は蚊取り線香の生産高国内第一位。
因みに上山氏は大日本除虫菊株式会社の創業者です。そんな会社知らないよ、って方が多いとは思いますが、「金鳥」ならご存知でしょう。その会社です。

以前から原料は外国産ばかりを使っていたのを「石井除虫菊工業所」さんが、平成23年から国内で唯一、国産(地元産)の防虫菊を使って蚊取り線香を製造し始めたのですが、残念な事に3年前にその製造をやめてしまったようです。

↓有田大橋を渡って左岸へ行きます。
 
一日の〆に相応しい美しい光景ですなあ。

この橋南詰にある「たちうおのモニュメント」タッチーです→
沿岸漁業での水揚げ量は県内一位の有田市です。

↓どっぷりと暮れて真っ暗となって気味悪くなった「有田市本町商店街」を通って箕島駅に向かいます。


↓せっかく太刀魚の漁獲高日本一の町に来たのだからと、駅前の食堂にて「たちうお丼(¥690)」を戴きます。

ま、普通に白身魚のから揚げでしたね。

やっぱりがっついてしまった和歌山駅の丸美商店「中華そば(¥680)」→
たちうお丼が祟って?、ラーメンスープで煮込んだ「おでん」にまたしてもありつけんかったなぁ

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

171日目 「稲むらの火」の舞台となった防災意識の高い町

2017-05-16 23:56:04 | 近畿(奈良・和歌山)
平成28(2016)年12月30日(金)


この広川に架かる広橋を渡ったのであっさり広川町に→
紛らわしいのですが、川の名前は「ひろわ」なのに、町名は「ひろわちょう」。
尤も昭和25(1950)年に発足して以降、平成8年までは「ひろかわちょう」だったようですが、どちらかと言えばその方が言い易いとは思うんですけどね。

広橋を河口方向を見る→
なぎ大橋が架かっており、上に行けばさぞ見晴らしがよかろう。

というワケですぐさま行ってみます→
うん、なかなか眺め良し。ただ、いつの間にか曇ってしまったのが実に恨めしい。

養源寺堀→
写っていませんが、堀の右には養源寺というお寺さんがありましてそれが由来のようです。

なぎ大橋の山側を背にして左側は役場。
(635)和歌山県有田郡広川町役場
町の産業としては、漁業はシロウオ漁が名物で、農業はご多分に漏れず蜜柑栽培が中心ですが、他の種類の果物や花卉の栽培も盛んなようで、紀州三大窯の一つ・南紀男山焼の産地。
人口は約7,200人。

さて、役場の前からこのような土手が伸びています。

無論イヌが立ち小便するために作られたワケでもないし、石田三成が忍城攻めの如く築いたのでもありませんし、向こう側に川や海があるワケでもありません(海は右側)。

では何か?
ここからさらに歩くと説明板があります→
「広川村堤防」じゃないのか?
ですが、これができた当時は広村で、広町となった後に2つの村と合併して広川町となります。
高さ5m、根幅20m、長さ640mで、安政2(1855)年に着工し安政5年に完成。

前編でも触れました旧暦の嘉永7(1854)年11月5日に発生した安政南海地震で、広村は大津波によって大きな被害を受け、それを目の当たりにした濱口梧陵(はまぐちごりょう)さんという方が私財を投げ打って築いた堤。
彼は『こんこん昆布つゆ昆布をぎょうさんつこてるの♪』のCMで有名なヤマサ醤油の7代目に当たります。

近くには防潮扉→

こちらの防潮扉は赤門と呼ばれてます→

土手から海を見る→
築堤後、いくたびかの押し寄せる魔の手から町を守ることに成功しています。

GoogleMapでは「名も無き神社」と表示されている神さま→
そういう神社名なのか、本当に無名の神社なのかどっちなのだろう?

土手の隙間から耐久中学校が覗けます→
ちらりと古臭い建物が写っていますが、それは「耐久社」。
濱口梧陵らが江戸時代末期に開設し剣術と漢字を教えていた私塾で、その後身が現在の耐久高校・中学校。

この先で土手は終わります→

↓湯浅町ほどのインパクトはないのですが、ここらへんの街並みもなかなかどうして、見応えあります。
 

↓そんな住宅街の中にあるのが、開いちゃあいませんが「稲むらの火の館」。

ここのHPの言葉を拝借すれば、先に触れた地震津波の折、濱口梧陵が村民の命を救ったその偉業と精神、教訓を学び受け継いでゆくために建設された施設で、平成19年にオープン。
濱口梧陵記念館と津波防災教育センターから成っています。

