ゆっくりのんびり市町村廻り

何年かかるか、もしかしたらできないかもしれないけど、日本の全市区町村の制覇を目指して頑張ってみる!

181日目 くまへ行くモン!再び(2)

2017-09-23 23:31:36 | 九州中部
平成29(2017)年5月4日(木祝)


クマはいないらしいけど、くまもと(熊本)県くま(球磨)巡り。
雨は熊本県に入るとすっかり止みました。終わり間際になって晴れてくるとはな・・・(愚痴)。

湯前から国道388号線で北東へ向かい、水上村へ。
関東人なら無条件に「みなかみ」ですが、ここは特に捻りもない「みずかみむら」。

(667)熊本県球磨郡水上村役場
ここも3年半前に挑むつもりだったのですが、バスが年末休みで断念した場所。
村全体の約90%が山林で、人口約2,300人。

↓役場は人吉盆地の「キワ」にあるので、目の前にはグルグル廻る「奥球磨ループ橋」があって、これで国道は山へ登ります。


↓ついでに役場がある場所も村の「キワ」にあって、ループ橋自体は湯前町。
水上村の飛び地があって、しかもぴったり中学校の敷地になっています。
なんでこんな不自然な状態になっているんだろう?

橋の上から見下ろす→
流れている川は日本三大急流で有名な球磨川で、源流も水上村。
ここは急流の冠を付ける程の流れではないけど。

↓市房ダム


 
ダムから東側はいわゆるダム湖になっており、遠くでは噴水が立っています。

早速そこの物産館水の上の市場へ→

行ったら既に終わってもーた・・・→

でも、お金を払えば見られるし、下へも降りられます→
たった¥500ではあるんですが遠目から見たし、ま、いいか。とケチる。
因みに噴水の高さは80mだとか。
レストランもあり、春は桜、夏は新緑、秋は紅葉、冬は雪景色を愛でながら食事ができます。
なかなかのロケーション。

水の上の市場を引き返し、ちと遠いけど多良木町(たらぎまち)・あさぎり町・相良村(さがらむら)を経由して、五木村(いつきむら)を目指します。

その途中の生善院(水上村)→
別名「猫寺」だけあって、やっぱり狛猫になってます。

↓ネコはそれほど好きではないけど(私はイヌ派)、ネタのため寄ってみました。


 
お堂の飾りとなっている厳ついモノは、最初見た時はサルかな?と思ったんですが、体はしっかりとネコっぽいけど、顔は金剛力士かな?どうにも気色悪い。

観音堂→
国の重要文化財で、人吉藩化け猫騒動(というのがあったらしい)に因んだお堂。

↓これも国の重要文化財ですが、多良木町の青蓮寺(しょうれんじ)阿弥陀堂。

茅葺き屋根のあまりの立派なのに惹かれて、しばらく車から眺めていたお寺さん。
どういう由来の寺かその時は分かりませんでしたが、後で調べてみたら、永仁3(1295)年に創建された上相良氏代々の菩提寺でした。
道理で堂々とした佇まいなワケです。

相良氏とは、源頼朝の命により遠江国・相良荘からやって来て、その後700年もの間、人吉盆地周辺を治めた氏族。
人吉の相良氏を「下相良氏」、多良木の方を「上相良氏」と区別しているようです。
相良荘は今の静岡県牧之原市ですが、確かにこの辺り相良という地名がありましたわ。

相良村で川辺川左岸側に沿った国道445号線に入り北上します。
↓ところが国道は一部通行止めとなっていて、右岸側の旧道?に迂回させられます。

でも今月(9月)末で全通するようです。

川辺川(上流方向)→

五木村に入る→
西米良村に負けず劣らずの秘境だわ。

実はここ、今ではすっかり忘れ去られた感がありますが、一頃世間を賑わした舞台であります。

東の八ッ場(やんば)、西の川辺

そうです、川辺川ダム建設予定地、というか建設予定地だった所?。
というのも、ダムで利益を受けられる筈の下流域の猛烈な反対により、平成21年に建設が中止されたにも関わらず、事業はまだ廃止されていないのだという。言わばまだ残り火がくすぶっている状態。
お上の事だ、密かにウチワで扇いでいたり油をチョロチョロと注いでいたりしているかも。
一方、東は粛々と建設中。

子守唄で有名な五木村の市街地に到着→

 



カッコしてあるのはこれまで行った所→

181日目 くまへ行くモン!再び(1)

2017-09-21 23:54:17 | 九州南部
平成29(2017)年5月4日(木祝)


南九州旅5日目、長かったような短かったような旅もようやく最終日。
熊本県球磨(くま)地方を廻って、鹿児島空港で車を返すことになります。

↓朝から厄介な雨降りの中、宮崎市を出発、まずは西米良村(にしめらそん)を目指します。


↓村へは国道219号線をひたすら山奥に向かって走ればいいのですが、あっちも行きたいこっちも行きたいの、いつもの悪い病気が発生、ガイドブックを見ていて何となく惹かれた「巨田(こた)神社(宮崎市)」で道草を食う。

古くは宇佐八幡宮の荘園の鎮守で、文安5(1448)年に再興されたという。

↓社殿は室町時代当時のままか知りませんが、一見廃神社の如きかなりくたびれた神様。

でも、朽ち果てんばかりのこのボロさが、とてもいい味を醸し出しております。
それに雨はイヤだけど、社殿に当たる雨粒の音が雅やか。
結果的に横道にそれてよかったわ。

杉安峡(西都市)→
一ツ瀬川(ひとつせがわ)の風光明媚な峡谷で、秋は紅葉が綺麗なんだそう。
昔は「日向の嵐山」と呼ばれたくらい活況を呈していたみたいですが、ダムが建設されたことと国鉄妻線の廃止で一気に落ち目になったという。

