ゆっくりのんびり市町村廻り

何年かかるか、もしかしたらできないかもしれないけど、日本の全市区町村の制覇を目指して頑張ってみる!

176日目 桜を愛でながら中山道を歩く・続編(5)~深谷・神保原

2017-07-24 23:46:56 | 南関東
平成29(2017)年4月8日(土)


北九州の次は今度は秋田ですか・・・。

実は先の3連休に秋田に行ってまいりました。
川が氾濫したとして一大事になっている大仙市・大曲にも僅かな時間とは言え滞在し、花火会場となる雄物川の土手も歩きました。
まさかあの土手の間際まで水が来るなんて。どんだけ降ったんだろう?
現地の方々、私がいくら自他共に認める雨男だからと言って、どうか「1週間遅れて変なのを連れて来やがって、このヤロウ!」などとゆめゆめ思わないで下さい。。。

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気持ちを切り替えて?深谷市の続きです。
が、かなり端折って深谷の建物図鑑的なものを造って終わりにします。
(行ったのがもはや随分前となってしまったので、当時の事を思い出すのが面倒なだけ)

和風建物の両側に煉瓦をあしらったお店→

老舗酒屋の赤煉瓦煙突→
埼玉県の「景観重要建造物」に指定されているそうな。

道路を挟んで屋号が似て紛らわしい2つの人形屋さん→
あたかも同一人が営んでいるかのようですが、お店のHPを見るとどうもそうではなさそう。
同族なのか、真向かいでも仲良くやっているのか、バチバチとやっているのか非常に気になる両店の関係。

深谷れんがホール→
信用組合の倉庫を昭和8(1933)年に解体し、その煉瓦を再利用して建てられた倉庫。
1階はレンタルスペースに使用されています。

七ツ梅酒造さん→
300年以上続いた酒蔵跡。
この奥に伸びる敷地には、違和感あるけど映画館「深谷シネマ」があったりします。
見た目結構人は入っているようでした。

左は坂本邸で市内最大級の町屋→
右は江戸時代から続く蔵元・滝澤酒造。
奥にチラッと写っている煙突には、戦時中に機銃掃射を受けた跡が残っているのだと。

赤い鐘楼が鮮やかな呑龍院→
この向かいに深谷宿西側を示す高さ4mの常夜灯があります。

小林商店→
大正元(1912)年築の赤煉瓦倉庫と昭和2(1927)年築の洋館がくっついた面白い建物。

ふっかちゃん横丁→
平成25年に開業した別名・深谷宿屋台村。

最後は埼玉県の最北端・上里町(かみさとまち)。
因みに今回使っている切符はお馴染み「休日おでかけパス(¥2,670)」。
この切符のフリー区間のうち高崎線で最も北が神保原(じんぼはら)駅で、そこは上里町の中心地。  

神保原駅→
高崎線では唯一、町に存在する駅。

↓駅前・南口(左)と北口。
 

役場は南口からほど近い所。
(648)埼玉県児玉郡上里町役場
昭和29(1954)年に4つの村が合併し上里村ができ、昭和46年に町に昇格。
関越道に上里サービスエリアがあるので、案外関東の人には馴染みがあるんじゃないでしょうか。
人口は約31,000人。

まあ、こう言っては何ですが、下調べで行きたくなるような名所旧跡等は上里町にはなかったので、テキトーに駅周辺を散策してお終いにします。

↓庭先に置かれていた奇抜な形の岩に目が留まる。
 
何に使い、或いは使われていたのだろう?

旧中山道→
神保原は宿場ではないので、当たり前ですが昔っぽい雰囲気全くなし。

現代の中山道(国道17号線)→
ロードサイト店が広がっており、車の数も多いですが、車線が少ないので詰まる事しばしば。

↓そんな中、この通り沿いにピラミッド型のパチ屋さんを発見。

でもシャッターが降り、草ボーボーが示すとおり仕舞屋。

反対側は扉が開けっ広げでしたので、ちょいとばかり覗く→
怖~い人が出てこなくてよかった(笑)。
個人的にはカジノは賛成でパチスロ廃止派の私ですが、でもこうした成れの果てを目の当たりにするととても切ない。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

176日目 桜を愛でながら中山道を歩く・続編(4)~深谷

2017-07-21 23:52:23 | 南関東
平成29(2017)年4月8日(土)


前々編でお話しした「上尾夏まつり」、ビックリしました。
突風が吹いて怪我人が出てしまったとか。
亡くなった人がいなかったのは幸いでしたが、紹介した事がとんだ藪蛇となったような気がして、何とも言葉がありません。

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お次は見所が実に豊富な深谷市。

深谷は中山道の宿場(板橋宿より9番目)として栄えましたが、市場町としても繁栄し、繭や生糸の集散地でもありました。
今でも街中には江戸時代的な?面影が随所に見られますが、近代以降の建物も数多くあり、散策には実にうってつけの町であります。

さてさて深谷駅には14時すぎに到着→

東京駅にそっくり駅舎というので有名→
駅舎内が暗いのも、薄暗い感のある東京駅丸の内側と同じ。

ふっかちゃん、深谷市のイメージキャラクター→
「ゆるキャラforチルドレン」の初代王者で、「ゆるキャラグランプリ」でも常に上位に君臨していたかなりの実力派ですが、一昨年の大会で残念ながら3位に終わり、大会からは退いてしまいました。
角は地元の特産「深谷ねぎ」、胸には深谷市の花である「チューリップ」のボタン。

その「深谷ねぎ」など、地元野菜をふんだんに使った「煮ぼうとう」は深谷の古くからの郷土料理で、今回は叶わなかったのですが、ずっと食べてみたいと思っている一品。

↓さしずめふっかちゃんが深谷のアイドルならば、神様と言ってもいいかもしれないのお方が渋沢栄一サン。

第一国立銀行や東京証券取引所、東京ガス、帝国ホテルなど多くの企業設立・経営に関わった「日本資本主義の父」。

↓近くには「渋沢栄一からくり時計」というのがあり・・・、えっ?

おかしいな?、「ふっかちゃんからくり時計」とは聞いてないし・・・。
実は定刻になるとこのアイドルは上に退場して、代わりに渋沢サンがお出ましするらしい。

↓駅の東側から伸びている遊歩道。
 
元々は日本煉瓦製造工場で作られた煉瓦の輸送専用線。
この工場で造られた煉瓦を用いて建設されたのが東京駅丸の内の駅舎。
こういう関わりがあったので深谷駅は東京駅を模したという事のようです。

↓遊歩道を歩いて行くと、盛ったネコばかりの?盛り場に出くわす。

ご近所の人によると、全部ノラなんだとか。

↓邪魔したら容赦しないぞ!とばかり、ドスの効いた顔で睨みつける見張り番のネコ?

怖すぎる・・・。

中山道深谷宿東側入口を示す常夜灯→
西側にもありますが、両方ともその高さ約4mと巨大なもので、中山道でも最大級のものらしいです。

ちょいとばかり中山道をはずれます。
深谷商業高等学校記念館→
大正11(1922)年築で大正ロマンの香り漂う建物。

(647)埼玉県深谷市役所
さて、間もない今月29日には「第22回深谷まつり」が開催されますので紹介しておきます。
が、上尾と同じように変な事が起きなければいいなと願う次第・・・。

ところで、深谷市には血洗島という何とも血生臭い、非常に気になる地名があるのですが、何を隠そう左のでかい立て看板に書かれている地がまさにそこ。

再び中山道。
大谷邸→
昭和初期に建てられた和洋折衷住宅で、国の登録有形文化財。

昔の面影残すお米屋さん→

↓唐沢川の桜堤と菜の花です→

 
規模は熊谷には及ばないけど、水面に映える淡紅色が実に素晴らしい。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

176日目 桜を愛でながら中山道を歩く・続編(3)~熊谷

2017-07-09 01:04:37 | 南関東
平成29(2017)年4月8日(土)


毎年のようにどこかで起こる大水害。
今回の九州、これ以上被害が拡大しない事を願うしかありません。
片や関東はというと、7月に入るやもう梅雨明け?って感じの凄まじい暑さ。極端すぎます。

ところで、3年前に訪れた東峰村の大行司(だいぎょうじ)駅舎が土砂崩れによって倒壊してしまったのを昨日知りました。いい雰囲気を醸し出していた駅だったのでとても残念です。

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熊谷駅北口→
バス停上の屋根から垂れ下がっている幕は、2年後のラグビーワールドカップが熊谷での開催決定したのを受けてもの。

「ラグビータウン熊谷」を標榜しているようですが・・・→
果たしてその認知度はいかほどなのだろう?