そして濱口梧陵が村民の命を救った物語が「稲むらの火」。
これは、かの小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が英語での作品を出し、その後、耐久中学校卒業生である中井常蔵によって書き改められもの。
昭和12(1937)年から10年間、国語の教材として採用されていたそうです。

私がこのお話しを知ったのは、情けないのですが、あの東北地方太平洋沖地震直後。
今でもこれを学校の題材に使っていれば、あの時助かった人もいたんじゃないかと思ったくらい、価値のある物語に思いました。
ところで、実際あったことと物語とは違うようで、それについてはコチラをどうぞ。

「世界津波の日」と定められた津波のあった11月5日は、広川町では濱口梧陵さんの功績を讃え、町の安全を祈願するため「津浪祭」が行われるそうです。

このように常日頃から防災意識の高い広川町ですが、肝心要の役場は海に近いし低地にあるしで大丈夫なの?

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

171日目 素晴らしすぎる街並みが残る醤油発祥の地

2017-05-14 00:16:11 | 近畿(奈良・和歌山)
平成28(2016)年12月30日(金)


↓ややもすると終点の御坊(ごぼう)駅まで「お逝きなさい」状態だったのを、黄泉の国の入口で寸止めできた湯浅駅。

初めから下車する予定の駅ではありましたし、この日の町巡りで一番の楽しみにしていたのが、何を隠そうここ有田(ありだ)郡湯浅町(ちょう)なのです。

さて、湯浅と言ったら何といっても「湯浅醤油」で全国に知られているように醤油の町、どころかその発祥の地
そして醤油・味噌醸造の建物や土蔵、瓦葺きの町家が見られる国指定重要伝統的建造物群保存地区が最大の見所の町。

一早くその街並みを拝見したところですが、まずはルーティーンをこなさなければなりません。
↓戦前っぽい長屋を尻目に駅東側に伸びる熊野古道を歩きます。


(634)和歌山県有田郡湯浅町役場
つい最近まで駅近くの街中にあった役場ですが、今では新しい場所に引っ越してしまっていて、お蔭でここまでの行って戻ってのおよそ2.5km程余分な労力を費やすことハメに(怒)。

地名は「海が今よりずっと中まで入り込み、水(ゆ)が浅く広がっていたことから、或いは、古名「温笠(ゆかさ)」から転じた(町のHP)」ようです。
古くから熊野詣での宿所で、江戸時代に紀伊徳川氏が支配するようになってから有田地方の中心地として賑わいを見せるようになる。

手前には、たわわに実るミカンの木がありますが、この辺りはイヤでも柑橘類畑が目に入ってきます。
和歌山に来た事を実感できる風景。

どちらかというと、かまぼこ板なんだけど・・・→
この踏切を越えると、いよいよ待ちに待った街並みです。

↓古民家や商家たち。
      
古い街並み好きにとっては天国のような、実に心地よい楽しい場所。
広い通り(といっても車がすれ違うので精一杯)でも細い路地(現地では「小路小路(しょうじこうじ)」というそうです)でも肩を寄せ合いひしめき合う建物の姿がとても素敵。

江戸後期の町家を改修した休憩所・お休処立石茶屋→

旗があまり似つかわしくない感のある深専寺→

↓この門前(左側)には「大地震津なミ心え之記(ママ)」の石碑があります。

嘉永7(1854)年、安政東海地震とその僅か32時間後に起こった安政南海地震と、マグニチュード8.5近くの大地震が連チャンし激しい揺れが和歌山を見舞い、この地域周辺が大津波に襲われて大きな被害となったことを受け建立された石碑。
この碑には地震と津波の様子や被害、津波が起こったときの避難経路なんかが書かれています。
もし、湯浅観光なんかで来ていて津波に襲われそうな状況になったら、このお寺さんの前を東へ通って山に向かえ!だそうです(お寺さんから遠くにいた場合は知らん)。
こうした先人の教えは大事にしないといけませんね。なお、この地震に伴う津波については次編でも扱うつもりです。

おもちゃ博物館→ 
入りたかったけどお休みじゃ・・・。

↓甚風呂(じんぶろ)
 
幕末から昭和60(1985)年まで営業していた銭湯。勿論お休み。
ここも入りたかった・・・(入浴じゃなく見学)。

せいろミュージアム→
蒸籠の中に湯浅ゆかりの古民具などを入れて、各家々の軒下に飾られています。

↓ハイライトはこの「北町通り」。
 

↓江戸後期築・太田久助吟製(おおたきゅうすけぎんせい)