↓さらに奥へと走って走って、やって来た西米良村はまさに秘境。


↓もうすぐ村の市街地に入らんとする手前の、川の駅「百菜屋」で一旦停車。

得てしてこういうお店は、地元で採れた野菜や、ばあさま・おばちゃんの作った加工品が売られているのが相場で、実際ここもそうなのですが、申し訳ないけどそれらの買い物の為に寄ったのではありません。

かりこぼうず大橋→
川の駅の横にあるこれを見たかったから。
宮崎県産スギを主に使って造った車道橋で、橋の長さ140mは木造のそれとしては日本一。
写真では△は2つしかありませんが、右側にもう一つあります。

(666)宮崎県児湯(こゆ)郡西米良村役場
一ツ瀬川を跨ぐ村所橋の上流側より、右の建物が役場。

国道219号線が通っている村所橋→

昔は肥後国に属していたので、今でも熊本県球磨地方との結びつきが強く、それはお隣り熊本県湯前町(ゆのまえまち)へ村がバスを走らせているくらい。
なので、タイトル中の「くま」はここも含むってことで・・・。

因みに東米良村もあったのですが、現在は消滅(西都市に呑み込まれた)。
人口は1,200人程で、宮崎県内の自治体では最少。
秘境にある村なので仕方ないけど、財政力指数は宮崎県でドベ、全国でも下の方。

でも、したたかに頑張っております→
全国に先駆けて始めた滞在型体験農業「西米良型ワーキングホリデー制度」があったりします。

キャッチフレーズは「カリコボーズの休暇村・米良の庄」→
橋にもつけられ、村のイメージキャラクターにもなっており、米良地方で語り継がれている守り神のような存在「カリコボーズ」。
猟の時に獲物をかりだす役目である「狩子」に由来し、「ほいほい」と言いながら山の尾根を行き来しているのだという。

↓川の左岸側に広がる商店街。
 

↓適当にフラついた後、再び車に乗り込み、熊本県が目前(厳密には既に熊本県に入ってしまってますが)。

3年半振りに来た「ひむかの国」ですけど、今度来るまでかなりの間が開きそうな予感。
ですので、しばらくお別れになります。さよなら宮崎県。

↓眼下に見る雄大な眺めが素晴らしく、人吉盆地が一望。
 

さて、湯前町と言えば・・・。
3年半前、湯前駅の案内板に騙された?挙句、徒労させられ(勝手に一人で)大激怒したあの町です。

あの時見たかったけど、断念したのが以下の3箇所でした。
「世界一」の大水車→
湯前町シンボルで「ゆのまえグリーンパレス」にある通称「みどりのコットンくん」。
親子水車で、親は直径14.1m、子は直径5m。
でも「世界一」とは完成した当時、平成5年の事で、今では岐阜県恵那(えな)市にあるのが国内最大らしいです。
ぎこちない音を出しながらゆっくり回っておりました。

↓潮(うしお)神社
 
敷地内では潮吹き潮水が湧き出ています。
愛称は「おっぱい神社」、子宝や子育てにご利益があるという。

塞(さい)神社→
男の神様ですが、女性向けの神様に比べると相当に見劣り。

↓祠はちっさいですが、近くに一本だけやたら目立っている男のシンボルが如き立派な巨木があります。

男は寧ろこの木を拝んだ方がいいかも(笑)。
因みに両方の神社に参拝すると、夫婦円満・縁結びにご利益があるんだとか。

3年半という思いのほか短い期間でリベンジでき、喉のつっかえが取れたようなさっぱりした気分。

 



カッコしてあるのはこれまで行った所→

180日目 GW宮崎県中南部ドライブ~児湯郡

2017-09-19 23:51:21 | 九州南部
平成29(2017)年5月3日(水祝)


この日自らに課した訪問自治体のノルマ数は6。
前半は観光に精を出したのもあり、だいぶ時間が押してきたので残り3箇所である木城町(きじょうちょう)、川南町(かわみなみちょう)高鍋町(たかなべちょう)を一気に片付けます。

まずは木城町。
地図を見て気になったのが、石河内(いしかわうち)地区にある「日向新しき村」。
これ何ぞや?ってワケで山奥に向かいます。

とりあえず車を止められそうな「郷の駅石河内」へ→
入ってみて知ったのですが、ここではそば打ち体験ができ、そばも食べられます。
閉店は早すぎるな、15時。
そして私が着いたのは15時半・・・。

恐らく「あ~あ」と諦めの悪い表情でお店の前で私はボーゼンと佇んでいたのでしょう、たまたま散歩していた近所のおっちゃんが、まだ食べられるか店に聞いてみようかと親切に言って貰えましたが、さすがにお店の人に悪いので丁重にお断りする。

「日向新しき村」とは町のHPによると、「大正7年(1918年)に、文豪・武者小路実篤とその同志によって、「お互いが人間らしく生き、むつみ合い、そしてお互いの個性を尊重し、他人を傷つけることなく、しかも天命を全うすることができる」理想郷を目指し、戦国時代の山城「石城」跡に開村されました。(中略)昭和13年のダム建設により水田が水没することとなり、埼玉県毛呂山町に新設された「新しき村」に大半の住民が移住しました。現在は2家族3人が暮らし」ているのだと。

ちっとも新しくなく、寧ろ「日向古き村」が実態として合っているのだけどね。
開村当時は、新しき種類・タイプの村って意味だったのかな?