北口の駅前通りを進むと川が交差します→
星川と呼ばれている両岸のこの通りは「星川シンボルロード」と呼ばれ、所々に彫刻が飾られています。

鯉か鮒しか分からんかったけどな→

↓高崎線に並行する旧中山道(国道17号線)を越えて、高城神社へ。


↓狛○で犬以外は牛・兎・猫・獅子・馬に今回の亀と見ましたが(他にもあった気がするけど、よく覚えておりませぬ)、案外色々バリエーションに富んでいるもんです。


ここの占いと絵馬は特徴的です。
まずはコレ→
日本一長~い「おみくじ」、箱の長さ110cm、おみくじ棒はが80cm。
棒を箱から取り出したら2m近くになるのだから、それだけでも中々難儀っぽそう。

もう一つは写真に撮っていないのでお示しできませんが、木製の丸い玉である「むすび玉」。
玉の中に入っている紙(絵馬の一種と言っていいのかな?)を取り出して、願い事を書いてから玉の中に戻して奉納します。

(646)埼玉県熊谷市役所
人口は約20万人。
元々は「くまがい」だったらしく、鉄道が通った時に「くまがや」となったようです。

ここも中山道の宿場町で、明治初期には熊谷県の県庁所在地となったこともある埼玉県北の中心地。
生糸・製粉が主産業だったのが、鉄・セメント工場ができたことにより重化学工業にシフトしていく。
お気の毒な事に終戦の前日に空襲を受けてしまい、市街地はこっぴどくやられてしまったみたいです。

↓国道17号線に戻り、地元の老舗デパート「八木橋百貨店」へ。

埼玉県内初の百貨店でありまして、創業は明治30(1897)年。

ここに来た用件は買い物ではありません(百貨店には悪いけど)。
↓一見何の変哲もない出入り口からそのまま建物内の通路を進むと、向こう側の出入り口に行けます。


実はこの通路はかつての旧中山道そのもの→
つまり旧中山道にデパートが被さっているという珍しい形態。
因みに宿場町の名残りを留めるものは空襲で灰燼に帰した上に、さらに戦後の都市計画により現在は残念ながらほぼ見られないようです。

さて、熊谷を全国的に有名にしているのは、間違いなく夏の酷暑(と思われる)。
その凄まじさたるや平成19年8月16日に岐阜県多治見市と共に当時の日本観測史上最高気温40.9℃を観測した程だし、ニュースや天気予報で頻々に取り上げられるし。

日本一を叩き出した年から毎年登場するのが、百貨店出入り口に掲げられる「巨大な温度計」。
でもこの日はありません。
そりゃそうだな、夏なら何度まで上がったって興味あるけど、まだ春先には気温なんて全然気にしないし。
ただ、私が訪れた僅か1か月後の5月11日にはもう設置されたようです(熊谷経済新聞より)。
そんな時期から暑いのか・・・。

↓昨日(7月8日)、熊谷では今年最初の猛暑日だったようだし、さながらこんな感じの日がこれから続くんだろうな。
←見るからに暑い「あつべえ」。
ま、それは全国的にですが(ゲンナリ)

↓星渓園に少しだけ寄ってみます。
 
星渓園とは、元和9(1623)年に荒川が氾濫してできた「玉の池」を中心に作られた回遊式庭園で、池を水源とする川が星川。

秩父鉄道の上熊谷駅→
左が秩父鉄道、右の2本が高崎線。
残りの果てた線路はとっくの昔に廃止された東武線で、妻沼(めぬま)という所まで通じていました。
その妻沼には「妻沼聖天山」という古刹があり、そこの「歓喜院聖天堂」の本殿外壁の彫刻は実に豪壮華麗なんだとかで、最近国宝に指定されたみたいです。

しょっちゅう大暴れするので名付けられた荒川へ→
この時期の熊谷最大のイベントがここで行われているのでやってきました。

↓江戸時代から桜の名所として知られたらしい熊谷桜堤での「熊谷さくら祭」。
 
「さくら名所100選」に選定され、約2kmに渡り約500本ものソメイヨシノが植えられています。
熊谷の満開日は4月7日、つまり前日。絶好の時に来たもんだ(高笑)。
桜と菜の花、キレイだな。晴れていればもっと良かったけど、雨降りよりは遥かにマシ。

↓ここで飲み食いはしなかったけど、花を愛でられたし充分満足でございまする。


 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

176日目 桜を愛でながら中山道を歩く・続編(2)~上尾

2017-07-08 00:48:47 | 南関東
平成29(2017)年4月8日(土)

もうちょっとだけ浦和の続き。
悶々とした気分を抱えながら、工事中の浦和駅西口へ→
目の前の像は「武蔵武者群像」。
説明板には「彼らは荒野に開拓の鍬を振い、ことあれば剣を取って勇敢に戦った。争乱の世には、剛健質実な気風と固い団結をもって云々」とあります。
そうか、浦和レッズのあの一致団結した熱狂的で過激すぎる応援はそこから来ているのか。

でも西口といったらこちらでしょうか。
浦和区のマスコットキャラクター「浦和うなこちゃん」→
前編でもお話ししたとおり「鰻の街」浦和をPRすべく考案され、デザインは何と、あのやなせたかし氏なんだとか。なるほど、そんな感じの表情。

さてさて、浦和を終え高崎線に乗るべく駅構内に入る。
すると、何だかアナウンスが騒々しい。こういう時は何らかのアクシデント発生が鉄板。
いやーな予感を抱きつつ、毎度の事ながら何を言っているのだかよく聞き取れんアナウンスに耳を傾けてみると、「高崎線は8時すぎに発生した北本-桶川間の人身事故により、今度の電車は宮原駅で運転見合わせ・・・」思わず頭を抱える。

↓同じ場所でじっとしていられない私は、とりあえず電車で行けるところまで行こうとホームに。

立派な高架駅となった浦和駅、あのショボかった頃が懐かしい。
もっと言えば、ずっと昔は特急・急行はもちろん、朝夕以外の東北線・高崎線の普通列車ですら通過し、京浜東北線のみが細々と停まっていたのがウソのよう。

すぐに来た8時37分の電車は大宮駅の次の宮原駅までは行くけど、後はどうなるのか分からんのだと。
宮原駅とは、次の私の目的地の上尾(あげお)駅の一つ手前
どうしてもう一つだけ頑張ってくれんのかな?(苦笑)。

抑止中の宮原駅→
することがないので、駅の中をフラフラしていると9時頃再開のアナウンス。
先に宮原駅に到着していた高崎行き電車(写真左の電車)は突如3つ先の桶川駅止まりに変身して出発するのだと。
桶川より先に行きたい人はどーすんの?ですよね。無慈悲すぎ、お気の毒すぎ。

この事故ですが、ある女性が遮断棒の降りた踏切内に入って上り電車にはねられてしまったようです。
もし自○だったとしたら、これ以上のはた迷惑な話しはないのですが、或いは急ぎの用があってついつい潜ってしまったんでしょうか?
でも、狭い日本そんなに急いで永遠にどっかに行っちゃったとあれば本当にシャレにもなりません。
NAVERまとめ」には、はねた電車に偶然乗っていた方々の実況、当惑・お困り等々の声などが纏められてました。

大ダメージは何とか回避して上尾駅へ→
「大宮行き」になっている右の電車がどうやら件の電車らしいです。

↓快速何だかみなかみ、とか言ってった臨時列車も上尾駅に止められたまま。

あたかも「オレ、これからどうなるの?」って感じで止まってます。

↓上尾駅西口と近くの商店街。
 


上尾市のマスコットキャラクター「アッピー」は、以前登場した本宮市のキャラ「まゆみちゃん」と結婚して、 子供「あゆみ」までいる設定なのだと。
ゆるキャラごときにそこまでやって話題作りをして、肝心の町のPRはうまくいっているんでしょうか?