江戸末期から戦前までは醤油醸造業を営み、現在は金山寺味噌を製造し、販売中。

角長(かどちょう)→
天保12(1841)年創業の醤油醸造業者で、当時は新参者でも今となっては老舗どころか、湯浅ではたった一軒しか残っていない貴重な醸造業者。

↓角長の職人蔵(慶応2(1866)年築)
 
昔の道具が展示されてますが、この価値観皆無なアホな私には我楽多にしか見えません(スミマセン)。
因みに醤油の起源ですが、ここは敬意を表する意味で角長さんのHPを載せますので、そこをご覧下さい。

大仙堀→
「醤油堀」とも呼ばれたかつての醤油の積み出し埠頭。
因みに私が立っている場所は以前の積荷輸送を担った有田鉄道線路跡の道路。

それにしても北町通り周辺には独特の匂い(もちろん醤油の)が漂ってます。
私にとっては慣れないせいか、あまり「いい匂い」ではなかったのですが、すれ違った現地の小学生達の会話「あ~、湯浅の匂いがする」を聞くに、やっぱり湯浅は醤油の町であることを実感する。

いいなあ、湯浅。
夕暮れになると街が吊行灯の灯りに包まれるというので、その時間までブラついていたいくらい。
でもそういうワケにもいかず、次に電車に乗らずとも行ける隣町・広川(ひろがわ)町へ。
↓その途中、湯浅町観光地図に載っていた広川町との境をなす広川の「弁天財堀」にも寄ってみる。

ここには平安時代の石垣積みの波止や紀文丸像があるというのですが・・・。

↓上の写真の右にある、ぱっと見、成れの果て感あるこれがその像なんだと。

うーん、何とも言えません・・・。おまけに案内板は何書いているのかサッパリ読めんし。
石垣はこの背後にあるヤツでしょうか? わざわざ来てみましたが、ここはよう分かりません。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

171日目 紀州への途中、一寸寄り道

2017-05-11 23:48:48 | 近畿(大阪・兵庫)
平成28(2016)年12月30日(金)


年末旅(実質)2日目。
↓宿泊したホテルは新大阪駅の近くでしたが、東淀川駅にも近かったので、どうせならとそこからスタート。

新大阪駅から僅か0.7km、大阪駅からたった2つ目の駅なのに、なにこのローカル駅?

元々は戦前の弾丸列車における「新大阪」になるはずの駅だったのに、戦後の新幹線の際には反故にされ、廃止は免れたものの、こんな小駅に甘んじてしまったのには悲哀を感じます。

この日の主菜は和歌山県なので、大阪駅から「紀州路快速」に乗ります。
↓が、日根野で各駅停車に乗り換えて8時半すぎに新家(しんげ)駅で下車。

一気に和歌山入りせず、まずはこの泉南市で前菜を味わいます。

↓ここでは近くの熊野街道を歩いて、和泉砂川駅で和歌山行きの電車に乗ろうと思います。

ところで、この看板にあるとおり、すぐ目と鼻の先に国の登録有形文化財「山田家住宅」という庄屋・豪農の旧家があったのですが、まだ完全に脳は起き切っていなかったせいか見忘れてしまう。何をやっていたんだか・・・。
尤も中には入れないけど。

ミートツョップ?→
このお肉屋さんは空手ツョップ(チョップ)で肉を切るんでしょうかね?(笑)

一岡神社に寄ってみます→
この境内には1350年前に建てられたとされる古代寺院・海会寺(かいえじ)跡があるという。

遠い古に堂々立派なお寺さんがあったことを想像してみる→

↓熊野街道は京都から熊野三山へ詣でる街道で、ここらは信達(しんだち)宿と呼ばれた宿場。

そんな雰囲気がまだ残っています。

街道の左手は高台となっていまして、何があるのだか気になり登ってみる。

すると・・・→
何と!、意表をついたかなりでっかい池。
かの僧侶・行基が開いたとされる灌漑用の海営宮(かいこ)池です。

池から町を見下ろす→
イヤでも目に入る赤い色の建築物はパチスロ屋らしい。いかにも関西っぽい奇抜さ。

信達宿本陣跡→

熊野街道を去って、海側へ向かいます。
(633)大阪府泉南市役所
海岸部は紡織工場が立ち並び地域経済を支えてきたものの、昭和40年代後半以降、紡績業は右肩下がりとなり、苦境に陥っていた泉南市に神風が吹く。
関西国際空港の開港
泉南市だけが関空をガメている訳でもないのですが、これを礎に都市基盤も整備されていくこととなる。
現在人口は6万3,000人ほど。