いいじゃないですか、ユートピア。
私が年を取ったら、「村の理想」の如き余生を送りたいと思っていたので、最期の地は決まりました、木城町毛呂山町(笑)。

↓石河内展望台へ。
 
「村」が丸見えというのですが、川(小丸川)に挟まれた丘っぽい場所がそれのようです。

↓(663)宮崎県児湯(こゆ)郡木城町役場
 
小丸川のほとりにある役場。
「きじょう」などと地名にしては違和感のある音だと思ったら、やはり「椎木」と「高城」の2村が合併したできた地名なんだそう。

人口は約5,200人。
町には目立った産業はなさそうですが、たくさんのダムを抱えているせいか、平成26年度の財政力指数は宮崎県トップで、全国で見ても44位とかなりのお金持ち。

↓半年と経たないうちに死亡事故が起きちゃったんで、更新する気を喪失してしまったんでしょうかね?


↓町役場の北側の高台には、高城址があるので行ってみます。
 
雨だし夕方だし誰もおらず、とても寂しく静寂が支配する場所。
そんな中、いきなり城から、
ブーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ
と鼓膜が破れんばかりの大音量が鳴り響いたので、ビックリ仰天する。
不審者と(実は人の目がないのをいい事に、近くで立ち○○○をしてしまった)見做されてしまったか?!
時はちょうど午後5時。
何てことない、それを知らせるサイレンでした。

次、川南町。

(664)宮崎県児湯郡川南町役場
「森林と農用地が総面積のそれぞれ約40%を占め、温暖な気候と豊かな自然の中で、全国有数の食糧生産基地となっています」とは町のHP。人口は約15,700。

戦前は軍用地。
大東亜戦争中、蘭印各地で落下傘部隊が活躍しましたが、川南町は「落下傘部隊の発祥の地」で記念碑もあります(行かなかったけど)。
この地で訓練を重ねた部隊を扱った映画の主題歌が、かの軍歌「空の神兵」。
千葉県習志野陸上自衛隊第1空挺団のテーマソングでもあります。

戦後には入植開拓されるようになる。
そこで、旧農林省発行の「戦後開拓史」には国営大規模開拓事業が成功したとして青森県十和田市、福島県矢吹町と並んで「三大開拓地」とされています。

畜産が盛ん故、7年前の口蹄疫の時に大被害を受けてしまいました(そんな事もあったなと、すっかり忘れてました・・・)。

川南合衆国って何じゃ?→
全都道府県出身の開拓者が集まっているから、こう呼ばれているらしい。

役場近くの商店街→

川南町には変わった地名があります。
私はずいぶん昔からそれを知っていたので、どういう所か気になったのですが・・・。

↓コレ。
 
由来は湧き水の音。
参勤交代での大名一行がトロトロと湧き出る水を「トロトロの水」と呼び、それが「トロントロンの水」になったとされる説、西南戦争で敗走する西郷ドン軍が、この湧き水の音を「タランタラン」と聞こえた事によるという説があるらしいです。

肝心のその湧き水は何処じゃ・・・?。
探してみましたが、分からんかったとです。
因みに商店街も「トロントロン商店街」と呼ばれてます。

次の次、高鍋町。
↓まずは、ポコポコと盛り上がった小さな丘がたくさんある町北部の丘へ。


↓持田古墳群で、5世紀から6世紀にかけて造られ、全部で85基あり国指定史跡となっています。


↓これら持田古墳群の霊を慰めるために開山されたのが、珍スポットとして上位に持ってきても恥ずかしくない「高鍋大師」。
 
岩岡保吉というお方が刻んだ石像数ナント700体以上、中には7mを超える大物もあります。
夕方だし、カラスの恰好のネグラになっているようだし、おまけに像が像だけに非常に不気味で、怪しい雰囲気を放っております。

↓いかついものばかりだけど、エロチックなものもちゃっかりあったりする。


↓国道10号線、小丸川に架かる高鍋大橋の袂に奇妙な時計があります。

町が「時間励行日本一」を目指し、そのシンボルとして昭和62(1987)年に建設された、日本一の高さ(11.7m)を誇るソーラー時計。

(665)宮崎県児湯郡高鍋町役場
古くは財部(たからべ)、豊臣秀吉の九州統一後は秋月氏3万石の城下町となり、延宝4(1676)年に高鍋と改称される。
江戸時代より商業が盛んな土地柄でしたが、教育にも熱心であったようで、偉人を多く輩出。
「成せばなる 成さねばならぬ 何事も 成らぬは人の 成さぬ成けり」で有名なロボコン、いやいや、かの上杉鷹山は高鍋藩秋月氏の次男だそうな。

城下町らしく、お堀→

藩の家老屋敷・黒水家住宅→

商店街→
商業で栄えた高鍋ですが、さすがにアカンようやね。





カッコしてあるのはこれまで行った所→

180日目 GW宮崎県中南部ドライブ~西都市妻

2017-09-15 23:05:23 | 九州南部
平成29(2017)年5月3日(水祝)