↓片や西口。
 

↓西口側のウラ通りを歩いていたら、とあるお寺さんへ。

このお寺さんでは近々大仏様を建立するとの看板が掲げられていました。
どんな大仏様ができるのでしょうか。どうせなら度肝を抜くようなものを・・・。

(645)埼玉県上尾市役所
江戸時代は中山道の宿場町だった上尾。
田園都市だったのが東京のベッドタウンとして住宅が増え、さらには大工場が進出し重工業都市へと変貌と遂げる。人口は約23万人。

これからのある上尾市のイベントの宣伝でもしておきます。
上尾商工会議所のサイトより→
「上尾夏まつり」です。7月15日(土)・16日(日)に絶賛開催予定。

これと言って特段見たい上尾での史跡旧跡等はないのですが、どうしても一か所だけ行きたい所がありました。それは市役所から南約1・5km位の所。

かつて私が埼玉県民だったのは前編でお話ししましたが、当時近所のおばちゃんに連れられて毎年スケートをしに行っていた場所がありました。
それがここ→
「水上公園」とだけ覚えていたのですが、施設の様子などはちっとも覚えていませんでした。
でも、次第に思い出してきたぞ→
この左の建物でスケート靴を借りて履き替えて、階段を下りてスケート場へ。
茶色の陸上トラックのような所でグルグル周って滑ったのですが、当時は今のように真っ平ではなく、凹んでいたような?
そもそもスケートができる雰囲気が全くないぞ・・・。

ちょうど、事務員のおばちゃんが通りかかったので、「昔、ここでスケートができましたよね?」と聞くと、「そうでしたね」。
今ではスケートは近くの施設でできるように移されたので、凹みは潰されてしまったそうです。

埼玉時代の少年期にほんの一瞬でも戻れて、満足して駅に向けて歩きます。
↓宿場の面影、まるでなしの旧中山道。
 
当時からあるのはこの神社くらい?

駅に戻ればダイヤはかなり回復しつつありました。
次に全国的に知名度の高い熊谷へ一気にぶっ飛びます→

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

176日目 桜を愛でながら中山道を歩く・続編(1)~浦和

2017-07-01 00:51:31 | 南関東
平成29(2017)年4月8日(土)


かなり早い時期から桜満開を見計らって行こうと決めていたJR高崎線沿線日帰り旅です。

今年の東京の開花は本土トップを切っての3月21日。
え゛っ、早すぎるんだけど。年度末の忙しい時期には出掛けられないので、下手するとその間に散っちゃうじゃん・・・。
そんな心配をよそに満開になるのが妙に遅く、まず4月1日に行こうと決めたけど寒かったし雨だったので、8日に延期。
まあ、その8日も朝は雨だったけど・・・。

さて、3年前に4回にわたって「中山道を歩く」と銘打ってブログを書きましたが、今回は埼玉県内の残りを一気に片付けます。

↓首都圏の街巡りの際はお決まりの稲毛駅4時49分の快速電車で出発、東京駅で京浜東北線に乗り換えて北浦和駅にて下車。

手始めに、さいたま市の浦和を歩きます。

駅前を旧中山道が南北に貫いています→
キツネのような、でっかいリスのような像は、浦和レッズのマスコットらしい。
サッカー王国として知られる埼玉県、中でも浦和は「サッカーの街」の名を欲しいままにしている土地柄。

この道を南、つまり浦和駅の方に向かいます。
北浦和駅周辺は、特段昔ながらの古い建物なんかは見られず。

JR東北線の線路を跨ぎます→
後で知ったのですが、東京都心の満開は4月2日でしたが、一方の埼玉県熊谷は4月7日。
結果的にめでたく見頃の時期を選んで出掛けたという事になりました。

浦和は中山道の宿場(板橋、蕨を経て3番目)→
ちょっぴりではありますが、宿場の名残りを感じさせる建物が見られます。

毎月2と7の日に開かれたという浦和の市、その市場跡→

↓何かしらの汚物を拾い上げているかのようなこの像は、野菜を売る「農婦の像」。


仲町交差点付近→
ここらに本陣があったらしいです。

↓(644)埼玉県さいたま市役所
 
細かいところですが、さいたまの「さ」の字はこの「さ」で、にあらず。
平成13年に浦和市・大宮市・与野市が合併して誕生し、平成15年には政令指定都市に昇格、平成17年に岩槻市を飲みこむ。
現在10の区に分けられ、市としては全国第9位の130万人近い人口がいます。

埼玉県庁所在地であるさいたま市ですが、突っ込みどころの多い都市でもあります。
まず、テレビの天気予報なんかを見ていると当然「さいたま」と表示されるのですが、これが実にカッコ悪い。
少なからずそう思っている市民(県民も含めて)も多いのではないでしょうか。

次に、埼玉県は旧武蔵国埼玉郡が由来ですが、平成13年合併時の「さいたま市」は全く埼玉郡にかすりもしなかったので、本来は「さいたま(埼玉)」を名乗る資格がなかったウソ偽りの都市名。
そもそも浦和・大宮・与野は元々足立郡であったのだから、東京都足立区に気兼ねする事なく、寧ろ堂々と「足立」を使った方が良かったと当時私は思ってました。
今では埼玉郡に属していた岩槻をめでたく?手中に収めましたので、一応偽名は返上できました。

市役所敷地内にある「埼玉サッカー発祥の地」→
そのキックオフ、明治41(1908)年6月7日午前。

〔55〕埼玉県さいたま市浦和区役所
何とビックリ、お粗末な建物! このひどすぎな扱い、ナニ?
と思いきや、元々市役所本庁舎1階が区役所であったのですが、耐震補強工事の煽りを受け、ここに仮移転させられてしまったみたいです。今現在は工事は終わったかどうか知りません。

かつて「鎌倉文士に浦和画家」という言葉があったそうです。
関東大震災以降、被災した多くの画家が浦和に移り住んだため、文豪が多かった神奈川県鎌倉と並んでそのように称されたのですが、今でもその流れを受け継いでいて、文教都市でもあり、首都圏でも屈指の高級住宅地なんだそうです。
歩き廻った範囲が狭かったためか、あまりそんな感じは受けなかったけど・・・。

この日のお天気→

埼玉県庁
私にも少年だったという過去がありまして、その約10年程は埼玉県民でした。
小学校の社会科見学に県庁が入っていまして、ここはそれ以来。
ただ、建物と建物を繋ぐ長ーい渡り廊下を歩いた事しか覚えていません。

裏門通り商店街→
県庁官舎の裏門に通じることから名付けられたこの通り、レトロなお店多し。

玉蔵院→
弘法大師が創建したとされる真言宗の古刹で、しだれ桜と白砂の庭が美しいのだとか。

さくら草通り→
埼玉県では初めて、全国で9番目に整備された歩行者専用道。
毎月第4木~日曜には古本市が催されるようです。

幾つか見受けられた鰻屋さん→
鰻の蒲焼の発祥地は浦和という説があるようです。
江戸時代は沼地が多かったという浦和、そこで採れた鰻は味の良いことで評判だったみたい。

↓調神社
 
読みは「つきじんじゃ」。伊勢神宮への「調物(みつぎもの)」を納める倉庫があったという神社。
神社にして鳥居がないのと、狛兎なのが大きな特徴。
お水取りの兎はどちらかというと海獣っぽいけど。

浦和第一女子高校→
埼玉県で最古の、一番名前の知られた女子校で、県内トップクラスの進学校。
ここに来た理由ですか? もちろん登校中のピチピチの女生徒を見・・・。
いやいやそうではなく、昔この高校出のとても可愛かった才女と付き合っていたことがありましてね、どんな姿で通っていたのかなあと想像しに。
ま、そんな意味のない事をしてて虚しくもなりましたけど。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

175日目 バイバイ、伊豆大島

2017-06-29 00:35:23 | 南関東
平成29(2017)年3月10日(金)


島の北端にある岡田港に三度戻ったのは14時頃。
もう1時間もすれば大島を去る時間になります。
奥の建物が岡田港客船待合所→

行きに乗った船(さるびあ丸)が停泊中→
神津島(こうづしま)まで行って折り返して来て東京に戻る途中(だと思う)。
ただ、帰りはこれを使いません。

待合所で帰りの切符を買い、売店が併設されている食堂へ。
大島名物である「べっこう寿司(¥550)」を戴きます→
地の白身魚を青唐辛子醤油につけたピリ辛のお寿司。
なかなかうまい。