目つきの良くない泉南市のゆるキャラです→

最初、こちらが市役所かと思いました→
上にある展望台?のようなドームが何なのか非常に気になった市役所前の学校。

↓商店街を通って和泉砂川駅へ。
 

↓和歌山を出たら晴れてきたし、美しい海を眺めながら次の降りる駅は箕島(みのしま)。


のハズが、いつの間にか寝落ち
箕島駅を乗り過ごし、目が覚めたら湯浅駅でドアが閉まる寸前→
慌てて降りる。当然スケジュールも狂う。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

170日目 大坂の陣で散りし日本一の兵に思いを馳せながら(2)

2017-05-08 23:44:57 | 近畿(大阪・兵庫)
平成28(2016)年12月29日(木)


真田幸村めぐルート」の天王寺エリアへ突入します。

まずは、四天王寺にほど近い幸村最期の地・安居神社→

大坂夏の陣の際、幸村は徳川家康の首めがけて本陣に突撃したものの、無念なるかな叶わず。
疲労困憊で休んでいる?幸村さん像→
後ろの注連縄のある木の下で、西尾宗次という鉄砲組頭に討ち取られたという。
松は当時の木ではないらしいですが。

像は堺雅人のようにカッコいいとは言えず普通にオッサン。
尤も、幸村が九度山にて隠遁生活をしていた頃にしたためた義理の兄宛ての手紙には「(前略)ことのほか病者になり申し候、歯なども抜け申し候、ひげなども黒きはあまりこれなく候」とあり、自虐して書いたのか分からないけど、本当だとしたら見た目爺さんで相当草臥れた風貌だったのでしょう。
そのとおりに像を作ったら幸村の颯爽としたイメージが台無しになりますけどね。

↓安居神社の正面は、入口がコワい一心寺。
 
冬の陣の時に家康が本陣を敷いた所なのだという。

ここにも抜け穴と、三光神社といい手抜かりなしの幸村さん→

冬の陣では家康が、夏の陣では幸村が陣を敷いた茶臼山→
それだけ軍事的には重要な場所だったのでしょう。

登ります→
山頂には説明板があるのだけど、ここも実に読みにくい。何とかしてくれ。

余談ですが、全国的に茶臼山と呼ばれる山を見ますが、実は「ちゃうす」という言葉は古くは打つとか叩くとかの意味があって、それはつまり浸食地を示していて土砂流出がよくあるような危険な場所なのだという。
なるほど、ここの茶臼山も一たび大雨でも降れば地滑りが起きそうな感じがしないでもない。

これで幸村に思いを馳せる散歩はおしまい。
後は天王寺から阿倍野区を歩いてこの日は終わりにします。

山を下りると河底池(愛称ちゃぶいけ)→
延暦7(788)年に和気清麻呂が大和川の流れをこちらに変えるために、ここ上町台地を開削するもうまくいかず、この池はその失敗作品。
そして現代まで埋められることなく丁重に残され?晒されています。可哀そうな清麻呂さん、きっと天国で泣いているよ。
赤い橋も「和気橋」。
渡っていたらアベックが臆面もなく堂々と抱き合っていたので(幟に隠れている)、こちらが恥ずかしくなったわい。

和気清麻呂と言えば、僧侶・道鏡による皇位を乗っ取ろうとしたのを阻止し、後世、皇居前に銅像が建てられるほどの英雄。
さらには平安京遷都を進言するなど、カッコいいところを見せている一方で、道鏡事件の際「きたなまろ」と名を貶められ大隅国に流されたりと、かなり波乱万丈な人生を送った政治家。

昭和11(1936)年に完成した大阪市立美術館→

この動物園は日本で3番目に古い大正4(1915)年に開園→

遠目に見る天王寺駅周辺→
一つだけやたら目立つノッポなビルが妙にアンバランス。

「あべのハルカス」は300mあり、高さ日本一のビル→
く、首が痛くなるわい。

車ぎっしり天王寺駅前→
天王寺駅周辺は初めて眺めたのですが、大都会を想像していたもののここも思ったほどではなかったな・・・。

「あびこ筋」を進みます。
〔53〕大阪府大阪市阿倍野区役所

区役所の隣で思いがけず見つけたレトロな建物→
大阪市立工芸高等学校で、学校のHPによると、「大正12年(1923年)に創立された美術・デザイン・造形教育を行う学校です。(中略)本館はモダニズム様式の時計塔のあるレンガ造りで、ドイツのデザイン学校「バウハウス」の前身、ワイマール工芸学校を模したもので、(中略)平成20年には経済産業省近代化産業遺産に指定された貴重な校舎で学んでいます」なのだと。

↓周りはコンクリートのハコだらけの中にひっそりと佇む「寺西家阿倍野長屋」。

日本では唯一、国の登録有形文化財に指定されている長屋で昭和8(1933)年築。
ご飯やさんが多く入っており営業もしていましたが、年末なのにお客さんが来るんかいな?