前編でお話ししましたこの3連休の伊勢・伊賀行き。
やっぱり嵐の中へ突っ込むのは無謀すぎるとして、無難に10月の3連休にずらしました。

偶然ですが、同じく連休中に伊勢・紀伊半島に行く予定の知り合いがいまして・・・。
大荒れになる予報が出ていながらも絶対に止めないようで、その理由を聞くとナント「俺は晴れ男だから何とかなると思っている」とのたまわった!イヤミか・・・
その知り合い、今回はどう転ぶか分かりませんが、羨ましすぎ「晴れ男」。

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↓日南駅前に像がありましたが、日本人としては「記録上」初めて欧州諸国に行った天正遣欧少年使節団の伊東マンショの誕生地、西都市へ。

わざわざ「記録上」としているのは、日本名は不明だけど「ベルナルド」なる洗礼名の日本人が既にいたから。
知らなかったなあ。てっきり天正遣欧少年使節団の彼らが最初だと思っていたので。

それと、埴輪があるので察しがつくと思いますが、国の特別史跡・西都原(さいとばる)古墳群のある都市でもあります。

市街地に入る前に鹿野田(かのだ)神社へ→
見た目フツーの神社。
ですが、海から10数km離れたこの地に、何故か海水が湧いている井戸があるというのを聞きつけてやってきた次第。

↓「潮満玉(しおみつたま)の泉」がそれ(上の写真の鳥居左の小屋の中)。

潮の干満に合わせて水位も上がったり下がったりする井戸。
自然というのは本当に摩訶不思議な事をやってのけるものです。

¥100払って飲んでみました。
が、しょっぱっ(当然ですが)、しかもうまくない・・・。
ただ、飲んでも風呂にしてもいろいろな効能があるのいうありがたいお水だそうな。
手羽先の小骨で調子悪くなった腹にちょうどいいかも(笑)。

(662)宮崎県西都市役所
市役所庁舎は奥の建物。
人口3万人ほどで、農林業以外にこれといった産業はないようで、あとは観光業くらいか。
ただ、古墳群があるとおり歴史は古く、かつては日向国の国府があった地。

↓市役所が置かれている西都市の中心地区は、こういう地名。

愛妻家が多い?、それとも上州のような「かかあ天下」の土地柄?
かと思いきやそうではなく、由来については後程。

Wikipediaを見ていたら西都市出身者に、そう言えばそういう歌手がいたなあと懐かしく思った「0930(おくさま)」という二人組がいました。
てっきり妻が由来かと思ったら、意表を突いた「女性用カツラの問い合わせフリーダイヤル末尾4桁」。

↓妻の市街地。
 

↓昭和59(1984)年に廃止された国鉄妻線の妻駅があった場所。

妻線は「廃止時の協定により、将来の復活に備えて、ほぼ全線にわたり路盤が撤去されずに残され、自転車歩行者専用道路として利用されていた(Wikipedia)」路線。

その自転車歩行者専用道路→
今となっては復活の可能性ゼロもないでしょうな。

都萬(つま)神社→
邇邇芸命(ににぎのみこと)の妻である木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀っていて、まさに妻の由来になり、続日本後記には承和4(837)年に既に登場しているという由緒ある神様。

ここで邇邇芸命と木花開耶姫命は、日本で最初に月下氷人を立てた結婚式を挙げたとされているので、縁結びの神様とされているようです。

↓「千年楠の洞洞木(どうどうぼく)」と「日本清酒発祥の地」の木碑。

願い事を唱えながら丸い輪っかを潜ると、その願いを通してくれるという。
私は特に願い事がなかったので潜りませんでした。
↓寧ろ、縁結びの願掛けに来たらしき女性2人組を前に、恥ずかしかったというのが正しい・・・。


「日本清酒発祥の地」というのは、木花開耶姫命が3人の皇子を育てるのにお乳の代わりに甘酒を与えたという伝承から。
「清酒発祥」って事は、つまりは息子に酒粕の甘酒で育てたというのかい?
さぞかし乳児のうちから相当に鍛えられて、大きくなったらきっと飲みニケーション三昧だな・・・。
酷すぎる
ここは米麹の甘酒で育てたと思いたい。

都萬神社の境内に流れる川の水が乳白色で見応えあり→
まさか木花開耶姫命は甘酒と称してこの水を与えていた、ってことはないよな。

↓市役所の西は小高い丘になっており、そこに「風土記の丘」第1号・西都原古墳群があります。

その丘が西都原と呼ばれ、東西2.6km、南北4.2kmにわたり3世紀~7世紀にかけて造ったとされる300基余りの古墳が点在してます。

↓鬼の窟(いわや)
 
周囲を土塁に囲まれた円墳としては国内唯一で、中にも入れます。
何もなかったけど・・・。

土塁の上から→

↓この奥には、邇邇芸命陵とされる「男挟穂塚(おさほづか)」と、木花開耶姫命陵の女挟穂塚(めさほづか)があります。

共に宮内庁によって管理されているので入れず、特別史跡「西都原古墳群」の指定範囲外。
因みに男挟穂塚は帆立貝型古墳としては国内最大だとか。

このはな館→
古墳群観光の拠点となる施設。無料でチャリが借りられます。

木城町(きじょうちょう)へ向かう途中→
それまで時折ポツポツ降ってはいたのですが、本格的な土砂降りに。

 



カッコしてあるのはこれまで行った所→

180日目 GW宮崎県中南部ドライブ~東諸県郡

2017-09-13 23:58:28 | 九州南部
平成29(2017)年5月3日(水祝)


随分前からこの週末3連休は伊勢・伊賀方面に出掛ける気マンマンでいました。
ところが突如台風が発生、一瞬マズイな思ったけど、大陸に行きそうだったので安心しきっていたのですが・・・。
なんなんだこの曲がりの鋭い変化球は!
私の神通力はもはや神を超えたような気がする(苦笑)。

見る見るうちに気が萎えてきました。
まだ本決まりではないですけど、恐らく止めます。
止めた途端、また大陸に戻っていった、なんて事になったら怒るだけじゃ済みませんよ!