お金を払い終わって、ふと目をやると店内にはデカデカと「JAF 1割引き」の貼り紙。
しまった! 55円損した!!(せこい)。
因みに1割引きは売店で売られているものも然り。

待合所は東海汽船の施設。
もしや、ひょっとして?と思い、再び船の切符売り場に行くと、あちゃーやってもーた、でした。
普段からJAF割については注意深くしているのですが、竹芝では全く気づかず。
一応、恐る恐る窓口で引いてくれるか聞いてみると、気持ちよく応じてくれました。

行きと同じ船・ルートは面白くないわな→
そこで、高速船で、しかも房総半島南端の館山廻りで帰ります。

通常¥4,200が東京都の大盤振る舞いで¥2,700になり、さらにJAF会員の特権で¥2,430と、58%に安くなりました。バンザイ!
館山経由東京行きの便は不定期で、冬~春にかけて運行する事が多いようです。
千葉発大島行きもあるにはあるのですがツアー便らしく、私のような旅をしたい者には役に立ちません。

さて、あまり時間はないのですが、港付近をフラフラしてみます。
↓落ち着いたなかなか趣きある街並み。
 
民宿多し。観光地だし、港が近いから当然か。

↓コヤツが猛威を振るっていたのは房総半島だけだと思っていたら・・・。

元々は大島公園内で飼われていたらしいのですが、今から45年ほど前に島を襲った台風によって施設が壊れてしまい、逃げ出したのが野生化して増えてしまったようです。
キョンには罪はないのですが、町の特産のアシタバやツバキ等を貪るため悩みの種となっているんだとか。

↓日の出浜→
 

そうこうしているうちに出航の時間となったので桟橋へ→
またお会いしましょう、大島。

↓椿の手ぬぐいを被った姿が実にサマになっているワンコの見送りを受け乗船。

たちまち人気者になり、あちこちで「きゃ~、かわい~~」との黄色い声が上がる。

地元の人による港での見送りって、ホントいいよなあ→

↓さすがにジェット船は速く、約1時間で館山港に到着。

折しもクルーズ客船「ぱしふぃっく びいなす」が寄港中。
クルーズ船を間近にするのはひょっとして初めてかな?やっぱりでかいのぉ。
我々が乗って来た船なんか蟻んこレベルだけど、速さと小回りの利きだけは負けてない(ハズ)。

↓目の前は「番外編」でも出てきた「みなとオアシス渚の駅たてやま」。


春満開、館山駅→
ここから内房線で2時間かけて千葉に帰ります。

 

175日目 伊豆大島・三原山に登る

2017-06-26 23:28:46 | 南関東
平成29(2017)年3月10日(金)


我がブログでもこれまで幾度か出てきた「ジオパーク」。
ここ伊豆大島は平成22年に「日本ジオパーク」に認定されています(参照:伊豆大島ジオパーク)。
つまりは「地球は生きている」を実感できる場所でもあります。

ジオパークの見所を「ジオサイト」といい、波浮港や地層切断面もその一部なのですが、ここのジオサイトの肝は断然三原山!
というワケで、岡田港で三原山行きのバスに乗り換えます。
新火口展望台→
バスはここでちょっとだけ止まって「昭和61年の噴火でうんたらかんたら・・・」と説明し始めたのですが、よく聞き取れずここが何だかよう分かりませんでした。

三原山頂口バス停のある所→
ここで全員バスから否応なく降ろされます。というか、バスの終点なので。

海を臨みます→
一応かすーかに富士山は見えてはいるんですけどね。
クッキリと見えず残念です。

↓ちと小腹が減ったので、島の名物「あしたばまんじゅう(¥200)」を戴きます。

密かに楽しみにはしていたのですけど、思ったほど旨いものではないな。

眼前にドーンと鎮座する三原山に圧倒される→
ウルトラセブンが戦っていそうな広大な荒野もなかなか壮観。

標高758m。富士火山帯に属する海中噴出による複式成層火山。中央火口丘は御神火(ごじんか)として知られてます。
昭和61(1986)年の噴火では、全島民が一時離島し約1ヶ月の避難生活を余儀なくされる事態となったのですが、私もそれはよ~く覚えております。
35年前後の周期で噴火しているらしいので、もうそろそろ?

もちろん山頂を目指します!→

所々にシェルターがあります→
写真中央の黒い塊は、昭和61(1986)年での噴火の溶岩流先端部。
万が一登山中に噴火が起こり、ここに逃れても脱出できないまま溶岩が押し寄せて来たら、と思うといささか心許ない。


↓カルデラの平坦部を終えると、クネクネした道で急な坂、正直キツイです。


高さ5mのアグルチネート→
アグルチネートとは、噴火の時に吹き上げられた溶岩のしぶきなどが落ちて積み重なったもの。

この近くには三原神社があります→
昭和61年の噴火では溶岩流が避けて流れてくれました。
神様は本当に神ってました。

三原山はゴジラの聖地であるとの証しとすべく?、自ら作っちゃいました。


火口が近づくと、あちらこちらで湯気が湧き上がってます→
あたかも「地獄」に来た雰囲気です。

↓やっと着きました火口展望台。
 
火口は直径300m、深さ200m。
ただ、これ以上近づけず(遊歩道の両側には大したことのない柵しかないので、もっと近寄ろうと思えば近寄れる)。
かなりの人が思ったとは思うんですけど、もうちと火口に近い所にこれを造ってくれないかと。
欲を言えば、中まで覗き込めるような場所でね。

↓昔はラクダで山を登れたらしいのですが、今では馬に取って代わってます。

ま、どちらにせよ乗ってみたいもんです(私の足腰が立たなくなってここに来たらね)。

避難所をかねた展望施設では三原山のお勉強ができます→
「山頂口ジオパーク展」が開催されていて、ガイドさんがいろいろ説明してくれます。
ですが、私が尋ねたのはほとんどが昭和27(1952)年に起こった「もく星号墜落事故」や昭和8(1933)年に続出した火口への身投げ(その数、ナント900人以上)の事。

そんなの聞く人いないよな~とは思いつつも、ガイドさんはきっちりと答えてくれました。
さすが!しっかり学習?してらっしゃる。
もちろん三原山や、昭和61年の噴火の事も教えてもらいましたよ。

 

175日目 伊豆大島・波浮と元町散策

2017-06-24 23:53:15 | 南関東
平成29(2017)年3月10日(金)


↓何はともあれ波浮(はぶ)港を見渡そうと「みはらし休憩所」へ。

波浮港はかつては火口湖で「波浮の池」と呼ばれていたそうですが、元禄16(1703)年の大津波によって海と繋がってしまったという。
そして寛政12(1800)年に港が完成して以来、遠洋漁業・沿岸漁業の拠点や避難港としての役割を果たすようになる。

このまま高台をぐるっと廻り、向こう岸の集落に向かいます。
正面に見えるは利島(としま)→
いずれはそこへも行く(つもり)。

↓旧甚の丸邸
 
明治に建てられたなまこ壁のお屋敷で、かつてはなまこ壁の続く美しい街並みだったそうな。
そして多くの網元があり、その屋号には「~丸」と付けられていたそうです。

高台を下ります→

↓すると、その途中に立派な建物がデンと構えています。

「旧港屋旅館」で、今は「踊り子の里資料館」。

ガラス越しに覗いてみる→
げっ、人がいるじゃん!
と一瞬焦るも、実は人形であります。
波浮港は川端康成の小説「伊豆の踊り子」の舞台となった場所で、建物の中にはそのモデルとなった旅芸人一座の人形が展示されているようです。

↓昔は大賑わいだったようで、特に時化の際の退屈しのぎの為の?遊郭があったというこの通りは、今も情緒溢れた街並み。


ウラ通りもまたよし→
特に生活感溢れた様が。

大島の中心である元町にやってきました→
左側のシートに覆われている建物は「東海汽船船客待合所」。

↓その日の波によって船の発着する港がここか岡田港に変わるのですが、この日の出入港は夜行船で到着したが如く岡田港。

なので中はひっそり。

これじゃあな、着岸はしんどいな→
風がムチャクチャ強く、かなり離れているのに飛沫が顔に当たるし・・・。

ちょっと離れた場所から→
体が飛ばされそうです。

(643)東京都大島町(まち)役場
伊豆諸島最大の島・大島全域を占める大島町には約8,000人が暮らしています。
が、「過疎地域」に指定されていて、目下人口が激減中。