JR阪和線・南田辺駅に続く商店街→
新大阪駅近くでこの日から連泊します。



参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

170日目 大坂の陣で散りし日本一の兵に思いを馳せながら(1)

2017-05-06 23:51:07 | 近畿(大阪・兵庫)
平成28(2016)年12月29日(木)


大阪環状線に乗って天王寺区の玉造駅へ。
ここで降りたのは、オマエさんに会いたかったからなのだよ!→
もっと言うならば、この年末の旅に大阪巡りを取り入れたのは、珍しく大河ドラマに熱を上げた「真田丸」の余韻に浸りたかったから。
夏にも長野県上田(初編2編)にも行ったのもあり、ミーハー感丸出し

路面にシールが貼られていますが、ここは「真田幸村めぐルート」といい、区のアピールのために天王寺区が設けた真田幸村(真田信繁)ゆかりの名所・旧跡11ヶ所を辿るお散歩コースで、真田山と天王寺の2カ所のエリアに分かれています。
区の設定通りのコースを忠実にとはいきませんが、なるたけ多く見て廻るつもり。

まずは「真田丸」があったとされている真田山エリアへ。
三光神社→
創建は5世紀初めとされていますが詳細不明。
大坂の陣後の寛文元(1661)年に別の地に移転し、宝永3(1706)年にこの地に戻ってきたという神社。
ここがどう幸村とかかわるかというと・・・。

威風堂々、勝ち鬨を上げる幸村さん→
像の左の六文銭の盾が並んでいる下、石塁のようなものは幸村が大阪城まで掘らせたとされる「真田の抜穴跡」。

鉄格子に鍵がかかっていて中に入れませんが、せめて覗いてみる→
古墳の石室のようで、別にどーって事なし。
「真田まつり」のある日だけ(毎年11月の第一日曜日)開けられるようです。

↓本殿
 
私の訪れた約2か月前の「真田まつり」にお目見えした「幸村ねぶた」が厳つい顔して睨みを利かせております。

ここって「ブラタモリ」で出てきた坂でしたよね?→

↓坂を上ると心眼寺があります。
 
三光神社もそうでしたが、ここも大河ドラマに触発された?ミーハー観光客で大賑わい。
このお寺さんは元和8(1622)年に白牟(はくむ)という和尚さんが幸村親子を弔うべく建立。

大坂冬の陣から400年の3年前に作られたお墓→
江戸時代は幕府直轄領だとして、作ることを許されなかったお墓。
400という切りのいい数字は分かるけど、明治になって以降作られなかったのは何故なんだろう?

お寺さん正面にある明星高校・中学校脇の「真田丸顕彰碑」→
真田丸やそこでの戦いなどについて解説が書かれているのですが、文字が小さくてとても読みにくいし。

真田山を去って大阪上本町駅前を通ります→
近鉄のターミナル駅で、ここに来るのは初めて。
来る前は渋谷や浅草などの関東大手私鉄のターミナル駅周辺のようなものを想像していたのですが、思ったよりも都会じゃなかったのには拍子抜け。

↓〔52〕大阪府大阪市天王寺区役所
 
かなりレトロな建物。

↓天王寺区の由来となった「四天王寺」にもちょっと顔を出してみます。

聖徳太子が物部守屋との戦いに前に四天王に祈り、その結果勝ちを収めたので推古天皇元(593)年に建立。
台風や空襲などでの大被害を受けるも、そのたびに復興され、現在ではほぼ元の通りに戻ったという。
「和宗総本山」を名乗っている四天王寺ですが、その意味するところはどの宗派の人でも参詣できるという事。

↓四天王寺の代名詞とも言える中心伽藍に入るとお金を取られるので、ここは眺めるだけ(左・金堂、右・五重塔)。
 

夏の陣ではこの石鳥居前で決戦が行われたという→

それよりも、幸村とはあまり関係のない、こちらさんを拝んだ方がいいな→
一見なんてことない中小っぽいこの会社は、社寺建築を主目的とする「金剛組」さん。
でも失礼ながら見かけとは裏腹に日本が誇る偉大な会社なのでありまして、何とビックリ仰天、敏達天皇7(578)年に創業された世界最古の超ウルトラスーパーご長寿企業なのであります。す、素晴らしすぎるではありませんか!
私も一介の商売人なので、長く続くようあやかるべく人目もはばからずお店の前で手を合わせる。
通りがかった人はこんな所で何をやっているのだと、さぞかし訝しがったと思うけどね。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→