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5月の大型連休も後半戦。そして私の旅も後半戦。

この日から私の神通力がいよいよ稼働し始め?、お昼からアレに見舞われる予報となってます。
なして九州南部だけ?
全国的には夏日のような晴天か、せいぜい曇りなんだけどね・・・。

それそろ疲れも溜まり始めたのもあり、気分も今一つ晴れぬまま国富町へ。
↓(660)宮崎県東諸県(ひがしもろかた)郡国富町(ちょう)役場

昭和31(1956)年に1町1村が合併し発足し、その翌年には1村を編入。
主な産業は農業で、特に野菜の促成栽培が発達。約19,000人が暮らす町。

私が役場に来るとほぼ同時に、何かの取材班も役場に来たのですが、以来彼らはしばしば私をチラ見する。
もちろん私は有名人ではないし、あまり言いたくないですが色男でもない。
あたかも因縁を付けられているようで、気分はあまりよろしくない。

↓どうやら「街歩きツアー」らしきがあるようで、それの取材らしい。

私がいかにも緊張感のない散策向きの恰好でしたので、参加者と思ったんでしょう、きっと。

役場前→

スゴイね、町のド真ん中にお城ですよ→

白玉まんじゅう屋さん→
売れ切れ続出、国富町名物の超人気お菓子だそうな。

街中あちこちで古墳が見られます→

私の前にある古墳(上の看板★現在地)がコレ→

上に小屋のようなものがありますが、これは金刀比羅神社の祠→
海上の安全を守ってくれる神様が、ナゼこのような海から遠い場所に?

↓市街地の南を流れる本庄川では、かつて水運が盛んだったからみたいです。

曇っていてちっともキレイに見えませんが、この川は九州でも上位を争うほどの清流なんだとか。

この清流を遡ると綾町(あやちょう)。
↓役場の隣で、町の物産品などを売っている「綾手づくりほんものセンター」がある交差点。

たくさん掲げられている赤い幟が、周りの木々の緑はもちろん、沿道の建物にもうまく溶け込んでいて、とても調和のとれた綺麗な市街地。

↓観光案内所もある「綾手づくりほんものセンター」ですが、ここで売られているありとあらゆる物は全て綾で生産されたもの。

多くの人が詰めかけ、賑やか。

折しもお祭り開催中→
男女同権、というワケで3月には「綾ひな山祭り」というのもあるようです。
町HPによると、「男山は、男児の健やかな成長を願い、岩や苔などを使って雄大な奥山の風景を再現し、5月人形やかぶとを飾りつけています。すべて住民による手作りで、勇ましい人形や趣向を凝らした飾り付けが見どころ」だそうです。

(661)宮崎県東諸県郡綾町役場
観光を前面に押し出した町。
その主流は照葉樹林を起用した町おこしで、見事にハマりました。
興味がなかったので写真には収めていませんが、工芸品工房が多く、それも染織、木工、陶芸など種類様々。

「綾城・綾国際クラフトの城(入場料¥350)」へ。
綾国際クラフトの城→
織物・陶芸など地元工芸品を紹介する施設。
なのに何で「国際」なのかよう分からん。

綾城→
鎌倉後期~室町初期に足利尊氏の家臣が築いたとされ、その城址に綾町の木を使って建てられました。
ただ当時の復元ものではないので、適当に想像して造ったお城。

模擬天守より→
ひときわ大きい建物(真ん中やや右上)は「綾てるはドーム」といい、国内でも最大級の木造屋内施設。

お城近くにある吊り橋→
できればここも綾産の木や植物のツルで造るくらいの徹底ぶりが欲しかったところ。

この吊り橋は、言ってみれば序の口というか前座。
綾町に来たならば行かねば、というワケで真打に向かうべく、本庄川に沿ってさらに山奥へ。

↓やって来ましたるは、綾町一番の名所「綾の照葉(てるは)大吊橋」。


↓入場料¥300を払って、高所のスリルを体感すべく中へ。


碑文が虚しく見えます→
というのも、高さ日本一を大分県の九重夢大吊橋に譲ってしまったから。

↓それでもやっぱり怖いんだわ。
 

美味そうだったのでついつい買ってしまった大きな手羽先→
小さい骨までも噛み砕いて呑み込んでしまったせいか、後々ハラ具合がよろしくなくなる。

町のキャッチフレーズは「照葉樹林都市・自然生態系農業の町・手づくりの里」。
それを肌で感じられた綾町でした。

 



カッコしてあるのはこれまで行った所→

179日目 GW日南海岸ドライブ~これからの活路を模索する油津

2017-09-11 23:32:39 | 九州南部
平成29(2017)年5月2日(火)