観光・農業・漁業・畜産が主産業。標高758mの三原山は有名だし、特産品の大島椿も知られています。
でも、それだけじゃ若者を島に留まらせるようにはならんようで・・・。

因みに伊豆諸島の町や村には「○○郡」というのはありません。
それに「伊豆」諸島とあるくらいだから、本来は伊豆国の一部、つまり静岡県に属すべきかもしれませんが東京都です。

実は明治維新後幾つかの変遷を経て、明治9(1876)年に静岡県になるも、古くから伊豆諸島は江戸との結びつきが強く、それは明治になっても変わらなかったため、島民は東京府への編入を望んだという。
それが僅か2年後に叶い、島民は大喜びしたといいます。

為朝館跡→
為朝とは源為朝で源頼朝の叔父。
保元元(1156)年の保元の乱に敗れ、大島に流されて居を構えた場所。
為朝の為に許されたという朱塗りの門から「赤門」と呼ばれているそうです。

警察署にて。ナゼ半旗?→
東日本大震災なら翌日ですし・・・。
あーそうか、この日は東京大空襲のあった日なのだな。
合掌。

長根浜公園にあるゴジラの像→
ゴジラにしては、ちっぽけすぎ。「ミニラの像」の間違いじゃないのか?
この公園内には、昭和61(1986)年の三原山噴火によって湧き出た温泉「元町浜の湯」があります。

それよりも大島とゴジラとの関係は?
私はゴジラ映画を見た事はないのですが、何でも昭和59(1984)年の映画では、最後にゴジラが三原山の火口に落っこちてしまうみたいです。
でも、たったそれだけで大島では三原山は「ゴジラの聖地」になってしまっているようです。
だから町は昨年大ヒットした「シン・ゴジラ」に便乗すべく、ドでかい像を造って島に観光客を呼ぼうとしたのですが、島民の猛反対を食らい、残念ながら幻となってしまったとか。

さて、これよりその大島観光の大看板である三原山へ行きます。
実は波浮からのバスを降りて、すぐに三原山へ行くべく、「東海汽船船客待合所」前の三原山頂口行きと表示されているバス停で待っていると、たまたまいた他のバスの運転手さんに声を掛けられる。
「どこへ行くんだ?」「山」「この時間にはないぞ」
この日の三原山行きのバスは朝一番を除いて全て岡田港からなのでした。
確かに時刻表にははっきりと「発地」が「入港地」とあり、つまりこの日のバスは岡田港が始発で、その場合には元町には寄らないのですが、私は勝手に寄ってくれるものと思い込んでいたのでした。
はい、アホでしたね~。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

174・175日目 初めて行く伊豆諸島・大島

2017-06-19 23:49:52 | 南関東
平成29(2017)年3月9日(木)・10日(金)


あ~、アレはまだやっていたのかあー。
そう思わずつぶやいたのは、一度も足を踏み入れた事のない伊豆諸島にそろそろ行ってみたいなと、東海汽船のサイトを覗いていた今年2月中頃。
眺めているうち、行った事がないのもあるけど、アレを逃すのは勿体ないんでないかい?という貧乏性が頭をもたげ、終いには今のうちに行っちゃお!と俄かにその気になってしまいました。
ところで、そのアレとは?

平成25年10月16日、台風26号によって伊豆大島では大規模な土石流が発生し大きな被害を受けたのを受け、観光振興と経済復興を目的とした東京都による伊豆大島観光復興支援事業。
そのお蔭で、船や高速船、宿が通常価格より安く利用できていたのですが、今年の3月末で終了してしまいました(大島への船は3月26日まで)。

その気になってからというもの来る日来る日も天気予報とのにらみ合い。
何故なら、東京湾を出て外洋は波が荒れている事が多いので、比較的穏やかな日を窺っていたのです(仕事を持っている身なので行けそうな日との兼ね合いもある)。
でも季節柄ほぼ毎日のように波浪注意報警報やらが出ている有り様。

そんな悠長にしていたら大盤振る舞いが終わってしまうよ!
↓意を決して22時発の夜行船に乗るべく、ビルの間から覗く東京タワーが美しい浜松町駅から歩いて、マストがシンボルの竹芝客船ターミナルへ。


 

早速切符を購入→
どうせ一人身だし、ケチ臭く最底辺の2等船室で充分。
それより、通常であれば4,270円であるのところ1,500円もの値引き。
これで結構満足していたのですが、ところがどっこいさらに10%も安くなる技があったのだ

それを知ったのは帰りの時。
後でそれはお話ししますが、ま、以後東海汽船には幾度かお世話になるだろうから、永遠に知らないよりかはマシだろうと、自らを慰める(窓口で注意を払っていればよかっただけの話しなんだけど)。

因みにこの日(3月9日)も強風波浪注意報が出ており波の高さ2.5mの予想でしたので、窓口の人に「大島、波どうですか?」と聞くと「大島は大丈夫」と返ってきたので一安心。
こんなにも波に対して神経質なのは、ひとえに長崎でのトラウマなのです。

さて今後ですが、翌日島を観光してその日のうちに帰宅する予定。
ですので、船中泊するとは言え、実質日帰りです。

出航時刻20分前から入船→

定刻、船らしくドラが鳴っての出帆→

初めて見る船からの夜の東京港→
光り輝く摩天楼にレインボーブリッジ、うっとりするな。

右手にはオレンジ色の工業地帯→
工場萌え~、な光景です。

レストランで晩酌をしてから寝る体勢に入るも、最悪な事に大騒音を発する人がすぐ横。
おまけに大音量のテレビは誰かがつけっぱなしで、消そうにも船内は消灯していてリモコンがどこだか分からん。
そんなこんなで神経質な私はなかなか寝付けず、比較的静かな場所を探しあて何とか寝付く。
恐れていた波ですが、どうだったかな、覚えていません。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

起きたのは5時過ぎ。
↓うすら明るい5時50分、穏やかな岡田港に到着→

 

↓バスが船待ちをしていたので、すぐに乗って車内でコスパよろしき「大島バス1日乗車券(¥2,000)」を購入。


バスの中から見ただけですが地層大切断面→
昭和28(1953)年に道路建設工事中に偶然発見された、別名バウムクーヘン。
長さ600m、高さ30mあり、過去2万年に及ぶ噴火での火山灰などが100層ほど積み重なった美しい地層。

6時半過ぎに波浮(はぶ)港へ→
これよりしばらく波浮の町を散策します。

 

160日目 たくさんの日本一が自慢の町・鴻巣

2017-01-12 23:55:21 | 南関東
平成28(2016)年9月8日(木)


この前日(9月7日)の午後6時頃になって、翌日(9月8日)急遽仕事で行くことが決まった埼玉県の川口市役所と鴻巣(こうのす)市役所。

普段の行いは悪くないハズなのに(?)、台風13号(8日未明には温帯低気圧に変わってしまったけど)が接近していてその影響で8日の関東は昼前後に大雨に見舞われ、場所によっては「滝のような」なんて脅しているかの如き予報になってるし・・・。
よりによってね。ホント相変わらず出掛け時の天候には恵まれないよなあ。

果たして当日早朝、ネットで埼玉の天気を見ると案の定大雨のようなので、しばらく様子見して出発は11時すぎに。
結果的に時折降られたけど、せいぜい噴霧器程度で、ちと最近の天気予報は大げさすぎるきらいがないでもない。

現地へは車を使います。
東関道→首都高・中央環状のルートを通り、渋滞情報で耳なじみの鹿浜橋ICで降りて川口市役所へ。
以前ここは来ているので、細かいことは省略。
ただ、今まで行ったほとんどの役所建物の様子は朧気ながらも脳みそから引き出せるのですが、川口市役所の場合は行くまで全く思い出せず。数多く行っていればそういうこともあろうわな。

そこを済ませて、続いて東北縦貫道と圏央道を使い、桶川加納ICで降りて鴻巣市役所へ。

(610)埼玉県鴻巣市役所
埼玉県の中央東寄りに位置する鴻巣市は、東京のベッドタウンの機能を持つ約12万人が住む町。
地名の由来は市のHPによると、「かつてこの地に无邪志国(むさしのくに)の国府が置かれたことから「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったと伝えられています。」という。

↓なので、市役所には剥製が飾られているし、市のキャクターもコウノトリを雛を起用しております。
  
でも、市の形は蝶のようだったりする。
何といっても鴻巣市のセールスポインントは数多くある日本一

思いがけず早く事は済んだので、早速、目指せ日本一の開始。

まずは長閑な場所へ→
ここが日本一?というワケではありませんが(私の知る限り)。
「忍川」の看板でピンと来た方もいるかも知れません。

私は絶望的なくらい活動写真音痴であるため全く知らなかったのですが、近年上映されたらしい「のぼうの城」で出てきたというここ。

↓石田堤史跡公園
 
頃は天正18(1590)年、天下統一目前に迫った豊臣秀吉の小田原征伐。
石田三成が敵方の籠る忍城を水攻めした時に築いた約28kmに渡る堤の跡。

目の前を走る上越新幹線高架線の下に飾られた絵→
石田三成はここで手こずり、戦下手としてのレッテルを貼られる事になる。

次にようやく一つ目の日本一へ。
↓昭和59(1984)年に完成した荒川水管橋(全長1,100.95m)。

日本一長い水管橋です。

JR高崎線・鴻巣駅周辺へ→

日本一どころか、世界一までも持っております→
平成26年10月11日に打ち上げられた正四尺玉(464.826kg)が世界最大の打ち上げ花火として、ギネスブックの載ったといいます。
おまけに平成23年10月8日に打ち上げられた「鳳凰乱舞」では、約4分間に尺玉300発・三尺玉2発の計302発の尺玉以上の花火が上がり、1分あたり約75.5発は日本一に認定なんだとか。
さぞ壮観であったでござろう。

↓「ひな人形と花のまち」を高らかに宣言している鴻巣。

ひな祭りの時期になると駅前のショッピングモールで飾られる「ピラミッドひな壇」の高さは7.0mで、それも日本一。
やること豪快、鴻巣市。
花に関しては、今回行きませんでしたが、日本一大きなポピー畑があるのだという。

↓駅前にうろついていたこのお方は、見る人見る人を片っ端から声かけています。

撮影機材を下げているので、怪しいビデオの撮影?
でも、老若男女に声をかけているのでそうではありません。

「テレビ東京のアド街ック天国という番組で、今度、鴻巣のご当地グルメの特集やるのでその取材に来ているんですけど、ご協力お願いできませんか?」
と、私も呼び止められる。
ですが、「ここの市民じゃないのでねえ」と答えるしかない。
取材者は懸命に声をかけどもかけども、ほとんどの人に応じてもらえずかなり気の毒。
テレビ番組を作るって大変なのね、と実感した次第。

旧中仙道(県道164号線)→
「ひな人形のまち」だけあって、人形屋さん多し。

地名もズバリ「人形」だし(笑)→

鴻巣市産業観光館・ひなの里→
中では名産品の販売は勿論、多くの人形が飾られております。

ここも勿論一肌脱いであげてます→
放送までもうちょっと先だし、さっきの取材者はしばらく鴻巣詣でかな?

最後に行った場所→
向こう岸は吉見百穴で知られる吉見町。
川幅は2,537mあるというけど・・・。

肝心の水路はこれっぽち→
10m位?もうちょっとある?という程度にしか見えず、何ともインチキっぽい。

↓これに因んだ「川幅うどん(麺の幅は5cmを超えないと認められないらしい)」の乾麺を実家に買って帰ったのだけど・・・。

でも今日現在まだ食べていないんだとさ・・・orz。賞味期限大丈夫か?
「川幅」と名の付く食いもんは、ソバ、ラーメン、餃子、せんべい、ケーキなど様々あるらしく何でも作っちゃえ状態。
当然これらはテレビで取り上げられたとは思うけど。

なかなか味があって面白かった鴻巣観光はこれで終了、この日優勝が決まるかもしれないカープ戦を聞きながら帰宅(結局、優勝はお預け)。

 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

156日目 蒸し暑かったこの日はお隣さんへ

2016-07-30 23:19:46 | 南関東
2016年7月13日(水)


私の住んでいる稲毛からそこそこ距離があるので、別世界にある感じの町。
だけど有料道路を使って車を飛ばせば30分程度で行けてしまうので、そういう意味では遠いどころかとっても近い。
そんな遠くて近い千葉市の東側に隣接する大網白里(おおあみしらさと)市に、仕事ができたので車で行ってまいりました。
もちろん、町中をうろついたのは仕事が済んだ17時頃から。

(601)千葉県大網白里市役所
東西に細長い自治体で、人口は約5万人。
つい最近、平成25年になったと同時に晴れて町から市に昇格。
「町」に長い間慣れていたので、どうもにも「市」に違和感があります、正直。
この間なんか郵便の宛先を「町」で書いてしまっていたし。
ところで、私がここを訪れた前日に亡くなった大橋巨泉さんの最後の居住地がここ大網白里市だったという。ふむう。

JR大網駅→
奥が千葉方向で、左は外房、右は東金の方。
駅ホームは二手に分かれている変わった作り。何でこんな風になっているかというと・・・。

↓東金方向の線路に沿って大網駅から北東へ4~500メートル程度行くと、こんな場所があります。

ここはかつて大網駅があった所(奥が東金方向)。
私の記憶ですと、そう遠くない頃にまだ昔の駅舎・ホームが放置されていた気がします。
昔の外房行きの列車はここでスイッチバック。それを解消するために外房線の新線を作り駅を今の場所に移したワケです。

旧駅からちょっと大網駅寄りにある踏切→
右のちょん切れた線路が外房への旧線。

旧駅舎跡地は今は公園→
因みに千葉駅も大網駅と似た感じの構造なのですが、千葉駅も房総半島へ向かう列車のスイッチバック解消のため、現在地に移転した経緯があったりします。

↓旧駅近くの、恐らく昔は大網の中心をなしていた商店街。

駅が近くから消えた(?)せいか、すっかり廃れてしまっています。

再び大網駅前→
大網シンボル(?)の高層ツインビルが迎えてくれます。

県道20号線を跨ぐ外房線の高架線→
この高架線を向こう側に、これまた最近まで旧外房線の線路があって踏切もあったのですが・・・。
今はですっかり一掃されて、そのカケラも見当たりません。

↓高架線をくぐると、ロードサイト店舗っぽいのが立ち並んでいたりイオンがあったりと、今では市の中心部っぽい様相を呈しております。


でも、ちょっと離れるとこうなっちゃう→
商売って厳しいのお。

さて、県道20号線を東にひたすら進むと海に辿り着きます(途中で県道83号線になりますが)。
せっかく車で来ている事だし、行ってみます。10km程度なんで。

海までの途中にある増穂地区→
ここらは住宅・商店が広がっていますが、それ以外は田んぼばかりの地区。

ところで察しはつくと思いますが、「大網白里」は「大網+白里」、つまり2つの自治体が合併してできたものと思うでしょう。
でも正解は「大網町+白里町+増穂村」。昭和29(1954)年に合併して、前身の大網白里町が誕生する。
「大網白里増穂町」ではさすがに長すぎる。そこで唯一村だった増穂にご退場いただいたのでしょうが、弱肉強食は世の常ですな。

↓正面の壁っぽいのをくぐると、そこは地の果て。


その名は「白里海岸」→
全国に通じる名前で言えば九十九里浜
白里地名の由来は知りませんが、九十九里浜に面している集落。
仮に「九十九里=百マイナス一(いち)里=白里」(白寿が九十九歳であるのと同じ理屈)だったとしたら、昔の人の洒落っ気に感心するワケです。

↓2つ上の写真の壁は「九十九里有料道路(通称・波乗り道路)」の盛り土。

ただ、かさ上げ工事のため今年の4月から来年3月いっぱいまで閉鎖中。

↓夏は海水浴場客で賑わう海岸ですが、この日は人っ子一人いません、当たり前か。

あれから2週間あまり、梅雨も明けたし暑くなったしで、いよいよ夏本番!
そして「海の家」で働く人は多くの人が来てくれないかと、こう歌っているハズ(?)。
♪ああ神様お願い~