あれは相当の昔、生まれ故郷・新居浜市(愛媛県)最大のイベントで、四国三大祭りとされる「太鼓祭り」が行われる時期(10月中旬)に里帰りした時の事。
暇を持て余していた日があり、仕方なく山奥にあるマイントピア別子に行って遊んで、ついでに温泉に入った後、休憩室で横になっていたのですが、その部屋で上映されていたのが「寅さん」。

今もそうですが、当時もほとんど映画には興味なく、たまたま上映されていたので見ただけですが、今思うにあれは「第45作」でした。
(それまで「寅さん」の一話すら見た事なかったのですが、これをきっかけに、その後せっせとレンタルビデオ屋へ足繁く通い、シリーズ全話見てしまいました。)

その「第45作」の主要な舞台となったのが今回散策する日南市・油津(あぶらつ)。
尤も、映画の内容はもはや全く覚えていないので、聖地巡礼ってワケではないですけど。
そうそう、前作で取り上げた飫肥も幸島も45作に出てきたようです・・・。

JR油津駅前の駐車場に車を停めます→

上の写真、左にちょっぴり写っている看板がこれ→
我らが広島東洋カープのキャンプを行なう天福球場は駅から歩いてすぐの所。
なので、日南市民は福岡ソフトバンクホークスを差し置いて応援してくれているハズ?

↓油津商店街
  
どこもかしこも苦戦が伝えられる古くからの地域の商店街ですが、ここは地元のたゆまぬ熱意で復活を遂げたとして大いに注目された商店街。

たった3年でシャッター商店街再生!、そんな夢のようなゾンビの如きお話しに興味のある方は是非ご一読下さい。

ですが、この日の人出はイマイチ。そこらの廃れた商店街とさほど変わらず、本当に「復活を遂げたの?」と思いましたがGW中(平日ですが)なので客も商いも小休止という事で・・・。

日南山形屋と国道222号線→
鹿児島と宮崎で展開する山形屋グループ百貨店5店舗のうちの一つ。
最近あちこちで地方百貨店が根を上げる中、山形屋はかなりの収益力を誇るらしい。

国道をちょっと海方向に歩くと油津大橋で、橋の下を流れるは油津のシンボル・堀川運河。
橋の北方向→

一方の橋南方向の運河左岸側と国道に囲まれた一帯は、油津の見所がギュッと凝縮されているような所。
堀川資料館(黒い建物)→
「寅さん」関連の資料が展示されているようです。

乙姫橋との別名がある堀川橋→

橋周辺がロケ地→
堀川運河は造った目的は看板のとおりですが、他の雑誌やら市の観光サイトなんかでは、「貞享3(1686)年に藩主伊東祐実の命によって28ヶ月の難工事を経て完成。延長1450m、川幅22~36m、水深6m」なんていう説明もあるし。
どっちが正しい?

橋は、明治36(1903)年飫肥の石工・石井文吉の手により完成。
橋の下を船が航行できるよう、両岸を3mかさ上げした為、川沿いの家は2階が玄関になっています。

正面の神社は、吾平津(あひらつ)神社。
祭神の一人である吾平津比売命(あひらつひめのみこと)は、神武天皇の最初の妃であったと伝えられ、油津はこれが由来だそう。

違う所からの堀川橋→
橋の右のホロを被った建物が寅さんとヒロインが出会った喫茶店で、橋の左の白い建物が寅さんがタダ飯食らいしていたヒロインの床屋(だそうです。それは何となく覚えていますが)。

↓江戸末期、明治以降の建築物が多く見られます。
   

↓文化財的建物の中で私が一番気に入った昭和前期築「杉村金物本店主屋」。


↓この脇道を入ると、大正時代築のこれまた油津のシンボルたる「油津赤レンガ館」があります。

港湾と運河による水運で栄えた町の様子をよく示す建物とされ、現在は地域文化活動の拠点として再利用されています。
一頃、解体の憂き目に遭いそうだったのを、地元の有志が3,000万円を出資して難を逃れたのだと言う。

来た時間が遅かったせいもあるとは思うのですが、観光客っぽい人を全く見受けませんでしたが、日中はきっと観光客で溢れているとは思います。
商店街が地元の人で賑わうようになったのはいいと思いますが、それと豊富にある観光名所と一体にして、恐らくたくさん来ているであろう観光客も楽しめる場になったら、と部外者が油津を廻っての感想です、ハイ。

油津港交差点より西方向→
奥の盛り上がっている箇所は「港大橋」。

「港大橋」から眺めた油津漁港→
カツオやマグロの水揚げ高は誇るべきものがあり、来年もあるのかは知りませんが、今年3月に「日南かつお・まぐろ祭り」が開催され、ここから少し離れた場所では毎月第4日曜日には「港あぶらつ朝市」があるみたいです。

いよいよ暗くなったので油津駅に戻ります→
ちょうど19時18分発南宮崎駅行きのディーゼルカーがガラガラ音を言わせて停車中。

再び港近くへ。
「びびんや」さんという魚料理店→

日南市の打ち上げは、日南でよく獲れるカツオ・マグロで舌鼓を打ちながら大ジョッキで・・・。
↓といきたいのはヤマヤマですが、代わりに日南市の郷土料理である「魚うどん」。

何だか細いカマボコをすすっているような感じ。でも素朴でとても旨い一品。

タイムアップ。
行けたらいいなと思っていたモアイ・鵜戸神宮・鬼の洗濯岩・青島はやっぱり欲張りすぎでした。

油津駅にいた列車が宮崎市に着くのとほぼ同じ頃に私も宮崎市に到着。
JR宮崎駅→
列車クン、ノロすぎ。

 