ぱやぱや。

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参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→

155日目 神奈川の陸の孤島へ上陸

2016-07-26 23:51:17 | 南関東
2016年6月11日(土)


山を下りてくれば、その後は普段見慣れている関東平野の平坦地へ。

(599)神奈川県愛甲郡愛川町役場
町内には鉄道も駅もないけど、相模原市など大きな都市と接しているためか、人口はかなり多い4万人あまり。
このまま順調に増えれば市への昇格もあり得たのですが、近年は頭打ちのようです。
「愛」を二つも持っている町、というワケで、♩きっとここから愛なんだ~、と思わず歌いたくなる所(私だけ?)。

役場前の道路(県道65号線)→

↓役場前にある、よくありがちな商売広告の地図。


よーーーく見ていると、面白いもの発見!→
内陸にありながらおかしな地名。
もしかして大昔、ここらはそういう場所で今では地面を掘ると多くの貝殻なんか見つかるんかなと。

興味があったので帰宅して調べてみる。
まずは読み方は普通に「かいてい」。
と思いきや何と、おぞこというらしい。
かつては手漉き和紙の産地だったという。

さらにはタコやカニなんかしか使ってくれなさそうな海底橋などという名前の橋もあるという。ただ、今は壊れてボロボロになっているようですが。

↓明治16(1883)年に豪農によって建てられた、国登録文化財「古民家山十邸(やまじゅうてい)」に興味があったので、ちょっと顔を出してみます。

終戦後の東京裁判の公判中、東条元首相のハゲ頭を叩く(叩きたくなる気持ちは何となく理解できなくもない)など、奇行が目立ち○チガイ扱いされたA級戦犯大川周明が、昭和19(1944)年にここを買い、昭和32年に亡くなるまでここに住んでいたという。

辺りには誰もいないようですが・・・→
実はお役人様らしき4~5人が、一生懸命掃除しておりまして・・・。
休日出勤、お気の毒と思ったのですが。

翌日のこれに備えていたのです→
古めかしい佇まいの中、ワケ分からん奇抜なコスプレ連中がゾロゾロいるとしたら、それはそれで非常に違和感ある。

でも町肝煎りのイベントのようで、「明日、是非来てください!」と懇願されたのですが、「千葉から来てましてね、今日中に帰るんです・・・」と私が答えると、非常にガッカリされる。スマヌ。
それでも「わざわざ遠い(?)所からよくお越し下さいました」と非常に感謝される。
で、結局、このイベントは盛大のうちに終わったのかな?

↓建物内部



今年3月放送のドラマ「さよならドビュッシー」のロケに使われたようです。

さて、話しは変わりますが、「あやせ」をご存知でしょうか?
女優なら知ってるよ!、でしょうが、ここでの問いは地名でして、恐らく首都圏に住む人にはかなり聞き馴染みがあると思います。
「東京都足立区」「千代田線」をイメージする人もおるかと思いますけど、今回はラジオなんかでよく耳にする方。

愛川町の次に来たのは海老名市や厚木市といった知られた町をすっ飛ばして、やや離れた綾瀬市なのですが、それには理由があります。

さて、綾瀬の名所と言えば・・・→
大東亜戦争終結後、マッカーサー元帥が偉そうに威風堂々とパイプ片手にタラップを降りてくる写真が撮影された基地。そう、有名な海上自衛隊厚木基地の正門。
名は「厚木」なので、厚木市にあるかと思えば、どういうワケだか綾瀬市とお隣・大和市に跨る航空基地だったりする。
所在地は「神奈川県綾瀬市無番地」なんだとか。

↓ひょっとしたら一番知られている名所かも知れない(?)東名高速「綾瀬バス停」。

「綾瀬バス停を先頭に○○キロ渋滞」ラッシュ時や行楽・帰省シーズンなんかのこうしたお決まり渋滞情報にイライラした人も多かろう、とっても恨めしい場所。
東京に向かって登り坂になっているために引き起こされる車の溜まり場であります。

(600)神奈川県綾瀬市役所
人口約85,000人。
それなりに(首都圏では)耳にしていても、実際どこにあるのか知らない人がほとんどなのでは?

東海自動車道を走っていると「神奈川県のほぼ真ん中 綾瀬市」の横断幕が飾られております。
実際に地図を見てみると、どうしたって真ん中ではないので、「ほぼ」を「ド」と言えないところが切ないんだけど、アピールに一所懸命な市の姿が伝わってきます。

役所敷地内にある「防火たぬき」→
「かちかちやま」をヒントに防火を呼びかけるためのもの。

役所のウラ側は一面畑→
日没時間になったので、一層寂しい場所と化しております。
この道の先には、「東山ふれあい展示即売所」があって、かなり美味との噂の綾瀬名産「高座豚」が売られているらしいのですが、16時で閉店・・・、無念なり。

↓最後に、市の南部に東海道新幹線が走っているのでそれを見に行きます。

暗くなった中、光を放ちながら颯爽と駆け抜ける姿が美しい。
新幹線はわずか1.5キロほどしか市に掛かっておらず、20秒程度顔を出すだけ・・・。

私が今回わざわざ綾瀬市に来た理由ですが、車で「ゆっくりのんびり~」旅をする際は、務めて優先的に鉄道駅のない自治体を廻るようにしております。

そう、鉄道が走っていながら、駅のない市、それが綾瀬市なのです。
もっと言うなら、高速道があってもインターチェンジがない上に、渋滞で謂れのない恨みを買い(?)、さらには基地騒音はあるし・・・。
ちとお気の毒。

↓帰りに寄った「大黒PA(横浜市鶴見区)」。

昔も今も変わりなく、車でギッシリ(ガラの悪そうなのが多いのも同じ)。

これは変わってもーた・・・→
ベイブリッジが見えんし。そこの白いの、バカヤロー!!

この日の走行距離、ちょうど400km!

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↓参考・カッコしてあるのはこれまで行った所

155日目 神奈川県民の命を守るでっかい水がめ

2016-07-23 23:51:43 | 南関東
2016年6月11日(土)


引き続き国道413号線で山ん中をひた走り、神奈川県入り。
↓神奈川とは思えん景色が続きます。
 
おまけに相模原市というれっきとした政令指定都市だったりする。

突如目の前に橋が現れる→
「虹の大橋」という、両側のフェンスに虹が描かれているという橋(ここも相模原市)。

橋からの眺め→
川ではありませぬ、相模原市・愛川町・清川村に跨る宮ヶ瀬湖という面積4.6km2で、県人口の9割に水を供給しているというダム湖。

真下をアップ→
地肌が露わになっているし・・・。

今年の関東は、水がピンチ!と、この頃あたりからマスコミが大騒ぎしていたのですが、あれから1カ月半、パタッと聞かなくなりました。
その間話題が盛りだくさんだったというのもあるかとは思うけど。
でも最近取水制限3割にするとかという、こっそり書かれたような小さな新聞記事も見た気がするし・・・。

水は一体どーなってるの?というワケで、本日の貯水率(利根川水系のですが)を見てみると、約60%でたいして変わり映えない感じですが、注目すべきは前年同時期比較。
約90%となっているので、実は楽観的に構えていても(当面は)いいんでないかい?
いつ間に降ったんだろうね?