179日目 GW日南海岸ドライブ~サルの島と飫肥の城下町

2017-09-07 23:51:04 | 九州南部
平成29(2017)年5月2日(火)


↓曇ってはいるけど、それなりに美しいリアス式海岸を横目に国道448号線を北上。


↓串間市看板動物のもう一方の雄が生息する島、幸島(こうじま)へ。

その雄とは野生のサル。
サルごときなら大分県の高崎山や長野の地獄谷など日本あちこちで見られるので、大騒ぎするほどの珍しい動物でもないけど、ここのサルのある行動目当てに人が押し寄せます。
世界的に有名にした「イモ洗いをするサル」。
昭和28(1953)年に一匹のサルが、さつま芋の土を落とすために川で洗い始めたのが始まりのようで、他のサルもサル真似(?)するようになり、さらにその下の世代へと受け継がれていったのですが、ある行動が他に伝わって継続することは「文化」であるとされ、昔は人間以外は文化を持たないと考えられていたようです。

来た時は干潮時だったのですが、恐らく満潮時はこう→
最初は、特段サルを見たいわけでもないのですぐにサルつもりでした。
が、駐車場にいた舟漕ぎが商いのおっちゃんと話しをしたのですが、その会話中に「もうすぐ島と砂州(さす)が繋がりそう」「20年ぶりの事だ」なんて言葉を聞く。
それを聞いての私の解釈⇒今日20年ぶりに島と砂州が繋がる!
なんてスゴイ時に来たんだ、それを見ないワケにはいかないじゃん!!

そんなワケですぐさま島に向かう→ 
まだ上陸できる状態にありませぬ。

↓砂州の先には見張りをしている人(赤い矢印で示しています)がいます。

まだ繋がっていないので、見張りの人とも話しをする。
「繋がるのは16年ぶり」
どうやら16年の方が正しかったようです。おっちゃん、正しく覚えようぜ・・・。
しかもその人は18年間串間にいて、たった1回しか見てない現象だという。
「繋がるようになったのはここ3ヶ月くらい」
今日だけの超極上レアな現象というのは私の勝手な思い込みでした・・・。そりゃそうだよな。
でもレアな事には間違いありません。

通常であれば、溜まった砂は台風による波がかっさらってくれるのですが、昨年はいつものコースに台風が来なかったので、砂が溜まってしまったのだという。

「島が繋がるまで待ちますよ!」と私が鼻息荒くその気マンマンに言うと、
「岩は滑りやすいので極力上らないように、との行政から指導が入ってます(笑いながら)」。
指導があるのは本当でしょうけど、島に入って山に入っていく輩を阻止するために見張りがいるのだと思ってました。

見張りがいる真の理由、それは人の侵入阻止ではなく、本土に渡って来ようとしているサルの撃退。
畑を荒らさないようするとか、人に危害が及ばないようにとかなのでしょう。

~駐車場に戻り待つこと30分~
その間、見張りの方曰く、サル1匹が姿を見せたようです

島に上陸→
水溜まりは残っているけど、繋がったということで・・・。

島の上の方→
ちょっとでも姿を見せてくれてもよさそうなものですが・・・。
あれから4ヶ月、まだ地続きは見られるのかな?

思いがけずムダな時間を食ってしまったので、脇目も振らず日南市街地へ。
(659)宮崎県日南市役所
昭和25(1950)年に吾田(あがた)町、油津(あぶらつ)町、飫肥(おび)町、東郷村が合併して市制。
その後昭和30年代にいくつかの町と村を呑み込み、平成の大合併で日南市と2町がくっつき今の日南市となる。
市役所(写真右の建物)は吾田地区にあります。
基幹産業は飫肥杉による林業、カツオ・マグロなどの遠洋漁業などで、観光資源にも恵まれた市。
人口は54,000人ほど、市の面積の約80パーセントが山林。

市役所近くのJR日南駅→
開業当初はもちろん吾田駅。
駅の後ろには製紙工場があり、という事はニオイが酷いのが鉄板なのですが、この日は平日でもGW中だったせいか、辟易せずに済んだのは勿怪の幸い。

駅前の伊東マンショ像→
九州の3大名がローマ教皇に送った、いわゆる天正遣欧少年使節団正使の一人。

慌ただしいですが、6年ぶりに飫肥の町へ。
まず普通は読めないこの地名ですが、何故か桃鉄で物件駅になったので少しは知られる地名となったかな?
かく言う私も桃鉄で飫肥を初めて知ったワケですが・・・。

天正16(1588)年に伊東祐兵が九州平定の功により、豊臣秀吉から城を与えられて以来明治初期までの約280年間、飫肥藩51,000石の城下町として栄え、現在では多くの歴史的建造物の残っているので、昭和52(1977)年に「国の重要伝統的建造物群保存地区」に選定される。

↓まず着くや否や突撃したのは、桃鉄でも物件となっていた「おび天屋」。

食べてみたかった飫肥の名物。美味い! でも、酒のツマミにできないのが辛い。
是非実家でも味わってもらいたかったので、もう一つの飫肥名物・玉子焼き(写真はありませぬ)と共にクール便で送る。