神奈川県は首都圏の中でも水不足には案外強いのですが、それはこの巨大な湖があるからと思われます。
でも有名な箱根の芦ノ湖は神奈川県にありながら、その水は静岡県民が専ら使い、神奈川県民は使えないのは意外。

いったん湖を離れます。
(598)神奈川県愛甲郡清川村役場
左の茶色い建物が役場で、目の前のは昨年11月に登録されたばかりの、県内3番目の道の駅「清川」。
何と、全国都道府県で人口第2位の神奈川にも「村」があったりする。
そして人口はわずか約3,000人。重ね重ね神奈川とは思えん所です。
村のキャッチフレーズは「水と緑の心の源流郷」。

↓道の駅の中にある売店には、村のゆるキャラを動員したにもかかわらず、このとおり大量にアイスが売れ残っています。

気の毒になったので買いましたが。

特に見たい所なし(ダム以外)→
なので、この周辺を宛てなくブラブラします。

強烈な香ばしい匂いが辺りに漂っています。
ここがその源→
ウチの愛媛の田舎の近所にもブタ様を飼っている施設があったので、故郷を思い出す懐かい匂い、と思いたいけどただ単に臭いだけ。

のどかな村です→

↓右の看板は注意を喚起しているコヤツに破壊されてしまったとの情報が・・・。

あるワケないし。
でも、こんな人里にコヤツが出てくるなんて、考えただけでも恐ろしや。

再び湖畔に戻り、15時すぎに「宮ヶ瀬ダム・水とエネルギー館」の門を入ります。
↓そしてしばし、ダムを堪能します。





宮ヶ瀬ダムは平成13年にできた比較的新しいダムで、重力式(ダムの重さで水を堰き止めるタイプ)のダムとしてはコンクリート使用量日本一、高さは国内6位の156m、総貯水量は1億9300立方メートルを誇っており、水・電力の供給、治水等の役割を担ってます。

そして周辺は一大リゾート地となっており、湖畔遊園地では年末になると巨大なクリスマスツリーが飾られるので有名。
因みにダム辺りは清川村と愛川町の境界線が走っております。

渇水の影響?→

見晴らしよろし→

↓遠く横浜みなとみらい地区の摩天楼もかすかに見えます。

夜景はきっと素晴らしかろう。

下を覗く→
こえ~。高所の超苦手な私が、へっぴり腰になってどうにか収めた一枚。

↓下へ行くには、無料のエレベーターと有料のインクラインを使う2通りありますが、まずはエレベーターを使って下へ。

ここは完全に愛川町。

見上げる→
観光放流がされる日があるのですが、通常4~11月の水曜、第2・4金曜、第2日曜の11時と14時。曜日も時間も完璧に外してしまってます。

↓貸し切り状態のインクラインでゆっくり4分かけて上へ。


首都圏にある超大型ダム。車でないと行きづらい所ではあるのですが、特にダム萌えの方、ぜひ迫力をご体感あれ。

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↓参考・カッコしてあるのはこれまで行った所

番外編 忘年会in南房総

2015-12-16 23:54:44 | 南関東
2015年12月11日(金)・12日(土)


12月にしては異常に暑く、風が強烈だった先週金曜日に、千葉県最南端の南房総市に泊りがけで行ってまいりました。

宿泊処は、「伊東園ホテルグループ・南国ホテル」。房総半島最南端・野島埼(のじまさき)が目と鼻の先の、白浜温泉(千葉にもちゃっかり白浜温泉があるのじゃ)にあるホテル。

ここの最大の売りは、何といっても宿泊施設にしては珍しい「365日同一価格(大人一人税別7,800円)」で、朝・夕ともに飲み食い放題。のみならず夕飯時にはカニが食い放題だったりする(大したカニではなかったけど)
こんなに大盤振る舞いしていて大丈夫なのか、かえって心配したくなるような、食うだけが目当ての客には嬉しいホテル(建物は古いけどそこは目をつぶろう)。

ここに私を呼んでくれた御仁は、今年3月の養老渓谷への慰安旅行に拉致してくれた中学同級生である会社社長。
養老渓谷に行ってから、どうやら慰安旅行に目覚めたらしい。

前回同様金曜日に決行で、別動隊は3時にはホテル着のところ、私は自分の生業の都合上遅刻。
↓強風で運転が難儀な中、館山自動車道を飛ばして、どっぷり暮れてしまった18時前に到着。


 

ロウソクのような野島埼灯台→

ゆっくりする暇もなくすぐさま夕食→
ここの夕食はバイキング形式。
最初は芋を洗うようなゲキ混みだったのが、食事時間終了近くになると、この過疎っぷり。
最後まで浅ましく貪っていたのは我々と写真のあるグループの2組のみ。

お次は24時までカラオケ→
個室ではなくオープンなカラオケ場につき「公開のど自慢大会」となってしまうので、自他共に認める音痴の人にはオススメしません。

その後はもちろん部屋飲み。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

爽やかな朝です→

爽やか台なし、荒みきった部屋→

しかも一人だけ騒音公害で訴えたくなるレベルの大イビキをかくのがいまして、ほとんど寝られなかったし・・・。

↓温泉に浸かったり、ダラダラまったりしたりして、11時に出発。


↓道の駅・南房パラダイス(館山市)
 
ハワイかぶれチックな道の駅で、別名・ナンパラ。

レストランもハワイアン→
和牛ロコモコ(\1,480)。ホンネはうどんかそばを食べたかったんだけど。
団体旅行は楽しいけど、ある程度行動も縛られるので善し悪しだなあ。

富士山がかすかに見えます→
伊豆大島も見えます。しかもかなりでっかく。

館山体験工房

↓ガラスを溶かしてのトンボ玉や、貝や海などでフレームを作ったりできます。
 
ここの旦那、多くの客と接しているせいか話術に長けていて面白い。

みなとオアシス「渚の駅たてやま」→

「海辺の広場」の水槽→
この魚、水面上に体を出してずっと泳いでいます。お魚の世界にも変わり者や目立ちたがりがいるようです。

館山湾が一望→
やっぱり海はいいなあ。

千葉に帰ってからも、反省会と称してまた飲み。いい加減にしてくれ~。

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124日目 多摩川を遡上するの巻~終わり

2015-08-10 23:41:49 | 南関東
2015年6月13日(土)


南武線の終着駅・立川に着いたのは16時ちょっと前。

いっつもいっつも大混雑の立川駅→
よくぞまあ、どこからこんなに人がわいてくるのか?というくらい。
なのでとても歩きづらく、正直ここはあまり好きではありません。

駅前は結構な都会。

北口→
駅前では、ピンクのエプロンをまとったオバチャンが「安保法制反対」を訴えている。最近よく見かける光景。ただ、原稿を棒読みしているだけ。心に響く訴えには全くなっておらず、下手くそすぎ。

多摩都市モノレール・立川北駅→

南口→
知名度高い立川市ですが、とりたてて見たい所はなく、ならば南口のウインズ立川で一発勝負もよし!と思いきや既に終了。

↓仕方ないので、駅近くの昭和記念公園をちょっぴり散策するしかない。

昭和天皇御在位50年記念事業の一環として設置された、以前は米軍基地だった公園。
森のゾーン・広場ゾーン・水のゾーン・展示施設ゾーン・みどりの文化ゾーンの5つのゾーン分かれていてやったら広い。町のど真ん中にこんなの羨ましすぎですよ。

展示施設ゾーンの「カナール」→

みどりの文化ゾーン「昭和天皇記念館」入口→
ただでさえ入りにくい雰囲気のところ、切符売り場前に事務員らしきおっちゃんがウロついていてさらに入りにくくしている。

(510)東京都立川市役所
人口は18万人とそれほど多くはないのですが、市のHPでは『国から首都圏の「業務核都市」に位置づけられ、商業や業務などの集積が図られると共に、文化、研究、防災などの広域的な都市機能が整備され、拠点形成が進められています。(以下略)』。要は我こそが多摩地区の中心だと言いたいが如し。

多摩都市モノレール版ドクターイエロー?→

次にこの日最後の訪問地・瑞穂町(みずほまち)へ。

↓その中心駅の箱根ケ崎(はこねがさき)駅で下車。


↓東京都では珍しい「町」でありながら、開発は免れるあろうはずもなく・・・。



昔はどんな風景だったんだろう?

(511)東京都西多摩郡瑞穂町役場
明治22(1889)年から箱根ケ崎村など4つの村が組合を組織して行政運営を行ってきて、昭和15(1940)年に発展的解消して町制を施行した歴史を持ちます。
大昔にちょっぴり勉強したことのある地方自治法でいう「全部事務組合」ってやつかな?
町南部には横田基地があり、最近あまり耳にしませんが、例の最新鋭輸送機の飛来はどうなんでしょう?

↓役場から数百メートル先の町全体を見下ろせる「瑞穂ビューパーク・スカイホール」の展望台


時計台→
左側の黄色い舗装部分は旧青梅街道。瑞穂町の中心部のここ箱根ヶ崎は、八王子から伸びる日光街道の宿場町で、この辺がまさにそうだったらしい。

↓疲れました。八王子からはこれで帰ります、楽チン楽チン。

特急料金を払わないといけないけど。

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