飫肥のシンボル飫肥城・大手門→

↓何はともあれ、この中に入らないと飫肥に来た意味がありません。

が、お城と言ってもああいうお城があるワケではないです。

↓城内には小学校がありまして、元気な児童のそばを観光客がゾロゾロ歩きます。


武家屋敷通り→

↓小村寿太郎さんとは、日露戦争後に開かれたポ-ツマス講和会議の日本全権。


↓寿太郎さんのお生まれになった場所は、写真右の所(まっすぐ進むと大手門)。


↓適当にブラブラした後て油津へ向かいます。
 
小京都・飫肥と称されているようですが、あまり京都っぽくないんだな、これが・・・。

6年前はここから歩いて飫肥の市街地に行きました→

 



カッコしてあるのはこれまで行った所→

179日目 GW日南海岸ドライブ~都井岬の灯台とお馬

2017-09-04 23:24:11 | 九州南部
平成29(2017)年5月2日(火)


ほぼ丸2日いた鹿児島県を抜け出し、お昼12時ごろ宮崎県は串間市入り。

さてさて、今年のGW前半は全国的に好天だったのですが(後半は覚えてない)、唯一この日から崩れ始める地域が、よりによって九州南部
実際、志布志にいた時から既に怪しくなってきてはいたのですが、串間市に来た時にはどっぷり曇り。
そして次の日の予報は・・・、我が旅恒例のアレに取り憑かれてしまうのでした。

(658)宮崎県串間市役所
昭和29(1954)年に1町と4村が合併してできた市。
由来は中世にここは島津荘櫛間院と呼ばれたらしく、今の「串間」はその当て字、市中心部一帯は合併前の福島町であって、それは「くしま」が転訛したとの事。
ただ、串間地名の由来のは他にも諸説あるようです。

「宮崎県の最南端 咲かせよう 希望と夢ある 串間の未来」とは串間市のキャッチフレーズですが、ここもご多分に漏れず人口はどんどん減っていって、今では18,000人ほど。
最近でも某新聞に「書店ゼロの自治体」として紹介されていましたし・・・。

産業は柑橘類、熱帯果樹、野菜の栽培や漁業で、中でも食用寿甘藷と完熟きんかんは日本一。
観光面はそれなりに見所はあるものの、日南海岸の観光地としては何となく存在感の薄い印象。
そんな中、一番の観光地は都井(とい)岬で馬が有名。

↓一応おサルさんも串間観光の一翼を担っていたりするのですが、それについては次回にて。


JR日南線・串間駅前→

↓閑散とした駅構内。
 
数分前に上り列車が行っちゃいましたからねえ。

↓観光案内所に使われているレトロな広島電鉄の路面電車。

街中に人を呼ぼうと譲り受けたもののようで、その甲斐あって(ちょうどお昼時のせいか、列車の発着があったせいかも分からんけど)、駅前にはそこそこ人の姿は見受けられたのですが・・・。

100mも離れると、→
寂しい商店街が軒を連ねています。
キャッチフレーズ通りの未来を迎えるにはかなり厳しそうな現状。

市街地には特段見るべきものもなさそうだったので、さっさと国道448号線を市街地から南東方向に走らせ都井岬へ。
ここ「駒止の門」で¥400取られます→

↓天然記念物・御崎馬はちらほら見ましたが、それは後回しにしてまずは岬にある灯台へ。

初点灯は昭和4(1929)12月22日、九州で唯一の中に入れる灯台。

中の上の方はこんな感じ→

↓海抜255mの崖断に聳える灯台。
 


曇っていて景色はよくないし風は強いしで、せっかく来たのにな、って感じ。
でも切符売り場(入場料¥200)のおばちゃんによれば、前日(5月1日)は風が強くて灯台は閉鎖されていたのだという。
晴れだったはずの前日、そういうこともあるんですな。
そういう意味では私はツイているんだろうか?

灯台を終えたらあとは見るのは馬。
ここにいる馬は御崎馬と呼ばれる日本在来馬で天然記念物。
江戸時代、高鍋藩は日向中の馬をかき集め、串間に7カ所の藩営牧場を作り、軍馬や農耕馬の生産に励んだのですが、その7カ所のうちの一つが都井岬の牧場。
しかも牧場と言ってもほとんど放し飼いにされていたので、野生の状態をよく残しているのだという。

駐車場にいた親子馬→
4~5月が出産のピークだそう。

灯台に行く途中、大勢の人がたむろしていた場所に向かう。
きっとそこには馬がいっぱい見られるんだろうと思って。
まだいてくれました→

↓体は130cm前後、体重は300kg前後と、サラブレッドよりは小さめですが、それ以外は見た目まさにサラブレッド。


観光客が連れてきたイヌも急遽飛び入り→

正直、馬は草を食んでばかりで面白くない。
何か見せ場はないか・・・。

↓と、思っていたらやおら一頭が道路を横断、崖を登る。
 
見守る他の馬たち。

が、すぐにそそくさと降りてくる→
上で何をしていたかと言うと、他の一頭と闘っていたのだ。
噛みついたり、後ろ脚で蹴りあったり。

御崎馬は(羨ましい事に)ハーレムを作って生活する種で、どうやらこの一頭はメスを奪いに殴り込みに行った模様。
が、しかし一瞬で轟沈

メス達に慰められているかのご様子→
馬の世界でも優しいのお、女性は。

実は馬が崖に登っているところを動画で撮っていたのですが、上で果し合いをするなどと夢にも思わず、途中で動画撮影を止めてしまっていたのです。
せっかくの絶好の場面を・・・何たるこった_| ̄|○。

 



カッコしてあるのはこれまで行った所→